目次
2007年11月28日








意識上の根本煩悩1:貪(とん)――過剰で不健全な欲望
2006年03月27日 


 意識には、残念ながら善の心だけではなく、煩悩の心も働いています。
 というか、ふつうの人間の心は煩悩だらけと言ってもいいくらいです。
 ちょっと反省心・慙愧の念のある方なら、「私の心はほんとうに煩悩だらけだなあ」という実感があるのではな いでしょうか。
 私たちは、マナ識の4つの根本煩悩から生まれる、意識上の6つの根本煩悩も抱えている、さらにそこから生 まれる20種類もの随煩悩がある、というのが唯識の洞察です。
 ここの部分は学んでいると、ガマの油売りの口上ではありませんが、「己の姿の醜さに脂汗がたらりたらりと ……」という気分になってきて、うんざりすることでしょう(私もそうでした)。
 が、ここがインフォームド・コンセントの頑張りどころです。
 「こういう症状がありませんか。あるとしたら、あなたは病気です」という、ちょっとショックな診断が下されます が、それはその後で「でも、ちゃんと治療すれば治ります」という話になっていくのですから。
 さて、538年または552年、日本に公式に仏教が導入されて以来、1400年以上経って、「煩悩」という仏教 用語は誰でも知っている日常の言葉になっています。
 そういう仏教のコンセプトが導入されたことによって、「煩悩だらけの自分」が自覚でき、慙愧の念が起こり、そ の結果、日本人のすばらしい国民性の1つである真面目さが育ってきた、という面もあると思います(儒教の影 響ももちろんあります)。
 しかし残念なことに、いろいろな事情があって、その「煩悩」という言葉が正確・厳密にはどういう意味なのかと いうことに関しては、日本人の常識になってきていません。
 それどころか、戦後の資本主義大量消費社会では、欲望の解放−追求こそ経済を活性化させるものとして歓 迎されてきて、いまや日本は欲望の氾濫・野放し状態だと言ってもいいくらいです。
 それに対する反動として、『清貧の思想』という本がベストセラーになったこともありましたが、所詮反動であっ て、社会全体はますます富の追求、「金持ち父さん」志向へと急傾斜しているようです。
 経済以外の分野でも、欲望の追求−充足こそ人生、煩悩があるからこそ人間らしい……と考えている人の数 が増えているように思えます。
 そういう状況の中で私たちが自分の価値観や生き方をどうするか考えるに際して、「善の心4」のところでお話 しした、過度で異常な「欲望」と適度で正常な「欲求」の区別はきわめて重要です。
 意識上の根本煩悩の第一にあげられている「貪(とん)・貪り」とは過度で異常な「欲望」のことを指しているの であって、適度で正常な「欲求」まで煩悩として否定されるわけではないのです。
 しかしとはいっても、人間の心の奥にはマナ識が働いているために、4つの根本煩悩によって意識がコントロ ールされてしまいがちだというのも確かです。
 特に我慢と我愛の心は、必要以上・過剰な自己防衛や自己顕示の欲望を引き起こしがちです。
 過剰な自己防衛・自己顕示欲があると、お金はさまざまな面で一定程度自分を守ってくれますし、お金があれ ば自分を飾るためのさまざまなものを得られますから、過剰・異常にお金が欲しくなってしまうわけです。
 我愛の心は、自分の快楽・快感・幸福への病的・過剰な執着を引き起こしがちです。
 そのために、性、財産、社会的地位、名誉といったものへの欲求も、自然な範囲を超えて過剰で不健全なも のになってしまいがちなのです。
 過剰で不健全な欲望・貪りの心を、どのようにして適度で健全な欲求・適欲の心に変えられるか、それが問題 です。

*人間と違って花は健やかで美しいですね。神田川沿いのレンギョウの花。






意識上の根本煩悩2:瞋(しん)――過剰で不健全な怒り
2006年03月28日





 唯識では意識上にも根本煩悩があるとしていて、前回の貪、今回の瞋・憤り、そして癡(ち)、慢(まん)、疑 (ぎ)、悪見(あっけん)の6つを数えています。
 学んでいくと、人間の心が抱えている深刻な問題を、よくもまあこんなにも正確に、徹底的に厳しく洞察したも のだと感心してしまいます。
 何度も言っていますが、ただこの話だけだったら嫌になってしまうほど徹底的です。
 しかし、それはきわめて正確な診断であると思えるので、したがってその次にくる治療法も信頼できると思える のです。
 マナ識は、自己を実体視し、それにこだわっていますから、自己防衛はしばしば過剰になりがちです。
 過剰な自己防衛は、自分の思い通りにすること、自分の利益、自分の面子などなどを脅かすものに対して、 過剰で不健全な怒りを生み出しがちです。
 さらには、自分を脅かすものには過剰に反応する潜在的な可能性をいつも抱えることになります。
 世界でいちばん大切な〔実体としての〕自分(とその物質的・精神的所有物)を絶対に守らなければならない、 それは自分の〔実体としての〕権利だ、と思い込んでいるわけですから、当然でしょう。
 根本煩悩としての「瞋」とは、そういう過剰な怒り、さらにはいつでも怒る潜在性があることをいう、と私は解釈 しています。
 そういう過剰で不健全な怒りは、自分にとっても他者にとってもきわめて有害で厄介なものだと思うのですが、 なかなかやめられません。
 しつこくかつ深刻な慢性病のようなものです。
 しかし、それは、実体ではなくても現象としてはありありと存在していて、絶対ではなくても相対的にはある権利 を守るための、適度で正当な自己防衛とは違うと思います。
 また実体ではなくても現象としてはとても大切な、社会正義を実現するための「義憤」というのはあっていいも のです。
 そういう健全で正当な怒りと不健全で過剰な怒りの区別をちゃんとした上で、しかしやはり、根本煩悩としての 「瞋・憤り」はぜひ治療−克服したいものです。
 それなくしては、世界から家庭そして個人の心に平和が訪れることはないでしょう。
 平和を望むのなら、瞋という心の病は治療しなければなりませんね(念のため、こういう「なければならない」 を、論理療法では「相対的、条件付きmust」と呼んで、絶対化されたmustと区別して認めています)。






意識上の根本煩悩3:癡(ち)
――コスモスの理への無知・無理解
2006年03月29日





 「癡」とは、縁起・空の理法についての無知、無理解、愚かさのことです。
 現代的に言い換えると、コスモスの理への無知・無理解といってもいいでしょう。
 自分が縁起・空の世界、宇宙の真っ只中に生きていながら、そのことを知らない、理解していないのです。
 自分が自分だけで自分としていつまでも生きていられるかのような錯覚です。
 これは、「無明」とほぼ同義語です。
 しかし、すでにおわかりのとおり、唯識の特長は、無明をマナ識における4つの根本煩悩とりわけ「我癡」と意 識における「癡」の2つに分けて捉えているところです。
 幸いにして、意識上の愚かさは本気で学べば比較的容易に克服することができます。
 しかし無意識に潜み強固なシステムになってしまっている「我癡」は、簡単には克服できません。
 さらにしかし、「簡単ではないが克服は可能である」というのが仏教の基本的メッセージです。
 この文章は、「克服は可能であるが簡単ではない」と前後を入れ替えることもできます。
 そして自分の言葉として、どちらの順序で言うかは選択の問題です。
 私は、とても幸運なことに、いい師やいい書物、とりわけ『摂大乗論』などに出会って、意識上の「癡」はかなり クリアできたような気がしていますし、坐禅そして六波羅蜜の実践を通して、マナ識の「我癡」もいくらかは浄化 できてきているかなと感じていますので、「簡単ではないが可能である」というほうの言葉をモットーとして採用し ています。
 可能だと思う一方、やっぱり今生で完成するのはなかなか、きわめて困難だろうな、とも思っていますが。
 それにしても、つながり−かさなりコスモロジーと仏教の学びのお陰で、「宇宙と私はつながってひとつ」、「す べてのものと私はつながってひとつ」という考え方は本気でそう思えるようになっています。
 本気でそう思いながら見ると、世界が輝いて見えるから不思議です。
 この季節、「宇宙が今・ここで桜として花開いている」と感じると、桜がいっそう美しく見えます。






意識上の根本煩悩4:慢(まん)――比較する心
2006年03月30日





 私と他の人とにははっきりと区別があります。
 私は私であってあなたではないし、あなたはあなたであって私ではない、という面は確実にあります。
 しかし深いところではつながって一つなのでしたね。
 ところが、マナ識は他と分離した実体としての自分があると錯覚しています(我見)。
 そしてそういう自分を依りどころ、頼り、誇りとしています(我慢)。
 さらにそういう自分に過剰に愛着します(我愛)。
 そのために、意識でも他と分離した実体的な自分がいると思っていますし、そういう自分を依りどころとしそれ に愛着して生きています。
 すると、なぜかどうしても――つまり意識による倫理的なコントロールが効かず――自分と他人を比較したくな り、人よりも自分が勝り、優れ、上にいたいという強い気持ちが生まれてきます。
 そういう、自分と他を比較し他より優越したいという心の働きを「慢(まん)」と言います。
 これは、分離して比較する心の働きがまずあり、その上で優越したいと思うわけです。
 ところが、比較した結果、どうしても優越していない、劣等だと思わざるをえないケースもしばしばあります。
 そうすると卑下する、落ち込む、劣等感に苦しむ……といったことになってしまいます。
 もちろん、優越していると思うと、たいてい傲慢になり、横柄になり、人に嫌な思いをさせ、実際いろいろ迷惑 をかけたりします。
 他者と自己とを分離した上で比較する心・慢は、自分をも人をも煩わせ悩ませる、まさに「煩悩」ですね。
 優越感と劣等感のアップダウンというのは、とても不毛な、しかしあまりにもありふれたふつうの私たちの根本 的な悩みです。
 この煩悩は、必死になって人と競争し、足を引っ張り合いながら、優越性を追求するというやり方ではなく、人 と自分とはほんとうは一つなのだから、上も下もない、比較できない、する必要はないということに、深く気づくこ とによってのみ根本的に解決される、と仏教は教えています。
 「そうは言っても…理屈はそうだけど…」という気のされる方、よかったら2つのことを考えてみてください。
 まず、間違いなく「理屈はそうだ」と思えるかどうか、です。
 そして、「確かに理屈はそうだ」と思ったら、実感や納得は後にして、ともかく理屈はそうだと確認するといいの ではないでしょうか。
 それから、なぜ、実感や納得ができないのか、唯識が教えていることを思い出してください。
 そうです、「けど」という反応・反発はマナ識の反応なのですね。
 「すべてはつながって一つ」ということはヘッド(頭)ではわかったが、ハート(心・心臓)で感じられない、ガット (胆)に納まっていないのです。
 だから、私たちはどうしても人と比較したくなります。
 そして、比較しておいて、優越感−劣等感の波に揺さぶられてしまうわけです。
 動揺し安らかでない人生を送るのが嫌な方は、まず意識でしっかり理解し、それからマナ識の浄化に取り組 むほかないようです。
 あ、もちろん、動揺し安らかでない人生でいい方は、それも選択の自由だと思いますが。

*散歩の途中、上の写真のような木の花を見ました。名前をご存知の方がおられましたら、教えていただ けると幸いです。






意識上の根本煩悩5:疑(ぎ)
――自己防衛的に反発し疑い否定する心
2006年03月31日





 私たちふつうの人間は、自分が実体的な存在であることを深く信じ込んでいます。
 復習的に言うと、「実体」には@他と関わりなくそれ自体で存在している、存在できる、A変わることのないそ れ自体の性質がある、Bいつまでも存在する、できる、という意味がありました。
 人間は自分が実体的な存在であると思い込むことでアイデンティティ(自己同一性、自分が自分であるという 深層の信念・安定感)を確立−維持しているといってもいいほどです。
 そういう実体としての自己を信じ込んでいる状態を「我見」というのでした。
 我見があると、当然ながら、他の影響を受けて自分が変えられることを極度に嫌うという傾向が生まれます。
 他の影響を受けて変わってしまうことは、@ABのどの意味でも実体的な自分を失うことになるからです。
 「私は私だ。人の意見は関係ない」、「私には私の信念がある」、「私の信念は変わらないのだ」、「私の信念を 変えてなるものか」というわけです。
 「疑」とは、そういうふうに実体としての自己(とその信念)を防衛するために、仏教の伝えようとすることに反発 し、疑い、否定する心の姿勢のことです。
 それはまず自分(の考え)を変えられたくないというのが基本的な動機ですから、伝えられていることが正しい かどうかはどうでもいいのです。
 硬直した我見のある人間にとって、これまで自分が考え・信じてきたことが間違っていて、伝えられたことが真 理であるなど、ありえない、あってはならないことなのです。
 しかしここで、もう一度考えてみましょう。
 これまでお話ししてきたような、縁起、無常、無我、一如、空といったコンセプトで指し示されているのは、特定 の思想というより、ありのままのコスモスの理で、誰にとっても当てはまることなのではないでしょうか?
 「それは仏教の教えであって、それも一つの考えにすぎない」ものなのでしょうか?
 そこのところ、読者のみなさんはどうお考えですか? 判断はもちろんみなさんの自由です。
 仏教の中核にあるものはいわゆる特定宗教であるよりは、普遍妥当性のある哲学と霊性だ、と私は理解して いるのですが。
 さて、だからこそ、仏教(のエッセンス)は、疑えない真理に到るために疑えるものはすべて疑うというデカルト 的・哲学的な方法としての懐疑は否定していないと思います。
 徹底的に疑った上でも認めざるをえないありのままの真実でなければ、ダルマ・法とはいえないからです。
 仏教の伝えているものが確かにダルマ・宇宙の理法だとすれば、それが自分の今までの考えに合わないから というので、反発し、疑い、否定することによって、自分の生き方がダルマから外れることになります。
 宇宙の理法から外れれば、人生で迷い悩んだり、失敗して痛い目に遭うのは当然です。
 そういう意味で、「疑」もまた確かに根本煩悩です。
 といっても、臨床的に言えば、我見の硬直度は人によってさまざまで、この「疑」という煩悩についても、さほど 強くない、かなり柔軟に見える人もいます。
 必要に応じて自分を変えられる柔軟な心をもっていて、「疑」の心はあまりない人のほうが、どうも爽やかに真 直ぐ生きられるようです。

*写真は寒緋桜






意識上の根本煩悩6−1:悪見(あっけん)
――まちがったものの見方1
2006年04月01日


 人間は、他の動物とちがって先天的に本々具わった能力(本能)によって生きることができません。
 ほとんど後天的に作られた文化によって生きています。
 文化の基礎になっているのは、言葉と言葉によって体系化された価値観・世界観=コスモロジーである、とい うのはすでにお話してきたとおりです。
 そのため、無意識でも意識でも、つながりコスモロジーに無知(我癡→癡)であるだけではなくばらばらコスモ ロジーを信じ込んでいる(我見→悪見)わけです。
 唯識では「悪見」もさらに詳しく分類しています。
 身見(しんけん)、辺見(へんけん)、邪見(じゃけん)、見取見(けんしゅけん)、戒禁取見(かいごんしゅけん) の5つです。
 まず「身見」とは、外界や他者と分離独立したこの身体が実体としての「私」だと思い込み、それに執着してい ることです。
 え? と思われるのではないでしょうか。
 「この体が私だというのは当然ではないか、どこがちがうんだ?」と思われた方が多いと思います。
 こういうものの見方は、現代人には当然の常識だと信じられているようです。
 しかしよく考えてみると、身体=私ではないのではないでしょうか。
 体つまり生命体は細胞から成っていますが、その細胞も、外界と区切りはあってもつながっていて新陳代謝と いうかたちで外界と交流していなければ生きていけませんし、やがて細胞分裂して元のままの細胞ではなくなり ます。
 細胞は実体ではないのです。
 実体でない細胞の集まりでありながら私たちの身体そのものは実体である、なんてことはありえませんね。
 それどころか、体も心もすべて「私は私でないものによって私であることができる」ということについては、繰り 返しお話してきたとおりです。
 よく考えてみると、「実体としての体が実体としての私である」というのは、明らかにまちがった思い込み=悪見 です。
 しかし物質科学主義の教育を受けてきたため現代の日本人の多くが、この「身見」を強く抱いているようです。
 そこから生まれるのが、次の「辺見」です。






意識上の根本煩悩6−2:辺見(へんけん)
――まちがったものの見方2
2006年04月02日


 この体が私だと思っている(身見)があると、それに伴ってさらに偏ったものの見方(辺見)が生まれがちです。
 偏ったものの見方(辺見)は、さらに2つあります。「断見(だんけん)」と「常見(じょうけん)」です。
 この体が私だとしたら、体はどうしても結局は死にますから、私は無くなります。「無」になるわけです。
 「〔からだが〕死んだらすべては終わり、無になってしまう」という考え方のことを「断見」といいます。断絶してお しまいということですね。
 そのことを見つめると、すべては無であり空しいという考え方に陥っていかざるをえません。
 現代の言葉でいうと「ニヒリズム」です。
 物質としての身体が私のすべてだと思うと、必然的にニヒリズムになる、ということを、唯識はなんと千数百年 も前に見抜いていたのだから驚きです。
 しかし私がいちばん大事だと思いながら(我愛)、それが無になってしまうなど堪えがたいことです。
 そこでもう一つの偏った見方が発生するのです。
 体は実体としての私ではなく、体に宿る魂が実体としての私であり、永遠に死なないという考え方で、「常見」と いいます。
 あるいは、「今生の体は死ぬ体だが、次の生では死なない体になって甦る」というのも、常見のヴァリエーショ ンと考えていいでしょう。
 「魂の永遠」も「体の甦り・復活」もどちらも、仏教の視点からすると、魂か新しい体を実体と考えているという 点で、まちがったものの見方・辺見とされます。
 「魂」も「新しい体」も、他と関わりなくそれ自体で存在するということはありえないという意味で実体ではない、 と私も考えます。
 確かに実体としての魂や新しい体にこだわることは、辺見ということにならざるをえないでしょう。
 ただ私は、実体ではないけれども、身体とは別の、現象としての「魂」が存在する可能性は頭から否定できな い、と考えています。
 しかし、魂が存在するかどうかということよりも、人間が今生で覚りうるかどうかということのほうが重要だと思 っていますし、またブログ記事で長々と書くにはあまりに微妙な問題なので、これ以上述べることは避けておき たいと思います。






意識上の根本煩悩6−3:邪見(じゃけん)
――つながりを否定するものの見方
2006年04月03日





 まちがったものの見方の第3にあげられているのは、邪見・つながりを否定するものの見方です。
 これはもうほとんど説明の必要もないほどはっきりさせてきたことですが、すべてのもの、ということは私も、実 にさまざまなつながりのお陰で存在することができます(縁起)。
 そのつながりは時間的にいえば、過去の数え切れないほどの出来事という原因が今の結果を生み出している という「因果の理法」になります。
 空間的にいえば、あらゆる物事が今特定のもの(者・物)が存在することを可能にしているということになりま す。
 そういう時間的・空間的つながり(因果・縁)という真理を無視したものの見方を「邪見」・よこしまな見方という のです。
 人間はもともと分別知への傾きがあるのですが、特に戦後の日本人は極端なばらばらコスモロジーに陥って いる人が多く、他と関係なくそれだけで存在できる物事があるかのように考えがちです。
 特に自分に関して、「私は私だ。他人は関係ないだろ」と考えている人が多いようです。
 その結果、他人に縛られないという意味での自由を得たように見えて、他とのつながりを見失って、孤独に陥 ってしまっています。
 自由に振舞っているつもりが、他とのつながりを忘れているため、しばしばただの自分勝手になって、他者に 迷惑をかけます。
 そういうものの見方は、すべてはつながって一つであるというコスモスの事実に反しており、自分自身を孤独 に悩ませ苦しめ、他者に迷惑をかけるという3重の意味で「煩悩」というほかありません。
 しかし幸いにして、私たちはもうすっかり意識的には邪見を克服したのではないでしょうか。
 そういう意識上の知恵・無癡のカルマをアーラヤ識に蓄えていくと、次第に心の奥・マナ識から、他とのつなが りの実感が湧いてきて、励まされ、心が温かくなり、生きる勇気が出てきます。

 昨日は、藤沢ミーティング・ルームで「コスモロジー教育=コスモス・セラピー――生きる自信の心理学」の1日 集中講座を行ないました。
 他者およびコスモスとのつながりを理論とワークの両方で学び、参加者のみなさんはすっかり元気になってく ださったようです。
 つながりの実感=邪見の克服というのは――適切な方法を実践すれば――抽象的な話ではなく、きわめて 具体的に元気になる、自信が湧く、心が温かく爽やかになるという臨床的効果のあることです。
 読者のみなさん、4月からの講座や、また新しく企画する予定のワークショップにぜひ参加していただいて、煩 悩の克服を実体験してください。






意識上の根本煩悩6−4:見取見、戒禁取見
――自分の正義にこだわる心
2006年04月04日


 悪見の第4と5は、自分の見解・思想にこだわる見取見(けんしゅけん)と特定の戒律や禁止事項にこだわる 戒禁取見(かいごんしゅけん)です。
 仏教では、いうまでもなく正しいものの見方(正見)と戒律を非常に重んじます。
 ところが、自分(たち)のものの見方(思想、宗教)や戒律に執着しこだわることは根本的な煩悩だとしていま す。
 これは、初めて学んだときは驚きでした。
 あらゆる宗教やイデオロギーが陥りがちな自己絶対化の危険にみごとなまでにしっかり気づいていて、それに 対する厳しい警告をしているのです。
 一般には、自分(たち)が信じている教えは絶対に正しく、守っている戒律は絶対に守るべきだ、と信じること こそ宗教だと考えられているのではないでしょうか。
 そうしてこそ、確信、安心、安定、アイデンティティの確立ができる、と思っている人が多いようです。
 ところが、唯識仏教では、自己絶対化は根本煩悩だとするのです。
 つまり平たく言えば、まちがっているということです。
 とても柔軟な、ある意味で「自己相対化」ともいえるような視点を持っているのです。
 私の知るかぎり、こんな宗教は他にはあまりないようです。
 そういう点でも、仏教はふつうにいう「宗教」を超えてしまっていると思います。
 唯識仏教は、なぜ見取見と戒禁取見を否定するのでしょうか。
 それは、人間がマナ識という自分にこだわる心を抱えているため、やることなすこと、どうしても自分へのこだ わりにつながってしまいがちだという洞察があるためです。
 すでに他のところでも少しふれましたが、私たちは自分へのこだわりのために、「自分(たち)が信じているの だから、自分(たち)が守っているのだから、これは正しいに決まっているんだ」、「これを信じ守ることこそ人間 として正しいことなのだ」、「これを信じない、守らないやつは人間じゃない」という思考パターンに嵌ってしまう傾 向があります。
 そうするとあまりにもしばしば、十字軍などに代表されるような宗教戦争や内部での宗派間闘争や異端裁判 や魔女狩りなどの恐るべき事態が生じてしまいます。
 宗教・信仰やイデオロギーの危険、どころか過去から現在に到るまでさまざまなところで起こっているあまりに も悲惨な実害は、集団的な自己絶対化から出ています。
 ところが、自己を絶対視することこそ無明だと気づいている仏教では、どんなに正しいと見える教えや戒律で も絶対視したらもうそれは誤りだというのです。
 どんなにすばらしい教えも戒律も、人間が救われたり、覚ったりするための、すぐれた方法つまり「方便」にす ぎないというのが仏教の基本的立場だ、と私は理解しています。
 といっても、これは、「あらゆる意見はそれぞれの主観にすぎないのだから、どれが正しいなどということはな い」といった価値相対主義とは、一見似ていて実はまったくちがうものです。
 縁起、無常、無我……といったコンセプトで指し示される事実は、コンセプトがどうであれ、事実そのものでしょ う。
 そのほうがわかりがよければ、例えば関係性、時間性、非実体性というふうに言い換えても、指し示された事 実は変わりません。
 つまり、教えは絶対ではないが、それが示している事実は絶対です(と私には思えます)。
 ですから、疑わしかったら、自分で何度でも考え直し、確かめ直すことができるのです。
 頭から信じなくてもいい、どころか信じてはいけない、よく見(正見)、よく考え(正思)、何度でも考え直し確か め直しながら、確信を深めていくことができる、というのが仏教的な「信」の特徴なのです。
 そして、そういう事実に目覚めるためには、やるべきこと、やってはいけないことがあるというのも、ほんとうに そうかどうか、いわば臨床的に確かめることができます。
 「効果が確かめられようが確かめられまいが、とにかくこの教団ではこの戒律を守ることになっているんだか ら、絶対に守らなければならない」というのは、大乗仏教−唯識の考え方ではありません。
 その戒律を守ることによって、マナ識が浄化されて爽やかで温かな心になるという効果があるかどうか、確か め直しをしていいはずです。
 効果があるようなら守り続ける、ないようなら止めていい、というのが大乗の戒律への基本的な姿勢だ、と私 は理解しています。
 そういう意味で仏教は、絶対主義でも価値相対主義でもなく、いわば「臨床的実証主義」とでもいうべき立場を 取っているのではないでしょうか。
 ここでも、「大切にすることはこだわることではない」という区別が当てはまるようです。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所