目次


 日本人が正当なアイデンティティを再確立する・自信を持つためには、日本の伝統的な精神性の中核にある 仏教を理解する必要がある、と私は考えています。
 仏教の核心にあるのは、近・現代人にはもはや信じられないような神話的コスモロジーではなく、むしろ近代 の限界を超えるためにぜひ必要な「つながりコスモロジー」だ、と私は解釈しています。
 以下の目次に従って、ぜひ、自分たちの国のすばらしい精神的な遺産について理解を深めてください。
 *現時点では、目次は整備中、まだ途中までしかできていません。鋭意、整備していきます。
 
アイデンティティ確立のための上り坂
さあ出発です
仏教の6つの側面
 
若者には縁起がわかる
 
智慧・覚りと慈悲
ゴータマ・ブッダ略伝 1 
ゴータマ・ブッダ略伝 2
縁起の理法 1
縁起の理法 2
縁起の解釈について
4つの聖なる真理 1
4つの聖なる真理 2
4つの聖なる真理 3
4つの聖なる真理4
真理の3つの印:三法印
すべて形あるものは変化する:諸行無常
無常だからこそまた花が咲く
この世界には実体は存在しない:諸法無我
過剰な執着を離れれば心は爽やか:涅槃寂静
仏教:楽しく生きるための理論と方法
 
部派仏教
部派仏教のコンセプト






   アイデンティティ確立のための上り坂  (2005年12月3日) 





 「思考の経済」ということばがあります。
 つまり、私たちがものを考える時にも、なるべくエネルギー消費を少なくしよう・安くあげよう・負担を軽くしようと いう「経済法則」が働くという意味です。
 すでに決まり切っている・当たり前と思っていることを、改めて考え直すとか、そのために学び直すというの は、心理的な作業としてはけっこう負担です。
 なるべくなら、そういうことはしないで、「そんなことは決まり切っている」と信じて(つまり思い込んで)、従来の パターンどおりやっているほうが楽なのですね。
 特に世界観・人生観・価値観の体系的なセットであるコスモロジーは、一定の社会の中には必ず「そんなこと 当たり前」というかたちで、半ば以上無意識的な社会の通念・常識としてあるものです。
 社会全体がうまく機能している間は、それに乗っかって自動的に動いているほうが明らかに楽です。
 戦後の日本社会は、戦前の伝統的コスモロジーが社会の建前として否定され、近代的な科学合理主義と個 人主義的な民主主義のコスモロジーが建前になりました。
 そして、そのベースには自由主義・資本主義経済という制度があります。
 しかし、この授業の最初のほうでお話ししたとおり、そういう戦後日本の建前がしだいにうまく機能しなくなって きており、若い世代ほど、ニヒリズム−エゴイズム−快楽主義という、コスモロジーとしてはきわめて具合が悪く (なにしろつきつめると死にたくなるんですから)、コスモロジーというよりコスモロジーの崩壊と呼びたくなるよう な価値観に陥りつつあると思われます。*
 若い世代ほどといいましたが、もう定年間際の年齢層まで戦後教育で育った世代ですから、これは若者だけ の話ではありません。
 ここのところ(も)、政治・経済の中堅やトップの責任ある立場の人々の信じられないようなごまかし行為の事 件がいくつも報道されています。
 新聞・テレビ情報の範囲での判断ですが、彼らの心にはどう見ても、「悪いことをしたって、別に死んで地獄に いくわけじゃなし、お天道さまが見てるわけでもなし、ばれなきゃ平気だ。生きている間、悪いことをしてでも儲け て、豪遊でも何でも好き勝手に自分のしたいことをしなきゃ損だ」という考えが巡っていたとしか考えられませ ん。
 彼らの心からは社会のルールを守らなければならない理由がなくなっていたのです。
 そうでなくて、どうしてそういうことができるのでしょう?
 頻発する事件の背後には、コスモロジーの崩壊という深刻な社会心理の状況があると考えるほかありませ ん。
 この公開授業は、そうしたコスモロジーの機能低下、あるいは崩壊という状況に対して、一方ではもっとも新し い科学のコスモロジーと、もう一方では伝統的なコスモロジーのプラスの面の見直しをすることによって、戦後日 本の常識的なコスモロジーを「含んで超える」ことを目指す試みです。
 これは「思考の経済法則」にはあまり合わない、楽でも軽くもない作業です。
 ですから、もしかすると、ブログという「軽い」コミュニケーション・ツールには向かない話なのかもしれません。
 しかし、マスコミ、思想ジャーナリズム、アカデミズムの大多数が、そういう根本的問題に気づいていない―― ように私には見える――状況下で、心ある国民(あえて「市民」という近代主義的な言い方を避けます)に、1個 人でも広く問いかけができる媒体としては、可能性をもっている、と考えています。
 本気で、「この社会を何とかしなければならない」、「社会をよくしたい」と願っている方には、楽でも軽くもない かもしれませんが、ぜひ参加していただきたいと願っています。
 そして何よりも、口コミならぬブログコミをぜひ展開していただけると幸いです。
 これから授業は、特定宗教としてではなく日本の精神的伝統の中核としての仏教の話に差し掛かります。
 実際の学生でも、ここからが「難しい」といって脱落者が増えてくる段階です。
 しかし、これは「越えなければならない坂」です。
 ……と、ちょっと脅しが入りましたが、仏教がわかると日本の伝統のすばらしさがわかり、日本の伝統のすば らしさがわかると日本人である自分に正当な誇りが持てるようになる=アイデンティティが確立できる=自信が つく、という仕掛けになっています。
 ですから、苦しい上り坂の後で展望が開けた時の登山の喜びに似た、充実という意味での楽しさは十分味わ っていただけるはずです。
 心の準備体操をしていただいて、よかったら、どうぞ最後までついて来てください。
 
*写真は東大寺大仏殿






   さあ出発です (2005年12月4日)  





 みなさんは、「仏教」という言葉を聞いたら、何あるいはどういうことを連想するでしょう?
 まず、ノートなどを出して、思いつくことをできるだけたくさん書き出してみてください。
 


 例えば、お葬式、法事、お墓、お位牌、仏壇、お線香、死、地獄−極楽、輪廻……といったことでしょうか。
 あるいは、お札、お守り、お賽銭、お参り、縁起かつぎ、おみくじ、占い、おまじない・加持祈祷、おかげ(ご利 益)や祟り……といったことかもしれません。
  「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とか「南無大師遍照金剛」といった言葉の場合もあるでしょう。
  あるいは、奈良、京都などにある仏像やお寺やその庭などを思い浮かべるかもしれませんね。
  縁起とか無常とか無我、あるいは空などの仏教思想に関する言葉を連想される方もいるでしょう。
  どれもみな「仏教」に関係することにはちがいありませんが、それぞれがどんな意味をもっているか、特にそ れらが全体としてどういうふうにつながっているか、聞かれたらどのくらい説明できそうですか?
  だいたい説明できそうだという方は、日本の精神的な伝統をちゃんと受け継いでいるといっていいでしょう。
  ほとんど説明できない方は、失礼ながら日本の精神的な伝統をほとんど見失っているということになると思い ます。
  これは、白か黒ではなく、いろいろグラデーション、バリエーションがあると思いますが、10から0までのスケ ールで、自己採点してみてください。
  10に近い方、さらに深めていきましょう。
  0に近い方、さあ出発です。
 
*写真は大津の天台真盛宗大本山西教寺の石仏です。衆宝王菩薩といい、「7種の宝を集めるようにす べての善行を宝として集める」菩薩だそうです。






   仏教の6つの側面 (2005年12月5日)





 ここで、ちょっと復習を。
 人間は言葉を使って生きる動物です。
 言葉なしには文化的な生活はまったく成り立たないでしょう。
 言葉によって、世界とは何か、社会とは何か、私とは何か、だから何をすべきか、何をしてはいけないか、何 をしていいかといったことをはっきりと分かっていないと、ちゃんと生きていくことができません。
 (ただしあまりにも当たり前になっていると、改めて言葉にしろと言われてもできにくいということがあります が。)
 そういう言葉によって語られる体系的な世界観・人生観・価値観のセットを「コスモロジー」というのでしたね。
「コスモロジー」は、ギリシャ語の「コスモス(世界)」+「ロゴス(秩序・言葉)」から来ています。
 さて、仏教も一つのコスモロジーです。
 しかも、「仏教」と呼ばれる文化現象は、複合的なコスモロジーだと考えられます。
 前回あげた事項のうち、2番目のシリーズは、宗教学では「呪術」と呼ばれるようなものです。
 ですから、こうした仏教の営みは、「呪術的仏教」と呼ぶことができるでしょう。
 加持祈祷が中心になっていますから、「祈祷仏教」と呼ぶ学者もいます。
 1番目のシリーズの特に輪廻、地獄−極楽という話は、「神話」に分類されます。
 「仏教神話」あるいは「神話的仏教」です。
 実際の仏教の営みとしては、葬式や法事が中心ですから、「葬式仏教」と呼ばれることもあります。
 しかし、「葬式仏教」という言い方には、かなり否定的なニュアンスがありますので、私としてはむしろ「先祖・ 祖霊崇拝仏教」あるいは「供養仏教」と呼びたいと思います。
これは日本人にとって、とても本質的で大切なものだ、と私は考えています。
 3番目のシリーズは、各宗派の唱える言葉で、こうした仏教を「宗派仏教」と呼んでおきましょう。
 4番目は、「文化的仏教」あるいは「仏教文化」あるいは「観光仏教」と呼べるでしょう。
 5番目は、「哲学的仏教」あるいは「仏教哲学」と呼ぶことができます。
 そして、私の理解では、仏教のもっとも核にあるものは、「覚り・智慧」と「慈悲」ですが、それを「霊性的仏教」 と呼びたいと思います。
 日本の伝統的な仏教は、こうした6つの側面に、さらに神道と儒教と道教などが習合した、非常に複合 的なコスモロジーだと考えられます。
 そして、かつての日本人の平均的な心理的発達のレベルが呪術と神話の段階にあったために、文化現象とし ての仏教の主な部分はほとんど呪術・祈祷仏教と神話・供養仏教のかたちで営まれてきました。
 その担い手が「宗派仏教」だったのです。
 しかし、近代になって、仏教の前近代性(呪術性、神話性)が否定されるようになり、その担い手である宗派仏 教はしだいに力を失いつつあるようです。
 近代人にとって、いまだにそれなりに魅力があるのは、観光の対象であるような仏教文化と、教養の対象であ り学べば理性的に納得できる仏教哲学・哲学的仏教でしょう。
 そして、「霊性的仏教」こそ仏教の核心である――と私は考えていますが――ことを、はっきりとつかんでいる 人は、残念ながら必ずしも多くないように見えます。
 この授業では、哲学的仏教の考え方を学びながら、霊性的仏教こそ仏教の核心であること、しかしそこがしっ かりと押さえられていれば、現代でも他の側面が意味を持ちうること、この2点について述べていきたいと考え ています。
 まず、次回から、原点である釈尊、ゴータマ・ブッダの教えのポイントについてなるべくわかりやすくお話しした いと思っています。

*写真は西教寺の阿弥陀如来






   若者には縁起がわかる (2005年12月6日)





 大学では、すでに先週で仏教‐唯識の話が終わり、今日はまとめの「現代科学と宗教の調和」という話をしまし た。
 一人の学生がこういう感想を書いてくれました。

 「これまでの授業を受けてきて、世界観がかなり前より広がったように感じます。
 まず一番印象的だったのは、世界はまさに縁起・つながりの世界であって、すべての物が支え合い世界 ができていること。
 こういったことを論理的に考えることで、自分が生きているこの世界の全てのものがより身近に感じら れ、生きていくことが前思っていたより大変前向きに感じられるようになりました。
 …壮大な世界のちっぽけな自分という感覚から、壮大な世界の構成員の自分という考え方に変われた ことがなによりもよかったことです。」

 ここまでの授業で、すでにこういった感じを掴んで下さった方もおられるでしょうが、これからの仏教の授業で、 いっそう深めていただけると思います。
  「壮大な世界の―不可欠な―構成員である自分」という認識と実感を掴めるはずです。
  ご期待下さい。






   智慧・覚りと慈悲 (2005年12月7日)





 さて、これから仏教の創始者であるゴータマ・ブッダのことをお話ししていきます。
 いろいろお話しする前に、まず最初にご紹介したいのは、次のようなブッダの言葉です。

 生きとし生けるもののすべてが安楽で、平穏で、幸福でありますように。いかなる生命、生物でも、動物 であれ、植物であれ、長いものも、大きなものも、中くらいなものも、短いものも、微細なものも、少し大き なものも、また今ここにいて目に見えるものも、見えないものも、遠くにいるものも、近くにいるものも、す でに生まれたものも、これから生まれるものも、一切の生きとし生けるものが幸福でありますように。
 (『スッタニパータ』「慈悲経」145〜147)

 結論から先に言うと、仏教のエッセンスは智慧・覚りと慈悲にあると思います。
 そして、智慧・覚りは慈悲を生み出すものであり、慈悲は智慧・覚りに裏付けられたものである、という切って も切れない関係にあります。
 覚りといっても、それによって「生きとし生けるものすべてが安楽で、平穏で、幸福でありますように」という慈 悲の想いが自然に湧いてくるのでなければ、ほんとうの覚りとはいえないでしょう。
 慈悲といっても、こだわりや無理のある、悪い意味での人間的な愛情・愛着では必ず問題が起こりますから、 覚りに裏付けられていなければほんものになりません。
 前々回あげたようないろいろ多様にある「仏教」という文化・宗教現象は、つまるところ、慈悲と覚りにつながる かどうかで、どのくらい時代を超えた普遍的な価値があるかを量ることができる、と私は考えています。
 なるべくそこに焦点を絞って、話を進めていきたいと思います。






   ゴータマ・ブッダ略伝 1 (2005年12月8日)





 すでによくご存知の方も多いでしょうが、ごく簡単に伝記的なことをお話しておきます。 
 仏教の創始者ゴータマ・ブッダ(仏、仏陀、Buddha)は、紀元前463〜383年頃の人だと考えられています (他にもいろいろな説があるようですが)。
 ネパールの釈迦族の国王・浄飯王(シュッドダーナ)の長男として生まれ、俗姓をゴータマ・シッダッタといいま す。
 国の中心はカピラ城といって、中部ネパールの南のタラーイ盆地にあり、誕生地はその郊外のルンビニー園 だったといわれています。
 日本でふつう「お釈迦さま」とか「釈尊」といわれるのは、釈迦族出身の聖者という意味です。「釈迦牟尼(しゃ かむに)」という場合の、「牟尼」が「聖者」に当たります。
 生後まもなく母のマヤ夫人が亡くなり、叔母に育てられました。
 若いころから、人生にはなぜ、病気や老いや死という苦しみがあるのだろうという深い疑問があって、王家の 長男という恵まれた立場に安住していることできませんでした。
 しかし、王族の義務として跡継ぎの子をもうける必要がありますから、16歳で妃を迎え、ラーフラという男の子 も生まれました。
 しかし、どうしても悩みを解決しないではいられなくなり、29歳で親も妻子も財産も立場もみんな捨てて修行者 になりました。
 ふつうの家庭・社会の生活から出ていくという意味で「出家」といわれます。
 (それに対してふつうの家庭・社会生活をする人を「在家」といいますね。)
 そして、ほとんど死にそこなうところまでいろいろ苦行を重ねたり、あちらこちらいろいろな師を尋ね歩いたりし たのですが、いまひとつ満足できませんでした。
 最後にアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の仙人について禅定を修行し、どちらからも 後継者になることを期待されるほどの境地に達したにもかかわらず、自分ではそれでは納得できなかったとい います。
 そこで山林に籠って6年間、瘠せさらばえて肋骨が見えるくらいまで苦行に苦行を重ねたのですが、それでも 自分で納得できる覚りを得られませんでした。
 こうした常識的な安定した生活に安住しないだけでなく、既存の宗教的な方法についても、ぎりぎりまで実践し 師から認められるまでになっても、自分で納得できるまではどんなに苦しくても安住しないという姿勢が、「覚り」 という大きな飛躍をもたらしたのだといっていいでしょう。

   *写真は釈迦苦行像:神奈川新聞のWEB記事より






   ゴータマ・ブッダ略伝 2 (2005年12月8日) 





 とことん実践してみた結果、結局、そうした苦行では覚れないと判断したゴータマは、再度、徹底的な禅定を試 みる決心をします。
 そして、苦行で汚れた体を河で洗い、ちょうど通りかかった村の少女スジャータの捧げるミルク粥を飲んで体 力を回復しました。
 それから、ただひとりネーランジャラー河(尼蓮禅河、ガンジス河中流南岸)のほとりの菩提樹の下に坐り、 「覚るまではけっしてこの座を立たない」と決死の覚悟で、静かに禅定・瞑想・思索を始めます。
 そして長い禅定の果てについに覚り(成道)、覚った者になったとされています。
 後に固有名詞のようになった「仏陀(Buddha)」 とは、もともとは一般名詞の「覚りを開いた人」という意味で す。
 前428年、35歳のことだとされています。
 日本では、12月8日――ちょうど今日ですね――のこととされており、お寺では「成道会(じょうどうえ)」という 法要があり、特に禅の道場ではこの時期、「臘八摂心(ろうはつせっしん)」という集中的な修行が行なわれま す。
 ブッダが覚りを開いた場所は「ブッダガヤー」と呼ばれ、今日に到るまで仏教の重要な聖地になっています。
 覚りを開いた後、彼は自分の覚ったことがあまりにも深く高くてとても人には理解できないのではないかと考 え、教えることをためらったのですが、ヒンドゥー教の最高神ブラフマナー(梵天)に3度も強く請われ、あえて教 える決心をした、という伝説があります。
 その後、旧友の修行者5人なら、自分の達した境地を理解できるかもしれないと思い、聖地ベナレスの郊外に ある「鹿の園(鹿野園)」というところに行きます。
 かつての仲間は、苦行を捨てたゴータマを最初は無視しようとしたのですが、その姿があまりにも爽やかで輝 くようなので、思わず出迎え、教えを聞くようになり、弟子になったといわれています。
 ここで、仏教の教団が成立したわけです。
 その後、毎年雨期には一ヵ所にとどまって定住生活(雨安居・うあんご)をしましたが、それ以外の時期にはつ ねに国中を遊歴して教え続けました。
 最後には、現在のネパールの国境に近いクシナーラーというところで80歳で亡くなりました(「入滅」とか「涅槃 に入る」とかいわれます)。
 ブッダの伝記は、ちゃんと語るともっともっと長くなり、また感動的なのですが、私の任ではないので、友人の 羽矢辰夫さんの著作などにゆずることにしましょう(『ゴータマ・ブッダ』『ゴータマ・ブッダの仏教』〔どちらも春秋 社〕)。
 ブッダは何を覚り、何を教えたのか。
 次回から、これまた簡略に、私の解釈をお話していきたいと思います。

*写真はスコットランド国立博物館所蔵のガンダーラ仏






   縁起の理法 1 (2005年12月9日) 


 仏教の出発点は、いうまでもなく、ゴータマ・ブッダが覚りを開いたことにあるわけですが、何を覚ったかという と、「縁起の理法を覚った」といわれています。
 『ウダーナ』という経典には、覚った後、ブッダが語ったという三つの詩が記されています。

 「実にダンマ(サンスクリットでは「ダルマ」、法、真理)が、熱心に瞑想しつつある修行者に顕わになると き、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅する。それは、彼が縁起の理法を知っているからである。」
 「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、そのとき、彼の一切の疑惑は消滅す る。それは、彼がもろもろの縁の消滅を知ったからである。」
 「実にダンマが、熱心に瞑想しつある修行者に顕わになるとき、彼は悪魔の軍隊を粉砕して、安立して いる。あたかも太陽が虚空を照らすごとくである。」

 では、「縁起の理法」とは何かということになりますが、「縁起」には大きくいうと二つの意味があります。
 まず第一は、「すべてのものが縁・つながりによって生起している(したがって結局は一つだ)」という意味 です。「相依相関」という言葉で表現されることもあります。
 長い禅定の末、暁の明星を見たとき、ブッダは「あの星(そして宇宙)と私はつながっていて一つだ」と覚った のです。
 『サンユッタ・ニカーヤ』という原始経典には、「わたし(ブッダ)によって体得されたこのダンマは、はなはだ深く て、理解しがたく、覚りがたく、寂静であり、分別を超えて微妙であり、賢者によって知られるべきものである」と あります。
 ブッダは、深い瞑想を通じて、分別つまりすべてをばらばらに分離したものと見るものの見方を超えたとき、す べてがつながりによって生起していること・縁起の理法を覚ったのです。
 これは迷いのものの見方・無明を克服して、すべてが一体であるという宇宙のありのままの姿、つまり 「如(タタター)」あるいは「真如」・「一如」を覚った、と言い換えてもいいでしょう。
 仏教学界ではいろいろ議論があるところのようですが、私はこの縁起の第一の
意味が決定的に重要だと考えています。

*私のブッダの教えの解釈は、玉城康四郎先生の影響が大であり(例えば『仏教の根底にあるもの』講 談社学術文庫、参照)、友人の青森公立大学教授羽矢辰夫さんとはほぼ合意しているものです。






   縁起の理法 2 (2005年12月12日)


 「縁起」の第2は、「十二縁起・十二因縁」と呼ばれるものです。
 系統のちがった伝承では、ゴータマ・ブッダは、菩提樹の下で、「すべて結果があるものには原因があるはず で、その原因をたどっていくと、最初の原因にたどり着くはずだ」(「因果の法」)と考え、「なぜ、老いや死という 苦しみがあるのだろうか…それはそもそも生があるからだ…」と思索・瞑想をしていったといいます。
 そして、結果から原因へと遡って、「老死(の苦しみ)があるのは、生(しょう)があるからだ。生があるのは、有 (う)があるからだ……取(しゅ)→愛(あい)→受(じゅ)→触(そく)→六入(ろくにゅう)→名色(みょうしき)→識 (しき)→行(ぎょう)→無明(むみょう)」と瞑想・洞察していったのです。
 これを「逆観」といい、あとで整理した順を「順観」といいますが、ブッダは、逆観と順観を繰り返して洞察を深 めていかれました。
 「無明」とは、心の表面にはびこり、さらにその根っこは心の奥底に潜み澱んでいる根源的な無智(無知では なく)のことです。
 すべてのもの(者・物)を分けてばらばらに見るのです。
 そして特に自分と自分でないものを分けておいて自分にこだわり、いのちといのちでないものを分けておいて いのちにこだわります。
 そういう心は、ほとんどすべての人(凡夫)のなかでしっかりと働いており、悩みの源になっています。
 無明があると、実体(これは後でくわしく説明します)としての自分があるという妄想・構想を起こす力が働きま す。それを「行」といいます。
 続いて、そういう無明に基づいた構想力によって、「心」つまり「識」の働きが起こります。これは、「実体として の自分があると思う潜在的な心」といっていいでしょう。
 そしてそういう自分があると思う心が生じると、当然のことですが、外側に自分とは別の分離した「外界」があ るように思えてきます。それが「名色」です。
 つまり個別の「名前」に対応した分離した個別――個々別々、ばらばら――のものが「色や形」をもって存在し ているように見えてくるわけです。
 続いて、自分と外界は分離しているのだという思い込みを基にして、五つの感覚器官と意識=「六入」が働き ます。
 さらに、外界の対象と感覚器官と意識との「接触」=「触」が起こります。
 それが「感受」されることを「受」といいます。
 実体としての自分が存在するという錯覚に基づいて心と外界の接触や感受が行なわれると、外にある対象は 自分ではなくて、しかもそれなしには生きられませんから、いつも自分に足りない何かが外にあり、たえずそれ を獲得‐所有しないと生きていけないという、激しい喉の乾きのような欠乏感が生まれます。それを「愛」あるい は「渇愛(かつあい)」といいます。
 そして欠乏感・渇愛の気持で人や物に接して、少しでもいい思いをするともうそれに執着するようになってしま う。それが「取」です。
 そういう無明から取までの心の働きを基に、宇宙と一体でなく、他の人や物とつながっておらず、流れでもな い、実体としての生命=「有」が妄想・構想されます。
 そして、それを基にして誕生があり人生が営まれていきます。「生」です。
 そういう無明・妄想と執着に基づいた生き方をしているかぎり、「老い」と「死」は、いのちの自然なプロセスとし て受け容れるどころか、絶対に受け容れられない苦痛、人生の根本的な不条理と感じられることになります。
 ブッダにとって、生理的な意味での「老死」そのものではなく、心理的な「老死」への不安や恐れや不条理感こ そが問題だったと思われます。
 そうした「老死」の苦しみの原因論が第2の意味での「縁起(または因縁・因果)」であり、その苦しみを超える 体験をあえて言葉にしたのが第1の意味での「縁起」である、と私は捉えています。






   縁起の解釈について (2005年12月13日) 





 初心者の方には無用なことですが、ここですでにそうとう仏教の知識のある方のための補足として、「縁起」の 解釈についての私の考えを簡単に述べておきましょう。
 「釈尊は縁起の理法を覚った」という場合、原始仏典では量的には明らかに「十二縁起」のほうが多く出てきま す。
 そこで、「釈尊は十二縁起の洞察によって覚ったのだ」と解釈される方が多いのですが、私にいわせていただ けると、老死(の苦しみ)の原因が「無明」にあると知的に洞察したところで、それが心の奥底までの「明=覚り」 に自動的になるとは思えません。
 瞑想体験に基づいていえば、心の奥底からの「明=覚り」を体験してはじめて、「無明」がまさに「無明」だった とわかるのです。
 そして、そういう「明=覚り」の体験をした後で、分別を超えたその体験をあえて言葉で表現したのが、「すべて は分離していない。つながって一つである」という意味での「縁起」というコンセプトだ、と私には思えます。
 だからこそ、釈尊は、それが時代も国も民族も超えた普遍的な宇宙の「理法」であると主張できたのではない でしょうか。
 臨床的な視点があるとすぐわかるはずですが、「老死」の原因が「無明」だと知的にわかったところで、「老死 (への不安や恐れや不条理感)」がなくなったりはしません。
 「老死(への不安や恐れや不条理感)」がなくならないような、単なる知的洞察は「覚り」と呼ぶにはあまりに浅 いものです。
 「縁起」に関する仏教文献学における議論は、臨床的視点を導入することによって、はっきりと決着がつくので はないでしょうか。
 「老死(への不安や恐れや不条理感)」の「滅」とまでいかないまでも、少なくともそれがそうとう軽減されたと感 じるくらいの瞑想体験をすることなしに、瞑想から生み出された仏陀の思想を論じることは、一度も海を見たこと のない人や、行く道の途中にいてまだ海を見ていない人が、海のすばらしさについて知ったふうに語るのよりも もっと当てにならない話だ、と私には思われます。
 「八正道」とりわけ「正定」なしの「縁起」の解釈や議論はまったく意味をなさない、と私は考えています。
 しばしば行なわれてきたらしい仏教のさまざまなコンセプトに関する議論に参加しないのは、単に私が仏教の 専門家でないからではなく、そういうわけなのです。
 しかし最近、海を見たことのない人の「海談義」のような仏教論がかなりの影響力を持っているようで、それは 日本の精神状況にとってはかなり害のあることだという気がしてきていますので、そのうちあえて批評を始める かもしれません。






   4つの聖なる真理 1 (2005年12月15日)


 


 「縁起の理法」を覚ったブッダは、その体験に基づいて教えを展開しました。
 その教えのもっとも中心的なものとして、「ブッダは四諦(したい)八正道(はっしょうどう)を説かれた」といわれ ます。
 まず「四諦」「四聖諦(ししょうたい)」ですが、「四つの真理」「四つの聖なる真理」という意味です。
 第一は「苦しみという真理(苦諦・くたい)」、第二は「苦しみの原因という真理(苦集諦・くじゅうたい、または集 諦・じったい・じゅうたい)」、第三は「苦しみの止滅という真理(苦滅諦・くめつったい、または滅諦・めったい)」、 第四は「苦しみの止滅に到る道という真理(苦滅道諦・くめつどうたい、または道諦・どうたい)」、まとめて「苦・ 集・滅・道(くじゅうめつどう、くじゅめつどう)」といいます。
 ブッダは、無明・分別知に基づいて営まれる人生は基本的に苦であり、それには無明・分別知という原因があ り、原因がある以上、その原因をなくせばそれはなくすことができるのであり、かつそのための道・方法はある のだ、ということを説かれた、ということです。
 一般的に、ブッダは、生まれることは苦しみであり、老いることは苦しみであり、病むことは苦しみであり、死ぬ ことは苦しみである、と人生は基本的に「苦」だと教えたことになっています。まとめて「四苦(しく)」といいます。
 さらに、人生には、愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)があり、憎い人に会う苦しみ(怨憎会苦)があり、求め るものが得られない苦しみ(求不得苦)があり、存在の五要素そのものの盛んな働きが執着の元になるという 苦しみ(五蘊盛苦)があり、前の四苦と足して「八苦(はっく)」といわれます。
 しかし私の理解では、これはあくまでも「無明に基づいて営まれているかぎり」という条件がついた話だ と思われます。
 もし、ブッダの教えが「この世はひたすら苦である」といっているのならば、仏教はひじょうに暗くて悲観的で、 いまどきはやらない思想だということになりますが、「苦諦」はあくまでも出発点なのです。
 人生の苦しみをなくすために、まずしっかりと現状では苦しみがあるという事実を認める。
 それから、その原因を見つける。
 無明という原因がわかれば、それを取り除く可能性が出てくる。
 そして、その方法を学んで実行する。
 その結果、無明が明・覚りに変われば苦しみはなくなる。
 ……と、最後まできちんと話を聞けば、仏教はむしろ根源的な希望のある話なのです。
 私はいつも学生たちに、「ちゃんとわかると、仏教はすごく明るい宗教・思想なんだよ」といっています。
 最初は、「ふーん」という顔をして聞いていた学生たちは、やがて「そうなんですね。仏教ってすごく明るいもの なんですね。それがわかったら、とても好きになりました」といった感想文を書いてくれるようになります。






   4つの聖なる真理 2 (2005年12月16日)





 四諦・4つの聖なる真理の第二段階は「集諦(じったい)」です。
 譬えると、病気を直すには、はっきり自分が病気だと自覚しなければなりませんね。
 そうして診断を受けて、病気の原因がわかれば、治療の対策もできるわけです。
 そして原因をなくしてしまう根本的な治療をすれば、病気は治ります。
 医者が、診断をして病気だということを知らせるのは、病人を絶望させ暗い気分におとしいれるためではあり ません。
 治療すれば病気が治るという、希望を与えるためです。
 ブッダが「苦諦」を説いたのは、そういう治療に先立つ診断に譬えられるでしょう。
 苦しみの原因を明らかにするのが、「十二縁起」の逆観で、遡って原因を探っていくと、特に「執着(取)」→「渇 愛(愛)」→「無明」が「苦」の原因であることをブッダは解明したのです。
 このことから逆にはっきりするのは、「苦」という言葉は一般的な意味での「苦痛」とか「苦しみ」ということでは ないということです。
 私たちが何かに執着・愛着していて、それを失った時に感じるのは、単に生理的な「苦しみ」というより、それ があってはならない「不条理」だと感じるという心理的・精神的苦しみです。
 それは実際上もはっきりしていることですが、覚りをひらいた人でも例えば怪我をすれば痛みを感じますし、毒 を飲めば苦しいのです。
 覚ることによってなくなるのは、そういう生理的苦しみではなく、生まれてきたことへの不条理感、せっかく生ま れてきたのに老いたり病んだりし、結局は死ななければならないことへの不条理感という、そういう精神的な意 味での深い深い苦しみなのです。
 私は、「苦」をそういうふうに解釈した時、ブッダの教えがきわめて合理的・説得的・普遍的であることがわかっ た気がしました。
 私たちが、望んだわけでもないのに生まれたこと、望んでいないのに老いたり病んだりすること、そしていちば ん望まないことなのに死ななければならないことを、自分の「望み(という名の愛着・執着)」を離れて、ごく自然 なことと受け容れることができたら、不条理感という精神的苦痛はすっきりとなくなってしまうでしょう。
 というとここで、「愛着・執着を離れるなんてことができるんだろうか?」という疑問が生まれるでしょう。
 また、「愛着・執着がなくなってしまったら、人生が面白くないんじゃないか? 人間味がなくなるんじゃない か?」といった疑問も出てくるかもしれません。
 どうしてかについては、徐々にお話していくわけですが、結論を先にいえば、離れることはできる、離れたらか えって人生が面白くなる、人間味豊かに生きられるようになる、というのがブッダの答え(の私の解釈)です。
 一歩一歩学びを進めていきましょう。






   4つの聖なる真理 3 (2005年12月18日)





 四諦・4つの聖なる真理の第三段階は「滅諦(めったい)」です。
 人生の根本的な苦しみである不条理感の主な原因が「無明」→「渇愛(愛)」→「執着(取)」だとすれば、それ らがなくなれば不条理感という精神的苦痛もなくなるはずです。
 「無明がなければ、行はなく、行がなければ…渇愛がなければ…執着がなければ…老死〔の苦しみ〕はない」 という順観の洞察です。
 当たり前のことをいうようですが、ここでさすがブッダがすごいと思うのは、ただ「老死〔の苦しみ〕」をいやがっ ているだけでなく、一歩一歩原因追究をし、さらに原因からなくしていけば結果としての苦しみはなくなるという、 最後の最後のところまで洞察しきったところです。
 私たちがよくやるように考えている途中で、「こんなこと、むずかしくてわかりっこない」とか、「そんなこといった って、無理なんじゃないか」と立ち止まったり、挫折したりしなかったのです。
 ですから、学ぶ私たちもぜひ、「執着がなければ」と聞いたらとたんに「人間、執着をなくすことなんてできるん だろうか?」と反応して、そこで止まってしまったり、「渇愛がなければ」と聞いたらすぐ「欲があるからこそ人間ら しいんじゃないか」などと自己防衛的な反応をしたりしないで、話を最後まで聞きたいものです。
 この第三段階の話の最後は、「無明がなければ」ということです。
 不条理感に苦しむのは無明があるからで、無明がなくなれば不条理感の苦しみは無くなる、というのです。
 「そんなことできるのか?」という問いに対して、答えは「適切な方法を実行すればできる」ということです。
 否定的な言い方に替えれば、「適切な方法を実行しなければ無明はなくせない」→「渇愛はなくせない」→「執 着はなくせない」ということになりますね。
 ですから、私たちが愛着・執着から離れ不条理感から解放されて、爽やかに生き生きと生きられるかど うかは、適切な方法を実行して無明をなくすことができるかどうかにかかっているわけです。
 それが、次の第四・最終段階の「道諦(どうたい)」です。






   4つの聖なる真理 4 (2005年12月19日)





 四諦・4つの聖なる真理の第四段階は「道諦(どうたい)」です。
 「それでは、どうすれば無明をなくすことができるか?」という問いに対する答え、つまり「こうすればなくすこと ができる」という方法=道についての教えです。
 具体的には8種類あって、「八正道(はっしょうどう)」といいます。
 正見(しょうけん)=正しい見解
 正思惟(しょうしゆい)=正しい思索
 正語(しょうご)=正しいことばづかい
 正業(しょうご)=正しい行為
 正命(しょうみょう)=正しい生活
 正精進(しょうしょうじん)=正しい努力
 正念(しょうねん)=正しい思い
 正定(しょうじょう)=正しい暝想
の8つです。
 この8つきちんと実践すれば、無明はなくなる……苦しみはなくなる、というわけです。
 八正道の内容は、大乗仏教の「六波羅蜜」と重なっていますから、くわしい説明はそこでします。
 ただここで大事なポイントだけ述べておくと、しばしば誤解されるのですか、ここでいう「正しい」とは一般的な 意味の正しさではありません。
 「倫理・道徳的に正しい」とか、「正確」とかいう意味ではないのです。
 ここでの「正」とは、「縁起の理法(および次回にお話しする「無常」、「無我」という法)にかなっている」という意 味なのです。
 まず最初の「正見」とは、あらゆるものを縁起・つながったものとして見るということです。
 私たちはふつう、自分と人とを別々に分かれたものと見てしまっていますが、これは正しいものの見方ではな いのです。
 次の「正思惟」とは、同じようにあらゆるものごとを考えるときにすべてをつながった縁起的存在として考えて いくということです。
 ものごとを「私には関係のないことだ」と、人を「私にはかかわりのない人だ」と考えるのは、仏教的にいうとま ちがった考え方なのです。
 ですから、ものを言うときも、関係を大切にしたていねいな言い方、礼儀正しい言い方、やさしい言い方をする のが、「正語」なのです。
 もちろん、自分の中で自分にいう言葉=セルフ・トークに関してもおなじことです。
 事実としてある自分の能力や価値をちゃんと認めるセルフ・トークが「正語」だといっていいでしょう。
 そして、いい関係を育てていくような行動するのが、「正業」と言われます。
 それが特定の行動だけでなく、私生活全体のものになっていくのを「正命」といいます。
 そしてあらゆることにおいて、いい関係を守り育てていくように努力することが「正精進」です。
 人間、努力をすればいいというものではなく、努力をして悪事を働くということもあれば、無駄な努力をすること もあるわけですからね。
 そしていつも関係・縁起のことを忘れない、気づきの心を保ち続けることが、「正念」です。
 最後の「正定」は、縁起の理法にかなった、縁起の理法を覚ることができるような瞑想をすることです。
 瞑想にも、縁起の理法にかなわない、超能力を開発するだけの瞑想や、恍惚状態に入って自己陶酔・自己満 足するだけの間違った瞑想もあるのです。
 「瞑想」という名がついていれば何でもいいというわけではないのですね。
 こうした縁起の理法にかなった8つの実践方法を行なえば――時間や努力は必要ですが――無明をなくし、 覚りを得ることができ、そうすると過剰な愛着・執着を離れることができ、そうすると老いや死に関する不条理感 から解放される、というのです。






   真理の3つの印:三法印 (2005年12月21日)


 生前、ゴータマ・ブッダは、自分の教えを本に書こうとか、体系的にまとめておこうという意図は持っていなかっ たようです。
 教えているその時その時、聞いている相手にふさわしい、相手の慰めや救いになるような説き方をしていま す。
 それを「応病予薬(おうびょうよやく)」とか、「対機説法(たいきせっぽう)」とか、「方便(ほうべん)の教え」とい います。
 余談ですが、「ウソも方便」ということわざは、こういうところからきています。
 そのため、ある人に説いたことと別の人に説いたことが、単純な論理でいえばくい違っているということがしば しばあったようです。
 もっとも典型的なのは、死後の生・輪廻があるかないかということについても、ある人には「生きているときに いいことをしたらいいところに生まれ変わる、悪いことしたら悪いところに生まれ変わる」といった説き方をしてお り、別の人には「修行者にとって輪廻があるかないかはどうでもいいことだ」というニュアンスの説き方をしてい ます。
 この2つは、単純に取ればもちろん矛盾していますね。
 こういうことが他にもいろいろあったようです。
 それで、弟子たちがブッダの真意がどこにあるかわからなくなった場合、生きている間はブッダに直接聞けば よかったのですが、ブッダが亡くなった後、どう解釈すればいいかいろいろ問題が起こってきます。
 そういうこともあって、ブッダの死後、言い残した言葉の解釈の違いなどによって、仏教にはいろいろな派がで きてきます。
 そこで後に、最小限3つないし4つの特徴があることが「仏教」と呼ばれる条件であるとされるようになりまし た。
 「三法印(さんぼういん)」とか「四法印(しほういん)」とかいわれます。3つないし4つの法=真理の印という意 味です。
  「三法印」というのは、次の3つのコンセプトです。
 @諸行無常(しょぎょうむじょう)=すべての形成された存在は変化する。
 A諸法無我(しょほうむが)=あらゆる存在は実体ではない。
 B涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)=煩悩が鎮まると絶対の安らぎに到る。
 「四法印」は、このAとBの間に「一切皆苦(いっさいかいく)=すべては最終的には自分の思いどおりになら ないので不条理感の苦しみがある」を入れます。
 この「三法印」または「四法印」をどう解釈するかは、派によってかなりの違いがあります。
 ここでコメントしておくと、この授業では、話が複雑になりすぎないように、大乗仏教の1つの学派である唯識― ―などから学んだ私の――解釈に限定してお話ししています。
 ですから、他にも相当たくさんいろいろな解釈がありうるということは、頭に入れておいてください。
 私は自分の解釈が唯一だとも絶対だとも思わないように気をつけていますが、今のところ自分が学んだ範囲 で「もっとも妥当ではないか」というくらいには思っています。
 もちろん、他の方から教えていただいたり、自分自身の学びが深まったりして、解釈を変える可能性は十分に あるとも思っていますが。






   すべて形あるものは変化する:諸行無常 (2005年12月22日)


 


 三法印の第一は、「諸行無常」です。
 諸行の「行」とは、「形成された存在」という意味です。
 仏教では、存在を「有為・形成された存在」と「無為・形成されない存在」に分類します。
 そして、「形成された存在」は、変化していくものであって、そういう意味で永遠性はない、「常」ではないことを、 非常にはっきりと捉えているのです。
 これは、世界の姿をよく見ればある意味ではだれでもわかることですが、しかしふつうの人間は、普段あまり よく世界の本当の姿を見ていないものです。
 あるいは、見たくないので見ようとしない、といってもいいかもしれません。
 自分にとって大切なもの、自分が愛着しているものなどは、変わってほしくないので、普段は何となく変わらな いかのように思っています。
 あるいは、欲張って、いいものにはもっといいように変わって欲しいと思ったりもします。
 もちろん嫌なものには、いい方に変わるとか、なくなるというふうに変わってほしいと思うわけですが。
 しかし私たちが大切にしていようがいまいが、愛着していようがいまいが、嫌っていようがいまいが、すべての ものは変化していきます。
 ただし、ここで「すべてのもの」というのは、「形成されたもの」のことです。
 すべての形成されたものは、否応なしに変化していく、それがありのままに観察された世界の姿だ、ということ です。
 ここでのポイントは、自分の欲求や愛着や感情とかかわりなく、「ありのままに観察された世界の姿」というとこ ろにあります。
 ゴータマ・ブッダの教えの基本には、いつも冷静なありのままの世界の姿への洞察という姿勢があります。
 しかし日本では、代表的には『平家物語』の冒頭の有名な言葉、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」 に表れているように、「諸行無常」という言葉をとても悲しい感情的な意味あいにとっています。
 そもそも仏教全体が、とても悲しい情緒的な宗教であるというふうに取られています。
 それには、日本文化としてのそれなりの意味も、それなりの味わいもありますが、ゴータマ・ブッダの教えのも ともとの意味からいえば、違っているといわざるをえません。
 私たちが、「仏教」を学ぶという場合、先にお話ししたような6つの側面があることを意識しておく必要がありま すが、特にゴータマ・ブッダの仏教と日本仏教のニュアンスの違いをはっきり押さえておく必要があると思いま す。
 ゴータマ・ブッダの教えとしての「諸行無常」は、きわめて理性的・哲学的な世界の姿の認識だったといってま ちがいないでしょう。
 さて、ここでみなさんに考えていただきたいことがあります。
 みなさんの見るかぎりの形あるもの・形づくられたもので、変化しないもの、永遠に存在できるものがあるでし ょうか?
 なさそうですよね?
 だとすると、「諸行無常」ということは、特定宗教としての仏教の教義として、信じるか信じないかという話では なく、だれでも世界のありのままの姿をよく見、よく考えたら、そう言わざるをえないこと――哲学用語でいえば 普遍的に妥当な「命題」――ということになりますね。






   無常だからこそまた花が咲く (2005年12月23日)





 昨日で、大学の今年の授業がすべて終わりました。
 来年1月に最終授業が1度だけありますが、これでほぼ1年間終了です。
 つながり−重なりコスモロジーや唯識、論理療法や聖徳太子『十七条憲法』など、今年も学生たちはよく受け 止め、吸収してくれました。
 「諸行無常」ということについていえば、日本文化の伝統の中でなされてきた「無常感」という形の美しくも悲し い情緒的な取り方から、「無常観」という哲学的な洞察へと認識を新たにしてくれたようです。
 「諸行無常」の話の中で特に心に残っているという学生が多かったのは、授業の中で何となく口をついて出 た、
 「諸行無常だから花が散るけれども、諸行無常だからこそまた来年花が咲くんだよね。だから、無常と いうことはいいことなんだよ」
という言葉でした。
 諸行無常だから個体は死んでいくわけですが、諸行無常だからこそ新しいいのちが生まれてきて、いのちが ずっとずっとつながっていくわけです。
 子供が生まれたときもそうでしたが、孫が生まれていっそう、「いのちはつながっていくものだなあ」という感慨 があります。
 個々のいのちは死んでも、全体としてのいのちは40億年ずっと生き続けている、この先も行き続けていくわけ です。
 「諸行無常」とは、そうしたいのちの営みを含むダイナミックな宇宙の働きを表現した言葉だと解釈することが できるでしょう。
 そこに現代科学的な知見を加えて言うと、
 「諸行無常だからこそ、宇宙は進化する」
ということになるでしょう。
 さらに心理学的な言い方を加えると、
 「諸行無常だからこそ、人間は成長できる」
のですね。

*写真は、桜の冬木立とその向こうのお日さまです。






   この世界には実体は存在しない:諸法無我 (2005年12月24日)





 三法印の第二は、「諸法無我(しょほうむが)」です。
 諸法の「法」とは、「存在・もの」という意味です。
 原語(のカタカナ表記)は「ダルマ」で、漢訳ではだいたい「法」と訳されていますが、いろいろな意味があって、 慣れていないと混同しがちです。
 まず「真理」、それから「規範」、そして「存在」などが主なところで、ここでは「存在」という意味です。
 ですから、「あらゆる存在は無我である」ということになります。
 「無我」という言葉はかなり一般的な日本語になっていますが、これまであまりにもしばしば誤解されてきた、と 筆者は考えています。
 その誤解を正すために、筆者は丸々本1冊本分書く必要があると思ったくらいです。
 詳しいことはその本(『自我と無我』PHP新書)を読んでいただくことにして、簡略にポイントだけお話しておき ます。
 「無我」の言語は「アナートマン」で、接頭辞「ア=非・無」+「アートマン=我」です。
 問題は、この「アートマン=我」で、これは「自我」という意味もないことはないのですが、むしろ「実体」という意 味のほうが主です。
 「アートマン=我=実体」と考えていいでしょう。
 そして、「実体」というのはまた、英語のsubstance の訳語でもあり、これらの4つの言葉はほぼおなじ意味だ と思っていいでしょう。
 ですから、この句の全体を現代語訳すれば、「すべての存在は非実体である」ということになります。
 さて、実はこの「非実体=無我」こそ、ブッダの教えの核であり、後の大乗仏教まで一貫したもっとも仏教的だ といってもいいほど重要なコンセプトなのです。
 「非実体=アナートマン」というふうに否定された対象の「実体=アートマン」は、漠然としたコンセプトではあり ません。
 「実体」とは、
 @それ自体で存在することができる。
 Aそれ自体の変わることのない本性・本質をもっている。
 Bいつまでも・永遠に存在することができる。
という3つの性質があるもののことをいいます。
 ゴータマ・ブッダは、この世のすべてのものは「縁起」・つながりによって存在するのであって、それ自体で存在 している、存在できるようなものは何もない、と洞察しました。
 仏教では世界一般の話もさることながら、重点は人間にありますから、まず人間についていえば、親なしに自 分だけで生まれてきて、空気も水も食べ物もなしに生きられるような人間は一人もいません。
 他の物についても、おなじことが当てはまるでしょう。
 だとすると、この世界には「実体」の第1の条件を満たすものはないといってよさそうです。
 そして、この世のすべてのものは変化していく・「無常」な存在ですし、他との関わりで性質も変わりますから、 変わることのない本性がある、とはいえません。
 例えば私は、両親にとっては「子ども」であり、妻にとっては「夫」であり、子どもにとっては「父親」であり、学生 にとっては「教師」であり……というふうに他との関わりで属性が変わります。
 例えば水は、魚にとっては棲みかであり、ヤゴにとっては棲みかですがトンボにとっては落ちると死ぬところで あり、人間にとっては泳いだり、飲んだりすることはできても、ずっとそこにいると溺れて、窒息死する場所であ り……というふうに、他との関わりで違った性質になります。
 というふうに、この世界には、「実体」の第2の条件を満たすようなものはなさそうです。
 そして、いつまでも・永遠に存在している、できるものは、この宇宙にはないようですから、「実体」の第3の条 件を満たすものは何もないのではないでしょうか。
 つまり、「諸法無我」とは、そういう「実体」の3つの定義が当てはまるようなものはこの世界にはないという意 味で、人間の自我だけではなく、すべての存在が「実体ではない」という意味なのです。
 そして「諸法無我」というコンセプトは、さまざまなもの(者・物)が、いろいろなつながりの中で一定期間、ある 性質をもって存在し、やがて消えていくけれども、その時その時にはありありと現われることを否定しているわけ ではないのです。
 実際にありありと現われる形・象、つまり「現象」としての「現実」は認めるのですが、それは先にいったような3 つの定義・条件を満たすような「実体」ではない、というのです。
 さて、ここでみなさんには、自分の好きか嫌いかを置いて、考えてみていただきたいのです。
 先の3つの定義・条件を満たすような「実体」は、この世界のどこかにあるでしょうか?
 もし、「ない」という答えを出されたなら、「諸法無我」という仏教の洞察を、哲学的な命題として普遍的だと認め たことになります。
 もし、「ある」という答えを出したいのなら、3つの条件を満たすものがこういうふうにあることを実証しなければ なりませんが、それは無理なように私は思いますが、いかがででょう?

   *写真は、近所に咲いていた寒桜






   過剰な執着を離れれば心は爽やか:涅槃寂静 (2005年12月26日)





 仏教には、「苦」だとか「滅」だとか「無」だとか、印象の暗い言葉がたくさん使われています。
 そのために、仏教は暗い宗教だという印象があります。
 それは、本質的に言うと誤解なのですが、そういう誤解は仏教の外部だけではなく、残念なことに内部にさえ もあるようです。
 そういう私も、かなり長い間そういう誤解をしていました。
 「四法印」の場合の「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉もそういう印象で理解というか、誤解されてきたの ではないかと思います。
 しかし私の読むかぎり、ゴータマ・ブッダのいう「苦」は、無条件で「あらゆるものが苦しみである」ということを言 っているのではありません。
 「苦諦」のところでお話ししたとおり、「無明」、「渇愛」、「執着」があるかぎり不条理感があるという意味で、条 件付きです。
 「無明」に始まる11の諸条件がなくなれば12番目の「老死」に関わる苦・不条理感はなくなる、というところに こそゴータマ・ブッダの教えの真髄があります。
 しかも、それには方法もあるというのです。
 「滅諦」と「道諦」でしたね。
 三法印の第三は、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」で、四聖諦では「滅諦」に当たります。
 この言葉も、「釈尊が涅槃に入られた」という言い方から「涅槃」は「死」を意味するようになり、その上に「寂」 という漢字が「寂しい」という意味なので、まったく暗く寂しく陰気な意味合いにとられがちでした。
 これまでたくさんの社会人や学生たちに聞き取りをしてきましたが、ほとんど全員といってもいいぐらい例外な くそういう意味に解釈していました。
 前にあげた『平家物語』の次の句、「沙羅双樹の花の色、盛者必滅の理をあらわす」などの名文句もそういう 誤解を日本全国に浸透させる上で大いに影響があったといえるでしょう。
 かつてキリスト教の牧師をしていたころ、僧職にある方と話していて、「キリスト教と比べて仏教は陰々滅々で 暗くてダメですねえ。何しろ教祖の最後が復活ではなくて、涅槃ですからねえ」という言葉さえ聞いたことがあるく らいです。
 これは別に謙遜で言われたのではなくて、本気でそういう理解をしておられるという感じでした。
 しかし、「涅槃」とは、原語をカタカナ表記すると「ニルヴァーナ」で、「ニル・消える」+「ヴァーナ・炎」つまり「炎 の消えた状態」を意味しており、炎のように人間の心を焼く煩悩が浄化されてまったく消えてしまい、実にすがす がしく爽やかになった心境のことです。
 「涅槃」自体にそういう意味があるのですが、煩悩の鎮まった状態をもっとはっきり表現したのが「寂静」という 言葉です。
 煩悩の炎が消えてしまえば、静かな静かな心境になるのは当然といえば当然です。
 仏教のメッセージが「苦」で始まるために、暗い話だと誤解されてきたのですが、それは先にも言った譬えのよ うに、医者が「あなたはこういう病気です」と宣告するのは、「こういう治療すれば治ります」という結論の前置き であるのに似ています。
 八正道の実践によって、無明・煩悩の炎に焼かれて苦しんでいた人間が静かですがすがしく爽やかな心で生 きられるようになるというのですから、これはどう考えても明るい知らせです。






   仏教:楽しく生きるための理論と方法 (2005年12月28日)


 仏教の原点であるゴータマ・ブッダの言葉で、いったんここまでの学びの締めくくりにしたいと思います。

 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもっ て、4つの尊い真理を見る。――すなわち苦しみと、苦しみの成り立ちと、苦しみの超克と、苦しみの終滅 (おわり)におもむく8つの尊い道とを(見る)。
 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦 悩から免(まぬが)れる。
 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無 く暮らそう。
 (ブッダ『真理のことば(ダンマパダ)』岩波文庫、より)

 最後の句が明らかにしているように、ブッダは「楽しく生きよう」というメッセージを語っています。
 まったく、生きることや生きることの楽しさを否定していないのです。
 それどころか、ふつうの人々が悩んでいても、四諦・八正道をよりどころとしてあらゆる苦悩から解放された人 は、「悩み無く、大いに楽しく生き」ることが可能だ、と言っています。
 原点としてのブッダにおいては、仏教は「楽しく生きるための理論と方法」という面があるのです。
 (もちろん、心安らかに死を受容できるようになるための理論と方法でもありますが、それだけではなかったの です。)
 続いて学んでいく大乗仏教では、そのことがいっそう明らかになります。
 大乗仏教提供の、「楽しく生きるためのノウハウ」をお伝えしていきますので、楽しみにしていてください。






   部派仏教 (2006年1月6日)


 お正月もそろそろ終わりです。
 ネット授業を本格的に再開したいと思います。
 みなさん、また「アイデンティティ確立のための上り坂」です。がんばってください。

 さて、釈尊が亡くなった後、大まかにいって百年後くらいに、規律や教義の解釈の違いによって、仏教の教団 がまず上座部(じょうざぶ)と大衆部(だいしゅ部)と呼ばれる2つの部派に分かれてしまいます。
 それを仏教史上は「根本分裂」といっています。
 上座部(テーラーヴァーダ)というのは、仏教教団の長老たちが上座にいたことからつけられた名前で、現代 まで東南アジアに伝わっている仏教はこの流れを継いでいます。
 大衆部(マハーサンギーカ)というのは、参加した人数が多かったためにこう呼ばれたものです。
 専門的にいえばいろいろ難しいことがあるようですが、大まかにいえば、よかれ悪しかれ保守的な上座部と革 新的な大衆部ということいえるようです。
 仏教教団が2つに分かれる前後に、有名なアショーカ王という人が、ほぼインド全土にあたる非常に広い地域 を統一しています。
 統一するには戦争をせざるをえなかったわけですが、アショーカ王は、やがて戦争すること、つまり人を殺すこ との問題に非常に深く悩み反省をして、やがて仏教に帰依をします。
 それが一つの大きなきっかけになって、インド全体に仏教が広まっていくわけですが、広まっていくにしたがっ て、次第に先ほどいった2つの派が教義の解釈の違いによって、さらにいくつにも分裂をしていき、紀元前100 年頃までに20ほど派ができたといわれています。
 先にもお話したとおり、「人を見て法を説け」ということわざがあるように、ゴータマ・ブッダは、話を聞く相手の 理解力とか状況とかを見てお話をされたようです。
 ですから、まとまった体系的な説き方はしなかったし、本も書かなかったわけです。
 ところが、インドの知的なエリートたちは古代から現代に到るまで、非常に理論好きで、後の人たちが釈尊の 語ったことを元に自分たちの洞察もつけ加えながら、だんだんに組織的な仏教の教学を作っていきます。
 解釈の違いによって20の部派に分かれたので、「部派仏教(ぶはぶっきょう)」と呼ばれます。
 また、その理論を「アビダルマ」というので、「アビダルマ仏教」と呼ばれることもあります。
 「アビ」というのはサンスクリット語で「何々に対して」という意味です。
 「ダルマ」は――ダルマさんのダルマはここからきています――もともとは保持するものという意味で、そこか ら真理とか法とか、ものごととか、いくつかの意味が出てきているのですが、ここでは「ものごと」とか「存在」とい う意味です。
 とにかく仏教的な「存在の分析」といえるような非常に詳細で哲学的な学説が形成されていくわけです。
 その代表的な文献としては、『阿毘達摩倶舎論(あびだつまくしゃろん)』(略して『倶舎論・くしゃろん』)があり、 日本でも奈良時代から唯識と並んで仏教の基礎的な学問とされてきました。
 こうした学説は、もちろん一面では発展ともいえますが、厳密で詳細であるだけに、専門家にしかこなせないも のになってきます。
 ブッダの時代から、仏教の中には出家・僧の流れと在家・一般人の流れがあります。
 アビダルマのような複雑な仏教教学は、やはり出家のいわばエリートのお坊さんにしかこなせないことになっ てくる。
 それから一日のうちの相当長い時間を瞑想に使うこともプロのお坊さんにしかできません。
 そうなると、在家というか、お坊さんになっていない人間は、仏教という流れでいえば、おまけで救われないこと はないというか、覚れないことはないのだけれども、でも本流はやっぱり出家です。
 それが極端になると、やっぱり出家しなければ覚れないという感じにだんだんなっていく傾向があったようで す。
 それに対し、紀元1世紀頃に、「出家したエリートしか覚れない・救われないというのはまちがっている。それ は、迷いのこちらの岸から覚りの向こう岸へ渡るのに、ごく少数の人間しか乗せられない小さな乗り物=小乗 だ。我々はみんなが乗れる大きな乗り物=大乗なのだ」と批判する勢力が興ってきます。
 6世紀から8世紀にかけて日本に伝わり、やがて定着して日本人のものになっていった仏教は、朝鮮半島、中 国を経て大きく変化も発展も――見方によっては歪曲も――したかたちのものですが、大まかな分類でいうと、 この「大乗仏教」に属しています。






   部派仏教のコンセプト (2006年1月7日)


 ブッダは、世界の構成要素を5つに分類して「五蘊(ごうん)」と呼びました。
 まず「色(しき)」ですが、これは色や形があって目に見える「物」あるいは「物質的現象」のことで、色気や性欲 のことではありません。
 「受(じゅ)」は、色=物を感受・知覚する作用、
 「想(そう)」は、想念・イメージ作用、
 「行(ぎょう)」は、意思や行動決定の作用で、「諸行無常」の「行」とは意味が違います。
 「識(しき)」は、思考・意識作用です。
 現代的にまとめると、「色」が「物」、後の4つは「心」に当たりますが、仏教では心への洞察がくわしくなってい るわけです。
 さらに、部派・アビダルマ仏教では、人間を考えるのに、「十二処(じゅうにしょ)」という分類をしました。
 まず、現代風にいうと感覚器官のことを「根(こん)」といい、眼(げん)・耳(に)鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん、身 体)、意(い、意識)の器官をそれぞれ「眼根」「耳根」…といいます。
 それから、物の色や形、音、香り、味、身体感覚、外的な存在という「根」が感じる対象を「境(きょう)」といっ て、それぞれ「眼境」「耳境」…といいます。
 「処(しょ)」というのは、現代の言葉でいえば「認識が起こる場」という意味で、根と境それぞれ六つずつあり、 あわせて「十二処」になります。
 この根=器官と境=対象が、お互いに入り込みあうことによって、心の具体的な働きが起こるので、「十二入 (じゅうににゅう)」ということもあります。
 その心の具体的な働き・識別作用を「識(しき)」といって、「眼識」「耳識」……「意識」といいます。
 例えば、眼という器官・「眼根」と眼の対象・「眼境」が出会い、入り込みあって、眼で何かが見えるという「眼 識」が起こる、というわけです。
 「識」も六つありますから、「十二処」と足して「十八界(じゅうはっかい)」といいます。
  「界(かい)」とは「構成要素」「領域」というふうな意味で、『般若心経』では、「眼識」ではなく「眼界」となってい ますが、おなじことです。
 部派仏教では、こういうふうに、「六根+六境+六識(六界)=十八界」で、人間の身体的な感覚器官と、それ が感じとる対象と、そこで起こる心の働き・識別作用の全体を、整理・分類しています。
 そして、それらの一つ一つが、無常、無我、苦……であることを、実にていねいに洞察・観察していくという 思索的な瞑想(正思惟+正定)を行なったりするのです。
 そして、人間もそれ以外の物もすべて実体ではない・無我であること――「人無我(にんむが)」と「法無我 (ほうむが)」といいます――を心からわかる・覚ることを目指すのです。
 アビダルマ仏教では分類・整理がもっともっとくわしくなっているのですが、くわしくやりすぎるとかえってわから なくなるので、本授業ではこのくらいにしておきます。
 しかしともかく、こうして見てくると、ゴータマ・ブッダから部派仏教に到る仏教は、非常に理性的・哲学的であ り、さらにそれにとどまらず「覚り」という霊性を目指すものであったことがはっきりおわかりいただけるのではな いでしょうか。
 そういう意味で本来の仏教は、古臭い迷信(呪術的・神話的宗教)ではなく、哲学的・霊性的宗教だったので す(「仏教の6つの側面」参照)。






   ヴィパッサナー瞑想に関するQ&A (2006年1月8日)


 「部派仏教」の中の「上座部・テーラヴァーダ仏教」は、今でも東南アジアの諸国に伝わって残っています。
 最近、そうしたテーラヴァーダ仏教、特にその瞑想法の代表的なものであるヴィパッサナーを日本に紹介する 方が何人もおられて、実践に参加する方も増えてきています。
 私の研究所の講座でも、坐禅とヴィパッサナーの違いなどについての質問が時々ありますので、ここで参考 に、昨年3月18日の中級講座でのQ&Aを再録しておきたいと思います。

 質問者:
 禅定の重要性というか必要性というのは、今日あらためてああそうなんだな、と確認してよかったと思い ました。
 それで、たしかに人にも薦められるようにはなってきたな、という感じがします。
 ただ、自分自身の体験では、ヴィパッサナー瞑想に参加したとき、ひじょうに、深いというかおもしろい体 験をいろいろさせていただいて、その後、坐禅をやったりヴィパッサナー瞑想をやったりと、自分で使い分 けてやったりはしているんですけれども、瞑想もいろいろあるので、どれがいいのかなという疑問がありま す。
 いろいろ探しているとたぶん一生終わっちゃうんだろうな、ということもあるので、そのへん、「いろいろあ る中で坐禅がおすすめ」という理由をちょっとお聞きしてみたいです。

 岡野:
 はい。とくに最近、サングラハの中でもその周辺の方でも、ヴィパッサナーに行かれる方が多くて、みん ないい体験をしてきて、「坐禅ではなかなかうまくいかないので、ヴィパッサナーのほうがいいんじゃないで すか」という方がよくいらっしゃいます。
 それからたとえばヨーガの瞑想もあったり、チベット密教の瞑想もあったり、日本ではその他いろいろ、 探せばできるところがありますよね。
 で、くまなく見たわけではないんですが、なるべく臨床的に公平に、かつ理論的にも妥当に、という目で 見るかぎり、人間の深層意識まで浄化するということが理論としても対象としてもはっきりおさえられてい るのは、やっぱり大乗仏教、なかでも唯識だ、と私は評価しています。
 しかし、残念ながら唯識は理論しか伝わっていません。
 そこで、臨済宗系の坐禅をしてみると、まさにこの理論とこの禅定の方法はぴったり対応している、と私 は感じてきました。
 ヴィパッサナーとヴィパッサナーの理論は、やはり切り離しがたいものがあります。
 私があえてヴィパッサナーをやらないのは、率直にいうと私はあの理論では仏教理解が不十分だと思っ ているからです。
 ちょっと難しいことをいうと、『清浄道論(ヴィシュッディマッガー)』という、難しい、ひじょうに部厚い、テー ラヴァーダ仏教の瞑想理論の本があります。
 私は、ぜんぶを細かく読んではいませんが、概説は読んでいます。
 その範囲で『摂大乗論』などと比べながら、「ヴィシュッディマッガーでは理論的整備が不十分なんじゃな いか。やはりマナ識・アーラヤ識の問題点をちゃんと捉えていないとだめだな」と思うんです。
 繰り返しますが、理論と実践は切り離せないんです。
 ヴィパッサナーに行くと、指導者の方はそういう説明をするでしょう? 唯識的な深層心理の浄化の説明 はありませんよね?

 質問者:
 たしかにそうですね。

 岡野:
 そういう説明をしないということは、そこから「大乗の菩薩になる」という方向性も出てこないということで す。
 実践できているできていないは別にして、『摂大乗論』とか大乗仏教はどこを目指しているかというと、 「慈悲が出てこなければ、それはほんとうの智慧じゃない」という、教学的な押さえがひじょうにしっかりとし ているんです。
 だから、原点に帰れる。
 私は、たえず原点に帰れる理論的な準備ができているという意味で、やっぱり大乗仏教、とくに唯識と 坐禅というセットのほうが、中長期で見たら人格をより深く形成するだろうと推測しています。
 でもまあ最近、みなさんがあんまりヴィパッサナーでいい体験ができたといわれるので、それなら、方法 論として入り口のところでみなさんに使ってもらうようにしてもいいかなという気は、ちょっとしてきてはいま す。
 でも、そのときに方向づけとしてはちゃんと、「でもここから慈悲が出てこなかったら意味ないですよ」とい う話をしながら、というかたちです。
 つまり、私にとっては論理療法を取り入れるのと同じアプローチで、方便の一つとして、「坐禅ではなか なか行けません」という人に、ヴィパッサナーのテクニックも使ってもいいかなとは思っていますけどね。
 でも、論理療法一つでも、ちゃんとみなさんに方便として使っていただけるようにご指導できるところまで 勉強するのにも、なかなか手間がかかりましたからね。
 ヴィパッサナーも自分でちゃんと実践して、場合によってはリトリートにも行って……あんまり行きたくな いですけどね。(笑)
 行くと指導者の方に反発して、「あなたには指導してほしくないですよ」ってマナ識反応をしそうですか ら。(笑)
 (*最近、武蔵野大学の「仏教と心理学の協力」というフォーラムで、井上ヴィマラさんと会って、いろ いろ話しているうちに、ヴィパッサナーやテーラヴァーダ仏教について、少し評価を変えなければならない かな、と思うようになっていますが、まだちょっと勉強を始めたばかりで、まとまっていません。)
 それから加えて言えば、それもちょっと時間がかかるからすぐにできないし、私ができるかどうかわから ないんだけど、方便としては、入りやすさでいえばむしろ気功、太極拳のほうが、もっといいかなという気 がしています。
 気功、太極拳は、ちゃんとした人たちは、あれは動く禅・「動禅」というふうに捉えていますし、深くいけば 坐禅同様の境地に行ける可能性は十分ある方法論だと思いますし、じっと坐っていて「脚がしびれた」と いうよりは、「身体を動かして気が流れて元気になりました」(笑)というほうが現代人には入りやすいか な、と思いますしね。
 だから、サングラハ青森の羽矢先生は気功をやっているわけです。
 中国にも何度も行って学んで、指導者としての資格を得て、授業の合間に学生を高原に連れていって 気功をやらせるという授業をやったりしておられて、その成果を聞いてみて、「ああ、なかなかいいな」と思 っています。
 でも、そういうことは今言ったとおり、人に指導できるところになるまでには習得に時間がかかるので、 すぐにはできませんよね。
 私は、とにかく三十何年、四十年近く坐禅でやってきているから、他のものを取り入れてこれと同じだけ の質にするのは、ちょっともう間に合わないなという気がするので、「私のところに来る人は、実践の方法 としては坐禅でやってください」ということです。
 で、ご自分の向き不向きがあって、「いや、ヴィパッサナーのほうがいいです」とか、「太極拳のほうがい いです」とか、「ヨーガがいいです」とかという方は、それはそれでやっていただいて、「それでは理論が満 足できない」という場合は、「理論はここで勉強して、実践はそっちでやりたいという人は、それでいいです よ」というのが、サングラハのポリシーなんです。
 だからMくんも、実践法としては「坐禅ではなかなか行かないから」といって他の方法論をやってもらって も、別に私は睨みませんよ。
 「Mくん、何よそ事やってるんだ」(笑)とかは思わないから、自分に向いたのでやってもらっていいと思い ます。
 それからもう一つ言わせてもらうと、やはり文献も含めて禅をちゃんと吸収しないと、せっかくの日本文 化の伝統を見失ってしまいます。
 ヴィパッサナーは東南アジアが本家ですから、ヴィパッサナーをやるといつも東南アジア文化に引け目 を持つことになるんじゃないでしょうか。
 禅をやると、もとは中国が本家だといっても、ちゃんと残っているのは日本ですから、引け目を持つ必要 がないんです。
 とにかく禅というのは、鎌倉時代から営々と日本文化のかなり中核的なものとして伝わってきています。
 しかも、日本の伝統文化のひじょうに質の高いものは、たとえば茶道でも華道でも剣道でも、○○道と いって、背後に禅があるものが多いんですね。
 だから、坐禅をやりながら、禅の文献を読みながら、そういうものが日本文化の源流だということを実感 するという意味では、「坐禅をはずすと日本文化のアイデンティティをちゃんとつかめないぞ」という判断も もう一つあるんですよ。
 そういうわけで、私はどうしても坐禅にプラスの意味があってこだわっているわけです。

 質問者: 
 感想なんですが、こちらにご縁があるから坐禅をやっていきたいなということはあったんですが、お話を 聞いて、それだけじゃなくて、そういう意味で日本人としてのご縁もすごくあるんだな、と思いました。

 岡野:
 そうなんですね。
 鈴木大拙先生が『禅と日本文化』(岩波新書)という本を書いておられます。
 ちょっと禅文化が日本文化のすべてみたいにいっていて、いいすぎのところがあると思うんですが、でも 読んでみて、確かにそうだと思います。
 鎌倉から室町期にかけてできた、いわゆる「和」・「和風」といわれる文化の原点を見ると、みんな背後 に禅があります。
 茶道もそうだし、水墨画もそうだし、華道も、盆栽まで――盆栽も禅の精神が背後にあるようですよ―― そういうふうなものがみんなそうなんです。
 だから、禅を見失うということは日本文化の原点を見失うことになるので、それは、方法論として入りや すいとか、感情のコントロール法として効果が出るのが早いとか、気持ちがいいとかということには代えら れないという思いが強くある、ということです。
 あ、今日の話はわりに説得力がありましたね。(笑)



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