研究所主幹 岡野守也
今号より、新たに「仏教と科学の融合」をテーマにした講義録の連載を開始します。福岡県糸島郡の龍国禅寺さんで開催した講座シリーズの一つ「仏教と科学の融合―その可能性と影響」を文字起こししたもので、かなり前のものですが、お伝えしたいことは今でも変わりありません。
これまで、宗教と科学は矛盾・対立するものと考えられがちでした。しかし実は、二十世紀百年あまりをかけて科学は飛躍的な変化を遂げてきていますし、宗教の本質が何かという理解についても大きくかつ深く進展してきています。その結果、いまや宗教、とりわけ仏教と科学の融合の可能性が語りうる時代になっていると思われます。
これまでお伝えしてきたとおり、仏教の本質は、おかげやたたり、祈祷といった呪術的面でも、地獄・極楽といった神話的面でもなく、学べば誰にでも納得できる「世界のすべてはつながっていて、結局は一つ」という縁起の教え・哲学・思想の面にあります。そして、驚くべきことに現代科学も、ヘッケルのエコロジー、アインシュタインの相対性理論、ガモフのビッグバン仮説、ワトソンとクリック以降の遺伝子研究、プリゴジーヌの散逸構造理論などによって、おなじく「世界のすべてはつながっていて、結局は一つ」という結論に到ろうとしています。仏教の教えは、坐禅・瞑想という内面の探求によって直観的に把握されたものであり、科学の理論は、仮説、実験、観察といった外面からの研究によって証明されたものですが、奇しくもみごとに対応するものになっています。もし両者の融合が可能になれば、これからの人類への影響は甚大かつ希望あるものになるでしょう。
初級編として、当研究所のプログラムの基礎を学びたい方に適した内容となっていると思います。長くなりますが、ぜひおつきあいください。
*元の講座をお聴きになりたい方は、有償で音声データを頒布していますので、研究所HPのフォームにてお問い合わせください。
はじめに
こんにちは。今回のテーマは「仏教と科学の調和」ということです。これまでの私の講義と重なる部分も多いですが、初めにご了承ください。講談や落語の定番みたいなので、私の話も毎回「またおなじ話を聞かされるのか」「前にもその話は聞いた」というというところがあるかもしれませんが、全体の流れの中で学んでいただくということで、そこのところはご了解・ご了承いただきたいと思います。
ここの龍国寺さんでは、もう六・七回でしょうか、仏教講座をずっと続けさせていただいております。ですので、ずっとここに来てくださっている方にお話し申し上げているということを前提に考えていたんですが、思えば今日初めて来てくださっている方もおられるのでした。
ですから、そもそも仏教ということについて、私がどう考えているかということの大まかなお話もしておかないと、漠然と「仏教」といい、漠然と「科学」というと、非常に曖昧な、まさに結論もなんだかわからないということになってしまいます。そこで、まず仏教ということ、それから科学ということについてお話ししまして、そしてその両方が実は調和する時代になっている、というお話をしていきたいと思います。
まず仏教の話をする前に、もう一つ。以前、私はほとんど社会人相手の仕事をしていて、大学には関わってなかったんですが、ご縁があって大学に行くようになって、ここ十年あまり大学で学生たちを教えてきています。若い学生たちを教えていると、なるべくわからせたいと思うものですから、話をわかりやすく、そして結論を引っ張らないようにしています。「今日話したいことは」とか「今学期に話したいことは、先に結論言うとこういうことなんだよ」という話をしておいて、「なぜそういう結論になるか、徐々に話していくからね」と授業をやりますと、なかなか効果が上がるようです。
ですから今日も、いちばん最初に「結論としてどういうことを言いたいか」ということから、わかりやすくお話ししておきたいと思います。
仏教と科学の結論は矛盾しない
私たちが「科学」というふうに漠然と考えている科学は、のちにお話ししますように、実は大まかにいうと二十世紀を境に、大きな変化を遂げています。したがって、二十世紀以前の科学と二十世紀以後の科学を区別する必要があるのですが、日本では幸いに「近代」と「現代」という言葉の使い分け、時代区分があります。英語ですと、どちらも「モダン」になっていて、区別がつけられなくて困るんですが、日本ではおなじ「モダン」に当たる言葉を「近代」と「現代」と分けていて、まとめる時には「近現代」と言います。そういう区別がうまくあるものですから、私は二十世紀以前の科学のことは「近代科学」と呼ぶことにしています。そして、大きな飛躍を遂げた二十世紀以降ここ百年ぐらいで確立してきた科学のことを「現代科学」と呼ぶと。もちろん現代科学は近代科学をベースにしてできてはいるんですが、近代科学と現代科学では大きく変わっていることがあります。
また、これから申し上げますが、おまじない・加持祈祷などのような仏教のことを「呪術的仏教」と呼ぶことにしています。それから、「何を根拠にそんなことを言うのか」と聞かれるとよくわからない、地獄・極楽みたいな話をベースにして成り立っている仏教のことを「神話的仏教」と呼ぶことにしております。
近代科学は、必ず「科学的に根拠があるのか」「実験できるのか」「検証できるのか」「顕微鏡で見えるか」「望遠鏡で観察すればわかるのか」というふうなことを問います。だからそういう方法で、「加持祈祷にほんとうに効果があるか」「地獄・極楽をどうやって観察、検証するのか」とやっていくと、そうしたものは科学的にはありえないというふうな話になってしまいます。近代科学とこういう仏教は矛盾・対立しますし、実際に矛盾・対立してきした。
ところが、仏教の中に非常に哲学的・理性的な、わかりやすく言うと、だれでもちゃんと話を聞けば納得がいく教えの部分があります。そこのところを理解すると、その話と現代科学の言っていることが非常に対応していて、まったく矛盾しないと。そういうことがわかってきます。
さらに、実は仏教は教えですべてではなく、むしろ教えよりも、その教えを聞いて実践をして覚るというふうな心の問題が、非常に重要なんですね。そこのところを、英語で「スピリチュアル」といいます。それを日本語では「霊性的」と訳そうということが、宗教学者や仏教学者の中でだいたい合意されつつあると思います。仏教は、そうした「霊性的仏教」が本質的ないちばん大事なところだと、私は考えています。これも今からお話ししていきます。
この哲学・理性的な仏教、霊性的な仏教と現代科学は、まったく矛盾対立をしないどころか、聞いていると「おなじことを言っているんじゃないか」という気がするくらい、おなじようなことを言っています。でも、それは「おなじこと」ではなくて、私に言わせると、一方は物質的・外面的な事柄をそういう方法で調べていくと出てくる結論で、もう一方は内面的・精神的なことを、特に瞑想、坐禅という方法で探究していくと出てくる結論です。この両方の結論が矛盾しない形になっているということであって、「おなじことを言っている」ということではない。
ですが時々、科学者の方にも、逆に宗教者の方の中にも、「科学と宗教は、実はおなじこと言っているんだ」といった、やや単純な結論をお話しになる方がいらっしゃいます。私もこういう話をしていると、そうした方とおなじだと思われてしまうんですが、私は「ぴったりと対応して、矛盾しないことを相互に言っている」ということを申し上げたいので、「おなじことを言っている」とは捉えていません。
結論として「矛盾対立ではなく、まさに調和をする時代になっている」というお話をして行くつもりです。そのための、「なぜそういうことが言えるのか」という話を、徐々にしていきたいと思います。
「呪術的仏教」と「神話的仏教」
まず仏教ということですけれども、「仏教」という言葉が含んでいる、いろいろな事柄というか現象があります。そこのところをごっちゃに捉えてしまっているために、「仏教と科学」という時に、様々な考え方の混乱が生じていると思います。ですから、「仏教」という言葉で捉えられているいろいろなものをはっきりと区別して、その中のどの部分が近代科学と矛盾するのか、どの部分だったら現代科学と調和するのか、そこの区分けをしっかりしていく必要があると思います。
その区分けを、みなさんと共有できるかどうか試していくために、ご一緒に考えていきたいことがあります。これまでの講座でおなじことをやった方もいらっしゃると思いますが、その方は改めて復習という感じでやってください。「仏教」という言葉を聞いたらすぐに連想する単語が、いろいろあると思うんです。例えば「仏教、ああ『お葬式』」とか。
ではみなさん、「仏教と言われたら何を思い浮かべるか」を、短い時間の中でお手元のノートやペーパーにいくつかメモしてみていただけますか。
(実習約2分間)
はい、では挙手は必要ありませんから、みなさんが今メモをなさった「こういうことを連想した」という単語を、ちょっと言ってみていただけるでしょうか。例えばこういうことを思った、と。
(受講者)「お釈迦さま」。
はい、どうぞ。どんどん言ってください。
(受講者)「救い」。
「救い」ですね。聞きながらやっていきますが、どんどん言ってください(以下、板書する)。
(受講者)「お寺」。
(受講者)「仏壇」。
これは出てこないとね(笑)。
(受講者)「花」。
(受講者)「墓」。
(受講者)「お経」。
…というふうに、今ホワイトボードを埋めていっていますが、そうすると少し、ぼんやりとながら区分けがおわかりいただけると思います。例えば仏教心理論という授業では、二~三十分かけてみんなでずっと考えていって、「こうやって考えていくと、ちゃんと区分けができるよね」ということをやるんですが、でも今回は時間の関係もありますので、あとは省略で行きたいと思います。
例えば、「お札」「お守り」「お賽銭」「お参り」「縁起担ぎ」「おみくじ」「占い」「おなじない」「加持祈祷」といったものは、「呪術的」と分類できると思います。
人間の心がまだ完全に合理的になっていない段階では、何か不思議な形で、人間を超えた大きなものの力に、まさに祈祷のような方法でおかげをもらったり、祟りを鎮めたりしようとします。そういうことができると思えると、心が安心すると。これは古代から人間がずっと持っている心の側面です。
近代になればなるほど、こういうところは、公式の場では「非科学的だ」という形で、信じられなくなっています。まあでも現代人も、ふだんはそういうことは非科学的と思っているけれど、いざとなるとお札を買ってみたり、日本人として典型的には、やっぱりお正月にはお参りに行っておかないと何か落ち着かない、というものを持っています。
つまり、人間の心の非常に深いところに、原始的な時代からずっと抱えている呪術的な心の側面がありますので、それを「非科学的だ」と言って全部取ってしまうと、人間の安心ということが揺らいでくるんです。だから、あくでも科学的なことは大事にしながら、人間の心の重要な一つの部分として、こういうところはちゃんと保存したほうがいいと思います。
そういう方は少なくなっていますが、でも医学があるのに医者にかからないで、加持祈祷で病気を治すことを先にするという態度は、やっぱり現代人として非常に困ったものだというふうに思います。もちろん、いよいよ困って医者に見放されたら、「あそこの教祖さまのところに行ったら治るんだ」というようなことも、全面的に否定する必要はないと思います。しかし、基本的には科学的な、「お医者さんのところにまず優先的に行く」という姿勢のほうが現代的だと思います。
ですから、こういう呪術的なところの仏教は、それがメインという形でやっていくと、もう現代人には通用しにくいというふうに思います。
それから日本では、こちらのほうが量的には多いかもしれませんが、仏教というと「葬式」「お墓」「仏壇」「お位牌」等々というふうに考えられている部分が多くあります。ここのところは、基本的に「死後の世界がある」という神話が大前提になっているので「神話的」と分類できますが、特に先祖・祖霊崇拝が中心となっているので、「供養仏教」と呼ぶことができると思います。
ですから、死後の世界がないと、「死者のためにご供養することには意味がない」というふうに思われてきます。なかなか感動的だけれど、日本文化にとっては大変問題だと思う「千の風になって」という歌が、すごく流行りましたよね。あれは取りようによっては、また実際そうなっていますが、「お墓はいりません」という意味に聞いている方が、だいぶ多いようです。それは、時代を象徴しているのだと思います。
「大野屋」という葬祭業の大手の最近の調査によると、都会での葬儀の四分の一が音楽葬になっているのだそうです。音楽葬というのは、葬儀の間に献花か何かをしながら、生前好きだった音楽が流れていて、お坊さんも神主さんも来ません、いりませんというものです。そこは書いていませんでしたが、たぶん、お坊さんも神主さんもいらないという葬儀をやった後、だれからももらえないから、お位牌はもらわないですよね。ということは、お仏壇も買わないでしょう。それから、骨を捨てるのもなんだから墓地は買うかもしれないけど、でも「『千の風になって』だからお墓もいらない。高い金使っておれの墓を建てる必要ないよ」ってお父さんが言っていたりすると、子どもたちは「じゃあお父さんもそう言っているから、いいや」と、お墓も建てないというようなことが徐々に起こってきつつあるようです。このままいくと、どんどんそういうことになってしまうと思います。
供養仏教と六道輪廻
その前提になっているのは「死後の世界がある」ということです。しかも死後の世界というのは、単に死後の世界があるだけではありません。仏教では六道輪廻ということが言われていて、人間の上に天界があって、下には、まずいつも争ってばかりいる修羅ないし阿修羅の世界がある。それからその下には、生前そういう欲望追求しかできなかった人が、食欲と性欲のことしか考えられない畜生のような状態というか、まさに畜生そのものになる畜生界があります。
これは大事なことなので毎回申し上げるんですが、昔の人は、現代の生物学や動物学のように、ちゃんと動物の観察をしてから「畜生」と言ったわけではありません。実際に動物の研究をしていくと、動物たちはいつも性欲と食欲のことしか考えてないという、低劣な人間のような状態ではないようです。動物たちのほうがもっと、よっぽどましな生き方をしている。基本的には霊長類もそうですが、そういう意味ではもっと単純な生物になればなるほど、社会的な倫理や法律を犯すなんていう動物は、あまりいないみたいです。ほかの動物たちはかなり倫理的に、つまりその種族の掟に従ってちゃんと生きている。
人間界にも、やはり人類の掟みたいなものがほんとうは不文律としてあると思いますけれども、ところがそういうものを侵して平気な人がすごくたくさんいますよね。だから、象徴的には「畜生」という言い方はいいと思いますが、実際の動物がそうなのではないということは、申し上げておきたいと思います。
私は人間もとても好きなんですけど、動物も好きなので、時々動物のために弁護をしておきたいんですよ。「動物的」とか「けだものみたい」と言われますが、「動物的だったら、人間よりよっぽどましだよ」「けだもののほうがずっと立派だよ」と。けだものは無差別殺人をやりませんし、それから強姦もしませんしね。ちゃんと見てください。決してそういうことはしませんから。
ちょっとだけ余計なことを言いますと、例えば鳥のオスがメスに求愛している時のいろんな姿を見ていると、もう切ないまでに真面目ですよね(笑)。レイプとか売春とか、そんなのはまったくありません。「私の子どもを産んでください。お願いします」と。それでなんとかわかってもらい受け入れてもらって、メスが「うん」と言ったら、やっと成り立つんですよね。そういうふうにちゃんとやっていますから、「畜生」というのは大変失礼な言い方だと思いますが、とにかく戻ります。
それからもっと下には、餓鬼の世界があります。いちおう「いくら食べても満腹できない」ということなんですが、象徴的にはそれ以上に「何をやっても心が満たされない」という意味だと思われます。そういう、何を得ても満足できないような心の状態のことを「餓鬼」といいます。そして死後、まさにそれになると神話的に想像したのが餓鬼という存在だと思います。これも、死んだ後になるよりは、もう今生で餓鬼のような状態になっている人がいっぱいいます。
だから、六道輪廻は死んでからのことではないのです。生きているこの世で、畜生や餓鬼、阿修羅になったりしている人がいっぱいですからね。それから、「もう仏さまみたい」という言い方がありますけれども、何かもう天界にいるんじゃないかという、幸せで立派な方も少数いらっしゃる。そして、いちばんひどいところが地獄です。
そういう、だいたい人間界以下のところに生まれ変わってしまうというのが、仏教の死後の世界の捉え方です。そうしたところに生まれ変わってしまった、特に地獄などに行ってしまったご先祖さまに、ご先祖さまが生前できなかった善行を代わりにすることによって、少しでも苦しみを楽にしてさしあげたいというのが、「供養」ということの従来の基本的な考え方でした。
例えば、生前あまりちゃんとしたことをなさらなかったご先祖さまが、逆さ吊りになって地獄で苦しんでいらっしゃるのを、代わりに功徳を積むことによって、その苦しみをちょっとだけ楽にしてさしあげる盂蘭盆会などの考え方があって、供養ということが成り立っているわけです。
しかし近代科学的な研究で、地獄というものはないことがわかります。例えば地面を下のほうへずっと掘っていくと、岩盤があったり、その下にはマグマが燃えていたりするだけです。それからいろいろ調べていくと、地球が丸いということは全体としてわかりますから、ずっと行くと地球の反対側に出るということになります。日本の場合、垂直にまっすぐ掘っていくと南米ウルグアイの沖合ぐらいに抜けるようです。そういうことがわかって、足元のほうには別に阿修羅の世界も、畜生や餓鬼、地獄の世界もないということになってしまった。
それから上のほうを考えると、地球が丸いものですから、下は地球の重心のほうですが、「上」というのは四方八方にあるんですよね。だから、天界というのはいったいどっちなのかと。地球の反対側のさらに向こうにも天界があることになっちゃいますしね(笑)。
仏教は古代のインドの神話的な世界観を受け継いだものであるわけですが、そういう神話的な世界観は、現代人には近代科学的な方法で完全に反論されてしまう。「そんなものありえない」「そんなものは存在しない」と。それはそうですよね。いくらロケットで上のほうに飛んでいっても、天界はないんです。人工衛星でずっと調査しても、「天人が見つかりました」とかというニュース、聞いたことがないですよね。
ですから、そういう意味での神話的な仏教というのは、現代人にはもうそのまま信じることはできません。
つながりを大切にする心
しかし、そのまま信じられないからといって、捨てていいとは私は思っていません。それはどういうことかというと、供養とはもともと日本人にとって、自分と先祖とのいのちのつながりをとても大事に思う、そういう思いの表現だったんです。
それは世界観としては神話的なものに裏づけられていますが、こっちに地獄がなくても、あっちに天界がなくても、「私のいのちはご先祖さまなくしては存在していない」というのは、別に現代科学だろうが近代科学だろうが、確認できる事実ですよね。そして今度は私の子どもや孫へと、いのちがつながっていく。そういうことによっていのちというものが存在すると。
それから後でまた詳しくは申し上げますが、私が単にご先祖さまのおかげだけで生きているかというと、そんなことはない。例えば今、空気を吸うおかげで生きている。水を飲むおかげで生きている。食べ物を食べるおかげで生きている。その食べ物は、鉱物食の塩などが若干ありますが、お米は植物ですし、それからお肉やお魚は動物です。だから、ほとんど他のもののいのちをいただいているわけですよね。
私のいのちというものが、他のもの、他のいのちとつながっていることをちゃんと自覚して、そのことに感謝をする。そのことを大切に思う。それを特にご先祖さまに関して思うということの表現が、供養仏教だったわけです。
ですから、自分の親が亡くなった時に、破産するほどのお葬式をする必要はないと思いますけれども、しかし少なくとも、自分がこの親から受けたいろいろな事柄、古い言葉でいうと「恩」ですが、それを表現したいと思うのは当然です。
今日お集りの方はだいじょうぶだと思いますが、若い学生に「恩」などと最初から言うと、もう完全に拒否反応を起こされます。だから最初は「恩」とは言わないんですよ。そういう話をする時には、「今日は恩と恩返しの話はしないで、事実の話をするから。でもだんだんわかってくると、前期末には『君たち、ちゃんと恩返ししなさい』という話になるんだけどね。だけど、今言ってもどうせ納得しないから、今日は言わないよ」と言ってから、話をするんです。
「でも、そもそも生まれてくるに関しては、お父さん、お母さんがいないと生まれてこないよね。自分の生きていることがいいことだともし思うんだったら、その元を作ってくれたのはお父さんとお母さんだから、最低限でも感謝する理由はあるよ。『おふくろ、うるせえ』とか『親父はきらいだ』とか思っていても、自分が生きていることを肯定するんだったら、親がいてくれたことを肯定しないと、それはおかしいよね。そしてその親には、その上にまた親がいるわけでね。会ったことのないおじいちゃん・おばあちゃんかもしれないけど、やっぱりそのおじいちゃん・おばあちゃんがいてくださったから、今日ここに私がいるというのは事実で、だからそれを認めないというのは、事実無視とか事実誤認というんだよね。非常に非理性的、非科学的な態度だと思うけど」―そう言うと、だんだん若い世代もわかってきます。
そこで、「はい、空気を吸わないと生きてられないよね」と。「おれはおれで生きている」とかと思っている若者が多いんですよね。そういう若者に言うんです。「『おれはおれだ。おれだけで生きている』と思っている人は、今から十分間息を止めてください。まだ生きてたら、『おれはおれで生きている』というのを認めてあげてもいい。空気とのつながりがなかったら、生きられないでしょう? 『おれはおれで生きている』というのは、生きていることの一面を捉えた言い方としてははずれじゃないけど、いつの間にか『おれだけで生きている』って錯覚に陥っているんじゃないのかな。だけど、空気や水、食べ物のおかげや、いろんなものの無数のもののおかげ、つまりつながりによって生きているというのが生きている事実だから、そのことは認めないとおかしいよね」。さらにそう話をしていくと、だんだんわかってきます。
日本人は、いちばん直接的ないのちのつながり、つまりご先祖さまと自分とのつながりを大切にすることによって、実は自分と子孫とのつながりを大切にしてきました。それはすなわち、後の世代に責任を持つということです。「前の世代が私の世代に責任を持ってくれたので、私の世代も後の世代に責任を持たなくちゃならない。これが社会倫理のベースなんだよ」。そうやって話をしていくと、若い世代もわかってくれます。「その象徴的表現としての供養仏教は、やめたら日本人がまったくダメになるから、やめちゃいけない。例えば、今までのお仏壇はちょっとイメージが暗いから、もうちょっと明るめにしたいとか、うちは全体が白塗りの家具から白塗りのお仏壇が欲しいとか、そういうのはいいよ。だけど、ご先祖さまの供養をやらないというのは、それはずいと思うよ。自分のいのちのルーツを忘れることだからね」と。
日本人の倫理性の崩壊
徐々にお話ししていきますが、このつながりを大切にする心は、仏教の本質と一致していると思います。しかし、この先祖・祖霊崇拝仏教のところをまともに信じろと言っても現代人は信じられないので、ここにこだわると、もう仏教はやっていけなくなります。
さまざまな宗門でもお寺さんでも、そこのところがはっきりしていないので、神話的なところと近代的な科学・理性は矛盾すると、ご本人も思っていらっしゃる。でも、それに基づいてお葬式や仏事をやったり墓地を売ったりして、お寺の経営はやっていると。すると「親に言いくるめられて、ほんとうはいやだったんだけど、跡を継いだ。でも、おれは何か人を騙して、しかも死人をネタにして金を取って飯を食ってるんじゃないか。どうも坊主というのは汚い職業なんじゃないか」と内心思っている若いお坊さんが、驚くほど多いです。ぼくに言わせると「まったく、なんて罰当たりな」というか、「わかってないね、お気の毒に。すごく損なのに」と思うんです。
ですから、私はさまざまな宗門の布教師会の講師に最近呼ばれることが多いので、そういうところに行きますと、「仏教の本質は呪術や神話的なところではなく、哲学的・霊性的なところにあるので、そこを再発見をして、でも神話的なご供養にもちゃんと意味がある、ということでやっていきましょう」とお話しします。そういうことでやっていただかないと、たぶん、仏教はこのままどんどん衰退していくばかりだと思います。
それから仏教が衰退していくと、次に仏教に関わった、いわゆる「供養産業」も衰退しますね。もっとも、ぼくの個人的な義理からいうと、仏教にも供養産業にもあまり義理はないんです。「はせがわ」さんの顧問をやって顧問料をもらっていたから、若干義理はあるけど、でも絶対的・本質的な義理はありません。
けれども、先祖供養をやめてはいけないと思うのは、これを忘れたら、日本人がいのちのつながりを大切にする心を失ってしまって、それを失ってしまうと倫理のベースを失ってしまう。そうすると日本人が、今ふうのカタカナ英語でいうとモラルハザード、要するに倫理の崩壊に陥り、社会が非常に乱れてくる。
ほんとうに、昔なら信じられないと思うような犯罪が頻発しますよね。つい最近のことで言えば、何人もの無差別の殺人とか、それから駅のホームから人を突き落とすとか。ああいう人たちの心の中には、もう明らかに「自分がこういうことをしたら、死後、地獄に落ちる」などという気持ちはないわけです。「死んだらおしまいだ」と思っているし、生きているのもいやだと思っているから、監獄にでもなんでも放り込んでくれ、もう早めに死刑にしてくれ、と。実際、そう言って死刑になってしまった人もいますし、それからついこの間、子どもを殺した女性も「死刑にしてくれ」と言って、無期懲役になっています。ああいう犯罪を見ていると、いのちのつながりを大切にする心がまさにまったく忘れられていることがわかります。
それは、「地獄」「極楽」といったことを日本人が全体としては信じられなくなったために、いのちのつながりの大切さという面も、合わせて忘れてしまっているということです。しかし、神話的な仏教がもし否定されたとしても、いのちのつながりが大切ということは全然否定されません。
それどころか、現代科学の、特に生物学のようなところを勉強していくと、「つながってこそいのちなのだ」ということが、ほんとうによくわかってきます。これは、後でだんだんにお話ししていきたいと思います。
