目次
2007年11月29日


  随煩悩







随煩悩1:心には20もの現象的な煩悩がある
2006年4月6日





 これまで、マナ識の4つの根本煩悩、意識の6つの根本煩悩について学んできました。
 もうこれだけでも、嫌になってしまうくらい、人間の心のマイナス面をしっかりと、的確に、しつこいくらい見せつ けられました。
 しかし唯識というドクターは、病気に関する情報提供をさらに詳しくやってくれます。
 たいていの、ふつうの人、つまり凡夫の日常にありふれた付随的な悩み=「随煩悩」が20種類もあるというん です。
 根本煩悩という病因があるんですから、いろいろ症状が出てくるのは当たり前といえば当たり前なんですが、 それにしてもあまりにもはっきり詳しく言われると、そうとうショックです。
 この煩悩のリストは、私も読むたびに、あまりに自分の日常の心の状態に当てはまっていて、がっかり、うんざ り、しょんぼりしてしまうほどです。

 いかり(忿・ふん)
 うらみ(恨・こん)
 ごまかし(覆・ふく)
 悩ませ悩むこと(悩・のう)
 ねたみ(嫉・しつ)
 ものおしみ(慳・けん)
 だますこと(誑・おう)
 へつらい(諂・てん)
 傷つけること(害・がい)
 おごり(?・きょう)
 内的無反省(無慚・むざん)
 対他的無反省(無愧・むき)
 のぼせ(掉挙・じょうこ)
 おちこみ(?沈・こんじん)
 まごころのなさ(不信・ふしん)
 おこたり(懈怠・けだい)
 いいかげんさ(放逸・ほういつ)
 ものわすれ(失念・しつねん)
 気がちっていること(散乱・さんらん)
 正しいことを知らないこと(不正知・ふしょうち)

 このリストを丁寧に読みながら、自己診断をしてみてください。
 一つも身に覚えがないという方はおられませんよね?
 ここで大切なのは、「そんなに強くはない」、「それほど頻繁ではない」というのを、心の中で「ない」と言い換え て誤魔化してしまわないことです。
 症状の程度は軽くてもあるものはある、少なくてもあるものはある、と判断−診断しないと、病気を見過ごして しまうことになります。
 見過ごしてしまうと、当然、治療をしません。
 治療をしないと治りません。
 心の底から健康になって爽快な人生を送りたいのなら、心の病気の症状を見過ごさず、ちゃんと自覚する必 要がある、ということなのです。
 慢性病のまま、うじうじ、ぐじぐじ、不快感や痛みはあるんだけれど、めんどくさい、こわいから、治療したいくな いという方、強制はできませんが、でも治療したほうがいいんじゃないでしょうか。
 そのためには、症状をチェックして自覚したほうがいいんじゃないでしょうか。
 強くお勧めします。






随煩悩2:怒り(忿・ふん)
2006年4月7日


 随煩悩の第一にあげられているのは「怒り」(忿・ふん)です。
 これは、まず怒っている本人も嫌な気分ですし、怒られている相手も嫌な気分になりますから、まさに「煩悩」 ですね。
 私たちは、自分にこだわり、自分の思いどおりにならないということで腹を立てます。
 自分、自分、自分……ですね。
 原語はサンスクリット語なのですが、漢字に写すと意味がさらにはっきりしてきます。
 「忿」とは、読んで字のごとし、分ける心です。
 自分と他者とが分離しているという思い込みの上で、好みや利害や信念や立場などが対立していると思って、 怒るわけです。
 分かれていると思わなければ、対立のしようもありません。
 対立しなければ、腹の立ちようもありません。
 ……というのは、理屈なのですが、感情はそうはいかない。
 この場合の「理屈」と「感情」の不一致は、なぜ起こるんでしょう?
 今日はこれから2つ仕事(1つは中級講座「『証道歌』を読む」)に出かけなければなりませんので、詳しい解答 は明日にして、みなさんへの宿題にしたいと思います。
 これまで学んできた心の仕組みの理論で、上記の問題はどういうふうに説明できるでしょう?
 考えてみてください。






随煩悩2−2:怒りのメカニズム
2006年4月8日





 怒り・「忿」は、自分が他と分離し対立していると思っている時に起こる心の現象です。
 自分ではない他のもの(者・物)が自分の思いどおりにならないと、どうしても、どうしようもなく腹が立つので す。
 これは、病気のもっとも目に見える症状に譬えられるでしょう。
 それは、私たちの意識がもともと自分の思いどおりにならないといつでも腹を立てる可能性・「瞋」(しん)という 根本煩悩を抱えているからです。
 「私の思いどおりにならないことがあった場合、私が怒るのは当たり前、当然の権利ではないか」という深い深 い思い込みです。
 瞋という基本的な心のあり方は、きっかけがあればいつでも忿という現象を生み出してしまうのです。
 そして、それにはマナ識の我癡・我見・我慢・我愛というより根本的で無意識的な根っこがあります。
 私がいちばん可愛い、私がすべての依りどころ、私は私であって、他のものとは関係ないという思い込みがあ れば、あらゆるものが私を中心にしてめぐるべきだ、すべては私の思いどおりになるべきだという気持ちになる のは当然です。
 怒りという症状の奥底にはマナ識−アーラヤ識における無明・煩悩という根源的な病因・病原があります。
 そしてマナ識と意識が共同して作り出したカルマ――共同作業ですね――は、アーラヤ識に蓄えられ、こびり 付き、ほとんど解けそうもないと思えるしがらみになり、そこから新たな煩悩のカルマがまた生えてきます。
 善の場合(そしてこの後お話ししていく覚りに向かうための6つの方法・六波羅蜜の場合も)、煩悩の場合も、 アーラヤ識−マナ識−意識の循環のメカニズムは基本的に同じです。
 性質は、好循環と悪循環でまったく逆ですが。
 このメカニズムを思い出していただくと、理屈と感情が一致しない理由がはっきりつかめます。
 感情は湧いてくるものですが、どこからでしょう?
 そうです、マナ識−アーラヤ識という深層から湧いてくるのです。
 それは、意識上、ちょっと理屈でわかったくらいで、解消・浄化できるものではありません。
 意識の表面でちょっとわかった程度の理屈では、感情はどうにもならないのです。
 しかし、理屈嫌いの傾向の強い日本人にとって重要なことは、確かにちょっとわかった程度の理屈では感情 は抑えられませんが、しっかりわかると相当程度感情は変えられるということです。
 詳しいことは拙著『唯識と論理療法』(佼成出版社)をご覧いただきたいのですが、「怒り」というのは(も)毎日 の生活ではとても重要なテーマの一つなので、次回、そのあたりについて少しだけお話ししたいと思います。






随煩悩2−3:怒りはコントロールできる
2006年4月9日


 怒りも含む随煩悩はすべて、それがまぎれもなく煩悩であることにしっかりと気づくと(意識上の智慧)、(完全 にではないにしても)かなり鎮まり、コントロールできるようになります。
 みなさんは、心穏やかな時と腹を立てている時と、どちらが気持ちがいいでしょう?
 「そんなこと当たり前だろう」と言わないでください。
 当たり前のようなことがしっかりわかっているかどうかが大切なのです。
 腹を立てている時は、たいてい不愉快です。
 怒りを爆発させて、その時だけはせいせいした気分になることはありますが。
 ここでは、腹を立てて当然(だと私が思っている)かどうかは置いておきましょう。
 当然だろうと不当だろうと、(たいていの場合)不愉快であることは確かです。
 さて、不愉快なのは誰でしょう?
 直接怒りを相手にぶつける場合は、もちろん相手も不愉快でしょうが、私も不愉快です。
 まして相手はもう目の前にいないのに怒っている場合は、不愉快なのは相手ではなく私です。
 私が腹を立てていると知っていれば、相手も少しは気になるかもしれませんが、私ほど不愉快ではないでしょ うし、まして知らなければ、全然不愉快ではありません。
 よく考えると、腹を立てるとまず私が不愉快になりますし、比較しても私の不愉快のほうがどうも大きそうです ね。
 さて、みなさんは、愉快なのと不愉快なのとどちらがお好きですか?
 愉快な気分でいるのと不愉快な気分でいるのと、どちらが得だと思いますか?
 言うまでもないようですが、はっきりと言って気づいたほうがいいのです。
 気づかないと変われませんが、気づいたら変われるからです。
 愉快なほうが好きで、得だと思いますよね?
 不愉快なのは嫌いで、損ですよね?
 ならば、どうして好きで得なほうを選ばないんですか?
 当然だろうと不当だろうと、とにかく腹を立てたら私は不愉快になり、そういう意味で損をする、んですよね。
 どうして、不愉快で損な気分を選ぶんでしょう?
 「そんなこと言ったってえ」という声がここでありそうですね。
 でも、お話ししたことを、どうぞよく考えてみてください。
 よく考えて、腹を立てたら誰よりもまず〈自分〉が損をするんだということに、しっかりと――ぼんやり、あいまい にではだめです――気づいたら、かなり怒りをコントロールすることができるようになります。
 自分に損をさせ、煩わせ悩ませるようなこと=煩悩は、コントロールしておいたほうが得ですよね。
 (私の場合は、そうでした。腹が立ちそうな場面でも、瞬間的に「ここで腹を立てたら自分が損をする」「損した いのか?」とセルフ・トークできるようになってから、腹を立てることがかなり少なくなりました。)
 これは、自分の損得勘定に過剰に敏感なマナ識を逆手に取るやり方です。

 前回もご紹介しましたが、さらに詳しいことは拙著『唯識と論理療法』(佼成出版社)をご覧ください。
 特に怒りについては、エリス『怒りをコントロールできる人、できない人―理性感情行動療法(REBT)による怒 りの解決法』(金子書房)が参考になると思います。






随煩悩3:うらみ(恨・こん)
2006年4月10日


 私たちは、自分の思いどおりにならないことがあったら、腹を立て、そしてそのことをずっと覚えていたりしま す。
 怒りというカルマが種子(「記憶」と言い換えることもできます)となって、アーラヤ識に溜まり、いつまでもなくな らない、どころかしばしば芽を吹く、つまり思い出してはまた怒り・憎しみの感情が湧くのです。
 人を恨み、世間を恨み、軽いとすねたり、ふてくされたり、ねじけたり、ぐれたり、憎しみを持ち続け、ひどいと 怨念を抱き、呪い続けたりします。
 怒り以上に、恨みは恨んでいる人自身、きわめて不愉快、嫌な気持ちで苦しいものです。まさに、自分にとっ て「煩悩」ですね。
 恨みを言葉や表情や態度で示されるともちろん相手も不愉快ですし、恨まれた結果、復讐されることになれ ば、ますます嫌な目に遭わされることになります。相手にとっても「煩悩」です。
 さて、怒りと同じく、恨みの奥には「自分は正しい」という思い込みがあります。
 「盗人にも三分の理」ということわざがあるように、悪いことをしたと自分でわかっていても、その悪いことをし た「自分なりの理・正しさ」があると思いたいのが人間です。
 まして、「どう考えても絶対に自分が正しい」と信じていれば、恨みは決して解消できないでしょう。
 それに対して唯識は、絶対=「対・関連性」を「絶した」、つまり完全に他と分離したような実体的な「自分」がい ると思うこと自体、無明・錯覚であることを指摘します。
 恨んでいる自分も恨まれている相手も、深いところ・ほんとうのところではつながって一つのコスモスなのです (なかなかそうは思えませんが)。
 さらに、それが自他を共に煩わせ悩ませるもの・煩悩であることを指摘します。
 恨みは、自他共に不幸にするのです。自分だけではなく相手をも、相手だけではなく自分をも。
 詳しいことは「忍辱(にんにく)」のところでお話ししますが、その2つのことが心の奥底までわかる(智慧)と、恨 みは解消され、何よりもまず自分の心が爽やかになります。
 ここでも、凡夫である私たちにとってのポイントは、「恨んでいるのは不愉快で、ということは自分が損をしてい るのだ」ということへの気づきです。
 私は、人を恨んでいる方には――話をよく聞いて共感した上で――「でも、恨んでいると損だから、許さなくて もいいですから、自分のために忘れましょう」とお勧めします。
 一定程度時間をかけた丁寧なカウンセリングのプロセスを経ると、〔残念ながらすべてのではありませんが〕 多くの方が恨みから解放されてくださるようです。
 (あ、申し訳ありませんが、私は今時間の関係で、基本的に個人カウンセリングはお引き受けしていませんの で、ご了承ください。)






随煩悩4:覆(ふく)――ごまかし・隠蔽体質
2006年4月11日


 大学の授業が始まり、研究所の講座「自己実現の心理学」も始まり、途中のどこか空いた時間を見つけて、 携帯から投稿しようと思っていましたが、結局時間がありませんでした。
 残念です!
 (記事検索の都合上、投稿日時を11日に訂正させていただきます。「ごまかし」をするつもりはないんですけど ね。)

 ところで、さっきテレビを見ていたら、文化庁が高松塚古墳の壁画にできた2ヶ所の傷について、4年間も明日 香村にさえ公表していなかったというニュースが報道されていました。
 そういうのを「隠蔽体質」というんですね。
 文化庁のそういう体質は、今に始まったことではないようです。
 他の公官庁はもちろんですが、日本人全体の貴重な文化財を預かって管理する公僕であるはずの文化庁の お役人――文化に関わる人ですから高い精神性を持っていて欲しいですよね――まで、こういう隠蔽体質が根 強くあることに、半分驚き嘆き、半分「当然だな」と頷いてしまいました。
 なぜ、失敗や欠陥や犯罪を「隠蔽」するのでしょう?
 〈自分〉を守ろうとするからですね。
 正しかろうが正しくなかろうが、自己防衛をしたいがために自分の失敗や自分のところの製品の欠陥や自分 (たち)の犯罪を隠蔽し、ごまかし通そうとするわけです。
 その場合の〈自分〉には、自分の立場、自分の地位、自分の名誉、自分の体裁、自分の収入、自分の既得権 益などなどの自分の〈所有〉や〈属性〉も含まれています。
 それは、もちろん倫理としていけないことに決まっていますが、凡夫の性(さが)、凡夫の常、よくある話として はよくわかります。
 〈自分〉と〈自分のもの〉を実体だと思い込み、それに執着するあまり、失わないために、あるいはもっと増やす ために、隠れて悪いことでもやり、隠し続け、隠し通してごまかそうとしたくなるわけです。
 これは、「私はウソを申しません」と昔の政治家のようなことを言いたいのではありません。
 私も、ついつい失敗を隠したくなることはあります、マナ識があるので。
 なるべく、悪質なごまかしはしない、ウソはつかないようにする、というのがポリシーではありますが。
 神話的仏教を信じていた時代の日本人は、「隠れて悪いことをしても、どこかで神仏やお天道さまやご先祖さ まが見ておられる」、「正直に生きなければ、死んでからいいところへ行けない」と思っていたのです。
 そういう信仰がほとんど失われた現代の日本人には、「ちょっとぐらい――実はちょっとではない――悪いこと をしたって、バレなければ平気だ。陰でやればいい。隠しておけばいい」とどこかで思っている人が増えているよ うです(この傾向は、学生へのアンケートや聞き取りの調査からもはっきりしています)。
 でも、隠すと、良心が多少でもあれば、しくしくあるいはずきずきと痛みますし、ほとんどなくてもバレはしない かと不安ですし、バレっこないと思っていてもいつもバレないように余分に気を張っていなければならないし…… 心が煩わされ悩まされますね、煩悩ですから。
 もちろん、隠蔽、ごまかしは人に迷惑をかけます。そういう意味でも煩悩です。
 人に信頼され、愛され、自分で自分に誇りを持つことができ、胸を張って正々堂々と爽やかに生きたいのな ら、ごまかし・隠蔽体質はなくしたほうがいいのは、あまりにも明らかです。
 ……が、〈自分〉と〈自分のもの〉の実体視と執着があるかぎりは、なかなか完全にそういう体質、心の働きは なくなりません。
 この煩悩を癒す薬は、「信(まごころ・誠実さ)」と「マナ識の浄化」です。
 もちろん私も含めて私たちみんな、この薬を持続的に服用する必要がありはしないでしょうか?






随煩悩5:悩(のう)――悩ませること
2006年4月13日


 人に腹を立て、人を恨むと、嫌な表情や態度、あるいはもっと激しい態度、嫌味や意地悪、きつい言葉など で、人を悩ませてやりたくなります。
 いたずら、いやがらせ、陰口、悪口、シカト……凡夫が編み出す人を悩ませるテクニックには驚くべきものが あります。
 癡・愚かさとは、無知ではなくむしろ「悪知恵」の別名ではないかと思ったりすることがあるくらいです。
 その愚かさの根源にあるのは、自分が悩まされたのだから、相手を悩ませるのは当然の権利だという思い込 みでしょう。
 その「自分が悩まされた」という感じ方には、極端な場合、「何となく虫が好かない=私の感覚に合わないの で、嫌な気分にさせられた」、だから「意地悪したくなるのは当然だ」ということまで含まれます。
 いじめが問題になる時、「いじめは、いじめられる側にもそれなりの理由がある」といった言い方が出てくるの は、そういうわけではないでしょうか。
 凡夫の中にももちろん比較的ましな凡夫、善人というほかないほどの凡夫もいますが、かなりの数の凡夫が、 どこか「自分の権利だ」くらいに思って、一見平気で人を悩ませることをするようです。
 彼らの場合、人を悩ませはするけれども、自分は平気なんだから、「煩悩」という言葉は当たらないのではな いか、という疑問が起こるかもしれません。
 それに対して、唯識は、怒り、恨み、悩ませるに際しては、「熱悩(ねつのう)」とか「暴熱(ぼうねつ)」という言 葉で表現されるような自分にとってもきわめて不愉快な感情が伴うことを指摘しています。
 もちろん、悩ませる自分と悩まされる相手との分離という思い込み・妄想を元にしているという意味でも煩悩で す。
 私は、さらにそれに現代の深層心理的な洞察を付け加えることができる、と思っています。
 確かに、人を悩ませ、人をいじめたりして平然としていたり、むしろ喜んでいるように見えるサディズム的な性 格というのはあります。
 しかし、それは意識上だけを見ればそう見えるということなのだと思います。
 考えて見ましょう。
 他者から認められ愛されることのない人生は、とても楽しいでしょうか?
 性格によっては、認められず愛されなくても全然平気、むしろ楽しいという人がいるのでしょうか?
 それは、そうではない、と私は捉えています。
 人間の本性上、認められ愛されることは普遍的で切実な欲求だと思われます。
 ただ、ありのままで認められ愛されることを、心の奥・無意識で、切望していながら同時にそんなことは不可能 なのだと絶望している人の場合、心の防衛メカニズムとして、「認められなくっても平気だ」、「愛なんて甘っちょ ろいものはいらない」、「強ければ人は嫌でもオレを認めるんだ」と言ったり行動したりしているだけなのです(精 神分析で「否認」とか「反動形成」というメカニズムです)。
 ところで、自分を悩ませる人・意地悪をする人を好きな人っていますか?
 いませんね。
 ということは、当たり前のようですが、他者を悩ませる=愛さない人は永遠に他者から愛され認められること はありえません。
 人を悩ませるということは、法則的に人から認めらず愛されないという結果をもたらし、したがって自分の無意 識のしかし切実な願望が満たされることは決してない、絶望的だということです。
 さて、絶望はもっとも深い悩みなのではないでしょうか?
 まだ痛みなどの自覚症状が出ていない、しかし実は余命わずかという病気は、痛くなくてもまちがいなく病気で す。
 それとおなじく、自覚していない絶望もまた実存哲学者キエルケゴールの言葉を借りれば「死に到る病」です。
 精神的な死に到る病は、実は悩んでいるということの自覚がない(抑圧している)としても病です。
 人を悩ませることは、悩ませているだけで自分は悩んでいないつもりの本人にとっても、そういう深く複雑な意 味で実は恐るべき心の病・煩悩なのだ、と私は考えています。






随煩悩6:嫉(しつ)――分離−比較−優劣−嫉妬の心
2006年4月14日


 随煩悩というのは、病気に譬えるともっとも表面に現われてきた症状のようなものです。
 例えば、発熱とか痛みとかだるさとか腫れとか……。
 症状の背後には病気があります。
 例えば、風邪、感染症とか、糖尿、生活習慣病とか、ガンとか……。
 これが、意識上の根本煩悩に当たると言ってもいいかもしれません。
 さらに、病気の背後には、ウィルスとか生活の乱れや体質などなどがあります。
 これが、マナ識の根本煩悩でしょうか。
 比喩はあくまで比喩ですが。
 さて、今日のテーマ「嫉妬」は(も)現代の重大テーマの一つです。
 近現代のいわゆる先進国の多くは、自由主義・資本主義の国です。
 それは、近代的なばらばらコスモロジー(という分別知)に基づいた自由競争の社会です。
 そこでは、人は個人個人として分離しており、比較しあい競争しあう存在です。
 比較しあい競争しあっていると、当然、優劣が出てきます。
 というか、競争するということそのものが、比較して優劣を決めるということですね。
 そしてもちろん、そこではいつも優越していることがいいことです(「大きいことはいいことだ」)。
 しかし、みんなが競争しているのですから、みんなが優越することは不可能です。
 優越しているといえるのは、感覚的にいえば、一つの集団の中の10%くらいのものでしょう。
 例えば「できる子」というのは、40人クラスだったら、4,5番に入っている子ですね。
 10番以内なら「まあまあできる子」といった評価でしょう。
 ……あ、私はそういう比較・相対評価がいいと言っているのではありません。
 現代日本は、自由主義競争社会であり、社会のあらゆるところで徹底的に比較・相対評価がなされていると いう事実を述べているだけです。
 それに対して、私は、この授業全体を通して、一人一人の本質的な絶対評価をしたい、つまり「いのちの意 味」を伝えたと思っているのです。
 そういう意味でいうと、現代社会を容認しているのではなく、本質的な批判をしているわけです。
 さて、それはともかく、分離意識→比較・競争→優劣→少数の優越感を感じられる人と多くの劣等感を感じて いる人が発生する、という流れが必然的であることはおわかりいただけると思います。
 さて、多少であれ劣等感を感じる人は優越していると見える人に対して、どういう感情を抱くでしょうか?
 そうです、それが「嫉妬」なのです。
 いつの時代にも比較競争はあり、優劣もあり、嫉妬もあったのですが、現代の日本はそれが極端になってい ると思われます。
 ばらばらコスモロジーに基づいた社会は、必然的に嫉妬という随煩悩を肥大化させます。
 そして嫉妬は、いうまでもなくとても嫌な苦しい感情ですね。
 社会システムそのものが優劣−嫉妬を煽るような本質を持っていますから、うっかりするとそれに巻き込まれ て誰かに嫉妬し、その結果、自分が悩むことになってしまいます。
 そういう随煩悩から回復するための薬は、他者と自己との根源的なつながりと一体性をまず頭で理解する「知 恵」です。
 つながって一つならば、比較する必要はない、どころか比較できないのです。
 だから、嫉妬する必要はない、どころか嫉妬はありえないのです。
 例えば一つの体の場合、あまりかっこうのよくない足がきれいな目に嫉妬する、なんてことは起こりませんね。
 もっと根本的に治療するためには、マナ識を浄化し、「平等性智(びょうどうしょうち)」という智慧に転換してい く必要があるのですが、それはもう少し後でお話しすることになります。

 それから、「嫉妬」には、優劣に関する嫉妬だけではなく、もう一つ愛情に関する嫉妬というのがあります。
 これも大きなテーマなので、次回、少し触れようと思います。
 今日は、これから一つの学部の初授業に出かけますので、ここまでにしておきます。






随煩悩6−2:愛情欲求と不健全な嫉妬
2006年4月15日


 精神分析的な発達心理学によれば、生まれたばかりの人間・赤ちゃんは、まったく自分と他者と世界とが融 合しているような心理状態にいるとされます。
 自他未分化であるために、これまでしばしば「覚り」と混同されてきました。
 しかし、自我以前(プレ・パーソナル)と自我以後(トランス・パーソナル)は自我状態でないというところが似て いるだけで、ほとんどまったくと言っていいほど発達段階の違うものです。
 赤ちゃんの心は、未分化な自己中心性の状態にあり、それを「ナルシシズム」といいます。
 やがて自分とお母さんが別の存在であること、自分と世界が別のものであることをしだいに学習していき、長 い成長期間を経て、ようやく「自我」を形成します。
 しかし心の奥・深層にナルシシズムの核は残り続けるといわれています。
 自我は、自分と他者・世界が分離していることを自覚しつつ、自分のナルシシズム的な傾向のある欲求と他 者・社会・世界の要求することとの間にあって、調整・適応をしていく心の機能です。
 唯識が「マナ識」と呼んでいるのは、心の奥で「ナルシシズム」という核を残しながら、実体視された「自我」が 形成された状態のことだと考えていいでしょう。

 さて、愛情に関する「嫉妬」の話です。
 私たちにはマナ識があり、したがって「我愛」という根本煩悩を抱えているため、世界と他者が、自分のため に、自分を中心に存在していてほしい、しているべきだ、しているはずだというナルシシズム的な思い込みを― ―人により程度の差はあっても――持っているようです。
 愛情でいえば、まわりの(自分にとって重要な)人は私を愛するべきだ、誰よりも私をいちばん愛するべきだ、 〔できれば〕私だけを愛するべきだ、という過剰な愛情への欲求・渇望を持ちがちです。
 しかし、親であれ、恋人であれ、伴侶であれ、友人であれ、私を中心に、私のために生きているわけではなく、 私だけを愛するというのは無理な注文です。
 もちろん関係の近い・遠いというのはあって当然ですから、私にとって重要な人ができるだけ私を愛してくれる ことを望むのは、不自然でも不当でもありません。
 〈自然な欲求〉です。
 ある程度までは、「権利」だと言ってもいいでしょう。
 しかし、「愛情を独占する権利」というのはない、と私は思うのですが、どうでしょうか?
 愛情を独占したいというのは――程度はいろいろで、許容範囲というのがあると思いますが、いきすぎると― ―〈神経症的な欲求〉になってしまいます。
 嫉妬も、特に男女の関係では、程度が軽いものであれば、安定した誠実な関係を維持するために役立つこと があります。
 論理療法では、「健全な嫉妬」と「不健全な嫉妬」を区別しています。
 軽度の「健全な嫉妬」なら、愛情関係のスパイスになったり、関係持続のサプリメントくらいにはなるでしょう。
 しかし、過剰な独占欲から生れる「不健全な嫉妬」は、体験した人は誰でも身に沁みているように、まず自分 をひどく苦しめます。
 さらに、少し冷静になってみればすぐわかるように、相手をひどく煩わせていることも確かです。
 そして、その結果、二人が幸せになるかというと、法則的に幸せにはならないようです。
 過剰な独占欲は、マナ識の我愛から生れる「貪り」つまり過剰な欲望なのです。
 そして過剰は欲望から生まれる随煩悩である「嫉妬」は、自分をも相手をも苦しめ煩わせるのですから、まぎ れもなく「煩悩」ですね。
 不健全な「嫉妬」の薬は、まず嫉妬は自分も相手も誰も幸福にはしない「煩悩」であるということへのしっかりと した理解・気づきです。
 特に論理療法的な知恵としていうと、嫉妬は、相手の愛情を得たい、さらには独占したいという欲求から生ま れるものですが、嫉妬しすぎるとうるさがられて相手の愛情を失うということへの気づきが大切です。
 得ようとしているものを失わせる感情は、まったく不合理な、損な感情です。
 嫉妬心が高まりかかったら、「私は、相手の愛情を得たいのだろうか、失いたいのだろうか。嫉妬することで、 より多く愛情を得られるのだろうか、失うのだろうか。嫉妬を激しいかたちで表現するのと、穏やかなかたちで表 現するか、あるいは今は抑えておくのと、長い目で見たら、どちらが自分の幸せ・満足につながるだろう」と考え るといいようです。
 「でも…」と言いたくなっている方、あなたは今感情を発散あるいは暴発させることと、長い目で見て幸せにな ることと、どちらが心理的に得になると思いますか? 得するのと、損するのと、どちらかお好きですか?
 ……あ、これは唯識の入門授業から唯識と論理療法の統合の話に進んでしまっていますね。
 今日は、ここまでにしましょう。






随煩悩7:慳(けん)――自分のものにこだわる心
2006年4月17日
 

 煩悩の学びをしていると、「どこまで続くこのぬかるみ」という気分がしてきて、あまりうれしくないので、まずち ょっとコーヒー・ブレイク的な話をしましょう。
 唯識の代表的な古典の一つ『摂大乗論』(漢訳からの現代語訳を私と青森公立大学の羽矢辰夫先生とでして います。『摂大乗論 現代語訳』コスモス・ライブラリー刊、星雲社発売)のいちばん初めに次のような言葉があ ります。

 この〔心の〕領域は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこ そ、生命の〔6つの〕種類(六道)があり、また涅槃を得るということもある。

 これまで見てきたように(さらにもうしばらく見ていくように)、私たち人間がほとんどみな、多様で深刻な煩悩を 抱えていることは確かです。
 しかし、随煩悩があるということは、意識に根本煩悩があるということであり、ということはマナ識があって根本 煩悩があるということであり、さらにそれはアーラヤ識があるということです。
 「この〔心の〕領域」とはアーラヤ識のことで、唯識によれば、人間はアーラヤ識を抱えているために六道という 迷いの生を輪廻するのですが、アーラヤ識があるからこそ涅槃を得る=覚ることもできる、というのです。
 ということは、ちょっと逆説的(パラドキシカル)な言い方をすれば、いろいろな煩悩を抱えているということは、 やりようによっては覚れるという潜在可能性を抱えているということでもあるのです。
 ですから、煩悩について詳しく学んでいても、落ち込む必要はありません。
 「そうか、これだけ煩悩がいっぱいだということは、覚りの可能性もいっぱいだということなんだ」と思いながら 学んでください。
 ちょっと、気休めでした。

 さて、今日のテーマは「慳(けん)」です。
 いちおう物惜しみ・けちな心ということですが、これはより深くは「自分のものにこだわる心」と訳すことができま す。
 私たちが、今自分に余っていても困っている人にあげようと思わなかったりするのは、まず人のことを自分と は分離した他人・別人と思っているからです。
 自分のものを自分の右手から左手に移すことなら、何のためらいもないでしょう。
 一体だと思っていないから、自分のものを人にあげたら自分のところから無くなると思って、けちな心が起こる のですね。
 あ、他人事みたいに言っているようですが、私も身に覚えがあるんですよ。
 それから、自分というものを実体である・あってほしいと思っているので、自分を守りたくなるんです。
 そして、実体としての物が実体としての自分を守ってくれると思うので、こだわり執着して、物惜しみをするわけ です。
 つまり、貪りという根本煩悩から物惜しみという随煩悩が発生するのです。
 その奥には、自分を実体視し過剰に自己防衛的になる心である我癡や我愛が働いています。
 しかし、過剰な自己防衛は必然的に不安を伴います。
 不安は、いうまでもなく自分を深いところで煩わせ悩ませる煩悩です。
 さらに、けちなことをしていると人から嫌われるという意味でも、物惜しみは煩悩をもたらすでしょう。
 物惜しみはすればするほど、自分を守ることができて安心になるのではなく、かえって不安が募り、人から嫌 われるだけなのですが、私たちはなかなかそのことに気づけないようです。
 安らかに、爽やかに生きたいのなら、物を自分だけで所有・保持することにこだわらず、コスモスのものをコス モスのそれぞれの部分(自他)のために、その時々にふさわしく、活かして用いる・活用する、という心がまえで いたほうがいいようです。
 「そんなことがこの私有制度を大前提にした資本主義社会の日本でできるのか? そんなことをしたら損をす るのではないか?」という反論的疑問がありそうですね。
 「私たちが、ほんとうの意味で賢ければ、不可能ではありません。そうしたほうが、深い意味で得な人生を送れ ると思います」というのが、それに対する私の答えですが、詳しい話はこの授業の範囲を超えるので、興味のあ る方はよろしければ研究所の講座などにお出かけいただいて、ご質問いただけると幸いです。






随煩悩8:誑(おう)――だますこと
2006年4月18日


 人をだますことは倫理的に悪であり、詐欺になると犯罪であることは、誰でもわかっているでしょう。
 しかし、わかっていればやらないかというとそうではありません。
 詐欺をやる人間は、それが犯罪だとわかっていてやるのです。
 なぜ、犯罪だとわかっていてやるのでしょうか?
 ここまで学んできた方には、もう明快だと思いますが、念のため簡単にコメントしておきましょう。
 それは、詐欺をやってお金などを人からだましとったら自分が儲かる、得すると思うからですね。
 そこには、人と自分が分離しており、他人が損をしても自分は損でないどころか得をするのだという考えがあ ります。
 そこにはまず分別知・無明があり、自分の利益のためなら何でもしてしまいがちな我愛の心があり、そして自 分のものをできるだけたくさん欲しいという貪りの心があります。
 特に現代人の多くは、死んだらおしまいで、地獄も極楽もありはしないと思っていますから、誰も見てなけれ ば、ばれなければ、やったもの勝ちだと思っているようです。
 お年寄りの保険金や年金を狙った詐欺、家族の気持ちを利用したオレオレ詐欺など、昔の日本ではあまり (まったくではないにしても)考えられないタイプの犯罪が増えているのは、神話的仏教が信じられなくなったこと が大きく影響しています。
 うまくだましてばれなければ、今生での報いはないし、死んだらおしまいだから来生での報いもない、と思い込 んでいるのですね。
 しかし、ほんとうにそうなのでしょうか?
 そうではありません。どんなにうまくやって隠しても、自分の心にはばれています。
 誰が知らなくても自分は知っているし、誰が見ていなくても自分の心の眼は見ています。
 そして何よりも、やったことの残存影響力つまりカルマは、自分の心の底つまりアーラヤ識に必ず溜まってい きます。ヘドロのように汚く重苦しくドロドロと。
 溜まったカルマは、魂・アーラヤ識を腐らせます。
 たとえ今は痛みが自覚されなくても、魂が腐るというのは、まさに病であり、そういう意味で煩悩であり、報いを 受けているのですね。
 最近、詐欺罪を働いて、ばれても平然としているように見える人が、ちょいちょいテレビなどで報道されます。
 あれは、ほんとうに平然としているのか、平静を装っているのか、どちらでしょう?
 どちらであるにしても、居直ったり、居丈高になったり、つっぱったりして、心の痛みを無理やり抑圧しているの だ、と私は解釈しています。
 無理やり抑圧するというのは、余分な心のエネルギーを浪費して、まったく苦労な話です。
 同じ有限の人生なのだから、軽やかに爽やかに、心豊かに生きるほうが、はるかに得なのになあ、得をする つもりで最高に損な選択をしているよなあ、まったく愚かだなあ、と思ってしまいます。






随煩悩9:諂(てん)――こびへつらう心
2006年4月19日


 実のところ、これまで書いてきた何冊もの唯識の本の中でも、随煩悩についてこんなに詳しく触れたことはあ りませんでした。
 しかし今回は、なぜか詳しく書いています。
 なぜなんでしょうね?
 自分で考えてみておそらく、現代という時代がきわめて病んでいて、その病のさまざまな症状は無明・分別知 を基にして築かれてきた文明というものが最高度に発達した結果として生まれている、と捉えていることから来 ているようです。
 ここで、症状をしっかり確認し、病名も病因も明らかにして、できるだけ多くの方に治療する気になっていただ きたい、と半ば意識的、半ば無意識的な意図で、随煩悩について、かなり踏み込んだインフォームド・コンセント の手続きをしているということのようです。
 「ということのようです」と、やや無責任な言い方をしましたが、ここで「ということです」と自覚−責任をもって、 改めてみなさんにお知らせします。
 まだ20の随煩悩のうち7つしか取り上げていないので、まだ13も残っていますが、みなさん、がんばってくだ さい。
 「こんなに深刻、でもだいじょうぶ、治ります」というのが、唯識のメッセージですから。

 さて、今回は「諂(てん)」、こびへつらう心です。
 これは、人類(の文明社会)が、硬直した階層・ヒエラルキーのある社会――私は「無明のピラミッド」と呼んで います――を形成するようになって以来、おそらく1万年以上、集団の下に置かれた人間がずっと悩まされてき た煩悩です。
 自己防衛のためには、自分より強い人間にはこびへつらい、ゴマをすらないと生きていけません。
 「長いものには巻かれろ」とか「寄らば大樹の陰」ということわざもあります。
 「平等」が建前になった民主主義国日本でも、社会の現場では、へつらい、下手に出、愛想笑いをし、お世辞 やお追従を言い、上の人がどんなにまちがっていると思ってもイエス・マンになったりしなければ、生き延びられ ない(地位や収入を維持できない)ことが、信じられないくらい日常的に頻繁です。
 「諂(てん)」は、こびへつらうために真実を曲げるという意味で、詳しくは「諂曲(てんごく)」とも言われます。
 「てんごく」どころか、ほとんど地獄ですね(駄洒落です、言うまでもなく)。
 この「諂」と「」が重なると、例えば組織や上司の犯罪に関して「証拠隠滅」に協力する、あるいは少なくとも 見て見ぬふりをするということになります。
 自己防衛が行き過ぎると不当な「自己保身」になってしまいます。
 それに対して「」の心が勝つと、「内部告発」という勇気ある行為になります。
 しかし、内部告発は下手をすると「組織破壊」になり失業という結果を招きかねませんから、とてもつらいもの があります。
 大変なエネルギーのいる転職をしなければならないこともあるでしょう。
 そうした難しい個々のケースについて、ここでお話しすることはできませんが、より一般的な原則だけは言える と思います。
 人間の社会全体が分別知・無明をベースにして営まれている凡夫の娑婆世界であるかぎり、そこで生き延び るにはやむを得ない妥協、許容範囲の「自己防衛」はあっていいけれども、これ以上はまずい行き過ぎた「自己 保身」という段階になったらできるだけ止めたほうがいい、ということです。
 正当あるいは許容範囲の「自己防衛」と過剰で卑怯な「自己保身」は実際の場面では限りなくグラデーションで すから、境目の見極めはかなり難しいとは思いますが、原則だけでもしっかり掴んでいれば、決断のヒントにな るのではないかと思います。
 それからまちがえていけないのは、役割に限定された上下関係というのはどんな理想的な平等社会でも必要 なものであり、そういう場合に上の人に「従う」ということは、当然のことであって、「諂」・へつらい・随煩悩ではあ りません。
 言葉で区別すれば、「従順」はいいことで、「追従(ついしょう)」はあまりいいことではない、と言えばいくらかわ かりやすいでしょうか。
 ともかく、こびへつらいというつまらない悩みはしたくない、しなくても生きていける世の中にしたい、と思います ね。

 改めて、「4つの大きな願い」を思い出します。

 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。
 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。
 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。
 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。






随煩悩10:害(がい)――能動的・積極的に人を否定する心
2006年4月20日


 もう1つの随煩悩、「害(がい)」は、善の「不害」とちょうど逆の心の働きです。
 人は人にさまざまなかたちで害を加えたいと思うことがあり、また実際害を加えます。
 いじめや暴力や殺人から戦争まで程度には大きな幅がありますが、そこには人が人を否定する――しかも能 動的・積極的に――心があるという点に関してはまったく同質です。
 では、なぜ人は人を否定するのでしょうか?
 個々のケースには実にさまざまで複雑な事情がありますが、基本はまったく同じであることは、ここまで唯識を 学んできたみなさんには、よくおわかりのことと思います。
 非常に大切なことなので、改めて復習してみましょう。
 害を加えたいという気持ちは、他の随煩悩、怒り恨み悩ませることともつながっています。
 そして、その背後には、意識上の根本煩悩のほとんどが関わっています。
 まず、人と自分が分離しているという思い込み、一体性へのまったくの無知、愚かさ・「」がベースです。
 そして、自分の都合の悪いことがあればいつでも腹を立てる可能性としての「」の心がありますから、ちょっ としたきっかけさえあれば、すぐに怒り、悩ませ、害を加えようという気持ちが起こります。
 自分の利益へ過剰に執着する「」の心がありますから、ちょっとでも自分の利益が害されたら、徹底的に害 し返してやるという気持ちになりがちです。
 また他と自分を比較して自分のほうが上だと思いたい「」の心がありますから、プライドを傷つけられた、面 子をつぶされた、バカにされたなどなどと、腹を立て、プライドを傷つけられたのだから、こちらには傷つけ返す 権利があると思ったりするわけです。
 まちがった思い込みの「悪見」のうち、特に特定のものの見方への執着である「見取見」と特定の戒律、禁止 事項、モラルなどへのこだわりである「戒禁取見」があるので、自分の意見・思想や倫理感に合わない人には、 「許せない」、「そういう考え方をするべきではない」、「そういう考えをする人間は存在しないでほしい」から始ま って、「存在するべきではない」、「存在させないようにしたい」、「存在させないようにする」という完全否定・殺意 にまで到ります。
 その奥には、自分(たち)と他者がつながって一体のコスモスであることへの根源的無知・我癡、それどころか 自分(たち)が実体であるという思い込み・我見、そして自分(たち)こそがすべての依りどころだという思い・ 、そういう自分たちがいちばん大切で可愛いという執着・我愛という、4つのマナ識の根本煩悩がまぎれもなく 働いています。
 マナ識を抱えた人間は、我愛の延長・拡大として自分(たち)に都合のいい人を愛することはできるのですが、 都合の悪い人は、どうしても否定したくなるのです。
 そして、すべての人が自分(たち)の都合のいいようになるということはありえませんから、いつまでたっても害 し合うこと・争いは絶えません。
 マナ識を抱えた人類が、歴史始まって以来、あるいは歴史以前から、こちらは自分たち、あちらは自分たちで はないグループというふうに分かれて、傷つけ合い、戦争をしてきたのは、そういう意味では当然であり、止むを 得ない――これは「止められない」という意味ですね――ことであり、どうしようもないことかもしれません。
 仏教、とりわけ唯識を学んで、私は幼い頃からの、「人間はなぜ戦争をするのか? なぜやめられないの か?」という切実な疑問への、実に明快な答えを得たという感じがしました。
 「人間はマナ識があるから戦争をする。マナ識があるかぎり戦争はやめられない」と。
 平和条約を結んでも、平和運動をしても、国際連盟を作っても、国際連合を作っても……マナ識があるかぎ り、永続的な平和はやってこないでしょう。とても残念ですが。
 が、しかし、です。
 マナ識が浄化できるのなら、永続的平和は可能です。
 少なくとも、そのための心理的条件は調います(他にもちろん政治的、経済的、文化・社会的などなどの条件 も必要ですが)。
 そして、唯識は、「やりようによっては、マナ識は浄化できる」と言っているのですから、本気で平和を望むのな ら、頭から信じる必要はありませんが、まずなぜそう言うのか、話を聞いてみるだけの価値はあると思うので す。
 「日本は今のところそこそこ平和だから、そんなめんどくさいことなんか、いいや」とタカをくくったり、「世界全体 の永続的平和なんて、不可能だ」とあきらめたりする前に、永続的な平和を可能にする心の条件について、で きるだけたくさんの方に考えていただきたい、というのがこのブログ授業の大きな目的の1つです。






随煩悩11:おごり高ぶり――にせものの過剰な自信
2006年4月21日


 自他が分離していると思うと自他の比較が起こります。
 比較した場合、もちろん自分のほうが上だと思いたいに決まっています。
 そういう比較して上だと思いたいという基本的な気持ち(慢)があると、日々実際にもそういう感情が起こりま す。
 それが随煩悩の1つ、「?(きょう)」です。
 現代風に言えば「優越感」ですね。
 優越感が硬直すると「傲慢」になります。
 客観的な根拠もないのに優越感に浸っているのは「自惚れ」と言います。
 客観的根拠はあるけれども自分のことしか認めないのを「ナルシシズム」というのでしたね。
 そうしたにせものの過剰な自信は、状況によって崩れがちであること、実は心の奥に不安を秘めていること、 中長期には人に嫌われていくこと、したがって揺らいでしまうこと、揺らいでしまうような自信は「本当の自信」と はいえないということ、などについては、かつてかなりていねいにお話ししたとおりです。
 しかし、「いい気になる」という言葉が的確に表現しているとおり、おごり高ぶっている最中は本人の意識上に は確かに快感があるのですから――身に覚えがあります――人間はなかなか複雑で厄介です。
 煩悩が「煩悩」つまり煩わせ悩ませるものであるということは、当面の当人の意識のことだけを見るとなかなか 納得できません。
 まわりの人との関係の中での、長い期間の、無意識の領域まで見た時の、本当の心の安らかさや満足という 物差しで計った時初めて、ごく当たり前に見え、「それでいいじゃないか」とか「しかたないじゃないか」と思えてい た人間の感情が、実は煩悩であり、心の病であることがはっきりするのですね。
 煩悩がやがて「死に到る病」である深刻な慢性病にも譬えられるものでありながら、長い歴史の中で、人類社 会全体での治療の取り組みがなされてこなかったのには、そういう症状の自覚が出にくいという理由があった のだろう、と私は推測しています。
 しかし、もうそろそろ本格的に治療に取り組まないと、人類全体が末期症状を呈しつつありますから、手遅れ になるのではないかと思います。
 手遅れになる前に、自覚して、みんなで治療に取り組んだほうがいいんじゃないでしょうか。






随煩悩12:無慚(むざん)、無愧(むき)――反省しない心
2006年4月22日


 無慚と無愧は、善の心である慚と愧のちょうど逆の心です。
 復習しておくと、慚は自ら振り返って反省する心、愧は他に照らして反省する心でした。
 自我も含めすべては絶えずダイナミックに変化している存在ですが、マナ識は変わることのない実体としての 自我があると思い込んでいます(我見)。
 そのために、心理学用語でいう「アイデンティティ」というのはいったん出来上がってしまうときわめて変わりに くいのです。
 出来上がったアイデンティティのパターンつまりパーソナリティが自分そのものだと思い、それを依りどころに し、頼り、誇りにし(我慢)、それに執着してしまいます(我愛)。
 そういうマナ識にコントロールされた意識は、どうしても自分にこだわってしまう強い傾向を持っています。
 こだわることにはもちろん、「自分はこういう人間だ」、「自分はこれでいい」、「自分を変える必要はない」、「自 分を変えたくない」と思うことが含まれています。
 つまり、人間は、事実としてよくてもよくなくても――「よい」には倫理的な善、社会的に適応している、幸福であ るという3つの意味が含まれると思いますが――「自分はこれでいい」、「なぜ自分を変える必要があるんだ」と 思いたくなる生き物だということです。
 そのため、自分で自分の姿を振り返って、「今の自分のあり方や行動はよくない」と反省するのが難しいので す。
 こちらから見ると、明らかに倫理的に悪い、あるいは社会的に不適応である、あるいは本人自身不幸であると いうパーソナリティのパターンを持っている人が、それでも変わりたがらないというのは、よくある現象ですね。
 特に不幸な自分のパターンにしがみついている人を見ると、不思議なような気もします。
 それから、社会の常識やエチケットやモラルに照らして、「愧じるべき言動をしたな」と反省するのは、自分を 否定することのように思えて、いい気持ちではありませんから、認めたくなくなるのです。
 しかし、事実は自我もまた無常であり、変化するもので、しかも、いい方向にも悪い方向にも変化する可能性 があります。
 今までの自分の行動・カルマが今の自分を作っており、今からのカルマが次の自分を作っていきます。
 よいカルマは新しいよりよい自分を、悪いカルマは新しいより悪い自分を作るのです。
 「自分」というものが変化するものであることを自覚し、その変化の善し悪しをきめるのは自分のカルマだとい うことに気づけば、反省しやすくなるでしょう。
 これまでのカルマの集積としての自分がいろいろな意味で悪い(倫理的に悪、社会的に不適応、不幸)と自覚 しても、「自分はダメだ」と実体的に決めつける必要はないのです。
 自分も無常、ダメも無常ですから、変化しうるのです。
 これまでがダメだったと自覚したら、これからダメでない方へと方向転換をし、変化すればいいし、できるので す。
 反省は、いい方向へ転換・変化するためのスタートです。
 反省できないと、自分のためにも他者のためにもならないよくない(悪、不適応、不幸な)生き方を続けるほか ありません。
 そういう意味で、無慚・無愧は、自分にとっても周りの人にとってもまちがいなく煩悩だと思います。
 無慚・無愧という心の病の薬は、単純明快、慚・愧です。
 慚愧・反省という薬は、時にはちょっと苦いこともありますが、確実にこれからの自分をよりよくできる、回復さ せてくれるのですから、飲んだほうが身のためですね。

 念のため、後ろ向きに「ああしなければよかったのに」とただ後悔することと、いったん後ろを振り返ってからも う一度前向きになって「あれはよくなかった。ああいうことはやめよう。これからはこうしよう」と反省するのは全 然別のことです。
 反省は役に立つのでできるだけしましょう。後悔は役に立たないのでやめたほうがいいと思います。
 「反省すれども、後悔せず」というのは、私のモットーの1つです。






随煩悩13:のぼせたり落ち込んだり動揺する心
2006年4月23日


 掉挙(じょうこ)・のぼせと?沈(こんじん)・落ち込みは対になった随煩悩です。
 私たちは、自分に都合よくいっている時には、周りが不幸かどうか関係なく、のぼせていい気になり、ルンルン してしまいます。
 自分に都合が悪いことがあると、自分だけが世界でいちばん不幸なような気がしてきて、落ち込んでしまいま す。
 どちらにしても「自分」の都合が原因です。
 その場合、落ち込みが煩悩であることは、誰にでも納得できるでしょう。
 落ち込みが、「軽うつ」、「うつ」という状態にまでなってしまえば、言うまでもなく「心の病」で、深刻な煩悩です。
(補足的コメントですが、うつは「心」の病だと言っても、脳生理の面も大きく、今では非常にいい薬が出来ていま すので、治療としては、薬物療法と心理療法を併用するやり方がいいようです。大野裕『うつを治す』PHP新 書、参照)
 そして、人によって程度の差や、どちらが多めかという違いはありますが、たいてい誰でも、日々、のぼせと落 ち込みの感情の間を行ったり来たり、動揺しているのではないでしょうか。
 感情の大きな浮き沈みが煩悩であるということも、納得できるでしょう。
 のぼせっぱなし、いい気になりっぱなしということができるのなら、のぼせは、人迷惑ではあっても、自分にとっ ては煩悩ではないように思えるかもしれませんが、そういう幸福な――あるいはおめでたい――人はごく少ない のではないでしょうか(皆無ではないとしても)。
 ここでは、例外的なハッピーな人のことは置いておきます。
 私たちが、自分(の都合)を中心にして生きているかぎり、人生には落ち込む種はいっぱいありますし(四苦八 )、時々はいいことがあるにしても、のぼせと落ち込みの浮き沈みは避けられません。
 もちろん適度な上下なら人生の味わいですが、過剰な浮き沈みは煩悩です。
 落ち込みや過剰な浮き沈みという感情に悩まされている人の薬は、知恵から生れる「平静さ」です。
 この「平静さ」というのは、心理学的に言えば、退屈で平坦な無感情・無感動のことではなく、適度でゆるやか な上下のリズムのある、ややハイ気味の、爽やかな状態が持続していることだと思います。
 そういう平静さを得る方法としては、論理療法、コスモス・セラピー、それからもちろん唯識と坐禅などをお勧 めします。
 いずれも、私の主宰するサングラハ教育・心理研究所で随時講座を開いています。






随煩悩14:不誠実、怠惰、好き勝手な心
2006年4月26日


 随煩悩は、まだ6種類もあります。
 しかし、次の3種類は、それほど詳しく説明する必要はないと思いますので、まとめてお話しておきます。

 とりあえず「不誠実」と訳した「不信(ふしん)」は、善の心である「信」のちょうど反対です。
 これは、仏教という宗教団体に入信しないとか、ゴータマ・ブッダや特定の宗祖などを崇拝しないとか、仏教の 教義を信奉しないということではありません。
 そうではなく、マナ識にコントロールされているため、どうしても自分を中心にし、自分の都合や偏見でものを 見、事実・真実を素直に認めようとはせず、それに真剣に直面しないという意味で不真面目で、直面しないから 当然誠実に実行することもない、という心のことです。
 もちろんその結果として、「縁起」という事実を認めず、自分が自分だけで生きているような気になり、「縁起」 の教えという意味での仏教を聞いても信じないということも起こるわけですが。
 (そういう場合、大事なのはまず事実であって、教えは事実を指し示しているかぎりにおいて信じられるべきで す。)
 事実に反する考え方や生き方をすると、当然ながら、いろいろ事実からのしっぺ返しがあります。
 何よりも人生を真直ぐに気持ちよく生きていくことができませんから、不信はもちろん煩悩です。

 さらに、自分だけが可愛いと、当然、なるべく自分に楽をさせたくなります。
 自分が楽をすることで、人に苦労や迷惑をかけていても、「知っちゃあいない、関係ない」と思ってしまうので す。
 本当は関係・つながりがあり、だから責任があるにもかかわらず、勝手にサボるのです。
 それが怠惰の心、「懈怠(けだい)」です。
 しかも、今の自分を実体視していて、自分も無常であり変化せざるを得ないことが計算に入っていませんか ら、今の自分に楽をさせることで、未来の自分にツケが回ってくることも計算に入っていないのです。
 繰り返しですが、自我・私もまた無常で変化するもので、いい言動・カルマはいい変化をもたらし、悪い言動・ カルマは悪い変化をもたらすのです。
 周りに迷惑をかけ、自分にもやがて悪い結果をもたらすのですから、懈怠も煩悩というほかありませんね。
 そして、だから、特別覚ろうとはしていなくても、賢く中長期の自分の幸せを考えただけでも勤勉・精進は身の ためだということがわかります。

 次の好き勝手にする心、「放逸(ほういつ)」も基本的には同じことです。
 目先の自分の好き勝手にすることは、もちろんまわりの人に迷惑をかけることが多く、やがて関わりの中にあ る自分に悪い結果をもたらします。
 好き勝手にしていると当座はいい気分かもしれませんが、やがて人から嫌われ、遠ざけられ、黙殺されるよう になり、さらには排除され、ひどいと抹殺さえされかねません。
 だから、放逸は煩悩なのです。
 これは、自分と人との好きにすることをうまく調和させて、お互いの好きにすることがお互いのためになるとい う生き方をするのとはまるで違うことです。
 自分だけの好き勝手ではなく、お互いの、みんなの好きにすることと自分の好きにすることをみごとに調和さ せて生きられるようになることを、心理学では「自己実現」といいます。
 仏教でいう「自利利他円満」とほとんど同じことですね。
 (自分(だけ)の好きに生きること、いわゆる「ゴーイング・マイ・ウェイ」が「自己実現」だと誤解している人があ まりにも多いので、唯識とは別に今「自己実現の心理学」という講座を行なっています。)

 さて、以上、不誠実、怠惰、好き勝手な心が、マナ識に潜む4つの根本煩悩から発生していることはもう十分 おわかりになると思います。
 自分の心を見つめて、しっかり自己診断をし、それから治療に取りかかりましょう。
 一歩ずつ、インフォームド・コンセントは続いていきます。
 辛抱強くお付き合いください。






随煩悩15:失念(しつねん)――物忘れ・気づきを失った心
2006年4月27日


 「すべてはつながって一つ」ということは、しっかり学ぶと誰でもわかり、納得できる事実だと思います。
 しかし、そのことを学んだ人がほとんど誰でも(私も)体験するのは、学んだその時はわかったような気がして も、ふだんはみごとなほどすっかり忘れているということです。
 そのことにいつも気づいている、いつもその事実が意識にあるという人はめったにいません(いたら、その人こ そ覚った人=ブッダなのです)。
 いちおう「物忘れ」と訳しましたが、「失念(しつねん)」というのは正確に言うと、縁起・空という事実が念頭から すっかり去っている心の状態のことです。
 念頭・意識に浮かぶのは妄想・雑念ばかりという状態は、それは間違っているという意味でも、当然悩むこと にもなるという意味でも、煩悩です。
 より具体的な実例としては、ぜひご自分の日常を思い出してみてください
 何か悩みにはまりこんでいるとします。
 その時には、100%、法則的にといっていいくらい、縁起・空ということ、あるいは自分とコスモスが一体だとい うことを忘れているのではないでしょうか。
 自分がコスモスと一体であり、悩みの種・問題もコスモスの中での出来事だということが、しっかり意識にある と、悩むにしてもまいってしまうほど過剰に悩んだりはしません。
 10円玉を眼に近づけたり遠ざけたりするワークの時のように、悩み、というより問題を大きなスケールの視野 の中に置きなおして見ると、それほど大げさに捉えるほどのことではないと思えてきます。
 すると、冷静になることができ、「どうしたらこの問題を解決できるだろう」と考えることができるようになるはず です。
 しかし、その「はず」がなかなかはずにならないので困ります。
 そして、はずにならないのは、肝腎な時に思い出せないからですね。
 いつでも意識にあるとまでいかなくても、必要な時・肝腎な時にはちゃんと思い出せるようになるには、しっかり と記憶しておく――受動的な記憶ではなく、能動的な記憶として――つまりアーラヤ識に熏習しておく必要があ ります。
 縁起・空の理法を忘れているのが「失念」、それに気づいているのを「正念(しょうねん)」といいます。
 正念を持続したいですね。






随煩悩16:散乱(さんらん)――気が散っていること
2006年4月28日


 他人事のように話しているように感じられるかもしれませんが、20の随煩悩は私も全部身に覚えのあることな んです。
 今回の「散乱」もまた大いにあって、反省です。
 これは、狭い意味では、坐禅中に集中できなくて、心が静かにならないことです。
 実際にしてみるとよくわかるように、私たちの心はあれこれといろいろなことへ関心をもっていて、なかなか集 中できません。
 その「関心」は、基本的に自分にとって損得、好悪などどちらの関わりがあるかを気にするという心です。
 自分を中心にして分別するマナ識に支配されていることは、この場合もはっきりしていますね。
 さらに広い意味でいうと、どちらでもいいこと、どうでもいいこと、あまりよくないこと等々に、いろいろ関心・興 味があって、人生の優先事項に集中できないことも含まれるでしょう。
 いわゆる「気が多い」というやつですね。
 気が多い人(私も)は、無常ということ、人生の貸し与えられた時間は有限であるということの自覚が足りない のです。
 人生に、あれもこれも面白そうなことを全部つまみ食いしていられるほど時間がたっぷりあるかのような錯覚 を抱いているのです。
 まあ、青春には時間が無限にあるような錯覚がありがちで、それは青春の特権でもあるので、あまり目くじら を立てるつもりはありません。
 親鸞聖人のような宗教的天才なら、幼い時にすでに次のような歌を作って、思い立ったその夜にでも出家する のでしょうが。

 明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは

なかなかここまでの切実な無常観をもつことは、ふつうの人間には困難です。
 しかしそれにしても、膨大な時間を浪費し相当な年齢になった後で、「ああしておけばよかった」と後悔しない ためには、早めに散乱・気が多すぎるという煩悩を反省−克服しておく必要があることはまちがいありません。

 なお、「気が多い」ことと「関心が広い」ことは一見似ていますが、実りがあるかどうかということで区別はできま す。
 広い関心は持ったほうがいいですね。
 ムダなことに気を散らすのはやめましょう(←これも自戒です)。



 ところで、「日本を緑の福祉国家にしたい」シンポジウムの件、今日夕方からさっきまで小澤徳太郎先生としっ かり話し込み、本格的な合意ができました。
 彼も本気です。
 私も本気です。
 みなさんも本気でしょう?
 なので、面白いことになりそうです。






随煩悩17:不正知(ふしょうち)――ありのままを知らないこと
2006年4月30日


 随煩悩のリストのいちばん最後にあげられているは「不正知(ふしょうち)」です。
 善の心が「信・誠実さ」で始まって「不害・傷つけないこと」で終わることに意味が読み取れたように、随煩悩の 心が「忿・怒り」で始まって「不正知・正しいことを知らないこと」に終わることにもただ羅列しただけではない意味 があるように思えます。
 つまり、日常的な煩悩のいちばん決定的・最終的なものは、世界と自分のありのまま(如)の姿を知らないこと だというのです。
 これまでも見てきたように、人間は自分を中心にものを見ますから、自分のものの見方を正しいと信じ込む強 い傾向があります。
 そうしないと確信をもって迷うことなくしっかりと生きていくことができないからです。
 自分の考え方や生き方が正しいかどうか自信をもてなくて迷っているという状態は、とても苦しいものです。
 人間が、自信をもって安心して生きるためには安定したアイデンティティやアイデンティティを支えるコスモロジ ーを必要とするということ自体は善でも悪でもありません。
 しかし、マナ識に我癡・我見という根本煩悩があるために、意識の基本に癡と悪見という根本煩悩が発生し、 意識の表面には不正知という随煩悩が現象するのです。
 多かれ少なかれ、自分(たち)が自分だけで自分だけのために生きているかのように、いつまでも生きられる かのように、自分の大切な面は変わらないかのように思いがちな傾向のある人がほとんどでしょう。
 しかし、もともと一体であるコスモスが分化して統合されたままつながり合っていて、ダイナミックに変化・進化 しながら、その時どきに、それぞれの姿を現わしては消え、消えては現われているというのが、ありのままの世 界の姿なのでしたね。
 しかし、そういう正しいことを知らず、正しくないことは山ほど知っている(分別知)というのがふつうの人間の基 本的姿なのです。
 それによって形成されるアイデンティティは自己中心的で硬直したものになりがちであり、そこにあるコスモロ ジーはばらばらコスモロジー的な傾向の強いものになります。
 そこからさまざまな正しくない行為・カルマも生まれてきます。
 ですから、逆にいえば、縁起の理法、つながり・かさなりコスモロジーを学ぶことによって、たとえ意識の表面 からであっても、不正知が癒され無癡へと変化していき、それがマナ識を一定程度浄化しながらアーラヤ識に 蓄えられていき、それが十分に蓄えられていくとまたマナ識を浄化しながら意識に上るという好循環が始まるの です。
 そのためには気を散らさず集中すること、忘れないようによく記憶すること、好き勝手なことをしたりサボったり していないで努力すること、過剰な自己防衛をせず素直な心になること、舞い上がったり落ち込んだりしていな いで静かな心になること……などがなどのことが必要です。
 これからいよいよ、「では、どうすればいいか」、煩悩の浄化のメカニズムと方法と段階について学んでいきま すが、ここまででも、唯識ドクターの診断の綿密さと正確さを感じていただけたのではないかと思います。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所