目次
2007年11月09日








善の心1:信――まごころや真面目さこそ新しい
2006年03月09日





 ふつうの人間の心は、煩悩でいっぱいです。
 唯識では、マナ識の4つの根本煩悩から意識には6つの根本煩悩が生まれる、とされています。
(どちらも「根本煩悩」と呼ばれているのでまぎらわしいですね。確かにそれぞれ根本的ではありますが、できれ ば用語の使い分けをしておいてくれるとよかったんですが。)
 そこからさらに20もの随煩悩(ずいぼんのう)が派生する、といいます。
 この煩悩の話はとても聞きづらい部分で、かつてここを聞いてすっかり憂鬱になってしまわれた方もありまし た。
 ここだけで終わりなら、まちがいなく憂鬱、どころか絶望しそうなほど、深刻でしかも正確な人間洞察がなされ ています。
 しかし、人間の意識には善なる心も働く――こともある――のです。
 唯識は、そこのところも公平に見ています。
 善の心の第1にあげられているのは、「信(しん)」です。
 これは、従来、仏教の内外で誤解されてきたような、「イワシの頭も信心から」ということわざのような何かをた とえウソでも「信じ込む」という意味ではないようです。
 「信」とは、自分の都合や偏見を離れて、真実なことは真実、偽りは偽りとして、素直に認める、そして真実で あると認めたらそれを信頼する、さらに真実なことを誠実に実行していく、といったことを意味しています。
 そこで、私は現代語訳としてはいちおう「まごころ」と訳していますが、それでも不十分です。
 理性、心情、意思のすべての面で、誠実に真実なものに直面するということですから、「真面目さ」と訳すことも できるかもしれません。
 ばらばらコスモロジーという錯覚のおかげでニヒリズム−エゴイズム−快楽主義に陥っている現代日本の文 化状況の中で、もっとも流行らなかった「真面目さ」こそ、善なる心のもっとも最初にあげられているものなので す。
 ここで、確信をもって予告してもいいと思いますが、日本が滅びるのでなければ、これから真面目が流行する はずです。
 私たちは、コスモスのほんとうの姿が無限のつながりとかさなりで成り立っていることを知ると、私たちは真面 目になり、まごころをもって、誠実に生きるほかなくなるからです。
 斜めにかまえて、「オレは何も信じない」などとうそぶいているのがカッコよさそうに見えたのは、もう古いので す。
 もちろん、やみくもに信じ込むのはそれよりもっと古かったわけですが、本当の意味での「信」は、これからもっ とも新しい、美しい心のスタイルとして認められるようになるでしょう。






善の心2:慚(ざん)――自分を省みる心
2006年03月10日





 唯識では、善の心の働きとして、信を含め11種類をあげています。
 まごころ(信)、内的反省(慚・ざん)、対他的反省(愧・き)、貪らない(無貪・むとん)、憤らない(無瞋・むしん)、 愚かでないこと(無癡・むち)、努力(精進)、爽やかさ(軽安・きょうあん)、怠けないこと(不放逸・ふほういつ)、 平静さ(行捨・ぎょうしゃ)、傷つけないこと(不害)、です。
 覚っていなくても、人間はこうした善の心を起こすことができます。
 信の次には、内的反省、つまり自分の考え、生き方、行動が自ら省みて良心に反するところはないかと反省 する心があげられています。
 とても残念なことに、こういう心を持つことはここのところあまり流行っていないようですね。
 しかし、「誰も見ていなければ、ばれないからかまわない」という考え方は、決定的に人間というものが自意識 的・自己反省的な存在であることを見落としていると思います。
 悪いことをしたら、たとえ他の誰が見ていなくても自分自身が見ている、知っているのです。
 悪いことをしておきながら、「自分は立派な人間だ」という誇りをほんとうは持つことができません。
 もちろん、自分で自分をだます、ごまかすこともできるのが人間ですが、しかし心の深いところでは、自分をご まかしていることを知っているのも人間です。
 ごまかして誇りを持つ――というよりは傲慢になる――ことはできますが、心の奥底から自分に自信(自己信 頼)を持つことはできないのです。
 自分で自分をだましておいて、「オレを信頼してくれ」といっても、それは無理な相談というものでしょう。
 さらに、そういう考え方は、あらゆる行為は実はカルマであって、いやおうなしにアーラヤ識に影響力・潜在的 な記憶を残していくことに気づいていません。
 悪業はアーラヤ識に溜まり、溜まった悪の種子は心の奥底を腐敗させていきます。
 心の奥底が腐敗してしまうと、まさに心の底から爽やかにいい気持ちで生きていくことができなくなるのです。
 そういう意味で、ただ法律的や倫理的に正しい・いい行動をするためだけではなく、ほんとうに自分をいいと思 う=肯定するためにも、心の底からいい気持ちで生きるためにも、内的反省(慚)は不可欠です。

*写真は、世田谷の紅梅、もうどうにもこうにも「春!」という感じですね。






善の心3:愧(き)――恥を知る心
2006年03月11日





 一昔前は、政・官・財界で不祥事を起こした人間がよく「慙愧の念に堪えません」といったものです。
 あまり心からそう思っているようには見えませんでしたが。
 最近は、いろいろ言い訳をする人が多くなり、ただのセリフとしてさえも「慙愧の念…」という言葉はあまり聞か れないようです。
 この「慙愧」は、慙(=慚)と愧から成っていて、慚は内的反省、愧は対他的反省つまり他・社会に対して恥を 知る心のことです。
 自ら省み、他に照らして、どう考えてもよくないことをしてしまった、どうして予め考えなかったのだろう、どうして やってしまったのだろう、という気づきで、居ても立ってもいられないほどの気持ち・念です、というのが「慙愧の 念…」という言葉の意味です。
 人間は、生まれる時から死ぬ時まで他とのつながりなしには存在できません。
 ですから、他とのいい関係なしにはいい自分になれないのです。
 幼い頃は、そういういい関係を作ることは親任せ、大人任せ、他人(ひと)任せでいいのですが、しだいに自分 のほうからいい関係を作っていけるよう努力をする必要があります。
 それが、大人になるということです。
 ですから、大人になっていくということは、自分がいい関係を作っているか、むしろ悪い関係にしてしまうような 行為をしているか、反省する心が育っていくことでもあります。
 他からしてもらったことへの感謝、他への思いやりを忘れてはいないか、他から見られて恥ずかしいことをして しまった、それどころか他に迷惑をかけてしまったのではないかという反省、そうした他に照らして自らを省みる 心は、人間が成長するための必須条件です。
 自分自身がいい人生を送るためにも、「愧」、恥を知る心はぜひ必要な善の心だといってまちがいないでしょ う。
 ……とお説教している私自身、そういう意味でどのくらい大人になれているかなと反省せざるをえません(赤 面)。
 しかし、まちがえていけないのは、慚は自己非難の心ではないということです。
 成長のために、自ら省み、他に照らして、「私はまだまだだな、もっと成長したい、もっと修行しよう」と反省する 心なのです。
 今私たちがどんなに未熟でも、コスモスは私たちに驚くほどの成長可能性・潜在力を預けてくれています。
 自己非難に陥ることなく、慚と愧の心を忘れることなく、成長を続けていきたいものです。

*写真は、公園に咲いていたサンシュユという珍しい花、実が漢方薬になるようです。






善の心4:無貪(むとん)――過剰な欲望のない心
2006年03月12日





 仏教では、貪り(貪・とん)、怒り(瞋・しん)、愚かさ(癡・ち)を「三毒(さんどく)」と呼び、煩悩の代表的なものと しています。
 そういうものが無い状態、無貪(むとん)、無瞋(むしん)、無癡(むち)が善の心です。
 貪らない、憤らない、愚かでないことが善だというのは、誰でも納得できそうなことです。
 しかし、それが、欲望は何もないとか、何をされても腹を立てないとか、知らないことは何もないという意味だと したら、すごくご立派だけど実際にはほとんど誰にもできそうにない話です。
 私の考えでは、無貪、無瞋、無癡というコンセプトは、そういう実行できそうもない理想を述べているのではな いと思います。
 仏教を現代の私たちにとって活きた意味のあるものにするには、ここは決定的に重要なポイントだと思うの で、1つ1つ見ていきます。
 まず貪−無貪について考えていきましょう。
 貪りというのは、過剰で異常な欲望のことであって、自然で適度な欲求とは区別する必要があります。
 例えばいちばんわかりやすいのは「食欲」です。
 確かに、食べすぎは病気を誘発する元で体によくありませんし、過食症となるとそれはもう病気です。
 しかし、いくら「無欲」がいいといっても、食欲がまったく無くなったら、人間は死んでしまいます。
 自然で適度な食欲は、健康に生きていくためには不可欠なのです。
 言葉にこだわると、「無欲」というのはむしろ「少欲」というか、それでも不正確だと思うので、より正確な新しい 言葉を造って「適欲」つまり適度な欲求とでも言い換えたほうがいいのではないか、と私は思っています。
 もう一つ、例えば性欲はもっとも誤解されてきたものだと思います。
 多くの宗教で、まるで性的な禁欲そのものが善であるかのように考えられてきました。
 確かにマナ識に汚染されがちな性欲は、他者の人格を無視した自己中心的な過剰で異常な快楽追求に走り がちです。
 そういう現象があまりにも多いので、性そのものの否定・禁欲がいいこと・清らかなことだと誤解されがちだっ たというのは、理解できないことはありません。
 しかし、よく考えると、すべての人が清らかになって性的に禁欲しさらには無欲になってしまったら、男女が性 的に交わり、子孫をもうけ、いのちをつないでいくという営みの動機がなくなってしまい、人類は絶滅するでしょ う。
 適度で正常な性欲は、男と女が愛し合うというすばらしい体験のベースになっているエネルギーです。
 しかも、いのちをつないでいく原動力です。
 性はコスモスのすばらしい創発の一つだ、といってもいいでしょう。
 それを否定するのは、いのちを生み出しつないでいくというコスモスそのものの営みを人間の倫理で否定する という大変な傲慢だ、と私は考えています。
 その他、悪いことの典型のように考えられがちな、財産欲、名誉欲、地位欲なども、適度で正常な範囲であれ ば、健全で活力ある社会生活には必要なものです。
 そういうわけで私は、過度で異常な「欲望」と適度で正常な「欲求」というふうに言葉を区別して使うことにして います。
 無貪とは、まさに貪り=過度で異常な欲望がないことで、適度で正常な欲求もなくなることではない、と理解す るといいのではないでしょうか。
 貪りから解放され、適度で正常な欲求を原動力として、自他の幸福を追求しながら生き生きと生きていくという のは、もちろん善です。

*写真は、雨に濡れた白い沈丁花






善の心5:無瞋(むしん)――過剰に怒ることのない心
2006年03月13日





 瞋はいちおう「怒り」、無瞋は「怒らないこと」と訳すことができます。
 しかし怒らないことが善だというと、「まちがったことを見ても怒らないでいいのか」とか、「正当な自己防衛のた めの怒りもいけないのか」といった疑問が出てきます。
 そこのところがはっきりしなかったために、無瞋・憤らないことなんて、すごく修行のできたえらいお坊さんや人 格者か、さもなければバカみたいに人のいい人にしかできないことのように思われてきました。
 確かにそういう面もありますが、それだけではありません。
 瞋・憤りが煩悩だとされるのは、心の奥の根本煩悩から発生するものだからです。
 私たちは、腹を立てる場合たいてい、自分は絶対に正しい、相手が絶対にまちがっている、と思って腹を立て ています。
 その場合、さらに私と相手は完全に分離した別の存在だと思い込んだ上で、対立していると思い込んでいま す。
 実体的な自分に対して実体的な他人が実体的な悪いことをしたと思い込んでいるからこそ、腹を立てるわけ です。
 ここで、「そんなこといわれたって……誰だってそうでしょう」と反発したくなるかもしれませんし、その気持ちは 私もよくわかります。実感としては、そうですよね。
 しかしここまで学んできてくださったみなさんなら、「実体がある」という思い込みこそ妄想中の大妄想であるこ とを、頭ではわかっていただいているのではないでしょうか。
 ここが大きな分かれ目です。素人の自分の実感を信じるか、唯識という心の専門家の診断を信じるか。
 「誰だってそうでしょう」、そのとおりです、凡夫なら誰だってそんなものです。
 しかし、ほんとうはすべての存在はつながって一つ、なのでした。
 私に悪いことをした相手は、実は私とつながった、広い意味での私でもあります。
 といっても、相手と自分の区別ははっきりあります。
 しかも、相手も自分もダイナミックに変化していく無常の存在です。
 そしてどういうふうに変化していくかは、どんなカルマ・業・行為をするか、その残存影響力によって決まってき ます。
 そのことがわかると、相手と自分とを実体視し、絶対に分離し対立しているという思い込みの上で憤る、激怒 するのとはちがう心が生まれてくるのではないでしょうか。
 もちろん、「絶対に許せない。殺してやる!」といった過剰な怒りはなくなるでしょう。
 自己絶対視した正義感から生まれる怒りほど、危険なものはありません。
 しかし、悪いカルマはまわりに悪影響を及ぼすだけでなく、当人にもやがて必ず悪い影響をもたらします(因果 の理法)。
 仏教を学び、修行しても、悪いカルマは悪いと判断し、それを止めようとする気持ちという意味での「義憤」は なくなりません。むしろ強くなるといってもいいでしょう。
 そのことを表現しているのが、不動明王など怒りの形相をした仏さまの存在です。
 「無瞋」とは、「何があっても、何をされても、腹を立てない」という意味ではなく、マナ識的な自己絶対視から発 生する、必要以上、過剰、異常な怒りがないことという意味だ、と私は解釈することにしています。

*写真は満開の白梅






善の心6:無癡(むち)――ダルマを理解する心
2006年03月14日 


 唯識によれば、人間の心は、まずアーラヤ識に前世からも今生でも蓄えられた分別の種子から実体としての 自分がいると思い込むマナ識が発生し、それらにコントロールされて意識と五感が働くというメカニズムになって います。
 そういう意味では、アーラヤ識からマナ識、意識、五感に到るまで、すべて分別知・無明の働きをしてしまうの です。
 ところが、きわめて幸いなことに、人間の意識は、運よくよい師に出会うことができて教えられれば、コスモス の理法・ダルマを理解することができるようにできています。
 別の言葉でいえば、それが人間の理性の可能性なのです。
 縁起−空について、分別知で理解しても、それはほんとうの覚りとはいえませんが、それにしてももう理屈の 上ではすべてが実体であるという錯覚はなくなります。
 ですから、「智慧」ではなく「愚かでない・無癡」と呼ばれるわけです。
 先にお話したように、人間の心の底・アーラヤ識に善や覚りの種子を蓄えることができることが、人間の覚り・ 救いの根拠なのですが、それに加えて意識が学び次第では愚かでなくなることができるということも、もう一つの 決定的な希望の根拠だといっていいでしょう。
 ネット学生のみなさんは、今、分別知だけ・無明の状態から、意識の上での無癡に到達しつつあります。
 医療の譬えでいうと、インフォームド・コンセントのインフォーム(情報提供)のところで、「そうか、私はやっぱり 病気なんだ。でも、治るんだ。治したい」と思い始めた段階といったところでしょう。
 ぜひ、意識的な学びをやり遂げて、さらに次のステップ――無意識の浄化のための実践――に進んでくださ い。

 ところで、この「無癡」は順序として11の善なる心の働きのちょうど真ん中にあります。
 これは、単なる偶然なのでしょうか、それとも「無癡」が善なる心の中軸・要(かなめ)になるものだという意味も 含まれているのでしょうか。
 私は、後者だと解釈しています。
 理性・理論でしっかりと理解することが、善からさらに覚りへと心の成長を進めていく上できわめて重要なポイ ントなのです。
 ぜひ、「何となくわかったつもり」でとどまらず、「しっかりわかった」から「ちゃんと説明できる」という段階まで、 繰り返し学んでください。






善の心7:精進――有限の人生を生きる心構え
2006年03月15日 





 今日は(今日も)忙しく働きました(まだ働いています)。
 サングラハの事務、問い合わせへの返事、締め切り間近かの次の原稿のための調べ物、鰍ヘせがわのミー ティング、何通ものメールへの返事……そしてブログの記事、と。
 別に自分だけが大変だといいたいわけではありません。
 生きることは誰にとっても一大事、大変なことだと思います。
 もっともっと大変な方はたくさんおられるに決まっています。
 ただ、振り返って、自分としてはいちおう努力・精進の一日だったと評定できるかな、と自己満足しているという 話です。
 コスモスから預けられた人生の時間は、嫌でも好きでも有限です。
 そのことを自覚すると、精一杯できることをして生きようと思わざるをえないのです。
 しかも、幸いにして自分と他者との幸福を追求することは矛盾することではない、どころか、賢く振舞えば調和 できることだと学んでいますから、誰に頼まれたわけでも強制されたわけでもなく、好きで努力しているだけで す。
 「それがどうした?」といわれそうですが……。
 自利利他のために努力・精進(しょうじん)すると、いい気持ちになれます。
 そして、「ために」のつもりが予想外のことになって失敗することもありますが、まあうまく行けば、自他の「ため になる」こと、つまりいいこと・善も行なえるでしょう。
 つまらないこと、ろくでもないこと、悪いことのために努力するということだってありますが、そういうのはもちろ ん「精進」とはいいません。
 これはとてもシンプルに納得できることだと思いますが、有限の人生、精進することはいいことです。
 人生は有限だという自覚のある方、ぜひ、精進しましょう。
 といっても、無理は禁物です。
 必要な休憩は精進の一部だと思います。
 私も、これからお風呂に入ってリラックスします。
 では、読者のみなさん、おやすみなさい。

* 写真はエリカ、かわいい花です。






善の心8:軽安(きょうあん)――爽やかに生きる心
2006年03月17日





 重く荒れた不安な心は煩悩であり、軽やかで安らかな心(軽安・きょうあん)が善である、というのはとてもわか りやすい話です。
 そのわかりやすい話が、毎日の自分の心の実情かというと、なかなかそうはいっていませんが。
 しかし、私たちは時々、爽やかな気分になれることがあります。
 個人的な話をすると、爽やかに生きたいというのが私の人生の重要なテーマの一つです。
 (身近な方にはよくお話しているとおり、もう一つ最大のテーマは、人から見てではなく自ら省みて美しい―― もっとポップにいえば「かっこいい」――と思えるように生きたいということなのですが)。
 ドロドロして荒んで、重苦しく不安でいっぱいの人生ドラマが好きな――ように見える――方もしばしばおられ るので、これは善悪というのではなく、趣味の問題にすぎないようにも思えます。
 しかし、そうなのでしょうか?
 コスモスに創発が起こると、エネルギーの特定部分への偏重・過重が全体へと広がってバランスがとれ、新し い、軽やかで安定した構造・秩序が生まれるようです。
 心についても基本的なかたちは同じなのではないでしょうか。
 軽やかで安らかな心は、コスモスの創発的な秩序の心における現われだと考えられます。
 ですから逆にいえば、どんなささやかに見えることでもいいから、何かコスモスの秩序、というか新しい秩序を 生み出すコスモスの創発的な進化に沿った心のあり方や行動をした時、心は爽やかになる、ということだと思わ れます。
 爽やかに生きたかったら、世界を自分の思いどおりにしようとせず、自分の思いを世界・コスモスの思い・方 向性どおりに修正しましょう、と自戒も含めて、私はみなさんによくお話します。
 これは、個人の問題だけでなく、社会全体の問題としてもいえることだと思います。
 みんなが爽やかに安心して生きることのできる世界(「緑の福祉国家」?)を創るには、世界を人間の都合に 合わせるのではなく、世界・自然・コスモスの秩序に人間社会のかたちを沿わせることです。
 「軽安」が善であるというのは、単なる趣味の問題ではない、と思います。






善の心9:不放逸(ふほういつ)――怠らない心
2006年03月20日


 善の心の9番目は、「不放逸(ふほういつ)」です。
 一語で元の意味を表現できる適当な訳語が思い当たらなかったのでとりあえず「怠らない心」としました。
 「放逸」とは、勝手気ままに遊びふけったり怠けたりしてやるべきことをやらないというふうな意味で、「不放逸」 はそういうことをしないということです。
 私たちのマナ識にはしっかりと我慢と我愛があるため、自分が楽なこと、自分が楽しいこと、自分が気持ちが いいこと……を自分の思いどおり、好き勝手、自分勝手にするのが人生の意味だと思い込んでしまう強い傾向 があります。
 しかもその楽さ、楽しさ、気持ちのよさも、ごく目先でしか考えられない人が多いのが問題です。
 目先の楽、楽しみ、快楽の追求という原因は、しばしばやがてとても苦痛な結果を生み出したりするもので す。
 長い目で見て、ほんとうに楽で、楽しくて、気持ちのいい人生を送りたいのなら、必要な時に必要なことをする ことから逃げないほうが身の為・ほんとうの意味での自分の得なのです。
 「そんなの、なんかめんどくさいな」と感じる方、めんどくさがって、さぼって、やがて後で嫌な目に遭うのが好き なんですか? それが「得」だと思われますか?
 めんどくさくてもめんどくさくなくても、今やっておいたほうがいいことをやることが、長期的視点からすれば、確 実に自分の得でもあると思いますが、どうでしょう?
 そして縁起の理法・つながりという法則性から成り立っているコスモスでは、自分の利益と他者の利益はつな がって一つなのですから、長い目で見れば、自分のためも人のためもありません。
 長い目で見て自分と人に利益をもたらすことのために、今やるべきことをさぼらないでやること、つまり不放逸 ということは、こうしてちゃんと考えると自他のために善であることはまちがいありません。
 唯識と論理療法のおかげで、私はさぼり癖がかなりよくなりました(まだ完璧ではありませんが)。
 そしてその結果、中長期、自分も人も得になるようなライフ・スタイルがかなり確立できてきて、いい気分で暮 らせるようになっています。
 ……という私の経験からも、「不放逸」はお勧めのいいこと・善だと思います。






善の心10:行捨(ぎょうしゃ)――静かな心
2006年03月21日


 過剰に興奮するのでもなく、ひどく落ち込んでしまうのでもない、平静な心は善です。
 心の静けさには独特の快さがあります。
 過剰な興奮のように刺激的で中毒性のある快感ではありませんが。
 唯識仏教では、心の病を癒すためには、ダルマ・世界のありのままの真理を覚ることが必須だと考えています から、ありのままが見えなくなるような心の状態は煩悩に分類され、ありのままが見えやすくなる心が善であると されるのは当然です。
 私たちは興奮状態や落ち込み状態にあると、物事を自分のその時の気分で曲げて見てしまいがちです。
 どうしても、主観的になってしまうのです。
 世界をありのままにではなく、自分の主観、その時の気分で見てしまうと、事実に合わないすばらしいところに 思えたり(躁状態)、同じく事実に合わないひどいところに思えたりします(鬱状態)。
 現代では、どちらかというとひどいところに思えることが多いようですが。
 それに対して、自分の都合や気分をいったん脇に置いて平静な心で見ると、世界のありのままの姿が見えや すくなります。
 ありのままの世界はつながり(縁起)、一体(一如)の世界です。
 つながって一つである世界は、ふつうの意味での善悪、幸不幸、損得、創造‐破壊といった2項対立を超えて いて、けれどもやはり素晴らしい美しい世界です。
 そういう美しい世界が見えてきた時、私たちの心には静かで深い喜びと感動が湧いてきます。
 過剰な興奮に慣らされた現代人が誤解するのとちがって、平静な心・行捨(ぎょうしゃ)は退屈なものではなく、 静かな喜びに満ちた心なのです。

 補足として論理療法的なコメントをしておくと、過度で不健全な興奮がいけないのであって、適度で健全な興奮 は人生に必要なものだ、と私は考えています。
 鬱状態や躁状態、あるいは躁鬱の波というのはどれも不健全であり、基本は平静な心、時々適度な興奮、と いうのがいちばん好ましい心の状態であることは、実感すれば誰にでも納得できることなのではないでしょう か。






善の心11:不害(ふがい)――他者を傷つけることのない心
2006年03月23日 


 信に始まった善の心のリストは、不害(ふがい)で終わります。
 「不害」と訳されたサンスクリット語の原語は「アヒムサー」です。
 これは、マハトマ(偉大な魂)と呼ばれたインド独立の父ガンディーのモットーでもありました。
 「非暴力」と訳されたので、残念ながら仏教用語との対応がほとんど知られていません。
 ガンディーにおける「非暴力」が、ただ悪に対するひ弱で無力な無抵抗のことではまったくなく、イギリスの植民 地政策という悪に対する燃えるような「非暴力・積極的抵抗」であったのと同様、本来の仏教における不害も表 現は控えめに「傷つけないこと」となっていますが、きわめて積極的・能動的なものであるはずだと思います。
 「何にもしなければ、傷つけない−傷つかない」というひ弱な自己防衛の姿勢は、実は社会全体の中でたくさ んの人が傷ついている・傷ついていくことを放置・黙認することであり、広い視野から見ればむしろ「傷つけるこ と」に手を貸していることになります。
 「傷つけないこと」という控えめな表現がされてはいても、本来の精神は「積極的・能動的に癒しや和らぎをも たらすこと」という意味を含んでいます。
 それはまさに「善」というほかありません。
 しかし、マナ識のために自分にこだわりがちな私たち人間は、ともすると「癒しや和らぎ、いいこと〔だと私が思 うこと〕」を押し付けてかえって傷つけてしまうことがあります。
 人の役に立ちたいと思った時も、まず一歩引いて自分のマナ識をよく洞察し(道元禅師のいう「退歩の工 夫」)、ほんとうに相手にとって癒しや和らぎ、援助になるのかどうかを考え、いいことをしてあげられないまで も、せめて傷つけることはないように心がけて行動したほうがいいでしょう。
 私たちはしばしば表情、言葉、態度、行動で人を傷つけてしまうものだからです。
 そういうことがなくなっているというだけでも、人間としてはかなりすばらしいところに行っているといえるのでは ないでしょうか。
 他のまごころから平静さまでの善の心が十分に身についてはじめて、日々人を傷つけない言動ができるよう になり、さらには人のお役に立つことができるようになるのだと思います。
 善の心が信に始まり不害に終わるのは、ただ何となく羅列しているのではなく、そういう意味もあるのではない か、と私は解釈しています。
 11種類の善の心を意識的に起こし、それに基づいて行動する(カルマ!)ように心がけている(意識)と、それ らが徐々にマナ識を浄化しながら種子としてアーラヤ識に溜まっていき、また芽生える時にもマナ識を浄化しな がら意識にのぼってきます。
 そういう善なる心のカルマの好循環が持続されていくと、私たちはほんとうの意味での善人・いい人に少しず つなっていくことができるようです。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所