会報誌「サングラハ」第206号(2026年3月)について

会報誌「サングラハ」今号の内容についてご案内致します。

2026年3月25日発行、全頁、A5判、700円

目次

目次

巻頭言 ……高世仁 … 2
近況と所感 ……岡野守也 … 3
仏教と科学の融合(3) ……岡野守也 … 4
般若経典と日本の心(2) ……岡野守也 … 15
サンカーラの発見(9) ……羽矢辰夫 … 26
ウィルバーが描く未来の仏教
―Integral Buddhism and the Future of Spirituality を読む(7) ……増田満 … 28
『アダルトチルドレン』考(7) ……杉山喜久一 … 37
私のサングラハでの学び ……森哲史 … 41
サングラハと私(20) ……三谷真介 … 42
講座・研究所案内 ……51

巻頭言

研究所主幹代理 高世 仁

日に日に世界が悪くなる」―朝のテレビ小説の主題歌の一節が、胸に刺さります。世界中で分断と対立が激化し、戦争が日常の風景と化しています。秩序の「底が抜けた」とでもいうべき事態は、なぜ起きているのでしょうか。
現在の状況は、かつての冷戦―社会主義対資本主義という対立構図―とは異なります。注目すべきは、対立するはずのトランプとプーチンという大国の指導者同士の奇妙な「蜜月」関係です。ロシアはトランプを勝利させようと米国の大統領選に介入し、ウクライナ戦争ではトランプがロシア寄りの姿勢を隠そうとしません。背景には単なるビジネス上の利害を超えた、思想的な共鳴があるように見えます。
プーチン政権は「神への不敬を罰する法」を制定し、権威主義的な家族観・ジェンダー観の復権、性的少数者への弾圧を推し進め、トランプ政権の動向と見事に呼応しています。
金子夏樹著『リベラルを潰せ』(新潮新書)によれば、トランプの岩盤支持層のキリスト教福音派とプーチンを支えるロシア正教の保守派が、思想的に結びつくだけでなく運動体を形成して活動を拡大しています。両者を結ぶキーワードは「反リベラル」であり、欧州の極右勢力との連帯もそこに根ざしています。この潮流は「近代」に対する「前近代」の反逆のように見えます。イスラム圏では急激な近代化への反発から、一九七九年のイラン革命を皮切りに復古的な原理主義勢力が影響力を増大させています。いま欧米の先進国で起きているのも、自由・人権・多様性・グローバリスムを含む「リベラル」な近代的価値観への反発であり、「古き良き時代へ」という退行的潮流の拡大であるように思われます。日本も例外ではありません。「古き良き日本」を掲げる新興政党が急速に支持を伸ばしています。
なぜ人々は「前近代」へと引き寄せられるのでしょうか。有史以来、人の生きる意味を支えてきたのは宗教に支えられた伝統的なコスモロジー(世界観・人生観)でした。しかし近代化はそれを解体しつつあり、解体のスピードは速まっています。いま世界で起きる現象に通底するのがコスモロジーの空白と「前近代」への回帰衝動ではないでしょうか。
しかし「近代」を否定して過去へ戻ることは解決にはなりません。近代の達成を踏まえたうえで、それを「含んで超える」新たなコスモロジーの確立こそが今求められているのではないでしょうか。サングラハが長年問い続けてきた思想的課題は、まさにこの時代に切実な意味を帯びています。

近況と所感

研究所主幹 岡野守也

いろいろ大変なことのある時代ですが、みなさんお元気・ご無事でしょうか。いつもお祈りしています。
 日本も世界も、これからどうなるのか予測がますます困難な状況になってきたようです。
 山積みのさまざまな課題の中でも、最大で最優先すべきものは気候変動だと筆者には思われるのですが―正常で安定した自然・環境というベースの持続なしには他のすべての人間の営みは持続できないのですから―我が国にはそれを最重要課題と認識し取り組んでいる政治勢力が見あたりません。なんとも言えず残念です。
 かつて筆者は、拙著『「日本再生」の指針―聖徳太子『十七条憲法』と「緑の福祉国家」』(二〇一一年、太陽出版)や「持続可能な国づくりの会」の活動を通じて、「経済と福祉と環境が好循環する本当に持続可能な社会システムは可能だし、それ以外に今後の日本と世界が向かうべき方向はない」という提言をしましたが(『サングラハ』第八九号、九〇号、一〇九号をぜひもう一度ご参照ください)、それは実現不可能な理想・きれいごとなどではなく、実現しなければ私たちにはもう先がないという意味で、必然・必須のあるべき未来のかたちだという思いは、今も同じというか、いっそう切実になっています。
 そんな中、体が思うに任せず、なんとも歯がゆいかぎりですが、「でも大丈夫、きっとこれから気づいて取り組んでくれる次世代の人々が現われるに違いない」と信じている、というか信じることにしています。
 「潜在的可能性は信じることによって顕現する」という法則があるからです。
 なので、みなさん、未来に向かって、希望の方向を見失うことなく、あきらめることなく、日々最善を尽くして生きていきましょう。気づきを伝えていきましょう。

仏教と科学の融合 3

研究所主幹 岡野守也

二種類ある「縁起」の教え

この「縁起」と言われている教えは、大きく分けて二種類あります。
一つが、今の言葉で「関係性」と表現できるような意味です。もっとわかりやすく言うと「つながっている」、「起」という漢字のほうの意味を取っていくと「すべてのものはつながりによって起こっている」といった意味ですね。宇宙全部に当てはまるのですから、あえて言えば「すべて」です。言葉で表現してしまうと、意外にシンプルなんです。「こんなに簡単なことでいいの?」と思ったりするほどです。
ゴータマ・ブッダ自身の言葉に近いと思われるパーリ語の経典を、漢訳で『阿含経』といいます。つまりこれが、ゴータマ・ブッダの元の教えに近いものが保存されていると考えられるお経なのです。
「すべてのものはつながりによって起こっている」とシンプルな言い方をすると、「そんなに簡単なこと?」と思うかもしれませんが、ゴータマ・ブッダはその中で、「私の教えは決して難しいことではない」ということを、ご自分ではっきりおっしゃっています。
ただ、頭でわかるのは簡単だけれど、覚るのは難しい。すべてのものはつながりによって起こっている―これをすべてに当てはめ、納得して「ほんとうにそうだな」と、真に肚の底から思えるほど身についたら、それを覚りというのです。繰り返しますが、頭の先でわかるのは簡単です。
それからもう一つは、そちらのほうが『阿含経』の中で量的には多く言われているので、ゴータマ・ブッダのもともとの教えだと誤解されていることがあります。私に言わせると誤解なのですが、そう誤解している仏教学者や僧侶の方が、しばしばいらっしゃいます。それは「十二縁起」とか「十二因縁」という言葉で表現されるものです。これも詳しい話をしていると、その説明だけでかなり時間を取りますので、詳細は省きます。
関心のある方、十二因縁・十二縁起についての内容をお知りになりたい方は、『よくわかる般若心経』という私の本の中で解説をしておりますので、そちらをご覧いただけるといいと思います。
十二縁起というのは、ゴータマ・ブッダが、「なぜ生と死の苦しみがあるのか」と考えられて、「そもそも生死の苦しみがあるのは、我々に存在があるからだ。そして…」といろいろ考えていき、最後の十二項目のところで「無明があるから生死の苦しみが起こるのだ」というふうに洞察をされたものです。
また、こうして順を追っていったのを、今度は逆に無明から始まって、「無明があるから~があって、次に~があって……だから生死の苦しみがある」と洞察を深めていきました。
詳しく言うと、「生老病死」の四つの苦しみに、さらに「愛別離苦」「怨憎会苦」「五蘊盛苦」「求不得苦」の四つを加えて、合わせて八苦となります。つまり、「この四苦八苦の苦しみがあるのは、人間の心の奥底に無明があるからだ」と洞察されたのだと。
ゴータマ・ブッダはこれを覚ったと誤解される方が多くいます。それに対して、私は「たくさん言えば大事なことなのか、それともいちばん大事なことはたまにしか言わないものなのか。考えてみてください」と申し上げています。
かつ、そういう方には「『私が悩んでいるのは無明があるからだ』とわかったら、悩みがなくなるかどうか、自分でやったことありますか?」と聞くことにしています。「無明のせいで苦しいんだ」とわかったとしても、苦しみはなくなりません。そんなことがわかっても、無明が明―別の言葉でいうと「智慧」です―に変わったりはしない。修行の実践をした人間ならば、「十二因縁で覚れる」なんて、そんなことはあり得ないとわかるはずです。
ちょっと感情的な言い方をしてしまいましたが、時々腹が立つんです。「自分で実践してごらんなさい。そうやってずっと頭の先で考えていって、『ああ、私の苦しみ、人間の苦しみの原因は無明なんだ』とわかったら、それがとたんに明に変わりますか? そんなことはないでしょう」と。
ゴータマ・ブッダは六波羅蜜ではなく「八正道」とおっしゃっていて、八つの事柄、特にそのうちの禅定を心を込めて実践されました。その結果、無明が明に変わったから、苦しみから解放された。その明の中身を、みなにわかる言葉にしようと思い、「縁起」という言葉を使われたのだと考えられます。
だから、「縁起」という言葉で表現されている二つの主な意味のうち、「すべてのものがつながって起こっている」という関係性のほうが主な意味で、そこから付随的に十二縁起の教えが出てきたと解釈するのが、私は正しいと思います。
そういうことを、仏教学者の方はもちろん、管長さんがいらっしゃっても申し上げていて、今のところ問題ないようですが、陰では「あいつはとんでもないことを教えている」と思っておられるかもしれません。でも、もしそうだとすると、布教師会の会長さんなどに「あの人を講師に呼んではいけない」と上から指示が行くはずなので(笑)、続けて呼んでいただいているということは、まあだいじょうぶということだと思いますが。
何度も言いますが、鵜呑みにしないでくださいね。これは、「私はこう捉えている」ということです。みなさんはそれを参考にして、ご自分の捉え方を確立していただきたい。それが冷暖自知ということです。でもいちおう、今日は講師の立場に立たせていただいているので、話を続けていきたいと思います。
ゴータマ・ブッダの覚りの教えの最も中心にあるものは、縁起すなわち「すべてのものはつながりによって起こっている」ということです。そのことは、ちゃんと気づいていくと、誰でも認めざるを得ません。
けれども、そのことに一つ一つ気づきながら納得していっていただくには少し時間がかかるので、いったん休憩を取って、その後に縁起その他のブッダの教えについて、お話しをしていきたいと思います。
(途中まで抜粋。以下、本誌に掲載しています。)

般若経典と日本の心 2

研究所主幹 岡野守也

「国を護る」ということの意味

仏教の特に合理・哲学性と霊性の部分を現代人が再発見することによって、もちろん神話性や呪術性の中にくるまれながらだけれども、これを千数百年伝えてきた日本文化の伝統は、すばらしいものだと気づくことができるようになります。世界遺産というのは、大体建物だったりするでしょう。けれども私に言わせれば、これは何より世界の精神遺産です。
大元のインドは、残念ながら仏教を失ってしまったんです。それから、日本に伝えてくれた中国でも、仏教は若干残っていますが、特に共産主義中国の中でほぼ壊滅してしまいました。最初に伝えてくれたのは朝鮮半島ですが、もちろん北は完全にダメです。南には一定程度残っていて、かつて韓国の仏教の学者たちとも唯識のことを通じて、学会などでずいぶんお会いしましたけれども、日本よりも仏教理解のレベルが上がっているとは、残念ながら見えませんでした。
しかし台湾には仏教がかなり残っていて、多くの方たちがまだ呪術的・神話的な仏教信仰をかなり強く持っておられます。それから台湾では儒教も強いので、日本のような神道はありませんが、少なくとも仏儒習合という意味では、非常に色濃く残っています。けれども、台湾の学者さんたちの多くが合理・哲学的な仏教理解に達しているという状態ではないとも感じました。現地の学会に行った時に、向こうの仏教大学の先生たちとお話ししながら、「私はこういうふうに考えているんです」と言ったら、感心はしてくれたんです。でも感心されて、私はちょっと残念でした。「それは常識ですよね」と言ってもらいたかったので。
我田引水のように聞こえるかもしれませんけど、我田引水です(笑)。自分の田んぼに稔りを豊かにしようと思って水を引くのを「我田引水」といいますが、ご存じですか。私はこういう仏教や日本文化の理解、特に日本古代のリーダーに関する理解によって、日本人のアイデンティティ確立のしっかりとした基礎を、みなさんに提供したいと思っている。そうした意図についてはまさに我田引水で、全部そこに向かっているのだというふうに聞いてください。それに納得するかどうかは、もちろんみなさんの判断、思想の自由です。
ともかく、そうした合理・哲学性と霊性を中核とした仏教が、日本に千数百年脈々と伝わって、でも今見失いつつあると。そのことと、現在の日本人の心の荒廃は、実は現象として全く一つのことなんです。
一つだけ言えば、「嘘をついたら閻魔さまに舌を抜かれる」と本気で信じていたら、今の日本の政治家みたいな答弁ができると思いますか? あれは明らかに「嘘ついても舌を抜かれるなんてことはない。どうせ死んだら終わりだよ」と、近代科学的に思っているんです。だから生きている間、どれだけ自分が思っている功績を上げるかとか、自分の地位を守るかとか、そういうことに価値観の中心があって、「嘘をついちゃ絶対いけない。隠れたところで神仏・ご先祖さまが、皆ちゃんと見張っている。その報いは生前に来なかったとしても、必ず死後にやってくる」と思っていないから、ああいうことができるんですよ。真剣にそう思っていると、悪いことはなかなかしにくいものです。それでもやってしまうのが人間、というところはあるのですが。
天武天皇も聖武天皇も、「悪いことをしたら悪いところに生まれ変わってしまう」と、真剣に信じていたと思われます。だから、悪いことを好き勝手に権力者としてやるなんていうことは、もともと彼らの信仰からしてできにくいというか、ほとんどできない心性にありました。それどころか、「いいことをするからこそ、自分は天皇であれるのだ」と思っていたはずです。その時の「いいこと」とは何かというと、「国を護る」ことなんです。
ただ、その時の「国を護る」とは、自分の権力を守ることではなくて、自分がリードしているこの国全体が、特に隋唐帝国に侵略されることのない国であり続けるということでした。つまり、日本という一つのまとまった国家の独立を守ることが、「護国」なのです。実際に、例えば高句麗がすでに隋や唐によって攻められて、ずいぶんがんばったけれどもやがて滅びるというプロセスの中に、日本の古代史はありました。日本はたまたまちょっと遠かったので、隋や唐から直ちに侵略を受けなかった。でも近かったら侵略されただろうし、このままでは当然されるだろうという状況の中で、どうやって日本を侵略されない国にし続けるかが、古代の天皇たちの真剣なテーマだったんですね。
だから、単に自分の権力を守ることではなくて、侵略されないこと、それから民たちを安らかにすることが、「国を護る」ということの意味だったのです。古代のリーダーたちはこの二つのことに非常に真剣だったと考えてよさそうだという話を、結論として先に申し上げますが、これからいろいろな史料を当たりながら、そのことについてお話ししていきたいと思います。
(途中まで抜粋。以下、本誌に掲載しています。)

編集後記

既存の国際秩序の崩壊を実感しますが、そのような中でも、本質的な希望の根拠は確実に存在します。本誌はそのことを伝え続けています。主幹のコスモロジーの入り口に当たる講座「仏教と科学の融合」講義録は第3回目で、今回はブッダが「縁起」という言葉に込めた真意と、その事実に気づくための、会員にはおなじみのワークが語られる箇所です。そう気づいてみれば、たとえどんな状況であっても、私たちがお月さま・お日さま・お星さまとのつながりの中で、そのおかげで活かされているのは、メルヘンでもきれいごとでもない端的な事実で、生きていることが奇跡に感じられてきます。前号でスタートした中級向けの講義録「般若経典と日本の心」は、般若経典に現れる「護国」の思想が、大乗仏教の仏国土建設の精神そのものであり、その理想を日本古代のリーダーたちが本気で自分のものにしていたこと、少なくともその可能性は非常に高いことがわかります。そもそも古代の人物が、現在の私たちのように言葉に不真面目であることなどできなかったことは、想像に難くありません。それにしても、少し前の左翼進歩主義の人士の歴史観の惨状…その「総括」がなされていないことは、現代の思想上の大問題だと思われます。ほか、各筆者の力作記事、ぜひお読みください。(編集担当)

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