会報誌「サングラハ」第202号(2025年7月)について

会報誌「サングラハ」今号の内容についてご案内致します。

2025年7月25日発行、全頁、A5判、700円

目次

目次

巻頭言 ……高世仁 … 2
近況と所感 ……岡野守也 … 3
『正法眼蔵』「家常」巻 講義(2) ……岡野守也 … 4
AIと哲学対話を試みた(1) ……高世仁 … 14
サンカーラの発見(5) ……羽矢辰夫 … 19
ウィルバーが描く未来の仏教
―Integral Buddhism and the Future of Spirituality を読む(4) ……増田満 … 21
『アダルトチルドレン』考(3) ……杉山喜久一 … 31
私のサングラハでの学び―「凡夫の自覚」 ……森哲史 … 35
サングラハと私(16) ……三谷真介 … 37
講座・研究所案内 …… 47

巻頭言

研究所主幹代理 高世 仁

参院選の選挙戦がたけなわです。
街頭では候補者たちが声を張り上げ、SNS上では政策比較が盛んに行われています。でも、聞こえてくるのは、物価高や景気対策といった、目の前の生活に直結したテーマばかり。もちろん、それらは私たちの日常に直結する重要な問題です。しかし、六月の異常な高温に身を焦がされたばかりなのに、今回も気候変動を取り上げる候補者はごく少数で、選挙の争点にはなっていません。酷暑も集中豪雨もすでに日常の安心を脅かし、さらには将来の世代により大きな負荷を課すことが確実な問題なのに。

政治家が気候変動問題に取り組まないのは、有権者である私たち自身の関心が低いことに原因があります。ある国際世論調査では、「個人が今すぐ行動しないと次世代の期待を裏切る」と考える日本人は四〇%と、三十二か国中最下位。二〇二一年の約五九%から十九ポイント減と、下落幅も最大でした(イプソス二〇二四年十二月―二〇二五年一月)。私たちの関心は、ますます「いま」「ここ」「自分」のことばかりに集中し、他者や将来への視点を見失っているようです。
目の前の生活が苦しいのだから仕方ないという声もありますが、それで本当にいいのでしょうか。私たちは誰一人として、独りで生きているわけではありません。家族や友人、社会、自然とつながり合って生かされています。自分さえよければという発想では、社会が立ちゆかなくなるのは目に見えています。

仏教に「慈悲」という言葉があります。困っている人を助けること、苦しみを取り除こうとする心―と説明されることが多いのですが、岡野主幹によれば、本来の意味はもっと深く、「一体だから自然にやる、やらざるを得ない心」を意味します。自分と他人、社会と自然はすべてつながって一体であり、それゆえに将来世代をふくめた他者の苦しみに無関心ではいられないという心の持ちようです。
投票とは「社会を共につくる」という、つながりの表現だと考えれば、選挙に行くことも慈悲の行為ととらえることができるのではないでしょうか。他者とのつながりから自然に生まれる行動として投票所にいく。そして、将来にわたって見捨てられる人がいない、みんなが安心して生きられる世の中にしたい―そんな気持ちで一票を投じてみたいと思います。

近況と所感

研究所主幹 岡野守也

異常が通常化してしまった感じの天候が続いていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。ご無事をお祈りしています。
筆者は、相変わらずの闘病―修行生活。四苦八苦、悪戦苦闘を続けています。
体調のため、前号では書けず遅くなりましたが、第二〇〇号に寄稿してくださった皆さんに心から感謝申し上げます。とても励まされました。
今も身心共にかなりしんどいのですが、学びのおかげで、「最悪、最低、もうおしまい。私がこんな目に遭うとは不条理だ。耐えられない」などと思って怒ったり絶望することはなく、「かなりしんどい。でも耐えている。まだおしまいではない。私や関係者にとってはとても不都合だが、不条理ではない。病人と病気と病状の三つはみな空・一如の宇宙の出来事だ(三輪空寂)。私において宇宙が忍辱修行をしているのだと捉えることにして、生かされている間はなんとかできるだけちゃんと生きていこう。それに、宇宙では奇跡的治癒が起こることもあるのだから、絶望するのはまだ早い」と、自分の中で希望と勇気を奮い起こすよう努力しています。
大変な混迷の時代になってしまいましたが、その中でこれまでサングラハが伝えてきたことの重要性はますます大きくなっていると思われ、なんとか生き延びて後の世代の希望ある行く末を個人としても見届けたいと願っています。
しかし、これから時代がどこに向かうのかは、個人の力の及ぶことではなく、私たちすべて(人類)の意識と行動のあり方にかかっています。
サングラハ関係者の皆さんお一人おひとりにも、ぜひサングラハの働き、そして広くは時代状況への積極的参加をお願いしたいと思います。
状況の中つい大上段に振りかぶった言い方をしてしまいましたが、道元禅師の言われるとおり、日常そのものが宇宙の奇跡です。日々を大切に丁寧に生きましょう。
改めて、異常気象の中、皆さんの日々のご自愛、ご無事をお祈りしています。
最後になりましたが、長い間、ボランティアで、発送、動画編集、HP管理、原稿用の文字起こし等々たくさんの仕事をしてくださった方に、心から、本当にお疲れさまでした、有難うございましたと申し上げたいと思います。

『正法眼蔵』「家常」巻 講義 2

前回より、『正法眼蔵』の「家常」の巻を学んでいます。「日常茶飯に真理が現われていて、それこそが仏法の実践である」ということを説いた禅のさまざまな覚りのエピソードを取り上げながら、道元禅師はさらにそれを深めてコメントを加えていきます。続いて見ていきたいと思います。

日常の全てに真理が現われている

 原文

 南嶽山石頭庵無際大師いはく、「吾結草庵無宝貝。飯了従容図睡快(吾れ草庵を結ぶに宝貝無し。飯了には従容として睡快を図る)」。道来道去、道来去する飯了は、参飽仏祖意句なり。未飯なるは未飽参なり。しかあるに、この飯了従容の道理は、飯先にも現成す、飯中にも現成す、飯後にも現成す。飯了の屋裡に喫飯ありと錯認する、四五升の参学なり。

 現代語訳

 南嶽山石頭庵の無際大師が言われた。「私は草の庵を結び、 財宝はない。食べ終われば、自然に従って快い眠りに入る。言うことはそれだけだ」。
 このように「食べ終った」と言い切っているのは、満足した仏祖の真意の言葉である。まだ食べていなければ、満足しないのである。ところが、この「食べ終われば自然に従って」という道理は、〔実は〕食べる前もすでに実現しており、食べている最中も実現しており、食べ終った後も実現している。それなのに、食べ終わってはじめて食べたことになると誤解しているのは、ほんの少々しか学んでいないのである。

南嶽山に石頭庵という庵を結んでおられた無際大師という方がこう言った、と。「私は草の庵を結んでいて、財産は何もない。食べ終わったら、そのまますんなりと快い眠りに入るだけである」。非常に自由な、のびのびとした禅の雰囲気が現われていて、いかにもいいですね。
禅には、片方では修行の作法などをものすごく堅苦しく細かく言って、それから外れたら怒鳴られたりするところと、もう片方では全く自由な境涯というところがあって、それらの両側面が現われています。歴史的な禅という意味ではまさに両側面あって、その両側面が必要なのです。
けれどもやはり行き着くと、もう今までの型とか規則とかの「ねばならない」は超えてしまい、宇宙と私が一体だとすると、ある意味で宇宙のものは全部私のものでもあるので、特定の財産は何もいらないという境地になるのですね。
でも日々生きるために、食べて飲むといったことは当たり前のこととしてあります。そして、いわば自然の流れとして、食べ終わったら今度は快い眠りに、というふうな「生きているだけでオーケー」の境地に到ります。
漢字で「従容」とあるのは、禅の古典に『従容録』というものもあるくらいで、禅の真理に従った自由自在な境地を表現する言葉です。
従容の「従」は「従う」ということですが、堅苦しくていやなのに従っているのではなく、いわば自然の流れに素直にそのまま従って、しかも外からは自由自在に生きているように見える、その姿のことをいいます。お腹がいっぱいになり、眠くなり、とてもいいお昼寝をしているといった、自然の流れの境地ですね。
「道来道去」、「言い来たり言い去る」とは、「全部言い尽くす」という意味です。そして「道来去する飯了」は、「これで言い尽くされている。『食べ終わった』」ということですけれども、「参飽」は「満足のところまで到った」という意味ですから、ここで言い尽くされているのは、ほんとうに満腹になった=覚った人である祖師の、真理を伝えた言葉なのです。
「けれども」というのが、そこから後のところです。ふつうは、食べ終わらなければ満腹にはならないものです。「未飯なるは未飽参なり」とは、「まだ食べてない間は、お腹いっぱいにはならない」という常識的なことを言っています。
「しかあるに」、しかし実は、この「食べ終わって、そして自然に心地よい眠りにつく」という道理・真理は、食べる前にも現われているし、食べている途中にも現われているし、食べ終わってからも現われているものだ、というのです。これは、日常的なご飯を食べ終わることと、それから修行が終わることが、両方掛けて語られています。
つまり一瞬一刻すべてに、今・ここ・自己というかたちでの宇宙的な真理が現われているので、ご飯を食べ終わって、あるいは修行が終わってはじめて真理があるのではありません。そうではなく、ご飯を食べ、おかげさまで生きて、そしてお腹がいっぱいになったら眠り、そして心地よく眠ったらまた朝起きて、というのが自然の理において生きていくことであり、また自然の理とは、ご飯を食べている前も、ご飯を食べている今も、それからご飯を食べ終わってからも、全部現われている・「現成」しているのだと。
この「現成」という言葉が、道元禅師の非常に重要な用語であることはご存じのとおりで、「現成する」とは「そこに真理がありありと現われている」ということです。
その「真理がありありと現われる」とは、ご飯を食べる前にも、食べている最中も、食べ終わってもそうであって、その時その時が全部オーケー、ある意味で「満腹」ということなのです。
だから、単に生理的な満腹ということだけであれば、食べたら満腹で終わりだけれども、その時その時の瞬間がもう全部オーケーで、それで満たされているということは、実はご飯を食べていないときにも私たちは満たされているし、食べている最中も満たされているし、食べ終わってからも満たされているということです。
だから「飯了」、食べ終わったからこそご飯を食べたことになる、満腹してはじめてご飯を食べたことになると考えるのは、「錯認」・誤解であると。食べてないときにもオーケー、食べている時にもオーケー、食べ終わった時にもオーケーというところを掴まないと、ほんとうのことは掴めないのです。
でも「食べ終わってはじめて満腹なのだ」という程度に思っているのも、全部まちがいではなく、全体が一斗だとすると、そのうちの四、五升程度、半分か半分弱程度の学びにすぎないのだ、と。
私たちの修行についても、主体的・主観的には、「ほんとうに覚り切った」「究極の境地に達した」と自分が自分で思えないとだめだし、それから師にそれを認めてもらえるところまで行かなければならないという面は、確かにあります。
けれども、修行をしていない時も、修行を始めた時も、修行がまだ途中の時も、修行が終った時も、真理が現われていない時は一瞬もなく、実は私が覚ろうが覚るまいが宇宙は覚っている。そのことを後から私が覚るという話なのです。ですから、私が覚ろうが覚るまいがもう全部オーケーで、それでいい。
「ご飯を食べる」という日常のことに現われている真理と修行の両方を同時に掛けて、道元禅師は「食べる前も、食べている最中も、食べ終わってからも、全部オーケーだということがわからないと、ほんとうにわかったことにはならないのだよ」と、ここで修行者に語っていると理解していいと思います。

編集後記

 世界も当研究所も持続可能性の危機にある中、皆様の一層のご協力をお願いいたします。今回、闘病中の岡野主幹の近況と所感のメッセージを掲載しています。『正法眼蔵』「家常」の講義録は2回目です。今回取り上げられている「独坐大雄峰」というのは迫力のある言葉ですが、それも日常茶飯も同じ宇宙の働きであり、「当たり前のことがすごいこと」を覚るのが本当の覚りであることを、高尚な哲学のお話ではなく、具体的な体験として弟子たちに伝えようとする道元の思いが伝わってきます。高世主幹代理は、AIと哲学問答する興味深い試みの連載を開始されました。羽矢先生の「サンカ―ラの発見」では、仏教の原点での発見について、語源から解明を試みられています。増田さんの「ウィルバーが描く未来の仏教」では、意識の発達段階の図式が、さまざまな論者の洞察をもとに非常に精緻に整理されており、さらに説得力を増しています。杉山さんの「アダルトチルドレン考」は引き続き六つのタイプについて考察されており、「アダルトチルドレン」という用語の問題はさておき、生きている心理学の洞察として鋭いと感じられます。会員の毛利さんは連載再開され、十七条憲法の言葉が業務で活かされた体験を紹介されています。

 (編集担当)

会報誌「サングラハ」ご講読のご案内

会報誌「サングラハ」は、購読料5,000円で年6回隔月発行・お届けしています。

お問合せ・お申込みは、個別の号のお取り寄せのご相談などは、こちらの専用フォームをご利用ください。

    お名前 必須

    ご職業必須

    会社名・団体名任意

    メールアドレス必須

    電話番号必須

    郵便番号必須

    ご住所必須

    お問合せ内容必須

    以上の、ご入力頂いた内容につきましては、
    回答のために運営事務局内で担当者に共有させて頂くことがございます。
    ご了承頂けましたら、以下のボタンより送信をお願いします。

    情報共有のご協力をお願いいたします
    • URLをコピーしました!
    • URLをコピーしました!
    目次