会報誌「サングラハ」今号の内容についてご案内致します。
2026年9月25日発行、全頁、A5判、700円
目次
目 次
巻頭言 ……高世仁 … 2
近況と所感 ……岡野守也 … 3
仏教と科学の融合(5) ……岡野守也 … 4
般若経典と日本の心(4) ……岡野守也 … 16
「希望のコスモロジー」をめぐって ……高世仁 … 27
サンカーラの発見(12) ……羽矢辰夫 … 32
ウィルバーが描く未来の仏教(11) ……増田満 … 34
「健全な自我」とは(1) ……杉山喜久一 … 42
AIとの対話 ―― ビッグニュース ……松原弘和 … 46
私のサングラハでの学び ……森哲史 … 48
サングラハと私(23) ……三谷真介 … 49
講座・研究所案内 …… 55
巻頭言
研究所主幹代理 高世 仁
先日、友人が七十歳を迎え、親戚を集めて古希祝いの会を開いた。五十人以上が参加すると聞き、ぜひ記録したいと、ビデオカメラを持って会場に向かった。高層ビルの最上階のレストランを借り切った、にぎやかな宴だった。
父方、母方両方の親戚が集まっているので、初対面同士も少なくない。それでも「初めまして」と挨拶を交わし、家族を紹介し合ううちに、共通の親戚の話で会話が弾み、すぐに打ち解けていく。
特に印象に残ったのは、若い世代の参加である。親戚の集まりなど敬遠するかと思いきや、多くの若者が顔を見せていた。「まあ、○ちゃん、こんなに大きくなって」。高齢の親戚から声をかけられ、うれしそうに話している姿は心温まるものだった。
いま、コミュニティの大切さが盛んに語られる一方、人と人との関係は逆に希薄になっている。スマートフォンの普及でいつでも誰とでもつながれるようになった一方で、身近な人との直接の交流は減り、一人ひとりが孤立しやすい社会になっている。
なかでも親戚同士の関係は急速に失われつつある。核家族化や少子化に加え、親戚が集まる機会そのものが減った。かつて多くの親戚が集まった葬儀も、いまでは家族葬が主流である。
親戚とのつながりが消えることで、私たちは何を失うのだろう。子どもは、祖父母、叔父叔母、年上のいとこなど、多様な人間関係の中で、自分は多くの人につながり、支えられていることを知る。それは、親とは違う大人の生き方に触れる、学びの場でもある。
この友人に、なぜこれほど親戚が集まれるのか尋ねると「祖父母の代からの積み重ねがある」という。若者たちが違和感なく座に溶け込んでいたのも、その賜物だろう。物心つく前から、見知らぬ人と打ち解けていく大人の姿を、繰り返し目にしてきたのだ。人と関わる力は、言葉によってではなく、場を共にすることで身につくものなのだ。
昔のような濃密な関係をそのまま取り戻すのは難しい。しかし、近所の人と挨拶を交わす、地域の行事に参加する、親子で誰かを訪ねる。親自身がさまざまな人と関わる姿を子どもに見せ、経験を共にすることならできる。
画面越しに世界中の人とつながれる時代だからこそ、目の前にいる人と顔を合わせ、言葉を交わす機会を、もっと増やしていきたい。
近況と所感
研究所主幹 岡野守也
世界中で異常気象が続いています。
被害に遭われた方々に心からお見舞いを申し上げ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
読者のみなさん、いかがお過ごしでしょうか。ご無事をいつもお祈りしています。
筆者は、おかげさまでまだ生かされており、引き続き修行のつもりで養生をしていますが、そんな中、かつて坐禅会で秋月龍珉先生から伺ったエピソードを思い出しています。
それは、江戸中期の禅者としても高名であった俳人・滝瓢水の話です。
評判を聞いて訪ねてきた雲水が、瓢水が風邪で薬を買いに出ているという留守番の者の話に、「なんだ、まだいのちに執着があるのか。大したことはない」と言って帰ったと聞いた瓢水が、次のような一句を短冊に書いて使いの者に持たせ追いかけさせたというのです。
浜までは海女も簑着る時雨かな
これを読んだ雲水は、引き返して瓢水の教えを受けた、というエピソードです。
「どうせ浜に着けば海に入って濡れるのだから、時雨でも濡れていけばいいというのではなく、浜までは簑を着てちゃんと体を大切にしているところに海女のいのちの何とも言えない風情がある。
そのように、どうせ死ぬのだし、その覚悟はできているのだから、体やいのちのことなどどうでもよい、というのは、本当の覚りの風情・味わいではありません。生きている間は、体・いのちを大切にするのです」
といった提唱が深く心に残っています。
そうしたエピソードを思い出したりしながら、生かされているかぎりは、体・いのちを大切にして、学びを深める努力をしながら、何とか生きていこうと思っています。
いろいろ大変なことがある時代、ごくふつうだと思っている日常が実は奇跡であったことを痛感します。
お互いに毎日毎日を大切に生きていきましょう。
みなさん、日々是好日・ご無事でありますように。
仏教と科学の融合 5
研究所主幹 岡野守也
現代科学の成果のポイント
では、午後の部を始めていきたいと思います。
午前中には、私が理解できた範囲で、ゴータマ・ブッダが何を覚られ、何をお教えになったのか、その要点をお話ししてきました。この、ゴータマ・ブッダの覚られたこと・教えられたことと、現代科学―近代科学ではなく現代科学です―が非常に調和するというお話を、午後はしていきたいと思います。
その話をするにあたって、みなさん、ちょっとペーパーを見ないで聞いていただけるでしょうか。それから、今まで同じ話を聞いてこられた方も、いったん忘れた気持ちになって、私の質問にお答えいただければと思います。今から五項目、年号と人名、それから学説の名前を挙げますので、それについて「だいたい知っている」という方は、手を挙げてください。
一八六九年、ヘッケル、エコロジー。「エコロジー」という言葉を知らないという方は、さすがにいらっしゃいませんよね。では、エコロジーというのは、大まかにどういうことを言っている学問なのか。ざっと知っているという方、いかがでしょう?……はい、なるほど。
続いて、一九〇五年、アインシュタイン。この名前は、もちろんご存じですよね。アインシュタインの名前を聞いたことがないという方は、まずいらっしゃらないと思います。そして、相対性理論。これも名前はご存じですよね。では、相対性理論がどういうことを言っているのか、一般教養的には知っているという方。いかがでしょう?……一名、はい。
一九〇五年というのは、もう百年以上も昔の話になります。そして、この一九〇五年というのは、まさに近代とは違う「現代科学」の始まりの、大きな転換点なんです。ところがいま手を挙げていただいたように、みなさんがご存じないということは、この現代科学については一般教養としてもあまり知られていないということですよね。これは、みなさん個人個人が悪いのではありません。日本の教育制度、科学教育がいけないんです。実を言うと、私自身も、かつては知らなかったのですから。
でも、ある時期からだんだん気がついたんです。どうも「科学」と言っても、二十世紀以前の科学と、二十世紀以後の科学とでは、特に世界観という意味で、まったく違うものになっていると。それで私は、自分で一般教養的な勉強を一生懸命やってみました。その結果、「これは世界観としては、まるで別の話になっている」ということが、はっきりわかってきた。そこで今度は、科学の専門家の方々や、理系の高校・中学の先生に、「こういうことを、ちゃんと学校で教えているんですか」と確かめてみました。すると、やはり教えていないんですね。
子どもというのは、教わらないことは、だいたい学ばないものです。自分で探してまで学ぶ力のある子は、ほんとうに少ないですから、これはしかたがないことです。私の場合は、たまたまいろいろ事情があって学び始めたのですが、文系で、理系はあまり得意ではありませんでしたから、最初はほんとうに〝しょうことなし〟でした。でも、勉強してわかってくると、とても面白いんです。「こういうことを高校や中学の時に最初から教えておいてくれれば、理科が大好きになったのにな」と、心から思いました。今、私が教えている学生たちも、文系の子ばかりですが、みんな同じことを言います。「小学校、中学校、高校の時に、早くこういうことを教えておいてほしかった」と。教えていないので、残念ながら知らないんですね。
一九四七年、ガモフ、ビッグバン仮説。はい。これも手を挙げられたのは数人ですから、全体の常識にはなっていないですね。先に行けば行くほど、そうでしょう。
一九五三年、これは二人の共同研究ですが、ワトソンとクリック、DNAの二重らせん構造。DNAという言葉はみなさんご存じだと思いますが、彼らはこの研究で一九六二年にノーベル賞を受けています。ところが、このあたりの基本的で大事なことが、一般常識にはなっていないように思います。
一九七七年、これは理系の方でも知らない人が多いのですが、イリヤ・プリゴジーヌというベルギーの科学者がノーベル賞を受賞しました。「散逸構造理論」という少し難しい名前の理論です。要するに、物質というものは自己組織化能力を持っている、という理論です。「物質の自己組織化能力」と聞いて、「ああ、その話ね」とわかる方はいらっしゃいますか。……すいません、みなさんは現代科学をほとんどご存じない、ということですね。こういう状況の中で、「科学と宗教は矛盾する」「仏教は古い」「科学のほうが正しい」と思い込んでいる日本人が大半です。
それに対して、仏教の側も「仏教のいちばん大事な部分は、科学と反するどころか、現代科学と調和することを語っている」ということを、きちんと説明できる方がほとんどいらっしゃらないようです。
そのために、合理科学主義的な考え方をするようになった人たちは仏教離れを起こしています。仏教離れが起こるとどうなるかというと、千数百年にわたって日本人の優れた先人たちが努力して蓄えてきた精神的遺産、心の支え、国民性を培う栄養――これらを「要らないものだ」と誤解して忘れてしまう。結果として、日本人が精神的な支えを失いつつあります。
若い世代になればなるほど、「生きる意味がわからない」「なぜいいことをしなければいけないのか、悪いことをしてはいけないのかがわからない」という状態になっている。つまり、生きる根拠も倫理の根拠もわからない。これは人間としては崩壊です。そして、その崩壊が社会現象としてもあちこちに現れています。
改めて言いますが、私は、組織としての仏教界には何の義理もありません。しかし、日本人が仏教を忘れると、日本人そのものが崩壊してしまう。だから、日本人のために仏教を忘れてもらっては困るので、みなさんには、仏教のいちばん大事なところを思い出し、精神的遺産として、心の糧として再発見してほしい。そのためにお話ししています。
ところが、その際に発見の障害になっているのが、学校で近代科学の科学合理主義ばかり教わっているということです。そのために「仏教と科学は矛盾する」と思い込んでしまう。さらに仏教の側も、呪術的仏教や神話的仏教を仏教だと思い込んでいる。そうなると、矛盾・対立するしかありませんし、仏教のほうはずっと負けっぱなしです。「地獄や極楽なんてどこにあるの? 顕微鏡でも見えない。望遠鏡でも見えない。レーダーでもダメだね」と言われたら、おしまいですよね。
だから、「ご先祖さまは別に地獄に落ちているわけでもないのに、なんで高いお金をかけてお盆に供養しなきゃいけないの?」と言われると、「そんなのはいいんだよ。思い出だけ残っていれば」「千の風になってそこらへんにいるんだよ」となって、みんな感激しつつ、お墓も位牌もいりません、と。でも、そう言っている方たちの大半は、ご先祖さまのことを忘れていきます。
テレビで見たルポルタージュで、若くしてご主人を亡くしショックを受けた方が、「千の風になって」の歌で慰められた、救われたと言っていました。でも、その方の家にはちゃんと仏壇があり、仏壇に手を合わせている。慰められた心で亡くなった方と対話する場所としては、仏壇がないと形にならないのです。
そういう意味で、日本人の心の支えとしての仏教がなくなっては困る。そして、その障害になっているのは近代科学のほうであって、ちゃんと学べば、仏教は現代科学とは調和する。そのことをみなさんにお伝えし、心の支えを再発見してほしいという思いで、さらにお話ししていきたいと思います。
近代科学の方法論とその限界
少し難しめの、やや長めの話をします。近代科学というものの基本的な「やり方」、つまり方法論には、非常な特徴があります。まず、研究をする自分――これを難しく表現すると「主体」といい、主体が研究する対象を「客体」といいます。
この時、主体がもっている考え方のことを「主観」といいますね。主観には偏見やいろいろなものがありがちなので、これはいったん括弧に入れておく。つまり、自分の主観はいったん全部忘れて、向こう側にある客体のことを、できるだけ客観的に研究する。
この時、自分の主観と客観をちゃんと分離し、くっつけないようにする。これを「主客分離」といいます。この主客分離という基本的な方法で、向こう側のものを正確に客観的に研究しようとする。これが近代科学の方法です。
さらに、客体を研究するときには、一つの客体の全体を見てもよくわからないので、部分に分けていきます。これを「分析」といいます。そして分析した後は、もう一度それを組み立て直す。これを「総合」といいます。
いずれにせよ、まず自分と研究対象を分け、研究対象そのものも部分に分ける。つまり、全部バラバラにしていく。そして、バラバラにしたものを後から組み立てたら全体がわかると考える。正確に言うと、これは実は「わかったことにする」だけなのであって、ほんとうにわかったことにはならないのですが、この方法は実によくできていたので、全部わかったような錯覚が起こるのです。
例えば、ここで私たちの生命、身体という全体を考えてみましょう。分析していきます。この身体をやや小さめの部分に分けると、何になりますか。特に(受講者の)お医者さま、いかがですか。身体を分けると、「器官」に分かれます。そうですよね。脳とか胃、腸といった器官に分かれる。
では、この器官をさらに小さく分析すると、今度は器官は何に分析できるのでしたか?――細胞から成り立っていると。もう少し細かく言うと、この間に「組織」という段階がありますが、ここでは細かく立ち入りません。器官・組織・細胞というふうに分かれます。
では、細胞は分析すると、何からできているのでしたか? そう、高分子。そして言うまでもなく分子。さらに言うまでもなく原子です。こうやって分析していくと、「私という生命体は原子の組み合わせにすぎない」という見方になってきます。原子は心ですか? モノですか? まあ、モノですよね。「原子にも心がある」と言う人が時々いて、話が混乱することがありますが、とりあえずモノです。
そうすると、「私という生命体は物質の組み合わせにすぎない」というふうに見えてくる。分析していくと原子になり、原子を組み合わせて総合すると元の全体――はい、私になりました、と。こういう仮定を近代科学はしているわけです。
この方法によって、実際に非常に多様なことがわかってきました。あまりにもうまくいくものですから、「これでほんとうわかった」と錯覚を起こしたのです。
しかし、みなさん、いいですか。みなさんの身体をまずメスで器官に切り分けます。さらにすりつぶして細胞を取り出します。もっともっと細かく分解していき、高分子を分子にしていきます。すると、全部を合わせてみれば、体重の約九六%までが水素・酸素・窒素・炭素でできているそうです。残りはその他の微量元素であるらしい。水素・酸素・炭素・窒素を化学材料店で買うと、体重分ぐらいでも一万円かからないそうです。「あなたの身体の値段は一万円です」と言われたら、どう思いますか。
でも、いのちってそういうものですか。原子に分析すれば一万円でも、私のいのちは一万円で売ったり買ったりできるようなものではありませんよね。だから、研究するための方法としてはこれはとても便利だったのですが、この世界、そして生命、ましてや心のほんとうの姿を、この方法では実は捉えられていません。
ところが、いまだに「この方法だけでオーケーだ」と思っているという大きな誤解があります。そして、これが世界観や人間観、特に価値観になると、非常に怖いことが起こります。
「人間は原子の組み合わせにすぎない。原子はモノだ。モノの組み合わせにすぎない人間に、絶対的な価値なんてあるわけないじゃないか」という考え方です。こうした「人間の存在には絶対の価値はない」というものの考え方を、「哲学的ニヒリズム」といいます。
つまり、近代の分析的な科学を突き詰めていくと、すべてはモノであり、モノの寄せ集めにすぎないという考え方を徹底すると、唯物主義になります。すべてがモノであるなら、絶対の価値などありえません。
水素に人権はありますか? 炭素はどうですか? 窒素は? 水素・酸素・炭素・窒素――人権のないものを組み合わせて、なぜ人権が出てくるのでしょうか。こうやって考えていくと、「人間には絶対の尊厳などない」というふうに見えてしまうのです。
さらに、この方法で調べていくと、死後の生命もありませんから、「人間は生きている間だけ。生きている間もただ物質の運動として生きているだけ。絶対の意味はない」という考えになります。
そして、人間の中のいろいろな決まりごとは、人間が――しかも自分より前の人間が――勝手に決めた決まりごとにすぎない。「絶対に守らなければならない理由はない」となる。こうなると、自分が気に食わなければルールを破ってもいい。神さまも仏さまも見ていないから、隠れてやってバレなければいい。バレても、処罰を受ける覚悟があるならそれでいい。それどころか、「もう生きているのが嫌になったから、処罰されて死刑にでもされたほうがいい」と思う人も出てくる。そして、「死んだら別に地獄に落ちるわけじゃない。死んだらおしまいで、楽になる」と思ってしまうと、どんなひどいことでもできてしまう。そういう精神状態が生まれてしまう。これを作り出したのが、近代科学なのです。
戦後、日本の学校ではこればかり教えてきました。しかし、我々の世代は親の世代から受け継いだ考え方が残っています。私はキリスト教で育ちましたが、多くの方は昔、おじいちゃん・おばあちゃんから「悪いことをすると閻魔さまに舌を抜かれるぞ」とか、「ご飯を食べたあと横になっていると牛になるぞ」とか、「そんなことをしていると地獄に落ちるぞ」とか、そういうことを教わってきました。だから、大人になって「あんなもの迷信だ」と思っても、どこかに抵抗感が残っていて、「誰も見ていない」と思っても、なんとなく神さま仏さま、あるいは天か何かが見ているような気がして、陰で悪いことはできない。ところが、完全に「誰も見ていない」と思えるようになってしまうと、できてしまう。そういう若い世代が増えてきています。そして実際に、そうした事件が起こっている。
近代科学は、ほんとうの意味で〝生きた人間〟というものを捉えていないのです。しかし、研究方法としては非常にうまくいったために、あたかも「私」と研究対象は分離しているかのような、そして対象を全部分析してしまえばほんとうにわかったかのような錯覚を持ってきたわけです。
ところが、その錯覚がどうも違うのだということを、二十世紀の科学では、科学自身がだんだん気づいてきた。そういうプロセスがあります。そして、それがわかってきた歴史的な年代と、秩序のスケールの順序が少し違うので、いちばんミクロのところから話を進めたいと思います。
相対性理論が明らかにした宇宙の一体性
一九〇五年、アインシュタインの相対性理論が発表されました。相対性理論には特殊相対性理論と一般相対性理論の二つがありますが、特殊相対性理論が最初に発表され、それが世界観として非常に重要なのです。その相対性理論を、アインシュタインはE=mc2という非常にシンプルな数式で表現しました。この数式は、時々コマーシャルなどで流れたりしますので、見たことのある方も多いと思います。
しかし、この数式が人間の世界観・人間観・価値観にどう関わるのかをご存じの方は、残念ながらほとんどいません。理論を知っている理科の先生に聞いても、私が説明すると「そういうことになるんですね」と言って、後で「違う」とはおっしゃいませんでした。これはとても大事なことなのです。
このEというのはエネルギーの意味です。そしてmは物質の質量で、大まかに言うと大きさ・重さのことだと思っていただいていいと思います。厳密には少し違いますが、一般的にはその理解で構いません。そしてcは光の速さ、光速です。
つまり、エネルギーは、質量と光速の二乗に等しい。
ここで「だから何なの?」「難しい話はやめてよ」という顔にみなさんなりがちで、私も最初は「文系の私がこんな難しい話を知らなきゃいけないの?」と思ったのですが、実は知っておいたほうがいいのです。
これは何を意味しているかというと、私たちはふつう、この世はモノと運動でできていて、そのモノの運動のもとになるのがエネルギーだろう、と思っています。しかしこの数式によって、質量はエネルギーに転換しうること、そしてエネルギーは質量に転換しうることが示された。イコールというのは、右と左が自由に行き来できるという意味ですよね。
ここまで聞いても「だから何なの?」と思うかもしれませんが、まず押さえてほしいのは、この数式は実証どころか、すでに実用化されている数式だということです。核兵器や原子力は、原子核の結びつきの構造に基づいています。原子核に外から作用を加えて分裂させると、核全体の質量がわずかに減ります。では、質量が減るとどうなるのか。減った分が、ものすごいエネルギーとなって放出されるのです。つまり、質量がエネルギーに転換するということです。
このアインシュタインの数式E=mc2を「ほんとうそうなのか」と研究した人たちが、実は核兵器を作ったのです。「平和利用」と言われていますが、後に残す影響が非常に大きいので、原子力もやめたほうがいいと私は思っています。しかし、ともかく核兵器も原子力発電も、この数式が元になって作られた。アインシュタインは「自分がこんなことを考えなければ核兵器は生まれなかったのに」と後悔し、生涯の晩年には平和運動に積極的に発言しました。ともかく、これは実用化までされている数式だということを頭に入れてください。核兵器や原子力の話だから「素人の私には関係ない」と思われるかもしれません。しかし、ほんとうに大事なのはここからです。
近代科学は、分析していくとすべてのモノはバラバラだと考えました。この原子とあの原子が結びついて分子ができ、いずれにせよバラバラなモノが集まって世界ができている。これが基本的な近代の世界観です。一方、仏教の世界観は、すべてがつながって世界ができているというものです。つまり、近代科学の世界観は「すべてバラバラの寄せ集め」であり、仏教の世界観は「すべてがもともとつながっている」。この二つは決定的に違うということがおわかりいただけるでしょう。
ところが、この数式は「すべてがつながっている」ということを、科学として実証してしまったのです。すべては物質と運動のレベルで見ると別々に見えます。しかし、元をたどれば全部エネルギーであり、そのエネルギーは同じ一つの宇宙エネルギーなのです。だから、あなたと私と机と椅子、そしてストーブといったものも、物質レベルだけを見れば別々に見えますし、実際に別ですが、エネルギーレベルまで下がって、いちばんミクロで深いところまで見ていくと、すべては宇宙エネルギーなのです。
理科系の方たちは「すべては宇宙エネルギー」というところまでは理解しています。しかし、「その宇宙エネルギーって、いろいろで別々なんですか?」と聞くと、「うん?」という顔をされる。そして、「全部同じ一つの宇宙エネルギーですよね」と言うと、「ああ、そういえばそうですね」とおっしゃる。それに対して、「『そういえば』では世界観として困るんですが…」と申し上げています。
アインシュタインは、そこがはっきりわかっていました。自分で「エネルギーとして世界を見たら、世界は一体だ。これはまるで古代インド哲学のようだ」と述べているのです。あくまで「まるで古代インド哲学」と言っているだけで、「全く同じだ」と思うと話が混乱しますが、少なくとも現代科学の目でエネルギーのレベルまで掘り下げて考えると、世界は一体の宇宙エネルギーであるということになる。
ゴータマ・ブッダが「私と宇宙はつながっていて、宇宙と私、宇宙とすべてはすなわち一体である」とお覚りになったことと、非常に似た話になってくるのです。何度も言いますが、同じではありません。精神面から見ても宇宙は一つ、物質面から見ても宇宙は一つ――見る方向が違うだけです。だから同じ話ではありません。しかし「世界は一つ」という点では、同じように見える結論に達しているのです。
これが今の科学の状態です。これに関しては、科学の専門家の方にたくさん聞きました。「ですよね?」と。これまでのところ、「いや、そんなことはない。世界はバラバラなんです」とおっしゃった科学者には、私は会っていません。ですから、そのように理解してだいじょうぶなようです。
一九〇五年に、科学の側から見ても「世界は一体です」という理論ができているのに、それが一般の人に伝わっていない。「科学的に言っても世界は一体だ」と、高校ぐらいのときに勉強した覚えのある人、いますか?……私たちは百年以上遅れているのです。まあ、それは最先端の話ですから、私たちが百年ぐらい遅れているのは当たり前です。ゴータマ・ブッダから言えば二千五百年も遅れているわけですから、それに比べれば大したことではありません。でも遅れていることは確かです。
なんとなく、現代人は自分が進んでいると思い込みがちですが、そう思わないほうがいい。人類の意識の最先端を進んでいる人たちから見ると、精神面では二千五百年遅れ、物理・科学の面でも百年以上遅れている。そのことをちゃんと自覚したほうがいいと思うのです。そうすると、「なんとか追いつこう」という気になってきます。まず、そういうことがわかってきたわけです。
そして、これで終わりではありません。
宇宙は凝縮された一つのエネルギーの玉だった
アメリカの天文学者ハッブルが、この分野にいちばん大きく貢献しました。その功績を記念して、今も活躍しているのがハッブル宇宙望遠鏡です。
ハッブルは、こうした研究を進めていきました。細かい理科的な話は省きますが、銀河と地球との距離を測れるのだそうで、測っていくわけですね。そして、科学者というのはどこまでも探究するもので、測ってみることによって、銀河と地球との距離は決まっているのか、それとも動いているのか、つまり、近づいているのか、遠ざかっているのか、そこまで研究してしまうんです。すごいですね。
すると、銀河はみな遠ざかっていることがわかりました。例外として、私たちの天の川銀河の引力のせいで、近寄ってきている銀河がいくつかあるそうですが、それを除くと、ほとんどすべての銀河が遠ざかっている。しかも、ものすごいスピードで、かつ距離に比例し、距離が大きいほど速いという法則的なスピードで遠ざかっている。そして今度は、銀河と銀河の距離も調べるんです。そうすると、やはり同じ法則で遠ざかっている。まったく同じ法則性で、銀河と銀河が全部遠ざかっているとしたら、どう考えればいいのか。宇宙空間そのものが拡大していると解釈するしかない。
それ以前の科学では、宇宙空間というのは静止状態と決まっていて、その中に星や銀河があって、その中で運動が起こっており、でも、宇宙空間全体は変わらないと考えられていました。これを定常宇宙論といいます。この定常宇宙論が常識だったのが、ハッブルの研究を通じて、二十世紀初頭に「どうも違うらしい」という話になってきた。
その研究が四十数年、五十年と積み重ねられていくのと、アインシュタインの理論を合わせて、ガモフが考えたのです。時間が経つと宇宙は拡大する。ということは、時間を遡ると、宇宙は今より小さかった――理論的にそうならざるを得ない。これは素人でもわかりますよね。
そして、アインシュタインの理論で「光より速いものはあり得ない」ということは、すでに論証されているのだそうです。すると、地球からいちばん遠い宇宙の端と思われるところから届いている光、その距離を測ると、宇宙の端が想定できる。しかも、それもちゃんと測ることができると。すると百数十億年の彼方が、どうもいちばん遠いらしいのです。これは地球が宇宙の端っこであるとか中心だとか、そういう意味ではありません。なぜそんなことが計算できるのかというと、ものすごく複雑で、でもそれをたどっていくと全部納得はいくという理論があるらしい。
とにかく、宇宙の大きさも想定できるようになって、その宇宙がだんだん小さくなって、限りなく小さくなるのは今から何年前だろう、ということをガモフが考えたのです。そして、百数十億年前だろう、と考えました。その「限りなく小さい」ということについて、アインシュタインの後に量子力学ができまして、その量子力学で「小さいものはどこまで理論で扱えるか」が、はっきりしてきたのですね。
十のマイナス三十四乗センチという小ささまで理論的に扱える。しかし、ここから先はもう扱えないので、知りようがない、ということになっている。ここから先がわかるとノーベル賞でしょうね。この「マイナス乗」というのは、「何分の一」というのを略記するための約束事でしたね。百は十の二乗で、百分の一は十のマイナス二乗と表記しようという約束事です。ですから、十のマイナス三十四乗センチというのは、「一の後にゼロが三十四個ついた数分の一センチメートル」という意味です。
一〇分の一がミリです。直径一ミリの宇宙って想像できますか? それよりも三十三桁も下ですから、これはミクロンよりも小さいし、ナノよりも小さい。こんなに小さいと、原子よりも小さく、素粒子よりも小さい。理論的に考えていくと、それよりも小さいクォークやレプトンよりも、さらに小さいということになる。そんなものは物質としてあり得ないじゃないか――となったときに、相対性理論が生きてくるのです。物質でなくていいんですよ。エネルギーなんです。十のマイナス三十四乗センチメートルという、宇宙のすべてが凝縮されたエネルギー。もう凝縮されすぎて物質ではあり得なくなってしまっている。ものすごいエネルギーだったわけです。
だとすれば、その宇宙の外側がどうなっているのか、気になりますよね。でも、素人が気にする「外側」は実はないのだそうです。「外側」というのは空間を前提にするから外側になるのですが、この一点にすべての物質と空間と時間が凝縮されてしまっているので「外」はない。どうしても外が気になりますが、私たちの常識では考えられないことが、科学の常識になってきている。二十世紀の科学は、こういう状態になってきたのです。
そして、ここで大事なのは、さらにそれ以上のことが明らかになった点です。宇宙のすべては、最初の時点においては十のマイナス三十四乗センチメートルのエネルギーでした。では、これは一個ですか? それとも二個ですか? 十個ですか? あえて数えれば一個ですよね。一つのエネルギー。つまり、凝縮された一種の「玉」だったのです。ほんとうは、空間があって丸いという意味で「玉」と言うのは科学的には厳密ではないのですが、比喩的に言えば「玉」です。
こう聞くと、これまでの受講者でお気づきになる方がいらっしゃるかもしれませんが、この洞察と、道元禅師の「尽十方世界一顆明珠」という洞察は、ぴったり対応しています。宇宙は全部、光の玉。道元禅師はそれを瞑想で直観された。そして数百年経ってから、アインシュタインとガモフが「宇宙はもともとエネルギーの一個の玉だった」と考えたのです。
それが大爆発を始めて広がり、今の宇宙になった――これが現在の標準的な宇宙論です。しばらくは、いろいろな疑問が出され、反論もありました。でも、ずっとデータが積み重ねられて、二〇〇三年三月十一日にアメリカ航空宇宙局・NASAが、宇宙から降り注ぐ電波や光、その他のデータ、それから宇宙の構成、膨張速度、空間の曲がり方といった基本データを、これまでにない精度で確定させた情報を公表しました。そしてNASA自身やいろいろな科学者たちがそれを検討して、「宇宙は今から百三十七億年前に始まった。誤差はプラスマイナス二億年くらいだろう。そのように昔、宇宙が始まったと考えてほぼ間違いない」と、多くの宇宙論の科学者が合意したそうです(さらに、その後の観測に基づく推定では、宇宙の年齢は約百三十八億年とされています)。
ガモフが言った時点では仮説でしたし、もちろん科学というのはどこまで行っても仮説です。しかし、もうあまり反論が出ないとなると、それを「定説」と呼ぶのですね。現代科学的にものを考える人は、「宇宙は今から百三十七億年プラスマイナス二億年くらい前に始まった」と考えないといけない。二〇〇三年ごろから、これは定説に昇格したようです。そうでないと現代では非科学的なのです。元をただせば一つのエネルギーの玉だった――これは比喩ですが、そう考えるのが現代科学的なのです。宇宙はもともと一つなのです。
このことを他の方に伝えたいと思われる方は、NHKの朝ドラ「ちりとてちん」を思い出していただくといいかもしれません。落語家を志す女の子の話でしたね。視ていなくても構いませんが、落語というのは師匠から弟子へ、口伝えで伝えられていくという話が出てきました。本を読んで覚えるのではなく、師匠がある長さだけ演じてみせる。それを聞きながら覚えて、同じようにやっていく。そういう形で伝わっていくものなのだそうです。お説法というのも、やはりそういうふうにして伝えるのが本来の姿なのだと思います。
「話を伝える」というのはそういうものだと思いますから、この講義がいいと思い、私の話し方が「伝わった」と感じたら、ぜひみなさんもこのやり方を一度まねてください。まねた後で自分のやり方になったら、もちろん自分のやり方でけっこうですが、最初の時点では師匠のまねをするのです。私は少なくとも何千人という学生たちの大半に、これで「ふーん」と言わせて、「仏教ってすごいな」と思わせてきていますから、けっこう効くと思います。もちろん、もっといい工夫があったら、どんどん使ってください。
般若経典と日本の心 4
研究所主幹 岡野守也
智慧と慈悲
それでは第三講目に入っていきたいと思います。
般若経典、広く言えば仏教、とりわけ大乗仏教のエッセンスは、智慧=般若と慈悲にあります。だから「大乗仏教とは何か」という問いにもっとも短く答えろと言われたら、「智慧と慈悲」あるいは「般若と慈悲」と答えることになります。
そのことをもっとも端的に表現しているのが、鳩摩羅什という人が訳した次の『摩訶般若波羅蜜経』の句です。これを訳し直したものが『大般若経』にも入っています。現代語訳で見ていきます。
スブーティよ、菩薩・大士は二つのことを成し遂げるので、悪魔も〔それらを〕破壊することはできない。何を二つのことと言うか。一切の存在が空であることを洞察することと、一切の生きとし生けるものを捨てないということである。スブーティよ、菩薩はこの二つのことを成し遂げるので、悪魔も破壊することはできない。
原漢文で「一切法空なるを観ず」、これが智慧=般若です。そして「一切衆生を捨てざる」が慈悲に当たります。この二つのことを究極的に一つのこととして実践していくのが、菩薩・大士です。
「菩薩」というのは、これまでお話ししてきたとおり、「ボーディサットヴァ」というサンスクリット語を中国で「菩提薩埵」と音訳し、それを省略したもので、「菩提(=覚り)を求める人」という意味です。「大士」とは「マハーサットヴァ」で、「大きな存在」、つまり自分だけの覚りではなく「すべての人の覚り・救いを求める志の大きな人」という意味です。
般若経典では「菩薩・大士」とダブルで出てくることが非常に多い。だから「菩薩は大士でなければならない」というのが、般若経典の基本的主張だと考えられます。つまり自分の利益や自分の救いだけではなく、すべての生きとし生けるものの救いを、しかも自分のこととして追求するという、志の大きな存在が菩薩であると。それが大乗経典の考え方なのですね。
智慧を得て(覚り=菩提)、そのことによって苦しみの生存の廻り・輪廻から解放される。これが「解脱」です。ですから「菩提」と「解脱」は、ほぼ同じことを少し角度を変えながら語っているわけです。その結果、究極の安らぎに到ることを「涅槃」といいます。これは自分の利益・自利ですが、今言ったように、生きとし生けるもの――人間だけではなく、心ある生き物すべて――を覚り・苦しみからの解放・究極の安らぎに到らせたいと思って行動することは利他です。菩薩は利他のため行動するのです。瞑想だけしているのではなく、行動するとちゃんと書いてある。その両方を同時に一つのこと、つまり一如として追求することを、般若経典では「自利利他円満」「自利利他一如」という言葉で、いわばキャッチフレーズとして表現しています。
ですから、「自分個人の魂の救いを追求することが仏教の本来だ」という戦後の左翼的な仏教理解は、そもそもテキストの読み方からして間違っているのです。大乗経典にちゃんとこう書いてあるのだから。「自分一人の魂の救いを求めなさい。国の政治に口を出すな」なんて書かれていません。それどころか、「国の政治を変えてでも、国全体を仏の国=仏国土にしていきなさい。そうしたことを実践するのが菩薩なのだ」と、テキストに書いてあるのです。
『八千頌般若経』では、現代語訳ですが、智慧と慈悲について要領よくこう書いています。
……菩薩大士とは難行の行者である。空性の道を追求し、空性によって時をすごし、空性の精神集中にはいりながら、しかも真実の究極を直証しないとは、菩薩大士は最高の難行の行者である。それはなぜか。……菩薩大士にとっては、いかなる有情も見捨てるわけにいかないからである。彼には「私はあらゆる有情を解放しなければならない」という性質の諸誓願があるのである。
もちろん菩薩・大士は空・如を追求しますが、とことん追求すると、今風に言うと宇宙と一体化してしまい、「すべては宇宙の出来事なのだから、もう何もしなくてよい」ということになりがちです。しかし、菩薩はそこで「真実の究極を直証しない」。空の覚りのぎりぎり手前まで徹底的に目指すけれど、最後にその一歩手前で、「解脱・涅槃はやめて慈悲で行こう」と、衆生の世界に戻ってくる。これは非常に難しいこと、「最高の難行」なのです。
そして、この最高の難行を実践するのが菩薩・大士であり、「帝王たる者は菩薩・大士であれ」と説いているのが、『仁王般若経』や『金光明最勝王経』、そして『大般若経』なのです。それこそが「護国」という言葉の本来の意味です。つまり、天皇の権力を呪術で護るとか、そういうことは書いてありません。ただし、呪術的な効果があるとは書いていますが。
「有情」は「心ある生き物」ということで、サンスクリット語で「サットヴァ」といい、「衆生」とも訳されます。「誓って必ずこれを実現しよう」という願いを「誓願」といいますが、まさにその諸々の誓願に生きるのが菩薩・大士、あるいは音訳で「菩薩・摩訶薩」なのです。
日本の思想で一般に言われる「志に生きる」という言葉に置き換えてもいいのですが、内容はきわめて明快です。自分だけではなく、人間だけでもなく、一切衆生・心ある生き物すべてを救おうとする志です。そのためには、あれもしよう、これもしようと、できるかぎりのあらゆる手段を尽くす。これを「方便」といいます。それを実践する存在が菩薩・摩訶薩です。
ここで一言コメントしておくと、例えばウイルスには心がなさそうなので、有情には入りません。以前のシンポジウムでダライ・ラマに「大乗仏教でいう『衆生』とは心ある生き物のことなので、非常に単純な細菌やウイルスは衆生に含めなくてよろしいのではないでしょうか」と申し上げましたが、否定はされませんでした。
(受講者)どのくらいの生物が「心がある」ということになるのでしょうか。
おそらく、もう少し進化した段階、お魚さんくらいかな(笑)。とにかく、哺乳類は明らかに心ある生き物です。
ただ、今日的に言えば、それらすべてが調和して系を成しているエコシステム、つまり地球生態系を守ることこそ、菩薩の志だと現代的に解釈してよいと思います。逆に言うと、エコロジー運動をしている人たちも、凡夫の心でいいことをしているうちに、いつの間にか変な方向に行ってしまうことがある。そうならないためには、菩薩の心を修行しながらエコ運動をやっていただくことで、正しく深いものになると、私には思えます。
ぜひ、そういうところにとどめないでほしいのです。なかなかそんな機会はないでしょうけれど、もし○○さん(受講者)のルートが広がり、例えば、環境問題で活動しているグレタさんに会うことがあったら、ぜひ「菩薩ということを学んで、菩薩としての環境運動をしたほうが本質的なんだ」と伝えていただければと思います。
香港でがんばっている人たちにも同じことが言えます。単なる現体制批判・否定ではなく、中国を、あるいは世界を仏国土に変えていこうとする菩薩としての運動こそ、誰にとっても普遍妥当的に正しい・いいことではないか。そういう方向で運動を展開してもらうと、これまでの反体制運動とは深みも正当性も、そして長い目で見たときの有効性も違うものが出てくると、私はシミュレーションしているのですが、いかがでしょうか。
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編集後記
気候変動が本格的に現実のものとなっています。この傾向がここで止まるとは思われません。この状況を予測し対策を考えてきた本誌のメッセージが広がることを願います。講義録「般若経典と日本の心」では、今回、般若経典の「護国」の思想の核心にある仏国土建設という理想が主題となっています。そして、その理想を心に抱き、日本という国の礎を確立した政治的リーダーたる天武天皇、理想を当時の限界内で実現しようと努力した律令制国家について語られています。かつての左翼史観の流れにある現在の教科書では、そうした内面・理想・アイデンティティの問題など、語られることはありません。しかし、般若経典のテキストと史実に基づく読みからは、確かにその解釈が最も自然であるように感じられます。歴史分析において、その時代の「理想」を考慮しなくては、本質を見誤るのだと考えられます。講義録「仏教と科学の融合」では、近代科学の主客分離的な見方が、世界がバラバラなモノの集合とみなすニヒリズムを生み出してきたのに対し、二十世紀以降の現代科学が、その前提を根底から変えてしまったことが語られています。相対性理論が示したエネルギーとしての宇宙の一体性、さらにビッグバン仮説が描き出す宇宙の起源は、仏教の洞察と深く響き合っており、今後の世界のコスモロジーにふさわしいものと改めて思われます。他、ご寄稿により盛りだくさんの今号です(編集担当)
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