会報誌「サングラハ」今号の内容についてご案内致します。
2025年1月25日発行、全頁、A5判、700円
目次
■ 巻頭言 … 2
■『正法眼蔵』「梅華」巻 講義(6) …岡野守也 … 3
■ サンカーラの発見(3) …羽矢辰夫 … 14
■ ウィルバーが描く未来の仏教(2)
――Integral Buddhism and the Future of Spiritualityを読む …増田満 … 16
■ 【サングラハ&ヒューマン・ギルド共催ZOOM企画】
への御礼と結果ご報告 …森哲史 … 24
■『アダルトチルドレン』考(1) …杉山喜久一 … 27
■ サングラハと私(14) …三谷真介 … 33
■ 講座・研究所案内 … 43
巻頭言
研究所主幹代理 高世 仁
明けましておめでとうございます。
今年も新たな気持ちで「仲よく楽しく生きて楽に死ぬ」ことができる生き方をめざしながら、人類のサバイバルに貢献すべく、みなさんとともに精進していきたいと思います。よろしくお願いします。
新年早々、米国ではトランプ第二次政権が始動します。大統領就任を前にしてグリーンランドとパナマ運河さらにはカナダまで米国の一部にするとの「宣言」は、閣僚人事の恐るべき顔ぶれとあいまって世界の大波乱を懸念させます。
去年は六十カ国以上で重要な選挙があり、世界人口の半数が投票した「選挙イヤー」でしたが、アメリカの他の国でも「トランプ型」の政治家が次つぎに権力の座につきました。日本でも東京都知事選、兵庫県知事選と、権力を笠に着て弱者を虐げるパワハラ体質の人物に多くの票が集まりました。
なぜ、このような人物が選ばれるのでしょうか。正しい情報が人々に届かないことだとしてSNSや報道のあり方が議論されています。しかし、問題はそこにあるのでしょうか。候補者が「このような人物」だと知れば、支持されなかったのでしょうか。いや、むしろ人々は「このような人物」だからこそ票を投じたように見えるのです。ある女性のトランプ支持者は、彼の女性スキャンダルを知っているかと尋ねられ「知ってるわ、でもうちの娘のデート相手じゃないから」と笑って答えました。トランプ氏が、スキャンダルと汚職まみれの、飽くなき権力欲に突き動かされた人物であることを百も承知で人々は彼に投票したように思えます。時代はここまで来たのか、と戸惑いとともに恐怖感さえ覚えます。
先日、岡野守也主幹とZOOMでお話する機会があり、さっそくこのことどう考えればよいのかお聞きしました。岡野主幹は「これは驚くべきことではありません。世の中から普遍的な価値観と道徳が失われるとき、人が〝生きる意味〟に残されるのは〝私の幸せ〟だけになります。人々が共有する正義がなければ、力の強い者に従って〝私〟が〝おこぼれ〟にあずかろうとするのは自然の成り行きです」と言われました。
いよいよ世界はニヒリズムとエゴイズムが極まってきているようです。岡野主幹はその克服の道をすでに示されています。絶望することなくまた浮足立つこともなく、いっそう学びを進めていこうと思うきょうこの頃です。
『正法眼蔵』「梅華」巻 講義 6
研究所主幹 岡野守也
一如なる世界を伝えるための方便
原文
先師古仏云、「本来面目無二生死一、春在二梅華一入二画図一《本来面目生死無し、春は梅華に在つて画図に入る》」。
現代語訳
先師古仏がこう言われた、「本来の面目には生死はない。春は梅の花にあり絵の中に入った」と。
「面目」とは、文字では顔と眼のことですが、先師古仏である天童如浄が言う「本来の面目」とは、人間の本質、横文字でいうとアイデンティティです。
人間のほんとうのアイデンティティは、この生まれて老いて死んでいく個人の心と体にあるのではなくて、そういうものとして一瞬一瞬にあらしめているところの、空・一如なる世界こそが、ほんとうの自己なのです。
そうした永遠なる生死なしの世界がほんとうの自己で、現象としてのこの体と心の私が私なのではないと知ることが、覚るということなのだと。そのことを「本来面目生死無し」という言葉で表現しています。
その「本来面目生死無し」とは、例えば春に梅の花が咲いていて、それが絵の中に入ってくるということです。つまり、春にその花が咲いていることが、自分のものとして表現できる形になるのが、「春は梅華に在つて画図に入る」という言葉の意味だと思います。
さて、そのことを道元禅師が解説していくのが以下の箇所です。
原文
春を画図するに、楊梅桃李を画すべからず。まさに春を画すべし。楊梅桃李を画するは楊梅桃李を画するなり、いまだ春を画せるにあらず。春は画せざるべきにあらず。しかあれども、先師古仏のほかは、西天東地のあひだ、春を画せる人いまだあらず。ひとり先師古仏のみ、春を画する尖筆頭なり。
現代語訳
春を絵にする場合、柳や梅や桃や李を描いてはならない。まさに春を描くべきである。柳や梅や桃や李を描くのは柳や梅や桃や李を描くだけであって、春を描いたのではない。春は描けないのではない。そうではあるが、先師古仏の他には、インドから中国までの間、春を描けた人はいまだかつていない。ひとり先師古仏のみが、春を描いた唯一の第一人者である。
春を絵にする場合は、例えば柳や梅、桃、李などを描いてはならない、と。要するに、分離した個別のものを描いて、「これが咲いているから春ですよ」と描くのでは、ほんとうに春を描くことにはならないということです。
「まさに春を描くべきである」とは、天地自然・宇宙の、今ここにおける現われとして、例えば春を描くべきだということです。柳や梅、桃や李を描くのは、要するに分別知的に捉えた個別のものを描いているだけのことであって、それは「全体が今、春として現われている」という意味での春を描いたことにはなりません。
ですから、春は決して描けないのではなくて、描けるはずなのだと。けれども、インドから中国までの間、「宇宙は今、春として、梅の花として現われている」ということを言葉で表現できた人は、天童如浄以外いまだかつていなかったと言います。
ここでは「絵で描く」という言い方になっていますが、それは絵ではなく、言葉で表現してもいい。言葉で自分のものにして表現することも、自分のものにしてそれを絵にすることも、どちらも同じことなのです。
(以下、本誌にて掲載)
編集後記
本年もよろしくお願いいたします。主幹の『正法眼蔵』講義録は、「梅華」巻の最終回、道元禅師が説法の原稿の後に付された部分も含めて、巻末の箇所の講読となります。梅の花が一輪咲くことは、宇宙がそこで起っているということ―宇宙がこの真理を宇宙に伝えているというのが、修行者たちが学ぶこと、つまり私たちが学ぶことの本当の意味だと、如浄禅師や法演禅師、太原孚上座の言葉を媒介に語られています。梅の花を契機にして覚りを何としても伝えたいとの、道元禅師の大変深い思いを読み取り語られた講義録でした。次回からは「家常」の巻の講義録を予定しています。羽矢先生の「サンカーラの発見」、増田さんの「ウィルバーが描く未来の仏教」とも、今回もたいへん充実した内容となっています。杉山さんは新連載「アダルトチルドレン考」を開始されています。森さんは今回、ヒューマン・ギルド社との共催企画の結果を報告されています。
(編集担当)
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