会報誌「サングラハ」今号の内容についてご案内致します。
2025年11月25日発行、全頁、A5判、700円
目次
巻頭言 …… 高世仁 … 2
近況と所感 …… 岡野守也 … 3
仏教と科学の融合(1) …… 岡野守也 … 5
『正法眼蔵』「家常」巻 講義(4) …… 岡野守也 … 17
サンカーラの発見(7) …… 羽矢辰夫 … 29
ウィルバーが描く未来の仏教
―Integral Buddhism and the Future of Spirituality を読む(5) …… 増田満 … 31
『アダルトチルドレン』考(5) …… 杉山喜久一 … 38
私のサングラハでの学び …… 森哲史 … 42
サングラハと私(18) …… 三谷真介 … 43
講座・研究所案内 …… 51
巻頭言
研究所主幹代理 高世 仁
年末が近づくと、普段の生活も自然と慌ただしくなります。片づけ、仕事の締め、あいさつ回り・・・気づけば一日が雑務で埋め尽くされ、心が落ち着かなくなります。そんな折、本誌連載の岡野主幹『正法眼蔵』「家常」巻の講義を読み、禅でいう「作務」の考え方に、はっとさせられました。
道元禅師は、この巻で真理は特別な高みにあるのではなく、日々の普通の営みの中に現れると説いています。主幹も「日常生活の一瞬一瞬に、今・ここ・自己という形で宇宙的な真理が現れている」と述べ、さらに「私たちは、宇宙に命を与えられ、食べ物を与えられ、食べ物を受けるお茶碗も与えられ、その中で宇宙の一部として食べ物をいただくことができる」と指摘しています。
たしかに、ご飯は太陽や大地や水、そして無数の人々の働きの結晶であり、まぎれもなく「宇宙の一部」です。宇宙である私が、宇宙であるご飯を、宇宙である茶碗に盛り、味わう。この営みの中に、雑用などというものは何もありません。「すべては成すべきことを成すこと」であり、目の前のご飯を丁寧に味わい、食べ終わった茶碗を心を込めて洗う―その一つひとつが、覚りへの修行なのだといいます。
ひるがえって、現実の自分の日常はどうでしょうか。食事のときですらテレビや新聞に目を奪われ、抱えているトラブルに気持ちがざわつき、ろくに料理を味わうことなく飲みこんでしまう。毎日通る道の木々が季節ごとに花をつけても気づかず、いつの間にか一年が終わろうとしています。そんな自分を反省せざるを得ません。
しかし、年の瀬が近づく今だからこそ、この「家常」の教えは、私たちにそっと手を差し伸べてくれているように思えます。日々のルーティンも、一年の締めで押し寄せる雑用も、それぞれ「成すべきこと」として目の前に置かれています。同じ作業でも、向き合う姿勢によって世界の見え方は変わります。
慌ただしさに流されそうなこの季節だからこそ、今日の食事を一口ずつ味わい、食べ終わった茶碗を丁寧に洗う―そんな小さな実践から始めてみたい。そしてその積み重ねを、新しい年の学びにつなげていければと思います。
近況と所感
研究所主幹 岡野守也
関係者のみなさん、いかがお過ごしでしょうか。いつもご無事・ご健康をお祈りしています。
筆者は、引き続き病との付き合いという修行を続けています。
たくさんの方が回復を祈っていてくださること、本当に有難うございます。
詳しく書くことができませんが、最近、心のあり方で体の自己治癒力を高める方法として、YouTubeと本で中村天風師の積極的思考の哲学を学び始めましたが、唯識ともよく一致していますし 、病というワークにはとても励まし―導きになりそうです。
みなさんの多大なご協力のおかげで、サングラハの活動はまだ大きくはなくてもしっかり持続できていると思います(三谷編集長が書いておられる危機感もわかりますが)。心から感謝申し上げます。
より広がり、問題山積の時代にあって、羅針盤の役を果たせるようになることを願い続けています。
ところで、コスモロジーセラピーのワークのひとつに「見る方向を変えて見えるものを変える」というのがありました。
暗い方ばかりを見ていると、世界はまるで真っ暗なように見えるのですが、意識的に見る方向を変えて、明るい方を見ることを選ぶと、世界は明るく見えます。
今、世界は、問題の方ばかりを見ていると、とても暗く困難で明るく希望があるようには見えません。
そして単に量だけを見ると、確かにそう見えます。
しかし、たとえ一見どんなに小さく見えても、質的・本質的に明るい希望のある事柄がないわけではありません。
私たちは、今こそ学んできたことを生かして、希望を見失わないようにしたいものです。
では、どこを見れば希望が見えるのでしょう。
学んできた希望の根拠の基本の基本を思い出しておきましょう。
唯識は、「私たち凡夫は煩悩だらけであり、ということはアーラヤ識があるということであり、ということは同時にアーラヤ識を転換して覚る可能性があるということだ」と告げています。
今、無明・煩悩から生まれる深刻な問題が山積しているということは、人類の大多数が凡夫であり、それはその源泉であるアーラヤ識があるということであり、ということは、人類にはアーラヤ識を浄化して無明を智慧に変換して問題を完全に克服する可能性があるということです。
その可能性のことを大乗仏教一般では「仏性」または「如来蔵」というのでした。
どんなに厚く無明に覆われていても、人間の心の奥底には覚りの可能性が秘められています。
これまで長く学んできた方は、これは単なる願望でもきれいごとの理想論でもなく、事実として人間の心の本質だということは、しっかり認識していただいていると思います。
まだあいまいな方は、ぜひ学び直し、認識と確信を深めてください。
そこがはっきり見えると、人類の未来に希望が見えてくるはずです(そう言っている筆者も、ついネガティブなニュースのあまりの多さに目が向き、目を奪われて、希望を見失いがちでしたので、今回改めて文章化しました)。
と言うと、「人類の意識進化はそんなに急に起こらないのでは?」という反論的疑問が浮かんでくるかもしれません。
参考までに、これは科学―外面の話ですが、ネットで「進化の速度」と検索していたら、ナゾロジーというサイトの「進化はどのくらいの速度で起こるのか?」という記事に「進化には、気の遠くなるような時間がかかると信じている人は多いかもしれません。…ところが近年の研究は、こうした常識に一石を投じつつあります。進化は、ある条件がそろえば、たった数十年という短い期間で目に見える形で起こることもあるのです。
…突然変異ではなく『環境が変わったとき、すでに持っていた引き出しの中から適した遺伝子が選ばれる』という現象」「もともと集団内に潜んでいた『既存の遺伝的変異』…」という文章がありました。
意識の進化にも、そういうことが十分に、いや十二分にありうる、と筆者には思われます。
今年最後の号になりましたが、来年も引き続き希望に向けてご一緒に学んでいきましょう。ご参加・ご協力を改めて心からお願いいたします。
『正法眼蔵』「家常」巻 講義 4
研究所主幹 岡野守也
(冒頭部抜粋)
日常の私こそ宇宙の働き
前の個所に続き、ある時「先師古仏」である如浄禅師が、同じ瑞巌寺の、今度は仏像を祀ってある場所で、その仏さまをいわばネタにお説法をしているところです。
原文
先師古仏、ちなみに明州慶元府の瑞巌寺の仏殿にして示衆するにいはく、「黄金妙相、著衣喫飯、因我礼你。早眠晏起。咦。談玄説妙太無端。切忌拈花自熱瞞(黄金の妙相、著衣喫飯、我に因つて你を礼す。早眠晏起。咦。談玄説妙太だ無端なり。切忌すらくは拈花自から熱瞞することを)」。
現代語訳
先師古仏が、ある時、明州慶元府の瑞巌寺の仏殿で、僧たちに示して言われた。「黄金の妙なる姿とは、〔日常の〕服を着、飯を食べていることである。だから、私はあなたを礼拝するのである。早く眠ってゆっくり起きればよい。いやはや、深遠なる説法など実にとりとめもないことだ。拈華微笑などと自分で自分を騙すようなことは、切にお断りである。」
お説法は法堂でだけするとは決まっていなくて、方丈や仏殿で行うこともあったようです。「黄金の妙相」とは、仏殿にある仏像の黄金の妙なる姿です。「あれが仏さまだと思うだろうけれども、そうではない。私たちが毎日服を着てご飯を食べるという日常の姿が、実は仏の姿なのだよ」と語っています。本質的には、私そのものが真実の自己なのだと。
ただしこれは、私たちが錯覚して、私が私だけでいつまでも私であれるかのような、実体としての私でありたい、あれるのではないかと思い込んでいる「私」ではなくて、真実の自己としての私があるということです。
それゆえにこそ、あなたを―この場合は仏像を―拝むということがある。この「我に因つて你を礼す」の「你」は仏さま、「我」はそのことがちゃんとわかっている修行者・私です。修行者が「私は実は仏なのだ」とわかって、でもまだそこになりきっていない時に、なりきった仏さまのシンボルとしての仏像があり、「私」が修行してそこに到って、真実の私になりたいと思う。そうした未来の私の象徴として仏像があると思った時、ほんとうに礼拝するということが起こるのだと。
私たちはふつう、仏さまを拝む時に、仏さまと私は天と地ほど隔たったまったく別の存在で、無力な私がスーパーマン的な仏さまに、お恵みだとか力だとかのご利益をいただく、といった礼拝の仕方をします。
けれども禅者の礼拝は、やがて仏になる存在として、仏になりつつある存在が象徴されている仏像を、「あれが未来の私なのだ」と思って行なうものです。ほんとうの意味での自己と仏像に象徴された仏は実は一体なのだということを、でもまだそこに十分到り着いていないから、礼拝の形で表現するのです。
もっと到り着いた禅者では、冬の寒い時に客が来たけれども、焚くものがないので、仏像を割って薪にし火にくべたというエピソードもあるくらいです。「形に現われた仏ではなく、この私やあなたこそ仏ではないか。だから、単なる象徴にすぎない仏像を割って、仏なるきみとぼくとが温まる。そのことのほうがほんとうの仏法ではないか」と実行してしまったと。そんなお坊さんが実際にいて、それを見て「すごく偉いお坊さんだな」と感心する信徒たちもいたので、そうしたエピソードが残ったのでしょう。
そういう一見乱暴だけれど、実は究極のところがわかっている禅僧がいたりします。如浄さんは修行僧たちにはとても厳しい対処の仕方をしたようですが、でも仏像を壊したりといった乱暴なやり方をする方ではなかった。禅僧によって個性があるようです。
とにかく、「そこに見えている金ピカの仏さまの姿を、『あれが仏さまだ』と思っているだろうけれど、きみたちが服を着て飯を食べ、日常生きている。それが仏の姿なのだよ。日々を生きているきみが仏だからこそ、しかし修行して究極の仏になっていくプロセスがある。その象徴として、あそこにある仏さまに礼拝をする、すなわち未来の私を現在の未完成の私が礼拝するというのが、仏を礼拝することのほんとうの姿なのだ」と、まさに仏殿で教えているわけです。
例えば五体投地では、仏さまの足を自分の頭よりも高く頂くかたちで礼拝します。何かすごく卑下しているみたいですが、なぜそういう礼拝の仕方をするのかというと、いまだ修行中で未完成の私が、完成された私のモデルに向かって「私は将来ああなれるのだ」と、いわば自己尊敬でしているのです。分離しているとしたら確かに卑下です。そうではなくて、未来の私を尊敬するというのがほんとうの礼拝の仕方なのだと、ここで教えているのだと思います。
それで、そうした境地まで到っている私・如浄にとって、形に囚われた修行として朝早く起きて深夜まで坐禅するようなことは、あくまでもプロセスのためにすぎないので、覚ってしまったら「早眠晏起」、早くから寝てゆっくり起きる。つまりゆったりとした生活をすることができるようになるのだ、と。
「咦」は、少し合間を置くための「それでね」とか「はい」といった言葉です。「玄」は「究極」という意味で、「玄人」と書くと「究極のところまで掴んだ人」になります。それから「妙」は「すばらしい」、「無端」とは「他愛もない」という意味です。
「咦」と一息置いて、「玄節」・究極について語り論じ、「妙」・すばらしいことを説くのは、実に他愛ないことだと。すなわち、難しい話やすごい話をすることは取るに足らない、というのです。
「拈華微笑」とは、お釈迦さまがいろいろ説法して、でも最後、言葉で語り得ない真理を、蓮の花をこうやって捻ってニコッと笑い、それが弟子の摩訶迦葉だけにわかったという、仏教の故事です。その不立文字・以心伝心と言われる、文字にすることができず心を以って心に伝えられる真理が、お釈迦さまから摩訶迦葉に伝わり、その摩訶迦葉からずっと後の達磨大師に伝わって、というのが禅の系図の考え方となっています。要するに、お釈迦さまから言葉を超えた真理を受け取るその場が「拈華」、あるいはニコッとしたのも含めて「拈華微笑」なのです。
しかし「究極の覚りがそうして伝わってくる」などという話で「自から熱瞞する」、自分で自分を騙して熱くなるようなことをやってはダメだ、と諭しています。
言葉を超えたすごいことが何かあって、お釈迦さまがニコッとしたら摩訶迦葉さんもニコッとしてそれが伝えられた、というのがいちおう禅の伝承ではある。けれどもそうした話より、とにかく着るものを着てご飯を食べ、そして夜眠くなったら寝て、それでも眠ければ朝寝坊しようと、そうして自然に従って日々生きることの中に、実はほんとうの覚りがある。「だから、そういうすごい話があるなんて騙されてはダメだよ」と如浄禅師が言ったと。
このエピソードを挙げて、また道元禅師による味わいに続きます。
(以下、本誌でお読みください)
編集後記
会報購読の他、Zoom講座への積極的な参加等、皆さまの御協力をぜひお願いいたします。研究所存続の支援ともなります。
新連載として、岡野主幹による講座の講義録「仏教と科学の融合」の開始しました。仏教及びコスモロジーに関する初級編講座としてコンパクトにまとまっており、初学者の方にも入りやすい内容とと思われます。第1回は、「つながりを大切にする心」という日本の伝統仏教の本質と、そしてそれを失うことが何をもたらすかが、実感としてよくわかる講義となっています。
『正法眼蔵』「家常」巻講義録は、今回が最終回となります。日常を超えた境地の話もさることながら、日常のご飯を食べることや眠ること、それどころか便所で用を足すことまで、それらを一心・無心に、全部仏・宇宙の現われの行為として行うことが本物だというのは、平易なようで逆に極めてレベルの高い境地に感じられます。凡夫としてそこまで行けなくとも、日常で自分のやることが全て、事実宇宙の働きだと気づきながら、今日より明日、明日より将来、人生の質を高めることは、私たちにも出来そうです。厳しくも暖かい道元のメッセージでした。
他連載も充実の内容です。(編集担当)
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