目次  (2007年11月6日)

 相変わらず忙しく、なかなか記事の更新ができません。
 せめて過去の記事の目次作りだけでも、と思っているのですが、それも思うに任せません。
 とりあえず、2つの大学で授業の終わったあたりまで、目次を整理しました。引き続き暇を見つけてやっていき ます。












   大乗仏教 (2006年1月9日)


 西暦一世紀前後、「大乗」と自称した新しい仏教の流れが興ります。
 先にもいいましたが、それまでの流れを批判して、「自分だけが学んで、自分だけが瞑想して修行して、自分 だけが覚るというのは、それはいわば、迷いのこちららの岸から覚り・救いの向こう岸に行くのに、自分一人し か乗れない小さな乗り物・小乗だ。それに対して自分たちは、自分だけではなくてみんなで一緒に迷いや苦しみ や悩みのあるこの世界から、そういうことがすべてなくなった向こうの世界にみんなで渡って行こうとする。そう いう大きな乗り物なのだ」と主張する流れです。
 こうして、「小乗仏教」と「大乗仏教」という違いが出来たのですが、「小乗仏教」という言い方は、あくまでも大 乗の側から見たやや偏りがある批判といえないこともありません。
 かつて「小乗」と呼ばれた流れが、今日まで東南アジアに伝えられていて、上座部またはテーラヴァーダといい ます。
 実際に行って修行した方たちから聞いた印象では、そのお坊さんたちの修行の深さや境地の深さ、行ないの 清らかさに関しては、「大乗仏教」を自称している日本のお坊さんたちの多くよりも徹底しているようです。
 そういう意味で、必ずしも「小乗仏教はだめ」とか、「劣っている」といえないところがあるようです。
 それはもちろん平均的なレベルの話で、東南アジアにも堕落した僧はいるでしょうし、日本にも立派なお坊さ んはおられます。
 しかし、私の知る範囲では、特に戒律をちゃんと守っているかどうかという基準で、全体として平均的なレベル を比べると、どうも日本のお坊さん方はかなわないという評が多いようです。
 けれども、少なくとも、救いの目標を自分自身の覚りや救いにとどめず、自分と人々、さらに生きとし生けるも のすべて(衆生・しゅじょう)と一緒に救われる・覚ることを目標にしたという点では、大乗の主張にはある種の妥 当性がある、と私は評価しています。
 大乗を主張する新しい経典として、紀元1世紀前後から、まず『般若経(はんにゃきょう)』のさまざまなタイプ のものが生まれてきます。
 『般若経』の一番最初のものは、八千ほどの詩句でできている『八千頌般若経(はっせんじゅはんにゃきょう)』 だろうといわれています。
 それがだんだん広げられ大きくなっていって、『十万頌』のものまで作られていきます。
 やがて長くなりすぎた『般若経』のエッセンスを最小限にまとめたものが、日本人なら誰でも知っているといっ てもいいほど有名な『般若心経(はんにゃしんぎょう)』です。
 そうした『般若経』で語られている「空(くう)」の思想は、以下の定型句とその意味が示しているように、ブッダ から部派仏教までの教えを含んで超えるものだといっていいでしょう。
 「縁起だから空である」=「縁によらないで起こっているものは何もない」
 「無自性(むじしょう)だから空である」=「変わることのないそれ自身の本性をもったものは何もない」
 「無常だから空である」=「いつまでもあるものは何もない」
 「無我だから空である」=「実体として存在しているものは何もない」
 「苦だから空である」=「〔最終的な意味で〕自分の思いどおりにできるものは何もない」
 これらのコンセプトに共通している「何もない」というニュアンスを「空」という一言でまとめ、かつ深めて捉えた のだと考えられます。
 ですから、「空」は、ありのままのほんとうの世界は「すべてがつながりあっていて、けっきょくは一つ」という面 からいえば、「一」「一如」「真如」と表現することもできる事実を示しているのです。
 この「空」という言葉とちょうど逆なのが、「実体」というコンセプトです。
 西洋の哲学的な言葉の翻訳で、「他のものとの関わりなしに、変わることのないそれ自身の本性をもってい て、いつまでも存在できる」ようなものを「実体」と呼びます。
 「空」はまさにその正反対ですから、「実体がない」「無実体」あるいは「非実体」と言い換えることもできます。
 この「空」という事実を覚ることが無明を克服することであり、すべての苦を超えることになるというのです。
 「空」を覚ることは、「空」という思想を知ることとは違うことですが、まず知らないことには覚りたいという気にも なりませんから、次回から、もうすこしくわしく、でもできるだけわかりやすく「空」思想についてお話していくことに しましょう。






   大乗仏教の経典 (2006年1月10日)


 西暦紀元1世紀頃以降、空の思想を述べた『般若心経』他の般若経系統の経典が続々と誕生してきます。
 これらの経典は、日本仏教では、真言宗、天台宗、禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)など、広く用いられていま す。
 それから『維摩経(ゆいまぎょう)』も作られます。これを依りどころとする宗派はありませんが、特に禅宗では 重視されてきました。
 これに対する注釈書を聖徳太子が書いています(否定する説もありますが)。
 さらに『法華経(ほけきょう)』で、これは日本の仏教では、天台宗と日蓮宗および法華系と呼ばれる新宗教が 依りどころとしている経典です。
 これに対しても、聖徳太子は注釈書を書いています。
 それから『華厳経(けごんぎょう)』で、これは東大寺の華厳宗が依りどころとする経典です。
 『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』(まとめて 「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」といいます)は、浄土宗、浄土真宗、時宗など浄土系の宗派の経典です。
 これらは、学問的には「初期大乗仏典」と呼ばれています。
 大乗仏教は、一般の人間にはついていけなくなってしまった部派仏教の専門的な理論に対する批判として出 てきた面がありますから、最初はあまり体系的に述べられたものではありませんでした。
 ところが、いったん小乗仏教対大乗仏教というふうに分かれ、対立関係が起こってくると、大乗の側でもやは り理論を整備しなければならなくなります。
 そこで大乗の主張を徹底的に理論的・体系的にまとめたのが、龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ)です。
 説によって年代の前後がありますが、一説では150年から250年頃の人です。
 2,3世紀頃になると、「中期大乗仏典(第1期)」と分類されるお経が出来てきます。
 例えば『勝鬘経(しょうまんぎょう)』、『如来蔵経(にょらいぞうきょう)』、『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』 などです。
 これらは、特定の宗派の経典にはなっていませんが、『勝鬘経』に対して聖徳太子が注釈書を書いています。
 それからこの授業で一番重点をおいてお話ししていく「唯識(ゆいしき)」という学派の一番古い経典である『解 深密経(げじんみっきょう)』などが作られていきます。
 日本では、法相宗の興福寺や薬師寺、北法相宗の清水寺などが依りどころとする経典です。
 それから今日ではもうサンスクリットも漢訳もチベット訳も残っていない唯識の経典、『大乗阿毘達磨経(だい じょうあびだつまきょう)』もこの時代に書かれたようです。
 続いて、5世紀ころ、「中期大乗仏典(第2期)」として、『薬師如来本願経(やくしにょらいほんがんきょう)』、 『地蔵菩薩本願経』など、特定の宗派に限らず日本人全体に広がった薬師信仰や地蔵信仰の元になったお経 が作られます。
 そして7世紀ころ、大乗仏典としては後期にあたる密教の経典が出来ます。
 『大日経(だいにちきょう)』、『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』などで、真言宗の依りどころとされ、天台宗でも 密教の分野で重んじられる経典です。
 こうして見てくると、日本の伝統的な仏教がすべて大乗経典を依りどころにした「大乗仏教」であることがわか ります。
 ということは逆にいうと、かたちだけに限れば日本の仏教はゴータマ・ブッダの教えた仏教そのままを受け継 いでいるのではない、ということです。
 現代の日本人が「仏教」について考える場合、これはきちんと押さえておかなければならないポイントだと思い ます。






   空とは何か 1 (2006年1月15日)





 大乗仏教のもっとも中核的な教えは「空(くう)」だといわれています。
 しかし、大乗仏教が日本に入ってきてから1450年以上経っていますが、残念なことに「空」の思想は必ずしも 日本人全体のものになっているとはいえないようです。
 「空」という文字の印象のせいもあって、これまでしばしば、「空しい」とか「空っぽ」つまり「意味がない」とか「何 もない」というふうに誤解されてきたようです。
 そこから派生して、「空を覚る」ということは、人生はすべて空しい、すべて意味がないということを自覚して、す べてを諦めてしまうことだという誤解も生まれました。
 すべてのことを諦めてしまって、何事にも執着しないのが「悟り」だと考えられがちだったのです。
 非常に残念なことに、いわゆる「仏教界」の外部だけではなく内部にも、そういう誤解がかなりあった、今でも あるように、私には見えます。
 「え、違うんですか?」と驚かれる方もあるかもしれませんが、ここではっきり言っておくと――私の理解では― ―「空」とはそういう意味ではまったくありません。
 では、「空」とはどういうことなのでしょう。
 哲学の用語でいえば、「実体ではない・非実体」ということです。
 すでに2度ほど哲学用語としての「実体」の意味をお話ししてきましたが、これは仏教をしっかり理解するうえ で、決定的に重要なので、もう一度繰り返しておきます。
 (しっかり頭に入れていただくために、これからややしつこいほど何度も繰り返すことになるでしょう。)
 まず、@他のものの力を借りることなくそれ自体で存在する。
 次に、A変わることのないそれ自体の本性を持っている。
 そして、Bいつまでも・永遠に存在することができる。
 この3つの条件を備えたものが「実体」と定義されています。
 「空」とは、そういう哲学的にはっきり定義された意味での「実体」といえるようなものは「何もない」とい う意味です。
 ですから繰り返すと、「何もない」といっても、無条件に何もないというのではなく、「実体といえるような 条件を備えたものは何もない」ということなのです。
 大乗仏教では、いろいろな感覚で感じたり、意識で認識したりすることができるような「現象」があることは、当 然のことながら認めています。
 しかし私たちが、それ自体で存在し、それ自体の本性を持っており、いつまでも存在する実体のように感じて いるものは、みなよく観察していくと、「現象」としてはありありと現われていても、決して「実体」ではない、という のです。
 話が抽象的でわかりにくいかもしれませんから、具体的な例を挙げて説明していきたいと思います。
 「何もない」というのですから、何を例にしてもいいのですが、もっとも身近な「私」あるいは「人間」を例にとりま しょう。
 私・人間は、自分自身で生まれてきたでしょうか?
 自分で生まれてきた人は一人もいないということを、これまで何度か確認してきました。
 さらに私たちは日常的には、自分で生きているつもりですが、はたして自分だけで生きているでしょうか? 生 きていくことができるでしょうか?
 もちろん、できませんね。
 水や空気や食べ物や、大地や太陽や、数え切れないさまざまなもののおかげで、私たちは生きることができ ます。
 他の人や他の物とのつながりのおかげで、私たちが生まれてきたし、生きていることができます。
 そんなことは当たり前ではないか、と言われるかもしれません。
 確かに当たり前なのですが、その当たり前のことをいつもちゃんと自覚して生きているかどうかが問題なので す。
 誰一人として自分だけで生きている人間は一人もいない――そういう意味で、私・人間は「実体」的な存在で はありません。
 実体ではなく「現象」というべきでしょう。
 「縁起だから空である」という定型句を思い出してください。
 私・人間は、他のさまざまなものとのつながりのおかげ・縁によって存在していますから、実体ではない=空で ある、ということになります。
 ここでまた、言葉の印象で、「だとしたら、私の存在、人間というものは結局、空しいものだということになるん じゃないか。やっぱり仏教の教えは暗い」という気がする方がおられるでしょうが、あわてないで、ゆっくりと話に ついてきていただけると幸いです。
 少し長くなる話の結論は、「すべては空だとしたら空しい」のではなく、「すべては空だから素晴らしい」 という明るい話になりますから、ご安心、あるいはご期待ください。






   空とは何か 2 (2006年1月16日)





 家の近くに、自然に近い状態を残した公園があります。
 なかなか気持ちがいいので、よく散歩に出かけます。
 今日も何か写真のいい素材がないかと探しましたが、さすがの湘南でも、真冬ではほとんど花はありません。
 落葉樹は、もちろんみんな枯れ枝を天に向って伸ばしているばかりです。
 自然に近いといっても、やはり公園なので、伸びすぎた枝は刈られたり、大きくなりすぎた木で切り倒されてし まったものもあります。
 隅の方に束ねられたり、適当な長さに切られたりして、積み重ねられていました。
 もうかなり前、おそらく秋口のころに作業したのでしょう、少し朽ちはじめているところもあります。
 ……「空とは何か」という見出しなのに、何を言っているんだろうと思われる方があるかもしれません。
 でも、これは「空」の話をしようとしているのです。
 去年の春、比較的いいデジタルカメラを買ったので、うれしくていろいろな物を撮ってまわりましたが、この公 園の雑木林の新緑もとてもよかったので何枚も撮ったものです。
 芽吹きのころはとても初々しく何ともやわらかな緑でした。
 5月の新緑のころは、鮮やかで爽やかで、明るい日の光にキラキラと輝いている様子はうっとりするほどでし た。
 しかし梅雨を過ぎて、鬱陶しいほど繁っていきました。
 そして、少し鬱陶しいなと思っていると、造園業者の方たちが、ちょっとやりすぎではないかと素人目には見え るほど、あっさりバッサリと剪定をしてしまいました。
 そして秋、落ち葉が始まり、日1日と林はまばらになって、木の根元には色づいた葉や、少し茶色になりかかっ た葉などがしだいに厚く積もっていきました。
 今、落葉樹の枝にはほとんど葉はありません(異常気象のためらしく、今年はちゃんと落葉せず、みすぼらし いかっこうで枝に残っている葉もありますが)。
 さて賢明な読者のみなさんは、私が話をどこに持っていこうとしているのか、見抜いてしまわれたかもしれませ ん。
 そうです、例は何でもいいのですから、葉っぱの話でもいいのです。
 ……だが、1枚もなかった枝先に、また次の春には新芽が芽吹いてきます。
 やがてそれは広がって、新緑の若葉になり、濃い緑の葉になり、紅葉や黄葉になり、それから落ち葉になり、 やがて朽ち葉になり……最後は土に帰っていきます。
 「葉っぱ」と呼ばれるものに、変わることのない「新芽」とか「若葉」とか「紅葉」とか「落ち葉」とか「朽ち 葉」という「本性」があるとは言えませんね。
 腐葉土になってしまえば、もう「葉」という性質さえなくなっていくんですからね。
 葉は、そういうふうに「変わることのないそれ自身の本性をもったもの」ではありません。
 葉もまた、「無自性だから空である」というほかありません。
 でも、ここで暗くならないでください。
 いま枯れているように見える枝の先には、もう花や葉のつぼみが付いています。
 世界の本質が空だから、花も葉っぱも散っていきますが、今年の春も間違いなく、あの枯れ果てた冬の景色 がウソだったように、鮮やかに葉は芽吹き、美しく花は開くでしょう。
 無自性=空だからこそ、世界にはダイナミックで生き生きとしたいのちの働きがあるのです。
 私は、冬枯れの様子も嫌いではありませんし、でもやはり花咲く春を楽しみに待っています。
 空なる世界は、美しく変化していく世界なのだな、と思うのです。






   空とは何か 3 (2006年1月17日)





 私たちが「私の性質」だと思っているものは、実は変わらないものではありません。
 例えば、自分では「私は割にいい人間だ」とか思っていても、ある人にとっては「イヤなヤツ」かもしれません。
 少数ながらいてくださるらしい私のファンには、「すごくいい人」に見えているのかもしれません(そういうのを 「善意の誤解」といいますけどね)。
 例えば、おなじ風景が、人によって美しく見えたり、懐かしかったり、何てことなかったり、つまらなかったりしま す。
 その人との関係によって、性質は変わって感じられるのです。
 そういう意味で、変わることのない「本性」はないのですね。
 これは、「縁起だから無自性である」と表現できるでしょう。
 そして、すべてのものの性質は関係によって変わるだけでなく、時間によって変わります。
 例えば、日本人にとってもっとも典型的な「無常」の象徴の一つ、桜の花を考えて見ましょう。
 冬の寒さの中でも、桜の枝先を見るともう固い小さな「蕾」がしっかりとついていて、春を待っています。
 やがて春が来ると、「蕾」ではなくなって、3分咲き、5分咲き、8分咲き、満開の「花」となるでしょう。
 そして春が深まると、はらはらと散り始め、「花」から「花びら」へと変わっていきます。
 地面に落ちた当初は「花びら」ですが、次第に黄ばみ、茶色に変色し、やがて「ごみ」になります。
 それから、掃き集められて捨てられるものもありますが、その場に残っていれば、やがて腐食して、土に帰り ます。
 時間の中で、「花」でなかったものが「花」になり、そして「花」でなくなくなるというふうに、変化していき ます。
 桜の花もまた、「無常だから無自性である」ということになりますね。
 そして、ただ変化するだけではなく、「花」としては存在しなくなるのです。
 あらゆる性質のうちでもっとも基本的な「存在する」という性質が、「存在しない」というふうに変わって いくのですから、「実体」の第3番目の定義に反しています。
 花もまた、時間の中で変化していくものであり、実体ではない、「無常だから空である」というほかありま せんね。
 こういうふうに、「縁起」と「無自性」と「無常」という3つの概念は、相互に結びついています。
 というよりは、大乗仏教の人々がおなじ1つの世界の姿(如)をこういう3つの確度から分析−認識したというこ となのです。
 さて、ここまでお話しすると、記憶力のいい方は、「なんだ、空と無我とはおなじことをいってるのか?」という 疑問を持たれるのではないでしょうか。
 そうです、ほぼおなじことをいっているのですが、ちょっとだけニュアンスが違うのです。
 そこに、ブッダから部派仏教へ、さらに大乗仏教へという発展があるのですが、長くなるので、その話は次回 にしましょう。

*写真は、去年の桜です。






空とは何か 4 (2006年01月18日)





 去年の夏は記録的な暑さで、この冬は記録的な豪雪です。
 「異常気象」というほかありません。
 雪のために亡くなられた方がかなりの数になっているというニュースを聞くと、ほんとうにお気の毒だなという 思いと、改めて自然は厳しいなという思いが、心を巡ります。
 しかしとはいえ、記録的な暑さも過ぎていき、記録的な雪もやがて春が来て、溶けて消えてしまうでしょう。
 亡くなられた人のことをお気の毒だなどと他人事のように言っている私も、やがて確実に亡くなられた人の数 のうちに入ることになっています。
 好むと好まざるにかかわらず=私たちのつごうや願いと関係なく、すべては変わることのない「実体」ではなく て、さまざまに変化していく「現象」なのです。
 「無我だから空である」という、一見、同義語の反復のように思える定型句があります。
 私も最初にこの句を読んだときは、「なぜ、わざわざこんな同義語反復のようなことをいうんだろう?」と疑問に 思ったものです。
 で、いろいろな文献を読んだのですが、私の読んだかぎりでは、あまりぴんとくる説明がありませんでした。
 そこで、自分でいろいろ考えた結果、こう解釈すればいいかな、と思ったのです。
 「無我・非実体」というのは、原始仏教から部派仏教まで一貫した考え方であり用語ですから、それをそのまま 使うだけでは、大乗仏教の独自性を印象づけることはできません。
 一つ、大乗仏教はそれ以前の仏教を「含んで超える」ものなのだという主張が、「空」というコンセプトを選んだ ことの背景にあるように思えます。
 「空」というコンセプトには、「縁起」、「無自性」、「無常」、そしてこの「無我」(さらに「苦」)というコンセプトがす べて一言に込められている、といっていいようです。
 縁に依らないで存在するもの、変わらない本性を持っているもの、永遠に存在するもの、実体だといえ るようなもの、そういったものは「何もない」という強烈な全否定の思想が、「空=ゼロ」という言葉に託し て表現されたのだ、と私は解釈しています。
 そこで、あえて同義語反復にも聞こえかねない、「無我だから空である」、つまり「実体として存在してい るものは何もない!」という言い方もしたのでしょう。
 そこには、前のものを徹底的に超えようとする、非常にラディカルな――「根源的・徹底的」と「烈しい・過激」と いう意味があります――否定の精神が現われています。
 善し悪し、功罪、好き嫌いは別にして、そういうラディカルさが、大乗仏教の魅力になってきたのではないか、 と私は思うのです。
 そのラディカルさが、私たちに損得、幸不幸を超えて、大自然に許されているかぎり精一杯生きて、死ぬべき ときには死ぬという、まっすぐな生き方の道――そしてそれこそが気休めでない救いになる道――を示してくれ ている、と感じるのです。
 「無明」と「取・執着」を徹底的に全否定した時、かえってほんとうに生きて死ぬ道が見えてくる、生と死 をひっくるめた全肯定が可能になる、というのが、「空」というコンセプトを使って、大乗仏教の菩薩たち が私たちに伝えようとしたことだったのではないでしょうか。
 ま、ちょっと、ラディカルすぎるかな、厳しすぎるかな、という気もしないではないですけどね。
 あ、ところで、ネット学生のみなさん、私の書き方があまりにもストレート、本格的、ラディカルで、コメントしにく いという陰の声もあるようですが、ぜひ、「すごい!」とか、「わかった…ような気がする」とか、「わかんないーっ」 とか、「今日の話はつまらん」とか、一言でも気軽に感想をコメントしてください。
 よろしくっ!!!

 *写真は去年のイヌフグリの花、春を待つ心です。






   空とは何か 5 (2006年1月19日)





 『平家物語』の冒頭に、「奢れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もついには滅びぬ。偏に風の 前の塵に同じ」という言葉があります。
 昨今の政界や財界の状況を見ていると、中世から現代まで、人間は全体としては依然として賢くなっていない のだなという気がします。
 「力ずく無理やりに、ごり押しをしたり、隠れてこそこそとうまくやれば、物事は自分の思いどおりにできる・な る」と思い込んで、それを実行し、それが成り立っているように思っている、人からもそう見えるという人がかなり たくさんいるようです。
 確かに短期間だけでいえば、うまくやれば思いどおりにできるように見えることがたくさんあります。
 しかし中長期を考えると、残念ながら人生はいちばん根本のところで自分の思いどおりにはならないようにで きているようです。
 何よりもそもそも思いどおりするためには、当の思う「自分」が生きていなければなりませんが、自分という存 在そのものが、どんなにいつまでも生きていたいと思っても、生きていることはできない、つまり思いどおりにな らないようにできています。
 所有する本人が永遠には存在しないのですから、金銭も名誉も権力も永遠に所有することはできません。つ まり、思いどおりにできないのです。
 快楽を感じる本人がやがて消えていくのですから、永遠に続く快楽もありえません。
 いつも、いつまでも、楽しくしていたいと思っても、思いどおりにはいかないのです。
 「空」に関する定型句に、「苦だから空である」=「〔最終的な意味で〕自分の思いどおりにできるものは何もな い」というのがあります。
 これは、最終的な意味で自分の思いどおりにできるものは「何もない」ので、自分の思いにこだわってる かぎり、世界は不条理に思える、というふうな意味でしょう。
 自分の思い=念にこだわっているかぎり、この世はどうにもこうにも「残念(=思いが残る)」、「無念(=思いど おりで無い)」なことばかりというところのようです。
 変わることのない実体としてつかんだり、握りしめたり、持ち続けたりできるものは、この世には存在し ないのですから、そういうことはいったん「断念(=思い切る)」するしかない……したほうがいいのです。  
 自分の勝手な思いをいったん断念して、世界のありのままの姿・如に自分の思いを合わせるようにす ると、思いがけない爽やかな思いと生き方が可能になる、というのが仏教の基本的メッセージだといって いいでしょう。
 私たちが、もう少し賢くなって、人生や世の中を自分の思いに合わせよう・思いどおりにしようとせず、世界の ありのままの姿に自分の思いを合わせようとすれば、かえって人生や世の中はもう少しよくなる、と思うのです が……なかなか。

 繰り返すと、「縁起」、「無自性」、「無常」、「無我」、そして「苦」という言葉に共通している「何もない」というニュ アンスを一言でまとめ、かつ深めたのが、「空」というコンセプトだ、と私は捉えています。
 そして、「空」は「如」「真如」「法」という言葉で表現されたのと同じ、世界のありのまま・真実の姿を表現するた めの言葉の一つだと考えています。

*写真は「銀河団C10939」、宇宙には無数の銀河があるのですね。






   空と慈悲 (2006年1月21日)


 「空」は、「如(タタター)」や「法(ダルマ)」と同じ事実を指し示した言葉です。
 世界には分離した実体はひとつもありませんが(無我)、すべては果てしなくつながっていて(縁起)、ひとつで あり、ダイナミックに動いています(無常)。
 それが世界のあるがままの姿(如)であり、真理(ダルマ)なのです。
 とはいっても、あの現象とこの現象という区別はありありとあります。
 その中でも、この生き物とあの生き物、さまざまな生き物が、それぞれ区別できる姿を持ってしかし根本的に は1つのものとして、相互に関係を持ちながら生きています。
 そういうすべてのものの根本的な一体性を自覚しているのが仏であり、深さの程度はいろいろあるにしても、 それを深く自覚しようと修行しているのが菩薩です。
 大乗の菩薩は、すべてが空であることを多かれ少なかれ覚っているわけですが、それはすべてのものとの縁 起性・一体性を覚っているということでもあります。
 一体性を覚っていながらそれぞれの区別も認識しているという菩薩の心が、必然的に、自然に、自分 とはいちおう区別された他の生きとし生けるものへの「慈悲」となるのです。
 他は区別できるという意味では自分ではありませんが、空という世界の中では自分と一体であり深い意味で は自分だともいえます。
 ですから、人の苦しみは私の苦しみになり、私の苦しみを私が放っておくことはできない、ということになるので す。
 しかし、苦しんでいる他者もその苦しみを救うとしている自分も、本来は空・非実体ですから、ふつうの人間の 過剰な欲望(渇愛)や執着(取)からはまったく解放されています。
 こういうわけで菩薩は、まったく自発的に、まったく自由に、執着やこだわりから離れて実にさわやか に、自分と一体である他者のためになることをしていくのです。
 大乗仏教における「空」と「慈悲」の関係を、あえて理屈でいえば、こういうことになるでしょう。
 『維摩経』(長尾雅人訳、中公文庫)に菩薩の慈悲の心をみごとに表現した個所があります。
 釈尊に命令されて維摩居士(ヴィマラキールティという在家の覚った人・菩薩)を智慧の象徴である文殊菩薩 (マンジュシュリー)が見舞うというエピソードのところです。
 「病気の原因は何か」という文殊の問いに、維摩はこう答えています。
 ……あらゆる衆生に病があるかぎり、それだけわたくしの病も続きます。もしすべての人が病を離れた なら、その時、わたくしの病もしずまるでしょう。……もしあらゆる衆生に病気がなくなったなら、そのとき は菩薩にも病気はなくなるでしょう。たとえば、金持ちのひとりっ子が病気になったとき、その病気のせい で両親もまた病気になるようなものです。そのひとりっ子に病気がなくならないかぎり、両親もなやみ続け ます。マンジュシュリーよ、それと同じく菩薩はあらゆる衆生をひとりっ子のように愛するので、衆生がす べて病気であるかぎり彼も病気であり、衆生に病気がなくなったとき、彼も無病となります。マンジュシュリ ーよ、この病気は何から生じたかとお尋ねですが、菩薩の病気は大慈悲から生じるのです。
 すべての生き物・衆生の病気を自分の病気として、一緒に苦しみ続け、苦しみを救い続けるのが、菩薩の大 慈悲だ、というのです。
 ただ思想・観念としてだけ学ぶと、「空」というのはとてもクールな哲学的な認識のように感じられますが、大乗 の空は、こうした情熱的なまでの「慈悲」とひとつの心だといっていいでしょう。
 そこから必然的に慈悲が生まれてこないような「空」の覚りは、大乗の覚りとはいえないわけです。
 私が、空・智慧と慈悲という大乗の思想、というより生き方に感動するのは、そういうところです。
 それにしても、大乗というのはほんとうにすごい思想ですね。






   「ありたい」と「あらねばならない」 (2006年1月22日)

 大乗仏教の菩薩の願をまとめたものとして有名な「四弘誓願(しぐせいがん)」というのがあります。

 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

  私 訳
 生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う
 煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う
 真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う
 覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う

 こうした誓願・菩薩の理想は驚くべく高いものですし、私も感激的にすばらしいと思います。
 しかし、こんなものを下手に真に受けたら――論理療法の用語でいうとmust化、つまり「ねばならない」という 強制的な倫理として受け取ると――つまらないことになりかねません。
 つまらないことの第1は、「私なんかには無理だ」と思って、引いてしまうことです。そういう心のことを「退弱心 (こにゃくしん)」といいます。
 しかし「無理だ」と思ってしまうと、実際にできなくなるというのが、潜在力の法則ですから、それはとても損な生 き方です。
 どうせ一回きりの人生ですから、できるだけ人間として豊かになる、深くなる、広くなるという人間成長をし続け ないと、もったいないのではないでしょうか。
 第2は、「私は仏教を学んでいるのだから、そういう菩薩であらねばならない」と思い、しかも自分の現状を見 ると、「それなのに、私はそうではない」と、劣等感や罪悪感を感じてしまうということです。
 劣等感や罪悪感も適度であれば、それをバネにして飛躍・向上することができますが、多くの場合過度になっ て、ただ「オレはダメなヤツだ」とか、「私はいけない人間です」と自己非難をして落ち込むことが多いのです。
 しかし、自己非難による落ち込みは、何の役にも、誰のためにもなりません。
 もちろん人間、反省は必要ですが、自己非難は不要・無用です。
 第3は、これがいちばん恐いのですが、実際はそうではないのに、「私はそういう〔境地の高い〕菩薩だ」と高ぶ り思い込んでしまうことです。
 そうすると、自分の思い込みでいろいろなことを人に押し付けることを「慈悲」だと錯覚しはじめます。
 この錯覚は、「慈悲(=いいこと)だから、人に押し付けてもいい」、「自分の思いは慈悲なのだから、人を自分 の思いどおりにしてもいい」という恐ろしい結論に到りかねません。
 この結論は、正義や神仏の名による犯罪や殺人や戦争の口実にまでなりえます。
 仏教も含む宗教すべての恐ろしさは、こういう論理のすり替えが容易に行なわれうるということです。
 そういう宗教の恐ろしさをたくさん見聞きしてきた結果、私は、こう提案することにしています。
 「菩薩でありたい」と強く願うのはいいことですが、「菩薩であらねばならない」と倫理化・must化するのや、まし て「私は〔境地の高い〕菩薩である」と錯覚するのは、ぜひ、やめましょうね、と。
 空の智慧と慈悲というのも、いつの日にか行きたい遥か彼方の憧れの地にしておいて、行かねばならない義 務的な目的地にしたり、まして今いる場所と取り違えたりしないように、気をつけたほうがいいんじゃないでしょう か、と。
 そんな気持ちもあって、四弘誓願を超意訳(「超訳」というのは商標登録されているそうなので)してみました。

  超意訳 「四つのおおきな願い」

 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。
 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。
 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。
 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。

 *この4つの言葉は、それぞれの後に(なるべくそうなるように努力しよう)という気持ちを補って読んでく ださい。






   唯識を学ぶと (2006年1月25日)

 このネット授業では、この次から、空思想に続く大乗仏教の教えの発展である「唯識(ゆいしき)」思想につい て学んでいきます。
 その予告という意味も含めて、すでに実際の授業を受けた学生の感想を紹介しておきたいと思います。
(*とても残念ながらコピペをする学生がいましたので、当初掲載していたレポートは削除しました。2012年2 月)
 唯識を学んでいただくと、典型的にはこんなふうに心が変化していきます(もちろん万能ではないので、少数あ まり変化しない人もいますが)。

 ☆以下引用

 授業の感想

 授業を受けて、私はとても変わったと感じます。客観的に見たら変わっているのかはわかりません。し かし、少なくとも自分の考え方はポジティブな方向へと変わってきています。現代に生きる人々は涅槃へ 向かうスタートラインを探す術さえ見失い、さまよっているのではないかと私は思います。そんな中、私は この講義を受けて、今やっとスタートラインに立つことができたと感じています。
 すべてのものは宇宙エネルギーレベルでみな一体。これが何よりも先であり、すべてはつながっている 中で私も生まれた。これを常に頭の中に入れておくと、日々両親や親族への感謝と尊敬の気持ちは絶え ることはありません。そして私がこうして生きているのには数え切れないほどの人物やものが関わってい る。それは、これまでに直接的に関わってきた人や物だけではなく、直接でないものもすべては私とつな がっている。そう思うと胸がいっぱいなるほどの幸せな気持ちと感謝の気持ちがこみ上げてきます。二度 と「私は独りぼっちだ……」なんて思う日はないと思います。
 まだまだ私の心にはマナ識やアーラヤ識的なところがたくさん潜んでいると思います。けれど、私は今、 転識得智のスタートラインに立つことができました。これからの人生、日々宇宙とのつながりを意識し、感 じながら、少しずつでもいいので覚りの道を歩んでいき、豊かな心を築いてポジティブに生きていきたいと 思います。

 ここまでは行かなくても、少なくとも「つながり」の大切さというポイントは、今年度も90%以上の学生がつかん でくれたようです。
 教えたこちらが驚きと感動をおぼえるほど、若者たちは大切なことを吸収してくれます。
 ……もうしばらく、学生たちが学んでくれた成果を確認させてもらうという凝縮した時間が続きます。
 お預けをするわけではありませんが、ネット学生のみなさん、期待しながら、もう少しお待ちください。
 あ、テキスト(『唯識と論理療法』佼成出版社)を先に買って、予習しておくという手もありますね(←コマーシャ ルでした)。






リトル・ボサツの創発 (2006年1月27日)


 昨日で、ようやく2学部の採点が終わりました。残るはもう1つ。
 しかし今日は、中級の『信心銘』の講義、明日からは箱根で合宿(という名目の遊び)、というわけで、記事の 更新がままなりません。
 「自縄自縛」とか「無縄自縛」という言葉があります。
 誰も縛っていないのに、自分で自分を縛ってしまう、縛る縄もないのに勝手に縛られていると錯覚している、と いう意味です。
 ブログの更新も習慣化してくると、下手をすると無縄自縛ぎみになります。
 論理療法でいう must化(ねばならない化)です。
 しかし誰も縛ってないのに自分で自分を縛って苦しむなんてバカげていますから、やめたほうがいいですね。
 ……というわけで、あくまでも自発的に、できるだけ続けます。
 また、私が喜んでいる感想を、みなさんにご紹介または押し付けたいと思います。


 
 1年 女
 仏教の教えというのは私の中で、とても古い考え方だというイメージがあった。
 昔の人がすがりついた気休め程度のものだろうと思っていた。
 ところが、先生の授業を聞いて驚いた。
 仏教の教えは、現代でもとても論理的で納得のできるものだったからだ。
 むしろ、進んだ考え方だと思った。
 この授業を取らなかったら、この考え方を知らずに生きていたのかと思うとこわくなる。
 これからは人を助けることを、もっと素直に自然に行えると思う。
 人を助けることは、上の者が下の者に手をさしのべるようなイメージがあった。
 しかし、宇宙が自分自身を助けることはごく自然なのだと知った。
 私の中では大きな発見だった。
 まだ、私のアーラヤ識は自分に執着する心でいっぱいになっているが、少しずつ変えていきたいと思っ た。
 変えていきたいと思えるようになったことが嬉しい。
 ありがとうございます。

 (コメント:こちらこそ、学んでくれて、有難う。)


  1年 男
 社会人(成人という意味ではなく、他とのつながりの中に生きる人という意味で)として生きていく中で、 様々な苦労をし、仏教を体得していきたいと思っています。
 知識として仕込むのは簡単ですが、体得して行動に反映させることはとても難しい。
 自然の意識や、他人への意識においてです。
 例えば国際“社会”は今、競争が激化し闘争に変化しつつあります。
 つながり・調和・一つの社会に生きている地球人、としての意識が薄くなっているのを感じます。
 愛国心を持ち、地球も愛し、60億人間全てのために考え、行動する人間になりたいのです。

 (コメント:そういう人に私もなりたい。)



 彼らはみんな、「リトル・ブッダ」ならぬ「リトル・ボサツ」になってくれたようです。
 心の中で彼らと一緒に「四つの大きな願い」を唱えているイメージを描きました。


  「四つの大きな願い」
 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。
 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。
 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。
 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。

  「四弘誓願(しぐせいがん)」
 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)






   唯識は希望を生み出す魔法の言葉 (2006年01月28日)


 生きる自信の心理学、コスモロジー、唯識−仏教を学ぶと、どうなるのでしょう?
 学んでくれた学生たちのレポート漬けになっています。
 その成果をさらにご紹介させてください。



  2年 男
 この授業を受けるまでは、自己中心的な考え方や損得の考えで生きていて自分が凡夫であることにす ら気がつくことができませんでした。
 しかし、話を聞いていると、自分の今での生き方、行いが恥ずかしく思えてきました。そのようなことに気 付けただけでも一歩進むことができたのではないかと嬉しく思います。
ありがとうございました。

 (コメント:凡夫であるという自覚は、もう凡夫を抜け出しはじめたということです。すばらしい! さらに一 歩を進めよう。)

  1年 男
 私がこの講義を受ける前は、全てのものがつながっている、私に生きている意味があるのか? などと は考えたこともなかったです。
 私は正直、私だけが楽しめればそれでOKであるという、自己中心的な人間でした。
 なぜ生きているのかと問われても、決して答えられなかったでしょう。
 しかし、先生の講義を受けるにつれ、その自己中心的な思考はどんどん変化してきました。
 自分には生きている意味があり、それを放棄したら、私の親が、祖母が……となるのです。
 大地や宇宙に助けられながら、自分中心的な発言、行動ばかりをしてていいのだろうか?……と、その ように考え方が変化してきました。
 先生の講義を受けていなければ、自己中心的な人間のままであったでしょう。
 この1年で学んだ先生の講義は、私を変化させました。
 この考え方を、多くの人に教えていきたいと思います。
 ありがとうございました。

 (コメント:人生は、自己中心をやめるとかえって、自己の生きている意味がわかってくる、という不思議 な――よく考えると当たり前の――構造になっているんですね。生きている意味がわかって、おめでと う! 私もとてもうれしいです。このメッセージ、たくさんの人に伝えていきましょう。)

  3年 女
 人間であるということは、仏になれる可能性があると大乗仏教は語ってきました。
 私はそれは、絶望と孤独とかいった人間のさびしさから救ってくれる、魔法の言葉だと思います。
 そして唯識を学び、理解して、納得していことで、仏になるということ徐々に確信していくのだと思いまし た。
 唯識の言葉を理論として学ぶことは、私たちの生活面からいうとほんのささいな、小さいことだと思いま す。
 私は、六波羅蜜全体を体験することが、唯識に染まること、人間の成熟の依りどころ・原因なのだと思 います。
 だから、私たちはもっともっと唯識な知識や思想を学んでいくべきだと思いました。

 (コメント:おかげで、すばらしいメッセージ・コピーができました。「唯識は希望を生み出す魔法の言 葉、私たちをさびしさから救ってくれる」。有難う。もっともっと、一緒に学んでいきましょう。)

  3年 女
 前期から、私はこの授業にとても興味を持っています。
 今あるすべてのものもともと一つで、だからこそ家族、友達、恋人、自然、人間以外のすべての生き物 が今はとても大切に思えるようになりました。
 何に取り組むにしても前向きに、今の自分が存在していることがうれしく思えるようになりました。
 後期で学習した唯識においても、基本は前期のコスモロジー論と同じであって、一段と生きる力が湧い てきました。
 私は塾の講師のアルバイトをしています。
 その中で、先生にこの一年を通して教えていただいた「すべてはつながっている、私たちは宇宙の子」 を、私なりですが理解をし、考えて生徒たちに伝えました。
 みんな真剣に聞いてくれ、私と同じように生きる力を自分の中に見つけ出してくれました。
 ○○大学に入学し、一番出会えてよかったと思う授業でした。
 ありがとうございました。

 (コメント:希望を生み出す「魔法の言葉」を聞いたら、どんどんリレーをしていきたくなりますね。社会に 希望を広げるお手伝いをしてくれて、ほんとうに有難う。)



 これから合宿に行ってきます(温泉、楽しみだなあ)。
 今回行けなかった、あるいはお誘いしなかった仲間のみなさん、ごめんなさい。
 次回こそ、一緒に行きたいですね。
 まだ仲間に入っていないみなさん、よかったら入りませんか。楽しいですよ。☆






   仏教を楽しむ (2006年1月30日)


 去年の12月の初め、次のようなことを書きました。

 「これから授業は、特定宗教としてではなく日本の精神的伝統の中核としての仏教の話に差し掛かりま す。
 実際の学生でも、ここからが「難しい」といって脱落者が増えてくる段階です。
 しかし、これは「越えなければならない坂」です。
 ……と、ちょっと脅しが入りましたが、仏教がわかると日本の伝統のすばらしさがわかり、日本の伝統の すばらしさがわかると日本人である自分に正当な誇りが持てるようになる=アイデンティティが確立できる =自信がつく、という仕掛けになっています。」

 私は、みなさんに、確かに日本の精神的伝統としての仏教――のエッセンスの部分――を再発見してほしい と強く思っていますが、特定宗教としての「仏教」の布教をしようとはまったく思っていません。
 ここはとても微妙なところですが、ぜひ、ネット学生のみなさんには、このあたりでもう一度確認しておいていた だきたいのです。
 伝統としての仏教の中の、現代人にとっても、現代世界にとっても、普遍的に意味のあるエッセンス――だと 私が理解しているところ――をお伝えしたいのです。
 大学の授業でも、最初にはっきりいい、また時々繰り返して注意を促しています。
 そうすると、学生のほとんどはちゃんと理解してくれます(たまにそれでも「大学で宗教の布教をしていいんで すか」と誤解する人もいますが)。



  1年 男
 後期に入って内容がすごく難しくなりました。正直ついていけるのかと心配していました。しかし、先生が 急がず、ゆっくりと説明してくれて、ついていくことができました。後期は前期と比べ、仏教の深さを知るこ とができました。そこで私が学びとったことは、仏教は楽しいものなのだということ、固定観念から仏教に は良いイメージがなかった私が仏教を楽しむことができました。それは前期の最初に先生が言った「君た ちを仏教徒にするつもりはありません」という言葉のおかげかもしれません。一年間ありがとうございまし た。

  1年 女
 授業を通じて、仏教とはホントに素晴らしいものだと心から感じました。前期と後期、両方を選択したの ですが、明らかに自分の心が良い方向へ変化しているのがわかります。こんなに生活に役立つなんて思 ってもいませんでした。また、先生の言葉で「世の中には素晴らしいものがたくさんあるから、常に心の目 を見開いていないともったいない」という言葉がとても印象に残っています。この言葉と授業で学んだこと を、心に留め、日々生活していきたいと思います。そして、自分が少しでも成長し、人生を楽しく過ごせた らよいと思います。

                    *

 ネット学生のみなさんに対しても、「君たちを仏教徒にするつもりはありません」、でも「仏教を楽しむことがで き」、「仏教とはホントに素晴らしいものだと心から感じ」て、「世の中には素晴らしいものがたくさんあるから、常 に心の目を見開いて」、「人生を楽しく過ごせ」るようになるためのヒントにしていただきたいと心から願っていま す。
 明日か明後日くらいから、本格的に授業が再開できると思います。
 待っていてください。






   唯識を学んで元気になろう! (2006年1月31日)


 大乗仏教の標語とさえいえる「空」や「無」という言葉は、かなり誤解を招きやすい言葉です。
 言葉の印象で、「すべては空しい」とか、「結局はすべて無になってしまうのだ」とか、「この世には絶対的な意 味や価値・倫理の基準などないのだ」というニヒリズム的な意味に誤解されがちです。
 大学の授業ではネット授業以上にくわしく「空」の正しい意味を説明するのですが、それでも「話を聞いていた ら、なんだか、すべて空しいような気がしてきました」という学生がいたりします(ネット学生のみなさんは、だいじ ょうぶですか?)。
 「空」への誤解は、仏教の外部だけではなく内部にさえあったようで、そういう人は「悪取空者(あくしゅくうし ゃ)」つまり空を間違って取る人と呼ばれました。
 大乗仏教の流れの中で、そうした誤解を解くためにより説明のくわしい体系的な理論が工夫されました。それ が、「唯識(ゆいしき)」という教えです。
 「大乗仏教の経典」のところでお話しましたが、紀元2,3世紀頃、「中期大乗仏典(第1期)」と分類されるいろ いろなお経が作られた中に、唯識の一番古い経典である『解深密経(げじんみっきょう)』や、今日ではもうサン スクリットも漢訳もチベット訳も残っていない唯識の経典、『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』があ ります。
 ……と、このあたりの話をしていると、退屈して居眠りを始める学生がいるので、ちょっとここで目覚ましのた めに、注意してほしいことがあります。
 世界の思想史を調べてみると、どうも人間は文明を形成し、動物的な自然から離れた自意識的な生活をする ようになって以来ずっと、近現代に到るまで、「空しさ」・「ニヒリズム」の問題に悩まされてきたようです(例えば パスカルや、典型的にはニーチェ)。
 (あまりそういう問題に悩まされない能天気な人もけっこういるようで、それはそれでとりあえずいいんじゃない か、と私は考えていますが。)
 「生きてても意味ないんじゃないか?」という問いは、あなただけの個人的・特殊な問題ではないんですね。
 ゴータマ・ブッダの教えも大乗仏教の空の思想も、その無意味感・不条理感と取り組んで、克服しようとしたも のだ、といっていい面があります。
 そして、ブッダ自身や大乗の菩薩たちの境地としては、もちろん克服できていたのだと思われます。
 しかし、言葉による説明としてはまだ誤解される危険が残っていたのです。
 そこで、さらに何とか誤解をなくそうと、新しい説明体系が考え出されたのが唯識という仏教哲学でした。
 「空しさ」との闘いは、何と二千五百年も前から続いているけれども、実はすでに千七、八百年前、唯 識によって、みごとに一つの決定的な思想的決着はつけられていたのだ、と私は捉えています。
 ですから、唯識を学んだ学生たちが、「胸がいっぱいなるほどの幸せな気持ちと感謝の気持ちがこみ上げて きます」、「生きる力が湧いてきました」、「絶望と孤独とかいった人間のさびしさから救ってくれる、魔法の言葉 だと思います」というふうな感想を述べてくれるのです。
 しかもそれは、特定の教祖・教義・教団などを絶対視するという意味での「宗教(呪術的・神話的宗教)」を信じ 込むことによって生まれた気持ちではありません。
 理性的・哲学的な普遍・妥当性がある理論を学んで納得し、しかもそれを超える「霊性」への目覚めを感じた ことによるものなのです。
 そのことを私はわかりやすく、「心の眼を開けて、自分の元々の姿、自分の根づくと〈元気〉になるんだ よ」と説明しています。
 では、みなさん、これから、唯識を学んで元気になろう!






   唯識:コスモスからのメッセージ (2006年2月1日)





 「唯識(ゆいしき)」は、『解深密経(げじんみっきょう)』や『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』など を元に、さらに体系化された大乗仏教の理論です。
 「識=心」へのくわしい洞察があり、しかも心の無意識の領域・深層心理のみごとな解明がなされているので、 私は「大乗仏教の深層心理学」だと評しています。
 ここで、「あ、ムズカシソウ」と引かないでください。
 大丈夫です。これまでの学生の感想にもあったとおり、がんばれば、ポイントは必ずわかります。
 学問としての唯識は、理論としては確かに難解であり、膨大な文献もあるのですが、私たち自身の心がどうな っているのかを知るためのヒントとしてのポイントは、そんなにむずかしくはありませんし、膨大な知識は必要あ りません。
 私の授業では、詳細・緻密・難解な唯識学全体ではなく、元気に生きるためのヒントになるポイントにしぼって 紹介することにしています。
 とはいっても、最小限の歴史的知識などはお伝えしておいたほうがいいでしょう。
 唯識の理論を体系化したのは、マイトレーヤ(弥勒、みろく、350-430)、アサンガ(無着・無著、むちゃく・むじゃ く、395〜430)、ヴァスバンドゥ(世親、せしん・せじん、400〜480)という3人の仏教哲学者――「論師(ろんじ)」と 呼ばれます――です。
 マイトレーヤは、伝統的には弥勒菩薩と同一視されてきましたが、現代では同名の論師がいたのであろう、と もいわれています。
 歴史的実在が確実なのは、次のアサンガ・無着からです。
 代表的な著作として『摂大乗論(しょうだいじょうろん、マハヤーナ・サングラハ)』があります。
 私は、これを漢訳から現代語訳(コスモス・ライブラリー刊、星雲社発売)しており、そのタイトルにちなんで私 の研究所を「サングラハ心理学研究所」としています。
 また、その内容の概説として『大乗仏教の深層心理学――摂大乗論を読む』(青土社)を書いています。
 この入門授業を受けた後で、もっと学びたくなったら、取り組んでみてください。
 次のヴァスバンドゥ・世親は、アサンガ・無着の肉親の弟で、インド唯識学の大成者といわれます。
 たくさんの著書があるのですが、もっとも代表的なものが『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』です。
 私は、これについても、『唯識の心理学』(青土社)という入門的な解説書を書いています。
 後に、唐代の有名な訳経家・玄奘三蔵(?−664)とその弟子基(窺基、きき、632−682)が、インドで出来た 『唯識三十頌』に対する10の注釈書を編集して1冊にまとめた『成唯識論(じょうゆいしきろん)』が、中国と日本 の唯識を学ぶ学派である「法相宗(ほっそうしゅう)』の基本的な聖典になっています。
 このあたり、もう少しくわしく歴史的なことを知りたい方は、拙著『唯識のすすめ――仏教の深層心理学入門』 (NHKライブラリー)の第1章「唯識の来た道」、さらにくわしく知りたい方は、横山紘一『唯識思想入門』(第三文 明社レグルス文庫)の第1章「唯識思想の展開」などをお読みください。
 ただまとめて考えておきたいのは、2、3世紀インドに始まり、4、5世紀大成された唯識は、6、7世紀中国に 伝わり、7世紀中国・唐に派遣された遣唐使の学僧たちが玄奘三蔵から学んで日本に伝え、多くの人々の努力 によって現代にまで伝えられたものだということです。
 この1800年のつながりは、さらにゴータマ・ブッダまで2500年つながり、さらにホモ・サピエンスの数十万年 につながり……生命40億年、地球46億年、宇宙137億年の歴史に、どこにも切れ目なくつながっています。
 これは、とても不思議なことですね。
 私にとって唯識は、137億年かけて私に届いた「コスモスからのメッセージ」のように思えることがありま す。






   「ただ心だけ」とは? (2006年2月2日)





 「唯識」の原語(のカタカタ表記)は、「ヴィジュニャプティ(認識する心)‐マートラター(ただ〜のみ)」で、「ただ 心だけ」という意味です。
 この「ただ心だけ・唯識」というのが、学派のモットーであるわけです。
 学派としては、「ヴィジュニャーナヴァーディン」といいます。
 瞑想・禅定(ヨーガ)を深く探求したので、「瑜伽行派・ヨガチャーラ」とも呼ばれます。
 ここから予想できるとおり、「唯識学」とは、禅定といういわば臨床体験を元にして迷いから覚りへという心の 変容の体験をきわめて明快に理論化したものです。
 私は、そういう意味で「大乗仏教の深層心理学」と評しているわけです。
 しかし、面倒ですがここで一言いっておかなければならないのは、伝統的な唯識には2つの側面があり、ここ では、ほとんどその1つの面についてのみお話ししていくつもりだ、ということです。
 まず1つは、今もいったとおり、心の変容についての理論という面で、現代的にいえば心理学的な側面です。
 あるいは、哲学的には認識論的な側面といってもいいでしょう。
 この面の唯識の洞察は、学んでみると現代の私たちにとってもきわめて説得的で、どんな心で生きればいい のかということについてすばらしい道しるべ・ヒントになります。
 もう1つは、「すべての存在は心が作り出したものである」という唯心論的な存在論という側面です。
 こちらは、哲学的には興味深いものがあるのですが、私たちの心の外に心とは独立にいろいろなものがある ということが常識になっている現代人には、なかなか理解・納得ができません。
 そこで引っかかっていると、せっかくのすばらしい道しるべという面を活かすことがむずかしくなってしまうの で、私は臨床的・実用的な有効性という視点から、この面についてはふれないことにしています。
 「すべての存在はただ心が作り出したもの」ということはなかなか納得できなくても、「すべてのものがどう見え るかはただ心のあり方しだい」ということなら、ちょっと考えていくとすぐにわかってきます。
 そして、「ただ心のあり方しだい」で悩んだり、苦しんだり、迷ったりしている人間が、「ただ心のあり方し だい」で爽やかで、楽しく、まっすぐな人生を送れるように変わることができる、ということをきわめて体系 的・説得的に教えてくれるところが唯識のミソだ、と私は評価しているのです。
 例えば、子どもたちのきゃっきゃっと遊ぶ声は、こちらの心がいらだっていると「うるさいもの」に聞こえ、こちら の心がおだやかだと「楽しそうでかわいいな」と感じられます。
 おなじ「もの」のようでありながら、まるで別の「もの」のように感じられるのですね。
 何よりも、おなじ――のように思える――人生が、「ただ心のあり方しだい」で、まるで変わってきます。
 ですから、「心のあり方」をどうするかは人生の最重要課題だ、といってもいいでしょう。
 心のあり方をどうすれば、いい人生が送れるか、これから唯識が教えてくれるすばらしいヒントを学んでいきま しょう。

*写真は、先日、箱根ガラスの森美術館で見たヴェネチアン・ガラスのグラスです。
 あなたの心には、美しいと見えるでしょうか。それとも、どうってことはないというふうに見えるでしょうか。
 あなたの趣味(つまり心のあり方)しだいですね。






   3、4(8)、5、6、∞ (2006年2月3日)


 「唯識を学ぶと」のところで引用した学生のレポートにうまくまとめてくれてあったように、唯識のポイントは、3 と4(とその倍数8)と5と6と∞(無限大)に関する唯識のコンセプトがわかったら、だいたいつかめます。
 私はまだ若くて貧乏だった頃(今は若くなくなって、しかも金持ち父さんにはなっていませんが)、どちらかという と勉強のできない子のための学習塾をやっていて、相手があまりできない子ですから、いろいろわかりやすく、 覚えやすくするための工夫をしました。
 その癖が抜けないのか、必要以上にむずかしい話をするのが好きではなく――自慢ではないけれど…単なる 自慢ですが、やろうと思えばできるんですよ――「早い話が…」と大切なポイントをお伝えするのが得意になりま した。
 唯識は、専門的に学ぶととても難しいとされています。
 「桃栗三年、柿八年」をもじった「唯識三年、倶舎八年」という言葉があって、まず仏教の基本的な概念を倶舎 論で八年学んで、その後でもう三年学んで、ようやくいちおうマスターできる(いちおう、です)とされてきました。
 でも、私は大学では後期だけで伝えますから、「早い話が…」、「唯識半年(はんねん)、倶舎はなし」ですね。
 まず、3、4(と8)、5、6、∞、と覚えてください。
 3は「三性(さんしょう)」、
 4は「四智(しち)」、
 8は「八識(はっしき)」、
 5は「五位説(ごい)」、
 6は「六波羅蜜説(ろくはらみつ)」、
 ∞は「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」、です。
 「急がば回れ」ということわざもあります。今日はここまで。
 よかったら、「唯識を学ぶと」のまとめをざっと見ておいてください。
 「なんかムズカシソウ」と思った方、「学びに終わりはない」のところの学生の感想を見てみてください。だいじょ うぶです。
 参考までに、もう一つ(4年の女子学生のものです)。

 後期から仏教心理を受講して、仏教の教えが私たち人間や全ての命あるものがよりよい人生を送るた めのものであり、その思想・教えの正しい理解・解釈によって、それらが普遍的なものとしての教えにとど まらず、より洗練された個人の思想となり、私たち一人一人の一度きりの人生を有意義でかけがえのな いものにしてくれるのではないだろうかと感じた。
 また、仏教の教え・思想は私たちすべての人に通じる集合的無意識となっているのではないだろうか。 そのため、仏教の教えは学ぶというよりも、それらを想起させる過程ではないかと私は感じた。

 学ぶというより思い出す、のですから、ムズカシクナイ!
 あ、記憶喪失ぎみだと、かえってムズカシイかもしれないですけどね。






   心の深みをかいま見る――集合的無意識とアーラヤ識
   (2006年2月4日)


 私たちはふだん、「自分のことは自分がいちばんわかっている」、だから「自分のことは自分で決められる、自 分でコントロールできる」と思いがちです。
 そして、こういう気持ちは、行き過ぎさえしなければ、健全に生活していくためには必要なものです。
 そういう「わかっているつもりの自分」を、心理学ではおおまかにいうと〈意識〉とか〈自我〉とか呼んでいます (枚数の関係で以下すべておおまかにいうと、です)。
 しかし、人生でいろいろな出来事に出会うと、「自分でも自分のことがわからなくなった」とか、「どうすればいい のか、自分のことを自分で決められない、自分をコントロールできない」という心理的な混乱に陥ることがありま す。
それは、外側の出来事が原因である場合もありますが、心の内側の出来事による場合もあります。
 「抑えても抑えても、なぜか、不安が湧き起こってくる」とか、「やめたほうがいいとわかっているのに、どうして もやめられない」とか、「思うまいと思うのに、思ってしまう」とか、自分で自分をコントロールできないことがあり ます。
 そういう時の、抑えたり、やめたほうがいいとわかっていたり、思うまいとする心の部分が〈意識〉で、なぜか湧 き起こってきたり、どうしてもやめられなかったり、思ってしまうという働きをさせるのが〈無意識〉だと、これもお おまかに考えていいでしょう。
 つまり人間の心にはどうも、自分でわかっているつもりの〈意識〉だけでなく、自分でもわからない〈無意識〉の 領域があるらしいのです。
 自分の心でありながら、自分にわからない、自分の思いどおりにならないというのは、少し不気味であり、とて も不都合なこともあるのですが、それが事実だとしたら、しかたありません。
 現代の深層心理学の創始者フロイドは、人間の心にはそうした深みがあることをはっきりと理論化した近代 最初の人です(ある程度の理論化をした先駆者はいます)。
 しかし、フロイドは――特に初期から中期くらいまで――無意識はその人個人の心の領域だと考えていたよう です。
 それに対して、一時期は歩みを共にしていたユングは、人間の心の深みには、その人個人の体験とその記憶 とは思えない領域があると考えました。
 家族や先祖、民族、人類などのレベルにわたって共有している心の深みがあるというのです。それを〈集合的 無意識〉と呼びました。
 その点での理論的な対立のために二人はやがて訣別します。
 例えば夢ですが、もちろん個人の昼間の体験が単純に再現されたり、いろいろ形を変えて現われたり、個人 の心の奥にあった欲望を実現したりするという夢もあります。
 しかし、ユングは、それでは説明のつかない、不思議な、象徴的な夢を見ることがあるといいます。
 それは彼の体験に基づいていて、三、四歳頃、一生涯ずっと自分の心を奪うことになった夢を見たというので す。
 ユングは、スイスのプロテスタント・キリスト教の牧師の子どもで、そういう文化背景では、当然、神は天にいる わけです。
 ところが夢の中で、地下道の階段をずーっと降りていくと、そこに男根のようなかたちをした神がいて、それを 見て彼が怖がっていると、お母さんの声が「そうなの、よく見てごらん。あれは人食いなんだよ」というのを聞い て、汗びっしょりになって、目を覚ましたといいます。
 それから、同じ夢を見はしないかと、毎晩寝るのが怖いという体験をしたというのです。
 そういう「地下の男根のようなかたちをした神」というイメージは、キリスト教の牧師の子で三、四歳という年で は、どこかで何かを見たり、教えられたりしたという、個人的体験から来るとは思えないというわけです。
 ユングは、幼時からこうした夢やイメージが心の奥から湧いてくるという体験が重なり、それが何なのか説明し なければ、発狂するかもしれないという心の危機に、人生で何度も遭遇し、やがてそうした夢やイメージとそっく りのものがキリスト教以外の世界の様々な神話にあることを発見していきます。
 そしてそうした神話、夢、イメージを生み出す、個人性を超えた心の奥底の領域を〈集合的無意識〉と呼ぶに 到ったのです。
 そして、人生とはそうした集合的無意識と意識とが様々な葛藤を繰り返しながら、やがて一つに統合され、そ の人固有の心のあり方を作り上げていく〈個性化〉のプロセスである、と考えるようになったのです。
 そうしたフロイドやユングの無意識の捉え方=深層心理学は、二十世紀に誕生したものですが、不思議なこと に早めに見て二、三世紀のインドにはすでに、ある意味での深層心理学が確立されていました。
 大乗仏教の理論の一つで、「唯識学」といいます。
 特に理論的に完成された四、五世紀には、人間の心の中には、自分でわかっているつもりの五感と意識以外 に、もっと深い心の奥底があることが理論的に捉えられています。
 簡単にいうと、自分だけで存在できる自分というものがあるという思い込みとこだわりの領域=マナ識と、いの ちを維持しそれにこだわる心の底の領域=アーラヤ識があるというのです。
 私たちには、あまり自分にこだわるのはよくないとわかっていても、なぜか、どうしても自分にこだわるという心 の働きがあります。
 つまり、意識で理解し、意思的にコントロールしようとしても、どうにもならないエゴの働きが、心の奥にあるよ うです。おおまかにいうと、それが〈マナ識〉です。
 そしてさらに、生命というものは生まれて、育ち、老い、死ぬのが自然なことだといくらわかっていても、どうして も、それを自然に受け容れることができず、生命に執着し、死ぬのを恐れる心があります。
 その源になっているのが〈アーラヤ識〉です。
 このアーラヤ識は、意識や身体がなくなっても、前世から現世、そして来世へと輪廻していくものだと考えられ ています(説明するスペースがありませんが、これは「魂」ではありません)。
 こうして見ていくと、深層心理学の心の捉え方の意識と個人的無意識と集合的無意識という図式と、唯識学の 意識とマナ識とアーラヤ識という心の捉え方は、どちらも三つの層から成っていて、これは単なる偶然だとは思 えません。
 もちろん、いろいろな違いはあるのですが、筆者は、これは同じ〈心〉というものを、それぞれやや別の角度か ら見たために出来た理論上の違いであり、矛盾・対立するものではなく、人間の心をより深く、より豊かに理解 する上で補い合うものではないかと考えています(詳しくは拙著『唯識のすすめ』NHKライブラリーをご覧下さ い)。
 自分でわかっている部分だけが自分の心ではなく、自分の知らない、そして家族や先祖や民族や人類にまで 連なり、前世から来世にもつながった、心の深みがあるということは、考えようでは恐いことです。
 しかしそれは、見方しだいでは、人間が狭い個人性や現世だけに限定された存在ではないことを示していると いう意味で、畏怖を感じざるをえないほど人間というものの不思議さ、豊かさ、深さを感じさせてくれることでもあ ります。
 〈集合的無意識〉や〈アーラヤ識〉という考え方を知ることは、自分の心の測り知れない深みをかいま見ること です。
 そして、かいま見た後、恐さのあまり目をそらすか、それとも惹かれて見入るか、それを決めるものは何なの でしょうか。
 それ自体が、集合的無意識・アーラヤ識なのかもしれませんし、〈縁〉ということなのでしょう。

 ようやくレポートの採点がすべて終わり(ほっ)、唯識の本格的な授業に入るつもりだったのですが、また別の 用事ができました。
 must化はしないつもりなので、無断休講しようかと思ったのですが、なんとなく落ち着かないのと、ふと前に書 いた唯識のポイントに関わる文章(’02.5 『東京福祉会だより』)をみなさんに読んでもらいたいなと思ったのと で、今日は、以上、転載しました。
 明日は、休講かもしれません。よろしく。






   三性1:ものの見方の3つのパターン (2006年2月6日)


 たいていの人は、毎日、自分が誰であるか、何をすべきか、社会というものがどういうものであるか、等々、ち ゃんとわかっているつもりで生きています。
 しかし、そういう「わかっているつもり」が、深い意味では「無明」である、とゴータマ・ブッダは教えていました。
 そもそも「わかる」というのは、「分かる」ということで、物事を分けて他のものと違うと「別ける」ことです。
 例えば、向こうから歩いている人を見て、誰だかわかるということは、その人が男ではなく女であったり、少女 ではなく大人の女性であったり、他人ではなく友達だというふうに分けて違いがわかるということです。
 しかも、そういうわかり方の背景にはさらに、彼女が人間であって犬でも猫でもなく、道路でも建物でもない別 のもの(者)であるという分け方があります。
 そういうふうに私たちがふだんやっているものごとを別々のものとして分けて「わかる」という心の働きを仏教 では「分別」といいます。
 しかし「縁起」の解説の時にお話ししたように、実はすべてのものはつながって起こっているのであって、分か れて別々に存在しているのではありません。
 例えば女性は、女性としてのみ分離独立して存在しているわけではなく、男性と同じ人間という関わりがあっ たうえで、男性と区別できる異なった性として存在してるわけです。
 もちろん区別はあるのですが、分離はしていません。
 またその女性は、もちろん道ではありませんが、道との関わりがあるからこそ歩くことができるわけです。
 そしてその女性の歩いている道は地面の一部であり、○○町の一部であり、○○市の一部であり……と、他 の土地とつながっています。
 またその女性は、空気ではありませんが、空気を吸うことによって存在することができるのです。
 ……というふうに、よく考えるとすべてはつながり・関わりによって存在している、つまり縁起的に存在している のでしたね。
 そして、私たちが普通にしている「分別」は、深い見方からすると「無明」なのでした。
 唯識ではそういう私たちの「分別」という心の働き方を、1つのものの見方のパターンとして「分別性(ふんべつ しょう)」あるいは「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」と呼んでいます。
 それに対して、つながり・関わり・縁起を見るものの見る見方を「依他性(えたしょう)」あるいは「依他起性(え たきしょう)」といいます。
 そしてさらに、すべてのものがつながり−つながり−果てしなくつながっていて、結局は一つであるというほか ない事実を見る見方を「真実性(しんじつしょう)」あるいは「円成実性(えんじょうじっしょう)」といいます。
 (前のセットは真諦三蔵の訳語、後のセットは玄奘三蔵の訳語です。前のセットのほうがわかりやすいので、 この授業では以後、そちらを使うことにします。)
 以上のような、分別性、依他性、真実性というものの見方の基本的な3つのパターンを取り出して、迷いのも のの見方と覚りのものの見方の違いを明らかにする唯識独特の理論を「三性説(さんしょうせつ)」といいます。
 次から、この「三性説」について、もう少し詳しく見ていきましょう。






   三性2:言葉と分別性 (2006年2月7日)


 私たち人間は朝起きてから夜寝るまでほとんどの時間、言葉を使って生活しています。
 実際に話したり聞いたりしていないときでも、心の中で言葉がめぐっています。
 考えるのは、ほとんど言葉をめぐらせることで考えるわけです。
 「イメージ思考」というのもないことはありませんが、ほとんどはやはり言葉で考えるのです。
 そういう意味でいえば、人間は言葉漬け状態になっているといってもいいくらいです。
 そのために、言葉を使って認識した世界の姿がそのまま世界の本当の姿だという錯覚があっても、なかなか その錯覚に気づくことができません。
 そのあたりのことは、すでに「言葉の栄光と悲惨」という記事である程度触れました。
 世界中の言語のほとんどが、主語+述語、特に名詞・代名詞と動詞という仕組みで物事を捉えるようにできて いるそうです。
 進化のある段階から言葉を使い始めた人間は、つながりあって一つである宇宙の特定の部分に特定の「名 前」をつけて認識するようになりました。
 一体であるとはいっても、全体としての宇宙はもちろん特定の部分と他の部分とを区別することはできるよう な姿をしています。
 ところが、名詞というものがそれぞれ分離独立しているために、名前を付けて認識すると、特定の部分が他の 部分から分離独立して存在しているかのように思えてくるのです。
 例えば「私」は、これまでいろいろな点から見てきたように、私だけで生きていられるわけではなく、私ではない さまざまなものによって生きていることができるのです。
 水や空気や食べ物や太陽エネルギーなどなどは、常識的には「私」ではないように思えますが、実は私を私と して生かしてくれているものであり、私の中に取り込まれた時には、私そのものの構成要素の一部になります。
 「私は私でないものによって私であることができる」というのが、不思議なように思えますが、事実です。
 ところが「私」という代名詞を使って自分を認識すると、まるで「私は私だけで生きている」というふうな気になり がちです。
 他のもの(者・物)に依らず、それ自体で分離独立しているものがあるように思うものの見方のことを、唯識で は「分別性(ふんべつしょう)」といいます。
 この「分別性」こそ「無明」の正体なのです。
 そしてその分別性=無明は、言葉を使うという人間の本性に関わっているので、人間は無明から解放される のがきわめてむずかしいわけです。

 補足的に少しだけ面倒なことをお話ししておくと、古典的な論理学では思考・言葉の法則として3つの原理をあ げます。
 まず、「AはAである」という「自同律」または「同一律」と呼ばれるものです。
 これを私に当てはめると、「私は私である」ということになります。
 次は、「Aは非Aではない」という「矛盾律」です。
 これを私に当てはめると、「私はあなた(など私以外の人間)ではない」ということになります。
 さらに、「Aでも非Aでもないものは存在しない」という「排中律」です。
 これを私に当てはめると、「私でも私でもないものは存在しない」ということになります。
 こういうふうな言葉の法則によって私と私でない人を認識すると、下手をするとすぐに「私は私であって、あな たではない。私の利益は私の利益であって、あなたの利益ではない。私の利益でもあなたの利益でもないもの は存在しない。利益は私のものかあなたのものかどちらかであって、1つになることはない」というふうな考えに 陥りがちです。
 言葉の論理や秩序を元にした人間の認識は、ともすれば分裂や対立に陥る強い傾向をもともと持っているの です。
 こうしたことを見ていくと、しみじみ言葉を使う動物・人間というものの厄介さを感じずにはいられません。
 (このあたりについて詳しく知りたい方は、八木誠一『自我の虚構と宗教』春秋社を参照してください。絶版にな っていますが、探せば古本屋で見つかると思います。)
 ……しかし、仏教の話はこういう暗い話で終わりではないのでしたね。
 続けて学んでください。 






   三性3:ばらばらからつながりを見る (2006年2月8日)


 ふつうの人はたいてい大人になると、「私は私だ」と思うようになります。
 さらに、「私は私で生きている」と思ったり、「私の人生は私のものだ」とか、もっと進んで「私はだれの世話にも なっていない」とか「どうしようと私の勝手だろう」という考えを持ったりします。
 こういう考え方はあまりにもありふれているのでおかしいとは思われないことが多いのですが、よく考えてみる ととてもおかしい考え方です。
 そもそも私は、私でない人たちつまり親によって産んでもらわなければ私になることができませんでした。
 私は、私でない人によって私にしてもらったのです。
 ですから、「私は私だ」としか思えないのは、そういう人生の出発点・原点を忘れたおかしな考え方だというほ かありません。
 私たちは赤ちゃんの時は全面的に人の世話になって生きていたわけで、「だれの世話にもなっていない」とい えるような人は、おそらく世界に1人もいないでしょう。
 もちろん、大人になった時点で人にあまり余計な世話をかけてはいないという人は多いわけですし、そうでな いと困ります。
 しかし、毎日に暮らすために必要な食べ物を全部自分で作っているという人は少ないでしょうし、家を自分で 建てた人も多くはないでしょう。
 日常に使っている生活用品を全部自分で作っているという人は、少なくとも文明社会には1人もいないのでは ないでしょうか。
 もちろんそういうものを手に入れるに際してちゃんと代価を払っているという意味でなら、「世話になっていな い」といえないこともありません。
 しかし、たとえ代価を払っていても他の人の手を借りていることはまちがありません。
 そういう意味でいえば、実にたくさんの人の世話になっているのです。
 ただ人間だけではなくて、食べ物になってくれる植物や動物、それらを育む大地、育むために不可欠な水や 空気、生命エネルギーのすべてを供給している太陽、そして太陽を含んだ銀河、そして無数の銀河を含んだ全 宇宙すべてのおかげで、私が私であることができるのです。
 さらにそういう自分やそれ自体によって存在するのではなく、他に依って存在することができるというのは、全 宇宙を別にすれば宇宙の中のすべてにいえることです。
 ゴータマ・ブッダの用語でいえば「縁起」というのは、全宇宙を貫く法則・真理なのです。
 唯識は、その縁起を見るものの見方を「依他性」と呼んでいます。
 分別的なものの見方にどっぷりとつかった私たちふつうの人間も、縁起の世界をまるで見ないわけではありま せん。
 いくら、「私は私だ」と思っていても、他のもの(者・物)との関係なしに生きていると思っている人は、心の病気 の人を除けば、いません。
 しかし他のものとの関係を考える時、私たちは自分との関係で考えることがほとんどです。
 「私にとっていい人」とか「私が嫌いな人」とか「私に関係のない人」、「私の好きなもの」とか「私の嫌いなもの」 とか「私の関心のないもの」というかたちです。
 他と分離して存在していると錯覚された「私」を中心にして、そこから他の人や物を見るのです。
 こういうものの見方を唯識の言葉で整理すると、「分別性から依他性」ということになります。
 前回、「分別性こそ無明の正体なのです」といいましたが、より正確にいうと、「分別性の見方でしか依他性の 世界を見ることができないことが無明の正体だ」ということができるでしょう。
 やさしく言い換えると、ばらばらのものの見方からつながり・かかわりの世界を見るのがすべての間違いの始 まりだ、ということですね。

 ここからは、伝統的な唯識学でいわれていることではないのですが、私のコメントとしていえば、「分別性から 依他性」はすべて無明だといっても、分別性と依他性のどちらに重点が置かれているかによって、覚りの世界 に近いか遠いかの違いはあります。

 覚っていなくても、いつも自分を中心にしてしか人や物との関係を考えられない人よりも、まず他の人や物との かかわり・つながりを考えることのできる人のほうが、人間としてよりよいといえるでしょう。
 たとえ縁起や無我や空を覚っていなくても、他の人や物とのご縁をとても大切にするやさしい人が「仏さまみた い」といわれるのは、当然だと思います。
 私たちは、覚った人=仏にはなれなくても、少しでも「仏さまみたい」なところのある人間に成長できるといいで すね。
 四つの大きな願いのC「ほんとに最高にいい人になれるといいよね」という気持ちで、できるだけの努力を していきましょう。






   三性4:おかげさまに気づく (2006年2月11日)





 私と親とどちらが先にいたでしょう?
 あまりにも当たり前のことですが、私よりも親たちのほうが先にいました。
 親たちとその親たちのどちらが先にいたでしょう?
 もちろん、親たちの親たちです。
 私よりも先に親やその親やご先祖さまがいました。
 私と私の食べる植物や動物のどちらが先に存在していたでしょう。
 植物や動物ですね。
 何度も繰り返してきたことですから、ここでは細部は省略しましょう。
 ともかく、それらの無数のつながりの中で=おかげで、私が生まれてくることができた、私が私になることがで きたわけです。
 つまり、私が生まれてくる前に、私が生まれる条件になっているさまざまなもののつながりが先にあったので す。
 個々のもの(者・物)が存在する前に、つながりが存在しています。
 これは、ふだん私たちが思ったり、議論したりしないこと、つまり不思議なことで、でも気づいてみると確実な事 実ですね。
 個々のものの存在に先立つつながりの世界、あるいはそういう世界を見るものの見方を「依他性(えたしょ う)」というのでした。
 ばらばらを見る見方=分別性に対して、つながりを見る見方=依他性です。
 依他性の世界が先立つ事実である以上、そちらを先に見るものの見方のほうが正しいといわざるをえませ ん。
 ばらばらを見る前につながりを見るのがより正しいものの見方だ、というのが仏教の基本的な主張の ひとつだといっていいでしょう。
 個々のもの、特に私から始めてものを見たり考えたりするのをやめて、まずかかわり・つながりからものを見 たり考えたりできるようになってくると、覚りの世界に大きく近づいたことになります。
 ここで、改めて私を私にしてくれている実に無数のかかわり・つながりのことを、できるだけ詳しく思い浮かべ てみてください。
 そうすると、きれいごとや儀礼や強制的倫理としてではなく、自然な認識に基づいた自発的な思いとして、「私 の自由でしょ」、「オレの勝手だろ」ではなく、「おかげさま」という言葉が心に浮かんでくるのではないでしょう か?
 依他性というのは、わかりやすくいうと、事実としての「おかげさま」の世界にしっかりと気づくということ です。
 昔は若気の至り――自分の性格のせいと戦後個人主義教育のせい――で、「私は私だ(哲学用語でいうと 「実存」)」とか言っているのがかっこよくて、「おかげさま」などという虚礼のセリフなんて下らないと思っていたこ とが、ほんとうに恥ずかしくなります。
 「おかげさまです」――それにしても日本語にはいい言葉があるなあ、と思うようになったのは、いい意味で 「歳のせい」だと思います。
 いい取り方なら、歳は取るものですね。

  *写真:日当たりのいいところではもう水仙が咲き始めました。






   三性5:コスモスと私は一つ (2006年2月12日)





 私たちは、事実としてつながりの世界に生きています。
 ですから、誰ともつながり・かかわりのない一人ぽっちの人は、気分としてはたくさんいても、事実としては一人 もいない、のでした。
 無数の私ではない、しかし私の依りどころとなってくれているもの(者・物)が存在しています。
 それどころか、私でないものと私はさまざまな意味でつながっていて、結局は一体です。
 すべては究極のレベルでいうと一体であるというのが真実の世界のすがたです。
 そのことを、唯識では「真実性」といいます。一つの世界、一つの世界を見る見方ですね。
 私の存在の前に、すべてがつながって一体であるコスモスがあったのです。*
 そして、瞑想的直観と現代科学*は、すべてのものがそれぞれのかたちを持って現われるよりも前に、まず 一体のコスモスがあった、といっています。
 どうも、それがほんとうのこと、真実の世界であるようです。
 唯識に先立つ中観の思想では、そういう真実の世界を「空」と表現しました。
 先にお話ししたように、そこには深い意味が含まれているのですが、「空」という言葉の印象のせいで、聞く人 に誤解を与えがちでした。
 そこで唯識学派の人々は、空の世界を「真実性」、玄奘の訳では「円成実性(えんじょうじっしょう)」と表現しな おしたわけです。
 一切の分離のない一体の世界を見ること、一つを見る見方とは、ゴータマ・ブッダ以来の言葉を使えば「覚り」 ということです。
 すでにつながり‐かさなりコスモロジーと空の思想について学んできたみなさんには、「コスモスは一つ」、 「コスモスと私は一つ」ということについて、これ以上くわしく説明する必要はないでしょう。
 それにしても、始めて気づいた時から今に到るまで、これはほんとうに不思議なことだなあ、と私は繰り返し感 じます。
 「空・一」は、分別知−言葉では思うことも議論することもできないのですから、不思議に思うのが当たり前か もしれませんね。
 レイチェル・カースンさんの言葉を借用すると、「センス・オヴ・ワンダー」です。
 コスモスのおかげでいまここに私が存在することができている、コスモスとこの地球とすべての生き物と人類と 私が一体、というのは、とても不思議で、とてもすばらしいことですね。
 What a wonderful world !
 ……と、ここまで学んでいただけたら、仏教が楽しく生きるための理論と方法であることを納得していただける ようになってきたのではないでしょうか。
 ゴータマ・ブッダの言葉をもう一度引用させてください。
 「悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み 無く暮らそう。」

  *写真は去年の鎌倉の梅の花です。もうすぐまた咲きますね。






   三性6:見る方向で見えるものが違う (2006年2月13日)





 一見難解そのものに見えた唯識も、わかってみると、ポイントはシンプルでした。
 (……といっても、ポイントがシンプルなだけで、専門的な唯識学の理論はもっともっと詳細・緻密ですよ。そこ は誤解なきよう。)
 三性説についていえば、ばらばらからつながりを見るのがまちがい、一つからつながりを見るのが正しい、と いうことなのです。
 分別性で依他性の世界を見るのは無明・迷い、真実性で依他性の世界を見れば覚りです。
 おなじつながりの世界を、どちらから見るかで、結果はまるで違ってくるのです。
 見る方向で、見えるものがまるで違う。
 まあ、考えてみるとそれは当たり前ですね。
 おなじ絵でも、前から見るのと後ろから見るのでは、見えるものがまったくちがいますからね。
 前から見れば美しい名画だけれど、後ろから見たらそれほど美しくもない額の裏側ということになります。
 一つのものとして世界をみると、「なんてすばらしい世界なんだろう」と感じますが、ばらばらの面を見ると、時 に「なんて醜い世界だろう」とうんざりしたり、絶望的な気分になってしまうことがあります。
 さて、理論のポイントはこんなにもシンプルですから、頭でわかるのはそれほどむずかしくないのですが、それ を自分のこととして心の奥底から実感し実践するのは、とてもむずかしいのです。
 ヘッド(頭)でわかることと、ハートで感じることと、ガット(胆)に収まることは、かなり、そうとう、すごく、 全然、違うことなんだよ、と私はよく学生にいいます。
 自分とコスモスの一体性をなかなか実感できないのはなぜか、身心全体で実感するというのはどういうことか を明らかにするのが、次の八識−四智説です。
 コスモスと私たちは一体というすてきな話を、ヘッドでわかるだけでなく、ハートで感じ、ガットに収めたい方、続 けて学んでいきましょう。

  *この写真は、今日近所で咲いていた今年の梅です。



 


   八識1:東洋における「無意識の発見」 (2006年2月14日)


 「人の好き嫌いをしてはいけない」とか、「人を分け隔てしてはいけない」とかいうのは、たいていの人が教わっ て知っています。
 しかし知っているからといって、実行できるかというとなかなかできないのではないでしょうか。
 してはいけないと思いつつ、会ったとたんにその人のことを「いい感じ」とか「嫌な感じ」とか感じてしまいます。
 つまり、好き嫌いをしているのです。
 身なりや見かけや肩書や地位などで相手への態度を変えるのはあまりいいことではないと思いつつ、ついつ い態度が変わってしまいます。
 分け隔てをしてしまうのです。
 こういうふうな、なぜか、ついつい、どうしても、思わず、思わず知らず、わけもなく、わけもわからず……「して はいけないのに、してしまう」とか「しなければならないのだが、できない」という体験は誰にでもあるのではない でしょうか。
 このことは、人間の心に、してはいけないとかしなければならないと思い、それはなぜなのかわけがわかると いう部分と、思わずしてしてしまう、なぜかできないという部分があることを示しているといっていいでしょう。
 西洋のフロイド以降の心理学は、自分でわかっている心の部分を「意識」と呼び、自分でもわからない心の部 分を「無意識」と呼んでいます。
 「わかる」とか「思う」という言葉が示しているように、意識は理性や思考や意思にかかわる部分です。
 それに対して、どうしてもやりたかったり、なぜかできなかったり、わけもなくそういう気分になったり、つい感じ てしまったりというふうに、無意識は欲望や気分や感情にかかわる部分です。
 こういうふうに人間の心が意識と無意識の部分で成り立っているということをはっきり理論化したのは、19世 紀末から20世紀初頭にかけて、オーストリアの精神医学者フロイドの「精神分析」だ、というふうに一般的には 思われてきました(エレンベルガー『無意識の発見』弘文堂、参照)。
 しかし、「無意識」という言葉は使われていないにしても、2,3世紀、唯識学派の人々は、人間には自分でもよ くわかっていない、意識的にはコントロールできない心の深い部分があることに気づいていました。
 修行のプロセスで、「すべては一つでありつながっているというのが世界の本当の姿だ」、「他と分離した実体 としての自分があると思うのは無明・錯覚だ」と師から教えられ、学んで知って、納得しても、なぜかどうしても実 感は湧かない、日々そういうことに基づいて実行することはできない、という深刻な体験から、そういう気づきが 生まれたのだと考えていいでしょう。
 分別知は無明だと分かっても、分別知をやめることができないのは、分別知を働かせる力が意識とは別の心 の奥深いところにあるからだ、と捉えたのです。
 4,5世紀、唯識学派では、そういう心の奥底には「マナ識」と「アーラヤ識」と呼ばれる領域があるとい う、いわば「深層心理学」が、世親・ヴァスバンドゥによって完成させられています。
 西洋・フロイドに先立つこと1500年あまり前に、東洋ではすでに「無意識の発見」がなされていたので す。
 これは驚くべきことですし、少しは誇ってもいいことではないでしょうか。






   八識2:六識とマナ識 (2006年2月16日)


 私たちは、熟睡している時、気絶している時、ひどく泥酔している時を除くと、自分で自分のことがわかってい るという心の状態にあります。「意識」ですね。
 意識は、五感を通じて入ってくる外界からの刺激を認識します。
 目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体でさまざまな身体感覚を感じます。
 意識がぼんやりとしていると、目で見ていたり、耳で聞いていたりしても、見聞きしているものが何だかわから ないということがあります。
 意識は、五感を通じて入ってくる感覚をとりまとめて、それが「何」なのかをはっききり判断するという役割をし ています。
 つまり、「わかる」というのは、まさに「分かる」で、分別知なのです。
 意識は、自分が誰・何だか分かっており、外側のものが誰・何だかを分かるという働きをしています。
 意識は、いつも分別しているといっていいでしょう。
 仏教では、こうした五感+意識を「六識」と呼んでいることは、すでにお話したとおりです。
 原始仏教から大乗仏教も空の思想までは、人間の心を「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)という「六識」で 捉えていました。
 しかし、修行中に、例えば「無我」や「空」ということをいくら意識で「分かる」ことができても、それは本当に「覚 る」こととは違うという体験をした修行者たちの中から、六識で捉えきれない人間の心のもっと深く暗い部分を想 定するほかないという自覚が出てきたのです。
 一切は空である以上、執着してもしきれませんし、する必要もありません。
 ところが、そう学んでも、自分の心の奥から自分や自分の大事なものに執着する気持ちが、なぜか、どうして も、湧いてきます(よね? みなさんはいかがですか?)。
 執着する自分も執着されるもの(者・物)もみなもともと空なのだ、といわれても実感は湧かないのです。
 心の奥にあって、自分と自分でないものを分けておいて、自分や自分にとっていいものにこだわる思いを湧き 起こさせる領域のことを、唯識は「マナ識」と呼んでいます。
 サンスクリット語の「マナ」は「思い量る」という意味ですが、「マナ識」は特に実体としての自分があると思い量 って、それに執着する心です。
 意識で簡単にコントロールすることのできない、煩悩を湧き上がらせる心の奥深い領域について、唯識は驚く べき洞察を加えています。
 私の知るかぎり、世界の宗教や思想の中で、こんなにも的確に人間のエゴイズムの深い源泉を探り当てたも のは、他には見当たらないようです。






   八識3:マナ識に潜む根本煩悩@ (2006年2月18日)


 私たちはふつうに育つと、「自分は自分だ」と思うようになりますが、ちゃんと順を追って教えられると、自分だ けで生きていられる自分などいないということ、つながりによって生きている、生かされているということ、縁起と いうことはわかります。
 また、さらにすべてはつながり−つながり−つながりというふうになっているのだから、結局は一つだということ も、理論として頭ではわかります。
 しかし、実感はなかなか湧いてきませんし、実感に基づいた心からの実践もできません。
 どうしても、私は私、人は人、物は物というふうに思えてしまうのです。
 しかも、それぞれがまるで分離・独立して存在する実体であるかのような気がしてしまいます。
 いくら、すべては実体ではない、「無我」である、といわれても、そうは思えないという働きが心の奥にある、と 唯識は洞察したのです。
 さらに驚くべきことは、その働きをさらに詳しく正確に分析していることです。
 それは、すべての現象的な煩悩の根なので、「根本煩悩(こんぽんぼんのう)」と名づけられています。
 その根本煩悩の働きは4つに分類されています。
 まず、何よりもすべてのものが非実体=無我であることについてまったく無知です。
 それを〔無〕我についての愚かさという意味で「我癡(がち)」といいます。
 これは、修行者たちが、意識で「無我」だと学ぶ前はもちろん、学んで分かっても、どうしてもそれを実感してい るとは思えない反応が心の奥から湧いてくる、という自分たちの姿を実に厳しく反省したところから生まれた概 念だといっていいでしょう。
 「我癡」というコンセプトは、それまでの仏教用語でいうと「無明」に当たりますが、自己洞察がいっそう深めら れています。
 つまり、人間の無明や煩悩といったものが、意識の世界で片づくようななまやさしいものではなく、無意識の世 界に深く根を下ろしたきわめて厄介なものであることが、はっきりと洞察されているのです。
 私は、マナ識、特に「我癡」というコンセプトに出会った時、なぜ、人間はほとんどエゴイズムから自由になれな いのかという、長年の疑問がすっきりと解かれたような気がしました。
 人間のエゴイズムの源泉は、心の奥深くに根を下ろした、自我の非実体性への徹底的な無知=我癡なのだ、 そうか、そうなのだ、と。






   八識4:マナ識に潜む根本煩悩A (2006年2月19日)


 「無明」とか「我癡」とか「根本煩悩」といった言葉を聞くと、何か難解で抽象的で私たちの日常生活の現実とは 関係のない話のような感じを受けるかもしれません。
 しかし、よく考えていくと、私たちの日常に起こる大小さまざまなトラブルから犯罪、そして戦争や環境破壊に 到るまで、ほとんどすべてがエゴイズムに関わっています。
 日常的ないろいろなトラブルは、結局のところエゴとエゴとの衝突です。
 犯罪は、いうまでもなく「社会の法律がどうだろうと、オレはオレの好き勝手にやりたい」という犯罪者のエゴイ ズムから生まれます。
 例えば、今ニュースになっている、我が子がダメにされると思い込んで人の子を殺したという事件も、母親の 病的なまでになったあまりにも悲しく愚かなエゴイズムから起こったことでしょう(ほんとうに悲しいことです)。
 戦争は、「自分たちの利益や名誉や理念こそ絶対に重要だ」という集団エゴから生まれます。
 環境破壊は、人間のエゴイズムが人間以外の自然を破壊しているということです。
 それらの言葉は、そういう現実に起こっていることの原因になっている、「諸悪の根源」ともいうべきエゴイズム の根っこを明らかにしているという意味で、実は人間社会で毎日起こっている現実をはっきりと理解するための カギ、「キー・コンセプト」だといってもいいでしょう。
 「我癡」そしてそれに続く「我見(がけん)」、「我慢(がまん)」、「我愛(があい)」というコンセプトの意味がわか ってくると、現実――の特に醜い面の訳――がわかってきます。
 唯識は、ふつうの人間つまり「凡夫」がただ無知であるというだけでなく、さらに厄介なことに、実体(我)があ る、特に実体としての自我があるという強固な見解・思い込みを持っていることを洞察しました。それを「我見 (がけん)」といいます。
 真理を知らないだけではなく、まちがったことを信じ込んでいるのです。
 これでは、現実生活が、自分に関しても社会全体に関してもうまくいかないのは、ある意味では当たり前でしょ う。
 人間の現実は、人間をも含みながら人間を超えている大きなコスモスの現実に反した勝手な思い込みで営ま れているのですから。
 「何のお陰もこうむらない、私そのものというものが、いつまでもいる」ような思い込みが、どんなにおかしなも のか、この授業では繰り返しお話ししてきました。
 しかし、そういう話を聞く以前はもちろんですが、聞いた後でも、なかなか心の底からつながりと一体性を感じ るというふうにはなれませんよね?(私の場合はそうです。)
 けれども、四諦の場合、苦諦や集諦で話が終わりでないのと同じく、ここで話は終わりではありません。
 心の深い病の原因の説明はもうしばらく続きますが、やがて、「でも、ちゃんと手順を踏んで治療すれば治りま すよ」という話になっていきます。






   八識5:マナ識に潜む根本煩悩B (2006年2月20日)


 「私は他の誰でもなく私だ」という心の奥の思いは、自分と他者との「区別」という意味では正常かつ必要なも のです。
 自分と他者との区別がつかないという心の状態は、乳幼児なら正常でありかつ可愛いものですが、大人にな ってもそのままだと病気です。
 仏教は、まだ発達心理学や臨床心理学のない時代にできたものですから、そのあたりが理論的に整理されて いないところがあるようです。
 その点は、もし仏教−唯識の洞察を現代に活かしたいのなら、はっきりさせておく必要がある、と筆者は考え ています。
 自己と他者との区別がわかるようになるのは、正常な発達です。
 自己と他者の区別がちゃんとできるようになり、「自分は自分だ」、「自分とはこういう存在だ」という思いが心 の奥にしっかり確立することを、西洋心理学のコンセプトでいうと、「自我の確立」とか「セルフ・アイデンティティ の確立」といいます。
 自我・アイデンティティの確立なしには、健全に生きてことはできません。
 それに対して、自己を他者と分離した実体であると思うのが、無明・根本煩悩なのです。
 こうした問題を考える上で、「区別」と「分離」という言葉の使い分けはとても重要です。
 しかし、言葉を使う動物である人間は、ともすると区別を分離と取り違えてしまうという強い傾向を持っていま す。
 ほとんどの人のケースで、区別というよりは分離のほうに傾いてしまっている、といってもいいほどです。
 ふつうの人間は、自己を実体視し(我見)、それを拠りどころ、頼り、誇りにするようになりがちです。
 実体視された自己を拠りどころにし、頼り、他者と比較して自分のほうが上だと誇りたくなる心のことを、「我慢 (がまん)」といいます。
 これは、日常語の「我慢」の語源ですが、意味は逆です。
 我慢することはいいことですが、「我慢」は根本的な煩悩なのです。
 (日常用語と区別するために、唯識用語としての「我慢」は「ま」のところを高く発音するアクセントで読まれま す。)
 これもまた、私たちの日常の現実を理解するのにとても役立つコンセプトです。
 競争社会におかれている私たちは、マナ識を過剰に刺激されがちで、やめよう、やめたほうがいいと思って も、ついつい人と自分を比較して、上だ・下だ、優れている・劣っている、と心安らかでなくなっています。
 「我慢」の働きによって心を悩まされる、つまり煩悩ですね。






   八識6:マナ識に潜む根本煩悩C (2006年2月22日)





 私たちの無意識にしつこいしこりのように存在しているのが、4つの根本煩悩です。
 宇宙と私のつながり−一体性にまったく無知であり(我癡)、それどころか他と分離した実体としての自分がい ると思い込み(我見)、そういう自分を頼り・誇りにし(我慢)、そしてそういう錯視された自分に徹底的にこだわ り、愛着・執着する(我愛)、という心の働きです。
 意味が初めてわかった時、私は、何と深く、何と正確な洞察だろうと感嘆したものです。
 ふつう「欲望」といった言葉で表現される人間のやっかいな心の働きは、非常に感情的・情念的なもので、理 屈や意思でどうにかなるものではない、と考えられがちです。
 確かに愛着・執着したり頼り・誇りにするという心の働きは、分類でいうと「感情・情念」です。
 しかし、そういう感情・情念は実は思い込みや無知という深いところにしこっている思考・認識に基づいている というのです。
 あまりにも深いところにある思考・認識であるために、確かに表面的な意識の思考や認識によってダイレクト に変えることはできません。
 私の唯識の読みがまだここまで行っていなかった頃、4つの根本煩悩を並列的にお話していた時、ある聴講 者の方が憤然として、「人間の煩悩ってもっと感情的でドロドロしていて、そんな認識でどうにかなるような簡単 なものじゃありませんよ」と抗議されたことを覚えています。
 今だったら、「いろいろなものへの人間の強烈な愛着・執着や誇り・高ぶりといった煩悩は、確かにちょっとの ことでどうにかなるような感情ではないですよね」と答えた後で、「でもそういう感情はさらに深い思考・認識の歪 みから生まれていると考えられるんですよ。そして、そういう歪みを心のもっと深い底から変えることができる、と いうのが唯識の洞察なんですね。よかったら、もう少し先まで学んでみられませんか」とお話しすることができる でしょう。
 人間は、実にさまざまなものに愛着し、それはしばしば過剰な執着になり、病的なこだわりになって、自分をも 人をも悩ませることになります。
 しかし、自他を悩ませる煩悩だとわかっていても、どうしようもなくそういう感情が湧いてきてコントロールできな い、という体験は誰でもしたことがあるでしょうし、現に体験していて悩んでおられる方もいるでしょう。
 そういう煩悩について、よく「煩悩があるからこそ人間らしいんだ。煩悩がなくなったら、人生が退屈になる」と いう方がいます。
 (「だって人間だもの」というセリフもありましたね。)
 しかし、ここで、「大切にする」ことと「こだわる」ことは違う、「愛する」ことと「執着する」ことは違う、ので はありませんか? といっておきたいと思います。
 「我愛」が浄化されてなくなっても、愛することはなくならない、どころかもっと純粋に美しく、感動的になる、と私 は考えています(全体としての大乗仏教もそう主張していると思います)。
 心の奥・マナ識よりももっと深い底の底・アーラヤ識から無明・我癡と我見をただし、そのことによって我慢と我 愛をも浄化する方法がある、というのが唯識のメッセージだ、と私は捉えています。
 ……そろそろ、希望のある話になってきました、よね?

*写真は、もうすぐ咲き始める春先の希望の象徴のようなイヌフグリの花、去年の写真です。






   八識7:心の底の蔵―アーラヤ識@ (2006年2月28日)





 さて、唯識によるインフォームド・コンセントの手続きを続けましょう。

 私たちは、熟睡したり、泥酔したり、気絶したり、昏睡状態になったりすると、意識がなくなります。
 もちろん五感もほとんど働かなくなります。
 思わず知らず自分にこだわってしまうというマナ識でさえ働きません。
 (眠りが浅かったりすると、目が覚めてから、どうもマナ識的欲望から生まれたにちがいないという気のする変 な夢を見たりすることはありますが……。)
 8つの心の領域・八識のうちの7つまでは休止してしまいます。
 しかし、目が覚めたり、酔いが醒めたり……すると、意識が戻ります。
 意識が戻ると、マナ識の働きも戻ります。
 さて、熟睡、泥酔、気絶、昏睡状態の時、意識はどこに行っていたのでしょうか?
 戻ってくる以上、完全に無くなっていたのではなく、どこかに行って、休んでいたと考えるほかありません。
 唯識学派の人々は、1つ、そういう日常的な事実に基づいて、そこから意識が出てきたり、そこに意識がこも ったりするような、マナ識よりも深い心の底を想定するほかないと考えたのです。
 わかりやすく譬えれば、朝、仕事が始まる時に車を出し、夜、仕事が終わったらまた入れておく、車庫のよう な、心の倉庫・蔵があるというわけです。
 誰でも知っている「ヒマラヤ山脈」というのがありますが、これは「ヒマ=雪」の「アーラヤ=蔵」という意味です。
 その「アーラヤ」という言葉を使って、そういう心の奥の蔵は「アーラヤ」識と呼ばれました。
 それは、意識的な心ではありませんが、その元になっているのですから、より根源的な心・識といってもいいで しょう。
 そういう意味で、「識」を付けて、アーラヤ「識」といわれるわけです。
 こういうふうに説明されると、「アーラヤ識」が唯識学派とか仏教にだけ通用する特殊なコンセプトではなく、人 間誰にでもある心の深層領域を指し示す普遍的な言葉であることが理解できるのではないでしょうか。
 (学んでみると、こういうふうに、仏教の核にある教えは、非常に哲学的・理性的で普遍・妥当性の高いもので あることが納得できます。)

 *写真は、松江風土記の丘の縄文住居の復元






   八識8:記憶の貯蔵庫――アーラヤ識A (2006年3月2日) 





 私たち(大人)はふだん、例えば小学校1年生の時のことなど意識にはありません。
 ところが、思い出そうとすれば、かなり思い出すことができます。
 意識にはなかったのが意識にのぼるのは、どこからのぼってくるのでしょう。
 現代の深層心理学でいえば、無意識あるいは心の深層から、ということになるでしょう。
 唯識では、アーラヤ識つまり蔵の識は、記憶の貯蔵庫でもあるといわれます。
 しかも、生まれてからの記憶だけではなく、そこには過去世の記憶も蓄えられているというのです。
 過去世というものが、個人という単位であるかどうか、つまり輪廻というものがあるかどうか、まだ科学的に実 証も反証もされていないと私は思いますが、フロイド(後期)やユングは個人の心の深層領域には家系や民族 や人類全体といった集団の過去の記憶が潜んでいる、と臨床的知見を元に述べています。
 ユングはそれを「集合的無意識」と呼んでいます。
 伝統的な唯識では、個人単位での輪廻があることになっており、過去世から現世へ、そして来世へと輪廻する 主体がアーラヤ識であるとされます。
 私は、個人単位での輪廻があるかどうかについては、ずっと判断留保のままできていますが、「集合的無意 識」については臨床経験的にあるのではないかと考えています。
 いずれにせよ、私たちの心の底にふだん思い出すこともないような記憶まで膨大に蓄えた部分があることは まちがいないと思います。
 フロイドやユングもいっていることですが、人間の意識的な心など無意識の領域に比べたら、氷山の一角に譬 えられるほど小さな部分であるようです。
 唯識でいえば、人間は意識で自分をコントロールしているつもりだけれども、実は圧倒的にマナ識とアーラヤ 識にコントロールされているということのようです。
 そして、マナ識とアーラヤ識は自分と自分でないものを分別しいのちといのちでないものを分別するという分 別知=無明でとことん病んでいる(でも、やりようで治せる)、というのが唯識ドクターの診断です。

 *写真は、ホトケノザ、今年ももうすぐ咲くでしょう。咲いてほしいです。






   八識9:生命情報の世界――アーラヤ識B (2006年3月3日)





 アーラヤ識は、別名「アーダーナ識」ともいわれます。
 「アーダーナ」は、漢訳では「執持(しゅうじ)」と訳されます。執着し維持するというふうな意味でしょう。
 私たちは、眠っていても気絶しても、心臓は働き、呼吸をし、体温は維持され、免疫反応もします。
 つまり、生命維持のための情報が働いているわけです。
 唯識では、そうした生命維持の「情報」もある種の心・識と捉え、生命情報が蓄えられ働く領域を「維持する 識」と捉えたのです。
 現代的な医学や生理学、脳科学などがまったくない時代に、内省的な洞察だけでここまでの正確で深い理論 を作りあげたのは、驚くべきことです。
 「生命を維持する」ということは、「生命」と「非生命」が少なくとも区別されているということです。
 生命が非生命にならないように維持されているわけです。
 これは、仏教的にいうともっとも深いレベルでの「分別知」ということもできます。
 アーラヤ識は、生命と生命でないものを分別して生命にこだわる心です、と私は説明することがあります。
 しかしより正確にいうと、アーラヤ識での生命と非生命の分別は自然な生命維持といってもいいので、マナ識 の働きと組み合わさった時初めて、「こだわる」という煩悩的な働きになるといったほうがいいかもしれません。
 生命を維持する力の源泉という意味でアーラヤ識は、現代の精神身体医学やホリスティック医学でいう「自己 治癒力」の源泉でもあるといっていいでしょう。
 そういう意味でアーラヤ識そのものは、煩悩の源泉ではないともいえます。
 伝統的な唯識学では、アーラヤ識は煩悩に覆われてはおらず、また善悪中性どの性質にも記別できない、 「無覆無記(むぶくむき)」であるとされています。
 つまり、人間の心の奥の部分は煩悩で凝り固まっているが、もっと深い底の部分は善でも悪でもない、という のが唯識派の洞察です。
 この、心のもっとも深い底であるアーラヤ識が無覆無記であるというところに、人間が煩悩・悪から解放されう る根拠がある、と私は考えています。






   八識10:問題は在庫品――アーラヤ識C (2006年3月4日)





 人間のもっとも深い心の底は善でも悪でもない、と唯識はいっています。
 私はよく、そのことを商品倉庫と在庫品に譬えます。
 ここに不良在庫でいっぱいになっていて、出庫する品物はいちいちすべて不良品という倉庫を想像してくださ い。
 こういう場合、不良なのは倉庫でしょうか、それとも在庫でしょうか?
 いうまでもありません、不良なのは在庫であって倉庫ではありません。
 では、いつも不良品ばかり出庫しているこの倉庫から優良品が出庫できるようにするにはどうしたらいいので しょう?
 倉庫を壊して建て直さなければならないのでしょうか、それとも不良在庫を一掃して、優良在庫と入れ替えれ ばいいのでしょうか?
 これもいうまでもありません、倉庫はそのままで在庫さえ入れ替えれば、倉庫からは優良品が出庫されるよう になります。
 今のところふつうの人(凡夫)のアーラヤ識=蔵識は、煩悩という不良在庫でいっぱいで、そのため出庫され るのも煩悩ばかりです。
 しかし、倉庫があるから在庫ができるように、アーラヤ識があるから煩悩も善も智慧も貯蔵することができる のです。
 アーラヤ識があるままで、煩悩を廃棄処分にして善や智慧に在庫総入れ替えを行なえば、人間は人間である ままで仏になれるのです。
 心の底にアーラヤ識という領域があるからこそ、人間は迷っているのですが、だからこそ覚ることもできる、と 唯識はいっています。
 これは、いわゆる性悪説と性善説のそれぞれ妥当な洞察をぜんぶ含んで超えるような、深くて正確で、希望 のある人間洞察だ、と私はきわめて高く評価しているのです。

 *写真は、近所で咲いている今年の水仙です。春はもうそこまで来ています。






  八識11:カルマ・業の貯蔵庫――アーラヤ識D (2006年3月5日)


 インド思想に「カルマ」という独特な概念があります。漢訳では「業(ごう)」です。
 この「業」という言葉はとても暗い響きを持っています、というか持たされてきました。
 「因縁」や「因果」も同様です。
 しかし、カルマ=業というコンセプトはもともと暗くも明るくもない、いわば中立的で公平なコンセプトでした。
 行ない・行為はそれだけにとどまらず、必ず後に影響を残していきます。
 「カルマ・業」とは、ふつう行為とその影響力を分離して捉えがちなのに対して、行為とその残存影響力を一つ のものとして捉えた独特かつ妥当なコンセプトだと思います。
 よいカルマ・善業はよい影響を、悪いカルマ・悪業は悪い影響を、中性的なカルマ・無記業(むきごう)は中性 的な影響を後に残していきます。
 そして、残された影響はまるで植物の種のように季節になると芽を吹いてくるのです。
 それを「因果」といいます。
 原因があれば、当然結果があるということです。
 そして、悪因があれば悪果ですが、善因があれば善果がもたらされるのです。
 これは、考えてみると当たり前のことで、暗い話でも明るい話でもありません。
 悪因悪果という面を見れば暗く、善因善果という面を見れば明るい話だ、といってもいいでしょう。
 過去の日本仏教は、どちらかというと悪因悪果の面を、それもかなり短絡的に語ってきたようです。
 「親の因果が子に報い」といったことわざや、「今不幸なのは前世で悪いことをしたからだ」といったふうな言い 方があった、いや、まだ残っているとおりです。
 それがいい意味での脅しとして効いて、かつて日本の庶民を真面目にしたという効用はあったと思いますが、 因習的な偏見を生み出したというマイナス面も大きかったと思います。
 仏教本来の趣旨からすると、善因善果の面、さらにはもっと人間は覚りのカルマを積むと覚りに到ることがで きるのだという、プラス面、積極面、つまり明るい面を強調すべきだったのではないか、と私は考えています。
 (昔話には、「花咲か爺さん」や「舌切り雀」のように、善因善果と悪因悪果をバランスよく説いているものも少 なくありませんが。)
 その点に関しては、伝統教団は素直に反省し、被害を受けた方々には謝罪し、しかしいつまでも引きずること なく、原点に帰って歩み直してほしいものだと思います。
 さて、カルマは残るのですが、どこに残るかというと、アーラヤ識に蓄えられて残っていき、カルマにふさわしい 芽を吹く、結果をもたらすのです。
 カルマは後に芽を吹くので、植物の種になぞらえて「種子(しゅうじ)」とも呼ばれています。
 アーラヤ識は、迷いの種子を蓄えている貯蔵庫ですが、覚りの種を蓄えることもできる場所です。
 要するに問題は、私たちが今生で、どのくらい迷いの種子の廃棄処分をし、どのくらい覚りの種子を入庫し、 総入れ替えとまではいかなくても、不良在庫と優良在庫のバランスを変えていけるかというところにある、と私は 思っています。






   八識12:アーラヤ識とマナ識の悪循環 (2006年3月7日)


 子どもの乳幼児の頃や最近孫を見ていて、「生まれつき」ということはあるのだなあと感じます。
 もちろん「教育」によるものもあります。
 どちらかだけということは、どうもなさそうです。
 唯識では、アーラヤ識には生まれつきマナ識を生み出す種子があると同時に、他から言葉によって教えられ た分別知が種子としてアーラヤ識に溜まることでマナ識ができてくるという面もあることを正確にとらえていま す。
 ともかく、人間は平均的なふつうに生まれ育つと、いつの間にか心の底のアーラヤ識から心の奥にマナ識が 発生し、したがって我癡・我見・我慢・我愛という根本煩悩を抱えることになります。
 そして、他と分離した自分がいると思いこだわるマナ識ができると、そのマナ識がアーラヤ識を見て、いのちで ないものと分離した、しかも他と分離した「自分のいのち」だと思いはじめるのだ、といいます。
 自分というものの実体視とそれへの執着、そして自分のいのちというものの実体視とそれへの執着が、そうい ういわば悪循環構造になっているというのです。
 いのちを、「私のいのち」として実体視しそれに執着することから、「死の恐怖・不安」が生まれます。
 自分のいのちを実体視し執着すると、それが生滅流転するプロセスであることを自然なこととして受け容れる ことができなくなるのです。
 それどころか、死が絶対的な不条理であるように思えてくるのです。
 私は、幼児期からかなりひどく死の不安に悩まされていましたから、この唯識の洞察に出会った時、心から 「何とみごとに当たっているのだろう。確かにそうだ。自分の死の不安の根っこはここにあったんだ」と思ったも のです。
 心の奥深いところのメカニズムを、よくもこんなに正確に洞察したものだ、と感心してしまいます。
 原因がわかれば、解決の目途もついてきます。
 心の奥底でのアーラヤ識とマナ識の悪循環が死の不安・死への不条理感を生み出すのなら、その悪循環を 断つことができれば、不安・不条理感は解決することができるわけです。
 ……というふうにして、唯識を学ぶことによって、死の不安やその他の心の病・煩悩の原因がわかり、そして それを癒す方法もわかってきます。






   八識13:意識−マナ識−アーラヤ識 (2006年3月8日)





 人間の心の奥底で、アーラヤ識−マナ識の悪循環構造ができあがると、それにコントロールされたかたちで 意識と五感が働きはじめます。
 ここからいよいよ、ほんとうにさまざまな煩悩が実際に表面に現われてきます。
 病気に譬えれば発症ですね。
 しかし唯識が公正・妥当にも捉えているのは、意識には煩悩の働きが現われるだけでなく、善の働きも現わ れるということです。
 マナ識の説明のところでいい忘れましたが、マナ識は確かに4つの根本煩悩に覆われてはいるがそれ自体は 善悪どちらでもない、「有覆無記(うぶくむき)」だとされています。
 心の奥には自分へのこだわりはあるのですが、そのことそれ自体が善であるわけでも悪であるわけでもな い、というのです。
 したがって意識はマナ識にコントロールされているとはいっても、いつも悪いことばかりするわけではなく、その 気になれば善を行なうこともできるのです。
 それどころか人間は、いい人である自分にこわだっているために熱心に善を行なうということさえあります。
 さらに、意識は真理の教え・ダルマに出会えれば、それを理解することもできます(今、ネット学生のみなさん が体験しているとおりです)。
 さらにまた意識は、真理の教えを理解するだけではなく、その理解に基づいて覚りに到るカルマつまり修行を することもできます。
 縁起の理法や空の教えに出会うことのないまま大人になったふつうの人(凡夫)の意識は、煩悩だらけになっ てしまいがちですが、幸運にも出会うことができると、理解することも修行することもできます。
 理解するのも修行するのもカルマ・業であり、それは種子となってアーラヤ識に蓄えられていきます。
 覚りの種子は意識からアーラヤ識に蓄えられるプロセスでもマナ識を浄化し、やがて芽を吹いて意識にのぼ るプロセスでもマナ識を浄化するのだと考えられます。
 そのことによってアーラヤ識−マナ識の悪循環が徐々に断ち切られていきます。
 意識は覚りのカルマを行なうことができ、アーラヤ識は覚りの種子を蓄えることができる、そこに人間 の覚り−救いの確実な基盤がある、といってまちがいありません。

*心の三層構造と煩悩の関係を示した図を入れました。拡大して見てください。浄化も同じ構造で行なわ れます。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所