目次




































自己紹介
2005年08月20日


 今日から公開授業を始めます。
 始めに簡単な自己紹介をします。
 僕は、税法上は自営業者・著述業者です。いわゆる「物書き」の端くれですね。
 その他、いくつかの大学で非常勤講師もしています。
 大学で若者たちと接していると(アンケート調査も行なっています)、今の日本の若者――僕が接したかぎりで は――のおどろくほど多数が、元気がない、自信がない、生きてる意味がわからない、自分なんか生きていて も死んでもおんなじだという気がする、よく死にたいと思う……と言っていることがわかります。
 それに対して僕は、なんとか、元気が出る、自信が湧いてくる、生きてる意味がわかる、生きてるって素敵 だ、と思えるようになる授業をしようと努力してきました。
 そして、自分としては、かなり成功していると思っています。
 授業を受けて元気になった学生たちの強い要望もあって、今日から少しずつ、その授業の内容を公開しよう と思っています。
 よかったら、あなたも公開授業に参加してみてください。
 ま、時々タイトルに関係のない+アルファのことも書いたりするとは思いますけどね。






前宣伝
2005年08月20日


 さて、この授業は、本気で受けたら、たぶんあなたの人生観・世界観を180度変えることになると思います。
 実際の授業では、最初の2回ほどを費やして、本気じゃない――その結果、授業中におしゃべりをする、携 帯をする、メールをする、ものを食べる等々のことをやりそうな――学生には、かなりきつく、「僕は本気でやっ てるから、本気じゃないやつと一緒にいるのはいやなんだ。幸いにしてこの科目は選択で必修じゃないんだか ら、取るのはやめなさい。帰っていいよ」と言います。
 これは、毎年やっていて、「帰れコール」と呼んでいます。
 しかしブログは、ごく気軽に読んでもらうことができる媒体ですから、もちろん気軽にやってもらってかまいま せん。
 さて、元にもどると、つまりあなたは、落ち込んでいる→元気、自信がない→自信がある、むなしい→世界が 輝いて見える、というふうに変わることになるでしょう。
 そういう人は、あまりいないでしょうが、もし変わりたくなかったら、もちろんあなたの自由です。元気になりたく なるまでは、落ち込んでいてもいいんです。
 「半年か一年たったら、きみはまるで変わるよ」と予告すると、相当多数の学生が「そんなー」と思うようです が、半年後、相当多数の学生が「そんなーと思いましたが、先生の言ったとおりになりました」と感想を書いてく れます。
 では、よかったら半信半疑、どころか3信7疑くらいの感じで、続けて読んでみてください。






最初のアンケート
2005年08月20日


 「帰れコール」を終えて、本気でやる気になった学生が残ると、よく言われる「授業崩壊」のような状況はまっ たくなくなります。
 そこで、本格的に始める授業の最初に、次のような最初のアンケートを行ないます。

 ○○大学○○学部  2005  授業アンケート1
   学年学科     学籍番号      氏名         性別

1.今、人生の充実度はどのくらいですか? 1から10のスケールで表現してみてください。
2.自分のことを好きだと思っていますか? 1から10までのスケールで表現してください。
3.自分に自信はありますか? 1から10までのスケールで表現してください。
4.自分の人生は自分のものだ、と思いますか? その考えについての確信度はどのくらいですか。1か ら10までのスケールで表現してください。
5.人間は結局自分がいちばん大事だと思うものだ、と思いますか? その考えについての確信度を1 から10までのスケールで表現してください。
6.自分が生まれてきたのは偶然だと思いますか? あるいは何か必然性があると思いますか? その 考えについての確信度を1から10までのスケールで表現してください。
7.人生は、何のためにあると考えていますか? その考えについての確信度を1から10までのスケー ルで表現してください。
8.人生には、意味があると思いますか? あるとしたら、どんな意味だと思っていますか? その考えに ついての確信度を1から10までのスケールで表現してください。
9.人生でこれだけは実現しようと思っている目標はありますか? あるとしたら、何ですか? 実現への 決心の程度はどのくらいですか。1から10までのスケールで表現してください。
10.人間は死んだらどうなると思っていますか? その考えについての確信度を 1から10までのスケ ールで表現してください。

 上記のような問いを、英語で「ビッグ・クエスチョン(Big questions)」といいます。自分の人生観や世界観に関 するとても大きな問いということですね。
 あなたは、こういうビッグ・クエスチョンにどういう答えを書きますか? できれば、ただ読んで頭のなかでなん となく考えるのではなく、実際に紙などに書き出してみてください。
 ぼんやりとしていた自分の人生観や世界観が少しはっきりしてくるでしょう。






若者たちが危うい?
2005年08月20日


 大学に教えに行くようになって、集中講義で7年目、毎週の授業もするようになって5年目、北は青森、南は 香川、そして東京と、合わせて4大学5学部で教えていますが、一言でいうと「若者たちが危うい」と感じていま す。
 その「感じ」が主観的なものかそれとも客観性のあるものかを確かめるために、ある時からアンケート調査を 始めました。アンケートは少しずつ改訂していますが、その最新版が、前回掲載したものです。
 アンケートを重ねた結果として、やはり現代日本の若者たちはかなり危うい――正確にいえばその割合が高 い――ということがきわめて確実にわかってきました。
 まず、2と3の質問に対して、スケール4以下の答えがきわめて多いのです。それはつまり、「自分が好きでは ない」、「自分に自信がない」と感じている若者が驚くほど多いということでしょう。
 「自分が好きか」という問いへの答えのほうがいくらかましですが、「自信がない」という答え(4以下)は、なん と最悪の場合は90%、最善でも70%くらいになるのです。
 ブログを見てくださっているみなさん、この数値、どう思われますか? 信じられますか? 何かデータの取り 方に偏りがあるんじゃないか? と思われますか。よかったら、ぜひ、ご意見を聞かせてください。






死んだらどうなると思っていますか?
2005年08月20日


 現代の若者への「ビッグ・クエスチョン」アンケートの回答の続きです。
 4の「人生は自分のものか?」、5の「自分がいちばん大事か?」という問いに対しては、70%前後が、「当然 そう思う」といった答えをしています。
 なかには、「どこがいけないんですか? 当然でしょう? 先生だってそうでしょう?」という反発風な答えもあ りました。
 そして、6〜9に対しては、パーセント表示が難しいくらいばらつきがありますが、7に対しては「人生は自分が 楽しむためにある」、8に対しては「あると思うが、まだわからない」、「これから考えたい」、「だからこそ、この授 業を取った」といったものが目立ちました。
 そしてさらに、「人生には意味などない」と考えている若者の数も少なくないようです。
 10の「死んだらどうなるか?」という問いに対しては、2年前までは典型的に「無になる」、「灰になる」、「土に なる」、「自然に還る」といったものが90%ほどを占めていました。
 後は、「天国に行く」、「天国か地獄に行く」、「転生する」、「魂が残る」といった死後の生を信じている(というよ り「信じたい」)という回答が10%以下、さらに若干、「わからない」と「親しい人の記憶に残る」といったものがあ りました。
 (ここ2年傾向が変わってきていますが、その報告はまた別の機会にしましょう。)
 ここで、自由課題を。「あなたは、人間は死んだらどうなると思っていますか?」、「かつて日本人は、人間は 死んだらどうなると思っていたと思いますか?」。
 よかったら、ご自分の考えをまとめてみてください。






 死んだらご先祖さまになる?


 お盆でかみさんの実家に帰省し、お墓参りをし、迎え火を焚いて、ご先祖さまを迎え、朝に夕に仏壇にお線香 をあげて手を合わせて、般若心経も心を込めて唱えてきました。
 迎え火を焚きながら、親戚の子供たちと花火を楽しみ、日本人にとってお盆はたんなる長期夏季休暇ではな いことを、改めて感じてきました。
 お盆明け、終戦(正確には敗戦)記念日です(ここでヤフー教室の授業を再開しました)。
 自由課題に取り組んだ人はいますか? 後の質問、日本人はかつて「人間は死んだらご先祖さま・祖霊にな る」と信じていた、とはっきり答えることのできた人は何人くらいいるでしょう?
 日本は敗戦を境に、人生観、価値観、世界観について、一八〇度といってもいいくらいの大変革をしました (正確にはさせられてせざるをえなくてしたのです)。
 「死んだら先祖になる」と「死んだら〔意味上は〕無になる」、「死んだら〔物質的には〕灰になる」という死生観 が、まるで正反対であることはおわかりになりますね?
 敗戦前、そうとう多数の日本人(特に庶民)は、霊魂を信じており、死んだ後の世界があると思っており、死ん だらすべて終わりではなく、「先祖になる」と考えていたのです。
 どのような歴史的なプロセスで、日本人は変わったのか、次回から少しずつ講義を進めていきますが、ここで 一言学生にいうのと同じコメントをさせてください。
 これから話していくことには、途中で「この人、右翼なんじゃないの」とか、逆に「左翼なんじゃないの」と思われ るような点があると思います。
 しかし本人は、右・保守派・伝統主義者でも、左・革新・進歩主義者でも、さらにいわゆる中道でもないと思っ ています。そしてそれらの妥当なところはすべて含みながら、その限界を超えたいというのが意図であり、本人 の主観では超えているつもりなのです。
 できれば、途中で反応しないで、最後まで話を聞いていただけると幸いです。






 悪いことをした時、なんといって叱られましたか?


 私は、最初に自己紹介したとおり、著述業者です。といってももちろん、文章を書いているだけではなく、講 演・講義、それから心理学のワークショップ(参加体験学習)を行なったり、関連するいろいろな仕事をしていま す。
 特に心に関する話をする機会が多いのですが、十数年前から私と同世代以上の年齢の方々から、質問とも 感想ともつかない言い方で、「どうして日本はこんなふうになってしまったんでしょうね」といった言葉を聞くことが 多くなりました。
 それは、いわゆる団塊の世代以上の人のかなり多数が、どうも日本人の心が荒廃してきているようで、それ を象徴するような様々な事件が起こっている、と感じているということを意味しているようです。
 (「感じている」ということと、事実そうかどうかということは別ですが、ここではその議論には立ち入らないこと にします。)
 それに対して、当初は私も「どうしてなんでしょうね」と答え、やや思いつき的な考えを述べていたのですが、そ れでは物書き・講演者として仕事になりませんから、ちゃんと説得力のある答えができるようにいろいろ調べた り、分析したりするようになりました。
 そんな中で、ふと思いついたことがありました。
 最近荒廃しているのなら、かつては今よりは荒廃していなかった、つまり、かつては人の心は今ほど悪くなか ったということになる。
 では、かつて日本人は、どういうふうにして「悪いことをしてはいけない(いいことをすべきだ)」ということを学 んでいたのだろう? 〔親の側からいえば〕教えていたのだろう? なぜそれがうまくいっていたのだろう?
 そこで、講演・講義で機会があるごとに、参加者の方に聞き取り調査をしました。
 「小さい頃、悪いことをした時、なんといって叱られましたか?」と。
 善悪の教え方の背後には、当然のことですが、特定の価値観・世界観があります。かつての子どもの叱り方 には、かつての日本人の価値観・世界観が必ず反映しているはずだ、と予想したのです。
 この聞き取り調査は、もう十年以上続けていますが、どの会場でも、みごとに典型的にいくつかの答えが返っ てきます。
 話の先を急ぐより、一緒に考えていただいたほうがいいと思いますので、答えは次回にしたいと思います。ぜ ひ、みなさんも、推測したり、ご自分のことを振り返ったりしてみてください。






かつての日本人が信じていたこと


 かつて(戦前)日本の子どもの多くが悪いことをして親から叱られる時、いわれる言葉にはパターンがあった ようです。
 もっとも典型的なのは、「罰が当たるぞ」です。
 では、誰が罰を当てるのでしょうか。日本語に特徴的な主語の省略された文章ですが、聞いた人にはわかる のです。
 罰を当てるのは、神さまか仏さまですが、いちいち「神さまの罰」とか「仏さまの罰」と区別して断らなくても、親 にも子にもなんとなくわかった、というところがミソです。
 続いて、「悪いことをすると、地獄に落ちるぞ」というのがありました。
それから、うそをついた時には、「うそをつくと、閻魔さまに舌をぬかれるぞ」と脅かされます。
 この二つは考えてみると、仏教の神話的な世界観に基づいた脅しですね。
 それから、隠れて悪いことをしてばれると、「人は見ていなくても、お天道さまは見ているんだぞ」といわれま す。
 これは、天=太陽への信仰、つまり日本古来の民俗神道的な自然崇拝と、儒教(道教も含まれるでしょうが) 的な「天」の「道」という考え方から来ていると思われます。
 それから、きわめつけのパターンがあります。
 悪いことをした男の子―昔は男の子のほうが悪さをよくしたものですが、最近は、女性もおなじような悪いこと をするようになってきて、こんなところでまで「男女平等」が進んでいるようですが―は、お母さんに首根っこをつ かまれて、家に連れ込まれます。
 さて、家のどこに連れ込まれるのでしょう?
 押入れ? いやいや、それは一時的な脅しで、効き目は十分ではなかったようです。
 仏間? そうです、そのとおり。
 昔の地方の家には必ずといっていいくらい「仏間」がありました。悪さをした子どもは、仏間へ連れていかれる のです。
 お母さんは、子どもを仏間に連れていき、仏壇の前で、「そこに坐りなさい」と正座させます。
 そしてお説教を始めるかというと、子育ての上手なお母さんは、ここでは始めないのです。
 仏壇にお灯明を灯し、お線香をあげ、正座してしばらく手を合わせています。
 それから、向き直ってお説教をするかというと、ここでもまだお説教は始まりません。
 それどころか、お母さんはただ目に涙をいっぱいに溜めて、「おまえがこんなに悪い子になって、私はご先祖 さまに申し訳が立たない」というのです。
 これは、効く子には徹底的に心に染みて効いたようです。
 「オレは、ご先祖さまに申し訳が立たないとお母さんが泣くほど、そんなに悪いことをしたのか。ほんとうに悪 かった。申し訳ない」と(もちろん残念ながらそれでも効かない子もいたわけですが)。
 この叱り方というか諌め方のベースにあるのは、いうまでもなく、日本人の基本的な宗教ともいわれる「先祖 崇拝」です。民俗神道といってもいいでしょうし、儒教の影響も強くあります。
 そして重要なことは、親たちはそのどれか一種類ではなく、適宜しかもほとんど無意識的に使い分けながら、 どれもほとんど同じ意味で使っていたらしいということです。
 そしてそれは、周りの大人がすべて共有している考え方だったのです。
 例えば、叱られた子どもが、ワーンと泣いて隣のおばちゃんのところに駆け込むと、おばちゃんは「よしよし」 と慰めてくれながら、「でもね、それはお母さんのいうとおりなんだよ。お母さんはおまえのことを思って、叱って くれているんだよ」とやさしく言い聞かせ、納得させてくれたりしたものです。
 まちがっても、「それはお母さんが違ってる」といったりはしなかったようです。
 だから、子どもたちも何となく、「そうか、みんなそういっている。だから悪いことをしてはいけないんだな」と感 じたわけです。
 重要なのは、これは仏教、神道(明治以後の天皇制神道ではなく日本古来の民族的宗教としての神道)、儒 教のどれか一つだけで成り立っていたのではなく、それらが何となく同じもの・同じことなのだと捉えられていた ということです。
 そういう精神性のあり方を私は「神仏儒習合」と呼んでいます(もちろん道教の影響も含まれていると思いま すが、話がややこしくなるので、簡略化してこう呼びます)。
 こうした聞き取り調査から、日本の庶民の圧倒的多数がつい最近まで、「神と仏と天と自然とご先祖さまはだ いたい同じようなものなのだ」というふうな、理論的には漠然とした、しかし心情的にはとても強い力をもった世 界観を信じていたのだ、ということに改めて気づきました。
 そして、人間はそうした「よくはわからないが自分を超えた何か大いなるもの」の道、掟、法……に従って生き るべきだし、そうしてこそ「いい」―つまり倫理的に正しく、社会適応的で、かつ何よりも幸福な―人生が送れる のだという世界観・人生観が、かつては日本人全体に共有されていたのではないでしょうか。
 それは、明治維新までは、全国津々浦々、どこに行っても通用する、いわば「暗黙の国民的合意」だったので はないかと思われます。
 それは、例えば「花咲か爺さん」、「舌きり雀」、「笠地蔵」、「養老の滝」といった昔話・伝説にもはっきり現わ れています。
 つまり、かつて日本は「正直者」や「やさしい人」や「孝行者」が必ず幸せになる国だったのです。
 悪いことをした人間には悪い報いがある、いいことをした人間にはいい報いがある。
 しかもそれは現世でも来世でも、そうなる。
 悪いことをしたら悪いところ(最悪は地獄)へ、いいことをしたらいいこところ(もっといい境遇や最善は極楽) へ行くことになるのだ、と多くの日本人は信じていました。
 (お盆にお寺参りをすると、本堂の脇に地獄、六道、極楽などの図がかけられていて、子どもはおばあちゃん などから、ああいうことになるんだよ、と言い聞かされたものです。)
 そういう考え方が、ほとんどの人に共有されていたからこそ、子どもにも効き目があったのです。
 すなわち、明治維新以前までの日本人のほとんどが精神的に共有していたのは、「神仏儒習合的な世界観」 だったのです。
 言い換えると、何を畏れるべきか、何を恥じるべきか、人は何のために、どう生きるべきか、何が正しくて何 が悪いのか、日本人の心の健全さを支えていたのは、神・仏・儒、どれか一つの宗教ではなく、三つの宗教の 総合的あるいはまさに「習合的」な力だったと思われます。
 (念のためにあらかじめいっておくと、これからお話ししていくように、そこには問題点や欠陥もまちがいなくあ りました。プラス面だけではなくマイナス面もあったのです。)
 (また、これは、ルース・ベネディクト『菊と刀』以来、定説のように言われてきた、日本の文化は「恥の文化」で あって「罪の文化」ではない、という説とどう関連するのか、面白くかつ重要なテーマだと思いますが、残念なが らまだ十分考え切れていません。)
 ところがそうした国民的合意が、いまや崩壊しつつある。そこに問題の根があるのだと思います。
 つまり、「どうしてこんなふうになったのか?」という問いに対する、私の答えの第一歩は、「日本人の心の健 全さを支えていた神仏儒習合の世界観が崩壊しつつあるからではないか」ということです。
 では、どうして神仏儒習合の精神が崩壊しつつあるのでしょう。それは、明治維新以来、三つないし四つの段 階を経てそうなってきているというのが私の推論・仮説です。
 話の先を知りたい人は、よかったらテキスト@岡野守也『コスモロジーの創造』(法蔵館、特に後半)を読んで 予習しておいてください。






崩壊の3つまたは4つの段階 1-1 黒船について


 さて、授業を続けましょう。
 「一八五三年という年は、何があった年か記憶していますか?」と学生諸君に聞いて、すぐに答えが返ってき たことは、これまで一度もなかったように思います。
 後で聞いてみて、入試に日本史を選んだという学生でもそうでしたから、いかにこの年号の意味が理解され ていないか、よくわかります。
 そういっている私も、意味がわかるまでは、こんな年号―丸暗記が大の苦手でそもそも年号というものそのも のが―覚えられなかったんですけどね。意味がわかったら、一度で覚えました。
 恋人の誕生日を忘れたりはしませんよね? 意味のある数字なら、忘れないものです。
 ウェッブ上学生のみなさんは、いかがですか? 日本―そして現代の日本人である私たちにとって、一八五 三年という年は決定的に重要な年なのですが。
 ご存知だったみなさん、そのとおりです。ペリー提督率いる黒船が浦賀にやってきた年です。
 黒船は、いうまでもありませんが日本見物に来た観光船ではありません。貿易に来た商船でさえありません。 れっきとした軍艦です(アメリカ東インド艦隊)。
 当時の日本側が持っていた大砲など及びもつかないほどの破壊力を持った大砲を積んだ、アメリカの圧倒的 な軍事力を象徴する船だったのです。
 このペリー‐黒船―圧倒的な軍事力を背景にした圧力―によって、日本は無理やりに「開国」させられまし た。
 ここで、押さえておかなければならないのは、日本は好んで開国‐文明開化を行なったわけではなく、アメリカ ‐黒船によって無理やりに開国させられたということです。
 それは、結果として開国‐文明開化がよかったか悪かったかという問題とは別のことです。
 私たちは(少なくとも私は)、戦後の歴史教育を受けたため、江戸時代はひたすら封建的で、閉鎖的で、西洋 文明からは遅れていて、身分差別が激しくて、農民は貧しくて……というイメージを持たされてきましたが、今、 価値観の物差しを換えてみると、江戸時代は実は人類史でも珍しい大きな達成をした時代だといえる面も持っ ています。
 (もうこのあたりで、「右翼的だ」とか「自由主義史観か」いった反応をぜひしないでいただけるとうれしいので すが。)
 つまり、第一に、江戸時代の日本はほとんど三〇〇年近く、原則的には、他国を侵略せず、また侵略されな い、平和な独立国家を維持したのです。これは、世界史的に見て驚くべきことです。
 何しろ西洋世界は、一五世紀末から始まった「大航海時代」以来、最近まで、アジア・アフリカ・アメリカ世界に 対して、ひたすら「植民地化」、すなわち侵略行為をずっと続けてきていたのですから。
 そして、もちろん一揆などもあり、天草の乱などの内乱もありましたが、 日本は全体としては非常に安定した 平穏な社会だったようです。
 国の内外での、「持続する平和の実現」という物差しで見ると、これは大変な達成というほかありません。
 (もちろんアイヌや琉球の人々に対する行為が侵略でなかったなどといいたいのではありません。しかし西洋 世界の徹底的に意図的、計画的、持続的な植民地化政策とは質も量もまったくちがっていると思います。だか ら、「原則的には」と但し書きをつけたのです。)
 スペインがフィリピンを植民地化し、さらに日本に手を伸ばそうとしていた頃、その危険を察して、日本は(豊 臣から徳川にかけて)、「鎖国」の方向に向かいました(「鎖国令」は一六三五年、実際の最終的鎖国は一六三 九年)。
 黒船の時点とちがって、この時点ではスペインやポルトガルなどと日本には軍事力の圧倒的な差はついてお らず、したがって日本の意志による「鎖国」は可能であり、それは植民地化への正当かつ有効な自己防衛の策 でありえた、と考えられるのではないでしょうか。
 「鎖国したおかげで日本は遅れた」と教わってきましたが、「鎖国したおかげで植民地化されなかった」という 面については、まったく聞かされた覚えが私にはありません。
 しかし、江戸の鎖国も明治の開国も、考えてみれば、欧米の植民地化政策への対抗・防衛措置だったのです ね。
 黒船―開国―文明開化によって、日本も「侵略せず侵略されない国」から、近世・近代の欧米諸国並みに植 民地化政策を採用する=「侵略する国」へと、「富国強兵」、「欧米列強に伍す」、「追いつき追い越せ」と、「国 のかたち」(司馬遼太郎のことば)を変容‐発展させざるをえなくなったのです。
 そして、国のかたちが変われば、心のかたち=精神性も変容せざるをえなくなったわけです。






 崩壊の三つまたは四つの段階 1‐2 神仏分離について 1


 話を少し元にもどしましょう。
 第二に、江戸時代の経済は驚くほどのリサイクル可能な経済だったようで、一定の人口ならば(一説では幕 末の人口は三千万人くらい)、このまま何百年でも生態系を壊さないで生活していけるシステムができていたと いう説もあるほどです。
 どのくらいリサイクルができていたか、ユーモラスなエピソードがあります。
 当時、人間の糞尿は畑の肥料として利用されており、役に立つものでした。
 それどころか、近隣の農家が江戸市中の長屋などに汲み取りに来て、代金を払って帰るくらい価値あるもの でした。
 さてそこで、長屋の糞尿は長屋の持ち主の大家さんに権利があるか、それとも出した借家人にあるか、どち らか代金を受け取るかで、もめたという話があるのです。
 糞尿は汚物として金をかけて処理するものではなく、肥料として野菜を育てたのですね。 みごとなリサイクル 経済です。
 こうした例はたくさんあるのですが、ここのテーマではありませんから、省略します。
 とはいっても、もちろん、人口が過剰にならないよう調節されているのは、一方では医療が未発達で治らない 病気も多く、多くの子どもが幼くして死ぬとか、また堕胎や間引きといった悲惨なことも行なわれたためだったよ うで、すべてがよかったといいたいのではありません。
 しかしともかく、江戸時代の日本は、ある面ではエコロジカルに持続可能な社会システムの形成という現代の 課題をすでに先駆的にかなりみごとに達成していたという評価もできるのです。
 繰り返しいうように、江戸時代には身分差別や抑圧・搾取や貧困などの大きなマイナス面があったことを無視 するわけではありませんが、しかし大きなプラス面、相当な歴史的達成もあったといえるようです。
 そして、そうした平和と調和の達成を支えていた思想・世界観が「神仏儒習合」だったのです。
 ところが、黒船によって、無理矢理に開国させられ、植民地化の危機に立たされたとき、明治維新の志士た ちは、人々のエネルギーを結集し国難に対処するための原理を、神仏儒習合の世界観ではなく、水戸学や国 学に求めました。
 これはどちらも、天皇絶対性・天皇制神道を原理にしているものでした。
 確かに、人々が一致団結して国難に対処するための統一原理、精神的エネルギーの源泉として、当時の日 本には他に持ち札・選択肢がなかったにはちがいありませんが、そこから大きな問題も生まれてきました。
 それは、一八六八年、維新が実現した時点で、いわゆる「神仏分離」がなされ、国学‐天皇制神道が他と切り 離されて国教化されたことです。
 そして、当然ながら学問としては洋学が優先されました。
 黒船が象徴していたのは、言い換えると西洋のもつ軍事力、鉄の軍艦を太平洋を越えて派遣するだけの産 業力、それを可能にした技術力、そのバックにある科学、さらにそのベースにある近代の合理主義‐西洋的な 理性でした。
 志士たち=明治の指導者たちが黒船から受けたのは、西洋近代文明の圧倒的な力に対するショックだった といっていいでしょう。
 そこでかろうじて、国民的エネルギーを結集する原理としては「天皇制神道」を、西欧の力に対処するには 「文明開化=西洋化」を、という二本立ての対策を立てたのです。
 それに際して、「忠君愛国」や家族主義の原理としての儒教道徳は残されましたが、仏教は天皇制や忠君愛 国の倫理に反しないかぎりにおいて許容されるというふうに、大幅に格下げされました。
 ここに、日本の伝統的な精神性であった「神仏儒習合」の総合的な力が落ちる始まりがあります。






 崩壊の三つまたは四つの段階 1‐3 神仏分離について 2


 私の考えでは、明治政府の神仏分離政策は、日本の千数百年の精神的な伝統を破壊するものであり、本質 的な国の精神政策として見れば、状況上やむを得なかったとはいえ大きな失策という面がありました。
 しかしこれは、失策だがやむを得なかった、やむを得なかったが失策だった、という言い換えをするしかない くらいのことだとは思いますが。
 なぜ、失策なのでしょう?
 それは、神・仏・儒の三つの世界観のなかで、論理的な普遍性がもっとも高く、そういう意味で中核的・指導的 地位にあるべきなのは仏教だった、と私は考えているからです。
 天皇制神道は『古事記』『日本書紀』的な〈神話〉がベースになっていますから、近代の合理主義に対抗し普 遍性を主張できるようなものではなかったと思います。
 やや横道の話ですが、戦前の知識人は、自分が主として学んだ近代合理主義と社会の建前としての天皇制 神道(天皇は現人神・あらひとがみであるという〈神話的〉な思想)の大きな矛盾を抱え込まざるをえませんでし た。これは、とてもつらい話です。
 また、硬直した儒教は、近代の人権・平等主義の立場からは批判されざるをえないところがあったと思います (儒教には、硬直していない、柔軟で妥当性のある面もあると私は捉えていますが、それもここでのテーマでは ないので省略します)。
 といっても、確かに仏教についても地獄‐極楽といった世界観は神話的なもので、近代的な理性・科学の批判 にたえられるものではありません。
 そして、人類の意識の進歩という視点からいうと、仏教にかぎらず神話的な宗教はすべてどうしてもいったん 理性的な批判を受けるほかなかったともいえるでしょう。
 しかし、その中核にある縁起‐空‐慈悲といった概念を中心にした大乗仏教のエッセンスは、理性的な批判に たえられるどころか、現代においても、というより現代においてこそいっそう普遍的・世界的な「理性を含んで超 える」妥当性を持つ思想だといっていいでしょう。
 (その中身については授業の後半でやっていきますが、先に学びたい人は、テキストA岡野守也『唯識と論 理療法』(佼成出版社)を読んでください。)
 そういう意味で、神仏儒習合の中核は本来仏教であるべきだったのです。そして、実は仏教を中核とした神 仏儒習合こそ、飛鳥時代から江戸時代末まで千数百年にわたる日本の「国のかたち」だったのではないかと 思うのです。
 (この点について関心のある人は、岡野守也『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)を読んでみてくだ さい)。
 それに、当時の日本の思想状況からすれば、神仏儒習合の心で国民的エネルギーを結集し、しかも理性・科 学を十分踏まえて仏教の神話的な部分を払拭し、普遍性のあるエッセンスだけを取り出し、それを核にして神 仏儒習合の意味を読み直して、日本人すべてが合意できる新しい精神性に昇華させる……などということは神 業に近いことだったでしょう。
 ですから、こういうことは後の世代の「後知恵」としていえるだけのことで、あまりいっても仕方のないことでしょ う(「ならば、いうな」といわれそうですが、でもいってみたいんですねぇ)。
 (仏教の普遍的・哲学なエッセンスを取り出すという思想・学問的な作業をしたのが、いわゆる「京都学派」で しょう。代表的には西田幾多郎、田辺元、西谷啓治、久松真一、加えて欧米でよく知られている禅学者鈴木大 拙などの名前が思い出されます。)
 しかし、そうした分離−弱体化の始まりにもかかわらず、庶民レベルでは、日本人の心を支えていたものは 依然として神仏儒習合の精神性だったと思われます。
 日本の庶民―例えば田舎のおじいちゃんやおばあちゃん―は、「神さま・仏さま・天地自然・ご先祖さま」の上 に「天皇陛下」が乗っかっても、まるで矛盾など感じず、「そういうものなんだ」と思いながら、それらを信じ敬い ながら、けっこうのどかにやすらかに暮らしていたのです。
 今でも地方では、居間に神棚、仏間に仏壇、そして鴨居の上に天皇皇后両陛下の写真(場合によっては、昭 和天皇だけではなく、明治天皇から)が飾ってあるという家がかなり残っているのではないでしょうか。
 それが、戦前の日本人の心や社会の穏やかさ・安定性の基礎になっていたのだと思われます。
 もちろん、「昔はよかった」、戦前がすべてよかったなどといいたいのではありません。何よりも戦争という悲 惨な出来事がありました。
 江戸時代ほどではないにしても依然として身分差別はあり、社会全体として貧困が克服されていたとはいえ ませんでした。医療制度も社会福祉制度もまったく不十分でしたし、思想や信条、表現などは非常に不自由で した。
 しかし、相当数の八〇歳以上―すなわち戦前・戦中の日本人の暮らしを大人として体験している世代―の方 に、「なるべくよくありがちな『昔はよかった』というふうな美化をしないように、できるだけ正確に思い出していた だいて、日本の社会は戦前と今とでは、どちらがよかったと思いますか」という聞き取りをしましたが、貧しかっ たけれども、社会や家庭の平和さ、人の心のやさしさやまじめさなどの点でいえば、「やっぱり昔のほうがよか ったと思う」と答えられた方がほとんどでした。
 ほんとうにそうなのかどうか、みなさんも機会を作って、ぜひ聞き取り調査をしてみてください。






 崩壊の三つまたは四つの段階 2 アメリカの占領政策


 六〇年前、日本は大きな戦争(立場によって大東亜戦争とも太平洋戦争とも呼ばれる)に負けました。
 どこに負けたのでしょう? こう聞いて、すぐに「連合国」、特に「アメリカ」と答える学生はほとんどいません。
 そもそも八月一五日を「終戦記念日」と捉えること自体、ほんとうはおかしいと私は思っています。はっきり「敗 戦記念日」と自覚すべきでしょう。
 敗戦によって、日本の精神状況は根本的に変わりました。より正確にいうと、変えられて変わりました。
 日本は軍事力、技術力、経済力、そして精神力のすべてをあげて「総力戦」を戦い、そして負けたわけです が、どこに負けたかというと、連合国、特にアメリカに負けたのです。
 そして、その結果、アメリカに精神性をも変えられたのです。
 以下述べることのかなりの部分は、先年なくなられた文芸評論家江藤淳氏の『忘れたことと忘れさせられたこ と』、『閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』、『一九四六年憲法―その拘束 その他』(いずれも 現在文春文庫、ただし品切中)の受け売りです。
 私は六〇年代末の学生運動・全共闘運動には参加しませんでしたが、しかしかつてはどちらかというと心情 的には左寄りのいわば良識的な進歩的知識人の端くれで、要するによく知りもしないのに、江藤淳は右翼で危 険な思想家だという偏見を持っていて、十五年前くらいまでずっと読もうともしませんでした。我ながら偏見とい うのはこわいものです。
 ところが十五年前くらいから、「日本人の心を支えていたものは神仏儒習合の精神性だったのではないか」と 思うようになり、それにつれて、「どうして日本人はそれを忘れたのだろう」という疑問が湧いてきて、ふと江藤 氏の本にはそういうことが書いてあるのではないかと思って読む気になったのです。
 で、読んでみると、そういうことのすべてではなく、一部ですが、決定的に重要な一部がみごとに書いてありま した。
 江藤氏によれば、戦争終結前後、アメリカは国務長官‐大統領レベルの占領政策としてはっきりと「日本人の 精神的武装解除をしなければならない」と考えており、いわば日本人の「大和魂」を骨抜きにして、二度と戦争 をしない(つまり特にアメリカに逆らわない)国にすることを明確な意識的目標として占領後の政策を行なってい るのです。
 以下は、江藤淳『忘れたことと忘れさせられたこと』文春文庫、五四〜五五頁の引用です。
 すぐに「右」とか「危険」とか反応しないで、事実が語られているかどうかという目で読んでみてください。

 九月四日付の「朝日新聞」に掲載されたワシントン二日発同盟の電報は、米国務長官バーンズの次の ような声明を伝えている。

 《日本の物的武装解除は目下進捗中であり、われわれはやがて日本の海陸空三軍の払拭と軍事資 材、施設の破壊と戦争産業の除去乃至破壊とにより日本の戦争能力を完全に撃滅することができるだ ろう。国民に戦争ではなく平和を希望させようとする第二段階の日本国民の「精神的武装解除」はある点 で物的武装解除よりいっそう困難である。
 精神的武装解除は銃剣の行使や命令の通達によつて行はれるものではなく、過去において真理を閉 ざしてゐた圧迫的な法律や政策の如き一切の障碍を除去して日本に民主主義の自由な発達を養成す ることにある。(中略)聯合国はかくして出現した日本政府が世界の平和と安全に貢献するか否かを認定 する裁判官の役目をつとめるのだ。われわれは言葉ではなく実際の行動によつてこの日本本政府を判 断するのだ》

 バーンズに「精神的武装解除」を主張させたのは、第一に報復への恐怖であり、第二に占領によって 接触を開始した異文化への薄気味悪さであったにちがいない。異文化とは、異った価値基準を内包した 文化にほかならないが、トルーマン、バーンズをはじめとする当時のアメリカの指導者たちは、この異文 化を自らの文化に等質化し、異った価値基準を破壊して同一の価値基準を強制しない限り、報復の危 険は去らないと考えたのである。サー・ジョージ・サンソムが、名著『西欧世界と日本』のなかで指摘して いる通り、このように「強力な政治的圧迫と高度に組織化された宣伝」とによって、一つの文化が「意図 的」に、他の異文化に影響力を強制しようとしたのは、史上ほとんどその前例を見ることができない。






日本人の精神的崩壊の3つまたは4つの段階 3 「理想」の死
2009年06月05日


 前期授業が始まって2ヶ月弱、今学期の受講者数は3大学合計で700名弱で決まり、コスモロジーの授業を 続けています。
 熱心な学生たちがたくさんいて、喜んでいます。
 しかし、日本人の精神的荒廃(崩壊)の3段階」について話し終え、レポート課題を出したら、かなりの数の学 生たちから、「〈3段階〉がよくわからない」という質問がありました。
 テキストの『コスモロジーの創造』(法蔵館)には書いてあるので、ブログにも書いたような気がしていました が、過去の記事を調べてみると、書いていませんでした。
 この質問には「ちゃんと話したよね。あとはテキストを読んでください」と答えてもいいわけですが、もう少し親 切心を出して、ここでも改めて書いておくことにしました(ただし、レポート作成中の学生諸君、あくまで参考で す。このままコピペは、ぜんぜん評価できませんからね)。
 まず前近代、つまり明治維新以前、江戸時代の日本です。
 この時代、「神仏儒習合」のコスモロジーが生きていた、つまり「神・仏・天地自然・祖霊」が日本人の心のな かに生きていた時代には、精神的な荒廃――ニヒリズム−エゴイズム−快楽主義――はほとんどなかったの ではないか、と筆者は考えています。
 ほとんどの日本人が、神・仏・天地自然・祖霊を信じていたということは、当然、「すべては物だから意味はな い」のではなく、神仏という霊的な存在があり、個々人にも霊魂があり、したがって世界には深い意味があると いうことですし、「絶対的な倫理の根拠はない」のではなく、神仏・天地の法・道・掟が確固としてあると信じられ ていたのです。
 崩壊の第1段階は、すでに述べたとおり明治維新の神仏分離、天皇制神道の国教化、社会の実際上の主流 の洋学化です。
 近代化と並行して「神仏儒習合」のコスモロジーの崩壊が始まります。
 しかし戦前、社会全体、特に庶民の心のなかには「神仏儒習合」のコスモロジーは残りつづけていましたか ら、荒廃−ニヒリズムは一部の知識人たちの問題で、社会全体を蝕むには到りませんでした。
 決定的なのは、第2段階、第二次世界大戦・太平洋戦争・大東亜戦争の敗戦後、アメリカの占領政策――日 本人の精神的武装解除――として行なわれた国家と宗教の分離、特に公教育と宗教の分離です。
 ここで、日本の子どもたちは学校で神・仏・天地自然・祖霊の大切さをまったく教わることがない・できないとい う教育制度が作られました。
 日本の精神的伝統であった「神仏儒習合」のコスモロジーの全国民的剥奪です。
 ここで、人生の意味と倫理の根拠になる絶対的なものが、日本の公式文化のなかから姿を消した・消された のです。
 しかし、そこでただちに日本人の精神的荒廃が全面的になったわけではありません。
 そこに到るまでにはもう一つ段階があったと筆者は考えています。
 神仏は死んでも、それに代わるものとしての「人類とその進歩」という「理想」つまりヒューマニズムを信じられ れば、まだニヒリズムには到りません。
 理想を追求することが人生の価値・意味であり、ヒューマニズムは倫理の絶対的な根拠示しうるように思えた からです。
 戦後、1970年頃までは、多くの人、特にまじめな学生は、科学や民主主義による「人類の進歩」や「人権の 解放」を信じていました。
 ところが、第3段階、70年前後、学生闘争の終結以降、「理想」はほとんど死に絶えたといってもいい状態に あるのではないかと思われます。
 そうなった最大(唯一ではないにしても)の原因は、学生闘争の決着の付け方にある、というのが筆者の推測 です。
 筆者も60年代、学生であり、友人のかなり多くが学生運動家とまでいかなくてもそのシンパ(共鳴者)という状 態でしたが、ここでは長くなるので割愛する理由があって、運動には参加しませんでした。
 ですから、全面的に肯定してはいないのですが、学生運動の良質な部分に関しては「世の中をよくしたい」と いう情熱に突き動かされた「まじめな」運動であったと評価していい、と今でも思っています(若気の至りの、お 祭り騒ぎにすぎなかった、あまり良質でない部分ももちろんありましたが)。
 つまり、ヒューマニスティックな「理想」の追求が根本的な動機だったのです。
 ところが、運動は、もっとも象徴的には東大安田講堂への機動隊の導入などの外部の力で鎮圧され、内部 的にも中核―革マルの内ゲバや連合赤軍の浅間山荘事件などに見られる対立―荒廃現象が起こり、市民の 共感・支持を失ってしまいました。
 それは後の世代に、「世の中をよくしようという理想など抱いたって、権力に鎮圧されておしまいだし、そうでな くても内部対立でこわいことが起こるだけで、理想の実現なんかできないんだ」といった強烈な印象を与えたよ うです(これは、たくさんの後輩世代に聞き取り調査的に確かめました)。
 そして以後の経済的繁栄とあいまって、「世の中をよくしようなんてめんどうな理想を持たなくても、みんなでも うけて、パイを分けあって、楽しく生きていけばいいんだ」といった、軽薄、ネアカ、ルンルン……の風潮が、社 会の、特に若い世代の気分の主流になりました。
 そうした状況で、誰かが真剣に考えようとすると、仲間から「ネクラ」と非難され、「マジになるなよ、ダサイぜ」 と冷やかされました。
 そういうふうにして起こったのは、若い世代の心のなかでの「理想の死」です。
 情熱を注ぐべき「理想」がなければ、「シラケル」のは当然です。
 表面は「ネアカ」、内心は「シラケ」というのが、若い世代の基本的な気分になったのではないでしょうか。
 「シラケ」は、徹底されていないけれども、ニヒリズムの兆候だと見てまちがいないでしょう。
 徹底すると死にたくなることがわかっているので、表面はネアカ・ルンルン…と快楽主義でやりすごそうとする のだと推測されます。
 「神・仏・天・祖霊」に加えて、それに代わる「理想」まで死んでしまったとしたら、生きていることの意味や正しく 生きることの根拠も見失われ、もうニヒリズムが氾濫・浸透することをとどめるものはなくなるのではないでしょ うか。
 それでも景気がよく日本人全体の金回りがよかった時代には、快楽主義でやり過ごせる人口も多かったので すが、90年代のバブル崩壊、そして今回の大不況で、快楽を追求する金もなくなってくると、心の荒廃はいっ そう進み、それを行動化(アクティング・アウト)した犯罪・事件がどんどん増えてくるのではないか、と危惧して います。
 このままで大丈夫なのか、どうにかしなければいけないのではないか、どうすればいいのか、本ブログではす でにさまざまなかたちで提案をしてきましたが、これからもご一緒に考えていきましょう。





コスモロジーについて
2005年08月24日


 さて、ここでより基本的なことを考えておく必要があります。それは、人間という生き物の特徴の問題です。
 人間は他の動物と異なって、本来・生まれつきの能力という意味での「本能」によって生きることができませ ん。
 ほとんどすべてのことを「言葉・言語」を媒介にして後天的・人為的に作られた「文化」によって営むのです。
 ここで、言葉なしに人間らしい生活(つまり文化)ができるかどうか、想像してみてください。
 どう考えても、できそうにありませんね。
 つまり、人間は、本能ではなく言葉と文化によって世界を認識し、そのことによって生きていくという生き物で す。
 世界がどういう秩序になっているかということを語る言葉の体系を、宗教学や民族学では「コスモロジー」とい います。世界の秩序(コスモス)を語る言葉(ロゴス)というギリシャ語の合成語からきています。
 人間特有の、世界観・人間観・価値観のシステムを「コスモロジー」というのです(そして、近代西洋の合理主 義=無神論の登場までは、人類が作り出したコスモロジーはほとんどすべて宗教というかたちのコスモロジー でした)。
 人間は、そういう意味での「コスモロジー」なしには生きられない生き物です。
 人間が文化−コスモロジーによって生きることは、プラス面とマイナス面があります。
 プラス面は何よりも、本能のように先天的に決まっていないために、後天的に決める・変えることが自由自在 だということです。
 人間が他の生き物とちがって地球のありとあらゆる環境に広がって生息することができたのは、文化−コス モロジーの柔軟性・多様性のお陰です。
 マイナス面は、文化−コスモロジーは後天的・人為的に作ることができるために、ありとあらゆるかたちにす ることができ、そのため実際、生物の種としてはまったく1つでありながら、ほとんど別の生き物ではないかと思 えるほど別々の文化−コスモロジーが出来てしまうということです。
 ところが文化−コスモロジーは、それを共有する特定のグループの人間にとっては生きていくためにもっとも 重要な枠組みですから、それが自分と異なっていると、「あいつは変だ」、「あいつは異様な存在だ」から、もっと も極端な場合は、「あいつらは人間ではない」とか「あいつらは悪魔だ」とさえ思えてしまうのです。
 戦時中の日本人にとって英米の人々が「鬼畜英米」に思え、アメリカ人にとって日本人が「ジャップ」であり、 野蛮で遅れていて低劣な人間に思えたのは、人間という生き物が抱えた文化−コスモロジーの相違と対立とい う問題が極端な状況において極端なかたちで現われた、ということだったと考えていいでしょう。
 そして「精神的武装解除」とは、勝った側が、負けた側のコスモロジーを「間違っている・野蛮だ・遅れている・ 低劣だ……」と否定して、自分たちの「正しい・文明的な・進んだ・優れた……」コスモロジーを強制的に教え込 もうとした(そして相当程度成功した)ということだったのだと考えられます。






コスモロジー学習の情報源


 生まれたばかりの人間の赤ちゃんはとても無力です。できることといえば、泣くこととおっぱいを吸うことくらい です。しかも、おっぱいも口のそばにもってきてもらって初めて吸うことができるのです。
 しかし、赤ちゃんの無力さは同時に柔軟さでもあります。専門用語では「可塑性(かそせい)」といいます。特 定の本能的な能力で固まっておらず、教育によって驚くほどいろいろな能力を学習することができるのです。
 赤ちゃんの可塑性は大変なもので、ほとんどどうにでも形作ることができるといってもいいくらいです。
 ですから、よく挙げられる例ですが、オオカミに育てられた子どもはまるでオオカミのような行動をするように なるのです。
 そういうふうに、人間が人間になるには、必ず教育‐学習が必要です。
 そして、人間は、もちろん他の要素もありますが、言葉をもっとも重要な核として文化を教育‐学習します。
 言葉によって大人から子どもへ伝達‐教育されるものは、現代風にいえば「情報」です。
 前回お話ししたことと重ねていえば、人間はコスモロジーをもつことなしには生きていくことができない、つまり まとまりのある言葉の束、システム化された情報をインプットされることなしには生きていけない生き物なので す。
 さて、赤ちゃん‐子どもは、そうした情報をどこから得るのでしょうか? 情報源として、どんなものがあるか、 考えて見てください。
 母親、両親、家庭……そうですね。これがまず最初の情報源です。
 それから?
 近所=地域社会、そうです。
 そして?
 学校=教育機関、そしてマスコミ=報道機関……そのとおり。
 (最近、インターネットなど、従来と性質のまったく異なった情報源が出てきましたが、これはまだ幼児には使 いこなせません。)
 敗戦直後の日本を考えてみると、@家庭と地域社会、A学校、Bマスコミ(新聞、ラジオ、出版)のたった三 種類が、コスモロジー学習の情報源だったのです。
 さて、日本人の「精神的武装解除」=大和魂の骨抜き=コスモロジーの剥奪と取替えを意図したアメリカは、 この三種類のどれを押さえればよかったのでしょう?
 マスコミ=報道機関と学校=教育機関、そのとおりです。
 各家庭や地域は、押さえるにはあまりに数が多すぎて、実行不可能です。
 しかしマスコミと学校なら、十分、進駐軍=占領軍の司令部(GHQ)で押さえることができます。
 そして、実際、GHQは、報道機関と教育機関をみごとに押さえ、「精神的武装解除」を実行したのです。
 具体的にいうと、言論統制と教育政策(特に教育基本法、さらに特に第九条のA)という「情報操作」を徹底 的に行なったのです。






アメリカの言論統制について


 GHQ=アメリカ占領軍司令部の行なった「情報操作」の第一は「言論統制」です。
 私たち戦後世代以降は、終戦後、アメリカは日本に「自由」(「言論の自由」を含む「民主主義」)をもたらしてく れた(だから、負けてよかったんだ。だから、「敗戦」とマイナスに思う必要はなく、「終戦」とプラスに捉えればい いんだ)、というふうなイメージを与えられていると思います。
 私自身、小学校低学年つまり戦後間もなく、学校の先生が実にうれしそうな顔をして、「きみたち、いい時代に なったんだよ。人に迷惑さえかけなければ、自分の好きなように生きていいんだよ」というのを聞かされた覚え があります。
 が、歴史的事実としては、GHQはまず約三年半にわたって徹底的な言論統制・検閲を行なったのだそうです (前掲、江藤淳『閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』文春文庫、参照)。
 それは、検閲を行なっているという事実そのものも知らせないという、歴史に類のない検閲だったといいま す。
 例えば戦前の日本では、検閲された文書には、検閲されたことが明らかにわかる××、○○などの「伏せ 字」があって、そこに何が書いてあったかわかる人には十分わかるような検閲でした。
 ところが占領軍の検閲は、検閲した跡が残らないように完全に修正したものしか発表、出版させないし、検閲 されていることは報道させない。その結果一般の人は検閲されているとは思わない、という徹底したものでし た。
 さらにその結果現在にいたるまで、一般の人(私もそうでした)は、「アメリカは日本に言論の自由を与えてく れた」と思っており、「一定期間、徹底的に検閲・言論統制された」とは、夢にも思っていないのです。
 しかし事実は、検閲を通して、大東亜戦争に関する自己弁護はいうまでもなく、戦前の伝統的な価値観つまり 日本の伝統的なコスモロジーを評価・肯定するような発言も、完全に抑圧されたのです。
 絶えず検閲されていると、どういうことを書くと出せなくなり、どう書いておけば出せるかが飲み込めてきます。
 検閲され没にされてしまうと、大変な時間と費用の損失になりますから、そうならないよう絶えずあらかじめ自 己チェックするところまでいくと、やがて、それは無意識の条件づけになってしまいます。
 そして、そういう統制の原理はやがて言論人にとって無意識のタブーになり、あたかも最初から自分もそう考 えていたかのような気にさせられたのだ、と江藤氏はいっています。
 そして少しでも伝統的な価値観を再評価するような主張を見ると、すぐに「右傾化の危険がある」と、始めから 自分の考えであるかのように反応するようになった、というのです。
 こういう無意識的反応は、今でも進歩的知識人のほとんどに見られ、私の最近の主張など、一言いい始めて も最後まで聞いてもらえず、即座に「それは危ないぞ」と反応されたりします。
 アメリカのマインド・コントロール、条件づけの永続的な効果たるや恐るべきものです。六〇年経っても効いて いるんですからね。
 そして心理学的に見たマインド・コントロールの特徴は、「マインド・コントロールされている人は、自分ではさ れていると思っていない。自分でそう考えているのだと思い込んでいる」ということですが、少し前までの私も含 め日本人は、六〇年もアメリカのマインド・コントロール下にあることを自覚していないのです。
 このようにして、コスモロジー学習のために決定的に必要な情報源の一つ・報道機関から、日本のコスモロジ ーはみごとに剥奪されました。
 付け加えておくと、この言論操作がみごとなのは、三年半やればアメリカの望む世論を形成するに必要な程 度の質量の言論関係者が条件づけられるので、後は「自由」にしても、彼らの間ではアメリカが教え込んだ枠 の範囲内で「自主規制」が作動していくことまで見抜いていたらしい、という点です。
 そうなれば、大勢に影響のない範囲で、完全な「言論の自由」があるかのように、戦前的・極右的発言も極左 的発言も放置しておいてもかまわなくなるわけです。
 もう一度。アメリカのマインド・コントロールの意図と効果は実に恐るべきものです。






公教育と宗教の分離


 GHQの「情報操作」の第二は、きわめて体系的な「教育政策」です。
 最高司令官のマッカーサーは、一九四五年八月三〇日、厚木に到着すると、矢継ぎ早に占領政策を実施し ていきますが、その中の教育つまり精神性を変えるために行なった政策の中で重要なものを以下挙げます。
 四五年には、一〇月二二日、軍国主義的・超国家主義的教育の禁止の指令、三〇日、教育関係の軍国主 義者・超国家主義者の追放指令、一二月一五日、国家と神道の分離の指令、三一日、修身・日本歴史・地理 の授業停止、教科書回収の指令などがあります。
 翌四六年には、新年早々から天皇自身が天皇の神格化を否定した詔勅、いわゆる「天皇人間宣言」がなさ れます。
 そしてGHQの完全なコントロール下で憲法が制定され、一一月三日、公布されます。
 ここで、現行の第九条を含むいわゆる「平和憲法」が護るべき価値のあるものかどうか、改正すべきかどうか という議論に立ち入るつもりはありません。
 話のポイントは、私たちの現行憲法がアメリカに決めさせられて決めたものだということは確実のようだ、とい うところにあります。
 (といっても、しばしば質問されるので、あらかじめ答えておくと、私は、「現在の日本人の精神性は非常に低 い水準にあるので、今改正しても、現行憲法以上にいいものが作れるとは思えないから、当分維持したほうが よい。しかし、かなり遠い将来、精神性の水準が高まって、よりよい憲法を作れるくらいになったら、その時には 自主憲法を作り直すべきだ」という、時限的護憲‐改憲論者です。)
 ここで指摘しておきたいのは、憲法全体がそうであるように、第一九条「思想及び良心の自由は、これを侵し てはならない。」も、第二〇条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から 特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。/何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参 加することを強制されない。/国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」 も、日本人が自主的に決めたのではなく、決めさせられて決めたのだ、という点です。
 つまり、内容に価値があるかないかは別にして、この条文(憲法全体)の背後にはGHQ‐アメリカの意図が潜 んでいるということです。
 こういうと、進歩派の方はすぐに、「決めさせられたものだろうがどうだろうが、いいものはいいじゃないか」と 反応されるでしょう。
 しかし、私は、「いいものだとしても、決めさせられたものですよね。そして、誰かが誰かに物事を強制的に決 めさせる場合、何の意図もなく決めさせるということはありえないですよね」といいたいのです。
 バーンズ長官の声明からマッカーサーの一連の政策の流れまでを一貫したものとしてみていくと、その意図と は、表はもちろん「民主化」、裏は日本人の「精神的武装解除」だったと考えてまちがいないのではないでしょう か。
 (このあたりまでの論旨は、主に江藤淳氏の『一九四六年憲法―その拘束 その他』、『忘れたことと忘れさ せられたこと』〔文春文庫、現在品切れ〕の示唆によるものです。)
 さて、憲法の制定に引き続き四七年三月三一日、「教育基本法」と「学校教育法」が公布され、翌四月一日付 けで施行されます。
 もちろん、依然としてGHQがうんといわなければ何も決められないという状況下で、アメリカの指導の下に決 めたのです。
 さて、ここで決定的に重要なことは、「教育基本法」によって、公教育と、天皇制神道だけでなく日本の伝統的 宗教全体(神仏儒習合のコスモロジー)が完全に分離されたことです。
 特にポイントは、第九条です。
「第九条(宗教教育) 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しな ければならない。
A国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならな い。」
 この条文のどこに問題があるのでしょう? 「何も問題はない。当然のことだ」と感じる方が多いのではないで しょうか。
 しかし、まさにその「当然のことだ」という感じられるところに問題があります。
 この第九条、特にAは、実際にはどう機能したでしょう? あるいは、GHQはどう機能させたかったのでしょ う? 
 私は、仕事上も個人的にもたくさんの教師の方と知り合いですが、聞いてみると、公立の先生方はほとんど 例外なく、「公立の学校では宗教を教えてはいけない」と捉えています。
 条文をよく読むと「特定の宗教のための宗教教育……を」となっているのであって、「宗教教育を」とはなって いませんが、公教育の現場では、「公立の学校では、宗教を教えていけない」のだというタブーとして機能してき た―今でも機能している―のです。
 「だから、何が問題だというんだ?」と思われるかもしれません。
 「公立の学校では、宗教を教えてはいけない」、だから「教えない」、子どもの側からいうと「教わらない」という ことは、こういうことです。
 日本の子どもの非常に多数が、学校で宗教つまり日本の「神仏儒の精神性」に触れることを原則的に禁止さ れ、できなくなってしまったのです。
 検閲‐言論統制と教育基本法‐公教育と宗教の分離によって、日本の子どもたちは、日本のコスモロジーを 学ぶ機会を、家庭と地域を除いてすべて、みごとに剥奪されてしまいました。
 非常にたくさん聞き取りをしましたが、戦後、公教育を受けた人の中で、学校で「神さま、仏さまを敬おう。天 地自然に感謝しよう。ご先祖さまを大切にしよう」といった話を聞かされた人は、ほとんどいません。
 逆にいうと、戦前の公立の学校では、「天皇陛下」の話だけではなく、「神さま・仏さま、天地自然、ご先祖さ ま」の話も、ちゃんとなされていたのです。
 ところが、戦後、マスコミと学校という社会的な権威のある情報源で否定されてしまうと、親たちの多くは自信 をもって子どもに神仏儒習合の精神を語り伝えることができなくなってしまいました。
 「学校の先生は、そんなこといってないよ」と子どもにいわれてしまうと、黙ってしまう親が多かったのです。
 しかし親ではなく、その上、つまり祖父母の中には、「これはとても大事なことなんだ」と信じ続けていて、一所 懸命、孫に「神さま・仏さま、天地自然、ご先祖さま」のことを伝えようとした方も相当数いたようです。
 とはいえ、社会の大勢は、恐ろしいほどの勢いで、マスコミ、学校、家庭のすべてにおいて、「神仏儒習合」の コスモロジーを見失う方向へ向っていったといってまちがいないでしょう。
 こうして、日本人の「精神的武装解除」=伝統的精神性の剥奪=大和魂の骨抜きはみごとに成功したので す。
 さて、ここでもう一度。私は、右翼ではありません。最後まで、話を聞いていただけるとうれしいです。






近代化の徹底とニヒリズム
2005年08月30日


 さて、ここからは江藤淳氏のいっていることではなく、私の推測です(といっても西谷啓治先生の『ニヒリズム』 〔創元社版著作集第8巻所収〕などの示唆によるところが大きいのですが)。
 戦後、日本の教育界では、伝統的な神仏儒習合のコスモロジーと明治以後その上に乗っけられた天皇制で はなく、それに代えて、欧米、特にアメリカ的なコスモロジー、より具体的にいうと、「個人主義的な民主主義」と 「物質科学主義的な合理主義」が教えられました。
 これは、明治以来のこととして考えると、「近代化」の徹底、しかも強制的に徹底させられた近代化といってい いでしょう。
 戦後日本の学校では、アメリカ−GHQの強烈な意志と強制的な指導の下で、そうした近代主義的な世界観 があたかも唯一正しい世界観・人生観であるかのように教えられるという事態になりました。
 そこで起こったのは、結局のところ、「すべてのものは物質主義科学によって説明できる物質の組み合わせ にすぎない」という結論に到るような知識と、「かつては家や国のために個人が犠牲にされてきたが、それは封 建的で間違ったことで、個人の権利を尊重することこそ近代的であり大事なのだ」といった思想が、朝から晩ま で、子どもの心に注入されるという事態だったのではないでしょうか。
 これは表のプログラムとしては、理性・科学や民主主義・ヒューマニズムを教えているのですが、その裏で、 教える側も気づかないうちに、
 「人間も結局はただの物質であり、だから生きていることには結局意味がないし、人間を超えた神や仏や天 などただの神話で、だから絶対的な善悪もない。そして、国や村や家などのために犠牲になるのは、バカげた ことで、個人の権利こそ大事なのだ。だから、人間は自分を大事にして、自分の生きたいように生きるしかな い。それは人間の権利なのだから」
というふうな人生観を教えた結果になっているのだと思われます。
 これはもちろんうまくいった場合、「人間は誰だって自分が大事だ。だから、人も大事にしなければならない」 というヒューマニズムを教えることになるのです。
 しかし、人間を超えたより大きな何ものかの存在という絶対の根拠は考えられていません。
 ですから、ほんの少しずれると「人間は誰だって自分がいちばん大事なのだ。だから、余裕があるときは人も 大事にするが、余裕がないときは大事にできなくてもしかたない」ということになります。
 さらにもう一歩進むと「人に迷惑をかけなければ、自分がやりたいことは何だってやっていい」という、小市民 的なエゴイズムになってしまいます。

 さらに一歩誤ると「悪いことをしても、ばれなければいい」、さらに「悪いことをしてばれても、自分に力があって 社会的な制裁を受けなければいい」というところまで行ってしまう危険を底に秘めています。
 もっと徹底すると、「生きていることには意味がない。だから、自分の好き勝手なことをして、死刑にされてもい い」というところまで行きます。
 恐るべきことに、もうすでに、心がそこまで荒廃した人間が現われていて、それを象徴する事件がいくつも起 こっているのではないでしょうか。
 つまり、神も仏も存在せず、個々、ばらばらのモノがあるだけだという世界観は、理屈としてつきつめると必 ず、「すべてには意味がない」、「善悪の絶対の基準はない」ということになります。これを「ニヒリズム」といいま す。
 そして、人間の命もモノの寄せ集めにすぎないのですから、もちろん意味はないのですが、とりあえずなぜか 生きていて、自分の気持ちのいい悪い、好き嫌い、快不快はありますから、それを追求して生きるしかないとい う考え方に到ります。それを、「快楽主義」といいます。
 しかし、そうしたところで、そういう考え方からすると、「死んだら元のばらばらのモノに帰って、すべて終わり」 ですから、結局は意味がないのですが……。
 それを人生観としてつきつめると、うつ病になるか自殺するしかなくなります(実際、アンケートなどの調査か ら、うつや自殺願望の若者が驚くほど多いことがわかります。)
 しかし、たいていの人はなぜか生への執着はありますから、そこはつきつめないでごまかして、日々のいろい ろな「気晴らし」で生きてくしかないということになるのです。
 近代主義(理性・科学や個人主義的な民主主義など)には、もちろん大きなプラス面があります(それについ ては次回述べていくつもりです)。
 しかし、近代主義的なコスモロジーを徹底すると、必然的にニヒリズム−エゴイズム−快楽主義に陥ってしま うという致命的なマイナス面があるのです。
(少し前まで若者に相当数の支持者がいたらしい宮台真治氏の主張などその典型的なものだと思います。私も 寄稿している『宮台真治をぶっ飛ばせ』コスモス・ライブラリー、参照。)
(話を先取りしていっておくと、それは、人類が人類=ホモ・サピエンスとしての歩みを始めたときからずっと抱 えていた〈分別知〉がもっとも発達したからこそ達したその限界だともいえるのですが。)
 欧米では、もっと早い時代に、近代的な理性・科学によってキリスト教の神話が批判され、もはやそのまま信 じることはできないというふうになり、ニーチェという思想家の言葉でいうと「神の死」と「ニヒリズム」がやってき たわけです。1) 2)
 そして、日本では開国−明治維新と敗戦という二段階のプロセスを経て、そういう欧米的な近代的な理性・科 学が社会に浸透し、いまや「神仏儒習合」の世界観が決定的に崩壊しつつあって(いわば「神仏天の死」)、遅 れて本格的なニヒリズムが社会を脅かしつつあるのではないでしょうか。
 現代日本の大人も子どもも陥っているように見える心の荒廃は、いちばん深いところでいうと、近代主義的な コスモロジーが必然的にもたらすニヒリズム−エゴイズム−快楽主義の問題なのだ、と私は捉えています。
 格言風にまとめてみましょう。「時代が病んでいるから、個々人も病む」と。
 したがって、個々人を癒すためには、時代(のコスモロジー)を癒す必要があるのです。
 「時代のコスモロジーを癒すなんてことができるのか?」という疑問が出てくるでしょう。
 できる、と私は考えています。そのことを示すのが、本講義全体の大きな目的の1つなのです。
 しかし、近代のコスモロジーの病を癒す、新しいコスモロジーを創造するというのは、大変な作業です。
 ブログ向きではないかもしれない、長い話にならざるをえませんが、時代と自分の心の病を癒したい方、ぜ ひ、根気よく付き合ってください。






近代のプラス面
2005年08月31日


 「近代」または「近代化」は、西洋から始まったことです。
 これまでお話ししてきたとおり、日本は西洋に遅れて、明治維新の文明開化と敗戦によるアメリカ化の2段階 を経て、いやおうなしに「近代化」してきた、あるいはさせられてきたわけです。
 半ば(あるいはそれ以上?)強制的だったという問題をいったん置くと、近代化にはもちろんたくさんのプラス 面がありました。
 このプラス面のことばかりいっていれば、「進歩派」知識人と見なされて、進歩派のみなさんには受けがいい のですが……。
 しかし、これまでお話してきたとおり、近代的なコスモロジーには根本的な欠陥があります。
 さらにしかし、近代には非常に優れた面がたくさんあるわけで、私たちは驚くほどの質量で近代化の恩恵をこ うむっています。
 そこをいわないと、公平を欠くことになりますし、そもそも先に進めないと思います。
 私のいいたいことは、「昔はよかった。昔へ帰ろう」ということではありません。
 伝統のいいところと近代のいいところのどちらも失うことなく、それぞれの悪いところは超えていく、という離れ 業をなんとかやってみたいということです。
 さて、近代のどこが優れているのか、私の知るかぎりもっとも整理された論を展開しておられるのは、富永健 一氏です(『日本の近代化と社会変動』、『近代化の理論』、『マックス・ウェーバーとアジアの近代化』〔いずれも 講談社学術文庫〕)。
 富永氏の説を拝借して、まとめておきましょう(『近代化の理論』、特にp.35)。
 @まず、技術的経済的領域の、特に技術面では、人力・畜力から機械力へという動力革命が行なわれまし た。それは、さらに情報革命にまで発展してきています。
 これは、労働が効率的になる、便利になるという意味では、圧倒的にプラスです。
 さらに富永氏は指摘しておられませんが、技術の中でも特に「医療技術」の発達を挙げておく必要があると思 います。
 病気の克服は、人類の長年の夢だったのですから、これもまた近代のすばらしい成果です。
 経済では、第一次産業から第二次・第三次産業へと比重が移り、自給自足経済から市場的交換経済(資本 主義)へと発展してきました。
 これは、産業化→社会の生産力の飛躍的な向上→貧困の克服という意味では、議論の余地なくプラスです。
 しかし、「貧困の克服」がなされているのは、先進国のみであり、また市場的交換経済=資本主義的生産様 式がはたして有限の地球環境と調和するのかという点については、根本的に疑問がありますが、ここでは話の 流れからややそれるので、置いておくことにしましょう(拙稿『自然成長型文明に向けて』参照)。
 A政治的領域では、法が伝統法から近代法へと発展し、政治では、封建制が近代国民国家へ、専制主義が 民主主義へと発展しました。おおまかにいえば、「市民革命」の成果です。
 個々人が多くの不合理な制約から自由になったという意味で、これもまた私たちが享受していて、決して後戻 りできない、したくない、してはならない近代の大成果です。
 B社会的領域では、社会集団は、家父長制家族から核家族へ、機能的未分化な集団から機能集団(組織) へと変化していきます。それと並行して、地域社会は村落共同体から近代都市へと「都市化」を遂げていきま す。
 社会階層に関しては、身動きのつかない身分階層から自由・平等で努力しだいで移動が可能な社会階層に なっていきます。
 抑圧的で硬直的な身分制から、自由・平等な社会になったことは、誰が考えてもすばらしい「進歩」です。私 も、この点に関して、前近代の身分制がよかったとか、それに帰ろうなどとは夢にも考えていません。
 富永氏は、「核家族化」と「都市化」も含め、近代のほとんどを肯定しておられるようです(「私自身は近代主 義者ですから、近代が終焉すべきであるとか、近代は超克されなければならないなどとは毛頭考えません。」 前掲書p.468)。
 これも詳しく論じることはしませんが、私は、大家族から核家族へ、村落共同体から都市へという方向にも、 単純に肯定できないものを感じています。
 しかし、私たちの多くが戦後、体験してきたとおり、大家族から核家族へ、村から都市へという流れを通じて、 個人が多くのしがらみから解放されて、とても気楽に生きられるようになったという面があるのは確かです。
 C文化的領域では、まず社会の主流の知識が神学的・形而上学的なものから実証主義的なものへと大変動 を遂げます。「科学革命」と呼ばれるものです。
 それから価値に関する面では、「宗教改革」と「啓蒙主義」をとおして、非合理主義から合理主義へという、大 きな変動・進歩がありました。
 もちろん、神学から実証主義へ、非合理主義から合理主義という変動は、ある面、大きな進歩・発展だったと 思います。
 私は、トランスパーソナル心理学、仏教、宗教について論じることが多いので、しばしば印象だけで、実証主 義から神学・伝統宗教へ、合理主義から非合理主義へという「反動的」なことを主張しているかのように誤解さ れることがあります。
 しかし、以上まとめた「近代化」の成果の主な部分に関して、私は大変な成果であり進歩であると考えていま す。
 そして、プラス面に関しては、「決して後戻りしてはならない、できない。それどころか、まだ不十分なところは さらに進めなければならない」と考えています。
 そういう意味で、近代を全面的に肯定する「近代主義者」ではありませんが、近代の成果は十分に評価して いるつもりなのです。






近代主義によって深刻化した3つの大問題
2005年09月01日


「近代主義」においては、合理的な思考が科学を発展させ、科学が技術を発展させ、技術が産業を発展させ、 社会を便利にし豊かにしました。
 また、合理的な思考は、神話・迷信を批判し、神話に基づいた身分制を否定し、個人の尊厳(人権)と自由を もたらしました。
 こうしたプラス面だけを見ていくと、近代主義はいいことずくめのように見えます。
 しかしすでにある程度述べてきたように、決定的なマイナス面もあるのです。主な3つの問題を指摘しておき ましょう。
 @マイナス面の第1は、「環境破壊」です。近代における合理性→技術→産業の発展は、文明による自然破 壊=環境破壊を恐るべき規模にまで拡大してしまっています。
 文明史の研究者たちの中でよく知られた、「文明が栄えた後に砂漠が残る」という言葉があります。考えてみ ると、古代文明の栄えた後はみな砂漠になっているのです。
 それは、古代文明が建築資材と燃料としてまわりの森林を伐採し続け、森林が消失すると共に文明そのもの も生きる基盤を失って滅亡していったからだと考えられます。
 そういう歴史を見ても、環境破壊は昨日今日始まったものではありません。しかし、ここまで大規模化したの は、人類史始まって以来であることはまちがいありません。
 Aマイナス面の第2は、「戦争の規模拡大」です。20世紀、人類は(欧米を中心として)人類史上最大で最悪 の戦争を2度も行なっています。
 これは、合理性→技術→産業の発展→資源と市場の必要→植民地獲得競争が中心的な原因だったと考え られます。
 また技術と産業の発展は、軍事技術と軍事産業の発展をももたらし、戦争の大規模化を進めたこともまちが いないことでしょう。
その最大でもっとも深刻な問題が「核兵器」です。
 「核軍縮」とか「核拡散防止条約」とか、いろいろ事態はよくなっているように見えますが、しかし現在に到るま で、地球の表面を何十回も焼け野原にしてもまだ余るくらいの核兵器が存在することは、少し調べれば誰にで もわかることです。
 そして、第二次世界大戦後すでに半世紀以上経過していますが、いまだに戦争はまったくなくならりそうもあり ません。
「核の廃絶」も「戦争の廃絶」も実現せず、「世界平和」は実現していないのです。
 Bそして、マイナス面の第3が、本講義のテーマにかかわる「ニヒリズム」です。
 思想史を調べてみると、古代から無神論も虚無主義もないわけではありません。虚無主義的な倫理の否定 も快楽主義もありました。
 しかし、例えば私のアンケート調査の結果が示しているような、若者のきわめて多数が、「人間は死んだら無 になる」、「人間は結局自分が一番大事だと思うものだ」、「人生は自分の楽しみのためにある」と考えているよ うな社会は、人類史上かつてなかったのではないでしょうか。
 近代のすべてを物質に還元して捉えてしまうような「科学」は、必然的に「神」や「魂」といった「精神的なもの」 の存在を否定します。
 近代科学主義をつきつめると、世界には「神はいない。モノだけがある」というコスモロジーになるのです。
 それでもある段階までは、「神はいない。人間とモノだけがある」。そして、「人間には価値(尊厳)がある。そ の価値ある人間がモノを利用しながら、より幸福になっていくのだ(進歩)」というヒューマニズム(人間中心主 義)が信じられていました(いまでも信じている人もいるようです)。
 しかし人間も、近代科学的に捉えると、ばらばらの物質(例えば原子)の組み合わせとその運動なのであっ て、死ねば元のばらばらの物質に還って、それで終わりです。
 モノの寄せ集めに、絶対的な意味があるといえるでしょうか? モノの寄せ集め(個人)のさらに寄せ集め(社 会)に、絶対的な倫理が成り立つでしょうか?
 モノには、運動や運動の法則はありえても、意味や倫理はありえません。
 近代の科学主義では、人間の心は、複雑な、しかし所詮モノである「脳」の働きに還元して理解されます。もち ろん、喜びも悲しみも愛も創造も、モノである脳の働きの産物にすぎません。
 ……というわけで、近代の物質還元主義的な科学は、つきつめれば必然的に「ニヒリズム」になります。
 つきつめなければ、絶対的な根拠はないまま、人間が自分で勝手に「人間には価値がある」と主張している だけとしか思えない「ヒューマニズム」に踏みとどまることもできますが。
 あるはさらにもっと徹底しないようにすれば、「絶対的な意味はなくても、自分なりの意味や生きがいや楽しみ や快楽があればいいじゃないか」と思って、それなりに生きることももちろんできないことはありません。
 「つきつめれば」ということに関して、非常に典型的なエピソードがありました。
 私が初めて大学に毎週講義に行くようになった年、数回の授業が終わった後、やや幼い顔をした可愛い女 子学生が、その顔に似合わない深刻な表情で話に来て、こういいました。
 「先生、私は考えれば考えるほど、死にたくなるんですが、友達に相談したら、『バカ、考えるから死にたくなる んだ。考えるのはやめたほうがいい』といわれました。考えないほうがいいんでしょうか?」
 私は、こう答えました。
 「きみたちが学校で教わってきたことを元にして、考えれば考えるほど、死にたくなるんだけど、これから考え れば考えるほど、死にたくなくなる、生きたくなる考え方を伝えるから、あわてて死にたがらないで、がんばって 授業に出ておいで。」
 そして彼女はがんばって続けて授業に出てきてくれましたが、前期末に、私が「どう、まだ死にたい?」と聞く と、彼女は「だいぶ死にたくなくなりました」と答えてくれました。学年末には、さらに元気になっていきました。
 これまで、だいぶ深刻な、若者の言葉でいうと「暗い」話をしましたが、もう少しで明るい話になっていきます。 もう数回、我慢して聞いてください。






近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 1
2005年09月02日


 近代のプラス面は、何よりも合理主義と近代科学が生み出したものだといっていいでしょう。そして、実はマイ ナス面もそうだと思われます。
 (以下、合理主義と科学をまとめて、「近代科学」と呼んで論じていきます。)
 近代科学の方法のまず第1のポイントは、「主客分離」でした。
 この「主・客」というのは、英語でいえば「subject」と「object」ですが、日本語に訳す場合に、「主体」・「客体」 と、「主観」・「客観」と2通りに訳すことができます。
 第1に、自分がどう思っているか、伝統社会がどう考えてきたか、まして私や私たちがどう信じている、どう信 じたいという「主観」を脇において、対象=客体そのものがどうなっているかを「客観」的に観察・研究していくわ けです。
 それが、それまでのキリスト教の教義(つまり信じていること=主観)を前提に体系化された神学・形而上学と まるでちがうところです。
 神学では、信じていること=主観と事実そのもの=客観を分離することなく、信じていることに合うように事実 を解釈するという傾向がきわめて強かったといっていいでしょう。
 それに対し科学は、たとえ正統的な教義がどうなっていようと、聖書にどう書いてあろうと、それが「客観的な 事実かどうか」を問うたのです。
 そのことによって、まさにそれまで信仰・教義・主観に覆われて見えなかった客観的な世界のさまざまな姿が 見えてきました。
 そこで、歴史的によく知られた「科学と宗教の闘争」がさまざまなかたちで行なわれました(ここでは、詳しく述 べません。例えば、ホワイト『科学と宗教の闘争』岩波新書、参照)
 そして、近代の歴史は、「客観」と「主観」を分離するという近代科学の方法が、物事のあり様を研究する上で いかに有効かを実に鮮やか示してきました。
 「科学と宗教の闘争」は、欧米でも完全に終わったとはいえませんが、全体としては科学の圧倒的な優勢(ほ とんど完勝?)という結果になっていることはまちがいありません。
 さて、近代科学の方法のポイントの第2は、「分析」(と「総合」)です。
 観察する主体と分離して、向こう側に置かれた研究対象=客体の「全体」は、なるべく小さな「部分」へと「分 析」されます。
 つまり「全体」をばらばらにして、ばらばらの「部分」へと還元するわけです。
 そしてそれぞれの「部分」がどうなっており、それらの「部分」がどう組み合わさっているかを明らかにしていき ます。
 そして、最後にばらばらの「部分」を元のかたちに組み立てます。それを「総合」といいます。
 ばらばらにされた「部分」が組み合わされる=総合されると、それで対象・客体の「全体」が分かったということ になります。
 この方法は実に切れ味がよかったのです。この方法を使うと、ほとんど何でも分かるように思えました(いま だに思っている方も少なくないようです)。
 何しろ物事の全体を部分の組み合わせとして捉えれば、その組み合わせはどうにでも変えられるようになり ましたから、実に便利でした。
 分析という方法が、さまざまなものを人間の都合のいいように組み換える「技術」を驚異的に発達させたので す。
 その極みが、「遺伝子組み換え技術」でしょう。いのちのかたちを生み出す情報を分析し、そしてそれを組み 換え、今までなかった新しいかたちを作り出すことさえできるようになりました。
 こうした近代科学の基本的な方法は、まず、主体(人間)と客体(研究対象)を分離し、さらに客体も部分へと 分離・分析するのですから、これはわかりやすくいえば「ものごとをばらばらにすることを原理にした方法」とい ってもいいでしょう。
 そういう方法のお陰で、いろいろなことが客観的に分かってきた、そしていろいろに組み換える技術も発達し た……どこが悪いというのでしょう? いいとこばかりのように見えます。それこそが「近代の栄光」というものな のではないでしょうか?






近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 2
2005年09月03日


 近代科学の根本的な問題は、「主客分離」と「分析−総合」という方法があまりにも切れ味がよく、かつ便利 がよかったので、ついついその方法によって見えてくる世界の姿が、世界の現実そのものだと取り違えたとこ ろにある、というのが私の考えです。
 よく考えて見ましょう。
 何かを観察・研究する場合、自分の主観をいったん脇に置くことはとても大切で、有効・妥当です。
 しかし、事実を考えてみると、観察・研究している時にも、実は対象・客体と研究者・主体にはつながりがあり ます。
 分析で「生きた現実」を捉え切ることはできません。
 例えば私たちの世代が中高生の頃、やらされたカエルの解剖の場面を取ってみましょう。
 麻酔をかけられたカエルは、解剖という研究の対象として、いろいろな内臓や筋肉などに切り分けられていき ます。
 そうすると、確かにカエルという生き物の内部の仕組みが分かってきます。
 これを日本での人体の解剖の場合に置き換えてみると、それまで漢方の医学書に書いてあったことを鵜呑 みに信じていたのに対して、「本当に人間の臓器はそうなっているのか?」と疑問を持って、人体を切り分ける ことによって、臓器の実態が分かってきました。
 それは、手術など医療技術の飛躍的な進歩に貢献したのです。
 しかしよく考えると、切り分けて死んでしまったカエルは、生きていたカエルではありません。
 たとえ、切り分けられてばらばらになった臓器や筋肉や手足を縫合してつなぎ合わせて、元のかたちに戻して も、それは生きた全体としてのカエルにはならないのです。
 しかも生きたカエルは、実はカエルだけで生きているのではありません。
 一匹のカエルがそこに生きているためには、まず何よりも長い長いカエルの先祖たちからのいのちのつなが りが必要です。
 そしてカエルが食物として食べる無数の虫たちのいのちが必要です。
 住む場所としての、池や川、そしてその水が必要です。
 吸っている空気も必要です。
 吸う酸素を出してくれる植物や水中微生物も必要です。
 ……こうしたことは、考え始めると終わらないくらい無数にあるのです。
 こうしたさまざまなものとの絶えることのないつながりがカエルを生かしています。
 そして、そのカエルと私は、おなじ地球でおなじ空気を吸って生きています。生きている環境・世界を共有して いるという意味で、つながっているのです。
 生きた現実としての私とカエルと世界は「主客分離」などしていません。
 これは1例にすぎませんが、世界中のあらゆるものがつながり合って存在しているというのが、「生きた現実」 なのではないでしょうか?
 近代科学は、すべてを究極の部分(ある段階では「原子」という「物質」)に分析・還元して、世界の客観的な 姿を捉える努力をしてきました。
 繰り返していうと、それは、研究の方法としては、きわめて有効・妥当だったのですが、まず何よりも、「生きた 現実」としての世界の姿を捉えたとはいえません。それが第1の問題点です。
 そして第2の問題点は、すでにお話ししてきたように、そうした方法で描かれた世界は、ばらばらのモノ(原 子)の組み合わせでできていて、神も魂もそういう方法では検証できない以上存在しないことになったということ です。
 個々人のいのちや心さえも「物質の組み合わせと働きにすぎない」ということになったのです。
 「神はいない。人間とモノだけがある」から「神はいない。モノだけがある」というところまでいった物質還元主 義(唯物主義)な科学の目で見ると、「すべては究極の意味などないただのばらばらのモノの寄せ集めだ」とい うことになります。
 世界はばらばらのモノの寄せ集めであると考えるような世界観を、私はわかりやすく〈ばらばらコスモロジー〉 と呼んでいます。
 近代の世界観はつきつめると〈ばらばらコスモロジー〉になり、それを人生観にまで適用すると、ニヒリズム− エゴイズム−快楽主義に到らざるをえない、そこに近代の決定的なマイナス面・限界(の主要な1つのポイント) がある、というのが私の見方です。
 明治維新と敗戦による「近代化」によって、日本人は近代のプラス面だけではなくマイナス面も背負うことにな ったのだと思うのです。






近代人の典型的な悩み――パスカルのケース
2005年09月04日


 もう1回だけ、やや暗い、でもたぶんみんな非常に共感できる話を。
 みなさんもよくご存知のブレーズ・パスカルは、近代初期の人で(1623〜1662)、近代人としての典型的な悩 みをつきつめたことで知られています(参考書:三木清『パスカルにおける人間の研究』岩波文庫)。
 彼は、まずすぐれた科学者として出発し優れた業績をあげましたが(「パスカルの原理」)、やがて近代の科学 合理主義のマイナス面を深く見つめた思想家となり、結局、自らを救うためにカトリックの熱烈な修道者になっ ていきました。
 有名な『パンセ』は、前半では近代人が必ず陥る「空しさ」とそこからの逃避としての「気ばらし」について述 べ、後半では空しさからの救いはキリスト教信仰しかないことを論証しようとしています。
 後半は現代人の私たちにはあまり説得力がないように思いますが、前半はまるで自分のことをいわれている かのようにリアリティがあります。
 これまでお話ししてきたことの例証として、少し引用してみようと思います(『パンセ』田辺保訳、角川文庫版、 読みやすくするために原文にない改行を加えました)。

「この劇(人生のこと――筆者注)は、ほかの部分ではどんなに美しくても、最後の場面は血みどろなの だ。頭から土をかぶせられて、それでもう永遠に一巻の終りである。」(断章210)

「流転――自分の所有するすべてのものが流れ去っていくと感じるのは、なんとおそろしいことであろう か。」(断章212)

 近代的・物質還元主義的な科学で考えると、確かに人間は死んだら「無になる」、「土になる」、「もう永遠に一 巻の終り」ということにならざるをえません。

「こんな状態を想像してみるといい。
 大ぜいの人たちが鎖につながれている。その人たちはみな、死刑の宣告をうけた人たちだ。
 その中の何人かが、毎日のようにみんなの見ている前で首を切られ、残った者は、そういう仲間の身 の上がやがて自分の身の上になるのを知って、希望もなく・悲しそうに顔と顔とを見合わせながら、自分 の順番が来るのを待っている。
 人間の条件を絵に描いてみればこうなる。」(断章199)

 「死んだらすべてが終り」、そして死はかならずすべての人にやってくる。「人間の条件を絵に描いてみればこ うなる」わけです。
 しかし、近代合理主義的な面もある思想家として、パスカルはこう考えて強がってもみます(おそらくパスカル のもっとも知られた言葉ですが、パスカルのポイントではありません)。

「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である。これを 押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すに十 分である。
 しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬこ とと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからである。宇宙はそんなことは何も知らない。
 だから、わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。まさにここから、わたしたちは立ち上 がらなければならないのであって、空間や時間からではない。わたしたちには、それらをみたすことはで きないのだから。だから、正しく考えるようにつとめようではないか。」(断章347)

 けれどもどんな正しく考えてみても、近代のばらばらコスモロジーによっては、人生に関する根本的に重要な 問い――Big Questions――の答えを知ることができません。

「だれが、わたしをこの世界に置いたのかを、わたしは知らない。この世界がどんなものであるか、わた しがなにものであるのかも、知っていない。わたしは、すべての事柄についておそろしいような無知の状 態にいる。
 ……わたしには、自分を閉じこめているこの宇宙のぞっとさせるような空間が見えてくる。自分がこの 広大な広がりのほんの片隅につながれた存在であることがわかってくる。
 しかも、このわたしは、なぜ自分があちらでなく、こちらに置かれているのか、知っていない。
 また、自分に与えられている生きるためのこのわずかなわずかな時間が、わたしに先行するすべての 永遠の時と、わたし後にくるすべての永遠の時の中で、他の地点に定められず、この地点に定められた のはなぜかも知らない。
 どちらを見ても、わたしの目に映ってくるのはただはてしれない無限ばかりである。その無限がわたし を一原子のように取りかこみ、一瞬ののちにはたちまち消え去って戻ることのない影のように取り包んで いる。
 わたしがよく知っていることといえば、自分がやがて死ななければならないということだけである。しか も、どうしても避けることのできないこの死を、わたしはいちばん知らないのである。
 わたしは、自分がどこから来たのかを知らないのと同様に、自分はどこに行くのかも知らない。
 わたしはただ、自分がこの世を離れたら、未来永劫に虚無の中におちこむか、それとも怒りの神のみ 手の中におちこむかどちらかであることだけを知っている。
 しかし、この二つの条件のうちどちらの方に、わたしが永遠にふりあてられているはずなのかを、わた しは知らない。これが、わたしの状態なのだ。弱さと不確実さにみちたわたしの状態なのだ。(後略)」(断 章194より)

 あえていえば、「すべては偶然である」ということにしかなりません。
 こうした人間のおそろしいまでの無知に気づいて、宇宙のことを考えると、以下のような感情が湧いてきま す。

「この果てしない空間の永遠の沈黙が、わたしにはおそろしい。」(断章206)

 近代人がばらばらコスモロジーを元にして人生を考えると、心の底からおそれや空しさが湧き出してきます。
 先にご紹介した女子学生の言葉でいえば、「考えれば考えるほど、死にたくなる」のです。
 そしてそこで彼女の友人のように、「バカ、考えるから死にたくなるんだ。考えるのはやめたほうがいい」という 手を考え出すことになります。

「気ばらし――人間は、死も惨めさも無知も癒すことができなかったので、幸福になるために、こういうこ とは考えずにいようと思いついたのだった。」(断章168)

「……こうした惨めさを見ながらも、人間は幸福になりたいと思う。幸福になりたいとのほかは何も思わな い。また、そう思わずにはいられない。けれど、それにはどうしたらいいのだろう。その望みをかなえるた めには、さしずめ、自分が不死の者にでもならなければならないのであろう。だが、そうなることはできな かったので、人間は、こういう惨めなことはもう考えずにおこうと思いついたのだった。」(断章169)

「……この弱く、死すべき人間の条件のことは、わたしたちが、そのことをつきつめて考えてみると、もう 何ものによってもなぐさめられないほどに惨めであわれなものである。……だから、人間にとってただ一 つの幸福は自分の条件を考えることから、気をそらすということにつきるのだ。何かに熱中してそんなこ とを考えずにすますか、目あたらしい・快い情念の中にいつもおぼれているか、賭けごとをしたり、猟をし たり、おもしろい芝居でもみたり、要するに、いわゆる「気ばらし」をして、気をまぎらすことにつきるの だ。」(断章139)

 しかし多くの学生が報告してくれます。「みんなと一緒にいて騒いでいる時はいいんですが、下宿に帰って一 人になると、また空しくなって死にたくなるんです」と。

「退屈――情熱もなく、仕事もなく、楽しみもなく、精神の集中もなく、完全な休息状態にあるほど、人間に とって耐えられないことはない。その時、人間は、自分の虚無、自分の見捨てられたさま、自分の足りな さ、自分の頼りなさ、自分の無力、自分の空虚をひしと感じる。たちまち、人間のたましいの奥底から、退 屈、憂い、悲しみ、悩み、怨み、絶望が湧き出してくるであろう。」(断章131)

 ニヒリズムとそれからの逃避としての快楽主義は、17世紀の哲学者パスカルから21世紀の若者に到るま で、一見、「それしかない」と思えるような、近代主義者が迷い込む迷路、しかもおそらく行き止まりの迷路であ るようです。
 では、この迷路からは抜け出せないのか? 抜け出せる! というのが私の考えです。
 暗い話が続きましたが、次回からようやく明るい話になっていく予定です。ご期待ください。






美しい銀河の中の私
2005年09月04日 





 明るい話の先取りを少し。
 写真は、私たちの天の川銀河にいちばん近い――といっても230万光年の彼方ですが――大型銀河、アン ドロメダ銀河です。
 私たちは、これに似た美しい銀河の中に生きているのです。
 作家川端康成のノーベル賞受賞記念講演のタイトルは「美しい日本の私」(同名の講談社現代新書に収録) でしたが、私たちは「美しい銀河の中の私」であるわけです。
 望遠鏡の発達していなかった時代のパスカルは、夜空を見たとき、「この果てしない空間の永遠の沈黙が、 わたしにはおそろしい」と感じたのですが、私たちはこういう写真を見ると、「宇宙は美しい!」と感じてしまいま す。
 それが、近代人と現代人のちがいだといっていいでしょう。

*インターネットで探していて、この写真をダウンロードした後で著作権の表記のことに気づきましたが、 どのHPだったか、わからなくなってしまいました。著作権者の方、申し訳ありません。






銀河の中心部
2005年09月05日





 私たちは、天の川銀河の中に住んでいます。
 ですから、私たちのもっとも詳しい住所は、宇宙内天の川内太陽系内地球上日本国○○県○○市……とい うことになります。
 ご存知のとおり、天の川銀河は直径約10万光年、私たちの太陽系は中心から約3万光年の位置にあるの だそうです。
 天の川の中から天の川を見ると、乳白色の煙るような星の流れに見えます。それで、日本では「天の川」と呼 ばれてきました。英語では「Milky Way ミルクの道」といわれます。
 夏の夜、南の空、いて座の方向が天の川の中心部だそうです。
 詳しい話は天文学者の方におまかせするとして、私たちの世界観=コスモロジーにとって大切なことは、20 世紀、人類は「自分が宇宙のどこにいるか」ということをかなり確実に知ることができるようになったということで す。

*写真の著作権は野田司さんにあります。ASTRO PHOTO GALLERY http://www.nnet.ne.jp/~tsukasan / には、素敵な天文写真がいっぱい。感動できます。






自信の3つのレベル


 「自信」という言葉は、「自己信頼」の略と考えることができます。
 この場合の「自己」とはどういうものかが問題になりますが、ここでは難しい哲学的な話をするつもりはありま せん。
 どうしたら「本当の自信」を得ることができるか、言い換えると「ゆるぎなき自己信頼」を獲得できるかという、 実践的な目的のために必要な範囲にかぎって、話をしたいと思います。
 まず、「自己」には、ふつうにいう「自分」つまり個人としての自己というレベルがあります。
 ここのところお話ししていたのは、この個人レベルの自己への信頼をどういうふうに確立するかという理論と 技法のことでした。
 「自己」は、ふつうそうした個人レベルの「自分」としか考えられていないことが多いのですが、実は集団の一 員としての「自分」というレベルもあり、そしてそれも非常に大切です。
 例えば、自分の家族に誇りを持てるかどうかは「自信」のあるなしに大きな影響がありますし、その他、自分 の所属する地域や組織を信頼できるかどうか、それに誇りを感じられるかどうかも影響するでしょう。
 それから、自分の国や民族を信頼し、それに誇りを持てるかどうかも、自信に関係してきます。
 近代の日本人は、自分の国や民族にあまり誇りを持てなくなって(されて)います。
 そのあたりの事情は、初めのほうの記事「崩壊の三つまたは四つの段階」で、ある程度述べたとおりです。
 集団レベル、特に国家・民族レベルの自信をどう回復するかは、非常に重要な問題であると同時に、非常に 議論の多いところです。
 そこを論じ始めるとかなり難しい問題になりますので、重要ではあるのですが、この授業では、ずっと後のほ うにしたいと思っています。
 それからもう一つ。世界‐コスモスの中の「自己」に関する、世界観‐コスモロジーのレベルの問題もきわめて 重要です。
 近代人が究極のところなぜ自信が持てないか、近代化、近代主義、近代科学のコスモロジーなどについて詳 しくお話ししました。
 簡単に復習しておくと、近代科学の世界観=コスモロジーでは、「神はいない。人間とモノだけがある」から「モ ノだけがある=すべてはモノにすぎない」という考えに行き着き、その結果、自分の存在には意味がないという ニヒリズムに陥ってしまい、究極の自信喪失に到るほかない、ということでした。
 ところが、非常に喜ばしいことに、いわゆる「近代科学」と、一九世紀末から二〇世紀いっぱいをかけて形成 されてきた、いわば「現代科学」との間は大きな飛躍があり、「現代科学」では、「すべてはモノにすぎない」とい うコスモロジーは決定的に克服されているのです。
 私の考えでは、「現代科学」(の大きな合意ライン)を学ぶと、もうニヒリズムなどには陥っていられなくなるの です。
 ところが、いろいろな事情があって、日本の戦後教育では「近代科学」の大まかな成果は学校で教えられる のですが、「現代科学」の、特にコスモロジーとしての到達点については、まったくといっていいほど教えられて いません。
 そこで、次回から、「現代科学」の大きな合意ラインが描き出す、生きる自信をわきあがらせてくれる世界観 =コスモロジーについて、必要以上に細部に入ることなく、なるべくわかりやすく全体像をお伝えしていきたいと 思います。
 このコスモロジーを学んだ多くの若者が、「世界が輝いて見えてきた」といってくれます。
 きっと、ネット学生のみなさんの多くも、そうなっていただけるでしょう。どうぞ、ご期待ください。






自分で自分を生んだ人はだれもいない
2005年10月05日


 現代科学から見えてくるコスモロジーについてお話しすると予告しました。
 でも、その前に出発点として、近代科学や現代科学がどういう仮説を述べているかということと関わりなく確実 なことを確認しておきたいと思います。
 さて、私たちは今生きているわけですが、これはかつて生まれたからですね。
 そこで考えていただいたいのですが、みなさんの中に、自分で自分を生んだ方がおられるでしょうか?
 「え? 何をバカなことを聞くんだ?」といわないで、ごく単純に事実を確認していただきたいのです。
 自分で自分を生んだ人は、この世界には1人もいないんじゃないでしょうか?
 みんな「生まれた」のであって、「生んだ」んじゃないんですね。
 現代の日本人の多くがふだんほとんど意識していないようですが、私たちのいのちは自分で生んだり作っ たりしたものではなく、生まれたもの・与えられたものです。
 これは、特定の思想や主義ではなく、私の主観でもなく、さらに科学で証明される必要もない単純明快な、だ れでもいわれれば認めざるをえない「事実」だと思うのですが、いかがでしょう?
 思春期に親と口ゲンカして、「頼んで生んでもらった憶えはない」といったことのある方も少なくないでしょう。
 実際、私たちのいのちは頼んで生んでもらったものではありません。
 「命」という漢字がそのことをよく現わしているようです。
 確かにいのちには、頼んだのではなく、「命令」された・強制されたという面があるといっていいでしょう。
 けれども大切なことは、「頼んで生んでもらった憶えはない」というのは子どもだけではないということです。
 親もその親に頼んだのではないし、あらゆる人が例外なく頼んだわけではないのです。
 さらに大切なことは、いのちは頼んでいないというだけでなく、自分は何の努力も貢献も支払いもした憶えが ないのに、無条件かつ無償で与えられたということです。
 つまり、いのちにはもう一つ、「無条件・無償で与えられた贈り物」という面があるといっていいでしょう。
 私たちがいのちの出発点、つまり生まれたという事実を、ただ当たり前と思うか、あるいは「頼んだものでは ない=強制されたもの」と取るか、または「贈り物」と受け止めるかによって、人生観が決定的に変わってくる、 と私は考えています。
 「強制」と取れば、「生んだ以上、〜のことはしてくれて当たり前だ」といったふうな権利意識を持ちがちになり ます。
 そして自分の要求が満たされないと、不平不満でいっぱいになるでしょう。
 しかし、自分のいのちを無条件・無償の贈り物と受け取ると、人生は基本的にいつも感謝すべきものと感じら れてきます。
 人生の基本が不平不満であるのと感謝であるのとでは、どちらが気持ちいいでしょう? どちらが、人生の質 (クォリティ・オヴ・ライフ)が高いでしょう?
 といってもここで、「だから、感謝しなさい」というお説教をしようとは思っていません。人生の基本的な「事実」 を確認したいだけなのです。
 さて、自分で自分を生んだのではなく生まれたものだということは、出発点において人生は私の勝手でないこ とはもちろん、自由でもないということです。
 そういう意味で、「人生の原点は自由ではない」と私は考えていますが、みなさんはいかがでしょう?
 この「いのちの出発点・原点は自由ではない」という事実が、コスモロジーに関して決定的に重要だと 思われます。
 さて、私たちは「生まれた」わけですが、誰から生まれたのでしょう。
 「つまらない、当たり前のことを聞くな」といわないで、1つ1つ一緒に確認してください。
 シンプルな事実の確認の積み重ねが、たぶん、やがてあなたのコスモロジーを根本的に、肯定的なものへと 大転換させることになると思います。
 それは、実際の授業の進行についてきてくれた学生の90%が体験することです。
 元にもどりましょう。
 私たちは、いうまでもなく両親に生んでもらった……「もらった」というのが嫌なら、「両親から生まれた」と言い 換えてもかまいません。
 どんなに嫌いな親であっても、どんなに恨んでいる親であっても、まちがいなく親から生まれたのです。
 感情的に受け容れられない方は無理をする必要はありません。
 ただ、単純に事実を確認していただくだけでかまいません。
 では、両親はだれから生まれたのでしょう。
 両親は、そのまた両親から生まれたんですよね?
 そして、そのそれぞれの両親は、そのまた両親から……と果てしなく続いていきます。
 このいのちの連続性の数を、電卓でも使って計算してみてください。
 これは2×2……つまり2の累乗で計算できます。
 そうですね、10代遡ると1千24人、20代遡ると104万8千576人の先祖がいるということになります。
 そして、当たり前といえば当たり前、不思議といえば不思議なことに、この中の誰一人欠けても、今日ここに 私はいなかったんですね。
 さらに、これは20代で終わりではありません。さらに続いていくのです。
 30代遡ると10億7千374万1千824人……すなわち10億以上、40代遡ると10兆以上になるよう です。
 そしてさらに……いのちのつながりは40代で終わるわけではありません。
 とすると、今日ここに私1人が存在することに不可欠だったご先祖さまは、いったい何人なのでしょうか?
 もう、「無数」とでもいうほかなさそうです。
 これは、気がついてみると、ほんとうに驚くべきことではありませんか。
(といっても、例えばいとこ同士で結婚した場合は祖父母は重なっているので、これはあくまでも延べ数で実数 ではありませんが。)






いのちのつながりと重さ
2005年10月06日


 私たちそれぞれには、例えば40代遡ると延べ10兆人以上のご先祖さまがいますが、実数はもちろんそんな にいるわけではありません。
 それどころか、昔の日本の人口は、縄文時代2万人、弥生時代59万人、奈良500万人、平安650万人、鎌 倉700万人、江戸末期3200万人くらいと推定されています(鬼頭宏『環境先進国・江戸』PHP新書)。
 その人数のご先祖さまから現在の1億2千万人あまりが生まれたのですから、日本人はほとんどどこかで重 なった共通の先祖を持つ遠縁の親戚だと思っていいようです(複雑になるのでここでは帰化人の話などは省き ますが)。
 それどころか、最近、もしかすると全人類が1人の共通の女性「ミトコンドリア・イヴ」から生まれたのかもしれ ない、という説もあるくらいですから、人類はみんな親戚だと思っていいのです。
 実際の教室では、学生諸君に、「あの人も、この人も、みんな親戚なんだよな、すごい遠縁かもしれないけど」 と思いながら、まわりの人の顔をしみじみ見てください、という小さなワークを行ないます。
 ネット学生のみなさんも、よかったらまわりの人の顔を、「親戚なんだな」と思いながら見てみてください。
 ただし、知らない人をあまりジロジロ見ると、いろんな風に誤解されますから、そのあたりは注意して、適当に やってください。
 それはともかく、親だけでなくそうしたご先祖さまの1人1人も、善人だろうが悪人だろうが、美人だろうがそう でなかろうが、私たちは自由に選ぶことはできません。
 ここで、すぐに親孝行や先祖崇拝の話をするつもりはありません。
 しかし、こうした無数のいのちのつながりの中で私のいのちが生まれたことは「事実」だ、ということに気づい ていただきたいのです。
 あまり好きでない親だとしても、親から生まれた、まったく知らない先祖だとしても、私たちは自分のいのちを 先祖から引き継いでいるのです。
 現代では「関係ない」と思っている方が多いようですが、実はそれは「関心がない」だけで、事実としてはまぎ れもなく、いやおうなしに「関係ある」のです。
 そういうことはみな過去のことで、今感覚的には実感がないとしても、よく考えれば――つまりしっかりと理性 を働かせて推測すると――ほぼ疑いようがないことだという意味で、「事実」といってもいいのではないでしょう か。
 そのことが確かに事実だと思えた方は、ちょっとだけ次のステップに進んで、考えてみてください(思えない方 は、この段階ではさらっと読みとばしてもかまいません)。
 人間は、生まれただけで後は自分で生きていけるでしょうか?
 いけませんね。赤ちゃんは、できることといったら泣くこととおっぱいを吸うことくらいです。
 しかもおっぱいも口のところまで持ってきてもらわなければ、自分で探して吸うことはできないのです。
 そのくらい無力な状態で生まれてくるというのは、動物としてはかなり特殊なことのようです。
 ウマの赤ちゃんなど、生まれて間もなく立ち上がってよちよち歩きをはじめますし、すぐに母ウマの後から走る ようになります。
 おサルさんの赤ちゃんなど、生まれて間もなくもうお母さんの背中にしっかりとしがみついて、お母さんが木か ら木へとジャンプしても振り落とされないくらいの力があります。
 ところが、人間はまずは「おんぶにだっこ」で、さらに1人前になるのには10年以上20年くらいかかります(最 近は、もっとかかる人が増えているようです)。
 さて、この養育期間、母親と父親は子どもために必死に働きます(もちろん残念ながら例外はありますが)。
 生み、そして必死になって育てることを、何と表現すればいいでしょう?
 努力、苦労……いろいろあるでしょうが、それらは結局、「愛情」ということに尽きるのではないでしょうか?
 もしあなたの両親から祖父母、曽祖父母……ご先祖さまのだれかが、最近かなりよく聞くような「結婚しても、 子ども生んでも、お金がかかったり、自分のやりたいことをやれなくなって、何のメリットもないから、結婚もしな いし子どもも生まない」というセリフをいって、いのちを次の世代につなぐことをサボったら、恐ろしいことです が、今日ここにあなたはいない……んですよね?
 私たちの無数のご先祖さまは――若干の例外はあるにしても――みんな、必死になって次の世代のため に、努力、苦労し、愛情を注いでくれたのではないでしょうか。
 考えてみてください。例えば原始時代、例えば古代、いや、日本でいえば江戸時代や戦前でさえも、子どもを 育てるというのは、けっして楽々できるようなことではなかったはずです。
 飢え死にさせないように、「食べさせる」だけでもきわめて大変な時代がずっとあったのです。
 そういう時代に生きた、そういう無数のご先祖さまの努力、苦労、愛情が、いのちを私にまでつなげてくれまし た。
 言い方を代えれば、私たち1人1人は、数え切れないほどのご先祖さまたちの「愛情の結晶」ともいえるのでは ないでしょうか。
 数え切れない数の人々の愛と努力の結晶を、だれが「意味がない」とか「価値がない」とか「生きていても死ん でもおなじようなものだ」とかいえるでしょう?
 私たちのいのちは、そうした無数のご先祖さまたちの大変な努力の結晶、深い愛情のプレゼントなの ですから、「重い」というほかないのではないでしょうか?
 「軽いほうがいい」、「軽く考えたほうが気が楽だ」と思っているみなさん、よかったら、ちょっとだけ考えてみて ください。
 存在の価値がすごく軽い自分と、きわめて重い自分と、どちらが自信が持てますか?
 あなたは、自信を持ちたいと思っているんじゃないんですか?






I was born
2005年10月07日


 


 私たちは、両親から生まれ、両親はそのまた両親から生まれ……ほんとうにたくさんのご先祖さまから、いの ちを受け継いでいます。
 ところで、「生まれた」というのは「生んだ」のではありませんね。
  「生まれた」という言い方は、苦手だったかもしれない英文法を思い出していただくと、能動態ではなく「受動 態」です。
 be 動詞+過去分詞のかたちになります。
 T was born ですね。
 ところで、この受動態の文章を能動態に変えるには、どうしたらいいんでしたっけ?
 ふつうの受動態の文章では、能動態の主語になる言葉が by の後にあるはずで、それを主語にすればいい んでしたね。
 ところが、I was born.の場合、by の後の言葉が省略されています。
 ですから、それを補って(  )bore me というかたちにすればいいわけですね。
 ここでもし、(  )bore me の(  )をどう埋めますか? と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょ う。
 もちろん、まず両親、それからご先祖さま……ですが、さらに遡るとどうなるのでしょうか?
 さらに、私たちは、両親によって生まれただけではなく、いろいろないもののお陰で生きています。
 それを英語で表現すると、I am kept alive by(  ) となるでしょう。
 ここでも、受動態です。つまり、「生かされている」ということになるのではないでしょうか。
 この二つの(  )をどう埋めたらいいでしょう?
 私たちは、生かされている、つまりいろいろなもののお陰で生きています。
 「お陰」というとお説教ぽく聞こえて抵抗があるかもしれませんから、言葉を換えましょう。
 私たちにとって、「それがないと生きていけない」、「それなしには生きられない」ものには、どんなものがある でしょう? 
 これから詳しくお話ししていくことになりますが、ここでまずご自分で考えて、できるだけたくさん思いついて、 書き出してみてください。






自己は自己でないものによって自己である
2005年10月08日


 


 私たちは、空気や水や食べ物などなしに生きることはできません。
 生きていたいのなら、私たちには、例えば水を飲まない選択の自由・権利などありません。
 確かに人間には、死を覚悟して首をくくって空気を吸わない=窒息するという選択はできます。
 しかし、生きるためには呼吸をしないという選択肢はありえません。
 仙人ではないので、食べ物を食べないで雲や霞を吸っているというわけにもいきません。
 そういうことに関しては、自分勝手に選べるという意味での「自由」はないんですね。
 しかしそれは、決して縛られていることでも、権利を侵害されていることでもないと思うのですが、どう思われま すか?
 私たちのいのちの営みそのものが、空気や水や食べ物とのつながりなしには不可能です。
 そのことは、「人間は自然の掟に拘束されている」と表現することもできますが、すなおな取り方をすれば、 「私たちのいのちは自然とその法則に支えられている」ということになるのではないでしょうか。
 さらに考えていくと、食べ物とは食べ物になってくれる植物や動物のことです。
 植物や動物が生きるためには、大地・地球が必要です。
 地球に無数の生命が存在できるためには、ほとんどの生命のエネルギーの源になっている太陽が必要で す。
 そうした無数のものと関わっていること……などに関しても、選択の自由はないだけではなく、そういう自由は 必要ないのです。
 自分勝手にできないものが山ほど与えられているから、生きられる、つまり自分が自分でいられます。
 「自己は自己でないものによって自己である」というのは日本近代の代表的哲学者西田幾多郎の言葉で すが、ほんとうにそのとおりです。
 私は私でないもののおかげで私でいることができるのですね。
 そして、それらの自由に選択できない条件がベースにあるから、私たちはいろいろなことを選択できるわけで す。
 空気、水、食べ物、食べ物になる植物や動物、それらを支え育む大地=地球、すべての生命のエネルギー を恵む太陽、そして太陽と地球とその他の惑星からなる太陽系、太陽系のような星のまとまりを無数に含む銀 河、そして一千億からもしかすると一兆もの銀河を含むといわれる宇宙……。
 よく考えていくと、それらのすべてとのつながりの中で、今・ここで私が生きることができている、ということにな るようです。
 だから、「私が生きている」と思っているだけでは部分的であり不十分で、「私は生かされている」こと をしっかりと自覚するのが、正確で現実的な自分の見方――少し難しくいえば「自己認識」――だという ことになるのではないでしょうか。
 本当の意味で現実的で正確な自己認識ができた時、ゆるぎなき「自己」信頼、つまり自信が確立していくでし ょう。
 そういう意味で、自信には、ただ個人の心理的なレベルだけでなく、コスモロジー的なレベルがあるわけで す。
 というよりも、個人的なレベルだけでは、決してゆるぎなき自信は得られない(のではないか)、と私は考えて います。
 必要ではあったのですがやや長い前置きを終えて、次回からやっとお約束どおり、現代科学の成果――主 にまず物質面からになりますが――のポイントを学びながら、宇宙の始まりからずっと私たちが無数のものと のつながりによって生かされているということを考えていくことにしましょう。






現代科学のコスモロジー:そのアウトライン
2005年10月09日


 


 前に、「いろいろな事情があって、日本の戦後教育では『近代科学』の大まかな成果は学校で教えられるので すが、『現代科学』の、特にコスモロジーとしての到達点については、まったくといっていいほど教えられていま せん」といいました。
 学生たちや中高の教師の方たちに聞き取り調査をしていますが、ネット学生のみなさんにも質問をしたいと 思います。
 以下、19世紀末から20世紀末までの科学の成果のうち、コスモロジーにとってきわめて重要なものが5つあ げてありますが、これらの人名と事項の中のいくつを高校までで学んだ覚えがありますか? それから、学校で はないけれども、自分で学んだものがいくつありますか?
1869年 ヘッケルによるエコロジー(生態学)の提唱。
1905年 アインシュタインの相対性理論。
1947年 ガモフのビッグバン仮説。
1953年 ワトソンとクリックの遺伝子の二重ラセン構造の発見。1962年ノーベル賞を受賞。
1977年 プリゴジーヌの散逸構造の理論がノーベル賞を受賞。
 このあたりで、「わっ、苦手な理数系だ」とアレルギー反応が起きそうな方も少なくないと思いますが、ぜひ、こ こで頑張ってください。
 ニヒリズムに到る近代科学を教え込まれたために陥っている心の不調、つまり自信喪失を克服する上で、希 望に到る現代科学をごく大まかでも学ぶことが、根本的なベースになるからです。
 私自身、いわゆる文科系の人間で科学の専門家ではないため、かえってわかりやすくお伝えできると思いま すから、ほんの少し努力していただくだけで、アレルギーは解消できます。
 それは、これまで教えてきた学生は、文学部、社会学部、経済学部、人間関係学部、人文学部、経営学部… …と、すべて文科系であったにもかかわらず、最後まで授業を受けた学生の90%から100%近くが、大まか な流れはちゃんと理解できたことからも保証できますから、ご安心ください。
 それから、念のために申し上げておきますと、私は科学の専門家ではありませんが、以下お話しすることに ついては、何人もの科学の専門家にチェックしていただいて、だいじょうぶという保証をいただいています。
 万一、気になる方は、以下お話しすることと、例えば一流の科学者が執筆・監修した『21世紀こども百科 宇 宙館』(小学館)を対照していただけるといいと思います。
 あげている事実や仮説はほとんど重なっていることがおわかりいただけるでしょう。
 もっとも、その事実や仮説の解釈については、私のほうがコスモロジーとして踏み込んだ解釈をしています が。
 さて、これから徐々にお話ししていくのですが、まず、1947年、ガモフのビッグバン仮説が正しいとすると「宇 宙はもともと1つのエネルギーの玉だった」ということになります。
 それは、1905年に発表されたアインシュタインの相対性理論によって、宇宙は究極のところ物質というよ りエネルギーからなっていることが明らかにされたことをベースにしています。
 1953年、ワトソンとクリックによる遺伝子の二重ラセンの構造の発見(62年にノーベル賞を受賞)から始ま って、地球上の多様な生命の種の遺伝子が研究され、すべて同じ二重ラセンの構造になっていること、そこか ら、おそらくすべての生命は同じ1つの単細胞生命の遺伝子を引き継いでいるのではないかと考えられるよう になっています。それは、すべての生命がいわば親戚であるということ、全生命の一体性の発見ということ になりそうです。
 さらに、1869年、ヘッケルによる提唱から始まったエコロジー(生態学)は、20世紀全体をとおした研究によ って、地球上ではすべての非生命・環境とすべての生命が互いにバランスをとりながら一つのシステム をなしていることを、疑いの余地のないほど明らかにしています。
 もう1つ、驚くべきことは、プリゴジーヌの散逸構造の理論が、近代科学では外から力を加えないかぎり動か ないのが物質であるかのように思われていたのに対し、物質自体がダイナミックに運動し新しい秩序を生 み出す、つまり自己組織化する力を持っていることを明らかにしたということです。
 ここでいわれても「ピンと来ない」という方が多いと思いますし、それでいいのですが、いちおう申し上げておき たいのは、こうした「現代科学」の成果は、「もともと1つのエネルギーだった宇宙が、自己組織化能力に よって実に複雑な秩序を生み出し、エネルギーから物質を、物質から生命を、そして生命から心を生み 出してきた。しかし1つだった宇宙は依然として1つのままである」という、まったく新しいコスモロジーを 形成しつつあるということです。
 そのコスモロジーを学ぶと、私たちはもうニヒリズムに陥る余地はない、自信喪失してはいられなくなるので す。
 前置きのところでは眠そうにしていた学生たちの眼が、やがて話が進むにつれて輝いてくるように、ネット学 生のみなさんの眼もそうなるはずです。
 特に文科系のみなさん、少しだけ努力して話についてきてください。決して損はさせませんからね。






科学的でしかもむなしくないコスモロジー
2007年04月30日


 木曜日はM大の3回目。ようやく本格的授業です。
 前近代のコスモロジー(世界観・価値観・人生観のセット)では、基本的には西洋では神、日本では神仏・天 地自然・祖霊という大いなる何ものかが最上位にあり、人間は中間にあり、その下に人間以外の物があるとい うかたちになっています。
 つまり、人生の意味や倫理の絶対の基準があったのです。
 それに対して、近代の前半では、近代科学の方法では神の存在は検証できないので、存在しないことにな り、人間と物があるだけの世界になりました。
 これは、人間が神話と権威によって自分たちを束縛・抑圧する神(およびその代理としての教会)から解放さ れるという「人間(中心)主義=ヒューマニズム」をもたらしました。
 神ではなく人間にこそ尊厳の基礎があるというのです。
 こうしたヒューマニズムはすばらしいものであり、さらに今となっては当たり前のことで、どこがいけないという のでしょうか?
 しかし近代の後半では、近代科学の主客分離、分析的な方法が人間にも向けられるようになり、突き詰める と=分析を徹底すると人間も原子という物にすぎないということになり、物にすぎないものに絶対の意味はな い、神は存在せず人間も物にすぎないのなら倫理の絶対の根拠はない、という「ニヒリズム」が到来します。
 近代的なヒューマニズムは、それと切っても切れない関係にある近代科学の分析という方法を徹底すると必 ずニヒリズムになるのではないでしょうか(徹底しなければヒューマニズムに留まることもできますが)。
 無神論−ニヒリズムに陥ると、生きる意味・理由がわからなくなります。
 意味のない人生を、それでも生きるとしたら、生きている間はそれでも楽しみ・生きがい・快楽……はあるの で、それを追求して生きるしかない、ということになります。「快楽主義」です。
 快楽を感じるのはいうまでもなく「自分」ですから、自分がいちばん大切ということになります。これを、「エゴイ ズム」といいます。
 日常用語の「エゴイズム」は自己中心・自分勝手という意味ですが、思想用語としては「結局のところ自分が いちばん大切、人生の基礎は自分にある」という考え方をいいます。
 エゴイズムと快楽主義でやっても、突き詰めれば意味はないのですが、突き詰めなければ何とかなります。
 そして、突き詰めないためになるべく深く考えないようにして日々他のことで気を紛らわせて――これは哲学 者パスカルのいう「気晴らし」です――過ごすのです。
 ヒューマニズムも所詮気晴らしのかたちの1つにすぎないのかもしれません。
 そういう、ニヒリズムかエゴイズム・快楽主義の気晴らししか人生観の選択肢はないのでしょうか?
 近代科学のコスモロジーの限界はそういうところにあります。
 かといって、科学・合理主義を身に付けた現代人は、神話的な宗教のコスモロジーに帰ることはなかなかでき ません。
 空しさに耐えかねて、神話的な宗教に退行する人もいますが。
 ところが、現代科学の示しているコスモロジーは、前近代的な神話的コスモロジーとも近代的な無神論的なコ スモロジーともちがっています。
 前近代的なコスモロジーの人生の意味を語ってくれるという面と、近代的なコスモロジーの科学的・合理的な 根拠があるという面、その両面をもった、とても希望のある――あえていうととても都合のいい――コスモロジ ーが提示されているのです。
 しかし、いろいろな事情があって、日本の標準的な教育の過程では、近代科学の成果しか――それも分野別 の断片的な知識としてしか――教えられていません。
 そのために、日本人、特に若者の多くは、程度はともかくとしてニヒリズム・エゴイズム・快楽主義に陥る強い 傾向があり、それに耐えられないと問題のある宗教に傾きがちです。
 そこで、これから前近代的な宗教でもなく近代的な科学主義でもなく、現代的な科学の示す世界像を伝えて いきたい、と思っています。
 ……という、イントロダクション的な授業でした。
 授業が終わって、何人もの学生たちが話に来てくれました。
 みんな自分の人生観を確立するための手がかりを真剣に求めているようです。
 この後、このブログでも連載したコスモロジーをヴァージョンアップした内容の授業をしていきます。
 きっと多くの学生たちが、これまでの学生たち同様、あるいはそれ以上の肯定的変化を示してくれることでし ょう。






宇宙カレンダー
2005年10月10日


 


 みなさん、「宇宙カレンダー」というのをご存知ですか。
 これは、『コスモス』などの著作でも知られているカール・セーガンというアメリカの科学者が『エデンの恐竜』と いう本で提示したアイデアで、宇宙の歴史の流れをイメージとして捉えやすくするために、1年に縮尺したもので す。
 セーガンのアイデアの頃は宇宙の歴史は大まかに150億年といわれていましたが、最近、かなりの確度で1 37億±2億年といわれるようになりました。
 137億年として計算すると、だいたい1日が3千753万年、1時間が156万年、1分が2.6万年、1秒が433 年に当たります。
 現代科学では、驚くべきことに137億年の宇宙の歴史の大まかなシナリオをかなり確実に描くことができるよ うになっています。
 その大まかなシナリオを以下に掲げましたので、まず、ざっとでかまいませんから、見てください。
 宇宙の137億年の壮大な物語を語るのは、それからにしましょう。

  • 1月1日: ビッグバン(10の―44乗秒、大きさ10の−34乗cm、無からのエネルギーの創発?)
  • 〃午前0時4〜12分(10〜30万年): 水素原子(把握)の創発
  • 1月初旬(130億年以上前): 星の創発 
  •  以後、星の中で人体を構成する元素:水素、炭素、窒素、酸素(ここまでで重さの99%)、ナトリウム、 燐、硫黄、カリウム、カルシウム、マンガンなどが誕生、鉄まででいったん止まるが、超新星=星の死に よって、コバルト、亜鉛、ヨウ素、その他の元素が次々と誕生していく(自然的なもの98種類、さらに人為 的に作られたものを含めて111種類)
  • 5月13日(100億年前): 天の川銀河の創発
  • 8月20日(48〜50億年前): 原始太陽系の創発
  • 8月31日(46億年前): 太陽系・地球の創発
  • 9月16日(40億年前): 海の創発
  • 9月16日ころ(38〜40億年前): 地球での生命の創発(被刺激性、ガイア・システムの創発)
  • 9月23日(37.5億年): 地球での既知の最古の岩石生成
  • 9月29日(35億年前): 最古の生命化石 
  • 10月18日(27〜28億年前): 酸素発生型光合成生物の創発
  • 11月3日〜(19〜22億年前): 大気中の酸素量の増加開始
  • 11月8日(20億年前): 真核生物(核をもった最初の細胞、有機的生態系)の創発
  • 11月21日(15億年前): 有性生殖の創発
  • 11月29日(12億年前): 明確な酸素大気が地球上で発達しはじめる
  • 12月 5日(10億年前): 多細胞生物の創発
  • 12月15日: 蠕虫(神経組織‐感覚、分業のある生物社会)の創発
  • 12月16日(5億7千万年前): 先カンブリア代終わり、古生代のカンブリア紀始まる。無脊椎動物繁栄 
  • 12月17日: 最初の海洋プランクトン。三葉虫栄える
  • 12月18日(5億1千万年前): オルドビス紀。最初の脊椎動物=魚類(神経管‐知覚)の創発
  • 12月19日(4億3千9百万年前): シルル紀。維管束植物の創発。植物の陸地移住はじまる
  • 12月20日(4億8百万年前): デヴォン紀。昆虫の創発。動物の陸地移動はじまる 
  • 12月21日: 両生類の創発。有翅昆虫の創発
  • 12月22日(3億6千2百万年前): 石炭紀。木本の創発。爬虫類(爬虫類的脳幹‐衝動、集団/家族)の 創発
  • 12月23日(2億9千万年前): ペルム紀(二畳紀)。哺乳類型爬虫類の繁栄
  • 12月24日(2億4千5百万年前): 古生代終わり、中生代始まる。生物大量絶滅
  • 12月25日(2億4千5百万年前): 三畳紀。恐竜の創発。哺乳類の創発(大脳辺縁系‐情動=心の創 発 )
  • 12月26日(2億8百万年前): ジュラ紀。鳥類の創発  
  • 12月28日(1億4千5百万年前): 白亜紀。花の創発。恐竜絶滅はじまる
  • 12月29日(6千5百万年前): 中生代終わり、新生代第三紀。クジラ類の創発。霊長類(シンボル、部族 的群れ)の創発
  • 12月30日: 大型哺乳類繁栄。霊長類の前頭葉の初期進化。ヒト科生物(概念、呪術的文化、部族・ 村)の創発
  • 12月31日(1千6百万年前〜): 第四紀。人類(具体的操作、神話的文化、初期国家・帝国)の創発
  • 31日23時59分54秒: 霊性の先駆的な創発 (老子、孔子、ソクラテス、イザヤ、エレミヤ、ブッダ、イエ ス、大乗仏教)  
  • 新年: 形式的操作、合理的文化、国民国家の創発 (理性・人権思想・科学・技術・産業の発達、植民地 化-地球化、世界大戦、核兵器、環境破壊、ニヒリズム)






宇宙の始まりと私の始まり
2005年10月11日


 


 現代科学の標準的な仮説では、宇宙は今から137(±2)億年昔に始まったといわれています。
 私自身も知って驚いたんですが、宇宙も永遠の過去から永遠の未来にわたって存在しているものではなく、 ある時――今から137億年くらい前――始まったんですね。
 それが、宇宙カレンダーの1月1日になります。
 私たちの人生に比べて、それはもう「想像を絶する」ような遠い遠い昔、長い長い時間ですが、ここであえて 絶してしまわないで、眼を閉じて想像してみてください。
 「137億年というのは、どういう長さの時間なのだろう?」と。
 数字を「知る」だけなのと、その時間の長さを「イメージする」のとでは、コスモロジーとしての実感が変わって きます。
 少しでもイメージすることができ、わずかでも実感することができると、心の中に驚き、「なんて不思議なんだ ろう」という感じ――レイチェル・カースンのいう「センス・オブ・ワンダー」――が湧いてきませんか?
 私は、「すごいなあ」と感心してしまいます。
 なぜ、そんなすごいことがわかったのか、簡単にお話ししていきましょう。
 19世紀から20世紀前半にかけて、技術が発達し、望遠鏡も発達し、それに連動して天文学・宇宙論も飛躍 的に発達してきました。
 そして、それまでわからなかった宇宙のいろいろなことが、信じられないほどはっきりとわかるようになってき たのです。
 20世紀初頭、エドウィン・ハッブルというアメリカの天文学者が、解像度と倍率が飛躍的に向上した望遠鏡 で、毎晩のように夜空を覗いて星の研究をしていました。
 (有名なハッブル望遠鏡は彼の名にちなんで名づけられたものです。)
 性能のいい望遠鏡で見ると、それまでボンヤリとした星のように見えていたものが、実は無数の星の集まりで あることがわかってきたのだそうです。
 しかも、その無数というのが、数十や数百ではなく、数億や数十億という集まりで、つまりそれらは「銀河」であ ることがわかってきました。
 夜空、つまり宇宙にはたくさんの星だけでなく、無数の星の集まりである銀河がたくさんあったのです。
 (今では、銀河は、全宇宙に1000億個ほどあるといわれていますが、その10倍、1兆個近くあるという説も あります。)
 ハッブルは、そうした全天の銀河の観測を続け、さらに地球とそれぞれの銀河の距離、銀河同士の距離も調 べていったのです。
 1929年、一定数の銀河を調べた段階で、ほとんどあらゆる銀河は地球からも他の銀河からも一定の法則 性(「ハッブル定数」)のある大変な速度で遠ざかっているという説を発表しました。
 (私たちの天の川銀河に近い小銀河で引力のために近づいているものはあるのだそうですが。)
 そして、ほとんどの銀河同士がお互いに遠ざかっているという事実から、宇宙空間は拡大していると考えたの です。
 これは、宇宙空間というものは無限であり変化しないものだという常識からすると、大変ショッキングな発見で したが、観測が進めば進むほど、確実だと考えられるようになりました。
 ところが、科学者たちはどこかで考えを止めるということがなく、どこまでも考えていくもののようで、ロシア出 身アメリカ国籍の科学者ジョージ・ガモフは、さらに「時間が経つにつれて宇宙空間が拡大しているとすれば、 逆に時間を遡ると今よりも小さくなるはずだ」と考えました。
 そして、そのことを観測的事実と理論的推測をあわせて遡れるぎりぎりのところまで遡って、かつて宇宙は限 りなく小さかったはずだと考えました。
 1947年、ガモフは、百数十億年前、宇宙は限りなく小さい状態から爆発的に拡大しはじめたという仮説を提 出しました。
(すでに1927年、ベルギーのルメートルによる先駆的な仮説は出されていたのですが、ガモフによって有名・ 決定的になりました。)
 この仮説は、反対する学者から「なるほど、ビッグバン(大爆発)というわけだね」と皮肉をいわれたことから、 「ビッグバン仮説」と呼ばれるようになりました。
 この「ビッグバン仮説」は、少数の反論はないわけではありませんが、50年あまり基本的には揺らいでいな いようですし、現在では大多数の科学者が認める標準的な仮説になっており、しかも仮説を裏づける決定的な データが2003年NASA(アメリカ航空宇宙局)から発表され、ほとんど定説になりつつあります。
 つまり、「私たちの宇宙は137億年前に始まった」といって、ほぼまちがいなさそうです。
 さて、ここまで来て、「宇宙が始まった? それが私に何の関係があるんだ?」という気がしている人がいるか もしれません。
 そこで考えて見ましょう。
 宇宙が始まらなかったら、私たちの住んでいるこの天の川銀河というものはできなかったんじゃないでしょう か?
 天の川銀河ができなかったら、太陽系もできなかった。
 太陽系ができなかったら、地球もできなかった。
 地球ができなかったら、生命は生まれなかった。
 生命が生まれなかったら、人類は生まれなかった。
 人類が生まれなかったら、私のご先祖さまも生まれなかった
 ご先祖さまが生まれなかったら、私も生まれていない。
 まちがいないですね? どこにも論理の飛躍やすり替えやごまかしはありませんよね?
 だとしたら、宇宙が始まったことと私が生まれて生きていることとは、137億年という想像もできないほど長い 時の隔たりはあるにしても、真直ぐダイレクトに関係があると考えるほかないのではありませんか?
 驚くべきことですが、「宇宙の始まりは私という存在の始まりでもある」……ということになるようです。

*今回の写真は銀河団RXJ_Vri_72。前々回の写真は銀河団C1039。いずれも国立天文台提供。






すべては1つである
2005年10月12日


 


 137億年前、宇宙は、限りなく小さい状態から爆発的に拡大しはじめたといわれています。
 限りなく小さいとは、どのくらい小さいのでしょう?
 その後、他の研究者によって、始まってまさに直後、10のマイナス44乗(つまり1の後に0が44個付いた数 分の1)秒というきわめて短い時間がたった時、宇宙は、ごくごく小さな1つのエネルギーの球だったというところ まで推測が進められました。
 (「球」というのは1種の比喩で、専門的には数式でしか表現できない世界なのだそうですが。)
 どのくらい小さいかというと、10のマイナス34乗センチメートルです。
 これは、ミクロンやナノといった単位よりもはるかに小さく、もちろん目に見えるような大きさではありません。
 それどころか、原子や素粒子やクォークよりも小さいのです。
 その大きさというか小ささというかの中に、現在の観測可能な範囲の宇宙がすべて凝縮されていた、というの です。
 もう、信じられないような話ですが、ここで終わりではありません。
 さらに、その時点では、すべてが凝縮されすぎていて、特定の物質も時間も空間も存在することはできなかっ たはずだ、と考えられています。
 物質も時間も空間も存在できないとしたら、それは何だったのでしょうか?
 それは、エネルギーだったというのです。
 物質も時間も空間もなく、すべてはエネルギーだけなんて、常識ではまったく信じることも想像することもでき ませんが、でも、アインシュタイン以降のノーベル賞クラスの物理学者たちが考える、現代科学の標準的な仮 説ではそうなっています。
 (ビッグバン仮説の主な証拠は、@銀河の拡散、A宇宙空間の絶対温度、B宇宙背景放射、C夜空の闇、 など。詳しいことは他の宇宙論の入門書を参照してください。)
 ところで、私たちにとって決定的に重要なのは、この仮説が正しいとすると、宇宙の初めには、すべて が「ばらばらのモノ」の寄せ集めではなく、たった「1つのエネルギー」だった、つまり「すべてが1つ」だっ たことになる、といういうことです。
 そしてそれだけでなく、拡大してばらばらになったわけではなく、いくら拡大しても、エネルギー・レベルでは宇 宙は1つのままだ、ということです。
 わかりやすくするために、ここにものすごく小さな風船があると想像してください。
 それに空気をたくさん吹き込んで、最初の小ささからは信じられないくらい大きくふくらませるとします。
 さて、そこで、びっくりするほど大きくなった風船は、いくつになったのでしょうか?
 一瞬、「え?」と思われるかもしれませんが、シンプルに答えてみてください。
 そうですね、いくらふくらんで大きくなっても、1つの風船は1つのままです。
 それとまったく同じで、137億年もかけてもう驚異というほかないほど大きくなっていますが、でも、「宇宙は、 始まってから今までずっと1つのままだ」と考えられるのです。
 このことは、私たちの宇宙観・人生観つまりコスモロジーにとって、決定的に重要な意味があります。
 つまり、神話やあるいは神秘主義的宗教や覚りの話ではなく、現代科学でも、まちがいなく「私たちと宇宙 は1体だ」といえることになるからです。
 「突然、そんなことをいわれてもー…あやしいー…」という気のする方がいると思いますが、よかったら、続け て授業に参加してください。
 たぶん、あなたの世界観が変わると思います。つまり、近代科学的世界観から現代科学的世界観に、大きく 転換していくでしょう。
 そしてそれは、たぶんすごくいいことです。

*写真は、「ビッグバン」仮説の提唱者ジョージ・ガモフ(1904-1968)、池内了『宇宙論のすべて』新書館 より転載






区分・区別はできるが分離していない宇宙


 


 かつて宇宙は一〇のマイナス三四センチメートルという小さな小さなエネルギーの玉だったといわれています が、この仮説には、実は有名なアインシュタインの特殊相対性理論の式から導き出されたという面があります。
 以下にあげると、「見たことはある」という方もあるでしょう。
 E=mc2
 Eはエネルギー、mは物質の質量、cは光速の略です。つまり、エネルギーと質量×光速の二乗は等しいとい うことですね。
 「だから、どうした?」とあわてないで、ゆっくり聞いてください。
この式によって、科学には革命的変化が起こりました。
 特に私たちにとって重要なのは、この式によって近代科学のコスモロジーが根本的にひっくり返ってしまった といってもいいことです。
 この等式は、物質とエネルギーは相互に変換可能だということを意味しています。
 物質はエネルギーに転換できるし、エネルギーは物質に転換できるということです。
 それは、相対性理論を学んだことのない人間の常識からは信じられないようなことですが、科学の世界では すでに実証されているどころか、いまや原子爆弾と原子力発電というかたちで実用化(?)されているのです。
 原子爆弾や原子力発電は、放射性物質の原子核を分裂させると、質量が減り、減った質量が大変なエネル ギーになって放出されるという原理によって行なわれています。
 ここから逆に、物質はエネルギーが極度に凝縮したものだということもいえるわけです。
 つまり、物質とエネルギーが変換可能だということは、近代科学が考えたように「世界は結局モノでできてい る」のではなく、さらに結局のところ、究極(つまりもっともミクロの世界)まで探究していくと、「世界はエネルギー でできている」ということです。
 これは、感覚としてもまるで違ってきますね。
 現代科学では、結局のところ宇宙=全世界は、いわば生命のない「モノでできている」のではなく、きわめて ダイナミックな力である「エネルギーでできている」ということになったのです。
 ですから宇宙が、物質ではありえないくらい限りなく小さくても、宇宙の質量のすべてが驚くほど高度に凝縮さ れたエネルギー状態で存在できるはずだ、と考えられたわけです。
 繰り返すと、「始め宇宙は一つのエネルギーだった」ということです。
 そして、ビッグバンでエネルギーが爆発的に拡大しはじめるのですが、その時、拡散の仕方は均等ではなく、 いわば「ムラ」―専門的には「ゆらぎ」といいます―があったと想定されています。
 最初にムラがあったために、広がっていくうちに、エネルギーの濃淡がどんどん大きくなり、濃いところが凝縮 して物質に、薄いところが空間に、と分化していったらしいのです。
 ゆらぎがなく均等に拡散していたら、宇宙はのっぺらぼうのようにどこもが同じような状態になるらしいので す。
 そうすると、物質ができず、恒星ができず、恒星内部での新しい元素の合成も起きないために地球のような 惑星も、いのちも―そして心や魂も―生まれることはなかっただろう、ということになります。
 ところが、最初のゆらぎのお陰で、物質の濃度にもゆらぎがあるために、濃いところは引力によってさらに物 質が集まり、薄いところはもっと薄くなり、その結果、星雲も星もこの天の川銀河系も太陽系も、私たちの地球 もでき、それぞれに区分・区別できるかたちになってきた、ということらしいのです。
 しかし、ここでまた大切なことは、一つの宇宙エネルギーに濃淡ができ、物質と空間が分化し、いろいろ区分・ 区別できるようなかたちになったからといって、それは分離したというわけではないのではないか、ということで す。
 宇宙には今までのところ力として四つ(重力、電磁力、強い核力、弱い核力)だけが確認されているそうです が、宇宙はその四つの力という面でも、たえず関係し、つながり、影響し合っている「一つの宇宙」のままで拡大 してきたと考えられるのです。
 ここで、「区分・区別」という言葉と「分離」という言葉の意味の違いに注意してください。
 これは、授業全体を通じて、とても重要な言葉の使い分けなので、少し説明をしておきます。
 ここにホワイト・ボードがあると想像してください。
 中央にタテに線を引くとします。
 すると、ボードははっきり区分され、左側と右側が区別できるようになります。
 でも、それはホワイト・ボードが左右に分離・分裂したわけではありませんね。
 さらにボードに、○や△や□や☆の形を書くと、その図形の内部と外部が区分・区別できるようになり、図形と 図形もはっきり違うものとして区別できるようになります。
 けれども、それでボードが切断され、ばらばらに分離したわけではありません。
 ボードは、元のまま一枚につながったままですよね?
 この例からもわかるように、一つの全体の中にはっきりとした区別・区分できる部分ができること(分化)と、そ の全体が一つのままであること(統合)には、何の矛盾もありません。
 そのように、宇宙の中に、さまざまなものの区別できる形ができてきたことと、宇宙が初めから今までずっと 一つであることにも、矛盾はないのです。
 そして以後一三七億年の間、ただのばらばらに分離したモノが何の秩序も方向性もなくでたらめに運動して いたのではなく、宇宙は、星雲を生み出し、無数の銀河、その中に私たちの天の川銀河、太陽系、地球を生み 出し、そこに多様ないのちを生み出し、多様ないのちの中に心と魂を持った存在・人間を生み出してきたので す。味で高次な秩序を生み出し続けているのです。
 そしてそれは、宇宙自体が行なっていることですから、現代科学では、宇宙の「自己複雑化」・「自己組織化」 と呼ばれています。
 私たちは、そういう一つの宇宙の中に、その一部として存在しているのです。
 (宇宙論に詳しい方のためにいっておくと、これはホーキングの「宇宙は複数存在しうる」という仮説と矛盾す るものではないと思います。たとえ宇宙が複数存在しても、私たちのいるこの宇宙と私が一体だということに変 わりはないからです。)

*写真は宇宙の塵が凝縮して星が生まれつつある「星形成領域106」。国立天文台提供。






「宇宙」のイメージ
2005年10月14日


 


 ところで、ここでネット学生のみなさんにうかがいたいと思います。
 みなさんは、「宇宙」という言葉を聞くと、頭にどんなイメージが浮かぶでしょう?
 これまでいろいろな方に聞いてきてもっとも多かった答えは、「夜空」つまり「無数の星が輝いているが大部分 は暗黒の、自分の向こう側にある広大な空間」です。
 それに加えて、宇宙飛行士とその向こうの青く輝く地球や、火星や土星の写真を思い浮かべる人もいます。
 それは、おそらくまちがいなく、これまで見た学習図鑑やテレビ映像などの影響だと思われます。
 しかし、ここでよく考えてみたいのですが、そういう宇宙は、言葉の定義としても事実としても、ほんとうの「全 宇宙」ではないのではないでしょうか?
 地球も生命も私も含んでいなければ、ほんとうの全体ではなく、したがって「全宇宙」とはいえません。……で すよね?
 私や地球がこちらにあって宇宙は向こうにあるというのは、ごくごくふつうの見方ですが、よく考えるとほんとう の「全宇宙」を捉えた見方とはいえない、と私は思うのですが、どう思われますか?
 テレビの宇宙関係の番組でもしょっちゅうこういう見方で「宇宙」が語られていますが、それは「地球外空間」と 呼んだほうが正確なのではないか、と私は思うのですが。
 そういうい言い方がふつうになっているのは、すでにお話ししたように、近代科学の主客分離の認識方法が、 そのまま日常のものの見方にまで浸透した結果、私・主体と宇宙・客体は分離していて、私はこちら、宇宙は向 こうにあるという――あえて厳密・正確にいえば――錯覚が当たり前になっているからだと思われます。
 しかし、くどいようですが、よく考えて見ましょう。
 私たちは宇宙の中に宇宙の生み出した宇宙の一部として存在している、というのがより正確な事実なのでは ないでしょうか。
 そしてほんとうの全宇宙は、地球とそこに住む無数の生命と、そして私と私の心を含んでいます。
 だとすれば、常識からは一見奇妙な言い方に聞こえるかもしれませんが、「宇宙には、ただ物質と空間があ るだけではなく、その一部としていのちも心もある」といわざるをえません。
 それは、暗黒の宇宙空間にオカルティックないのちや心があるということではなく、宇宙の一部として私たち のいのちも心もある、ということですが。
 そうした点について、現代の一流の科学者たちはどういっているのでしょう。
 フランスの代表的な物理学者、生物学者、人類学者に、エコロジストがインタヴューした本(リーヴス他『世界 でいちばん美しい物語』木村恵一訳、筑摩書房)から引用してみましょう(読みやすくするために、改行、1行空 けを加えました。斜体は筆者によるものです)。

 では、科学はいったいどのような驚くべき事実を明らかにしたのか。
 それは、150億年前からずっと同じ1つの冒険が続いており、宇宙と生命と人類とをあたかも長大な叙 事詩の各章のように結びつけている、ということだ。
 ビッグバンから知性にいたるまで、同じ1つの進化の過程が進行し、素粒子、原子、分子、星、細胞、 有機体、生物、さらにはこの人間という奇妙な動物へと、より複雑性が増す方向へ進んでいる。
 すべてが同じ鎖でつながれ、同じ運動によって引き起こされている。
 私たちはサルやバクテリアの子孫だが、また星や銀河の子孫でもある。
 私たちの体を構成する物質はかつて宇宙を作り上げた物質にほかならない。
 私たちはまさしく星の子なのだ。
(9〜10頁)

 宇宙は静的なものではなく……この点が特に重要ですが、物質は徐々に組織化されていく、ということ です。
 ……単純なものから複雑なものへ、効率の低いものからより高いものへと移行していくのです。
 宇宙の歴史、それは物質が自らを組織化していく歴史なのです。
(41頁) 

 ここではっきりと「私たちはまさしく星の子なのだ」といっているのは、ロマンティストの詩人などでなく、まぎれ もなく科学者だということに注目してください。
 現代科学の標準的な仮説によれば、宇宙の進化史は、物質が自らを組織化・複雑化していく歴史であり、私 たちも宇宙の1部、その歴史の1部だ、ということになるのです。
 ところで、宇宙がビッグバンの直前、極度に凝縮した極微のエネルギーの球だったとして、さらにその前は何 だったのか、気になりませんか。
 現代の物理学者には、そこまで考えた人がいます。ロシア出身で現在アメリカ国籍の物理学者ビレンキンと いう人です。
 彼によれば、宇宙は、時間、空間、物質、エネルギーがすべてないという意味での「無」から始まったといいま す。
 「宇宙は無≠フ世界からトンネルをくぐってひょっこり顔を現わした、ちっぽけな閉じた時空です。ただちに インフレーションを起こして1人前の宇宙になり、熱いビッグバンを経て物質をつくり出したのです。私たちは星 の子であり、超新星の子であり、無≠フ子でもあるのです」(『宇宙創生に挑むパイオニア』日本放送出版協 会)
 ビレンキンの説は、まだ定説・標準的仮説というところまでいってはいませんが、けっしてデタラメな思いつき ではなく、やがて定説になる可能性の高い、有力な仮説の1つと考えられているようです。
 これは最先端の物理学、宇宙論の話なのですが、もうまるで仏教の『般若心経』の世界のようでもあります。
 「色即是空」、つまり色=色や形に現われたもの=物質的現象はすなわち「無」の子だというのですから。
 (といっても、私たちの考えでは、ほんとうの全宇宙は、外面・物質面だけでなく、内面・精神面をも含んでいま すから、これは「外面と内面が対応している」ということであって、「同じことをいっている」わけではありません が。)

*写真は白鳥座〜ペルセウス座の天の川。国立天文台提供。






私の体には宇宙137億年の歴史が込められている?
2005年10月15日





 まず宇宙が始まって1兆分の1の1兆分の1のそのまた100億分の1秒くらい経った時、物質の元の元にな る基本粒子にレプトンとクォークの区別が生まれ、1万分の1秒くらい後にクォーク同士が結合して陽子や中性 子といった複合粒子が生まれます。
 そして、その後の数分間で陽子と中性子が結合して重水素、ヘリウム、リチウムなどの原子核も作られます。
 ご存知のとおり、原子は、原子核とその周りにある電子からできています。
 ビッグバンから10〜30万年くらい経った頃、レプトンの一種である電子一個が陽子一個に捉えられ、その周 りを回りはじめます。
 水素原子の誕生です。
 英語の科学用語で創めて発生するという意味の emergence という言葉があり、「創発」と訳されていますが、 私はこの言葉の響きがとても好きなので、こちらを使いましょう。
 ビッグバンから10〜30万年後、宇宙カレンダーだと、1月1日、午前0時4〜12分頃、水素原子が創発した のです。
 実に見えないミクロの世界――しかもその頃は人間などおらず、したがって目もありませんから、そうでなくて も見えないわけですが――で、宇宙で創めての原子が創発する……なんとも不思議なことだと思いませんか?
 水素(特にその原子核)は、標準的な仮説では、宇宙の誕生後、もっとも初期に形成された、もっとも単純で 基本的な原子(原子核)だといわれます。
 そしてそういうわけで、水素は、今でも宇宙の物質の90パーセント以上を占めているそうです(斎藤一夫『元 素の話』培風館、九八頁)。
 初期の宇宙は、水素原子(あるいはヘリウムもあったかもしれませんが)だらけ、濃密な水素の霧状態だった ようなのです。
 科学的な正確さをあまり気にしないで、その状態を想像してみてください。
 実にすごい! 実に不思議! と私は思わざるをえません。
 水素、特にその原子核をなしている陽子は、そう簡単に壊れたりしないもので、陽子の寿命は宇宙の現在ま でのところの年齢137億年よりもはるかに長いといいます。
 陽子の寿命なんてものまでわかっているんですねえ。
 どのくらい長いかというと、10の32乗年以上だそうです(桜井弘『元素一一一の新知識』講談社ブルーバック ス)。
 1の後に0が32個付くということは、億や兆といった私たちが知っている数の名前では呼べないほどの大変 な長さです。
 ちなみに、兆の上が垓(がい)、その上が禾に予で「じょ」〔字がありません〕、その上が穣(じょう)、その上が 溝(こう)で、ようやく10の32乗です。
 気の遠くなるような長さですね。
 こういう話だけでも驚いたり、感動したりする人もいるでしょうが、「宇宙」は自分や地球の外側にあるとイメー ジしていると、「それがどうした。私には関係ない」という気がする人もいるかもしれません。
 しかし実は、その水素の原子核はおそらくまちがいなく、宇宙創成以来137億年の歴史を抱えて、そのまま 私やあなたの体の一部になっているのです。
 「え?」と思う人が多いでしょう。
 でも、初歩的な理科の知識を思い出してください。
 水の分子式って、どうなっていましたか?
 そう、H2O でしたね。
 で、Hは? そう、水素。
 Oは? そう、酸素、でしたね
 つまり、水の分子には水素が含まれているわけです。
 そして、私たちの体の70パーセント近くは水分だそうです。
 つまらない冗談をいうと、だから、どんなに干からびたような方でも、人はみんなみんなみずみずしいんです ね。
 元にもどりましょう。
 ですから当然、私たちの体には多くの水素原子、つまり水素の原子核も入っているわけです。
 後でお話ししていくように、生物は今から40億年くらい前に海中で生じたと考えられていますが、「陸に住む 生物も含め、現在の生体内に最も多い物質は化合物でいうと水であり、元素としては水素と酸素である」(前掲 『元素の話』、116頁)といわれています。
 さて、ここからがポイントです。
 私の体に水があり、したがって水素がある。
 それは、「今ここにいる私の体には、まちがいなく宇宙137億年の歴史が込められている!」ということ です。
 宇宙創成後まもなく創発した水素(の原子核である陽子)は、そのまま壊れることなく、私の体の中に ある、というより私の体を成しているのです。
 これはとても感動的です!
 初めてそのことに気づいた時、「そうか、そうなのか!」と、筆者自身とても驚き、いたく感動しました。
 しかし、それは専門的にいってまちがいないのかという気がしてきて、何人もの専門家にたずねました。
 そうすると、どの方も「そうですね、いわれてみると、そういうことになりますね」と答え、一緒に感動してくださ る方も少なくありませんでした。
 私の体には宇宙137億年の歴史が入っている――これは、まちがいない事実のようです。
 今までは気づいていなかったので、「関心」がなかった、だから「関係ないと思っていた」だけなんですね。
 事実としては、水素原子があることは、私が今ここに生きていることと切っても切れない「関係がある」し、宇 宙137億年の歴史にそのままつながる「関係がある」のです。






私たちは価値ある星のかけら?
2005年10月16日


 


 話は、水素の創発で終わりではありません。
 さらに水分子の中の酸素のほうですが、水素よりは遅れて、しかしこれもかなり早い時期にできています。
 ……と、ここまでお話ししてきて、いつも感慨にふけってしまいます。
 「そうか、元素も永遠の昔からあるわけではなく、できたんだなあ……宇宙そのものができたんだから、当た り前といえば当たり前だけど」と。
 さて、原子の違いは、原子核の陽子の数に対応しています。
 陽子一個の水素原子核同士の核融合反応によって、重陽子(陽子一個、中性子一個)ができます。
 陽子と重陽子が反応してヘリウム3(陽子二個、中性子一個)ができ、さらにヘリウム3とヘリウム3が反応し てヘリウム4(陽子二個、中性子二個)ができます。
 これは今でも多くの星、特に太陽で起っていることで、私たち地球の生命のほとんどは、その核融合反応の エネルギーによって生かされています。
 ヘリウム同士の反応によってベリリウムや炭素ができ、ヘリウムと炭素の反応によって酸素ができた、といわ れています(佐治晴夫『ゆらぎの不思議』PHP文庫、44頁)。
 私たちがまったく別のもののように思っているそれぞれの原子は、すべて同じ陽子、中性子、電子という要素 からできていて、ただその数が違うだけなのです。
 現在、宇宙には、自然にできた元素が約90種類、人工のものを加えると110種類以上発見されています が、それらすべての物質が、基本的にまったく同じ構成要素でできている、そしてもちろん私の体もそうだという のは、気づいてみると、とても不思議なことですね。
 そして酸素は、水分子の中の酸素として、また血液中の酸素として、私の体の中にありますし、炭素も、タン パク質、糖、核酸、アミノ酸、脂肪などの炭素化合物の一部として、私の体・いのちを構成しています。
 さらに「どの生物にとっても不可欠な元素が17種類あると考えられてい」て(前掲『元素の話』)、水素、酸素、 炭素、窒素、カルシウム、燐、硫黄、ナトリウム、カリウム、塩素……などですが、水素やヘリウム以外の元 素も宇宙の誕生後まもなく(といっても2億年後)、水素やヘリウムの原子が集まって生まれた恒星内部 での核融合反応によって作られはじめたものです。
 宇宙論の専門家佐治晴夫さんはこういっておられます(『ゆらぎの不思議』48頁)。
 「……考えてみると、私たちのまわりにあるすべてのものたちは、ひとつのこらず星のかけらからつくら れたものであり、熱い星のからだの中をくぐりぬけてきたものばかりなのですね。
 私たちだって例外ではありません。
 もとはといえば、みんな小さな光の粒の中にいました。やがて渦巻く水素の霧としてただよい、銀河とな って、星になり、星が一生かけてつくってくれた元素たちから生命がうまれました。だからみんなみんな 星のかけら≠ネのです。
 もう一度いっておきたいのですが、これも科学者の言葉であって、特定の宗教の教義やイデオロギーではあ りません。
 誰でも、ほんとうかどうか疑ったり、確かめたりすることができ、納得できたら、共有できるものです。
 こうしたことを学んだ時、筆者は、「私・私のいのちには、宇宙137億年の歴史が込められている。それ に価値がないなどと、誰がいえるだろう」と思いました。
 これはもちろん、すべての人に当てはまることです。
 どんな人でも、人間であるということだけで、宇宙の歴史が体の中に秘められているのですから。
 そうだとすると、「私と宇宙はつながって1つ」という事実に基づいて、私の、あなたの、すべての人のいのちに は、宇宙的、つまり絶対的な価値・尊厳があるといえるのではないでしょうか?

*写真はM16「ワシ星雲」内にある星形成領域の赤外線写真。NASA提供。






星とともに走っている者
2005年10月17日





 古代ローマの哲学者皇帝マルクス・アウレーリウスが、こんなことをいっています(神谷美恵子訳『自省録』岩 波文庫、7・47)。

 星とともに走っている者として星の運行をながめよ。また元素が互いに変化し合うのを絶えず思い浮べ よ。かかる想念は我々の地上生活の汚れを潔め去ってくれる。 

 これは、まるで今私たちが学んでいる現代科学的なコスモロジーとそっくりですね。
 悩みとか落ち込みとかは、いわば心の汚れです。そういうときには心が爽やかじゃないわけですからね。
 そういう時、彼は、自分は星とともに走っている、宇宙の中で宇宙と共にダイナミックに運動している、そういう 存在として星の運行を眺める、という大きなスケールでものを見ようとします。
 私たちは、今この感覚器官で見える範囲だけを見ていると、何かが起こると、そこだけで喜んだり悲しんだり しているというスケールしか見えません。
 特に落ち込んでいる場合は、ほとんど法則的に視野が狭くなっています。
 こんど自分が落ち込んだ時、思い出してみてください。「ああ、オレ/私、落ち込んでいるなあ……で、宇宙ス ケールのことを考えているかな?」と。
 だいたい落ち込んでいる時には自分の身のまわりの、かなり狭い範囲のことしか考えていませんね。
 そういう時、起こっていることはすべて大きな宇宙の摂理というか、宇宙進化の方向性の中の小さなエピソー ドなんだという視点を自分の中に持つことができたら、かなり楽になります。
 自分たちが喜んだり悲しんだりしていることも、物質レベルでいうと宇宙の元素の変動であると見ていくと、そ れにはまり込んでしまった時の落ち込みとか苦しみに比べて、ずっと楽になります。
 これを心理学用語では「ディスアイデンティファイ(脱同一化)」といいます。
 自分の心の中で自分と苦しみが一体化しているのではなくて、一回それを離して向こう側に見てみる。
 離して向こう側に見るといっても、ほんの少しのことではなく、例えば太陽系スケールで見るんです。
 太陽系の中の一つの星である地球の、その中のちっぽけな日本という島の中の、その○○という地名の、こ こにいるこのちっぽけな私……でもその私が星とともに宇宙の動きを形づくっている、と見ます。
 しかも結局は、いろいろな苦しみや破壊や悩みがあっても、宇宙はある大きな目的に向かってダイナミックな 運動をしていて、自分はそれに参加しているんだ、その自分の苦しみにもそういう意味があるんだ、と見ること ができたら、ずいぶん気持ちが大らかに、楽になるでしょう。

*写真は『星の風景」(http://www.asahi-net.or.jp/~vd7m-kndu/)から転載させていただきました。






宇宙が自分の中に銀河というかたちを生み出す
2005年10月19日





 誕生して10〜30万年後頃、宇宙に存在する元素は水素とヘリウム(および少量のリチウム)だけ、いわば 水素とヘリウムの霧でいっぱいという時があったようです。
 最初からゆらぎ(ムラ)があったために、水素とヘリウムの霧にも濃淡があり、重力によって濃いところには粒 子がどんどん集まっていき、巨大な霧の塊ができていきます。
 これは何だと思いますか?
 なんと! 水素とヘリウムガスの「星」の誕生なのです。
 私たちは地球から連想して、「星」というと何か固い塊を想像しがちですが、宇宙の初期に生まれた星はすべ てガス状だったといいます。
 ガスの塊が重力によって凝縮するために、内部は大変な温度と圧力になります。
 凝縮された星の内部では、水素原子核(陽子)や重水素原子核(重陽子)などが激しく衝突しあい、ついに核 融合反応を起こし、膨大なエネルギーが解き放たれ、新しい元素が誕生します。
 解き放たれたエネルギーは、目くるめく光となって空間に放射されます。
 そうです、星が光りはじめたのです。
 夜空で見ると、静かで愛らしくて、少しさみしく見えることもある星たちの多くは、今でもそういう驚くべき灼熱の 核融合炉を内部に抱えていることで、あの光を放っているわけです。
 そして、内部では、猛烈な熱の中で元素が合成されています。
 今でも多くの星が水素とヘリウムガスでできていて、宇宙のあちこちで水素より重い元素が新たに合成されて いるのだそうです。
 できたての酸素、炭素、窒素……の目に見えないほどの小さな粒子を想像すると、何とも不思議の思いに誘 われてしまいます。
 宇宙の歴史を学んでいると、私は、あちこちで驚きや不思議さや美しさなどに思わず立ち止まってしまいそう になります。
 しかし、宇宙のダイナミックな進化は一瞬も立ち止まってはくれないようです。
 さらに、そうした星が次々と誕生し、無数の星々はまた重力によって引き合い集まって星団をなし、いくつもの 星団がさらに集まって銀河をなし、さらには銀河群、そして銀河団をなしていきます。
 まだ太陽系も地球も存在せず、だから当然、どんな生命も意識ももちろん私も存在していない宇宙で、気が 遠くなるほど長い時間を費やしながら、しかし霧は混沌(カオス)状態のままにとどまっておらず、星になり、星 の群れになり、さらにはっきりとかたちをもった無数の巨大な銀河に変容していきます。
 その様子を、精一杯想像力を広げてイメージしてみてください。
 すごい! なんとも壮大な……!光景ですね。
 そして、壮大なイメージが心に描けたら、その銀河を「生み出した」のは何か、つまり銀河は「何によって生ま れた」のか、ここでちょっと考えてみてください。
 すぐ前の段落で「宇宙で」という言い方をしましたが、これは実はやや不正確な表現だ、と私は思うのです。
 正確な意味での「宇宙」とは、果てしなく広がる巨大な暗黒の「空間」のことではありません。
 もともと一つのエネルギーの塊だったものが、時間、空間、物質へと分かれてきたわけですが、そのすべてが 「宇宙」なのです。
 だとすると、「宇宙で」「銀河が生まれてくる」というより、「宇宙が」「銀河を生み出していく」というほうがより正 確な言い方でしょう。
 さらにそれは、自分の外に宇宙とは別の銀河というものを生み出すわけではありません。
 「宇宙が」「自分の中に」「銀河というかたちを生み出していく」ということなのです。
 私たちは、ものごとを分離して考えることにあまりにも慣れていて、「宇宙」「銀河」という言葉を使うと、ついそ れぞれが分離した別々のものだと思ってしまいがちです。
 けれども、「宇宙」とは事実としても定義上も「全体」ですから、「部分」をすべて含んでいなければなりません。
 そして銀河はすべて、宇宙の部分なのです。
 ここで、「分離」と「区別・区分」の違いを思い出してください。
 もちろん、いったんかたちができると、あの銀河とこの銀河の区分・区別はできるのです。
 空間と銀河の区分もできます。
 しかし、そのすべてが分離できない全体としての1つの宇宙に含まれ、包まれている、あるいは1つの宇宙の ままである、というほかないのではないでしょうか。
 だとすれば、「宇宙があるところで銀河というかたちを現わしていく」、あるいは「宇宙が自分の一部として銀河 というかたちを現わしていく」といったほうがいいかもしれません。
 星も、星団も、銀河もみな、宇宙の自己組織化のもたらした宇宙自身の美しい実りです。







天の川銀河系の誕生と超新星
2005年10月20日





 宇宙カレンダーでいえば4カ月、1年の最初の3分の1、つまり50億年が、無数の銀河の形成に費やされま す。
 カレンダーの4月9日つまり100億年前頃(これは説によって誤差が相当大きいようですが)に、私たちが現 にいる「天の川」銀河系も生まれたようです。
 つまり「私たちの天の川銀河は宇宙によって生まれた」わけです。
 さて銀河を形成している無数の星――例えば天の川銀河系には太陽以上の大きさの恒星が2000億個くら いあるといわれています――には、誕生があるだけではなく、死もあるといわれています。
 質量によって、終わり方もいくつかのタイプがあるのですが、特に太陽の10倍以上ある星は、寿命が1000 万年以下で、まず水素を燃やした後にできるヘリウムが核にたまってくるとやがて、その核の部分は温度も圧 力も太陽よりもはるかに高くなります。
 そして核融合によって、炭素や酸素よりも陽子の多いネオン、マグネシウム、ケイ素、イオウなどを作り、さら にケイ素の原子核から鉄の原子核を作っていきます。
 そして鉄まで来ると、鉄の原子核はとても安定しているので、新しい元素の形成はいったん止まります。
 ところが、重力で星の内部は収縮し、さらに温度が高くなり、あまりの高熱にこんどは鉄の原子核が分解し始 めます。
 すると、星の核の圧力と重力のバランスが崩れて一気につぶれ、その反動で爆発します。
 この爆発によって、非常に強く輝くので、新しい星が突然生まれたのかと思われて、超新星(スーパーノーヴ ァ)」と呼ばれていました。
 しかし研究が進むと、星が新しく生まれたわけではなく、実はそれはいわば「星の死」だということがわかりま した。
 何か永遠なものの象徴のように思われる星も、誕生しやがて死を迎えるのですね。
 そのことだけを考えると、何か淋しいような、空しいような、あるいはひどく恐ろしいような気がします。
 しかし、星はムダに死ぬわけではなく、その大爆発の際の強烈な熱と圧力によって、鉄よりも重い元素が作ら れ、それらは宇宙空間に広く広く撒き散らされます。
 宇宙空間に広がった物質は、星間ガスと呼ばれ、またそれが集まってより複雑な原子からなる新しい星が誕 生するのです。
 つまり、超新星は、いったん死ぬことによって新しいもの・新しい星を生み出していくわけです。
 すでに学んできたとおり、私たちの体はさまざまな元素でできています。
 その元素の多くは、そういうふうにして星の誕生と死の繰り返しの中から生まれたと推測されています。
 私の体・いのちが、今・ここにまちがいなく存在することから逆に遡って考えていくと、水素ガスの星の誕生、 銀河の誕生、その中での星の誕生と死は、それに続く太陽系、地球、生命、人類、私の先祖、そしてこの私の 誕生の準備だったことになります。
 そうした元素の誕生の歴史と、それが明らかにされてきた近代の科学の歴史を語った、きわめて興味深い、 マーカス・チャウン『僕らは星のかけら――原子をつくった魔法の炉を探して』(無名舎)という本があります。
詳しいことはその本にゆずるとして、一文だけ引用しておきましょう(同書2頁)。

 「私たちの血液に含まれている鉄、骨に含まれているカルシウム、息を吸うたびに肺を満たす酸素は、すべ て、星の内部奥深くの灼熱のオーブンで焼かれ、その星が年老いて、消滅すると同時に、宇宙に解き放たれた ものだ。私たちは、誰もが大昔に死に絶えた星の忘れ形見なのである。私たちの誰もが、文字通り天でつくら れたのである。」

 それにしても、「私たちの誰もが、文字通り天でつくられたのである」とは、なんとロマンティックな言葉でしょ う。
 しかし、これもまた詩人ではなく科学者の言葉です。
 よく調べれば調べるほど、宇宙そのものがとても壮大な物語=ロマンに満ちている、つまりロマンティッ クな存在だったことが、科学によって明らかにされてきた、ということでしょう。

*写真は、銀河NGC2403付近の超新星。Credit:NASA






原始太陽系と地球の誕生
2005年10月21日





 引き続き、宇宙では星の誕生と死が繰り返されていきます。
 そして、夏の終わり、8月20〜25日頃、そういう無数――私たちのこの宇宙には1000億〜1兆の銀河が あるといわれていますが――の銀河の一つ、私たちの「天の川銀河」の中に太陽系が誕生します。
 といっても最初は、核になる太陽の原型――ほとんどが水素とヘリウムのガス――とその周りを回る円盤状 の星間ガスで、まだ惑星ははっきりしたかたちを現わしていません。
 大変な速さで回っている星間ガスがいたるところで凝縮して小さな惑星になり、小さな惑星同士が衝突を繰り 返して次第に大きくなって本格的な惑星になり、今のかたちに近い太陽系が生まれてきたというのが、現在の ところ有力な仮説のようです(松井孝典『地球・宇宙・そして人間』徳間書店など)。
 そういう意味でいうと、厳密には全体としてのガス星雲が太陽と惑星にはっきり分かれた時が、太陽系の誕 生というべきかもしれません。
 つまり、太陽の誕生と地球の誕生は同時だともいえる、ということのようです。
 そして8月31日、46億年前、いよいよ、今のところ知られている唯一の生命の星である地球の誕生です。
 あるいは、「宇宙の一部が天の川銀河というかたちを現わし、天の川銀河の一部が太陽系というかたちを現 わし、太陽系の一部が地球というかたちを現わした」といったほうがいいでしょう。
 宇宙の外に、宇宙の一部でない地球が生まれたわけではないのですからね。
 ここでも、この46億年前の地球の誕生が、いつかどこか外側で起こった「関係ない」話ではなく、「今ここにい る私」の誕生に直接つながった不可欠の条件だということを、もう一度思い出しておきましょう。
 つまり、私たちは「銀河の子」であり、「星の子」であり、「太陽の子」であり、「地球の子」なのです。
 逆の言い方をすれば、銀河も超新星も太陽も地球も、私たちの「ご先祖さま」であるということです。
 父や母、祖父や祖母、曽祖父や曾祖母……といったご先祖さまだけではなく、地球、太陽、超新星、銀河… …そして全宇宙というご先祖さまの、どれが欠けても私は存在しなかった、ということの不思議さを感じません か。
 筆者は、例えば夏の夜、海辺か山の真っ暗なところに寝転んで、それこそ降るような星空、乳白色に煙る天 の川銀河を見ながら、改めてこうした自分と宇宙の根源的なつながりについて考えると、全身がぞくぞくするほ どの不思議さと感動を実感します。
 その不思議なつながりについてさらに考えていきましょう。

*写真はX線で見た太陽。Credit:NASA






教師の勲章
2005年10月22日


 実際の大学の授業で何回かに1回、学生たちに感想文を書いてもらっています。
 昨日、提出された感想文の中に、とてもうれしい言葉がありました(感想文を匿名で公表することがあると学 生たちに予め了承を得てあります)。

 「……私は後期の仏教心理論2を前期の段階で履修していませんでした。
 本当に失礼ですが、後期に他にとりたい授業があったので、前期の暇をつぶすために仏教心理論1を とったのです。
 私の心が変わったのは前期の途中ぐらいでした。
 先生のお話しを聞いて、心が震えるような感覚がありました。
 それで「この講義を聞かなかったら一生後悔する!」と思い、後期をとることにしたのです。
 とる予定だった授業より、仏教心理論の方が私の人生の歩みの上で必要なのだと思いました。……」

 「心が震えるような感覚」があったのは、おそらく今このネット授業でやっているあたりだったのではないかと 思います。
 前回、「自分と宇宙の根源的なつながりについて考えると、全身がぞくぞくするほどの不思議さと感動を実感 します」と書きました。
 授業をしていて、語っている私もぞくぞくするほどの感動をしているのですが、その感動がストレートに彼女の 心に伝わったのでしょう。
 だれかと感動を共有できることは、人生の大きな喜びの1つです。
 そして、伝えたかった感動を学生たちに受け止めてもらって、こんな言葉を書いてもらうと、いつも、「これは、 もうピカピカの教師の勲章だ!」と思ってしまいます。
 授業が進むにつれて、眼が輝いてくる学生の数が増え、すてきな感想文をたくさんもらえるようになっていき ます。
 そうすると、「教師と○○は、1回やったら止められない」という気分になってしまうのです。
 明日から山中湖畔のワークショップに行ってきます。
 おそらくまた、「コスモス・セラピーのインストラクターと○○は、1回やったら止められない、たぶん一生止めら れない」という気分になれると、わくわくしているところです。
 ……というわけで、授業は2日ほど休講ということになるかもしれません。ネット学生のみなさん、よろしく。






母なる地球の胎動
2005年10月25日


 46億年前、太陽系の第3の惑星として地球は生まれたのですが、私たちのこの地球は、他の惑星にはない 特徴を与えられた星でした。
 それは、金星や水星のように、太陽からの距離が近すぎて熱すぎ、水がぜんぶ蒸発してしまうこともなく、火 星や木星、さらに遠い惑星のように、遠すぎて冷たすぎ、水がぜんぶ凍り付いてしまうこともなかったということ です。
 他の惑星とちがって地球は、液体状の水がたっぷりとあるので、「水の惑星」と呼ばれています。
 ここで、私たちの体の七〇パーセント近くが水だということを思い出しましょう。
 つまり、細胞の大部分は水であり、ということは、水なしにはあらゆる生命活動がありえないということです。
 もし、地球が太陽にもっと近かったり、遠かったりしたら、水の惑星でなくなっており、そうすると、あらゆるい のちも、もちろん私のいのちも存在しなかったのです。
 太陽と地球の絶妙の距離が、いのちがいのちであること、私が私であることを可能にしているのです。
 何と不思議なことでしょうか。
 これは、単なる偶然なのでしょうか?
 それとも、そこに宇宙の摂理のようなものがあるのでしょうか?
 それはともかく、生まれたばかりの地球は灼熱地獄のような高温で、すぐに生命が生まれるような状態ではな かったとかんがえられています。
 小さな惑星が激しい衝突によって集まり、その熱で惑星の内部の水や二酸化炭素が放出されます。
 創発直後の地球は、水蒸気や二酸化炭素の厚い大気で覆われていたようです。
 それは、今問題になっている「温暖化」の原因とされる二酸化炭素の濃度とは比較にならないほどだったので す。
 その厚い大気の「温室効果」で、熱の放散がほとんどといっていいほど妨げられ、地表の温度はどんどん上 がり、溶けて、「マグマの海」状態になります。
 しかし長い長い何億年もの時間をかけて、ようやく次第に温度が下がってきて、マグマは固形化しはじめま す。
 それにつれて、大気の温度も下がってくると、地球は大気中の水蒸気が凝集してできた厚い雲に覆われま す。
 ようやく一部が固形化しはじめ、ある部分ではまだマグマが燃えているという状態の地表、そしてその上には 厚い雲に覆われた真っ暗な空という地球を想像してみてください。
 さらに温度が下がると、その厚い雲が熱い雨になり、地球の表面あらゆるところが絶え間ない土砂降りという すさまじい状態になります。
 しかし地表の温度はまだ下がりきっていませんから、雨は、焼けたフライパンに注がれたお湯のように跳ね 上がって蒸発し、水蒸気そして雲になり、また少し冷えると雨になって降り注ぐ……。
 雲は静電気を帯びていて、絶え間なくイナズマが閃き、カミナリがとどろきます。
 地球の表面は、年中嵐どころか、何千年も何万年も、さらに数億年の間、信じられないほど暗く荒々しい嵐の 世界だったようです。
 さらに時が経ち、焼けたフライパンのような地表がようやく冷えてくると、水の蒸発が少なくなり、地球の表面 のくぼんだ部分に溜まってきます。
 「原始の海」が創発したのです。
 地球を覆う大気とこの熱湯状態の原始の海の水には、生物にとって必要な元素すべてが含まれていました。
 もちろん、ばらばらの原子としてではなく、ほとんどがすでにそうとうに複雑に結びついた様々な分子として存 在していたようです。
 ここで、まだ生命は一つも生まれていない、しかしまちがいなく生命の誕生に向かって、長い長い激動――ま さに誕生に向かう「胎動」、産みの苦しみ――を続けている地球を想像してみてください。
 そういう想像をすると、私は、感動せずにはいられませんし、古代の人々が大地を「母」あるいは「母なる神」 と呼んだことの意味がいっそうよくわかる気がします。






生命の創発
2005年10月26日





 宇宙カレンダーの9月16〜21日頃(38〜40億年前)、原始の海は、煮えたぎる 原子や分子のスープ状態 でした。
 熱湯の海には、暴風雨の雲の合間から絶え間なくイナズマが閃き落雷します(放電)。
 オゾン層はまだできていないので、遮るものなしに強烈な紫外線が直射し、宇宙線が降り注ぎます。
 酸素大気がないので、隕石は途中で流れ星になって燃え尽きることなく、海も陸も直撃します。
 化学反応を引き起こすそうしたいくつもの要因によって、海では激しい化学反応が起こり続けます。
 それによって次々に、様々な原子がつながりあって分子が生まれ、分子が複雑につながりあって高分子が生 まれていきます。
 ここで重要なのは、複雑といってももちろんデタラメではなく、整然とした秩序をもってつながっていく、つまり 「組織化」していくということです。
 理科系の苦手な人は、面倒な化学式はいったんぜんぶ忘れましょう。
 ただ、そのシーン、つまり物質がダイナミックに「自己複雑化・自己組織化」していくシーンをイメージしてみて いただきたいのです。
 原初、1つのエネルギーだった宇宙が、やがてクォーク、そして陽子や中性子や電子、さらに原子、分子、高 分子と自己組織化を遂げていくシーンを想像してみてください。
 1つの宇宙の中の地球の中の海の中で、高分子が誕生するのですが、しかしそれは宇宙のある部分が自己 組織化してそういう形になっただけであって、宇宙でない何かになったわけではありません。
 高分子がさらにつながりつながって、複雑化のあるレベルをジャンプした時、それまでには存在しなか った「生命」という存在が、宇宙の中の天の川銀河の中の地球の中に、誕生します。
 それまでは物質だけだった世界に、物質を基礎としながら、ただの物質には還元しきれない、新しい 特性をもった「生命」という存在が生み出されたのです。
 (「生命の特性はそれが創発する前の物質の特性には還元できない」、つまり「生命は物質に還元できない」 というのは、現代生物学の大きな合意点だと思われます。)
 さて、ネット学生のみなさん、単なる物質に還元することのできない「生命」特有の性質というのは、何だった か覚えていますか?
 私たち人間は、まぎれもなく「生命」の1種ですから、生命の特性を知らないということは、自分の特性をも知 らないということになりかねません。
 ぜひ、ここで苦手だったかもしれない「生物」の暗記項目としてではなく、自分の本質として、生命の本質をつ かみなおしておいてください。
 生命の特性とは、@細胞膜によって自分と外部を区分しながらつながっている、A新陳代謝によって外界と 交流しながら自分を維持する、B生殖によって自分とほとんど同じ生命体を複製する、という3つでしたね。
 (これにC成長する、を加えることもあります。)
 英語の科学用語で、それ以前にはなかった新しい性質が生まれることをemergence といいます。
 「発現」あるいは「創発」と訳されますが、私は「創発」という訳語が非常に気に入っています。
 それまで存在しなかったまったく新しいものが「創造的に発生する」というニュアンスがとても印象的で心に響 くからです。
 おそらく、38億から40億年前、1年に縮尺した宇宙カレンダーでは秋の実りの季節、海の中で生命 が創発したのです。
 ということは、同時に地球上に、太陽系に、天の川銀河系に……ということはすなわち宇宙に生命が 創発したわけです。
 (もしかすると、すでに広い宇宙のどこかの星で生命が創発していたかもしれませんが、それは今のところわ からないことなので、カッコに括っておきましょう。)
 浜辺に立って大きな海を眺めると、一種独特の感じが心に湧いてくるという方は多いのではないでしょうか。
何か、大きな、包むような、力に溢れた、しかし優しさ……といった感じです。
 浜辺を歩いていると、打ち上げられた海草やカニや小魚の死骸、無数の貝殻、そして嵐の後には大きな魚や 海鳥の死骸などが目に入ります。
 無数の命を宿し、無数の死をもたらし、しかし海の波は絶えることなく、寄せては渚で砕けそして帰っていきま す。
 それは、ほとんど永遠に近く繰り返すいわば海の脈動です。
 そうした海辺のシーンを見ている時、私は、海が数え切れないほどの生と死の営みを包み込んだ「母なる海」 なのだと実感するのです。
 そしてそれは、おそらく私を含むすべての生命が元々海で生まれたことの太古の記憶に関わっているのでは ないか、と思ったりするのです。
 どこかで(うまく思い出せないのですが)、フランス語では海も母も「メール」であり、漢字の「海」には母という 字が入っている、という詩を読んだことがあります(堀口大学だったか)。






海の詩
2005年10月27日






   郷 愁
                  三好達治

 蝶のような私の郷愁……蝶はいくつかの籬(まがき)を
 越え、午後の街角に海を見る……私は壁に海を聴く……。
 私は本を閉じる。私は壁に凭(もた)れる。隣の部屋で
 二時が打つ。
 「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、
 僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。そして母よ、
 仏蘭西(フランス)人の言葉では、あなたの中に海がある。

 asassataさんから、堀口大学ではなく三好達治の詩だったことを教えていただきました。ありがとうございま した。
 ずいぶん久しぶりに読み直したのですが、あらためてとてもいい詩だなと思い、みなさんと共有したくなりまし た。
 私は、郷里が瀬戸内海なので、時々無性に海が見たくなることがあります。
 幸いにして山側ですが湘南に住んでいますので、そんな時は、衝動的に「海に行こうか」とかみさんを誘って、 ちょっとだけバスに乗って、JR東海道線の線路の向こう側の海辺に散歩に出かけます。
 晴れの日も、曇りの日も、冬の雨が降っているような時も、行くたびに、海はいいなあと思います。 






宇宙カレンダーの授業の感想
2006年06月20日


 今、どの大学、学部でも、だいたい宇宙カレンダーの生命の創発のあたりの話をしています。
 学生たちは、例年のようにとても生き生きと感動をもって聞いてくれています。
 エゴイズムやニヒリズムからしっかりと脱出しつつあるようです。
 以下、3名の感想文を掲載します。

 文学部三年 男
 「日本人の精神的荒廃」についての授業では、現代人はエゴイズムに陥っても仕方がないし、そこから 抜けだせないという風に考えていた。
 しかし、宇宙カレンダーを使った授業を受けているうちに、何だか明るい気持ちになってきた。
 私達の体にある物質には、星で作られたものがあるというのは知らなかったので不思議な感じがした。
 「生きている」特徴の1つの新陳代謝というのは、外部とのコミュニケーションであり、それをしないと死 んでしまうというのは、人間は他者とコミュニケーションを取れない状態だと「さみしい」「むなしい」と思っ てしまう原点のように思えた。
 私は今まで自分が生まれたのは偶然だと思っていた。
 でもこの授業を受けて、そうではないのかもしれないと思い始めた。
 宇宙の今までの営みが私という存在を生むためのものであるなら、むなしくないと思える。
 また、私が生まれるためには、両親、祖父母がいないと生まれなかった、と思ったことはあるが、それ 以上の人々(祖母の両親)について考えたことはなかった。
 改めて、祖先に感謝の気持ちが生まれた。私のエゴイズムは少しずつ無くなっていくように感じた。

 文学部3年 女
 私は、今まで生きていることは凄いことだという実感を持ったことは正直いってあまりなかったです。
 周りには友達がいて、渋谷や原宿などに行けば人があふれている環境の中で、生きていることのあり がたみを感じずに生きてきました。
 しかし、それは百五十億年の宇宙の歴史やご先祖様のおかげだということを学び、自分の命や自分だ けのものではないのだから、感謝しながら大切に生きなくてはいけないと思いました。
 そして、数え切れないほどのご先祖様の苦労や想いを私もを断ち切ることのないように子孫に受け継 いでいかなくてはいけない。
 そうしていくことで、人の歴史はつながっていくのだ。
 それが、私たち人間の生きるという意味であり、使命であるということ考えさせられました。
 私は、少しくらいの失敗でよく悩んだりしがちだったのですが、150億年もの歴史を持つ宇宙や多くの ご先祖様が、私一人が生まれるのにどのくらいの歴史を費やし、苦労したのだろうかと考えると、こんな ちっぽけなことでくよくよしている自分がすごく小さく感じました。
 今では、宇宙やご先祖様が、「ハイ、あなたの番だよ! 私たちが見守って見守っているからね」とバト ンを渡してくれた気がします。
 私は、そのバトンをしっかり握り、自分を大切にしながら、宇宙やご先祖様のありがたみを心にとめ、他 人を尊び感謝しながら次の世代にバトンを渡していきたいです。
 以前までの私なら、こんなに深く「生」について考えたことはなかったし、この授業を受講していなけれ ば、きっとこの先も考えなかったと思います。
 それは少し恐ろしいことだな、と感じます。
 そのくらい、私はこの授業に影響を受け、そのことにより人として視野が大きくなったと感じています。

 文学部2年 女
 この宗教学の授業で宇宙の話を聞いて驚きと感動の連続でした。
 日常生活の中で宇宙のことを考えることというのは今まではほとんどなかったし、自分が今ここにいる 意味を考えるのに宇宙の話が出てくるのはとても予想外でした。
 でも先生の宇宙についての話を聞くうちに、宇宙と私はとても深い関りがあるのだということを知りまし た。
 「宇宙はもともと小さなエネルギーのかたまりで、水素、ヘリウムができて、それらが核融合をして太陽 エネルギーが出され、星ができ、地球ができて、地球の中で生物が生まれて、人間ができて、今の私が ここに存在している」という話を聞いて、宇宙があるから私がここにいることができるんだなとすごく実感し たし、何よりもうれしかったのは、「君たちはみんな星の子なんだよ」と先生もおっしゃっていたことです。
 自分が星の子だなんて考えたことなかったので、本当に感動したというか、ワクワクというか、言葉では 言い表せないようなうれしい気持ちでした。
 先生がこの話をしてくださったときに、私たちの反応を見て、「もっと驚かないの?」と聞いていました が、内心ではすごく感動していました。
 授業が終わって教室から出てからも、友達何人かとこの話で盛り上がって、「私たちが星の子だなんて 本当にすごいよね!!」などと話しました。
 それともう1つ印象に残っているのが、地球の位置の話で、地球は太陽から3番目のところにあるのだ けれども、もし地球が太陽にもっと近かったら蒸発してしまうし、遠すぎるところにあったとしても寒すぎて だめだから、この地球が太陽から3番目にあるということは偶然かも知れないけれど、人間を作ろうとし たから3番目になったんだと考えると、とてもすごいことだし、3億円の宝くじの1等に100回連続で当た ることよりも確率が低いということを聞いて、まさに私がここに存在することは奇跡としか言いようがない と思いました。
 今私がここにいることができるのは奇跡だとしたら、すごくありがたく思えてきて、ご先祖様だけではな く、宇宙にも感謝の気持ちでいっぱいになって、いつも悩んでいたことがとても小さなことに感じて、とても 前向きな気持ちになれました。
 授業に出てこんな晴れ晴れとした気持ちやうれしい気持ちになれたことは今までになかったので、この 授業を受けれてよかったと思うし、毎回の授業はとても楽しいので、これからの授業も楽しみです。また、 授業を受けて自分もどう変われるのかが楽しみでもあります。






毎日コスモロジー
2006年06月25日


 木曜日と金曜日は大学でコスモロジーの講義でした。
 昨日は、横浜のカウンセリングの学習グループでコスモス・セラピーの入門コースをしてきました。
 今日は、藤沢のミーティング・ルームでコスモス・セラピーのトレーニング・コースです。
 「アインシュタイン以降、世界はただ物でできているのではなく、むしろ世界はエネルギーでできているというこ とになったんです。だから、私たち一人一人も、ただの物というより、宇宙エネルギーの塊なんです。」
 「少なくともエネルギー・レベルでいうと、すべては一体、ということになるんです。」
 「私たちの体には宇宙137億年の歴史が籠められているんです。すごいことですよね。」
 「宇宙があるから、私がいる。」
 「地球があるから、私がいる。」
 コスモロジーの決め言葉が、みんなの心に届いているようです。






生命の創発の「すごさ」


 このブログでもご紹介した宇宙一三七億年の歴史を三六五日に縮尺した「宇宙カレンダー」を使って、今も授 業を行なっています。
 前期授業ももう数回で終わり、そろそろ人類の誕生、結論のあたりに差しかかっています。
 まとめ風にカレンダーを振り返りながら、改めて感じたことを学生たちに話しています。
 例えば、今から九月一六日頃(四〇億年前)、〔今私たちの知るかぎりでは〕地球の海の中で生命が創発した わけですが、それは、それまでは生命の存在しなかった宇宙に生命が始めて誕生―創発したというです。
 なんという不思議でしょう。
 その生命はたった一匹の単細胞だったと推測されていますが、それから一二月五日(一〇億年前)、多細胞 生物が創発するまでなんと三〇億年間も生命は単細胞のまま、細胞分裂で自分の複製(コピー)を作るという 単純な方法で、生命をつないできたのです。
 その単純さとその長さ―そしてそれはある種大変な努力だったと思われます―を想像すると、「すごい!」と いうほかありません。
 もっといい表現があるといいのですが、宇宙の歴史の話をしていると、もう「すごい」を連発するほかなくなりま す。
 しかし、この単純な「すごい!」を連発しながら語っていると、多くの学生たちに「すごい!」という共感が生ま れてくるようです。






すべての生命は共通の先祖から生まれた?
2005年10月28日


 近代ではなく現代の生物学によれば、生命は物質を基礎にしていますが、単純に物質に還元できない新しい 性質をもっています。
 といっても生命は、つながりあった原子=分子、さらに分子がいっそう複雑にしかしデタラメではなく整然とし た秩序をもってつながりあった高分子という物質に支えられていることはまちがいありません。
 生命を支えている高分子には、たんぱく質(酵素の主体)、多糖類(でんぷん等)、核酸があり、よく知られて いるように様々な生命のかたちを決める遺伝情報はDNAと呼ばれる複雑な核酸によって担われています。
 そして、1950年代、ワトソンとクリックによる遺伝子のラセン構造の発見以来、今日までに研究されてきた 生物は、不思議なことにもっとも単純なものからもっとも複雑なものまですべて基本的には同じ構造のD NAを持っているらしいのです。
 そして、すべての生命のDNAの違いをいわば系図のように調べていくと、どうも38〜40億年くらい前に地球 上−海の中で発生した1つの生命がすべての生命の祖先であるようです。
(1つだけではないという説もありますが、それにしてもごく少数の生命からということのようです)。
 もしその仮説が正しいとすると、すべての生命は、たった1つの共通の祖先から驚くほど多様に展開・進 化してきたものだ、ということになります。
 つまり、すべての生命はつながっているわけです。
 そして、そういう38〜40億年の生命のつながりの中で私が生まれているのです。
 K・マーシャルという女性科学教育家の『人類の長い旅――ビッグ・バンからあなたまで』(さ・え・ら書房、87 頁)という本には、こう書かれています(読みやすくするために改行、1行あけを加えています)。
 「人間のからだをつくっている化合物……じつは、動物や植物の化合物とまったくおなじなのです。
地上のすべての生きものには、アミノ酸と核酸塩基があります。
 そして、将来の世代をつくり出すための指令となっている、複雑なかたちのDNAの分子をもっていま す。花と木と魚とトカゲとトラとゾウと人間と、それぞれのあいだのちがいは、ただ化合物のならびかた と、DNAが伝える命令のちがいだけです。
 このことからわかるのは、わたしたちはみな、おなじ生命の木からはえているえだなのだということで す。」
 現代日本の代表的な生物学者岩槻邦男さんの言葉も聞いてみましょう(『生命系――生物多様性の新しい考 え』岩波書店、17頁)。
 「……自分の生命は何百万年前にさかのぼると、ヒトの身体から、だんだんサルに似た生命体に収ま っており、さらに時代を億単位の年数で数える昔にさかのぼると、魚のような姿の生命体の中で生きてお り、30億年も前にまで歴史をさかのぼると、ついにはバクテリアのような姿の生命体に収まっている生命 にまで到達することを確認する。
 ……生物のひとつの個体は、個体がつくるとき誕生するものであるとしても、生きている生命は個体を つくる生命体を乗り換えながら、30数億年前からの生を生き続けているのである。」
 「さらにここで考えておかなければならないことは、30数億年生き続けてきたのは、ヒトの生命だけでは ない、という事実である。
 私たちの身の回りにいる生物はすべて、30数億年の生命をもっているのである。」
 すべての生命は、最初のたった1つの単細胞生物の生命を引き継ぎながら、30数億年かけて多様に進化− 分化したものです。
 そういう意味でいうと、すべての生き物は共通の先祖を持った親戚です。
 遠い遠い関係だとしても、でもやはり親戚なのですね。
 水中や地下の微生物も、道端の草や山の木も、セミやトンボもチョウも、イヌもネコも、数え切れないほどの いろいろな生き物が、みんな自分の親戚だということが、科学の眼からも語ることができるというのは、とても不 思議で、とても感動的なことだとは思いませんか。






生きていることは息をしていること
2005年10月29日





 生命の誕生は、宇宙の外に宇宙でない生命というものができたということではありません。
 それは、宇宙の中に宇宙の一部としてそれまでにない新しい性質を持った部分ができたということ、すなわち 宇宙の創発的な自己組織化なのです。
 ビッグバンから原子の誕生、星の誕生、銀河の誕生、太陽系の誕生、地球の誕生、そして生命の誕生まで ――そして実は私の誕生まで――すべては1つにつながった創発的な出来事の連なりなのだ、と確実にいえる ようです。
 ところで、私たち人間が生きているには、息をすること・呼吸が必要です。
 息をするとは、出空気中の酸素を吸収して、二酸化炭素を吐き出すことですね。
 「何を当たり前のことをいっているんだ」と思われるかもしれません。
 しかし、いわれてみるとすぐわかるけれども、いわれるまで気が付かない方も多いのではないかと思います が、息をすることについて、私たちには選択の自由はありませんよね。
 「息をしようとしまいと私の勝手でしょ」というわけにはいかないのです。
 もちろん、首をくくって自殺することはできますが、生きるのなら、息をしなければなりません。
 それは生きていくための選択の余地のない基本的な条件です。
 そして、それがいろいろなことを選択しながら生きることができる基礎でもあるのです。
 現在の地球の大気は、窒素が78%くらい、酸素が21%くらい、アルゴンが0.95%、二酸化炭素と水蒸気そ の他が1%弱という割合になっているそうです。
 だからといって、「窒素のほうが多くて有利だから、オレは窒素を吸うことにする」とか、「アルゴンのほうが希 少で価値がありそうだから、アルゴンにする」といった選択は不可能なんですね。
 ここで改めて、最初にお話しした「自由に選択できない条件が自由に選択できる基礎になっている」ということ を思い出してください。
 私たちの生きる決定的な条件・基礎の一つ、酸素を吸い二酸化炭素を吐くということも、進化の歴史 の中で決められ、与えられたことです。
 では、それは、いつごろ、どういうふうに決まったのでしょうか。
 すべての生命は生きていくために、何よりも炭素、水素、酸素、窒素と、エネルギーが必要ですが、生命は最 初から酸素を吸収していたわけではないようです。
 小惑星や隕石の衝突による激しい爆発−燃焼によってできたため、原始の地球大気には、分離した酸素は ほとんどなかったと推測されています。
 最初の生命は、有機物のスープのような原始の海の水から、糖の一種であるグルコース(ブドウ糖、 C6H12O6)を食べ、分解して、生きていただろうといわれています。
 糖の分解は一種の発酵で酸素は必要ではないのです。
 それどころか、そういう生命(嫌気性細菌)にとっては、酸素は生命にかかわる毒だったといいます。
 ところが、生命が創発し、20億年もかかって膨大に増えてくると、さすがに豊富にあった海中のグルコースが 不足してきます。
 食糧危機、飢死の危険が出てきたのです。
 ところが驚くべきことに――驚くべきことばかりですね――それに対処する方法を考え出した生物がいるので す。
 思わず「考え出した」という表現を使ってしまいましたが、単細胞の微生物に考える能力=知恵があったので しょうか?
 それは、単なる生存に有利な突然変異がたまたま起っただけなのでしょうか?
 知恵があったとしかいいようがない、と私は感じるのですが、それはおいておきましょう。
 ともかく、まず自分でグルコースを合成することのできる生命が生まれます。
 さらに、太陽の光のエネルギーを使ってより効率的にグルコースを合成できる生命が生まれてきます。
 そうです、「光合成生物」です。
 最古の光合成を行なう生命、シアノバクテリア(ラン藻)は、化石から見て遅くとも35億年前、宇宙カレンダー の9月29日頃には誕生しているといわれています。
 初期の光合成は、太陽エネルギーを使って、二酸化炭素と、水素ガス、硫化水素などから取った水素でグル コースを作るというものでした。
 しかしやがて、地球に豊富にある水を分解して水素を取るというかたちに進化していきます。
 水から水素を取ると、残るのは酸素です。
 そうです。この頃からようやく地球の大気に酸素が含まれるようになっていくのです。
 酸素発生型光合成生物の創発は、10月18〜21日(27〜28億年前)のことです。
 これは、進化史の2大事件の1つという科学者もいるほどの出来事です。
 つまり、これはずっと後の、私たちを含む酸素を吸って生きる生物が、生まれ生きていくための基本的条件 がこの時から始まったということなのです。
 今私が呼吸をしているということは、27、8億年前の光合成微生物の創発と根本的に関わったことな のですね。






光合成微生物と植物と私のつながり
2005年10月30日





 宇宙カレンダーの10月18日(27,8億年前)、酸素発生型の光合成をする微生物・シアノバクテリアが登場 し、分離した分子酸素を出しはじめます。
 といっても、倍率の高い顕微鏡でしか見えないほどの単細胞の微生物です。きわめてわずかずつでしかあり ません。
 しかしどんなにわずかずつでも出していれば、溜まっていきます。
 なんと6〜9億年も経って、11月3日(19〜22億年前)頃からやっと大気中の酸素量が増加しはじめるので す。
 実にゆったりとした速度ですが、それでも確実に私たちの地球は進化していきます。
 さらに11月8日(20億年前)、つまりさらに2,3億年も経って、光合成をする植物が出てきます。
 このようにほとんど想像もできないほどの長い時間をかけて、シアノバクテリアが生まれ、植物が生まれ、今 私たちが吸って生きている酸素の多い大気が調えられていきます
 11月29日(12億年前)になって、ようやく明確な酸素大気が発達――完成ではありません――しはじめたと 考えられています。
 酸素発生型バクテリアの創発から15,6億年も経っています。
 しかし、この段階ではまだすべての生命は海の中です。
 その最大の理由は、酸素の豊富な大気圏が形成されていない、したがってオゾン層が形成されていないから です。
 オゾン層なしの状態では、太陽から来る非常に強い紫外線が地上に直接に降り注いでいるので、生命は、紫 外線が吸収されて弱くなった海の深めのところでしか生きられず、浅いところや海の外では死んでしまいます。
 地上は溶岩の固まった岩かまだ噴火している火山ばかり、花はもちろんのこと、木や草も一本も生えていま せん。
 一匹の虫も動物も動いていません。
 想像しただけでも、凄まじく荒涼とした世界です。
 そんな世界が、おそらく12月19日(4億3千9百万年前)頃まで続きます。
 ところが、きわめてゆっくりではあるのですが、それでもやはり海中の酸素発生型の光合成バクテリアと植物 (といっても微生物)はしだいに増えていき、放出する酸素量も増えていきます。
 そうして、現在の地球大気に近い酸素の多い大気圏が形成されていきます。
 光合成バクテリアの創発から大気中の酸素量が増えはじめるまででも15,6億年、オゾン層が形成されて、 地上に出ても紫外線で細胞膜が壊されない、つまり死なない状態になるには、なんと24,5億年かかっていま す。
 さて、ここで断片的な科学知識としてではなく、コスモロジー(世界観)として、このことの意味を考えて見ましょ う。
 バクテリアは、私たちと無関係ではありません。
 最初のバクテリアは私たちの先祖であり、他の種も先祖から分かれた親戚なのです。
 さらにバクテリアのような生命から進化・分化して、植物が生まれます。
 植物も、私たち動物と枝分かれした親戚です。
 つまり、40億年前のご先祖さまや27,8億年前の親戚、20億年前の親戚たちが、その後の子孫であ る多様な酸素を必要とする好気性生物のために、24,5億年もかけて、酸素大気というプレゼントを準 備してくれたといってもいいでしょう。
 驚くほど根気強い努力です。
 その努力のお陰で、今私たちが呼吸できるのです。
 英語のpresentという言葉には、「贈り物」と「今」という2つの意味があります。
 今という時は多くの先祖たちからの贈り物だといっていいのではないでしょうか。
 すでに気づいている読者も多いと思いますが、こういう事実は、たままたそうなっただけ、偶然だと解釈するこ ともできます。
 また、近代科学には、宇宙の始まりから現在まで、すべてを偶然そうなったと捉えるのが科学的な考えだとい う、強い偏見――あえて「偏見」といいたいと思いますが――がありました。
 しかし、すでにいくつか引用してきたように、「現代科学」では、そうとう事情が変わってきています。
 少なくとも、宇宙で起っているすべてのことが宇宙の自己組織化――自分で自分をそう変容させてきた―― の結果であるということについては、1977年プリゴジーヌのノーベル賞受賞以後の現代の科学者にとっては、 当然の合意ラインだと思われます。
 そして、それよりも何よりも、「無数の先祖たちのお陰で今私がいる」という捉え方のほうが、はるかに 人生を豊かにするものではないかと思うのですが、どうでしょう。
 しかし、どちらの捉え方をするか、現段階では、それぞれの選択の自由・思想の自由だということになるでしょ うが。

*前にも載せた地球の写真を再度載せます。地平線のあたりの青くぼやけているごく薄い層が大気圏で す。酸素21%のこの薄い膜を海の中の光合成微生物と植物、そして遅れて地上の植物が協力して作っ てくれたのです。できれば拡大して、しみじみと見てください。






生命の相互依存
2005年10月31日





 話を先に進めましょう。
 酸素はとても結合力の強い元素で、単独の原子の状態であることはほとんどなく、ふつうは2つが結びついて O2というかたちになります。
 ところが光合成微生物や植物たちが出してくれた酸素の中にO3つまりオゾンになるものがあります。
 ご存知のとおり、オゾンには紫外線を吸収する効果があります。
 ごくわずかずつながら長い時間をかけてオゾンが大気圏の非常に高いところに一定量たまってくると、地上に 注がれる紫外線の量がようやく減ってきます。
 光合成をする生物にとっては、陸は海中より利用できる太陽エネルギーが多くて魅力的な場所でした。
 しかし紫外線も強くて進出できなかったのですが、ここで、太陽の光の直射している陸上でも生命が生きてい くことのできる条件が生まれたわけです。

*地球の大気は、高度20キロまでの対流圏、20―50キロの成層圏(この中20―30キロにオゾン 層)、50―80キロの中間圏、80―500キロの熱圏、500―900キロの外気圏の5つの層からなって います。

 そういう条件ができたのに、放っておくという手はありません。
 実際、チャンスを逃さなかった生物たちがいたのです。
 まず陸に上がったのは、太陽エネルギーをできるだけたくさん利用したい植物です(動物が先かもしれないと いう説もあるようですが、ここではこちらの説を採用しておきます)。
 水の中よりもより光を多く取り入れられるので、上陸していく植物が出てきます。宇宙カレンダーの12月19 日(4億3千9百万年前、シルル期)のことです。
 植物が陸に上がると、それが食べ物になりますから、それを追って動物も陸に上がっていきます。12月20 日(4億8百万年前)、デヴォン期のことです。
 最初に上陸したのは、動物といっても昆虫だったようです。
 生命が創発してから35億年間、ずっと海の中にいた生命たちがまったくちがった環境である陸へと冒険とい うほかない進出を果たしていったのです。
 さて、この段階で起こったこと、そして今の私たちにそのままつながっている重要なことは、この地球で は微生物と植物と動物が支えあい、相互依存して生きているということです。
 繰り返すと、私たちは生きているわけですが、生きているということは息をするということです。
 息をするには空気がなければいけない。
 空気の中の酸素がなければいけない。
 もちろん酸素原子は宇宙の初めのころに出来ていますが、様々な爆発=燃焼のためにほとんどが炭素と結 びついていたと推測されています。
 そうした炭素と結合した酸素を分離して、この地球上の大気圏の分子酸素(つまりO2)にしてくれたのは、酸 素発生型バクテリアや植物なのです。
 その酸素を吸って動物たちは生きています。
 そして動物は、二酸化炭素・炭酸ガスを吐き出します。
 植物は、動物が出した炭酸ガスの中の炭素と水から炭水化物を光合成し、栄養にしていきます。
 炭水化物に含まれる炭素は、動物の中でたんぱく質や脂肪の一部になっていきます。
 動物や植物が死ぬと、微生物によって分解され、炭素は二酸化炭素として空気中にもどっていきます。
 これを生物学・生態学の用語で「炭素循環」といいます。
 こういうふうに、炭素は空気―植物―動物―微生物の間を巡っています。
 つまりある時は空気だった炭素が、ある時は植物の体になり、ある時は動物の体になり、ある時は微生物の 体になったり、また微生物によって分解されて空気にもどったりするわけです。
 筆者は、しばしば大きな木のあるところに行って、深呼吸しながら、こんなことを思います。
 「そうか、今私が吸っている空気の中の酸素は、この木が出してくれたものかもしれない。
 私が吐き出している二酸化炭素を、やがてこの木が吸ってくれるだろう。
 私ではなかった空気中の酸素が、私のからだの一部になり、私のからだの一部だった炭素が酸素と結合し て出ていって、私ではなくなり、その炭素は私ではない木の一部になっていく……。
 空気と私と木とは、酸素と炭素を通じてまちがいなくつながっている。
 自然と分離した私だけで生きていられるような『私』なんていないのだ。
 私はまちがいなく宇宙とつながって一つだ……」と。
 何より私たち動物は、自力で太陽エネルギーを生命エネルギーに換えることはできませんから、植物かその 植物を食べて生きている他の動物を食べさせてもらうことによって、間接的に太陽エネルギーを生命エネルギ ーとして得ているわけです。
 その植物や動物は、死ぬと腐敗して、つまり微生物によって分解され、簡単な化合物に帰ります。
 その化合物は、やがてまた別の植物の栄養として吸収されていきます。
 これは、生物学の用語では「食物連鎖」と呼ばれるものです。
 循環は、炭素や酸素だけのことでなく、生物の体を形成するすべての元素で起こっているのです。
 かつて、生物の世界は「強食弱肉」と「生存闘争」の世界だという、かなり短絡的なイメージのあった時代があ りました。
 文科系の学生たちに聞くかぎりでは、この後の話をするまで、ずっとそういうイメージだったという人の数も少 なくありません。
 ネット学生のみなさん、だいじょうぶですか?
 しかし、今では一見そう見える生物の関係を、個体と個体ではなく、種相互の関係として見直すと、そこには あるバランスが保たれていることがわかってきています。
 これは、1869年、ヘッケルがエコロジー(生態学)を提唱してから100年以上の積み重ねの中で、疑う余地 のないほど明らかになっていることです。
 もっとも有名なのは、北アメリカ――記憶ではロッキー山脈の麓のあたり――で、シカが天敵に食べられてか わいそうだと思った動物愛護家たちが、オオカミやコヨーテやピューマなどをライフルで撃ち殺して絶滅させか かった時の話です。
 天敵がほとんどいなくなったお陰で、確かに当座はシカは好きなように繁殖できたのです。
 ところが、シカは地域の木や草を食べます。
 繁殖しすぎたシカたちは、その地域の植物を食べ尽くし、植物が全滅になりそうになります。
 そうすると、食べ物がなくなって、シカは自滅−絶滅の危機に追やられることになったのです。
 こういうふうに、1匹1匹のシカを見ると、天敵に食べられることは不幸なことですが、全体としてみると、適当 な数が食べられて減らなければ地域の生命全体のバランスが崩れ、種全体が絶滅しかねなくなるのです。
 シカは植物を食べ、そのシカを食べたオオカミも、やがて死んで、微生物のエサになります。
 そして分解された化合物を、また植物が吸収していきます。
 そういうふうに、長いタイム・スケールでよく見ていくと、オオカミもひたすら食べる側にだけいるわけではない ことがわかります。
 実際にはもっともっと複雑ですが、ともかくある地域に存在するさまざまな生命の種の間に(そしてその 場所そのものとも)微妙なバランスが保たれることによって、全体が維持されているのです。
 こういうふうに、ある環境とそこに生きる生物の多様な種がバランスを保ちながら1つのシステムを形成 していることを「エコ・システム(生態系)」ということは、多くの方がご存知のとおりです(より詳しいことはエコ ロジーの本で学んでください)。
 もちろん、生物同士の間にある種の争いがないわけではありません。
 しかしそれは、ひたすらどれかが勝ってあとはすべて滅ぼされるというふうな闘争ではなく、「競争的共存・共 存的競争」がなされているのだといわれています。
 例えばごく身の周りの草むらをよく観察してみてください。
 実に多様な植物が、栄養や日光を得るための競争をしています。
 しかし、決してどれか1つの草だけが他の草を枯らして繁栄し続けるということはありません(一時的にそう見 える場合はありますが)。
 そして、その草むらには実に様々な虫たちが生きているはずです。
 草の根元の土の中には、ミミズやオケラや様々な微生物などが住んでいるでしょう。
 そうした生き物たちは、競争しながら、同時に共存・相互依存もしているのです。
 そういうふうに、微生物と植物と動物の相互依存が20億年前からこの地球上で始まっていて、微生物と動物 と植物はつながっているわけです。
 あるいはもっと言えば、もともと同じ宇宙の一部がそれぞれ、微生物、植物、動物という区別できるかた ちを現わしながら(分化)、つながりあい働きあっている(統合)といえるでしょう。
 実に多様に分化しながら統合された1つのシステムを形成していくのが、宇宙の進化に一貫したかたちだと いうことが、ここでも読み取れるようです。






性――このすばらしいものの創発
2005年11月02日


 生命は誕生してから何と25億年も、ひたすら細胞分裂をすることで繁殖をしていたようです。
 個体は、いわば自分の単純なコピーを作って、いのちを増やし、引き継いでいたわけです。
 そういう単細胞生物には性別はありませんから、そういう生殖の仕方を「無性生殖」というのはご存知のとお りです。
 つまり、ただいのちをつなげていくだけなら、性は必要なかったらしいのです。
 ところが今では、多くの生物は、同じ種の生命でありながらオスかメスかに分かれています(分化)。
 といっても、分離、分裂したわけではなく、つながり結びあうことによって(統合)、生命を伝えていくわけです。
 「有性生殖」といわれるかたちですね。
 ここでも「分化と統合」という宇宙進化の基本パターンが現われています。
 生命がオスとメスに分かれたのは、一説では15億年ほど前だと推測されています。宇宙カレンダーでは11 月21日、そろそろ暮も近づいたという季節です。
 (これにはいろいろ説があるようですが。)
 ところで、私たちヒトという動物の場合も、それぞれの個体は基本的には男性か女性かどちらかの性である わけです。
 それはつまり、私たちが男か女かとして生きているということも、自分で決めたわけではなく、宇宙そして生命 の進化史が決めたことから始まっているということではないでしょうか。
 おそらく考えたこともないかもしれませんが、父と母がいて子ども=私が生まれるということも、基本的なかた ちとしては今から15億年も前にすでに決まっていたわけです。
 これもまた、考えてみると驚くべきことです。
 毎回えらそうにいっていますが、私も学ぶまでは考えたこともなかったことばかりなんですよ。
 学べば学ぶほど、世界・コスモスは驚きに満ちています。
 ところで、たぶん読者も実感しておられるでしょうが、性があるということはとても魅力的なことであると同時 に、いろいろな悩みやトラブルの元でもあります。
 異性がいない世界を想像すると、実につまらない味気ない世界だろうと思われます。
 私は、この世に女性が存在しなかったら、ほとんど生きている意味がなくなるのではないかと思うくらい、女性 がこの世に存在していてくれるということはすばらしいことだと感じています。
 幸いにして、女性の方にうかがっても、たいていの場合は、男性のいない世界なんてつまらないといってくださ います。
 お互いが異なった性であるということは、とてもいいことですね。
 でも、時には、異性なんかいなかったら、性というものがなかったら、どんなに人生が単純ですっきりとしてい るだろうという気がすることもありませんか。
 どうして宇宙は、こういう素敵でもあり面倒でもあり、時にはとても醜く汚らしくもなるような性というものを創っ たのでしょう。
 そのいちばん出発点・原点のところ、つまり「性の創発」の意味を考えてみたいと思います。
 (これは出発点での意味であって、すべての意味ではありませんが。)
 ある生物学者がこういっています(ショップ『失われた化石記録』講談社現代新書)。
 「あらゆる進化上の革新のなかで、二つの事柄がとりわけ重要なものとしてきわだっている。
 その一つは、酸素を発生するシアノバクテリアの光合成……。
 二つめは、真核生物の性であり、高等生物における遺伝的変異の主たる供給源で、かつ著しい多様 性と急速な進化の原因となった革新であった。」
 すでにお話しした光合成に続く、進化史上のもう一つの大事件が、性の始まりだというのです。
 どういう意味で大事件なのでしょう。
 生命の中にオスとメスの違いが生まれた決定的な意味は、無性生殖のように細胞分裂で遺伝子が単 純にコピーされるだけではなく、オスとメスの遺伝子が半分ずつ組み合わされるようになったということ しいのです。
 単純なコピーでは、コピーのズレやまちがいを除いて、新しいものが生まれてくる可能性はごくわずかです。
 しかも生命情報としての遺伝子は、新しければいいというものではなく、環境に適応できるものでなければな りません。
 単純なコピーのまちがいでできた新しい遺伝子のほとんどは、環境に不適応なものだったと推測されます。
 したがって、生命の新しくてしかも適応的なかたちができる可能性はほとんどありません。
 ですから、実際、初期の生命の進化は非常にゆっくりとしたものだったようです。
 ところが、性というものが創発――新しく創造的に発生――して、オスとメスの別々の遺伝子が半分ずつ組 み合わされるようになると、新しいものが生まれてくる可能性が驚くほど高まったのです。
 どのくらい違うかというと、例えば無性生殖で1つの遺伝子に10の突然変異が起こったとすると、できる遺伝 子の組み合わせは元のもの+10=11、つまり11通りだけです。
 ところが、有性生殖だと、10通りの突然変異が混ぜられて3の10乗通り、約6万通りができるのだそうです。
 大変な違いで、変異の数が増えれば、もちろん違いももっと大きくなります。
 実際、有性生殖によって生物の多様化が爆発的に促進されたといわれています。
 今、この地球上に確認されているものは一説によれば500万種、推測2500万種の生命がいろいろ多様に 存在しています。
 さらに最近の説では、さらにその10倍くらい、2億5000万種くらいいるのではないかともいわれているようで す。
 何とも大変な数ですね。
 そしてここで重要なポイントは、実に豊かな生命の多様性は性によってもたらされたということです。
 私たち人間の、個人個人のつごうとしてだけでなく、地球自体、性がなければ実に単調な世界のままだったで しょう。
 これまで、宇宙には自己組織化―複雑化という方向性があるという話をしてきました。
 「組織化」とは、混沌とした癒着状態でもなく、ばらばらな分離・分裂状態でもなく、全体がそれぞれの部分に 分化――区分・区別できる状態になること――しながら、しかも統合されている、つまりつながりあってまとまり をなしているということです。
 オスとメスも、分化しながら統合されたかたちで、いのちをつないでいき、さらに新しいいのちのかたちを生み 出していくという働きをするために、生命の歴史の中で創発したもののようです。
 そして、オスとメスのつながり−結びつきによって生命の新しい種が多様に生み出されてきたという生命進化 の流れの中に、哺乳類も霊長類もそして現生人類もあるのです。
 オスとメスの分化と統合がなかったら、こんなにも豊かな生命の種が存在する世界にはならなかった し、人類も発生しなかったし、私の両親も私も生まれなかったんですね。
 そう考えると、確かに性の創発は進化の重大な事件の一つだという感じがしませんか。
 それは、個人レベルでいえば、みなさんそれぞれが、男性あるいは女性であるということも、宇宙進化の流れ の中、生命進化の流れの中で一つの役割を担うように、ヒトのオス・メスになっているということではないでしょう か。
 生命進化における性の役割をまとめていえば、@いのちをつないでいくことと、Aいのちをより豊かに していくこと、の2つだといっていいでしょう。
 ということはまた、自分が男か女であることには、生命進化上での決定的な意味があるといえます。
 あるいは、さらに宇宙的な意味があるということもできるのです。
 もちろんいろいろな事情で、生理的に男性か女性かはっきりしない人もいますし、自分の生理的な性と心理 的な性が一致しないという人もいます。
 もちろん、そういう人の人間としての権利は認める必要はあります。
 しかし、だからといって男と女の区別はなくなったほうがいい、同じであるべきだ、あるいはあいまいでいい、と いうことにはならない、と私は考えています。
 男と女が違った存在であり、男か女であるということには、生命の歴史の中ではっきり意味があるように思わ れます。
 ですから、男も女も、自分に与えられた性を「自分の好きなように勝手に」使うと、宇宙の方向性から外れ、そ の結果として自分にもまわりにもいろいろな歪み、傷、悪影響を与えることになるでしょう。
 この授業では、性の倫理について詳しくお話しすることはしません。
 ただここでは、もっともスタートのところから現在に到るまで、私たちが生かされて生きているこの宇宙には 「関係ないだろ」、「私の勝手でしょ」といってすますことのできない事実があり、性に関してもそうだ、ということ だけ、伝えておきたいと思います。
 ネット学生のみなさんは、ただの偶然だと思っていたかもしれませんが、「自分が男に生まれたこと、女に生 まれたことには、宇宙的・進化史的な意味があるのではないか」ということを、ぜひ一度考えてみてください。
 そしてよかったら、何となく恋をしたり、安易にセックスをしたりする前に、「もしかすると、私が恋をしたり、セッ クスしたりすることは、宇宙の進化という長い長いいのちの流れの、ちいさな、けれどもとても大切な一こまなの かもしれない」と考えてみてはどうでしょう。
 そのほうが、恋もセックスも、それこそロマンティック、ドラマティックになるはずです。

*やや詳しくは、サングラハ心理学研究所のHPにアクセスして、会報第72号の「性と愛のコスモロジ ー」をお読みください。また、時々、「コスモロジー的恋愛論講座」を開催していますので、よかったらプロ グラムを見てお出かけください。






学生たちの変化
2005年11月03日





 今日は、実際の授業での学生たちの反応を紹介したいと思います。
 ネット授業の今より少し前の段階、前期6月頃の感想文です。
 最初は1年生の女子学生、次は2年生の男子学生のものです。

 「私は、最近の授業で習ったことを昔、考えていたことがある。
 でも、いつも途中でよく分からなくなり、気持ち悪くなってやめてしまっていた。
 自分が今、ここにいる理由というのは単純なようでいて、とても難しいと思う。
 先生は、宇宙が137億年かけて私達を産みたかったと理解していると、おっしゃっていたけれど、私も そのように思った。
 18年前に産まれて、色んな人とであって、成長してきたが、それらも単なる偶然などではなく、宇宙が そうすべく、私に与えてくれたように感じる。
 それに、また、なぜ産まれてきたのか、よく分からず、今、友達と出会って隣にいられることも、偶然だ というのでは、なぜかむなしく感じてしまう。
 しかし宇宙の意思によって存在しているのだと思うと、自分というものが見えてくるような気がする。
 137億年前、宇宙が始まった瞬間から私がここに産まれることは決まっていて、そしてようやく存在す ることができたということを、嬉しく思える。
 色々なことで悩んでいることも、本当にちっぽけだと感じた。
 考え方1つでこんなにも変われると思うとすごいと思った。」

 自分はなぜ生きているのか、死んだらどうなるのか、誰もが抱いたことのある疑問にちゃんと答えてくれる大 人にこれまでの人生で会っていない若者が非常に多数のようです。
 つながり−かさなりコスモロジーは、そういう深い問いへの相当に説得力と治癒力のある答えになるものでは ないか、と私は考えています。

 「僕は先生の話を聞いて、以前の自分の考えと今の自分の考えが大きく変化しました。
 でも、正直なところ初めは先生がおっしゃっていたことを素直には受け入れようとはしませんでした。
 それは、自分が今まで考えてきたことと、先生がおっしゃっていたことがあまりにも違うからです。
 僕は今までは、物事をこのようにとらえてきました。
 「偶然」に、物質(原子)が生まれ、その物質が「偶然」にもくっつき、「偶然」にも星が生まれ、「偶然」に も生物が発生し、「偶然」にも人間が生まれ……というような考えを、今まではそれが当たり前だと、自分 の中で理論づけてきました。
 しかし、先生の話を聞いて、それは違うのではないか?と思うようになったのです。
 よく考えてみれば、そんな「偶然」って、そんなに連続して起りえるのだろうか?という考えです。
 もちろん、確率の話で言えば0%ではないわけであり、可能性を全ては否定できません。
 しかし、それを仮説として挙げるには、理論にはほど遠いモノとなってしまいます。
 そんな僕に、先生は「進化は方向性がある。宇宙には意思がある。すなわち、方向性があって決めら れている。それは必然的なのである」とおっしゃいました。
 たしかに私たち人間という、おかしな生物がこの地球に生まれたことを偶然と呼ぶには説得力がないと 思います。
 先生がおっしゃる通りに、宇宙に意思があるなら、私たちは何らかの意味をもって生まれてきたのかも しれません。
 私たち人間は心と体を持っています。
 私たち人間の体は、水分、タンパク質、脂肪などの様々な成分から成り立っています。
 それと同様に私たちのまわりにあるすべての物は何らかの成分で構成されているのです。
 先生は講義の中で、「ビッグバン仮説」なるものをおっしゃっていました。
 この仮説を使えば、すべてのモノは一緒で自分(主体)とそれ以外のもの(客体)に区分・区別されてい るにすぎないと言えるのです。
 僕は以前は、モノとモノ(生物を含む)は個々で成り立っており、一つのモノとは考えもしませんでした。
 この授業を受けて、その考えはなくなり、自分と他の人との間の「心のしこり」のようなものが取れたよう な気がします。
 最後に、これからも先生が私たちの見落としている考えを教えてくれることを期待しております。」

 近代的なコスモロジーから現代的コスモロジーへの変化を自分のこととして体験することを、この学生はとて も適切な言葉で表現していると思います。
 「自分と他の人との間の『心のしこり』のようなものが取れたような気がしています」と。
 ネット学生のみなさんはいかがでしょうか。こういうふうな心の変化を体験しておられますか?






孤独を感じている人に
2005年11月04日





 社会学では、近代は、人が血縁と地縁という共同体から切り離されて、自由になったと同時に孤独になった 時代だといわれます。
 確かに今の日本にも、さみしさを感じながら暮らしている人がたくさんいるようです。
 私は、それにはもう一つ、近代人が自然から切り離された意識を持ってしまったということも大きな要因にな っていると考えています。
 しかしこれまでお話してきたように、よく考えてみると、私たちは自然と切り離されていないどころか、まったく 一体です。
 例えば、大地は私たちを生まれてから今まで、朝から晩まで24時間体制、年中無休、しかも無償、無条件で 支えてくれています。
 これは事実だと思いますが、どう思われますか?
 これは誰にとっても事実ですよね。
 だとしたら、この世には、誰にも何にも支えてもらえていない孤立した人は一人もいない…ということになりま す。
 私は、独り暮らしで「さみしくてたまらない」という人には、まず「さみしいでしょうね」と共感してから、2つのこと をお話しします。
 一つは、ごく常識的ですが、勇気を出して自分から進んで友達をつくることです。
 もう一つは、環境のいいところへ行って、足の裏で大地をよく感じながら、「大地はいつでも私を支えていてく れる。私は独りぼっちではない」と心の中で言ってみることです。
 よかったら、やってみてください。
 この世には、孤独だと思っている人はたくさんいますが、事実として孤独な人は一人もいない、と私は思うの です。






細胞たちの協力体制の創発=多細胞生物
2005年11月05日





 本格的な酸素大気ができ、オゾン層が形成されて紫外線がかなり吸収され、海面近くでも生きられるようにな り、細胞が複雑化していく中で、宇宙カレンダーの12月5日(10億年前)、複雑化がさらに1段階ジャンプして、 多細胞生物が創発します。
 多細胞生物とは、いろいろな細胞が役割分担をしながらつながりあっている生物です。
 私たち人間もいうまでもなく多細胞生物で、私たちの体には、何と6兆(最近の説ではもしかすると60兆)もの 細胞があって、協力しあっています。
 例えば骨細胞、内臓の細胞、脳細胞などなど、実にさまざまな細胞が役割分担をしながらつながっているわ けです。
 たまには協力体制がうまくいかなくて病気になることもありますが、ふつうは実にみごとに一糸乱れず協力し あっているのです。
 これもまた、驚くべきことですね。
 ここでも重要なのは、役割分担をしながらつながりあっていること――分化と統合――です。
 とても興味深いことに、それが自然に一貫して見られる法則のようです。
 ここでもし、細胞が「みんなお互いに平等じゃないか」と主張しあって、役割分担=分業を拒否したらどうでしょ う?
 例えば脳細胞以外の細胞すべてが、脳細胞に向って、「なんでおまえだけがカッコイイ脳細胞をやるんだ。お れも脳細胞をやりたい」といったら、どうなるでしょう。
 全部の細胞が脳細胞になったら、人間は生きていけませんね。
 ちょっと尾籠な話をすると、例えば肛門の細胞が「おれ、こんな汚い役、やりたくない。いちばんカッコイイ脳細 胞をやらせてくれ」といって、役割を放棄したら、全体としての体は排泄できなくて死んでしまいます。
 そうすると、もちろん結果として肛門の細胞自身も死んでしまいます。
 セミナーの参加者の方が教えてくれたんですが、これとそっくりのネタの落語があるんだそうですね。
 ただ、その落語では、肛門細胞が目の細胞に向って、「なんでおまえだけ美人を見て楽しむんだ」とか、舌の 味覚細胞に向って、「なんでおまえだけうまいものを味わっていい思いをするんだ」とかいうらしいのですが。
 それはともかく、全体としての体が生きるためには、すべての細胞や細胞の集まりである器官が合意を して、つながりあって役割分担をすることが不可欠です。
 それが命というもので、そういう場合、それぞれの細胞や器官にとって、損か得かという話はありませ ん。
 たぶん、人間の集まりにもそれに似たことがあるのではないでしょうか。
 つながりあって役割分担をし、それぞれがそれを「ああ、これは私の役割だ」としっかり受け止めることによっ て、集団が生きるのです。
 みなさんは、すでに仕事に就いていたり、やがて就いたりするでしょうが、その場合、例えば日本の中 で、世界の中で、そして進化史の中で、宇宙史の中で、何が自分の役割なのか、全体のつながりの中 で自分がやるべき役割をしっかりと見極めていただけるといいと思います。
 特にこれから職業を選ぶ若い世代の方は、収入がいいかどうか、社会的評価が高いか低いかといったことを 優先するより、何が宇宙から与えられた自分の役割なのかを見極めて仕事を選ぶといいと思います。
 そういう宇宙的役割を担うものであれば、仕事は宇宙的にすばらしいものになるはずです。
 逆にそういう選び方をしないと、いつかどこかで仕事に空しさを感じることになるのではないでしょうか。
 やや横道のようですが、多細胞生物が、いろいろな細胞の集まり、すなわち役割分担とつながりによってでき ているということは、より複雑な多細胞生物であり社会性生物である私たちにそういう人生の教訓も示してくれ るのではないかと思うのです。
*念のためにいっておくと、私のいいたいことは、戦前の右寄りの思想家の「国家は全体としての生命体であり 部分としての国民は細胞のようなものだ」という話と一見似ていると思われるかもしれませんが、根本的に違っ ています。詳しくは、拙著『自我と無我――〈個と集団〉の成熟した関係』(PHP新書)を参照してください。






性と多細胞:魅力と協力の創発
2006年07月02日


 去年の10月30日の記事で、こう書きました。

 少なくとも、宇宙で起っているすべてのことが宇宙の自己組織化――自分で自分をそう変容させ てきた――の結果であるということについては、1977年プリゴジーヌのノーベル賞受賞以後の現 代の科学者にとっては、当然の合意ラインだと思われます。

 カレンダーの11月21日(15億年前)頃に、有性生殖が創発したのも、もちろん宇宙の自己組織化です。
 つまり、宇宙がオスとメスに分化したのです。
 ここで、宇宙に初めて、存在するだけで惹かれ合うというオスとメスが織り成す魅力に溢れた生命世界が創 発したわけです。
 同じ種として(統合)オスとメスとは惹かれ合いながら、お互いの遺伝子を交換し合うことによって、生命の多 様性を生み出してきました。
 オスとメスとが存在しなかったら、今、私たちの地球はこんなに多様な生命に満ちた美しくて不思議な世界に はならなかっただろうといわれています。
 例えば、オシベとメシベの分化がなかったら、花粉を媒介する昆虫を誘うための花も必要なかったでしょう。
 オスとメスがいなかったら、もちろん私たち人間が恋をすることもなかったのです。
 人間においては、マナ識や神経症的欲求の問題があって、時に性は汚らしいものになることがありますが、し かしそれでも、生命世界に性があることは本質的にはすばらしいことなのですね。

 そして、有性生殖から5億年も経って生命の多様性が進んできた時に、12月5日(10億年前)、多細胞生物 が創発します。
 複数の細胞が役割分担をしつつ(分化)協力し合って一つの生命体を成す(統合)ということが始まったので す。
 もちろん私たち人間も、6兆〜60兆の細胞からなる多細胞生物です。
 1つだけで生きているというスタイルから、多数の細胞が集まり、役割分担をし、協力するというライフ・スタイ ルへと大きなジャンプを遂げてくれたお陰で、10億年ほど経ったら、私たち人間が存在できているわけです。
 これもまた、よく考えると驚くべきことですね。
 
 ……こんなふうに、宇宙カレンダーの大まかなストーリーはもちろん同じなのですが、学生たちに伝えながら、 私自身、驚きと感動は去年よりもいっそう深くなっているのを感じています。






つながってこそいのち、つなげてこそいのち
2006年07月03日


 生命の創発、性の創発などのところで、
 「いのちは40億年、一ヵ所も途切れることなくつながって私に届いている。それが、いのちというものなんで す」
 「だから、特別な事情がある場合は別にして、ここまでつながったいのちを私のところで途切れさせるのは、 やっぱりおかしいんじゃないかな?」
 「つながってこそいのち、つなげてこそいのち、とぼくは思うんだけどねえ」
という話をします。
 そうすると、次のような感想を書いてくれる学生がいます。

  文学部4年 女
 毎回先生の講義を受けたときには、この感動を伝えたいと思って、母や兄弟、友人などに話そうとする のですが、うまく伝えられません。
 これは先生の話を受動的には理解できたつもりでも、能動的には理解しきれていないということなのか な、と思います。
 でも先生の話は、うわっつらの知識のお話ではなく、いつも実感を伴って伝わってくる話だなと思いま す。
 特に私が感動したのは、生命衝動のお話です。
 私は幼いころから、将来は結婚して子供をもうけたいと思っていました。
 いえ、もうけたい、というよりも、それがあたり前で、絶対にお母さんになっておばあちゃんになるんだ、 と思っていました。
 しかし他の人の話や、世間のニュースや何かを聞くと、「子供を産みたいと思わない」「子供を持つメリ ットがわからない」などという声も聞こえてきて、あれ、私は何で子供を欲しいと思ってたんだろう、子供を 持つことに理由って必要なのかな?とふと考えてしまいました。
 でも先生のお話を聞いて、私が小さいころから持っていたこの気持ちは、生命のひとつとして普通のこ とだったんだ!と、はじめて納得できました。
 また、「すべてのものには関係があるから、関係ないと思うものでもほんとは関係がないのではなく関心 がないだけ」とおっしゃっていたのがすごく印象に残っています。
 私はよく「関係ない」と言ってしまっていたけど、そう言う前に考えるようになりました。
 まだ私にはわからないことが多いけれど、後期を含めこれからもっともっと学んでいきたいです。

 こういう学生たちの声を聞いていると、子どもを産みやすい、育てやすい環境を整備することももちろん重要 だが、こうした、いのちの意味、いのちをつなげることの意味を伝えることこそ、「少子化対策」にもっとも必要な ことなのではないか、と思うのです。
 今の日本には、そういう「心・内面」のことまで伝えられるリーダーが必要なのではないでしょうか。
 ……といったところで、出てきそうなクレームに先にコメントしておきます。
 伝えることは、押し付けること・強制することとは違います。 






産む性ということ:柳沢大臣の発言にふれて
2007年02月05日


 関係者のみなさん、特に女性のみなさんが、「岡野さん、どう思っているんだろう」と思っておられると思うの で、これは書いておかなければならないと思いました。
 柳沢さんは、お辞めになったほうがいいと思います。
 確かに、女性は「産む性」であることはまちがいありません。私も、講義などでよくそう言って、最初、女性の みなさんから反発を買います。
 しかし、「いのちの意味の授業」のような内容をお伝えすると、ほとんどの女性のみなさんに納得していただ けるようです。
 短くいえば、それは、「大自然・コスモスから、『つながってこそいのち』という本質をもったいのちを具体的に つないでいくという決定的に重要な使命を与えられた性」ということであって、「産む機械」などということではあ りません。
 「産む機械」とは、本音・心の深層から出てきた、コスモスの理をわきまえない、根本的な大誤解の発言だと 思われます。
 「言い間違えは無意識の表現である」ということは、深層心理学の常識です。心にないものが口に出てきたり はしません。
 そして、深層にある本音が、ちょっと表層・意識で反省したくらいでなくなるわけはないのです。
 本音にコスモスの理に反した考えを持つ人がリーダーになることは、コスモスの理に反しています。
 したがって、ほんとうに、つまり心の底から反省したいのなら、お辞めになって、徹底的に心の浄化に取り組 んだほうがいい、と私には思えます。






姿・形と香りのある世界の創発――蠕虫から魚類へ
2005年11月06日




*図は、ピカイアとナメクジウオ


 続いて、多細胞生物の創発から10日つまり約4億年ほどもたった、宇宙カレンダーの12月15日、ようやく 最初のヒモムシ・蠕虫(ぜんちゅう)といった、単純な神経組織を持っていて、したがってある種の感覚があると 思われる生物が誕生します。
 大まかにいえば、ミミズやゴカイのような虫だと思っていただけばいいでしょう。
 この後、3日間つまり1億年以上、海の中では無脊椎動物が繁栄します。
 12月17日頃には、最初の海洋プランクトンが創発し、三葉虫が栄えています。
 そして12月18日(5億1千万年前)、オルドビス紀に、最初の脊椎動物である魚類が誕生するのです。
 ここで、神経管があり、したがって知覚することのできる生命が創発したわけです。
 脊椎動物の先祖といわれるピカイアに似た現生のナメクジウオには半透明の体に光を感じる細胞が存在し ていますが、目はありません。
 ところがヤツメウナギくらいの魚になると、完全なかたちの目が突然のように発生するのだそうです。
 目が見える、つまり世界を見ることができる生命が創発したのは、約5億年くらい前、12月18日頃のことで す。
 目が見える生命・魚もまたコスモスの一部です。
 魚において、コスモスは自らの姿・形を初めて見ることができるようになった、といえるのかもしれませ (地球以外のところですでにそういう生命が創発していれば別ですが)。
 鼻−匂いをかぐ能力もこの頃創発したようです。
 それまではあっても知覚されなかった世界の匂い・香りが、魚の鼻によって知覚されるようになったということ です。
 ここで、世界は姿・形があり香りがある世界になった、といってもいいのではないでしょうか。
 知覚されないかぎり、それはあってもないのと同然ですからね。
 先にお話ししたように、生命の家系図をたどっていくと、この最初の多細胞生物もヒモムシも私たちのご先祖 さまですし、最初の脊椎動物である太古の魚類は直系のご先祖さまです。
 ということは、現在の魚類はいわばずっと昔に分家した――進化には本家も分家もありませんが――私たち の親戚だということになりますね。
 心の中でそうしたつながりをイメージして、改めて感じてみましょう。
 最初のバクテリアから多細胞生物へ、そして魚類、次の両生類へと、いのちの流れは、何千万年、何億年、 何十億年と、ほんのわずかも途切れることなく、つながっています。
 そして、蠕虫のあたりで感覚、魚類で知覚と、ゆっくりとおぼろげながら〈心〉のようなものが生まれはじ めていることに注意してください
 私たち人間は、見えることやその他の知覚能力を、こうした大変な進化の積み重ねによってプレゼントされて いるのです。
 そういうことを知ってみると、「見ることができる」のや「匂いをかぐことができる」のが、「誰だってできる、能力 ともいえないほどの当たり前のこと」ではないという気がしてきませんか?






宇宙が宇宙を見始めた?
2006年07月09日


 大学の前期が終わりに近づき、以下のようなまとめの授業を行なっています。
 宇宙カレンダーの12月15日、蠕虫が創発し、神経組織と感覚が創発します。
 ここで、私たちの知るかぎりの宇宙に、初めて感覚するということが起こったのですね。
 それまでは、様々なものは存在していても、それが感覚されることはなかったのです。
 考えて見ると、とても不思議な気のすることですが。
 そして12月19日(オルドビス紀、5億1千万年前)に、脊椎動物=魚類が創発し、神経管と知覚が創発しま す。
 例えば「目」が誕生するのです。
 それまで、世界はあっても見るものがいなかったのに、ここで世界を見るものが生まれたのですね。
 そして、魚が見ている世界も魚自身も宇宙ですから、考えて見ると、宇宙の一部が宇宙の他の部分を見始め た、ということになります。
 縮めていうと、「宇宙が宇宙を見始めた」のです。
 これは、長い長い分化と統合による自己進化の結果です。
 もちろん私たち人間も今、「目」という進化の遺産を受け継いで、世界を見ています。
 ……このあたりで、「これは奇跡のような確率の偶然が重なってこうなったんだろうか? それともそこにはあ る種の必然があると解釈すべきなんだろうか?」と、学生たちに問いかけます。
 ブログ学生のみなさんはどう答えられますか?






能力はコスモスからのプレゼント
2007年04月24日


 昨日は、仏教関係のカウンセリングの団体で、コスモス・セラピーの一日ワークショップをしてきました。
 『生きる自信の心理学』(PHP新書)では、自分とのつながり、他者とのつながり、そして宇宙とのつながり、と いう順序でレクチャーとワークを行なうかたちにしていましたが、最近、そのほうが効果があがるのではないか と思うようになったので、宇宙とのつながりの話を先にすることにしています。
 自分とのつながりに気づくワークで、自分の能力、できることを5つ以上あげるというのがありますが、私たち は競争社会の中にいるので、他者と比較して優れたものでなければ「能力」ではないという錯覚に陥りがちで す。
 ですから、「他人と比べてそんなに能力といえるものはないし……」と、自分の能力を書き出せない人がしばし ばいます。
 その結果、「私には何の能力もない」と無力感を感じて自信を失っている人も少なくありません。
 そして、「目が見えるのは視力という能力ですよね。耳が聞こえるというのは聴力という能力ですよね。……こ うしてあげていくと、私たちには数え切れないくらい能力がありますね」と指摘しても、「それはそうだけど、そん なのは当たり前で、能力というほどのものではないんじゃないでしょうか」と納得できないという顔をされたりしま す。
 しかし、例えば私の目が見えるということには、宇宙が始まり、銀河が創発し、太陽系が創発し、地球が創発 し、40億年くらい前に生命が創発し、10億年前くらいにようやく多細胞生物になり、5億年くらい前になってよう やく脊椎動物・魚類が創発して神経管が出来、目が出来る、という大変なつながり・積み重ねがあるのです。
 宇宙に「見える」ということが起こるまでには137億マイナス5億年、つまり130億年あまりの時間がかかって おり、見え始めてから5億年あまり見えるという能力が進化して、「私の目が見える」に到っているのです。
 そう考えると、見えるというのは「当たり前」といって済ませるほどの簡単なことではないのです。
 しかも、もし見えなかったら、愛する人の顔も、美しい花も、爽やかな緑の木々も、何も見ることができないの です。
 「見える」ということは、それだけも大変なことであり、すばらしいことだ、ともいえます。
 病気や怪我で歩けなくなってから、歩ける・歩行能力があることがどんなにすばらしいことかに気づくという方 があります。
 目が不自由になってから、視力があるのがどんなに有り難いことかに気づいたりします。
 しかしそれならば、なぜ歩けるうちに、見えるうちに、そのすばらしさを感じておかないのでしょう。
 そして、「見えることは当たり前だ」と思うのと、「見えることはすごいこと、すてきなことだ」と思うのと、どちらが 「人生の質(quality of life)が高いでしょう。
 いうまでもありませんね。
 そう考えると、私たちにはすばらしい、生きるための様々な能力が、宇宙からプレゼントされていることに気づ いてきます。
 すばらしい能力をたくさんもらっておいて、「私には何の能力もありません」というのは事実に反しているし、さ らにプレゼントしてくれた相手・コスモスに失礼そのものです。
 事実の正確な認識としても、礼儀としても、私たちは「コスモスから長い時間をかけたすばらしい能力をプレゼ ントされている」と思うべきなのではないでしょうか。
 そして、そう思うと、もう「無力感」に陥ってはいられません。
 まわりの人間と比較した相対評価としてではなく、自分自身のいのちへの絶対的な評価として、私たちは生き ていればみんなすばらしい能力でいっぱい、「有能」なのです。
 ……というわけで、一見平凡で当たり前に思える自分の能力のすばらしさに気づいていただくには、コスモス の話を先にしたほうがいいようです。
 昨日のワークショップでも、その順番で進め、最後にお互いの長所を認め褒めあうワークをして、みんなでと ても幸せな気分になることができました。
 最後、みなさんからの拍手が鳴り止まず、ほんとうにうれしい、大成功のワークショップでした。
 ……でも、全力投球でやったので、がっくりと疲れました。

 そして今日は、H大学の3回目の講義でした。
 またしても、400人くらい? 今日始めて来た学生もいました。
 今日は、本気でない人は帰って欲しい……の話は30分だけにして、本格的講義を60分ほど行ないました。
 みんな、真剣に静かに聞いてくれました。
 終わって、熱心な質問に来る学生が何人もいて、3時に終わった後5時前まで答えました。
 疲れますが、うれしいことです。

 で、明日はまた日蓮宗関係の団体での講演に出かけます。






大地が緑に染まり始める――植物の陸地への移動
2005年11月07日





 宇宙カレンダーの12月20日(4億3900万年前)、シルル紀が始まった頃、まず植物が陸地への移動を始 めます。
(オルドビス紀まで遡るという説もありますし、動物が先という説もあるようですが、ここでは植物が先という説を 採用しておきます)。
 先祖の光合成微生物、光合成植物たちが長い時間かけて形成してくれたオゾン層のお陰で、陸上でも太陽 の紫外線によって細胞膜が壊されることがなくなります。
 生命の危険は少なくなってきたのです。
 しかも、太陽光のエネルギーを利用するのは陸上のほうが有利です。
 この有利な新しい場所を放っておく手はありません。
 すると実際、新しい生活の場を開拓するための冒険を始める生命が出てきます。
 しかし、考えてみると海の中と陸上ではまったくといっていいほど生きるための条件が違っています。
 新しい環境に合うように自分を変えなければ、生命は陸地で生きることはできません。
 ところが、そういう自己変革・革命を遂げ、大冒険に挑む生命がいたのです。
 細胞つまり生命のいちばん基本になっている物質は水です。
 ところが、陸上には肝腎の水がありません。
 しかし、豊かな光エネルギーは欲しい。
 そこで、植物たちは「工夫した」のではないでしょうか。
 私は、擬人化だといわれても、そう思わざるをえません。
 これを、単なる「偶然の突然変異が自然選択された結果」とは考えにくいのです。
 重要なので何度も繰り返しますが、たとえある種の偶然だとしても、そこには宇宙の自己組織化という 一貫した方向性があることだけは確実です。
 植物は、枝葉を陸上−空中に伸ばし、根で土中の水を吸い上げて葉先まで送るというそれまでになかったよ り複雑なシステム・組織を発明したのです。
 それだけでなく、根から葉先まで水を揚げることのできる管(維管束、いかんそく)も発明しています。
 私たちが今見ることのできる見上げるような大木も、そうした構造で、根から高い枝先、葉先にまで水を送っ ています。
 まったく意外なことですが、この「維管束」がどういうメカニズムで何十メートルもの高さまで水を揚げることが できるのか、いまだにわかっていないのだそうです。
 いわゆる「毛細管現象」で水が上がるのはほんの少しの高さで、とても大木の梢までは上がりません。
 もちろん、ポンプのようなものがついているわけではありませんね。
 どうやって植物は水を高いところまで揚げているのでしょう?
 それがわかったらノーベル賞ものだ、という話を読んだことがあります。
 理系の学生諸君、挑戦してみませんか?
 (もしかして私の勉強不足で、すでにわかっているようでしたら、ご存知の方、ぜひ教えてください。)
 さて元に戻ると、そうはいっても最初の植物は水際に生えていました。
 磯の潮溜まりに行くと、潮が引くと陸になり潮が満ちるとまた海中になるような場所でちゃんと生きている海草 を見ることができます。
 最初はたぶんあんな風だったのでしょう。
 それから、水辺の植物、例えばトクサのようにずっと水の上に体を伸ばすようになり、アシやマングローブの ように繁るようになったのでしょうか。
 ともかくこうして、それまで何の生命も存在しなかった殺風景な陸地が、海辺・水辺から次第に緑に染まりはじ めます。
 想像するだけで、心が弾んでくるような気がしませんか?
 今私たちが享受している、青い海、青い空、そして緑の大地という美しい地球が、ゆっくりと形成されつつある のです。
 最初に上陸した植物たちの冒険がなかったら、私たち陸上動物が生きることのできる豊かな緑の大地は存 在しなかったのですね。

*写真は宮崎県青島の海岸、通称「鬼の洗濯板」






ご先祖さまの大冒険――動物の上陸
2005年11月08日


 12月21日(4億800万年前)頃、デボン紀が始まり、最初の昆虫、先に上陸した植物を追って、動物が上陸 作戦を開始します。
 豊富な太陽エネルギーを摂取して豊かに繁った食糧である植物を放っておく手はないわけですね。
 最初に陸に上がっていったのは、昆虫類です。
 続いて、エサとなる植物や昆虫を追って、魚が上陸していきます。
 といっても、話は簡単ではありません。
 魚類は生きるための息つまり酸素の吸収を海水からエラによってしています。
 水のないところで大気からじかに酸素を取り入れるには肺が必要です。
 「必要は発明の母」ということなのでしょう、肺が創発します。
 古生代の魚類の中に肺をもつものが現われるのです。
 その一部は肺をさらに「うきぶくろ」へと進化させて、現在まで生き延びている魚類の大部分の先祖となりま す。
 しかし、胸びれを前足に腹びれを後足に進化させ、上陸した動物がいます。
 海から陸へと生活形態を変えるために体の形態も根本的に変革したのです。
 魚は魚でなくなることによって、陸というまったく新しい生活圏を獲得したわけです。
 いのちがけの大変容・大冒険ですね。
 ご先祖さまのこの大変容・大冒険なしには、陸上生物である私たちの今の生活もありません。
 そのことを思うと、ちょっとじーんと来るものがあります。
 といっても、最初はまだ完全に水を離れるのではなく、水と陸の間を行き来しながら生きています。
 つまり両生類の登場ですね。
 カエルやサンショウウオのなかまだと思えばいいでしょう。 
 私たち人類との関係でいえば、ただくねるだけの蠕虫的運動から、魚のように腹びれ、胸びれ、尾による複 雑な運動へ、やがてカエルなどのように前足と後足によるより随意的な運動へと進化した、その流れがやがて 直立二足歩行につながってくるわけです。
 こうして無数の「進化の積み重ね」が、やがて私のいのちに届けられるのです。






生命力の源泉――爬虫類のご先祖さまからの遺産
2005年11月09日


 最初のころ陸に上がった植物は、それほど大きくないシダ類などだったようですが、やがて10メートル以上も ある大木になって、海辺に近いところから深い森が繁るようになりました。
 そのシダ類の大木が豊かな太陽エネルギーを体の中に蓄え、やがて倒れ土に埋もれて、長い年月を経て石 炭になったのです。
 それが、宇宙カレンダーの12月22日、石炭紀です。
 その翌23日、両生類の中から最初の爬虫類が分かれて登場します。
 石炭紀から数千万年、森はしだいに海辺からさらに陸地深くにと広がっていったようです。
 実にゆっくりと悠久の時間をかけて――気候変動によるジグザグは当然あったのですが――しかし確実に、 大地全体が緑で覆われていく様子を想像してみてください。
 大地を覆う森はその中や土中に多くの昆虫やミミズのような生き物を育んでいきます。
 それらは、肉食の動物にとってはもちろん食糧です。
 当然、遠くても食べに行きたいですよね。
 しかし、両生類は、水辺からあまり離れることができませんでした。
 それはなぜでしょうか?
 春の池や小川のことを思い出してください。
 ゼラチン状のカエルの卵を見たことがありませんか?
 そうです、ゼラチン状の卵によって子孫を残していくためには、水を離れるわけにいかないんですね。
 水のない陸地では、卵が乾燥して死んでしまいますからね。
 でも、陸地の奥深いところは食糧になる生物の宝庫になっています。
 水辺を離れて、奥地に進出するにはどうしたらいいでしょう?
 みなさんが両生類のフロンティアだったとしたら、どういう戦略を考えますか?
 そのとおり! 卵に殻をつけるんです。
 爬虫類は、殻があり陸地の乾燥に耐えることのできる卵を発明することによって、陸の奥深い場所まで自分 たちの生息圏−なわばりにすることができたのです。
 爬虫類はまた、カエルの子、オタマジャクシのように最初はエラで呼吸し、後から肺で呼吸するようになるので はなく、生まれた時から肺で呼吸します。
 したがって、最初から陸で暮らし、陸で卵を産めるわけです。
 完全に水辺を離れることのできた爬虫類は、まだ競争相手の少ない陸で、いわば「陸の王者」になっていきま す。
 ところで、もちろんこの爬虫類も私たちの先祖です――「トカゲのなかまが先祖だなんて」とぞっとする人もい るかもしれませんが。
 私たちの脳の中には、ご先祖さまである爬虫類の遺産が残っているようです。
 本能と衝動のセンターである「脳幹」という部分が、爬虫類の脳とほぼ同じパターンになっているのだそうで す。
 「本能と衝動」というと、洗練された文明人のつもりの方はちょっと嫌な気がするかもしれません。
 しかし、「食べたい」、「セックスしたい」、「戦おう」、「逃げよう」といった心の働きは、生きるエネルギー の源泉です。
 人間においては、いうまでもなく本能や衝動は適切にコントロールされる必要がありますが、それらがあるか らこそ生き延びることができるのですし、それらがあってこそ活き活きと生きることができるのです。
 本能と衝動は、なくてはならない生命力の源泉です。
 私たちは、そうした生命力の源泉を、爬虫類のご先祖さまからの大切な遺産として受け継いでいる、と いっていいようです。

 ……と、ここまで考えてきて、もう1つ気づきました。
 今では当たり前のように思っていますが、陸の奥深いところはもともとは生物の棲めるところではなかったの です。
 そこをまず植物が開拓し、続いて昆虫が開拓し、さらに爬虫類が開拓して、豊かな生命圏に変えていったわ けです。
 それに続く哺乳類−霊長類−人類は、それらのご先祖さまの親戚や直系のご先祖さまの開拓地という 遺産をもらって暮らしている、ともいえるのではないでしょうか。
 内面的にも外面的にも、爬虫類というご先祖さまから受け継いだ遺産は大きいのですね。






喜びや悲しみのある世界の創発――哺乳類への進化
2005年11月10日


 私たち哺乳類のご先祖さまである哺乳類型爬虫類=単弓類は、12月23日(2億9千万年前)頃、古生代ペ ルム紀に大繁栄します。
(最近、哺乳類型爬虫類は、「爬虫類」と名がつくものの、実は爬虫類とは別のグループではないかという考え が強くなりつつあるようですが。)
 しかし、12月24日(2億4千5百万年前)頃、古生代末に起った生物の大量絶滅によって、哺乳類型爬虫類 もほとんど死滅してしまいました。
 古生代末の大量絶滅は、中生代末の恐竜やアンモナイトの絶滅の規模をはるかに超えた大変なものだった ようです。
 ここで、もし私たちの直系のご先祖さまである哺乳類型爬虫類が一匹残らずダウンしてしまっていたなら、今 の私たちはいなかったのですが、ご先祖さまたちの一部が、おそらく頑張りと幸運とでかろうじて生き延びてく れたのです。
 これは、ほとんど奇跡といってもいいくらいのことです。
 続いて、12月25日、中生代三畳紀に入り、他の爬虫類のなかまが恐竜へと進化します。
 そして次の12月26日、ジュラ紀には、恐竜には巨大な体をもつものも現われ、それから長い間――1億年 あまりも?――地球上を我がもの顔に歩いていたようです。
 もちろん、それは草食性恐竜を支えるだけの植物があり、その草食性恐竜を食べる肉食性恐竜も生きられ たということです。
 さらにいえば、それだけの植物を生育させるような暖かい気候条件があったということでもあります。
 そうした恐竜とほぼ並行して、辛うじて絶滅を免れた哺乳類型爬虫類から哺乳類が進化してきます。
 しかし、先祖である哺乳類型端虫類が君臨していた生態系の頂点の座を恐竜に奪われ、哺乳類は、彼らの 繁栄の陰でいわばひっそりと生きていかざるをえなくなりました。
 最初の哺乳類は、ハツカネズミくらいの小さな動物だっただろうといわれています。
 爬虫類や恐竜は、いわゆる「変温動物」で、周りの気温が下がると、体温も下がり、活動できなくなります。
 それに対して、哺乳類は、「恒温動物」で、自力で体温を保つことができますから、温度が下がっても活動で きます。
 そういうわけで、小さな哺乳類は、温度が下がり恐竜の眠っている夜に活動することができたので、何とか生 き延びることができたようです。
 自分を変え、新しいライフスタイルを考案し、億年単位にわたって、ひそやかに、ささやかに、しかし粘 り強くいのちを伝え続けている小さな哺乳類のご先祖さまのことを想像すると、私はちょっと胸がいっぱ いになります。
 (ただし最近、「羽毛恐竜」の発見が相次ぎ、小型肉食恐竜と鳥類との類縁関係が強く示唆され、少なくとも一 部の恐竜は恒温だったのではないかという「恐竜恒温動物説」も有力になってきているそうです。)
 さて、ここでも確認しておきたいことは、最初の哺乳類は、私たちの直系のご先祖さまだということです。
 そして、哺乳類で初めて、はっきりとした情動・感情のセンターである大脳の辺縁系が出来ています。
 喜びや悲しみといった感情は、私たち人間の発明したものでもなければ、独占物でもなく、哺乳類のご先祖さ まから受け継いだものであり、他の哺乳類と共有しているんですね。
 だから、私たちは、体温・血の冷たいヘビやトカゲではなく、温かいイヌやネコと気持ちが通じやすいという気 がするのかもしれません。
 例えば愛犬を飼っておられる方、彼らとはもうまちがいなく愛情のコミュニケーションが成り立っているとお感 じになりませんか?
 ともかく、哺乳類−大脳辺縁系の創発と共に、宇宙には喜びや悲しみや愛情といった感情が創発した のです。
 こうして宇宙は、本能と衝動だけでなく、豊かな感情のある世界へと、まさにより豊かに美しく進化して きたのだといっていいでしょう。






教え子たち
2005年11月11日


 昨日今日と大学の授業でした。
 いのちはある意味で40億年生きっぱなしで連続しているんだけど、個体として与えられた時間は有限だか ら、どうでもいいことや、つまらないことや、ましていけないことをして、つぶしていいような暇は、人生には実は ないんだよ。
 と、コスモロジー風お説教をしましたが、学生たちは真剣に聴いてくれたようです。
 4月から夏休みを除くと約6ヶ月、少し脱落していく学生も残念ながらいますが、かなりの割合の学生がしっか りと授業についてきてくれます。
 目を輝かせて、真剣に聴き入る子もいます。
 こちらが伝えたいものを受け止める若い世代を見ていると、精神的な子孫、まさに「教え子」だと思うのです。
 やっぱり、「教師と○○○は三日やったらやめられない」とまたしても思いました。






なぜ、いのちは大切か?
2005年11月22日


 


 人間は、言葉をもった時から、「あれは何?」、「これはなぜ?」という問いを発するようになったと思われま す。
 本来・生まれつき与えられた能力つまり「本能」だけで生きている生物が、物事やいのちそのものに疑問をも つということは考えられませんね。
 まあ、例えば、夏、地面を歩いているアリが何かにぶつかって、「これは何だろう? 食べられるかな?」とい ったふうに首をかしげ、触手をいろいろに動かしている、といったことはあります。
 でも、彼らが「オレは、何のためにこの暑い日盛りにこんなに苦労して働かなければならないんだ?」とか、ま して「何のためにこんなつらい人生、いや蟻生を犠牲を払ってまで――これはつまらない駄洒落ですが――生 きなければならないんだ? もう死んだほうがましだ」とか考えるとは思えません。
 「なぜ、いのちは大切か?」といった問いは、言葉を使って生きている人間だからこそ問う問いでしょう。
 そもそも「なぜ」も言葉ですし、「いのち」も「大切」も言葉です。
 言葉を使わなければ、問うことさえできません。
 進化の、言葉が創発した段階で、「なぜ、いのちは大切か?」という問いも創発したのです。
 ところで、「なぜ、いのちは大切か?」という問いと、「なぜ、人を殺してはいけないか?」という問いは、 おなじ問題の表と裏だといっていいでしょう。
 「いのちは大切」だから、「人を殺してはいけない」ということになるのですね。
 では、「いのち」とは何か? 「大切」とはどういうことか? それが言えなければ、「人を殺してはいけない」と いうことも、はっきり言うことができません。
 「人を殺してはいけない」というのは、もっとも基本的な倫理であり、それをはっきりさせることができなけれ ば、実はほかの倫理的なことがらもはっきり語ることはできません。
 そして、倫理を語ることができなければ、実は「こういうふうに生きるべきだ」、「こういうふうに生きるといいよ」 と子どもを教育・指導することも、本質的にはできないはずです。
 現在そうしたことが曖昧なままでも教育が成り立っているように見えるのは、ある年齢までの大人の中では既 成の倫理観が「当たり前」のこととして自明化されたままそこそこ共有されているからだと思われます。
 しかし、次第に若い世代ほど「当たり前」のこととして共有されなくなってきているようです。
 倫理観の共有がいちばん底のところで崩壊してきているのではないか? と私は考えています。
 やや哲学的に難しげな言葉でいうと、「自明性の喪失」・「自明性の崩壊」という状況です。
 教育に責任のある立場のみなさんには、ぜひ、この「自明性の崩壊」を自覚的に捉えて、根本的な対処の方 法を考えていただきたいと願っています。
 現代の日本がそういう状況にあるからこそ、もう一度「いのちとは何か?」、とりわけ「人間のいのちとは 何か?」が、共有できるかたちではっきりさせられる必要がある、と思うのです。
 そうしないかぎり、教育の崩壊状況――それが若年層における深刻な問題・事件を引き起こしている大きな 原因だと思われますが――をとどめ、再建することは不可能ではないでしょうか。
 この公開授業の目指すところは、現代科学の成果をベースにしながら、宇宙=コスモスの複雑化の到 達点としての「人間のいのちとは何か」を明らかにすることです。
 そういう試みを、「つながり−重なりコスモロジー」あるいは略して「コスモロジー」と呼んでいます。
 今回、あえてまたブログ・タイトルを変えさせていただき、そういった趣旨を直截簡明に示すものにしました。
 教育・思想に関わる方々、父母のみなさん、そして若者諸君に、メッセージが伝わることを心から祈っていま す。

*余談ですが、できるだけたくさんの人に伝えたいという意図で、今回、ブログのカテゴリーも変えてみま した。
 ブログ村の哲学ブログ部門では、お陰さまで早速1位になることができました。「つまらないプライド(マ ナ識)」と思いながらも、くすぐられて素直に喜んでいます。
 しかしもちろん主たる意図は、できるだけたくさんの人に伝わること、その結果たくさんの人が元気にな ってくれることです。
 ご賛同いただける方、ぜひ、クリックして協力してください。






なぜ人を殺してはいけないか
2005年11月13日


 まだ容疑の段階だが静岡の母親毒殺未遂事件、そして11日の町田の女子高校生殺害事件と、若い世代に よる事件が続いていて、とても悲しくとても残念である。
 昨日、横浜でのカウンセリング研究会の終了後、ご一緒に食事をしていた受講者の中に、おなじ町田の高校 に行っているお子さんをお持ちの方がいて、「子供がかなり動揺していますので」と早めに帰っていかれた。
 遠慮しておられたのだろう、食事の時には話題に出されなかった。
 しかし、「なぜ生きなければならないのか」、「なぜ死んではいけないのか」、「なぜ人を殺してはいけないか」と いう問いに対する納得のできる答えができなければ、根本的な意味での教育はできないのではないでしょう か、という私の話に深くうなづいておられたのは、そのためもあったのだろうと思う。
 そして、「次回、まさにそのテーマでお話しします」と言うと、みなさんが「すごく期待しています」と答えて下さっ た。
 こうした事件が起こるたびに、教育関係者の方が言われるのは、「2度とこういうことの起らないように、いの ちの大切さの教育をしなければならない」ということである。
 そしてジャーナリズムでは、そうしたことをテーマにした報道企画がいろいろ組まれたりする。
 しかしそういうことが問題ないし話題になってから、もう何年が経つのだろうか。
 私はいくつかの大学で年間6〜800名の学生を教えているが、毎年行なっているアンケート調査の1項目で ある「人生には、意味があると思いますか。あるとしたら、どんな意味だと思っていますか?」という問いに、は っきりと「ある。こういう意味だ」と答えることのできる学生は30%を越したことがない。
 それどころか、ほとんどの場合、10%程度にすぎない。
 あえて大学名も公表しておくが、北は青森公立大学(集中講義)、南は四国学院(集中講義)、そして法政大 学の文学部と社会学部(通常授業)、武蔵野大学の人間関係学部(通常授業)と、地域もいわゆる大学のラン クも様々であるから、統計データとしては、無作為に採ったサンプルに近いと思う。
 こうした調査と私の接しえたかぎりでの情報からすると、どうも日本の教育界――学校教育だけでなく家庭教 育でもマスコミの教育的機能の面でも――全体としては、「いのちの大切さ」=「生きる意味・人生の意味」、そ してそこから必然的に導き出される「なぜ生きなければならないのか」、「なぜ死んではいけないのか」、「なぜ 人を殺してはいけないか」という問いに対する納得のできる答えは提供されていないのではないだろうか。
 「提供」といったのは、それは大人が次の世代・子どもに提供する責任のあることだと思うからである。
 それどころか、学生(かつての学生つまり社会人も含め)への聞き取りで、典型的に報告されるのは、大人か らは答えはもらえなかったということである。
 小さい時には、「なぜ生きているか? 死んだらどうなるのか?」ということを大人(親や先生)に聞いたら、 「そんなこと考えてないで、遊んできなさい」と言われたという。
 そして、中高生くらいでおなじ問いをしたら、「そんな暗いこと考えてないで、将来のために勉強しろ」と言われ たという。
 さらに大学生になって大学教師に聞いたら、「そんなことは、自分で考えなさい」と言われたとか、もっとひどい のだと授業で、「生きることには意味がない」とか「意味なんてものは人間が勝手に作り出したことにすぎない」 という話を聞かされたという。
 「いのちの大切さの教育」など、どこでも行なわれていなかったのではないだろうか。
 あえて私に言わせてもらうと、これは大人の責任回避である。まったく無責任というほかない。
 「いや、いのちは大切だ、命を大切にしなさい、という話はしてきた」と言われる向きもあるかもしれない。
 しかしただ「大切だ」と言えば、子どもが「そうか、大切なんだ」と納得するのなら話は簡単なのだが、そうでは ないところに根本的な問題がある。
 「なぜ」という問いに、「〜だから」という納得のできる答えをする責任を、大人は問われていながら、それに答 える努力を十分できていないのではないだろうか。
 (大人だって教わっていない、というやむを得ない事情もある。)
 ここはブログという媒体なので、自己宣伝だと思われることを恐れずあえて言いたい。
 毎年、私の授業に1年間ついてきてくれた(もちろん残念ながら途中で脱落する学生もいる)学生の例年の平 均90%が、「人生には、意味があると思いますか?」という項目に、0から10までのスケールで5以上の自己 採点をするのである。
 それどころか、平均25%が「10」と書く。
 そして、コメントの欄に「こういうことをもっとたくさんの人に伝えたい」ないし「たくさんの人に伝えてください。先 生、頑張ってください」と書く学生がたくさんいる。
 もっともうれしかったコメントの一つには、「私はこういうことを教わりたかったんだと思う」というのがあった。
 「そう、私はそういうことを教えたかったんだよ」と答えたものである。
 そこで、いろいろ本を書いたり、頼まれた講演はほとんど断らず出かけ、自分の研究所でも講座やワークショ ップを頻繁に開催し、そしてもっと広く伝えたくて、とうとうブログも始めたというわけである。
 残念ながら、「なぜ」という深い問いに答えるのに、3分というわけにいかないので、長々と書き続けている。
 しかし、要点は2つ、
 「なぜなら、きみそしてすべての人のいのちは、ちゃんと見さえすれば、事実としてとてもすばらしいも のなんだから、落ち込んだり、死んだり、殺したりする必要はないんだよ」ということ、
 「なぜなら、きみそしてすべての人のいのちは、宇宙の137億年の進化の営みが積み重ねられたす ごいものなんだから、それこそ宇宙的・絶対的な意味があるんだよ」というメッセージである。
 このメッセージは、単に情緒的なものであるだけでなく、誰でも確認−合意できる事実と現代科学と臨床心理 学と論理の裏づけがしっかりある、と私は思っている。
 だから、実際、多くの学生たちが納得してくれるのだと思う。
 だが、今のところ、なぜか――分析すればわかる理由はあるのだがここでは省略する――日本の教育界に も、父母たちにも、マスコミにもまだ十分理解されていない。
 (私が執筆・監修したサブ・テキスト2冊が東京都内の4つの私立高校で使われている、大学の臨床心理学の 授業でコスモス・セラピーを実施して効果を挙げている方が2人いる、といううれしい例外はあるが。)
 そして、だから、多くの子どもたち・若者たちのところに届いていない。
 そして、かなり多数の子どもたち・若者たちが、依然として、落ち込んだり、すねたり、つっぱったり、引きこも ったり、病んだり、非行・犯罪に走ったりしている。
 それが、歯がゆく、口惜しく、悲しく、残念でならない。
 私は、自分のやっていることが唯一だとも絶対だとも思っていないし、万能の方法をつかんでいるとも思って いないが、コスモロジー教育−コスモス・セラピーは、そうした問題に対して、事実、相当に有効だということは 実証してきたつもりである。
 だから、社会的提案を続けてきたし、これからも粘り強く続けていく覚悟である。
 もちろん、批判や修正−増補の提案はいくらでもお受けしたい。
 もし万一、完璧によりよいものがあれば、私の提案は取り下げてもいい。
 心ある、つまり本当の意味で後の世代への責任を取るつもりのある大人のみなさんに、ぜひ、知るだけでも 知ってほしいと思うのである。
 そして、子ども・若者のみなさんには、親や教師やマスコミが教えてくれなくても、その鋭い直観力と判断力を 働かせて、まず自分の力で見つけ、そして本当に自分の存在の意味を明らかにしてくれるメッセージなのかど うかを判断してほしいと願っている。
 悲しさや残念さに共感してくださり、提案に賛同して下さる方は、この文章そしてこのブログ全体の文章を自 由に使って――コピー、引用、リンク、論評などなど――口コミ、ブログ・コミに、ぜひ参加していただきたいと思 う。
 最後に、あまりにも若くして亡くなった古山優亜さんとご家族の方に心からの哀悼の意を表したい。






NHKTVいじめ特集に思う
2007年03月04日


 おととい、ようやく青色申告の提出が終わり、ほっとしました。
 夜は中級講座で、遅くに帰ってきて疲れたので、昨日はいろいろなことを少し忘れて、のんびりしたいと思っ たのですが、いろいろそうもいかないこともありました。
 いろいろの一つは、昨夜、NHKテレビの夜7時半から10時まで、「日本の、これから 『いじめ、どうすればな くせますか』 市民と文科省・教師が大討論」という番組を見ての感想です。
 知れば知るほど、いじめはますます深刻になっていくばかりのようです。
 2時間半かけて、いろいろな意見が出てきましたが、最後はいつものように、「結論は出ませんが、話し合うこ とは大切です。これからも一緒に考えていきましょう」という話でした。
 公共放送の中立性ということからいうと、やむをえないのでしょう。
 いじめの原因についての特定の分析−判断−対策を支持することはできないのかもしれません。
 しかし、見ていて非常な不満感が残りました。
 話題にしたいのか、問題提起したいのか、解決したいのか、公共放送という以上に大人としての責任が問わ れているのではないでしょうか。
 もう一歩踏み込んで、元「ようこそ先輩」・現「課外授業」のようなかたちででも、いじめをなくすることのできた 事例・方法の紹介などもしてほしいものだと思いました。

 で、私のコメントですが、私はいじめの最大の社会的原因については、神野直彦氏が『「希望の島」への改 革』(p.202、NHKブックス)で書いておられる、以下の文章がきわめて端的・簡潔に捉えていると思います(とい うことは、NHKさんも全体としては、こういうかたちで特定の明快な主張の報道をしていないことはないわけで すね)。

 「競争社会」とは、強者が強者として生きていくことのできる社会である。適者生存よろしく、強者 が弱者を淘汰していく社会である。強者が弱者を淘汰していくがゆえに、競争社会は効率的だと 誇張される。
 だが、「競争社会」のコストは高くつく。確かに競争は、経済システムのコストを低めるかもしれな い。しかし、政治・経済・社会の3つのサブ・システムから成る「総体としての社会」にとってのコスト は高くつく。
 強者が弱者を淘汰することは、「いじめ」以外の何ものでもない。強者が弱者を淘汰していく競争 原理を伝道された子供たちが、「いじめ」に走るのは当然である。
 スウェーデンの中学校の教科書では、子供たちに人間の絆、愛情、思いやり、連帯感、相互理 解の重要性を教えている。日本では人間の絆、愛情、思いやり、連帯感、相互理解を鼻で嘲笑 し、白けるように、子供たちに教えている。

 一方(本音)で、友達を潜在的に、時にははっきり意識的に競争相手・敵とみなし、「強い者が弱いものに勝 つのは当然だ」と教えておいて、もう一方(建前)で「強い者が弱い者をいじめてはいけない」と言っても、子ども たちは本音のほうしか学ばないのは当たり前でしょう。
 日本の大人社会全体が、競争社会から協力社会へと根本的な方向転換をしないかぎり、子ども社会でのい じめが根絶されることは、きわめて残念ながら、ないでしょう。
 しかし、そう言うだけでは、今すぐの問題には対処できません。
 社会全体が方向転換を遂げるには、まだそうとう時間がかかりそうですから(私たちはそのための努力も精 一杯しているところですが)。
 けれども幸いなことに、特定の社会集団(例えばクラス)を取り仕切ることのできる権限のある人間(例えば教 師)が、人間の本質が競争にではなく協力にあること――それに加えて言えば、生物の世界全体がかつて唱え られた「弱肉強食」や「適者生存」だけで語れるようなものではなく、共存的競争−競争的共存しながら、全体と してエコロジカルなバランスを保って共生しているという事実――を、知識としても感受性の訓練としても伝 え、並行して相互承認のワーク等を行なえば、その集団の範囲内なら確実にいじめは予防できる、と実践に基 づいて私は確信しています。
 また、いったんいじめが始まったグループでも、根気よくそうしたコスモス・セラピーを行なえば治療可能なは ずだと思います(これは残念ながらまだ実践の機会がありません)。
 これは1クラスでも可能だし、まして1校単位で取り組めば大きな成果が上がるはずです。
 それは、コスモス・セラピー=コスモロジー教育には、「なぜ人を殺してはいけないか」と同様、子どもに「なぜ 人をいじめてはいけないか」を納得できるかたちで語り伝えうる根拠があるからです。
 別に自分の創ったシステムを広げて有名になりたいわけではなく、子どもたちが幸せになってほしいので、一 日も早くこのシステムを多くのみなさんに学び−使ってほしいと切望しています。
 NHKテレビを見ながら、またしてもはがゆい思いをした一晩でした。

 今日は、そのストレス解消というわけでもありませんが、誕生日祝いの意味もあってチケットを買っておいた、 フランスの名ピアニスト、エリック・ハイドシェックのコンサートにかみさんと行ってきました。
 40年近く前からレコードで聴き続けてきたピアニストの70歳になっての演奏をじかに聴くことができたのは、 ある種、感無量です。
 40年近い年月にみごとに円熟した、しかし円熟という言葉も当てはまらないほど瑞々しい演奏に、すっかり感 動し、憂き世の憂さをしばし忘れ去ってしまう、すばらしい時間を過ごすことができました。
 人間は、例えばこんなに美しい音楽を創り奏でることのできる存在であり、そのことに目覚めれば、人生には いじめや殺人や戦争などというつまらないことをしている暇はないことがわかるはずなのですが……






恐竜の絶滅――エレガント化するコスモス?
2005年11月16日


 


 12月26日(ジュラ紀)、それまで昆虫が飛んでいただけの空に鳥が飛びはじめます。鳥類の創発です。
 この頃の鳥は、私たちの目から見るとかなりグロテスクな姿をしていたようですが、可愛らしい小鳥たちもこう いうご先祖さまから進化したのだと思うと、とても不思議な気がします。
 ここで注目すべきことは、それまで1億年以上、圧倒的な繁栄を誇っていた恐竜が、12月28日から30日 (白亜紀末)にかけて絶滅したということです。
 そして、ちょうと恐竜が絶滅しはじめた頃、地上には花が咲き始めるのです。
 いろいろな推測がなされてきましたが、最近の有力な説では、大型の隕石か彗星が地球に衝突し、巻き上が った大量のチリやガスで成層圏が覆われ、太陽の光が遮られて、地表が急激に冷えたことが最大の原因のよ うです。
 植物は育たなくなり、その結果大量の植物を必要とした草食性の恐竜が絶滅し、それを食べる肉食性の恐 竜も絶滅したのではないかと考えられています。
 地上に花が咲きはじめたことも、恐竜の絶滅に影響を与えているという説もあるそうです。
 それは、スギなどのような裸子植物は風で花粉を撒き散らすことで受粉し、子孫を残すため、なるべく高く伸 びたほうが有利なのです。
 ところが、そのために高く伸びたら、それに合わせて恐竜の首も伸びて、ばりばり食べられてしまうようになっ たらしいのです。
 そこで、植物は被子植物になって、昆虫を花と蜜で誘って受粉を手伝ってもらうという戦略を編み出したようで す。
 そうすれば、背丈が低くてもいいので、いったん首が伸びた恐竜にはとても食べにくくなった、ということのよう です。
 花が咲くようになったことが、恐竜の食糧難をもたらした、という面があるらしいのです。
 不思議で面白いことですね。
 このあたりのことを学びながら、私は、鳥や花がいない地球のままだったら、どんなにかつまらないのではな いか、と思いました。
 そして、コスモスの自己組織化・自己複雑化は、もしかするとより美しくエレガントなものを生み出すという方 向に向っているのではないか、という気がしてきたのです。
 鳥や花の進化も、どうもそうなっているような気がするのですが、これは科学者の共通見解ではなく、あくまで も私の感じです。
 しかしそれにしても、「ゆっくり、じっくりと時間をかけながら、自己をますますエレガントに装っていくコスモス」 とか「ゆったりと花開いていくコスモス」というイメージは、実に素敵だと思われませんか?






冬の花
2005年11月17日





 山茶花は、いかにも日本の冬を感じさせてくれる、ありふれているけれど可憐でいい花です。
 三鷹駅のそばの小公園の日だまりで、熱い缶コーヒーを飲みながら、図鑑にある地上に初めて咲いた花とは ずいぶん雰囲気がちがうななどと思いながら見ていました。
 たくさんの花が群れるように咲くので、見過ごしがちですが、よく見ると一輪一輪が愛らしくきれいなかたちを しています。
 いうまでもなく、こうした可憐なかたちを産み出したのもコスモスなんですね。
 古典的な「造化の妙」という言葉を思い出します。
 お日さまに対して地軸が23.5度傾いており、しかも地軸もコマの首振り状に回転しているために、四季がある のだそうですが、今北半球がお日さまから遠いほうに傾きつつあるので、日本も冬になろうとしているわけで す。
 地軸の23.5度の傾きがあるから、日本の冬の花、山茶花が咲く…コスモスが今ここの日本では、自らを山茶 花として自己組織化している…と思うと、なんとも不思議な気がします。
 今日も「星の子たち」への授業を終えた午後の時、ふーむと、そんなことを考えています。






破壊と創造――種の絶滅について
2005年11月18日





 先に恐竜の絶滅の話をしましたが、同じ頃、恐竜と共に「変温動物」である多くの爬虫類も、寒さに耐えること ができず絶滅しました。
 これは、恐竜や爬虫類のそれぞれの種から見ると、とても悲惨なことが起こったように見えます。
 しかし、進化の歴史の中では、こういう大量絶滅はまれなことではなく、生命40億年の歴史では少なく とも13回、最近6億年でも6回も起こっているそうです。
 そして不思議なことですが、「大量絶滅」は生命の「全滅」ではなく、大量絶滅の後にかえって新しい種の 進化が起こっているのだそうです。
 それまでの種が絶滅することで、その種が占めていたなわばり(「生態学的ニッチ」と呼ばれます)が空き地に なり、そこに生き残った種が新しい進化を遂げながら入り込んでいくということ(「適応放散」)が繰り返し起こる のです。
 つまり、個々の種から見れば悲劇というほかない出来事が、生命全体の進化を促進するらしいのです。
 いったい、これはどう考えればいいのでしょう?
 宇宙が一つであり、一貫して自己組織化・複雑化という方向に進んでいるとすれば、一見破壊に見えること が、次の創発の準備になっているのではないか、と考えることもできます。
 もっと古い例でいえば、超新星の爆発、つまり星の死が、やがてより複雑な原子からなる新しい星の誕生を 準備したのと同じように、古い生命の種の死が、新しい生命の種の創発を準備したのかもしれません。
 もっと古い例をあげると、そもそも水素原子が核融合を起こしてヘリウムになるということ自体、個々の水素 原子から考えると圧力で潰れるのですから破壊です。
 しかし、個々の原子が壊れるからこそ、新しい元素が創発するのですね。
 もし、破壊が次の創発の準備であり、死が次の誕生の準備だとすれば、根源的には宇宙には不条理 はない、ということになります。
 ともかく、恐竜や多くの爬虫類の絶滅がなければ、次の時代の哺乳類の繁栄はなく、哺乳類の繁栄と進化が なければ、霊長類の誕生もなく、したがって人類の誕生もありえません。
 膨大な数の種の誕生と死という大きな流れの中に、人類も、私たちの先祖も、そして私も置かれています。
 生命4〇億年の歴史、宇宙137億年の歴史は、こういうふうに今ここにいる私たちにまちがいなくつながって いるようです。
 そういうことに気づいた時、私たちの心には大きな感動と、そして自分を超えた大きな何ものかへの畏怖・お それの念が湧いてきます。
 最後に、前に引用した本の言葉をもう1カ所引用しましょう(『人類の長い旅』147〜8頁)。

 「あなたのからだのなかの生命を、ほんとうのはじまりまでたどりたいのなら、あなたは、先祖の家系図 をさらにさかのぼって、何万年もむかしの原始的なホモ・サピエンス・サピエンス、もっとむかしのホミニ ド、そのむかしの霊長類、哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、ヒモムシ、最初の真核細胞、そして最後に は、海のなかで自分の複製をはじめてつくった細胞まで、たどりつかねばなりません。
 はじめての生細胞からあなたまでの生命の流れは、とぎれることなくつづいています。
 あなたのからだのなかの生命は、35億年のあいだ、とどまることなくつづいてきたのです。
 あなたは生命の木のいちばんあたらしいえだのさきにいて、地球上の他のすべてのいきもののえだと、 その根もとではつながっています。わたしたちのいのちのはすべてもとをたどれば、何十億年もむかしの 原始の海のなかの、最初の生細胞からはじまったのですが、それをさらにさかのぼれば、最初の生細胞 をつくったアミノ酸と核酸塩基、さらに原始の大気のなかでくっつきあった分子、さらには、よりあつまって 地球をつくった原子、そのまえにはこの原子のもととなった超新星、そのまえには、初期の星をつくった 水素原子とヘリウム原子、そして空間の微粒子、そして最後には、すべてのみちすじのはじめとなったビ ッグ・バンにいきつきます。
 わたしたちのからだをつくっているすべての材料は、150億年むかし、わたしたちの宇宙がはじまった まさにその時にうまれたものなのです。
 自分のてをよくみてごらんなさい。そしてそのなかの原子がいままでにとどってきた旅について考えてみ てください。
 そして、これからその原子たちがたどらなければならない旅についても、考えてみてください。」

*写真はNGC2403付近の超新星、NASA提供






宇宙の労作としての脳と心
2005年11月19日


 少し戻りますが、12月25日頃、最初の哺乳類が登場しています。
 哺乳類では、私たちの脳でいうと脳幹の上にある大脳辺縁系が大きくなってきますが、この大脳辺縁系に感 情の中枢があるといわれています。
 それから、12月29日になって最初の霊長類が生まれ、12月31日にやっとヒト科の生物が生まれるので す。
 ここで、ヒトがヒトになる(「ヒト化」といいます)決定的条件としての、直立二足歩行→前肢が自由になり手にな る→手の働きで大脳が刺激され大きくなる→大脳の新皮質や前頭葉が発達する→言葉を使えるようになる→ 文化が生まれる、ということが始まったようです。
 普通人間的なものとされている思考と意識の中枢が前頭葉あたりにあることは、それを切除してしまうと物事 を考えたり決定できなくなることからしても、脳科学的にはほぼまちがいないようです。
 心をすべて脳の働きに還元できるとは思えませんが、私たちが普通にわかっているこの意識・この心がこの 脳の働きに支えられていることは確かでしょう。
 それは、例えばすばらしい名画が絵の具とキャンバスを素材にしているのといくらか似ているかもしれませ ん。
 確かに素材にはなっていますが、名画が元の絵の具とキャンバスに還元できないことは明らかです。
 すばらしく美しい絵の描かれているキャンバスの裏を見て、「ただの板じゃないか」といったり、表を見ても、 「こんなキャンバスと絵の具なんか、画材店に行けば、たったの○○円で買える」とか、ましてばらばらに切り裂 いて「ただのモノの寄せ集めにすぎない」などといったとすると、それは美術がまるでわからないあまりにも無趣 味であまり賢いとはいえない態度です。
 それに似て、「心は脳の働きにすぎない」というのはとても短絡的な考えだ、と私は思っています。
 心は確かに脳の機能を基礎にしているが、それを超えた性質を持っていることは確かです。
 話はもっと複雑ですが、少しわかりやすく単純化していえば、パソコンのソフトとハードの関係にも似ているか もしれません。
 ともかく、何より大事なことは、それはただのモノの寄せ集め・組み合わせというより、宇宙が137億年かけ てより複雑に練りあげてきた、いくつもの創発的な出来事が積み重なった高度な達成、比喩的にいえば宇宙の 作品・労作だということです。
 例えば私たちの脳は、無脊椎動物の神経組織から爬虫類の脳幹、哺乳類の辺縁系、霊長類の新皮 質と前頭葉という進化の積み重ねを受け継いでいる、といわれています。
 無脊椎動物からだと7億年、霊長類からでも6〜8000万年です。
 逆に遡れば、生命の40億年、地球の46億年、銀河系の100億年、そして宇宙の137億年のつなが りとかさなりによって、今ここにいる私の体と心があるのです。
 宇宙の歴史をたどっていると、私がボキャブラリー貧困のせいか、その壮大さ、すばらしさを表現する言葉が うまく見つからず、「すごい!」を連発してしまうのですが、私にまでつながってきた宇宙の歴史はほんとうにす ごいというほかありません。






人類――言葉と道具と火を使う動物
2005年11月20日


 12月30日、霊長類の脳で前頭葉の初期進化が始まります。
 12月31日、宇宙カレンダーの最後の日になって、ヒト科に属す生物がようやく創発します。
 第3紀が終わり第4紀(更新世、完新世)に、いわゆる「人類」が創発しました。
 もう少しくわしくいうと――このあたりは説がいろいろでまだ学会でほぼ合意された「標準的仮説」というのが ないようですが――午後0時30分、プロコンスルとラマピテクスが誕生しています。これは類人猿と人類の祖 先ではないかといわれてきました。
 現生人類――生物学上の分類でいうと「ホモ・サピエンス・サピエンス」というんだそうですが――の登場は、 宇宙カレンダーの最後の最後、説によってかなり幅がありますが、1000万年から200万年くらい前です。
 250万年前としておくと、午後10時24分、もっとも古く1000万年前でも午後5時半ころです。
 こういうふうに見てくると、人類は宇宙の歴史の中で、そして生命の歴史の中でもごくごく新米だということが わかります。
 考えてみると、人類の歴史はほんとうに短いのですね。
 だから、近代人がやってきたような偉そうな顔はあまりしないほうがいいんじゃないか、と私は思っています。
 しかしそこまでに、エネルギーから素粒子、素粒子から原子、原子から分子、分子から高分子、そして高分子 から遺伝子つまり物質から生命が創発し、細胞、細胞から器官、生命の歴史の中で生命からやがて哺乳類的 脳と心、それから霊長類的な脳と心、人類の脳と心が創発し……と、ずうっと大変な積み重ねが、やっと人間と いう存在に達しています。
 しかも、原人以来の人類の積み重ねが現代文明まで到達しているわけです。
 そういうふうに、いわば積みあげ重なって複雑化してきた、つまり高度に発達してきたのが人類です。
 ですから、そういう意味でいえば、やっぱり人間はすごいと思います。
 進化学者のG・C・シンプソン(『進化の意味』草思社)は、こういっています。
 「人間が動物であると認識することは大切であるが、人間独自の本質はまさに他のどんな動物にもみ られない特徴の中にあることを認識することはさらに重要である。人間の自然における地位と、その地位 のもつもっとも重要な意味とは、その動物性によってではなく、人間性(ヒューマニティ)によって規定され る。」
 最初の人間が、大脳新皮質、特に前頭葉を発達させて、シンボルや言葉を使うことができるようになったの が、31日の午後10時24分、夜もやや更けてきたころです。
 石器つまり道具を使うことが普及したのが10時54分ころ。
 原人が火を使ったのが11時2分(最近の再調査では、北京原人は私たち現生人類の直系のご先祖様では ないという説が有力になってきているようです)。
 かつて、「人間は、言葉と火と道具を使う動物だ」といわれてきました。
 使わないと、人間らしい生活ができないのです。
 そういう、火を使う、道具を使う、言葉を使うという人間の条件がやっとそろったのが11時45分です。
 (これも最近の研究で、チンパンジーも例えば枝を細工して木の実をたたき落とす棒=「道具」として使うこと があるとわかったので、この定義は少しあいまいになりましたが)。
 その場合、それらを使うか使わないかも、今の私たちには選択の余地はありません。
 火(エネルギー)を使わない、道具を使わない、言葉を使わないという自由選択の権利はないし、必要 ないのですね。
 積み重ねられてきた進化の遺産は相続しない権利はなく、相続する義務しかないし、それは不自由な ことではなく、だからこそ生きられるのです。
 どれもそうですが、特に言葉はそうです。
 言葉を中心とした「文化」なしには、人間は人間らしく生きること、それどころか生きることそのものができませ ん。
 かつて「ブッシュマン」と呼ばれてきた「サン族」のようなきわめて原始的な生活をしている人でも、この件に関 してはまったくおなじです。
 言葉や文化を担った存在であるという点についても、私たちは自由ではないのです。
 それこそ人間が人間であるための条件・「人間の条件」なのです。*
 言葉と文化によって、人間は環境と本能にしばられた〈動物〉から、さまざまな生き方の選択の幅・自 由を獲得した〈人間〉になったと考えてまちがいないでしょう。
 これもまた、大きな進化の飛躍です。






言葉の栄光と悲惨
2005年11月21日


 ところで、人間が言葉を使って文化をつくることには、大きな長所と同時に短所があると思われます。
 世界の言語のほとんどが、主語+述語、特に名詞・代名詞と動詞という構造になっているそうです。
 とりわけ、名詞・代名詞を使って世界を見るということが問題なのです。
 言葉を使い始めた人間は、一つにつながった宇宙のあるかたちをもった部分に「名前」をつけて認識するよう になります。
 例えば一本の木は、先祖のバクテリア―植物―その種の木の先祖という数十億年のいのちのつながりの中 で、今、「一本の木」というかたちをしています。
 また、その木が生えているための大地、吸収するための大地に降った雨、二酸化炭素を吸収し酸素を排出 するための大気、光合成によってエネルギーを得るための太陽の光……など無数のものとのつながりによっ て、ある一定の時にその場所で「木というすがた」を現わしています。
 それがほんとうのところではないでしょうか?
 つまり、時間的にも空間的にも、その木はその木ではないものによってその木になっているのですね。* 1
 ところが、それを「木」という名前=名詞を使って認識したとたんに、大地とも雨とも大気とも太陽ともつ ながっていない「木そのもの」が、独立・分離的に存在すると見えてくるのです。
 もちろん、ある「木」は、他の木と区別はできますし、大地などほかの「モノ」とも区別できます。
 しかしよく考えると、分離はしていない、できませんね。
 自然のほかの部分と分離したら、木は枯れてしまう、それどころか、そもそも生えてくることさえできないので す。
 そういうふうに、人間の言葉には、ほんとうはつながっているものを分離していると見せてしまうという根 本的な欠陥があるようです。
 区別・区分はあるし、できるが、分離はしていないし、できないはずの一つの宇宙を、「ばらばらに分離したモ ノの組み合わせ」と見せるのです。
 仏教は、言葉による分離的なものの見方を「分別知」と呼び、智慧というよりはむしろ根源的な錯覚・無知・ 「無明」と捉えています。
 その洞察は、どうも根本的に当たっていると私には思えるのですが、どうでしょう?
 とはいっても、分別知には一定の、そうとうな有効性があり、人間の文化、特に近代の科学と技術の基礎に なっているといっていいでしょう。*2
 自然を「分析」して部分に還元し、その「仕組み=メカニズム」が「分かる」と、それを人間のつごうのいいよう に組み換えることもできるようになります。それが、「技術」の基本です。*3
(それが極限に達しつつあるのが「遺伝子の組み換え技術」だと思われます。)
 そういう意味で、言葉はまぎれもなく人間が形成してきた文明の基礎です。
 しかし同時に、ほんとうは一つにつながったものを分離していると見る見方から、人間同士の中に敵と味方と いう分離した見方→戦争、人間と自然・宇宙の関係に対立や利用という分離した見方→環境破壊が生まれて き、また「宇宙とつながった、宇宙の一部としての私」ということが忘れられ、「分離し・孤立し、やがて解体してし まう、ただのモノの組み合わせにすぎない、空しい私のいのち」というニヒリズム的な錯覚が生まれるのではな いでしょうか。*4
 人間が言葉を持ったということは、大変な栄光と同時に、恐るべき悲惨をももたらしている、と私は思う のですが、みなさんはどうお考えになりますか。






「ばらばらコスモロジー」と「つながり・かさなりコスモロジー」
2005年11月23日


 


 近代科学主義の世界観は、すべてをばらばらなモノに還元する傾向があるので、私はわかりやすくするため に「ばらばらコスモロジー」と呼んでいます。
 私たちは、戦後教育の中でそうした近代科学主義的な世界観ばかり学んできたために、宇宙と自分を分離し たものと思い込みがちです。
 しかし、これまで大まかに見てきたように、現代科学の標準的な仮説を総合して考えると、「宇宙と私たちは つながって1つ」というほかありません。
 ほんとうの全宇宙は今、事実として、いのちのないばらばらのモノだけで出来ているのではありません。
 宇宙は私たちとつながっていますし、そもそも私たちは宇宙の一部で、宇宙は私たちを含んでいるわけです から、宇宙は私たちのいのちと心を含んでいます。
 そういう意味で、現在の宇宙にはまぎれもなくいのちと心があるというほかありません。
 「宇宙にはいのちと心がある」というと、とたんに「え? 怪しい!」と反応される向きがあるかもしれません。
 しかし先にも言いましたが、これは、神秘的・オカルティックな意味で暗黒の空間に無数の星が輝いていると いう物質的な宇宙に生命とか意識といったものがある、という意味ではありません。
 より詳しく言うと、宇宙にはその一部としての私たちというかたちで、いのちと心がある、ということです。
 このことを遡ってよく考えると、宇宙は最初のビッグバンの時点で、すでに物質だけでなくいのちと心を 生み出す潜在的可能性も持っていたと考えるほかありません。
 そして、エネルギーを基礎にして物質が創発し、物質を基礎に生命が、生命を基礎に心が、というふうに積み 重なりながら創発・展開してきたのが宇宙137億年の歴史だ、ということになります。
 そのことを私自身に引き付けて考えると、宇宙は最初から私を生み出す潜在的可能性を持っていた、 そしてその可能性は今現実性になっている、ということになります。
 そして私が今・ここにいるという現実から逆に遡って考え、やや比喩的な表現をすれば、「宇宙は始めから私 を生みたかったから生んだ」ということも無理なく言えるのではないでしょうか?
 そういう世界観を私は「つながり・かさなりコスモロジー」と呼んでいます。
 これは非科学的なロマンチシズムなどではなく、現代科学の標準的な仮説を十分に含んだ上でその先まで考 えている、そういう意味でとても現実的・合理的な宇宙解釈だと私は考えています。
 「私とは、すべてモノにすぎない宇宙の中で、ばらばらのモノが偶然にも組み合わさってこういう形になったモ ノにすぎない(そして、やがて解体してばらばらのモノになってしまうだけだ)」という自己観と、「宇宙は始めから 私を生みたくて137億年もかけて生んでくれた(だから、生まれる前も、生きている今も、死んだ後も、宇宙とつ ながっており、宇宙に包まれているのだ)」という自己観と、どちらが人生に意味を感じさせてくれるでしょう?
 みなさんは、現代科学的で現実的・合理的な根拠があり、そして人生に意味があると感じさせてくれるコスモ ロジーと、近代科学的で限定された合理性があるにすぎず、そして人生を無意味だと思わせてしまうコスモロジ ーと、どちらがお好みですか?
 そして、どちらを選択することが、たぶん一回きりの人生を生きて死ぬ個人としての人間にとって、賢いことだ と思われますか?
 学生たちには、こう言います。
 「僕は、いちおう思想の自由ということを重んじているから、もちろん、選択は諸君の自由だと思うよ。でも、ど ちらが妥当でかつ自分にとって得なんだろうね?」と。
 ネット学生のみなさんは、どちらを選択されるでしょう?
 ……ちょっと結論のまとめ風になってきましたが、コスモロジーの話はまだもう少し続きます。よろしければ、 続けておつきあいください。






人間は宇宙の最高傑作か失敗作か?
2005年11月24日


 ところで、「人間は宇宙が137億年かけて作り上げてきた作品だ」、そして少し先取りして「労作だ」とも言いま した。
 しかしよく考えてみると、作品といっても傑作もあれば失敗作もあります。
 いったい人間はどちらなのでしょう?
 「傑作」とか「労作」というに値するのでしょうか?
 人類史のポイントをごく大まかに見てみましょう。
 (この年表は、セーガンのものに増補訂正を加えたものです。数値は宇宙150億年といわれていた時のもの ですが、大まかな感じはつかめると思います。)

 12月31日の詳細
  • 11時59分16秒 農業の発明、奴隷制の発生
  • 11時59分33秒 新石器文明、最初の都市、森林破壊の始まり
  • 11時59分49秒 シュメル、エブラ、エジプトに最初の王朝、占星術発達
  • 11時59分50秒 アルファベットの発明、アッカド帝国
  • 11時59分51秒 バビロニアのハンムラビ法典、エジプトの中期帝国
  • 11時59分52秒 青銅鋳造、ミケネ文化、トロヤ戦争、オルメカ文化〔大型彫刻を残したメキシコ文化〕、 羅針盤発明
  • 11時59分53秒 鉄鋳造、アッシリア帝国、イスラエル王朝、カルタゴ創設
  • 11時59分54秒 老子、孔子、ソクラテス、イザヤ、エレミヤ、ゴータマ・ブッダの登場
  • 11時59分55秒 ユークリッド幾何学、アルキメデスの物理学、プトレマイオスの天文学、ローマ帝国、 イエスの誕生、大乗仏教の興隆
  • 11時59分57秒 インドでゼロと十進法、ローマ没落、イスラム帝国   
  • 11時59分58秒 マヤ文明、中国の宋朝、ビザンツ帝国、モンゴル帝国、十字軍
  • 11時59分59秒 ルネッサンス、ヨーロッパと明朝による探検航海、科学での実験の方法
  • 現在すなわち新年 理性・人権思想・科学・技術・産業の発達、植民地化−地球化、世界大戦、核兵器、 環境破壊

 こうして見てみると、人間は、文明の始まった時にはすでに身分制、奴隷制をつくって、人が人を支配・抑圧・ 搾取するということを行なっていたようです。
 これは、どう考えても、あまりいいこととは言えないのではないでしょうか?
 そして長い間――たぶん5000年以上1万年くらい――そういうことを続けてきました。
 すべての人には生まれてきただけで人権があるという考えや民主主義が世界的な標準になったのはごく最 近のことなのです。
 しかも、まだ世界中で完全に実現されてはいないのですね。
 一方では、人権のなかでも最低限であるはずの生理的な意味での生存権さえも十分保証されていない飢餓 状態の人々が多数いる国々があり、もう一方では食べすぎてダイエットをしなければならない人のたくさんいる 国々もあります。
 これでは、世界的な規模で平等・公平・公正が実現されているとはお世辞にもいえないではありませんか。
 また、古代の帝国の誕生はいうまでもなく戦争の結果です。
 残された文化遺産を見ると、確かに「輝かしい」と表現されるような面も確かにあるのですが、それらを作るた めの富の相当部分は戦争と搾取によって獲得されたもののようです。
 しかも、おそらくそれ以前の部族、氏族国家の頃から、人間は戦争をし続けてきたらしいのです。
 日本はここ50年あまり直接戦争に関わっていないので実感がないかもしれませんが、特に20世紀、人類は かつてない規模の世界戦争を2度も行なっています。
 そして、21世紀になっても、人類全体としては戦争を完全にやめることはできていません。
 それどころか、幸いにして広島と長崎以後は使われてはいませんが、いまや人類が何十回も絶滅・自殺でき るほどの核兵器があるようです。
 もちろん、国際連盟、国際連合、その他、様々な世界平和の努力は行なわれてきています。
 幸いにして、今のところ、大規模な全面戦争は行なわれていません。
 しかし、「紛争」や「テロ」という名前の小規模の戦争は依然として収まらず、全面的な戦争の廃絶−恒久平和 という人類の理想はなかなか実現するようには見えません。
 さらに、農業の発明以来、人間は様々な技術によって、自然をコントロールし、豊かな生活を作り上げてきま したし、その富を基礎にして様々な芸術・文化も創造してきました。
 しかし、古代文明は例外なくといっていいくらい、森林を滅ぼして自滅したようです。
 「文明の後には砂漠が残る」という言葉さえあるくらいです。
 特に近代文明は、2〜300年の産業活動によって、自然を汚染し、自然資源を使いつくし、人類自身の生き る基盤を壊そうとしているのではないか、と私には見えます。*
 人類の文明の繁栄は、どうも、自民族・自国民の搾取か、他民族・他国民の侵略・略奪か、さもなければ人 間以外の自然の侵略・略奪・破壊によって築かれたという面があることは否定できないのではないでしょうか?
 こうして人類史をおおまかに見ただけでも、いったい人間は宇宙の傑作なのかそれとも失敗作なのかという 疑問が浮かんできませんか?
 その答えは、当然、みなさんそれぞれが出すべきものですが、次回、最後に参考として筆者の解答例をお話 しすることにしたいと思います。






生態系崩壊の崖っぷち――ジャンプか転落か
2006年07月23日


 シルル紀(4億3千9百万年前)に植物が海から上陸しはじめ、デヴォン期(4億8百万年前)にそれを追って 動物が上陸をはじめて、海と陸との「環境」と生物のバランス、微生物と植物と動物のバランスという意味での 地球の「生態系(エコ・システム)の原型がほぼ出来上がってきたと考えられます。
 このシステム=組織は、コスモスの130億年以上の自己複雑化・自己組織化の成果です。
 地球の歴史でいっても、40億年以上の進化の産物、生命の歴史でいえば35億年あまりの進化の到達点で す。
 このシステムは、生命と非生命(環境)、それぞれの生命グループというふうに分かれてはいても(分化)、一 つのシステムとしてまとまりをもち絶妙のバランスを保ってきたようです(統合)。
 しかし人類の登場、特に文明の誕生以来、人類(の一部、文明を形成した人々)は、必ずといってもいいくら いその文明圏の生態系のバランスを壊してきたようです。
 「文明の後に砂漠が残る」という言葉があるとおりです。
 考えて見ると、古代文明の後はすべて砂漠的な環境になっています。
 いまや文明の規模はグローバルになっていますから、生態系の崩壊もグローバルに起こりつつあります。
 そういう状況を見て、「人間は地球・生態系のガンだ」という人もいます。
 確かにこのままだと、そう言われても仕方ないでしょう。
 そして、ガンそのものがガンの患者さんの死と共に死なざるをえないように、人類も〔人類が生き延びられる ようなかたちの〕生態系の崩壊と共に崩壊するのは理の当然です。
 (といっても、人類をふるい落とした後、ややかたちを変えた生態系は確実に残り、コスモスはまちがいなく進 化を続けると思われますが)。
 しかし私は、人類が地球のガンとして絶滅していくのか、コスモスの自己認識・自己感動器官として意味深い 生存を続けるのかは、まだ決着がついていないと思っています。
 間違いなく、瀬戸際・崖っぷちではあるでしょう。
 そして、ジャンプして向こう岸に渡れるか崖から転落するのかは、ジャンプする覚悟ができるかどうか、覚悟 ができたとして、ちゃんと必要な距離のジャンプができるかどうかにかかっていると思います。
 いずれにせよ、私たちがスリル満点の時代に生きていることは確かです。
 もちろん私は、ハラハラドキドキしながら、なんとか十分な飛距離のジャンプをしたいと身構えています。
 スウェーデン・モデルは、飛距離が十分かどうかという疑問は残りますが、確実に一つの大ジャンプだ、と私 には見えています。
 さて、ここで、ご一緒に大ジャンプに挑戦してみませんか?






人類は宇宙の自己認識−自己感動−自己覚醒の器官である?
2005年11月30日


 


 さて、今日の授業で、「つながり・かさなりコスモロジー」の話はひとまず終了です(授業はまだ続きます)。
 繰り返すと、物質自体が一つにつながった宇宙の一部であり、しかもそれは生命のないモノにとどまってはお らず、やがて生命に進化し、さらに生命の中から心を持った存在を創発させてきました。
 それが、「つながり・かさなりコスモロジー」の目で見た、物・生命・人間の本質です。
 だから、一人一人の人間は宇宙137億年の歴史を担っていて、宇宙と一体であり、「宇宙の子」だと確実に 言えるのです。
 これは、気づくとすごいことです!
 しかし、このすばらしい事実に、人間はどのくらい気づいてきたでしょうか?
 えらそうに言っている私を含めて、ほとんどの人間が気づいてこなかったし、いまだに気づいていない、と私に は見えるのですが、みなさんはどうお考えですか?
 そこで注目してほしいのは、11時59分54秒のゴータマ・ブッダの誕生です。
 ゴータマ・シッダルタ(出家前の名前)は、〈縁起の理法〉を覚って、覚った者=ブッダになったといわれていま す。
 〈縁起〉とは、すべてが縁=つながりによって生起しているということです。
 つまり、宇宙はすべて一つ、すべてはつながっているということですね。
 ゴータマ・ブッダはそのことにはっきり目覚めた人類のもっとも先駆的な存在であり、その目覚めを〈縁起〉と いう言葉で表現してくれたのだと言っていいでしょう。
 (インドでは、例えばその前にすでに『リグ・ヴェーダ』を書いた名前の知られていない賢者など、もっと前に気 づいていた人もかなりいたようですが)。
 誤解しないでいただきたいのは、筆者はここで特定宗教としての仏教の宣伝をしたいわけではないということ です。
 そうではなく、これまでの話のつながりからすると自然に、「宇宙は137億年かけて目覚めた人=ブッ ダを生み出した」ということになる、と指摘したいのです。
 (これは、会った時にK・ウィルバーが言っていた「宇宙は150億年かけて道元を生み出した。すごいと思わ ないか?」という言葉の転用です。著作権表示をしておきます。)
 これは、現代科学の知見を基に推測していることですが、ほぼ確実に事実と見なしていいのではないでしょう か?
 そして、このことが意味しているのは、人類という存在は、ブッダのように「宇宙と私は一体だ」という目覚めに 到る可能性・潜在力を持っている、ということではないでしょうか?
 人類の意識の発達・進化は、原人のような呪術的な心や古代や中世の人のような神話的な心、あるいは近 代・現代人のような合理的な心の段階でとどまるものではないようです。
 そして大まかな言い方をするとブッダと同時代に、中国の老子、孔子、ギリシャのソクラテス、イスラエルのイ ザヤやエレミヤといった旧約聖書の預言者たちなど、世界のいろいろな文明圏で多くの賢者が登場していま す。
 哲学者カール・ヤスパースは、人類の思想にとってこの時代は「枢軸の時代」である、と言っています。
 それから、今から約2000年前、11時59分55秒には、イエスが生まれています。
 イエスという人は、一言でいうと「神と私は一体だ」ということを自覚した人だ、と私は捉えています。
 そして、イエスのいう「神」とは、神話的な、天上のどこかにいる、白いひげの光り輝く超能力のおじいさんなど ではなく、「全宇宙(コスモス)」のことだ、と解釈しています。
 そうした人類史に現われた賢者たちが、表現はいろいろですが、内容としては口をそろえたように、人間と宇 宙との一体性を語っているようです。
 しかし、人類全体の平均的な意識としては、まだほとんどそのことに気づいていません。
 でも、はっきりと気づいた人もすでに先駆的にかなりの数登場しているのです。
 そしてここで重要なことは、彼らはおそらく私たちと生理的に違う脳を持っていたわけではなく、ただ心・意識 の働き方・気づきのレベルが深かっただけだ、と思われることです。
 もしそうだとすれば、人類、特にその心の進化は、まだ現代の私たちの平均的な意識で終わりではないという ことになります。
 すべての人が、「宇宙と私はつながって一つだ」、したがって、「他の人とも、他の生命ともつながって一つだ」 という自覚に到る可能性を秘めていると思っていいのではないでしょうか。
 そういう自覚のことを〈宇宙意識〉と呼びます。
 しかも、ここで最後にもう一度思い出しておきたいのは、人間は心も含めて宇宙の一部だということです。
 ですから、人間が宇宙を認識するということは、宇宙の一部が宇宙を認識しているということです。
 それはつまり、宇宙が人間の意識を通じて自分を認識しているということになります。
 だとすれば、さらにいうと、「人間は宇宙の自己認識器官だ」ということにもなります。
 もしかすると、人間は、宇宙が「そうか!私は宇宙だったんだ!」と自己確認・自覚するために、宇宙自身の 内部に創造したものなのかもしれません。
 ……と、この授業の元になっている『宇宙と私のつながりを考える』というテキストを書いた時点では、ここまで 考えていました。
 その後で、「ところで、人間の心がしているいちばん価値あることは何だろう? 認識することだろうか? い や、それよりも、美しいものやすばらしいものに驚き、感動している時がいちばん価値あることをしていると言え るのではないか?」と思うようになりました。
 そういう視点から見ると、人間・私が何かに感動しているということは、感動している私もその何かも宇宙の一 部ですから、宇宙のある一部が宇宙の他の一部に感動している、ということになります。
 つづめて言えば、「宇宙が宇宙に感動している」わけですね。
 だとしたら、もしかすると、宇宙は単純に一つの宇宙のままだと自分で自分を見て感動することができないの で、自分の中にあたかも自分でないかのような部分を創って、自分で自分を見て感動することができるようにし た、と考えることもできるのではないでしょうか?
 「心をもった存在・人間は、宇宙の自己感動器官である」と言っていい、と私は思うのですが、いかがでし ょうか?
 さらにブッダなどのことまで考えると、「人間は宇宙の自己覚醒器官になるために意識進化の途上に ある存在である」とも言えそうです。
 これは、もちろんもう現代科学の標準的仮説の紹介ではなく、それを元にして、それと矛盾しないかたちで、 その先まで、私や仲間たちが考えていることです。
 ともかく人類は、そういう大変な可能性を秘めた、しかしまだ未完成の作品です。
 だから、まだ傑作か失敗作か最終的な結論を出すことはできないのではないでしょうか?
 どちらになるかは、これから人類の多数が「宇宙と自分のつながり」に気づいて、それにふさわしく生きるよう になるかどうかにかかっています。
 そして、気づくかどうかは、まず一人一人の問題であり、課題であると、私はそういうふうに考えています。
 もし人類の――特にリーダーの――多くが、宇宙との一体性に気づいたならば、近代のもたらした深刻な3つ の問題、環境破壊、戦争、ニヒリズムは、根本的に乗り越えることが可能になるのではないか、と思われます。
 「傑作か失敗作か」という二者択一的な問題設定をしておいて、「どちらとも言えない」という解答例を出すの は、ちょっとイジワルに感じた方もいるかもしれません。
 もしそう感じたら、失礼!! そんなつもりではなかったんですけどね。
 みなさんも、この解答例を参考にして、ご自分の答えを見つけてください。






人間は宇宙の自己認識器官?
2006年07月10日


 宇宙カレンダーの12月22日(3億6千2百万年前)、石炭紀に爬虫類が創発し、脳幹が創発し、衝動が創発 します。
 12月23日(2億9千万年前)、ペルム紀に哺乳類の先祖である哺乳類型爬虫類が繁栄しますが、12月24 日、生物の大量絶滅で古生代が終わります。
 12月25日(2億4千5百万年前)、三畳紀に、大量絶滅を免れた哺乳類型爬虫類の中から哺乳類が創発 し、大脳辺縁系が創発し、情動が創発します。
 12月29日(6千5百万年前)、新生代第3紀に霊長類が創発し、大脳新皮質が発達し、シンボルが創発しま す。
 そして12月30日、ようやくヒト科に属する生物が創発し、前頭葉が発達し、初歩的な言葉と概念が創発しま す。
 12月31日(1千6百万年以降)、新生代第4紀に人類が創発し、言葉を使った思考や認識が発達していきま す。
 ここまでたどってみると、今の私たちの心には、蠕虫の神経組織と感覚、魚類の神経管と知覚、爬虫類の脳 幹と衝動、哺乳類の大脳辺縁系と情動、霊長類の大脳新皮質とシンボルが引き継がれており、それに前頭葉 と言葉・概念が積み重ねられているということが見えてきます。
 もちろんこの積み重ねはすべて宇宙の自己複雑化です。
 その積み重ねによる進化の結果、私たち人間において何が起こっているかというと、世界・宇宙を認識すると いうことです。
 そして人間もまた宇宙の一部ですから、人間が宇宙を認識するということは、宇宙の一部が宇宙の他の部分 を認識するということです。
 ……とここまで話してから、学生たちに「いい? ここでだまされちゃダメだよ。ここが大事だからね。ここまで の論理のつながりにごまかしはないよね? 大丈夫だよね? 僕の言っていることを鵜呑みにしないで、自分 でしっかり考えてみてね」といいます。
 私の考えでは、どう考えても人間において「宇宙が宇宙を認識している」というほかありません。
 とすれば、人間は宇宙の自己認識器官だということになります。
 そうだとして、宇宙は自己認識器官をたまたま=偶然創り出したのでしょうか?
 それとも、ある種の意図があって――つまり自分が自分であることを認識したくて――人間を創り出したので しょうか?
 ここからは、各人の解釈の問題になります。
 しかし、ビッグバン以降の宇宙に自己進化の方向性があることは、もはや現代科学的には疑う余地のないこ とのように思えます。
 その方向性は、偶然に決まった方向性なのか、それともある種の必然性のある意図なのか?
 今の段階では、どちらの解釈も可能だと思いますが、どちらの解釈を採用すると、自分の存在をすばらしいも のと捉えることができるでしょう?
 どちらの解釈が元気になれるでしょう?
 いずれにしても、選択するのはみなさんです。
 もちろん私は、宇宙には意志があって私たちを生み出したという解釈を採用しています。
 「宇宙は、私を生み出したくて137億年もかけてくれたんだ!」と思うと、自分というのはなんとすばらしい存 在なんだろうと感じられるからです。






宇宙の感動器官?
2006年07月12日


 人間は、理性の領域で世界・宇宙を認識するわけですが、それだけではなく人間の心には情動の領域があり ます。
 つまり、知るだけでなく感じるのです。
 知らなかったことを知った時、新しいものを知った時、そして何より美しいものを知った時、ただクールに知る だけでは終わりません。
 感じる、感じて心を動かされる、感動するのです。
 私たち人間が生きていてやっていることには、かなりどうでもいいことや、どちらかというとやめたほうがいい ことや、なんとしてでもやめたほうがいいことまで、あまり感心しないことがいろいろあります。
 抑圧、搾取、差別、憎悪、軽蔑、怒り、そして今もあちこちで起こり続けている戦争・紛争・テロ、環境破壊な どなど……。
 にもかかわらず、人間がこの地球上でやっているましなことがあるかと考えると、まず思い浮かぶのが、感動 するということです。
 美しいもの、世界の美しさに感動している人間の心はそれそのものもまちがいなく美しい、と私は思うので す。
 そして、認識の場合とおなじく、人間が感動するというのは、コスモスの心を持った部分がコスモスの他の部 分を見て・感じて感動するということです。
 私の心において、コスモスがコスモスそのものに感動しているのですね。
 とすると、「人間はコスモスの自己感動器官である」という結論が自然に導き出されます。
 私は、このことに気づいた時、まさに感動しました。
 「そうか、私はコスモスが自己感動するために心を持ったコスモスの一部として存在しているのかもしれない ぞ!」と。
 それ以来、人間は何のために生きるのかという問いには、まず「感動するため」と答えることにしています(も ちろんそれだけではないのですが)。
 感動するためにこの世に生まれてきた私というのは、なかなか素敵ではありませんか?






「よりよい」あるいは「まし」なコスモロジー?
2006年07月14日


 私は、「思想の自由」ということを相当に尊重しています。
 ですから、私の発言はいつも提案やお勧めであって強制ではないつもりです。
 しかし、なぜか強制に感じる方もあるようです。
 それは、一つはつながり・重なりコスモロジーの圧倒的な説得力によって、それまで自分が考えてきたことを 全部否定されるように感じるからかもしれません。
 もう一つは、「強くお勧め」しすぎて、強く制しようとすること=強制に感じられてしまうのかもしれません。
 後のほうは、私の責任です。失礼。
 前のほうは、私の責任ではありません。
 さて、それについて、ここのところいただいているコメントへの返事のコメントですが、ネット受講生のみなさん と共有したいので、本文欄で書きます。
 まず、「自分の考え」は「自分そのもの」ではない、のではないでしょうか?
 考えは、いろいろ変わるもの、変わっていいもの、場合によっては変えたほうがいい、条件付で変えなければ ならないものだ、と私は考えています。
 認識、知識、体験等々が変われば当然変わります。
 生まれた時から、完全な、絶対に正しい考えを持っている人など、この世には存在しないでしょう。
 人間(とその考え方)は、生まれてから死ぬまでずっと不完全なものだと思うのです。
 だから、成長につれて変わっていいのです。
 それどころか、幼くて、不完全で不正確な考え方をしていて、ちゃんと生きていくのに不都合がある場合は、 変えたほうが当人のためにも、まわりのためにも、いいでしょう。
 さらに、歪んでいて、倫理的あるいは法律的に他者に迷惑をかけ、かつ自己破壊的になるような考え方の場 合、まわりに対する責任、自分自身に対する責任として、変えなければならないと考えられます。
 自分のこれまでの考え方を大切にするあまり、自分自身のいのちとまわりの人のいのちを大切にできなくな るとしたら、それはいわゆる「本末転倒」ではありませんか?
 つながり・重なりコスモロジーは、現代科学の標準仮説をベースにしているので、順を追って体系的に学んで いただくと、圧倒的な説得力が感じられると思います。
 ということは、これから圧倒的多数の人間の合意点になる可能性もきわめて高いということです。
 つまり、これからの世界平和のための人類的合意ラインになりうるのではないかということです。
 その上、自分と他の人々、そして世界のすべての存在をきわめて肯定的に捉えることができるようになりま す。
 だとすれば、これを採用しないという手があるでしょうか?
 強制に感じたりするお気持ちもよくわかりますが、できたら、心情的な抵抗感をご自分で克服していただい て、〔絶対でも完全でもないけれども〕自分と他者のために、「よりよい」あるいは「まし」だと思われるコスモロジ ーを採用していただくといいのではないでしょうか?
 でも、もちろん、最終的にはみなさんの思想の自由・選択の自由です。
 私は――半分残念ながら――人間には自分にもまわりにも不都合・迷惑・有害な考え方であってもこだわり 続ける権利――あるいは抜き難い傾向――があって、それはなかなかどうにもならないな、と感じています。






コスモロジー教育の効果、改めて実証
2006年07月20日


 2大学計3学部の授業がすべて終わりました。
 前期末のアンケートの最後の質問項目「授業をうけたことによって、人生観・世界観にプラスの変化があった と感じていますか」に対して、以下のような答えがいくつもあがってきました。
 コスモロジー教育=コスモス・セラピーの臨床効果としては例年のとおり確認された、ということですが、やは り改めて教えてよかったと喜んでいます。

 この授業は人間を変える力を持っています。 (3年男)

 超ネガティブ人間の私が人生をわくわくしながら楽しめていることに自分でびっくりです。そのくらい人生 について考え方が劇的に変われました。
 今の方が楽しいです。どうもありがとうございました。 (3年女)

 これからもこのような授業が増えていけば、もっともっと多くの人たちが幸せになり、そして生きていく意 味を考えることができると思います。 (3年男)

 人生観が変わった。 (2年男)

 自分の存在を肯定的にとらえることができてうれしいです。 (2年女)

 他の講義にはない「認識」や「考え方」を学べる授業で毎回新しい発見がありました。授業も工夫されて いて飽きることがありませんでした。何よりもこの授業のおかげで新しい前向きな考え方ができるように なったと思います。 (4年男)

 8くらいプラス。誰かに伝えたい。 (4年女)

 プラスもプラス。でもたまにへこむから、そういった時は、この授業を思い出す。 (3年女)

 こんな風に人生をとらえることはなかったです。新しい出会いに感謝します。 (4年女)






つながりの心を育む
2006年07月27日





 永平寺に行ってきました。
 永平寺で、道元禅師の思想のエッセンスは「一顆明珠」だと言わせていただきました。
 これは、私にとっては画期的に名誉なことです。
 そして、90人ほどの、その90%くらいは若い、保育園・幼稚園の先生に、以下のような投影画像を見ていた だきながら、以下のレジュメのようなコスモロジー教育の話をさせていただきました。
 朝3時から起きて研修を受けているみなさんの中には最初は眠そうにしている方もいましたが、ワークになる とすっかり元気になって、楽しんでくださったようです。
 きっと彼女たちは、たくさんの曹洞宗のお寺の付属幼稚園・保育園で、子どもたちに「つながりの心」を伝えて くださるでしょう。
 そうしたら、コスモロジー教育が、子どもたちにいのちの意味を伝える上で、大学から幼稚園・保育園までの 年齢層すべてに有効であることも実証されることでしょう。
 二重に楽しみです。







   「つながりの心を育む」 要旨

 2006/07/26 於 福井県・大本山永平寺
 曹洞宗保育連合会・第53回保育研修大会
 サングラハ教育・心理研究所主幹 岡野守也

 コスモロジー教育は仏教教育の現代版

 コスモロジー教育=コスモス・宇宙とのつながりを伝え、実感させることによって子どもを元気にする教育。

 現代科学と仏教の教えはとてもよく一致している。

 20世紀初め、ハッブルという天文学者が銀河同士が遠ざかっていることを発見→宇宙が拡大している→時 間を遡ると宇宙は今より小さかった→今から137億年前、宇宙は限りなく小さかった(10の−34乗cm)。小さ すぎて物質の大きさではなくエネルギーだった。エネルギーのいちばん典型的なかたちが光。

 →1947年、ガモフという科学者が宇宙は限りなく小さいエネルギーの玉が大爆発的に広がって百数十億年 たったら今の大きさ・すがたになったという説「ビッグバン仮説」を唱えた。

 最初一つだったものは、どんなに拡大しても今でも一つ。エネルギーとしては宇宙のすべてが一体である。

 道元禅師の教えの中心も、「尽十方界一顆明珠(じんじっぽうかいいっかみょうしゅ)」つまり宇宙のすべての ものは「つながって一つ」ということ。

 お釈迦さまの教えの中心も「縁起」つまり「つながり」ということ、さらにすべてがつながりあっていて結局は一 つということ=「一如」。

 切れる子どもたち

 相手との肯定的なつながり感が切れている。
 今自分がこうしたら後でどうなるかという時間的なつながり感も切れている。
 今の、自分だけの感情で動いている。

 リストカット(手首を切る)をする若者

 自分のことを心配してくれているまわりの人とのつながり感が切れている=孤独感。
 自分の未来への希望を見失っている=肯定的なつながり感が切れている。

 つながりを見失うと心の病、再発見すると健康に

 現代の心の病のほとんどが、〔肯定的な〕つながりを見失っているという原因で、他者か自分かどちらかを否 定するという結果になっているものと見ることができる。

 つながりを再発見すると、自分も他者も肯定できるようになり、元気になる。

 心理的に健康ないい人生の基礎として、つながりの大切さと楽しさを伝えていただきたい。それは、心の健康 教育であり、切れたり、自殺したりする子どもを生み出さないための予防教育でもある。

 コスモロジー教育は幼児にも適用できる

1)他者との肯定的なつながり感−一体感
○スキンシップの遊び
○自分のいいところさがし、ともだちのいいところさがし→さがしたいいところを認めあう=ほめあう

2)自然との肯定的なつながり感−一体感
○空気とのつながりを感じるワーク
○水とのつながりを感じるワーク
○食べ物になってくれる動物や植物とのつながりを感じるワーク
○大地とのつながりを感じるワーク
○太陽とのつながりを感じるワーク

*これらは、まだまだ工夫中ですし、もっともっとたくさんの方法が工夫できると思います。おそらくこれま で幼児教育でやってきたことの多くが、「つながり・一体性の実感」というところに特に焦点を当てていけ ば、そのままコスモロジー教育=現代の仏教教育になると予想・期待されます。ご一緒に工夫していける と幸いです。

参考図書:岡野守也『生きる自信の心理学――コスモス・セラピー入門』(PHP新書)
       〃 『道元のコスモロジー』(大法輪閣)
参考ブログ:「伝えたい!いのちの意味――岡野の公開授業」(http://blog.goo.ne.jp/smgrh1992/)特に 2005年10月5日以降の記事






コスモロジー教育で心はすっきり晴れやかに
2006年07月28日



  *越前の山々


 今年はいろいろ工夫して学生数を絞ったので、去年ほどではありませんが、それでも相当な数のレポートを 読まなければなりません。
 というわけで時間を取られブログのネタが思い浮かばないのと、やっぱりご紹介したくなったのとで、毎度おな じみですが、学生たちの声をお伝えします。



 前期こういった話を聞いてきて、今までにないような気持ちになりました。どう表現すれば良いのかよく わかりませんが、心が晴れたというか、壁が崩れたというか、自分の中の世界が広がったような感じをう けました。世の中の全てのものはつながっている、全ての事が起きることはつながりがあるからだ、とい うのはなぜか安心するというか、気が楽になるような印象をうけました。このおかげで自分がなぜここに 存在するかも考えられるようになり、またその意味も少しずつわかるようになれてきていると思います。ま た、他の「人」だけでなく、地球上全てのものに対する見方も少し変わったと思います。今まで自分の中に 全てのことに対する納得がいかなかった部分というか、嫌になってしまうということころがあったのです が、物事の考え方が少し広くなり、自分なりに納得できるようになってきていると思います。地球や宇宙に ついて興味が出てきて、自分で本を借りたりして勉強しています。
 今まで受けたことのない感じの授業だったので、本当に新鮮で楽しかったし、自分の実になりました。
 後期もよろしくお願いします。(2年男)

 ……授業を受けた後に何というかこの心が軽くなり安らぐというか、言葉では表しきれないすっきりとし たすがすがしさを感じています。…… (2年男)

 ……「全宇宙と私の一体性」」の思想を授業で学び、なんというか言葉では表せない心地よさを感じまし た。正直に感動できたのは、それがなんら科学的にも矛盾することのないものだからだと思います。…… あらゆるものと、「つながり」を感じながら生きるということはとても素敵なことであり、大変心地良いです。 ……(2年男)

 ……宇宙も自分も昔は1つのもので、今も1つなんだということに気付けることがこんなにも素晴らしい ものだとは、思ってもみませんでした。そのことによって意味のないものなんてない、すべてのものに意味 があると思えるようになり、なんだか心の中がスッキリ晴れやかになった気がします。……(2年男)

 前期の授業を受けただけだが、なんとなく生きる希望が見えてきた気がする。この授業を受ける前は、 ただなんとなく生きて、なんとなくバイトして、なんとなく学校にきていた。しかし、先生の授業を受けるたび に、「宇宙誕生」の話しや「仏教」の話を聞いて、少しずつ僕たちがなんのために生きているのか分かっ てきた。後期の授業もしっかり出て、「生きる」とはなんなのか? 誰かに伝えられるようにしたい。(2年 男)



 何人もの学生が特徴的な感想を述べています。
 「心が晴れた」「安心」「気が楽になった」「心が軽くなった」「安らぐ」「すっきりとしたすがすがしさ」「心地よい」 「スッキリ晴れやかになった」……。
 これは、理論的納得が実感に変わった、ヘッドからハートへという深まりだと捉えていいでしょう。
 「生きる希望が見えてきた」というのは、コスモロジー教育の目的がみごとに達成できたということだと評価し ていいと思います。
 学生たちも「誰かに伝えられようにしたい」と言っています。
 ネット学生のみなさんも、ぜひ、伝えてください。






君も星だよ
2006年08月16日





 先日、小学校の養護の先生をしておられる方から、勤務しておられる学校では、7月毎日、「コスモス」という 歌を歌っていて、子どもたちはその歌が大好きなのですが、でも意味はよくわかっていないと思います、というメ ールをいただきました。
 そして、小学校の子どもたちにもわかりやすくコスモロジーについて話したいのですが、どう説明すればいい でしょうか、という問い合わせをいただきました。
 コスモロジーは、まだ大人・大学生版から中高生版までで、小学生用、幼児用はこれからですが、とりあえ ず、こんな工夫をしてみたら……とお答えしておきました。
 逆にお願いして、歌詞を教えていただいたのですが、こんな歌があるとは知りませんでした。
 もう、まるでコスモロジーですね(あえていえば、さらに内面の象限が必要ですが)。
 以下、ご紹介します。
 みなさんの中に、すでにご存知だった方がいらっしゃいますか? 当然 遅れてる 知らなかったの? という 声が聞こえてきそうです。
 (最近(2010.5.17) You-tube で検索したら、何種類も聞くことができました。)
 近々、楽譜も送ってくださるそうなので、楽しみにしています。



   COSMOS
                作詞作曲 ミマス

夏の草原に 銀河は高く歌う
胸に手をあてて 風を感じる
君の温もりは 宇宙が燃えていた 遠い時代のなごり
君は宇宙 百億年の歴史が 今も身体に流れてる
光の声が天(そら)高くきこえる
君も星だよ みんなみんな
時の流れに 生まれたものなら
ひとり残らず 幸せになれるはず
みんな生命を燃やすんだ 星のように 蛍のように
光の声が天高くきこえる
僕らはひとつ みんなみんな
光の声が天高くきこえる
君も星だよ みんなみんな



 こんな歌を歌って、しかもちゃんと意味も学んで育った世代は、どんなふうになってくれるのでしょう。
 私の大学での教え子たちが「コスモス・ジェネレーション」と自称していますが、この小学生たちは、正真正 銘、子どもの時からの「コスモス・ジェネレーション」になってくれそうですね。
 とても楽しみです。






コスモロジーを伝えても元気にはならない?
2006年08月19日


 去年の8月20日からこのブログ授業を始めました。
 ちょうど丸1年です。
 このブログとほぼ同じ内容のつながり・重なりコスモロジーの授業をすると、学生の中から必ずといっていい ほど出てくる、いくつかの典型的な質問があります。
 ネット学生のみなさんにも、たぶん同じような疑問・質問のある方がおられると思いますので、少しずつお答え していきたいと思います。
 典型的な質問の一つは、「この授業を受けて、私は元気になったんですが、今すごく落ち込んでいる友達に 伝えても元気にはならないんじゃないでしょうか?(あるいは、元気になりませんでした)」というものです。
 これは、かなりの程度そのとおりというほかありません。
 コスモロジー教育=コスモス・セラピーは、どちらかというと「予防志向」の方法で「治療志向」の方法ではあり ません。
 (この言葉は、小澤徳太郎先生がスウェーデンの環境政策と日本の環境対策との違いについて使っておられ るものを借用しました。)
 落ち込み−自信喪失−うつ状態というのは、ある程度続くと「心の癖」、さらには「アイデンティティ」「パーソナ リティ」にまで固着してしまいがちです。
 私の臨床的な経験からすると、いったんアイデンティティにまで固着してしまうと、落ち込んでいる私=私とい う心理状態になり、元気になると私が私でなくなってしまうような気がして、元気になりたいのになりたくないとい うアンビバレンツな状態になる人が多いようです。
 そうすると、コスモロジーを伝えて元気にしようとしてくれることが自分のアイデンティティを攻撃されることに思 えて、素直に受け容れることができなくなるのです。
 そういう状態になっている人に、コスモロジーをすぐ直接伝えても効果はないどころか、逆効果のことさえあり ます。
 ここで詳しい臨床心理学的な手順を書くことはできませんが、落ち込みが癖−アイデンティティになっている 人には、まずそのままの状態を受け容れるというアプローチから始める必要があります。
 そして、相手が十分受け容れられたと感じた(とこちらが感じる)段階になってようやく、「でも、元気になりたい んだよね? 元気になりたいのなら、お手伝いしたいと思うけど」というアプローチを始めることができます。
 そのための方法としては、私はアドラー心理学、論理療法、フランクルのロゴセラピー、サイコシンセシス、そ してコスモス・セラピーなどを総合的に使っています。
 つまり、コスモロジーは、いつでもどんな心理状態の人にでも有効というわけではないのです。
 しかし、その人と、予めかなり深い心のつながりができていて、その人の落ち込みが固着化していない段階な ら、心を込めて伝えるとうまく伝わり、元気になってもらえることも少なくありません。
 「コスモロジーは、残念ながら万能薬じゃないんだよね。でも、友達の状態をよく見て、うまく伝わりそうだった ら、伝えてもいいんじゃないかな。ダメそうだったら、他の手を考えるといいね」というのが、そういう質問をした 学生への私のアドヴァイスです。
 それから、一般的には、多くの心の病がつながりを見失ったことから起こるという事実を見ると、心理的健康 のための予防策として、できるだけたくさんの子どもに、できるだけ早くからつながりコスモロジーの教育をした い、というのが長年にわたる私の切実な願いです。
 ネット授業を受けて共感してくださったみなさん、ぜひ、一歩進んで、コスモロジー教育を広める運動に参加し てください。






人生の有限性と決断
2006年10月13日





 無常ということは、人生の持ち時間は有限ということだよ。
 どうでもいいことやつまらないこと、ましてよくないことで浪費していいような人生の時間なんてないんだよ。
 できるだけ、大切なことを学ぶために時間を使わなければね。
 ……という話を、しばしば授業でします。
 世界に溢れている情報は膨大で、そのすべてを収集し検討して、絶対にまちがいのないこと(真理)を掴んで から、その後で人生のシナリオを決める、というふうなことは、与えられた持ち時間の有限な私たち人間には、 残念ながら不可能です。
 情報をできるだけ広く公平に、そして必要な時には深く、収集してから、しかしすべてを知っているわけではな いという状態のまま、どこかで決断するほかありません。
 いのちの意味についても基本的にはおなじです。
 私たち人間は、言葉(ロゴス)によって世界・宇宙(コスモス)がどういう仕組みになっているかを体系的に捉え ることなしには、安定・安心して生きていくことができません。
 しかし、宇宙に溢れている全情報を収集し解析して、それから絶対的・最終的コスモロジー(世界観)を描く= いのちの絶対的意味を知るなどということは、かつても、今も、これからも不可能でしょう。
 今の段階の自分の知識で、確からしいと思うコスモロジーを、決断して採用しておくほかないのです。
 そのうち絶対的・最終的結論に到達するのではないかという漠然とした気持ちで、情報収集をし続け、コスモ ロジーについて決断を留保し続けているかぎり、心も生き方も安定した方向性を得ることはできません。
 まちがっていると思ったら、そこで改めるつもりで、「しかし今はこう考えておくことにする」という決断が必要な のではないでしょうか。
 その場合、理性的・科学的に妥当性があり、しかもいのちに意味があると思わせてくれるようなコスモロジー を採用しておくのが、いちばん賢いのではないでしょうか。
 もちろん、たとえ一応であれ採用を決断するまで、一定の検討の時間は取っていいのですが、無限に引き延 ばすことは不可能です。
 なるべく若いうちに一応の結論を出しておいたほうが、人生のシナリオ・方向性を決められるので、そのほう が望ましいですね。
 もちろん、決めるのはみなさんです。
 ……というふうなコメントを、コスモロジー授業の中で、時々しています。






コスモロジーの移行に伴う危機
2006年10月14日





 つながりコスモロジーや唯識を伝えると、いくつか特徴的な反応があります。
 その中でも、最初の頃、私には不思議だと思えた反応のタイプがあります。
 それは、「こういう考え方を受け容れたら、私が私でなくなってしまうような気がする」、「今までの私って何だっ たんだろうと思ってしまう」というものです。
 それまでのものの考え方・コスモロジーでは、人生がむなしく感じられたり、落ち込みがちだったりしていたの に対し、新しいコスモロジーだと、人生が輝いて見えてきたり、元気が出てきたりするのだから、取り替えたほう が自分のためなのはわかりきったことなのに、と思ったのです。
 しかしやがて、これは臨床心理学的な目で見れば、十分ありうることだ、ある意味では当たり前だといっても いいくらいだということに気づきました。
 私たちは、自分なりの世界観・コスモロジーをもたないでは生きていけません。
 たとえ、それが自分をむなしくしたり、落ち込ませたりするものであっても、それがあったお陰で何とかここま では生きてこられたわけです。
 「死にたい」と思わせるものであっても、それでも自分を自分らしく生きさせてくれる、いわば人生のシナリオ、 ライフスタイル、アイデンティティだったのです。
 それを新しいものに取り替えるということは、それまでの自分を曲がりなりにも支えていたものを手放すという ことです。
 つまり、むなしかった人がむなしくなくなるには、ケースによって、大変なアイデンティティの変更・移行が必要 になるのです。
 アイデンティティの移行には、しばしばアイデンティティ・クライシス(自己同一性の危機、自分が自分でなくな ってしまうのではないかと感じる心理的な危機)が伴います。
 転居、転職、失職、老齢化などにはアイデンティティ・クライシスがありがちだということは知っていましたし、 場合によっては昇進などまわりからはいいことに思えることにさえクライシスがありうることも知っていました。
 しかしうかつなこと、コスモロジーが否定的なものから肯定的なものに移行する時にもクライシスがありうるこ とは予想できていませんでした。
 けれどもよく考えてみれば、コスモロジーはアイデンティティのさらに基盤にある心の支えのようなものですか ら、コスモロジー・クライシスがあっても不思議ではなかったのです。
 そこに気づいてから、次のように対処するようになりました。
 「それはそうでしょうね。今までそういう考え方で生きてきたんですものね。自分の考え方=自分だとい う気がして当然ですよね。
 ……でも、自分の考え方って自分(そのもの)ですか?
 考え方って、体験や状況や成長などで変わるものだし、変えられるものですよね。
 考えが変わったからといって、自分が自分でなくなったりしますか?
 今までの自分ではなくなりますけど、これからの自分も自分ですよね。
 そもそも自分って変わるもの、成長したりして変化するものなんじゃないですか?
 例えばお母さんのお腹の中にいた頃のあなたと、今のあなたでは、まるで別の生き物くらいに変化・成 長してますよね。
 それでも、あなたはずっとあなたでしょう?
 つまり、自分というのは、変化するもの、変化していいもの、変化するしかないものですよね。
 変化すると、どうしても最初はとまどいますけどね、でもすぐに慣れるものでしょう?
 で、選べるとしたら、いい方に変化したいですか、悪い方に変化したいですか?
 今までの自分のままでいて、ずっとむなしいのと、これからの新しい自分に変わって元気になるのと、ど ちらがお好きですか?
 これまでの私って何だったんだろう? ですか? むなしかったけど、でもガンバって生きてきた私だっ たんじゃないですか?
 ガンバって生きてきたことはちゃんと評価してあげて、それから、でもずっとむなしいのは嫌だからやー めたっ!と。
 それで、これからは変化して元気でガンバれる私になればいいんじゃないでしょうか?
 コスモロジーを取り換えるだけですべてオーケーになるわけではありませんが、それにしても、これまで のばらばらコスモロジーを信じたままのあなたと、つながりコスモロジーを採用するあなたと、どちらが元 気になれそうですか?
 そう、つながりコスモロジーを採用したあなたのほうが元気になれそうですよね。
 だったら、コスモロジーを換えてもいいんじゃないでしょうか? というか、換えたほうがいいんじゃない でしょうか?
 もちろん、最終的に決めるのはあなたですが。」
 実際のカウンセリング―納得のプロセスはこんなに直線的にすんなりとは行きませんが、紆余曲折しながら も、最終的にはこういうところに行き着くことがほとんどです。
 直接授業を受けたり、まして相談に来ていただいたりできないみなさん、読んで参考にして、ご自分の納得の プロセスに取り組んでみて下さい。
 もちろん、納得しない、却下するのもご自由です。






子どもの顔が輝やく時
2007年03月06日


 去年11月、30数年来の友人であるお坊さんの仲介で天台宗の布教師の研修会で「つながりの心を育む」と いう講演をさせていただき、とても好評でした。
 「みなさん、とても熱心に聞いて下さったようです。/これでまた、コスモス・メッセージ=生きる意味を伝えて 下さる方が増えるでしょう。」と書きました
 今日、その友人から、とてもうれしい便りが届きました。
 研修会に参加されたお坊さんの一人が、お伝えしたこと(コスモロジー教育のイントロダクション)をもとに、 「いのちの大切さ」について地元中学校で講演をされたのだそうです。
 まさに、コスモス・メッセージを伝えて下さる方が増えたわけです。
 友人がコピーして送ってくれたお寺の雑誌(『彌勒』第42巻、鳥取市青谷町紙屋、彌勒寺発行)に、その報告 が書かれており、子どもたちの感想も掲載されていました。





 子どもたちの反応は、感動的です。
 1つだけ引用させていただきます。

 今まで考えたことないけど、当たり前のことが大切だったんだなぁと思いました。気付いたことを将来に つなげたいなぁと思いました。最後のまとめの言葉で「生きている それだけで素晴らしい!」っていうの がすごくかっこよかったです。今日学んだことを生かして生きていければいいなぁと思います。将来の夢 への目標が広がったような気がしました。

 講演の最後について、著者はこう書いておられます。

 生徒達の顔は1時間前に見た顔とはあきらかに違って見えました。なにかを悟ったような、なにかが流 れ始めたような、そんな顔に見えました。教室の中が明るく温かく感じました。私は生徒達の顔に「仏性 のかけら」のようなものを見た気がしました。

 子どもたちの顔の輝きは、まさに仏性の輝きです。
 子どもたちの顔の輝きも、それを引き出された、このお坊さんの真心=仏性からのお説法もすばらしいと思 いました。
 さらにすばらしいと思ったのは、生徒たちに自分の長所を書き出すというワークをしてもらって、最後に「皆さ んが自分の長所を書いたこの紙はお寺に大切に納めておきます。これから先、自分に自信がなくなったり、自 分の事がわからなくなったらお寺を訪ねてきて下さい。そして自分が今日書いた紙を見て、自分自身を見つめ 直して欲しいと思います」と言われたということです。
 これは、地元のみなさんとお寺を本来のもっともいいかたちで結び直す、新しいかたちの「過去帳」の試みと いっていいかもしれません。
 つながり=縁起の心=コスモス・メッセージを伝えていただいたことはもちろんですが、このアイデアにもとて も感動しました。

 友人からの便りには、加えて1枚のCDが同封されていました。
 私が『サングラハ』の最新号で、「現象としての仏の生滅、去来と、本質としての不生不滅、不来不去を、百済 の琴の音に譬えた個所ですが、譬えがとても美しくて印象に残ったので、ご紹介しようと思いました。/ところ で、かつて正倉院御物の箜篌(くご)が復元―複製され、音も復元―演奏されたという新聞記事を読んだ記憶 があります。その時も、どんな音がするのだろうと思いましたが、機会がなくてそのままです。いつか聞いてみ たいものです。」と書いたのを読んで、その復元された箜篌のCDを送ってくれたのです。
 その古代と現代の融合した不思議な音を聞きながら、この記事を書いてます。





 それにしても、持つべきものは善き友です。






コスモス・セラピーの必要性と根拠
2007年04月07日


 木曜日の藤沢の講座「コスモス・セラピー」が始まりました。
 初回は3名の少数精鋭でした(2回目からはもう少し増える予定ですが)。
 序論として、次のようなことを話しました。
 西洋の心の歴史としていえば、心理療法(サイコセラピー)は伝統的・神話的なキリスト教が信じられなくなっ た結果、心を支え癒すものがなくなり、その代案として生み出されたものです。
 しかし、ふつうの心理療法は、基本的には近代科学的な合理主義をベースにしているので、「なぜ、楽しくなく ても・苦しくても生きなければならないのか」、「死んだらすべては無になり、空しいのではないか」といった人生 の根本的な問い(ビッグ・クエスチョン)への答えはありません。
 そうした中で例外的にフランクル心理学は、科学−医学の枠ぎりぎりのところでその答えを示そうとするもの ですが、あえていえば、やはり絶対の答えを出すことはしません。
 そしてフランクルは、ユダヤ教の信仰をもっていて、そこに自分自身の答えを見出しているようです。
 確かに、近代の科学は神話的な神を否定するものですし、そういう意味で絶対なものを語ることはできませ ん。
 しかし、幸いにして20世紀の境目あたりから科学は大きなジャンプを遂げていると思われます。
 すなわち、現代科学の各分野の大きな合意をつなぎあわせると、科学的な言葉で宇宙と私たちの一体性を 語ることができるようになったのです。
 つまり、かつての神話的な宗教のような固定化され自己絶対化の傾向の強いものではなく、あくまでもかなり 確実な仮説ではありますが、それをベースにある種の「絶対なるもの」、個人を超えた「大いなる何ものか・ Something Great」を語ることができるようになったのです。
 コスモス・セラピーの必要性と根拠は、そういうところにあります。
 広く合意された現代科学の考え方をベースに、生きる意味と倫理の根拠についてかなり広い合意が可能にな りそうな、そして柔軟でありながら確実な、世界観・人生観・価値観のセット=コスモロジーを語ることができる のです。
 近代科学の標準仮説を信じ込むと必然的にニヒリズムになり、現代科学の標準仮説を採用するとニヒリズム には陥りようがないのではないか、というのが結論でした。
 さらに、そのことを現代科学の主要な5つのポイントをあげてお話ししました。
 参加された方は、とても深く納得してくださったようでした。
 次回からは、宇宙137億年の歴史の流れを大まかにたどりながら、そのすべてが私につながっていることを しっかりと確認し、実感する学びをしていきます。






銀河瞑想
2006年10月19日


 ゴータマ・ブッダの弟子たちの言葉を記した『テーラーガータ』というお経があります。
 そのなかに、こんな言葉がありました。
 「きらめく星の花環は、さしあたって〔われわれが〕眠るためにあるのではない。こうした夜は、識見ある人が めざめて努めるためにあるのである」
 美しくて深い言葉です。
 夜の坐禅を「夜坐(やざ)」といいますが、古代インドの修行者たちの夜坐は禅堂の中や僧堂の縁側などでは なく、まったくの野外で行なわれたそうです。
 他に明かりなどまったくない深い闇の上には、数え切れない星々がきらめいていたのです。
 そのかすかな星明りをたよりに、修行者たちは、お互いに離れて思い思いの場所に一人で行き、深く深く禅 定に入っていきます。
 夜が更ければ更けるほど、禅定も深まっていったことでしょう。
 夜空の星も冴えわたり、修行者の心も冴えわたっていきます。





 私もワークショップの時に行なったりするのですが、満天の降るような星空の下で、夜遅くまで瞑想に耽って いると、心の中がいいようもなく爽やかで透明になっていきます(時には妄想が湧いてくるだけの時もあります けどね)。
 そういう自然の中に行けなくて家の中にいる時には、今坐っている自分の頭上にも実は銀河がきらめいてい るのだ、というイメージ瞑想をすることがあります。
 そういう瞑想法を私は、「銀河瞑想」と呼んでいます。
 銀河瞑想をしたりしていると、ふと、「坐禅は大安楽の法門」という言葉を思い出すことがあります。それもま た、雑念の一種ではありますが。






宗教同士なのになぜ戦争をするのか?
2006年10月26日


 「宗教は愛とか慈悲ということを教えているはずなのに、どうして宗教同士で戦争をするんでしょう?」
 宗教についての授業や講演をしていると、非常にしばしば出される質問です。
 先日の授業の後、学生に書いてもらった授業への感想・質問の文章にも、おなじような質問がありました。
 思わず、「テキストの24ページ以下の『〈宗教〉には未来はない』のところを読んで下さい。テキストは買ってあ りますか?」とコメントを書きたくなって、今年は『コスモロジーの創造』(法蔵館)をテキストにしていなかったこと を思い出しました。
 なので、ポイントを引用しておくことにします。

 「まず明確にしておくと、未来がないという〈宗教〉とは、みずからの派の教祖―教師、教義、教団、儀 式、修行法などの絶対視、つまり言葉の悪い意味での『信仰』と『服従』を不可欠の条件として、人を富や 癒しや調和、生きがい、安心、あるいは救い、死後の幸福な生命、悟り……といった肯定的な状態へ導 く(と自称する)システムとグループを指す。
 これには……私の知りえたかぎりでの大多数の既成宗教、新宗教、新新宗教が含まれる(「すべて」で はない)。……そしてこれには、一見非宗教的であっても、自己絶対視の体質を抜けられない〈イデオロ ギー〉をも含めるべきだろう。」
 「何を根拠にしようと、自己絶対視は、かならず人を敵と味方に分断する。敵を生みだす思想は、かな らず敵意を生み出す。  自己を絶対とみなしている宗教やイデオロギーにとって、自己の味方でない他 者は、せいぜい布教し、改心させる(時には洗脳する)対象ではあっても、そのままで認めうる存在では ない。そして、いくら布教しても信じない他者は、哀れむべき存在であり、それにとどまらず、布教に反対 する者は憎むべき呪われた存在とみなされることになる。
 事と次第では、神(人類、人民、民族、国家、正義、真理……などに置き換えてもおなじことだが)に反 する者は、神に呪われたものであり、したがって神に代わって我々が殺してもよい、という結論にまで到 る。
 建て前上、「布教・説得はしても強制はしない」などと寛容な構えを見せても、自己絶対視は心情として いやおうなしに敵意、すなわち憎悪・殺意を含んでしまう。だから、寛容でありうるのは、集団がまだきわ めて小さいか、あるいは逆にかなり大きくなって余裕がある時のことであって、余裕がなくなると、とたん に敵意を剥き出しにする。
 しかも行き詰まると、「敵」は、外だけでなく内にもいるように見えてくる(「うまくいかないのはあいつのせ いだ」などと)。したがって、憎悪・殺意は、ほとんど必然的に、外だけでなく内にも向かう。」
 「その点について、『キリスト教の本質』(上下、船山信一訳、岩波文庫)などにおけるフォイエルバッハ の宗教批判の言葉は、古典的でいまさらのようだが、依然として日本の市民――特に七〇年代以後の 若い世代――の大多数の常識にはなっていない、どころかほとんど知られてもいないらしいから、改めて 引用しておきたい。……
  ……信仰そのものの本性はいたるところで同一である。信仰はあらゆる祝福とあらゆる善とを自分と 自分の神へと集める。……信仰はまたあらゆるのろいとあらゆる不都合とあらゆる害悪とを不信仰へ投 げつける。信仰をもった人は祝福され神の気に入り永遠の浄福に参与する。信仰をもたない人はのろわ れ神に放逐され人間に非難されている。なぜかといえば神が非難するものを人間は認めたりゆるしたり してはならないからである。そんなことをしたら神の判断を非難することになろう。(邦訳下、122頁)
  ……信仰は本質的に党派的である。……賛成しないものは……反対するものである。信仰はただ敵 または友を知っているだけであってなんら非党派性を知らない。信仰はもっぱら自己自身に心をうばわ れている。信仰は本質的に不寛容である。(同、126〜127頁)
 右であれ左であれ、人間に平和と幸福をもたらすと自称した思想が、なぜ憎悪と悲劇を生み出してきた のか。それは、絶対視された物差しによって、天国・ユートピアに入る資格のある者とない者の心情的な 絶対的分離=敵意をもたらすからである。自己を絶対視する思想としての〈宗教〉には、原理的にいっ て、人類規模の平和をもたらす力はない。そういう意味で、未来はないのである。
 もちろん、悲しいことながら、ここ当分人類は争い続けるだろうし、争い続けながらも生き延びている間 は、建て前として平和を叫びながら実際には平和をもたらせない〈宗教〉も生き延びるだろうし、そういう 意味でなら、まだしばらく宗教に未来はある(それどころか、現象的には、一時、宗教紛争、宗教戦争の 元になるような宗教の勢力はかえって増大するかもしれない)。
 しかし、繰り返すが、人類規模の平和な未来の実現ということからいえば、もはや宗教に有効・妥当性 はない、と思う。」

 〈コスモロジー〉というキータームを使って、言い換えてみましょう。
 他の生物のように生まれつきの本能によって外界を知覚するのではなく、言葉によって外界を認識するよう になった人間という生き物は、外界=世界についての言葉のまとまり、つまりコスモロジーなしには生きられま せん。
 過去の人類が生み出してきた呪術的・神話的宗教は、特定の人間集団が生き延びるためのコスモロジーで した。
 同じ呪術・神話を信じることによって、集団の合意が形成され、共通の目標に向かって協力することができた のです。
 当然、信じる者は集団のメンバーであり、信じない者は集団のメンバーではないのです。
 コスモロジーは、合意を形成し共通の目標に向かって協力することで集団が生き延びるためのものですか ら、これを信じるか信じないかは集団にとっては死活問題でした。
 まだ信じていないよそ者は怪しく感じられ、教えても信じようとしないよそ者は敵と見なされます。
 特定の集団にとっては合意−協力、つまり愛し合う根拠であるコスモロジー=宗教は、他の集団に対しては 無視し、敵意を抱き、敵対する根拠にもなりうる潜在的可能性をいつも持っていますし、状況次第ではいつでも 実際に現実化してきました。
 宗教の説く「愛」は、仲間に対してのみ有効で、外部に対しては敵意を生み出しかねないものだったのです。
 それは、とても残念ながら、「あなたの敵を愛しなさい」と教祖が語っているはずのキリスト教でも、歴史的実 態としてはかなりの程度、そうでした(です)。
 そういうわけで私は、「宗教同士なのに、どうして戦争するんですか?」という問いに対しては、「宗教同士だ から、戦争するんです」と答えることにしています。
 ただし、それは呪術的・神話的宗教のことで、理性・哲学的宗教や霊性的宗教は、つながりコスモロジーとい う点で現代科学のコスモロジーとも調和し、人間同士の永続する平和を実現するための合意ラインになりうる、 というのが私の考えです。
 詳しいことは、よかったら、このブログの過去の記事や、テキスト……に今年は指定しなかった『コスモロジー の創造』を読んでみてください。






人生は137億年ワン・チャンス
2006年11月01日


 今、菩薩のなすべき6つの実践方法・六波羅蜜について授業をしています。
 六波羅蜜の中に「精進(しょうじん)」という項目があります。
 それに触れて、こんな親父の説教をします。
 すべては時の中にあり、無常であり、時間はどんどん過ぎていって帰ってこないんだよ。
 無駄にしていいような人生の時間はないんだよ。
 だから、本当にするべきことを一心に真直ぐまっしぐらにやらないとね。
 そういう人生の過ごし方の姿勢を「精進」というんです。
 それに、きみたちは「輪廻」なんか信じていないだろうから……信じていてもかまわないんだけどね……そうす ると、人生はたった一回のチャンスということになる。
 それも、前期のコスモロジーを思い出して考えると、この、私の、人生は、137億年ワン・チャンスなんだ よね。
 だから、ぐずぐす、うだうだ、だらだらしている暇はない、そんなことをしたら、あまりにももったいない、と僕は 思うんだけどね。
 きみたちは、どう思いますか? と。
 考えてみれば当たり前の、しかし、今の若者があまりちゃんと大人から聞かされていないお説教だと思うの で、思いっきり直球で迫っています。
 ちゃんと反応してくれる若者も少なくないのは、うれしいことです。






リルケと星空
2007年03月29日





 先日、少人数の若者たちと、ワークショップ風の集いで箱根に1泊しました。
 今回は夜のおしゃべりをそこそこに切り上げるつもりだったのですが、またしても話に花が咲いて、結局、4 時でした。
 そこで、若者たちから、どういう小説や詩を読んできたのかという質問を受けました。
 自分が学んできたことだけでなく、味わってきたこと・感動してきたことを次の世代と共有できるというのは、と てもうれしいことです。
 世代間のギャップがあまりにも大きいと感じているので、これまでは主として比較的伝えやすい知識や論理で 共有できる世界を広げてきたのですが、感性の領域についても、私のほうから伝えようとしたではなく、彼らの ほうから興味を示してくれたことはとてもうれしいことでした。
 そこで語ったこと、語りきれなかったことを、少しずつ書いておこうという気になっています。
 さてまず、どういう詩を読んできたのかと問われて、その夜はリルケとフランシス・ジャムの名をあげました。
 リルケは、高校時代に初めて知って以来、ずっと折にふれて読んでいる詩人で、詩(和歌・俳句も含め)はず いぶんたくさん読んできましたが、全集をもっている詩人はリルケ(弥生書房版)とジャム(青土社版)良寛(春 秋社版)と宮沢賢治(筑摩書房版)の4人だけです。
 リルケには、不安を抱えた近代人的な感性の面と、コスモロジー的な感性の面が入り混じっています。
 コスモロジーが心に深く浸透してくるにつれて、リルケの近代人的な面にはやや共感が薄くなってきました が、しかし依然としてとても好きな詩人です。
 コスモロジー的な詩を1つ、引用しておきます。「ナルシス」(富士川英郎訳)という詩の一部です。

 星をいっぱいに鏤(ちりば)めたあふれるばかりの大空が
 私たちの憂苦のうえに輝いている ああ 泣くがいい
 枕の中へではなく 空に向かって。この私たちの泣いている
 この私たちの果てる顔のほとりから
 はやくも始まるのだ あたりに拡がっていきながら あの彼方へと
 さそう世界空間が。お前が彼方に向かって
 憧れわたるとき いったいその流れを
 遮るものがあろうか? 誰もいないのだ お前がとつぜん
 お前に向かって来る星たちの群の
 強大な流れと取り組むときのほかは。ああ 吸うがいい
 大地の闇を吸うがいい そして再(ま)た
 再た仰ぎ見るがいい すると軽やかな 顔のない深淵が
 上からお前にもたれかかって来るだろう ほどけた
 夜を孕(はら)んでいる顔が お前の顔を容れるだろう

 私たちが、いろいろ悩んだりしている時、星空を見て慰められる体験を、詩人は深く体験し、より深い言葉で 表現しています。
 「世界空間」や「軽やかな顔のない深淵」が、私たちの用語でいえば「大いなるなにものか・コスモス」を指して いることは言うまでもありません。
 そして、私たちは現代科学のコスモロジーを学んでいるので、ただのロマンチックな空想としてではなく、より 適切な現実の解釈として自分を「星の子」と捉えることができます。
 そういう意味では、私たちは書いたリルケ自身よりもより深くこの詩を味わうことができるという、とてもすてき で不思議な時代を生きているといってもいいでしょう。
 あえて野暮な解釈をすれば(詩を解説・解釈するというのは、いつも野暮だと思うのですが)、「軽やかな顔の ない深淵」「ほどけた夜を孕んでいる顔」つまりコスモスが、「お前の顔」つまり個人としての私を、「容れるだろ う」、絶対に肯定してくれています。
 コスモロジーを学んだ私たちは、そのことを科学的認識と詩的感性の両面から知って、深く元気づけられてか ら、ふたたび「私たちの憂苦」に取り組むことができるのです。






孫娘とのおままごととコスモロジー
2007年04月04日


 孫娘の相手をしながら、明日のコスモス・セラピーの講座の準備をしました。
 今日の主なメニューはおままごとでした。
 ばーば=かみさんが食事を作るのを見ながら、孫娘が「わたしもお料理したい」というので、色粘土をいろい ろにして、お料理ごっこ・おままごとをしたのです。
 心から楽しそうに遊び、安心しきって私やかみさんに甘えてくる孫娘の様子に、いのちのつながりということ と、心の絆ということを実感しました。
 宇宙137億年の歴史の積み重ねが、私のいのちと心になり孫娘のいのちと心につながり伝わっているので すね。
 137億年のどこがどうほんのわずか違っても、私とこの子はじーじと孫として出会うことはなかったわけです。
 そのことに気づくと、孫と遊ぶという平凡なことも奇跡的な出来事だと改めて思います。
 ビッグバンで宇宙が始まったから、今日のおままごとがある。
 銀河が創発したから、今日のおままごとがある。
 46億年くらい前に太陽系そして地球が創発したから、今日ここで孫娘と私がおままごとをすることができる…
 つまり、平凡な日常がそのまま宇宙的・奇跡的な出来事である、というのが私たちが生きている現実なので すね。
 だから、平凡な日々を大切に生きなければならない――論理療法風に言い換えれば、生きることが望ましい ――のだと思うのです。

 道徳を正式教科にするかどうか、成績の評価をするかどうかで、賛否両論、議論があるようですが、私は、そ れ以前にどういう内容を子どもたちに伝えるかが問題だと思っています。
 そしていうまでもなく私としては、いのちは宇宙的な奇跡でありだから絶対的に尊いということを子どもたちに 伝えたい、それこそがすべての倫理・道徳のベースである、と考えているのです。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所