会報誌「サングラハ」第201号(2025年5月)について

会報誌「サングラハ」今号の内容についてご案内致します。

2025年5月25日発行、全頁、A5判、700円

目次

目次

巻頭言 ……高世仁 … 2
『正法眼蔵』「家常」巻 講義(1)……岡野守也 … 3
サンカーラの発見(4)……羽矢辰夫 … 16
ウィルバーが描く未来の仏教
―Integral Buddhism and the Future of Spirituality を読む(3) ……増田満 … 18
『アダルトチルドレン』考(2) ……杉山喜久一 … 29
岡野主幹「200号寄稿」を拝読して ……森哲史 … 33
サングラハと私(15) ……三谷真介 … 35
講座・研究所案内 …… 48

巻頭言

研究所主幹代理 高世 仁

ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領が八十九歳で亡くなりました。
二〇一〇年から五年間の在任中、報酬の九割を貧困層に寄付し、官邸ではなく古い農家で質素な暮らしを続けた彼は、「世界一貧しい大統領」と呼ばれました。
「貧乏な人とは、物を持っていない人ではなく、物がいくらあっても満足しない人だ」との彼の名言は、いま超大国で大統領の地位に就く人物にそのまま当てはまるように思われます。
二〇一二年の国連環境サミットで、ムヒカ氏は現代の大量消費社会を鋭く批判しました。
「環境破壊が危機の原因ではありません。危機の原因は私たちが作り出した文明のモデルです。だから私たちの生活様式を見直さなければならないのです」
環境問題を引き起こす原因は、人間の過剰な欲望によって築かれた文明のあり方にあるというのです。
ムヒカ大統領は最低賃金の引き上げや低所得層への支援を行い、格差の解消に尽力する一方で、再生可能エネルギーの普及に力を入れました。その結果、ウルグアイは現在、南米で最も豊かな国の一つとなり、風力や水力、太陽光など再生可能エネルギーで電力需要の96%を賄う環境先進国にもなっています。
興味深いのはムヒカ氏の思想形成過程です。
貧しい家庭で育った彼は、社会の不正義に憤り、左翼ゲリラ組織に身を投じます。富裕層の財産を貧困層に分け与えようと銀行を襲撃するなど激しい武装闘争を展開し、銃撃で被弾すること六回。ひん死の重傷を負ったこともありました。また四回逮捕され、十数年を獄中で過ごしています。
ムヒカ氏は過酷な獄中生活の中で、社会の矛盾の原因について熟考し、私たち一人ひとりの心とそれが形作る文明の問題に行きついたのです。
彼の思想と実践は、社会にとって指導者の資質がいかに重要かを示しています。同時に、より良い世界を作るには「こころ」の変革が必要であることをあらためて認識させられます。
ムヒカ氏は二〇一六年に日本を訪問した際、「日本は進歩を遂げた国ですが、それで本当に日本人は幸せなのですか」と問いかけました。
この問いに、私たちはどう答えられるでしょうか。

『正法眼蔵』「家常」巻 講義 1

研究所主幹 岡野守也

今回から、これまで未講読だった『正法眼蔵』「家常」巻を取り上げます。お茶を飲み、ご飯を食べるという日常のことが、実はそれこそ仏法の実践であることを語った巻で、まさに、「味わう」という感じの学びになるでしょう。
早速、講義を始めたいと思います。原文を朗読して解説、講義をするという形で行きます。

原始仏教から中国禅までの発展・深化

 原文

 おほよそ仏祖の屋裡には、茶飯これ家常なり。この茶飯の義、ひさしくつたはれて而今の現成なり。このゆゑに、仏祖茶飯の活計きたれるなり。

 現代語訳

 およそ仏祖の家においては、茶を喫し飯を食べることが日常の家風である。この日常茶飯のしきたりは、永く伝えられて今この時に実現している。それゆえに、仏祖は、この日常茶飯を活用してきたのである。

インドの仏教が、ふつうの生活を離れて僧院の中で特殊な生活をするのに対して、中国の禅宗は、それをもう一回日常生活に戻してくるところに特徴があります。
ここで道元は、僧院での生活にあっても、まさにご飯を食べてお茶を飲むという日常の行為の中に、真理・仏法が現れると捉えています。
何か日常生活を離れたところに、特殊な覚りの世界・真理の世界があるのではなくて、日常生活の真っただ中に真理の世界がある。あるいはその「ある」ということに目覚め、真理に即して日常を生きるのだと。
そういう捉え方が、中国の仏教、特に禅の、インドの仏教から変わってきたところだといえます。そして私の理解の仕方では、ある意味で進化したというか、あるいはレベルアップしたところであると思います。
日常の世界と真理の世界は別のことであるので、出家し俗人の日常の世界を離れて生活することによって、涅槃・解脱・覚りと呼ばれる世界に入る―そういう基本的なインド仏教の建前をある意味で超えていく傾向が、『維摩経』や般若経典にはすでに現われていたわけです。しかしそれを、ご飯を食べてお茶を飲むことの中にこそ真理がある、その中に真理を見出す、そういう行為の中に真理の現われとしての自らを生きる、というところまで徹底・深化したのは、やはり中国禅からだと私は理解しています。
ところで、仏教学の世界では、最近二十年くらいでしょうか、原始仏教の研究をされて、それとインド大乗仏教、中国大乗仏教、日本大乗仏教を比較しながら、「基本的に阿含経典に現われているような原始仏教こそが仏教なのであって、大乗仏教は本質的には仏教ではないし、ましてや中国仏教や日本仏教は本来の仏教ではない」と言い始めた仏教学者がいらして、その後何人もの方がそうしたことを言われるようになりました。
それから、東南アジアのテーラーヴァーダ仏教が日本に入ってきて、かなり影響力を持つようになってきました。要するに、テーラーヴァーダ仏教こそが釈尊の仏教の原形を完全にとどめているのであって、そこから変わっていった大乗仏教は、仏教としてはいわば歪曲、あるいは極端な言い方をすると仏教ではないと。
そのようなことまで言う方がいらっしゃるわけですが、しかしいろいろな宗教の歴史を見ても、教祖の原形がそのまま保たれていくことは、基本的にはありません。
それにテーラーヴァーダ仏教は、自分たちが完全な原形をとどめていると主張していますけれども、仏教文献学的に言うと、アーガマ―阿含経典自体がそもそも編集されたもので、しかも現在のような形に編集されるには、たぶん百年や二百年はかかっていると考えられます。阿含経典の一語一句がゴータマ・ブッダの言葉をそのまま伝えているというのは、歴史学・文献学的には成り立たない話なのです。
にもかかわらず、ある一つの派の中で、わりに原形をとどめているだろうと思われるものが、「完璧に原形をとどめていて、しかも絶対に正しい」とされ、この絶対に正しい仏教以外の、後の変化・発展は歪曲であって―これは解釈次第なのですが―とにかく「我々の保ってきた原形以外は、仏教にあらず」とされています。
もともとテーラーヴァーダには、そういう主張を強くする方が多かったのですが、日本の仏教学者の中にもそうしたことを言う方が現われてきたりして、なんと表現したらいいのでしょうか、仏教ジャーナリズムの世界がかなり混乱してきていると思います。
そして素人のみなさんは、その混乱の背後にあるものをあまりよく知らないままに、書店に出回る仏教のさまざまな本を見て、「テーラーヴァーダ仏教こそがゴータマ・ブッダの本来をそのまま伝えているのであって、日本仏教あるいは大乗仏教はまちがっているのだ」と思ってしまいます。
影響力のある方が、いちおう原形に近くはあっても、「自分たちの経典こそが原形そのままで、しかも絶対に正しく、大乗経典・大乗仏教はまちがっている」と言うのは、あまりにも公平性を欠いた発言で、しかも仏教を学ぶ一般の方に混乱を与えてしまうので、はなはだよろしくないと思っています。
公式に反論することは従来避けてきていますが、どこかで一回、きちんと反論をしなければいけないという思いもあります。いわば受益者であるみなさんに対して、この混乱を放置しているのはよくないからです。しかも、大乗仏教は原始仏教をベースにしながら深く大きく発展していると私は評価しているので、それに対して「原形ではないからまちがっている」といった言い方を、しかも完全に原形をとどめているわけでもない派の方たちがするのは、きわめて建設的ではないと思っているからです。だから、そのことは少し言わなければいけないかな、と思いもしているのです。しかしながら「物言えば唇寒し」なので、日本風に「まあまあ、仲よくしましょうよ」とやっておくほうがいいのか、どうなのでしょうね。
それで、何を言いたいかというと、私たちが出家ではなく在家の人間として日々生きていることの中に、もうすでに空という事実があるということです。
空とは縁起であり無常でもあることは、お話ししてきたとおりです。そして、ふつうの人々や俗世間から離れ、どこかの静かな僧院に行って、ひたすら瞑想生活をすることによって覚るのは、病気の方が病院に長期入院して病気を治すことに譬えれば、手順としてはある種必要なところもあります。
けれども、病気の方は入院した後、どうしますか? ずっと入院し続けるのが健康になるということですか? 健康になったら病院から出てきて、また日常生活に戻るでしょう。ですから一般的な体の健康も、そして心の健康も、やはり日常生活にこそあると私は思っています。
ゴータマ・ブッダは、人々があまりにも病んでいるので、いったん入院生活をさせないとどうにもならないし、しかも心の健康のレベルを非常に高く見ているので、お弟子さんたちもまだまだ退院できないと判断したのでしょう。弟子に外に出て布教するといったことを少しはさせましたが、在家に戻ることはお勧めになっていません。
ところが般若経典の菩薩たちは、一回その高みまで行く必要はあるけれども、その後に再び日常生活に戻ることのほうが大事だと言うのです。
その場合も、維摩居士のようなモデルを描いています。維摩居士は非常にお金持ちで、そして社会的な地位もあり、しかしながらブッダのお弟子さんたちよりもはるかに深い覚りを開いていて、その中身はこうだという経典が『維摩経』です。そのようなところに示されている人間像が、特定宗教の仏教として正当であるか、あるいは原形をとどめているかといったことを離れて、普遍的に意味が深いと思われるのです。
単なる出家者としての人間像ではなくて、在家の中で自らの心が浄化され、そのことをさらにすべての人に広げていく、しかもこの世に仏の国土を作っていくところまで目指す。そういう菩薩の心のあり方、あるいは在家の菩薩という人間像こそが、レベルアップした普遍的な人間像だと私は捉えています。
ですから、仏教であるかどうかもある意味でどうでもいいし、「本来の仏教はどうであるか」と議論をしてもしょうがないという気が、私にはするのです。
むしろ「仏教として原形であるか」「正当であるか」といったことを離れて、人類にとって、しかも未来に向かって、より普遍的に意味と価値のある人間像は、大乗の菩薩像のほうにあると考えています。
さらにそれを日々の、それこそご飯を食べたりお茶を飲んだりすることの中にも真理が現われてくる、というところまで深めた禅のあり方のほうが、より普遍的だと考えています。
ただ中国禅では、残念ながら時代状況のせいもあって、仏教者が「菩薩として仏の国土をこのように実現しよう」と思っても、皇帝制度の枠の中にありますから、非常に難しいことでした。それで、在家とはいっても「政治から離れた個人の生活の中で、真理の生き方を実現していく」というふうな形になって、仏国土建設運動のようなものはほとんど見られませんでした。
そこは大乗として非常に残念だったと思っているのですが、まあ特定の人物や特定の派にすべてを求めるのは欲張りすぎというものです。それに、「人に文句を言っている暇があったら、まず自分が統合的に活動しなさい」という話になってきます。
私としては、ゴータマ・ブッダの仏教、原始仏教、そして部派仏教、大乗仏教という流れの中に大きな発展があり、さらに中国禅にもある側面での深まりがあると捉えていて、今回はまさに日常生活の中で真理を見出す、真理そのものとして日常生活を生きる、ということが語られている「家常」の巻を学んいきたいと思います。
私たちは、毎日毎日やっていることを、ごく平凡な、つまらない、意味のないことと捉えがちになります。「雑用」という言葉がありますが、「何で私がこんな雑用をしなきゃいけないの」みたいな気持ちで、日々のやらなければいけないことを、私たちは雑用として、不平不満の気持ちでやってしまいがちです。
でも、大乗仏教が目覚め覚ったところによれば、私たちの日常生活から何から、すべての一瞬一瞬に全部、空あるいは一如があるわけです。だからそういう眼から見れば、雑用などというものは一つもなくて、すべては成すべきことを成すことなのです。
そのような捉え方をしたのが、禅の「作務」という言い方です。「作す務め」と書きます。
作務とはもともと、例えばお掃除するとか、ご飯を作るといった「作すべきこと」をまさに「作す」ということで、雑用をすることではありません。この会場にも作務衣の方がいらっしゃいますが、「雑用ではない」という心構えで日々のことをやる時の服装が、作務衣の本来の意味なのです。
本来の覚った人・仏も、それを脈々と伝えていく祖師も、日常の生き方の中には、しっかりと心を込めてお茶を飲み、ご飯を食べるといったことが含まれています。「活計」とはそういう意味で、そこには非常に活き活きとした働きがあるのです。
遡れば、そこから伝わって「而今の現成」があると。他の巻でも出てくる、「まさに真理が今ここで実現している」という道元禅師の言葉です。
日々ご飯を食べお茶を飲むことの中に、ほんとうに生きることがある。私たちはぜひ、そういう生き方をしたいものです。先んじて言ってしまえば、そこに宇宙の一部としての私の、今・ここで生きていることが、ありありと現われるということですね。
道元禅師のやや難しい、しかし味わい深く格調高い言葉を通じて、再認識しながら学んでいきたいと思います。

(以下、本誌にて掲載)

編集後記

 早くも真夏のような毎日、会報201号目となりましたが、変わらず続けて参ります。今回から主幹の『正法眼蔵』講義は「家常」の巻に入りました。これまであまり取り上げられていない巻ですが、道元禅師のことですから、もちろん日常茶飯の作法などを語っているわけではありません。言葉ではなく、日常の中にこそ真理が現れている、それそのものが覚りの現れである、というところまで坐禅修行を徹底しよう―道元はさまざまなエピソードを駆使して、弟子たちばかりか現在の私たちにも、畳みかけるように勧めていると感じられます。羽矢先生の「サンカーラの発見」では、ブッダが説いた「苦」の核心に、言葉が持つ魔術的ともいうべき「形成力」があることが明らかにされています。増田さんの「ウィルバーが描く未来の仏教」では、仏教の歴史の「第四の展開」であると彼自身がいう、心の発達段階論をさらに精緻化した統合的なビジョンの、基本的枠組みが語られています。杉山さんの「『アダルトチルドレン』考」は第2回目、家族関係の歪みによる、偏ったライフスタイル形成の類型的な様子を明らかにしています。会員の森さんからは、前号で岡野主幹が語られた「原点」への、真摯なレスポンスをいただきました。 (編集担当)

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