目次



 四智

 五位

 六波羅蜜

 涅槃







煩悩から覚りへ:悪循環を好循環に変えればいい
2006年5月2日





 振り返ってみると、1ヵ月以上、煩悩の話ばかりしてきました。
 ネット学生のみなさん、逃げ出したりしないで、ほんとうによく付き合ってくださいましたね。
 みなさんの忍耐力、持続力、探究心、向上心はすばらしいと思います。高く評価させていただきます。
 これからいよいよ、「でも、治る」という話に移っていきますので、気持ちが明るくなることでしょう。
 まず、そのスタートとして、煩悩の悪循環の構造を思い出し、ちょうどその逆に善や覚りの種子を好循環させ れば覚りに近づける、というポイントについて復習しておきましょう。
 学んできたように、まずアーラヤ識は善悪どちらでもないのですが、そこに煩悩の種子が溜まっていて、それ がマナ識を発生させます。
 マナ識は必ず4つの根本煩悩、我癡・我見・我慢・我愛を伴って発生します。
 そこから意識上の根本煩悩が発生し、さらに随煩悩が発生するのでした。
 そして意識上の根本煩悩や随煩悩は種子として、マナ識をいっそう汚染しながらアーラヤ識に溜まっていきま す。
 そして種子はやがて芽を吹いて、またマナ識を汚染しながら意識上に発生し、それがまた種子となって、マナ 識−アーラヤ識へ……と悪循環を続けるのでした。
 しかし幸いなことに、意識はまさに意識的になれば善や覚りの行動・業・カルマを起こすことができるのでし た。
 (覚りをもらたす行動つまり修行については、もっとも肝腎なことですから、後で詳しくふれていきます。)
 意識的に起こした善と覚りのカルマは、種子となってマナ識を浄化しながらアーラヤ識に溜まり、溜まった種 子はマナ識を浄化しながら意識にのぼってきて善と覚りのカルマを起こし……と好循環します。
 ですから、原理はきわめてシンプル、心を煩悩から覚りへと変化させるには、煩悩の種子の悪循環を善と覚り の種子の好循環へと変換させればいい、ということです。
 といっても、最初は悪循環の力のほうが強くて、好循環はなかなかうまくいかず、しょっちゅう逆流するというか 元に戻ってしまうのですが、辛抱強く続けていると、力が拮抗してきて、やがて好循環のほうが強くなって、逆流 することが少なくなり、最終的には一方的な好循環になっていく、と言われています。
 つまり、長い長い間かかって慢性化した病気は短期間で一度には治らず、行きつ戻りつ、しばしばぶり返すけ れども、辛抱強く治療を続けていると、徐々によくなっていくというのに似ています。
 これは、「辛抱強い努力」というふうなことが嫌いな人には、あまりいいニュースではないかもしれませんが、で も、これは「治る」というニュースなのですから、まちがいなくいいニュースだと思うのですが、どうお感じですか?






覚りとは何か:4つの智慧
2006年5月5日





 唯識は、私たち人間はふつうの人(凡夫)はみんな、心の表面から奥底まで、多かれ少なかれ煩悩で汚れて いると指摘していました。
 いわれてみると、私の場合すべて当たっていて、自己弁護の余地がありません。
 しかし幸い、唯識はさらに、私たちが煩悩だらけであることは、煩悩を蓄えているアーラヤ識を持っていること であり、アーラヤ識は善悪中性のいわば種子を蓄える蔵のようなもので、そこに善と覚りの種子を蓄え直すこと ができるということでもある、と人間の根本的な変容の可能性を語っています。
 倉庫と在庫品の譬えを思い出してください。
 不良在庫ばかりの倉庫があるとして、悪いのは在庫であって倉庫ではありません。
 倉庫はそのままで、不良在庫を優良在庫に入れ替えることができます。
 在庫が違えば、同じ倉庫でありながら果たす機能はまったく違ってきます。
 まったく同じ倉庫が、不良在庫を出庫するか、優良在庫を出庫するかは、在庫しだいです。
 さて、では、倉庫の在庫総入れ替えができて、すべて優良在庫になったとしましょう。
 アーラヤ識に、善と覚りの種子ばかり溜まったらどうなるかということですね。
 アーラヤ識は、いわばコスモスからの大量注文にまったく何の手落ちもなく完璧に対応して、すばらしい在庫 を出せるいわば宝庫に変わります。
 そういうふうに機能がまったく変わった状態を「大円鏡智(だいえんきょうち)」といいます。
 大きな宇宙の真理をありのままに映し出す澄み切った鏡、というふうな意味です。
 宇宙の真理の種子によって徹底的に浄化されると、マナ識はすべてのものの一体性・平等性に心の奥深く気 づいているという「平等性智(びょうどうしょうち)」へと大転換を遂げます。
 徹底的に浄化された大円鏡智と平等性智によって意識も徹底的に浄化されて変容し、世界が一体でありつな がりあっていながらそれぞれの区別できる姿はある・それぞれの区別できる姿はあるけれどもどこまでもつなが っていて結局は一つであることにいつも目覚めているすばらしい観察の智慧、「妙観察智(みょうかんざっち)」 に転換します。
 浄化された無意識と意識によって機能する五感は、その時々にもっともふさわしいものを見、聞き、嗅ぎ、味 わい、体感する智慧、作されるべき所のことを成し遂げる智慧、「成所作智(じょうしょさち)」に転換します。
 八識が大転換して4つの智慧、「四智(しち)」になるのです。
 そのことを「八識が転じて智慧が得られる」という意味で「転識得智(てんじきとくち)」といいます。
 人間は確かに煩悩まみれであるが、しかしやりようによっては覚ることができる、というのが唯識―仏教のメッ セージです。
 自分自身の現状を見ると、とてもそんなことは不可能に思えるかもしれません(私もそういう気がしました)。
 しかし、もちろん突然ではないけれども、手順を踏んで段階を追っていけば、次第次第に覚り・四智の世界に 近づけるのが人間の本性である、というのです。
 納得するかどうか、手順を踏む気になるかどうかはみなさんのまったくの選択の自由ですが、聞いてみるだけ の価値はあるのではないかと思います。






大円鏡智=宇宙的無意識(コズミック・アンコンシャス)
2006年5月7日


 禅の標語に「不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心(いしんでんしん)」、覚りは文字・言葉にしない、できない、 直接心から心に伝えられるものである、というのがあります。
 そして禅には独特のわかりにくいレトリック・表現方法があります。
 そのため、私も、かつて禅の修行を始めた頃、「覚りとは曰く言い難いもの」であると思っていました。
 しかし唯識を学ぶと、覚りは確かに最終的には自分自身で体験するほかないものですが、ぎりぎりのところま では言葉で表現−説明できるものであることがわかりました。
 といっても、もちろん説明は説明であって、それそのものではありません。
 いくら説明がわかっても、体験することの代わりにはならないのです。
 それは、「健康とはこういう状態です」という説明がいくらわかっても健康になれるわけではないのと同じです。
 しかし、説明がわかると何とか病気を治してそういう健康な状態になりたいという気持ちになります。
 覚りの説明も同じように、煩悩という心の病気を治して究極の健康な心になりたいという気持ちを起こしてもら うための手立て・方便なのです。
 というわけで、あくまでも説明なのですが、説明していきましょう。
 アーラヤ識には、すべてのものをばらばらに見てしまうという生まれつきの傾向があり、また生まれてから言 葉によって教え込まれた分別知がしっかりと溜まっています。
 さらに、毎日の言葉を使って営まれる生活の体験がさらにまた分別知として集積されていきます。
 それが、マナ識−意識−マナ識―アーラヤ識……と悪循環していきます。
 ですから、それだけだと、人間は一生分別知の悪循環から解放されることはないでしょう。
 しかし、ほんとうはすべてのものがつながっており、結局は1つであり、比較するものもないほど徹底的に1つ なので空・ゼロという表現さえできるという、真理の言葉を聞いて学ぶと、それもしっかりと溜まっていきます。
 さらにただ聞くだけではなく、自分自身で思い出し、よく考え、納得するという作業を繰り返していくと、そのカル マも種子となって溜まります。
 それに加えて、言葉を超えて世界を体験する方法としての禅定を実践すると、その体験もまた覚りの種子とし てアーラヤ識に溜まっていきます。
 「熏習」です!
 この熏習が、在庫総入れ替え的な段階にまで到達すると、鏡がものの姿をそのままに映し出すように、大宇 宙の真理をそのままに映し出す完璧な鏡のような心・大円鏡智に変わるのでしたね。
 宇宙と私の一体感が心の底まで徹底するのです。
 鈴木大拙は、それを「Cosmic unconscious, 宇宙的無意識」と表現しています。
 なんだか、とてつもなくすばらしいもののようですね。
 この話を聞いた時、私は曰く言い難い「覚り」以上に、そういう覚りを得たいという強い憧れを感じたものです が、みなさんはいかがでしょう?
 そして、アーラヤ識が大円鏡智・宇宙的無意識に大転換を遂げるとそれに対応してマナ識も平等性智に転換 するのですが、長くなるので、その説明は次回にしたいと思います。






平等性智(びょうどうしょうち):一体性に目覚めている無意識
2006年5月8日




山中湖の白鳥



 アーラヤ識に溜まっている煩悩を素材として構成された無意識の心理システム・マナ識は、素材がすべて善と 覚りの種子に入れ替わってしまうと、当然ながらまったく別の心理システムに変容します。
 すべてのものと自分との一体性=平等性にたえず目覚めているという、おどろくべき無意識システム・「平等 性智」になるのです。
 それまでさまざまなもの(者・物)と出会った時、「なぜか」「ふと」「どうしても」自我中心的に反応していた―― 〈マナ識反応〉!――のが、自然に、ありのままに、まったく無理なく、自利利他的に対応できるようになる、とい うのです。
 心の底が変容すると心の奥にある実体的な自我への執着も解きほぐされ、解放され、やわらかでのびやかで 自然な、自他の調和を図ることのできる心に変容するわけです。
 それに関して、どこかですでにお話ししたかもしれませんが、きわめて重要なので繰り返しておくと、自他の分 離意識があるままで「自分を他者のために犠牲にする」というのと、自他の一体感があるために「自利と利他が 調和するよう行動できる」というのは、似て非なるものだと思います。
 「自己を犠牲にする」とか「自己を捨てる」というのは、その前提に「自己」が自分の――たとえ理想であったと しても――好き勝手にしていい所有物であるかのような錯覚があるのではないでしょうか。
 犠牲にしたり捨てたりする以前に、自己は自己によって成り立っているものでもなければ、自己の所有物でも ない、という事実があります
 あえていえば、自己はその一部であるという意味で宇宙の所有物だといってもいいでしょう。
 ですから、平等性智が開けて宇宙の働きに沿って生きるようになった時、場合によって「他者のために犠牲に なっている」と見える行為をすることもあるでしょう。
 しかし、ある場合は「自由自在、自分の好きなように生きている」と見えるような振る舞いをすることもありま す。
 それは、その時その時の宇宙の働きの方向に自然に従っているだけのことなのです。
 そういう心の奥深いところから湧いてくる自然な振る舞いや感情の源泉が「平等性智」と呼ばれているのだ、と 言い換えてもいいと思います。
 もちろんそれは、もっとも典型的なケースでは、他者の苦しみを自然に自分の苦しみと感じるために誰に頼ま れたわけでもなく自分がやりたいから他者のために働く、いわゆる「慈悲」となって現われます。
 しかし平等性智の開けた人にとって、苦しみや不幸も喜びや幸福もすべて宇宙のことですから、絶対的な対 立と捉えてどちらかでなければならないとは考えないのです。
 すべては「あるがまま」でいいと感じています。
 しかし、無常なる宇宙では固定して変わらないという意味での「あるがまま」はありませんから、「なるがまま」と 言い換えてもいいでしょう。
 宇宙の「なるがまま」が心の奥の「なしたい」という無意識の願望と一致しているのです。
 そこで、宇宙のなそうとしていることが自分のしたいこと、自分のしたいことが宇宙のなそうとしていること、と いうふうに自然に自由自在に生きるわけです。
 ですから時には、苦しんでいる衆生を町や村に置き去りにして、一人清々しい野や山に隠れて「智慧」つまり 宇宙との一体感の楽しみにふけることもあります。
 あるいは高い山から清らかな水が流れ下って、低地の村々を潤すように、智慧の楽しみを人々に伝えようと することもあります。
 しかしいずれにせよ、悪い意味での倫理的に硬直して、「慈悲を行わなければならない」とか「瞑想して智慧を 得なければならない」とか「得た智慧を衆生に伝えなければならない」というふうにはならないのです。
 ……と、「講釈師――講談を語る人のことです――見てきたようなウソをいい」ではありませんが、知ったふう なことを言いました。
 これは、私の若干の禅と唯識の学びからした、「平等性智」とはそういうことらしい、という推測的説明にすぎま せん。
 もしかしたら、ちょっと大きめの池を見ただけなのに、海の話をしているのかもしれませんから、ご注意くださ い。
 しかしそれにしても、完璧に「平等性智が開けた」という境地には憧れますね。






妙観察智(みようかんざっち)――すばらしい洞察の心
2006年5月10日


 心が奥底――奥・マナ識と底・アーラヤ識――まで変容してしまえば、当然、意識も徹底的に変容します。
 いつでも自分を含めた宇宙全体が一体であるけれどもその中のものそれぞれにはくっきりと区分があること、 区分はあるけれども果てしなくつながっていて結局は一体であるというすばらしい事実に、いつも自然に目覚め ている、いつも洞察ができているという心の状態です。
 すばらしい事実を洞察・観察する智慧という意味で「妙観察智(みょうかんざっち)」と呼ばれています。
 これは、私たちのような頭・意識で学んでわかってそう思う、あるいは思うようにしているという状態とは質的に まったくちがいます。
 前にお話しした譬えで言えば、徹底的にガット(胆)に収まっているのでたえずハートに実感がありくっきり明晰 に頭も含めた全身心で目覚めているといった感じでしょうか。
 自分と人、自分と物、自分と宇宙が一体でありながら区別できるそれぞれのかたちをもって存在していること に気づいているのを「真実性から依他性、一つからつながり」というのでしたね。
 「分別性から依他性、ばらばらからつながり」という方向でものを見ると、考えること、感じること、することすべ て煩悩になっていくのでした。
 もっともよくわかる人間関係のことを考えて見ましょう。
 個々人がばらばらに分離して存在していて、それからつながり・関係を作っていくのだと思っていると、まず自 分にとっていいつながりがあると、それに過剰に愛着・執着して愛別離苦に苦しむことになります。
 また、自分にとっていいつながりがないと孤独に悩まされます。
 それから、悪い関係にもこだわりを感じて怨憎会苦に苦しみ、怒ったり、恨んだり、嫉んだり、傷つけたり傷つ けられたり……します。
 愛別離苦や怨憎会苦で心が乱れるのが嫌で、人に関わるまいと引きこもると、これまた孤独に苦しむことにな ります。
 しかし、もともとすべてはつながって一つということに深く気づいていると、孤独に悩まされようはないのです。
 そもそも純粋な孤独などというものは、この一つの宇宙にはありえないからです。
 たとえ現象的には人から離れて一人でいても、本質的にはすべての人やものといつもつながっているというの が深い事実なのです。
 かたちの上では別離があるとしても、深い底のところ、全体としては宇宙が分離してしまうということはありえま せん。
 すべてのものがおなじ宇宙の部分としていつも一緒にいるのです。
 心の底からそう思えれば、人を深く愛しても別れを怖れたり、過剰に悲しんだりすることはありません(適度に 悲しむことはもちろんあるのですが)。
 同じ宇宙の一部でありながら、それぞれのかたちに分かれているからこそ出会えるということを、許された無 常の時間の範囲で爽やかに喜び楽しむだけです。
 人と対立し、不利益をこうむっても、過剰に憎んだり、傷つけよう、殺そうと思ったりすることもありません(妥当 な正義感はしっかりとあるのですが)。
 もともと一つであり、そしてダイナミックに変化していく宇宙の中では、あわてて殺さなくても、かたちの上では すべての人が必ず死んでいくことを知っていますから、過剰に恨むことはないのです。
 もちろん、せっかくそれぞれ宇宙の一部でありながら愚かさのために無駄な対立をしてしまっていることを非 常に残念に思う気持ちはあるのですが。
 ……妙観察智の具体的な現われはきわめて多様ですから、とても一度のブログ記事に書きつくすことはでき ません。
 ただ、人生・この世のあらゆることについて、それまでとはまったく違ったすばらしいものの見方ができるように なる(らしい)ということだけ、ここでは学んでいただければ十分でしょう。

 私も、かなり長くそれなりに修行を続けてきたおかげで、時には妙観察智の働きの片鱗を体験することがあり ます。
 それは片鱗を体験しただけでも、いわば世界がきらきらと輝いているように見えてきますから、体験が完璧に なったら、自分と世界はどんなに輝かしく美しいものに見えてくるのでしょう。
 八識から四智への変容が進んでいくことをとても楽しみにして、努力を続けているところです。
 よかったら、みなさんも一緒にやってみませんか。






成所作智(じょうしょさち):最高に開いた感性
2006年5月11日





 無意識と意識が変容すると、それに対応して五感まで変容する、といわれています。
 実体としての自分にこだわっている間は、見るもの聞くものすべてを自分の好みや都合によって判断します。
 そして、自分の好きなものだけを見たり聞いたりしようとします。
 自分の嫌いなものは見たり聞いたりしたくないので、意識的、無意識的に避けようとします。
 しかしまた、嫌いでも自分の都合に関係していることは嫌がりながらも気になってしまいます。
 さらに、自分に関係がないと思っている――実は関心がないだけなのですが――ものに対しては、まったく冷 淡、無視、知らんふりです。
 コスモスのありのままを感じるというのとはまるで違いますね。
 そういう、コスモスにあるものを自分の都合で選別して感じているというのは、ふつうの人のごくふつうの感性 のあり方です。
 どこがいけないというのでしょうか? ずっと学んできた方は、もうおわかりですね。
 コスモスとそのなかのすべてのものは一体です。
 しかしもし、真っ白なのっぺらぼうのような、真っ暗な深淵のような、どろどろの混沌のような一体だったら、す べてのものの区別はなく、したがって関係というものものなかったでしょう。
 例えば私一人だけだったら、独り言・モノローグしかできません。
 あなたと私が区別という意味で別人であるからこそ、関わり・つながることができ、対話・ダイアローグ・コミュ ニケーションができるのですね。
 コスモスもただ一つであるままだったら、そこにはどんな関係もコミュニケーションもなかったでしょう。
 それは、想像しただけでも退屈そのものの世界です。
 しかしとても楽しく幸いなことに、コスモスは区別とつながりとコミュニケーションに満ちたところです。
 コスモス全体とその中に生きている私たちの関係で考えると、コスモスはいつも私たちに実にさまざまな豊か なメッセージを送っているということができます。
 コスモスの一部としての五感は、本来はそうしたコスモスのメッセージの受容器官なのではないでしょうか。
 ところが、私たちは自分の関心によってコスモスのメッセージをきわめて限定して選択的にしか受け容れてい ないのです。
 しかもしばしば歪めて受容してしまいます。
 これはまず、コスモスのありのままを感受していないという意味でまちがいですね。
 さらに、それはコスモスの豊かなメッセージを聴いていないという意味で、とても貧しい、つまらないことです。
 つまり、そこがいけないのですね。
 ところが、私たちの感性はコスモスの豊かで美しいメッセージを聴くことのできる感性に変容しうるというので す。
 見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、体感することのすべてにおいて、もっとも自然ななされるべきことを 成し遂げることのできる智慧に変わるのです。
 「作されるべき所のことを成す智慧」という意味で「成所作智(じょうしょさち)」と呼ばれています。
 「感性が開く」とか「豊かな感受性」という言葉がありますが、成所作智は世界で最高に開いた感性、もっとも 豊かな感性のあり方だ、といってもいいと思います。
 もちろん五感が感じるべきもっとも自然なことを感じるようになれば、五体もなすべきことを自然に成し遂げる ようになります。
 そういう豊かに開いて生き生きとした五感・五体で感じ、生きる世界は、どんなに美しく感動的でしょうか。
 前回も言いましたが、これは片鱗を体験しただけでもすばらしい! 完璧になったら、この上ない生きる喜び を感じることができるにちがいありません。
 心豊かに生きたいと思われる方、成所作智――を含む四智――を目指しましょう。






覚りへの段階:時間をかけてステップを踏んで
2006年5月13日


 人間の病んだ心の仕組み、心の病の原因といろいろな症状、つまり八識と煩悩の話の後で、究極の健康状 態になった心、つまり四智の話をすると、よく「四智なんて、自分の現状とはあまりにも差がありすぎて、確かに すばらしいけど、現実性のないただの理想論のように感じる」という感想が出てきます。
 私はそれに対して、「寝たきりの病人に、回復のプロセスのていねいな説明抜きで突然、あなたはオリンピッ クに出て金メダルが取れるようになりますよ、と言っても信じられないようなものですね」と答えます。
 まず、床の上に起き上がれるようになり、ベッドの手すりにすがって立てるようになり、歩行器を頼りに廊下を そろそろ歩けるようになり、松葉杖をついて歩く練習をし、かなり痛い思いもしながらしっかりリハビリをして、病 院の庭くらいなら散歩できるようになり、退院してふつうの生活に戻れるようになり……というステップを踏んで 健康を回復してから、ようやく軽いトレーニングができるようになります。
 そのステップは人によってさまざまですが、それなりに時間がかかります。
 「寝たきりから三日目で奇跡的な金メダル」なんていうことは、まあ起こらないでしょう。
 しかし、1年、2年、3年とかけて、奇跡的に復帰する選手はいるものです。
 それから、金メダルには到達できなくても、ふつう程度に健康な生活ができるようになる人はたくさんいます。
 唯識では、八識の凡夫から四智の仏・覚った人への成長・変容は非常に長い時間をかけてステップを踏んで いく必要がある、と考えられています。
 何年かがんばって修行して、ある時に一瞬はっと覚ったら、もうそれで終わり、というふうなことはないのです。
 まず、いわば、自覚症状があって自分が病気であることに気づいて医者にかかり、診断を受け、病気とその 治療法の説明を受ける段階があることになっています。
 続いて、説明がしっかり納得できたので、実際の治療・リハビリを実行しはじめるという段階があります。
 この2つのステップだけでも、相当に長い時間がかかるというのです。
 なるべく手間と時間と費用をかけないでインスタントに治りたいと思うのは人情つまり凡夫の気持ちですが、唯 識ドクターは「かけるものはかけないと治りませんよ」と一見クールに聞こえる、しかし本当にはいちばん親切な インフォームド・コンセントの手続きを踏んでくれます。
 今、この連載記事でやっているのは、いわばそういう手続きです。
 それから、ようやくベッドを離れて少しふらふらしながらでも歩けるようになるという感じの健康回復の本格的 第一歩のステップに達します。
 しかし、それからのリハビリが非常に長いというのです。
 というか、リハビリからふつうの生活、それから軽いトレーニング、そして金メダルへの挑戦のためのハード・ト レーニングと、回復のプロセスは切れ目なく続いていきます。
 そして、そういう4つのステップを全部踏み切れたら、いわば金メダル的な完璧な健康、というか超健康のステ ップにも行けるかもしれない、というわけです。
 その5つのステップを「五位(ごい)」といいます。
 さて、この譬えで考えてみて、みなさんは、「どうせ金メダルまでは行けそうもない」と思った場合、「それなら、 ずっと寝たきりでいい」とか思ったりされるでしょうか?
 私は、たとえ金メダルは無理でも、がんばってリハビリして少なくとも健康なふつうの生活ができるレベルくらい までは回復したいですし、できればジョギングか地域の運動会で走れるくらいにはなりたいと思います。
 それは、単なる理想論ではなく、現実性のある到達目標なのではないでしょうか。
 そして、そういう可能な到達目標の向こうに、かなわないかもしれない美しい夢として金メダルのレベルもあっ ていい、ということなのではないかと考えています。
 さて、五位の1つ1つの段階については、次回から説明をしていくことにしましょう。






究極の覚りまでの5段階1:五位説(ごいせつ)について
2006年5月14日





 唯識では、覚りたいと思ったところから究極の覚りを得たところまで、大まかにいうと5段階あるとし、段階のこ とを「位(い)」といいます。
 第1段階は、資糧位(しりょうい)です。
 これは、修行を凡夫の迷いの国から仏の覚りの国への旅に譬えると、旅のための資金や食糧を準備する段 階です。
 凡夫の国から仏の国への旅は、長い長い旅ですから、行き当たりばったりで、準備もなくガイドもなしに出か けたのでは、途中で迷ってしまい、下手をすると遭難してしまうかもしれません。
 しっかりとしたガイドブックを入手してよく読み、目的地のすばらしさにわくわくすると同時に、目的地までの道 筋や交通手段、途中で起こりうるトラブルや危険についても、予めしっかり頭に入れておく必要があります。
 具体的にいうと、まず、お経や唯識の理論書などガイドブックに当たる仏教の文献を学んで、よく理解すること です。
 それから、もちろん教えについて理論的に学ぶだけでなく、修行の方法についても学んでおく必要があります (このブログでは、この後、お話しすることになります)。
 さらに重要なのは、経験豊かなリーダー・旅行ガイドさんに当たる、よい師を見つけることです。
 現地に行ったことがなく、自分もガイドブックを読んだだけというガイドさんは、当てになりませんから、気をつ けたほうがいいと思います。
 一緒に迷い、ひどいと無理心中・共倒れということになりかねませんからね。
 それから、修行の旅というのは楽しいだけではなくそうとう厳しい場面もありますから、励ましあう仲間はぜひ 欲しいですね。
 そういう善い先生、善い仲間のことを、仏教では「善知識(ぜんちしき)」といいます。
 善知識に出会うことができたら、修行の旅、そして人生という旅そのものが、たとえ厳しくても方向はしっかり わかっていて、努力は必ず報われる、みんなでがんばれる、やりがいのある旅になるでしょう。
 さてしかし、いくら準備をしっかりしても、歩き出さないかぎり、それは旅にはなりません。
 「旅行」というくらいで、歩行・実行しなければ旅にはならず、目的地には近づきませんね。
 覚りへの旅の歩行のことを「修行」というわけです。
 修行を実行する段階のことを「加行位(けぎょうい)」といいます。
 行を加える、行に参加する、実践にコミットする、というふうな意味です。
 具体的には、この後お話しする6つの修行方法・「六波羅蜜(ろくはらみつ)」を実践することです。
 ここで、渋い、シブーイことを言っておかなければなりませんが、「仏教を学ぶ」ということの本当の意味は、行 を実践する、六波羅蜜を実修するということで、仏教の本を読むのは、あくまでもその準備にすぎない、というこ とです。
 「仏教の勉強をしています」とか「仏教の研究をしています」というのは、それ自体とても大切なことですが、資 糧位にいることであって、加行位には踏み出していない段階なのです。
 仏教を自分のものにしたいのなら、加行位に入る、修行の実践にコミットすることが必須です。
 これは読者にはぜひ、心に留めておいていただきたいことです。
 「良薬は口に苦し」とか「諫言耳に逆らう(心からの忠告はしばしば聞きづらいものだという意味)」という言葉も あるとおり、もしかしたら嫌味に聞こえるかもしれませんが。
 もちろん、「教養仏教」でいいという方には、強要するつもりはありませんし、できもしませんね。
 しかし、そういう方も含めみなさんに、「旅行ガイドや旅行記を読むのも楽しいですが、ちょっと面倒でもきつく ても、実際の旅に出たほうがはるかにすばらしい体験ができますよ」とお誘いしておきたいと思います。






究極の覚りまでの5段階 2:入口から最終目的地まで
2006年5月19日


 人から「あそこはすばらしいよ。ぜひ行ってみるといいよ」といわれて、旅に出たくなることがあります。
 でも、いろいろあって結局は行かずじまいということもよくあります。
 しかし、「やっぱり行こう!」と決心して準備を始め、そして実際に出かけると、一定の時間は当然かかります が、やがて目的地の入口に到達します。
 この話をするといつも思い出すのは、中国のかなり奥のほうにある五台山という仏教の聖地に行った時のこと です。
 夕方家を出て成田まで行き、かなり待ってから、夜間飛行で上海に向かいました。
 うつらうつらと寝たり起きたりして、「なんだかやっぱり遠いなあ」と思いながら夜を過ごし、やがて空が明るん できて、早朝の上海空港に着陸した時は、「そうか、大陸に来たんだ」と思いました。
 しかし、それからが長かった。ほんとうに長かった。
 中国大陸というのは本当に広いですね。ある意味、うんざりすることもあるくらいの広さでした。
 途中、他の仏教遺跡をいろいろ見たせいもあるのですが、最終目的地までは本当に遠かったです。
 でも、旅というのは――目的地に行って用事だけ済んだらトンボ還りというビジネスの旅は別にして――途中 も楽しい、どころか場合によっては途中こそ楽しいものです。
 もっとも記憶に残っているのが、大同からマイクロバスで五台山まで走った最終コースです。
 これがまた恐ろしく長い道でした。
 大同市内を出ると、そこは高速道路という名前の舗装もあまりしっかりしていないガタガタ道で、バスは埃を巻 き上げながらひた走りました。
 うれしかったのは、道路の両側が美しいポプラ並木だったことです。
 ポプラは私のもっとも好きな樹木の一つで、その並木の新緑の葉が日の光に映え風に揺すられてキラキラ輝 いているのを見ると、もううっとりとしてしまいます。
 ところが、もう旅に出てかなりになっていて、疲れもそうとう溜まってきていましたので、眠いのです。
 「この美しい景色を見逃してなるものか」と思うのですが、もうたまらず目がふさがってきます。
 少し居眠りして、ふと気づいて、「もったいない。がんばらなくっちゃ」と目を引っ張るのですが、睡魔には勝て ません。
 しかし悔しいので、また目を覚まそうとします。
 ……ということを何度か繰り返しているうちに気づいたのは、このポプラ並木は果てしなく続いていて、1時間 や2時間では終わりそうもないらしいということです。
 そこで安心して一眠りして起きてみると、案の定、まだ並木は続いていました。
 朝から午後のかなり遅い時間、夕方近くまでそうとうなスピードで走っていたと記憶していますから、どんなに 少なめに見ても時速80キロ×6時間以上、500キロは続く並木道でした。
 出た時はたっぷりと繁った青葉、遥か向こうにようやく五台山が見えてきた時は、ようやく芽生えてきた新緑の 葉、「気候もこんなに違うんだ」と思いました。
 ともかく、こんなに美しいポプラ並木を朝から夕方まで見ているという体験は、生まれてこの方初めて、一度切 りでした。
 一種の「至高体験」でした。
 そして夕方、かなり肌寒い五台山の麓の宿に着いた時には、「そうかここが五台山なんだ」という感慨がひとし おでした。
 でも、五台山に登るのは翌日です。
 ……あ、私の思い出話をしているようですが、これは譬えです。
 我が家から成田、そして上海、それから途中いろいろあって、大同から五台山の麓までは、覚りの旅でいう と、「加行位(けぎょうい)」から「通達位(つうだつい)」、そして「修習位(しゅじゅうい)」に当たります。
 長いフライトの後で、上海空港に着いたということは、まちがいなく中国に来たということですが、目的地の入 口です。
 入口ですが、中国にはまちがいありません。
 しかし、それから目的地までの旅がこれまた長いのです。
 長いということだけ考えるとうんざりしそうですが、ところが途中も美しい、楽しいものです。
 途中だけだったとしても、「やっぱり旅に来てよかった」という感じです。
 そして目的地の麓に来るとほっとするというか何というか、「来たぞうー!」という感じですね。
 でも、また翌日、これまでよりももっと険しいデコボコ道、ちょっと運転を誤ると谷底に落ちそうな道を猛スピー ドで走らないと、山中にある仏教寺院には着かないのです。
 ひやひやしながら、お尻が痛くなりながら、それでもやっと着いたお寺は、とても風格のあるお寺で、金色に輝 く立派な仏さま――ちょっとわび・さび好みの日本人にはピカピカすぎて違和感がありますが――がおられまし た。
 そういう仏の境地、究極の段階を「究竟位(くきょうい)」といいます。
 つまり、八識が完全に四智へと変容した、すばらしい境地です。
 このように、覚りたいと思ってから究極の覚りに到るまで、「資糧位」、「加行位」、「通達位」、「修習位」とステッ プを踏んで、最終段階「究竟位」に到るというのが、唯識の「五位説」の大まかな話です。
 大変と思えば大変、人間にはこんなにもすばらしい成長可能性があると思えばすばらしい話ですね。
 で、どちらと思うかは、あなたの選択です。






入口に立った菩薩:資糧位(しりょうい)の意味
2006年5月21日





 すでにおわかりのとおり、この授業では、特定宗教としての「仏教」だけの話をしているわけではありません。
 いわゆる「仏教」は呪術性や神話性の面も相当に大きいのですが、理性・哲学性の面を見ると、仏教のエッセ ンスには「つながりコスモロジー」として現代科学とみごとに調和する非常に普遍妥当性がある、という話をして いるのです。
 現代科学の全体像と仏教のエッセンスを合わせて見ていくと、深い「いのちの意味」が見えてくると思います。
 そして、現代科学と仏教から学べるつながり・重なりコスモロジーは、近代の分別知的な理性、つまりばらばら コスモロジーの限界を超えるものではないか、という私の判断をみなさんにお伝えしているわけです。
 そういう流れ・コンテクストで、この「五位」説、特に資糧位というコンセプトを考えていて、ふと面白いことに気 づきました。
 それは、資糧位は覚りを求める存在=ボーディサットヴァ=菩薩の最初の段階であり、まだ縁起、空、一如と いうことを頭で理解している段階です。
 しかしそれはもう、分別知がもっとも発達した、主客分離、分析的な方法による近代の理性=ばらばらコスモ ロジーを超えるものの見方を身につけつつあるということです。
 まだ理論的な理解という意味では、理性の段階を超え切っていませんが、単なる理性の段階は過ぎていま す。
 すべてのことを縁起・関連性、空・非実体性、一如・一体性という方向から見ることができるようになりつつある のです。
 そこで、最近ふと気づいたのですが、資糧位というのは、人間の心理的発達段階でいうと、K・ウィルバーのい う「ヴィジョン・ロジック(展望論理)」の段階だということもできるでしょう。
 例えば、自分と他者はつながっていて一つなのだから、条件さえ調えれば自分と他者の利益は矛盾・対立す るものではないということを、大きな展望の中で見通すことができます。
 そして、すべては空・非実体だから、絶対に変わらない・変えられないようなものはないことを知っていますか ら、間違っており硬直していて一見変えられそうにないものでも、根気よく理にかなったかたちに変えようとしま す。
 そのためにはどうしたらいいか、総合的な視点から筋道立てて・論理的に考えぬくこともできます。
 そう考えると、ばらばら・別々に考えると矛盾・対立していてどうしようもないように見える事ばかりの時代にあ って、より高く広い視点から見渡してそれを解決できる道筋を見出せるのは、ヴィジョン・ロジックをこなせる資 糧位の菩薩だということもできそうです。
 最近スウェーデン・ショック状態だといいましたが、ようやく最初のショック状態から少し鎮静してきていて、ふ と、スウェーデンのすぐれた指導者たちは近代的理性を含んで超えながらヴィジョン・ロジックの段階に達した 人々、つまり唯識用語を当てはめればいわば資糧位の菩薩だということができるのではないか、という気がして きました。
 それにつれて思い出したのは、惜しくも飛行機事故で亡くなった、スウェーデン出身の第二代の国連事務総長 ダグ・ハマーショルドさんは、忙しい仕事の合間をみてはしばしば瞑想をしていた、というエピソードです。
 彼は、加行位の菩薩だったのでしょうか、あるいは通達位くらいまで行っていたかもしれません。
 さらに、そこで希望が湧いてきたのは、リーダーたちが、必ずしも修習位や究竟位の菩薩まで行けなくても、 資糧位から通達位くらいまでの菩薩になれたら、環境と福祉と経済のみごとなバランスのとれたすばらしい国・ 緑の福祉国家を創出することができるのではないか、ということです。
 人類すべてが究竟位の覚りに到らなくても、世界の主要国の主要なリーダーたちがヴィジョン・ロジック段階く らいまで発達してくれればいい、資糧位くらいの菩薩になってくれればいい、あるいはそういう人間がリーダーに なればいいわけです。
 そうとうに困難だが、そのくらいまでなら現段階の人類でもなんとか実現可能ではないか、という気がしてきま した。
 秋のシンポジウムには、ぜひ仏の国土を浄化したいという誓願を抱いた諸菩薩*に集まってほしいものです。
 聴講生のみなさんも、ぜひそういう菩薩の一人になって下さい。






心を超健康にする6つの方法:六波羅蜜(ろくはらみつ) 1
2006年5月22日





 これまで、すべてをばらばらに見てしまうのが迷いの心であり、すべてのものをつながって一つと見ることがで きるのが覚りの心であること、凡夫の八識の心はどういうものか、そこからどんなにひどい煩悩が湧いてくる か、それに対して覚った人の四智の心はどんなにすばらしいものか、凡夫から菩薩になりさらに覚った人=仏 になるには5つの段階があることを、非常にシステマティックに学んできました。
 ここまで学ぶと――あるいは学んでいる途中にも――「では、どうすればいいのか」という問いが心に浮かん できたのではないでしょうか。
 ある意味ではそこがいちばん聞きたいところだったかもしれません。
 丁寧すぎるくらいの情報提供・インフォーメイションの後でようやく、唯識ドクターは、「……というわけで、あな たの心は病んでいますが、次のような処置をすれば治ります。やってみますか」と治療方法の説明と同意・コン セントのプロセスに入っていきます。
 「治療法は6つの方法がセットになっています。1つだけでも効果はないことはないんですが、ぜんぶをやるこ とでそれぞれが相互に促進しあって、効果が顕著に高まります。試してごらんになりますか」と。
 それぞれの名前をあげておくと、「布施(ふせ)」、「持戒(じかい)」、「忍辱(にんにく)」、「精進(しょうじん)」、 「禅定(ぜんじょう)」、「智慧(ちえ)」の6つです。
 まず、ごくおおまかに説明しておきましょう。
 「布施」というのは、施すこと、いろいろないいものをあげることです。
 「持戒」というのは、戒律を維持する、きまりを守るということです。
 「忍辱」というのは、辱めを忍ぶ、自分を害するものに対して仕返しをせず忍耐することです。
 「精進」というのは、精一杯一所懸命に修行を進めることです。
 「禅定」というのは、心を静め、深め、集中して、つながって一つである空の世界を実感するための瞑想です。
 「智慧」というのは、これまで学んできたような言葉による智慧から始まり、言葉を超えた空の智慧、四智ま で、いろいろな深さの智慧全体を示しています。
 この6つの方法を、心を込めて、時間をかけて、しっかりと実行すれば、心は徐々に癒され、健康になり、最終 的には超健康といってもいいくらいのレベルに成長していく、というのです。
 最初、おおまかな説明を聞いただけでは、「なんだか堅苦しくて面倒そうだな。もう少し楽しくて楽な方法はない のか」というふうな気がするかもしれません。いや、たいていの人がそういう気がするでしょう。
 そういう方には、「面倒だけど治る方法と、楽だけど治らない方法と、どちらがお好きですか? どちらがあな たの利益になるでしょう?」と聞くことにしています。
 前にお話しした譬えでいうと、寝たきりから起き上がって、歩けるようにリハビリをする場合、かなり根気が必 要だったり、場合によってはそうとう痛かったりするようです。
 でも、歩きたかったら、がんばるしかないんですよね?
 ベッドで寝転んでいるほうが当面楽かもしれませんが、それでは歩けるようになりません。
 歩けるようになった時の未来の喜びと、寝たままでいる今の楽さと、みなさんはどちらを選択されますか?
 もちろん最終的にはみなさんの自由ですが、長い目で見たら明らかに、がんばったほうがみなさんの利益に なると思います。
 ですから、強制はできませんが、強くお勧めします。
 ……といっても、もう少し詳しく説明しなければ、何をどうすればいいのかわかりませんね。
 続けて、お話ししていきたいと思います。






コスモスがコスモスをコスモスにあげる:「布施(ふせ)」の話 1
2006年5月24日





 コスモスの中のすべてのものはつながっており一つですが、それぞれの区別できるかたちははっきりあるので した。
 人間同士に関してもそうで、すべての人間はいちばん深いところでは一体とはいっても、それぞれは区別でき る個々人という意味で別人です。
 区別できるという意味での個々人がいるということは、ありのままの世界の姿(如・実相)で、それ自体は妄想 でもなければ、悪いことでもありません。
 それどころか、それぞれ別の人間であるからこそ、すばらしい出会いもできるわけです。
 コスモス全体が、ずるずるべったり、混沌状態の一体だったら、いわばどろどろとうごめいているだけで、感動 的な、古くてすてきな言葉でいうと「邂逅(かいこう)」、この人に遇えてよかった、生れてきてよかったというふう な出会いの体験はできません。
 ところがまずいことに、人間は分別知によって他の人を見ます。
 そうすると、自分とはまったく分離した別人、自分には関係のない「他人」というふうに感じられたりします。
 もちろん、自分にとって直接的な関わりのある人は「関係者」と感じられたりもするのですが。
 しかし、私たちが仏教を通して世界のほんとうの姿を学ぶと、すべては縁起・つながり、そして究極は空・一如 の世界だということが、頭では納得できます。
 確かに頭で納得はできても、なかなか実感は湧きません。
 どうしても「私は私、人は人」、「私のものは私のもの、人のものは人のもの」というふうに分離的に感じられて しまいます。
 「私と人はつながっている」、「コスモスという意味では私と人は一体だ」という気がしないのです。
 それは平均的な・ふつうの・平凡な人にとっては、当然なことです。
 そこで、岐れ路になるのは、ちょっと古いジョークですが「赤信号、みんなで渡ればこわくない」式に、「みんな そうじゃないか。どこが悪いんだ」と、そのままに居座る――前回の譬えでいえばベッドに寝転んでリハビリをサ ボる――か、「実感はないけど、考えてみると確かにそうだな。どうしたら、本当のことが実感できるようになるん だろう」と考えて、方法を教えてもらって実行するかどうかというところです。
 他の人と私が深いところでは一体であることを、頭でわかるだけでなく、ハートで感じ、胆に納めていくためのト レーニング、リハビリの最初のメニューが「布施(ふせ)」です。
 これは分別知的な常識からいうと、「私」の「もの」を「人」に「あげる」という意味です。
 しかし無分別智・一体性の智慧からいうと、「私」も「人」も「もの」もおなじ一つのコスモスの現われです。
 もの(者・物)は、究極のレベルでいえば、すべてコスモスのものであって、誰か特定の個人のものではないの です。
 (いやぁ、これはお話ししている私も改めて自分で驚いてしまうほどの、常識外れの話……しかしどうも真理だ と思われます。)
 だから、「私の物を人にあげる」といっても、あげる者ももらう者もあげ−もらう物もみんな本当は空・コスモス なのです。
 「私が物を人にあげる」のは、コスモスがコスモスをコスモスにあげる、というか、コスモスのある部分がコスモ スのある部分をコスモスのある部分に移すだけのことです。
 これを、私と人と物という3つの要素がみな空であることに基づいた布施という意味で「三輪空寂(さんりんくう じゃく)の施」と呼んでいます。
 高い所にある水が低い所に流れていって、同じ高さになるのは、水の自然です。
 それと同じように、コスモスのこちらに余っていて、そちらに足りなかったら、そちらのほうに物が移っていくの が、コスモス全体の自然でもあるというのです。
 ところが私たちは、そんなことを言われても、実感もなければ、実行もできません。
 また前回の譬えでいうと、ベッドで寝たきりのようなものです。
 しかし、「金メダルを目指したい」、「近くのお店に買い物に行けるくらいには元気になりたい」と思うのなら、ま ず最初はせめてベッドに起き上がる練習程度でもいいから、とにかく練習を始めましょう、というわけです。
 ここで仏教内外の多くの人が間違いがちだったのは、仏教を学びはじめたならすぐに、大変な献身、自己犠 牲、布施をしなければならない、できるはずだ、と考えてしまうことです。
 しかし、それは、寝たきりの人を突然炎天下のマラソンに出場させるようなもので、そんな無理をさせると病人 は倒れてしまう、どころか死んでしまうかもしれません。
 無理なリハビリはリハビリにならないどころか、状態を悪化させますから、それは「治療」とは呼ばないのです ね。
 リハビリは、ちゃんと回復の程度に合ったメニューでなければなりません。
 回復の程度に合ったメニューを、ちゃんと実行することが必要です。
 もちろん、治りたいのなら、リハビリをサボってはいけないのです(←念のため、こういうのは論理療法では「絶 対視され、硬直したmust」とは区別されていて、「条件付のmust」と呼ばれ、こういう「ねばならない」は健全な 社会生活には必要なものとして認められています)。
 私も、金メダル級の「布施」はできませんし、やりません。現状の自分の回復状態に合っていないと思うからで す。
 でも、自分にできる範囲+αの「布施」的なことは、なるべくするように努力しています。
 体を壊してしまわないように注意しながら、でも少しずつ難易度を上げていきたいと思っているという段階にあ ります。
 六波羅蜜の話――というかそもそも仏教の話――をすると、時々、私のことを修習位以上究竟位に限りなく 近い菩薩なのではないかと善意の誤解をする方や、「お前が菩薩ならおれにこうしてくれるべきだ」と建前を振り かざして勝手な要求をする人がいたりするので、誤解なきよう、ちょっと現状報告をさせていただきました。
 この授業は、まだまだ未熟、修行中の菩薩が、これから修行を始めるかもしれない菩薩候補生、後輩のみな さんに、ちょっと先輩として、ちょっとアドヴァイスしている、といったふうなものだと思って下さい。
 お役に立ちそうなら、さらに付き合ってください。






言葉と物と心を伝える:「布施」の話 2
2006年5月25日 | メンタル・ヘルス





 「あげる」というと、私たちはすぐに物のことを考えます。
 さらに現代のような貨幣経済の社会だと、物を買うことのできる「お金」を連想します。
 実際、日本の仏教で「お布施」というと、お葬式や法事を執り行なってくれたお坊さんに信者が差し上げるお 礼、特にお金のことをいいますね。
 しかし、これはインドのもともとの大乗仏教の「布施」とはかなり違ったものになっています。
 本来の布施は、前回お話したように、修行のためにするもので、ということはまず修行者・僧侶が行なうべきも のです。
 そして修行者が行なう布施は、3種類あり、物だけをあげるのではありません。
 何よりもまず、真理の言葉・教えをあげる、伝えるというのが、菩薩が行なうべき布施の第一です。
 ふつうの人・凡夫は、無明のために四苦八苦の苦しみをしています。
 その苦しみから解放されるには、智慧・覚りを得なければなりません。
 といっても、突然、八識が四智に変わり、究竟位の覚りを得るというわけにはいかないのでした。
 まず縁起・空という真理の教えを聞いて、学ぶことから始まります。
 苦しんでいる人をそういう学びの歩み、あるいは心のリハビリの第一歩に導き入れるには、ちゃんと言葉で説 明をしてあげなければなりません。
 そういう真理・法の言葉を伝えてあげることを、「法施(ほうせ)」と読んでいます。
 常識的に物をあげることというのとは異なり、いろいろなかたちでの「説法」をすることこそ、菩薩がまず行なう べき布施なのです。
 しかし、その人が例えば今大怪我で激痛で苦しんでいるとすると、インフォームド・コンセントだのリハビリだの といっているわけにはいきません。
 何はともあれ応急手当をしなければなりません。例えば止血、痛み止めの麻酔などなど。
 それに似て、物質的な面で苦しんでいる人、例えば餓えている人に、難しい仏教の教えを説いても、その時の その人の救いにはなりません。
 ですから、そういう場合は、まず食べ物など物質的な援助をするのです。
 そういう布施を「財施(ざいせ)」と呼びます。
 これも、状況によってぜひ必要なものです。
 しかし、建前としては、まず法施があって、その補助として財施がある、といっていいかもしれません。
 それから、補足的にいうと、日本仏教の「布施」は、僧侶がお葬式や法事をきっかけにして縁起の理法・つな がりの大切さをちゃんと檀信徒の方にお伝えすることができれば、それは「法施」になります。
 その法施への感謝の意味を込めて、檀信徒が僧侶にお金などを差し上げるのであれば、それは「財施」で す。
 そういう法施と財施が適切に循環しているのであれば、それは仏教の本筋からはずれてはいないと思いま す。
 そういう意味で、日本のお坊さま方は、葬式・法事、その他あらゆる機会を捉えて、お説法する努力をしてい ただけるといいのではないでしょうか。
 悪い意味で儀礼化・形骸化してしまい、わけのわからないお経を唱える葬儀と、それに対してわけがわからな いにもかかわらず習慣として払わされる葬儀料という状態では、仏教としては堕落というほかありません。
 あ、余計なお世話だったかもしれません。
 それから、布施の最後、ある意味でいちばん大切なのは「無畏施(せむい)」です。
 畏(おそ)れのない心、つまり安らぎを与えるということですね。
 悩んだり、苦しんだりしておられる方の心が安らかになるお手伝いをすることは、仏教がもっとも重点的に行 なうべき布施ではないか、と私は考えています。
 真理の言葉を伝えるのも、必要な物をあげるのも、その結果として心が安らかになるのでなければ、あまり意 味がありません。
 心をもって生きている人間という生き物にとって、言葉も物ももちろんベースとして必要ですが、その上にさら に心の安らぎ・満足というものが必要です。
 以上のように、物、言葉、心の3つの面すべてについて、私に少しでも余りがあれば足りない人にあげる努 力、布施の実行によって、私たち自身の心が他者との一体性、さらにはコスモスとの一体性を少しずつ実感で きるようになる、というのです。
 ここで大切なのは、人のためというよりも、まず自分自身の心の健康回復のために行なうリハビリが布施なの だということです。
 これがわかってから、私も「なぜ、私が損をしてまで人のためにしなければならないんだ」という疑問はまったく なくなりました。
 布施は、自分のために人にやらせていただくトレーニングだったんですね。
 だから、布施をさせていただいた方に「リハビリに付き合って下さって有難うございます」と感謝してもいいくら いです。
 ともかく、無理のない範囲で、少しずつやっていきましょう。






できることから始める:無財の七施+1
2006年5月26日





 私たちは、六波羅蜜というと何かすごいことをしなければならないのだと思い、すぐに自分には無理だと思う か、逆に無理をしてしまいがちです。
 しかし私の考えでは、布施も含め六波羅蜜はリハビリのメニューのようなものですから、回復度に合わせて 徐々にやる必要があると思います。
 いくら人の役に立ちたいといっても、やっとベッドから起きて歩行練習を始めたばかりの人が、突然アフガンに でも行って炎天下の重労働のボランティアなどをしたら、すぐに倒れて、かえってまわりの人に迷惑をかけてしま うでしょう。
 泳げない人が、溺れている人を助けようとして飛び込んだら、自分も溺れてしまって、救助員に二重に手間を かけてしまいます。
 しかし、仏教の歴史の中でもそういうことがよくあったようで、「非力(ひりき)の菩薩救わんとしてかえって溺 る」という言葉もあるそうです。
 ですから布施も、自分のいまの実力に応じて、無理のない程度にすこしずつやるのがいいんですね。
 溺れる人を助ける救助員になりたかったら、まず先に泳ぎをおぼえる必要があります。
 その場合、最初はボードにつかまってバタ足をするといった程度の練習から始めるわけです。
 幸い、例えば『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経に初歩的メニューが書いてあります。
 「無財(むざい)の七施(しちせ)」といって、財力・実力がほとんどなくてもできる布施です。

@眼施(げんせ) 人をやさしい眼で見ること
A和顔施(わげんせ) やさしい顔をすること
B言辞施(ごんじせ) やさしい言葉をかけること
C身施(しんせ) 体を使ってできることをすること
D床座施(しょうざせ) 席をゆずること
E心施(しんせ) 心で思うこと
F房舎施(ぼうしゃせ) 宿をお貸しすること

 この7つです。
 人を見る時、なるべくやさしい目で見るようにしましょう。
 人にはなるべく笑顔で接するようにしたいものですね。
 激しい言葉、とげのある言葉を使わないで、やわらかなやさしい言葉を使うように心がけましょう。
 やさしい言葉というのは、時として本当に救いになるものです。
 旧約聖書に「優しい舌は命の木である。乱暴な言葉は魂を傷つける。」(箴言15・4)という言葉があります が、本当にそうだと思います。
 それから、たとえ小さなことでも体を使ってできることをしてあげるように気をつけたいですね。
 例えば、体が不自由な方は、ちょっとものを取るのも大変で、そんな時そばにいる人が頼むとこころよく気軽 に取ってくれるとすごく助かるのだそうです。
 電車などで、めんどくさがらないで、照れないで、必要だと思われる方にさっと席を譲るようにしましょう。
 私も、なるべくそうしていますが、でも、時に自分がとても疲れているとパスさせていただくこともあります。
 must化はしないことにしているからです。
 なかでも「心施」など、「心で思っても何もしなければ何にもならないではないか」と思われるかもしれません が、そうではありません。
 苦しい時に誰かが思ってくれるだけでも、大きな心の支えになりますし、また心の深い思い・祈りはしばしば― ―必ずではないにしても──実現します。
 「念ずれば花ひらく」という言葉もあります。
 唯識の考え方からいうと、人間の心は奥深いところで他の人とも宇宙ともつながっていますから、私の思いが 宇宙の働きと共振すると、私が何もできなくても、宇宙が他の人のためにそれを実現してくれることがあるようで す。
 よかったら、実験してみてください(私の実験したところでは、100%ではないが、かなりの程度実現するとい う感じです。)
 具体的なやり方としては、私の訳したD・チョプラ『人生に奇跡をもたらす7つの法則』(PHP研究所)などが参 考になるでしょう。
(ただ予めお断りしておきますと、残念ながら、全体としての宇宙は部分としての私の思いどおりになるとはかぎ りません。私の思いが宇宙と共振しない場合もあるようです。)
 以上の項目の中の1つ、2つなら、私たちでも、お金がなくても、力がなくても、いつも必ずはできないにして も、なるべくそうするように心がけることはできますね。
 まあ、最後の宿をお貸しするのは、自分に家がなければできませんけどね。
 ところで、以上の七施に、私は人の言葉・思いに耳を傾けてあげるという布施を加えるといいのではないかと 思っています。

G傾耳施(けいじせ) 人の言葉や思いに耳を傾けること

 七施の名前にならって、「傾耳施(けいじせ)」と呼びましょう。
 これもまた、財力がなくてもできることです。
 ただ、本格的にするには、かなりの根気と非常な共感力が必要ですが。
 ひたすらに耳を傾けるだけのように見えるロジャーズ派カウンセリングに大変なトレーニングが必要であり、し たがってまたプロのカウンセリングは有料であるように、「相手の気持ちに深く共感しながら、しかも感情的に巻 き込まれてしまわない」というのは、決してやさしいことではありません。
 でもともかく、人に聞いてもらえ、わかってもらえるだけでも、大きな慰め、救いになることがあります。
 できるだけ、聞いてあげるという布施も実行していきたいものです。






ボランティアと布施
2006年5月27日 





 私たちがぺこぺこにお腹が空いている時に、足が歩きまわり、目や鼻などが食べ物のある所を見つけ、手が 口に運んで、舌が美味しさを感じ、胃や腸が栄養を吸収する、という場合、足や目や鼻や耳や手が一方的に損 をして、口や舌や胃や腸が一方的に得をしているわけではありません。
 それと似て、私たち人間が深いところでは一体――つまり一つの体――なのだとしたら、私が足や目や鼻や 手の働きをし、他の人が口や舌や胃や腸の働きをしたとしても、私が損をし人が得をするわけではありません。
 一体である全身・全体のために体の各部分が、それぞれにふさわしい働きをしているだけのことです。
 「布施」は、そういう深い事実に目覚めて自他の深い生きる喜びを感じられるようになるために行なうリハビリ やトレーニングのようなものなのでしたね。
 「私のため」と「人のため」がほんとうには別のことではなく、同じ「私たちのため」であることを実感したいの で、練習をするわけです。
 布施は、「私が何かを人にあげる」というかたちの上では、いわゆるボランティアやチャリティ(慈善)と似てい ます。
 そして公平に見て(のつもりですが)、日本近代でいえば、仏教には布施という理想ないし建前はありながら、 実行の点ではキリスト教のチャリティ、ボランティアには一歩も二歩も譲るところがあったと思います。
 しかし、布施はその目指す精神性においては、ある意味でボランティアよりも深い、あるいは高いといえるので はないでしょうか。
 キリスト教的なものであれ、ヒューマニズム的なものであれ、ボランティアは、「私」が「何か」を「人」にあげる、 というかたちになりがちです。
 つまり、私と人と物が別の分離した存在であるという考え方が大前提になっており、何らかの意味でより多くの 物をもっている私が、もっていない人に同情して、私の物をあげるというかたちになっているのではないでしょう か。
 (キリスト教的チャリティでもきわめて深い場合は、神の子が神のものを神の子のために使う、という精神、ア ガペーという愛の精神で行なわれることがありますが。)
 そういうボランティアは、下手をすると――うまくいっている場合ももちろんあるのですが――いくつかの問題を 引き起こします。
 1つは、私が私の物を人にあげることによって、精神的な見返り(例えばやりがい、生きがい、誇り、喜び…) を求めているため、見返りがなかったら嫌になってしまうことがしばしばあるという限界です。
 ボランティア関係者の方によく見られる燃えつき症候群(バーンアウト・シンドローム)の大きな原因の1つ(す べてではありませんが)は、自分のしたことへの精神的な見返りがないという思いのようです。
 2つは、多くもっている=優越している私 対 少ししかもっていない=劣等なあなたというかたちになると、時と してしてあげる相手につらい劣等感を感じさせ、心理的に傷つけてしまうことがあるということです。
 3つは、可哀そうな人のためにいいこと・立派なこと・優れたことをしてあげている私という優越感が固まった傲 慢な人間を生み出すことがあるという点です。
 率直にいって、福祉関係者の方の中には、もちろん本当に頭の下がるすばらしい人格の方もおられますが、 かなり時々――微妙な表現ですね――えらそうで嫌味な方もいないではありません。
 こういう話をする時にはいつも但し書きをするのですが、これは、「だからボランティアには無理があるし、もと ともと偽善なんだ。そんなものはやめてしまえ」といいたいのではありません。
 人のためにいいことをすることは、もちろんいいことです。
 昔、若気の到りで、牧師をしていた父に「偽善者は全然ダメだね」というふうなことをいったら、「まあ、偽善も 善のうちじゃからのう。悪事を働くよりはええんじゃないか」――瀬戸内海の方言ではこういう言い方をするので すが――といわれて、深く深く「なるほど」と思ったことを思い出します。
 少々偽善的でも善行は進んで行ないましょう。
 言葉の意味からしても、ボランティアとは「自発的に進んで行なう人」ということですね。
 しかし私は、ボランティアをしている、あるいはしようとしている学生たちには、「ボランティアを布施の心でやれ ると、もっといいんじゃないかな」といいます。
 広く深い意味での私つまりコスモスが、私のものを、私のために動かすだけなら、別に見返りはいりません。
 本気でそう思えれば、見返りがなくても嫌になったり燃え尽きたりしないでしょう。
 そういう思いで――つまり平等性智に近づくべく努力しながら――行なえば、優越―劣等という分離した関係 で相手を傷つけることも少なくなるでしょう。
 痛い左手を痛くない右手が撫でても、それは当たり前のことで、右手が左手より優れているわけではなく、撫 でられた左手がしてもらった負い目や劣等感を感じることはありません。
 もちろん、右手がえらそうに「やってやった」と優越感に浸ることもありえません。
 布施の心で行なえば、傲慢な心になる危険が避けやすいでしょう。
 凡夫あるいはごく初歩の菩薩である私たちは、自他の分離を前提にしたボランティアをしていろいろな点で行 きづまることがありがちです。
 ぜひ、つながって1つだから自然にする・せざるをえないという慈悲を目指すリハビリとしての「布施の心」で、 そういう限界を超えていきたいものです。






目標のためのセルフ・コントロール:持戒(じかい)の話 1
2006年5月28日




                    奈良東大寺戒壇院


 「菩薩のためのリハビリ・メニュー その2」は、戒律を守る・保持すること、「持戒(じかい)」です。
 この言葉を聞いただけで、「堅苦しそう」、「めんどくさそう」と思う方もおられるでしょう。
 私も含め戦後の日本人は、自由、というより自分の好きなようにすることがいいことだという思い込みが強く、 「戒律を守る」なんていう言葉はほとんど死語になっています。
 そこで、仏教でいわれている戒律の内容の説明に入る前に、「戒」についての考え方そのものについて一言コ メントをしておきたいと思います。
 重い病気になった場合、いろいろなことに「だるくて、めんどくさくて、何もしたくない。放っておいて、寝かせと いてくれ。もういい。いろいろするくらいなら、死んだほうがましだ」という気分になることがあるようです。
 そういう気分になるのはよくわかります。
 しかし、いろいろ治療をしないでいると、よくなるのならいいんですが、よくなりません。
 ちっとも「もういい」なんてことはないんです。
 どんどん悪くなります。
 すんなり死ぬのなら楽になるかもしれませんが、たいてい死ぬ前にもっと悪くなって苦しみますから、ちっとも 「まし」なんかではありませんね。
 よくなったほうがいいに決まっています。
 よくなるためには、やるべきことはやらなければなりません(←条件付mustですね)。
 やるべきでないことは、やってはいけません。
 その場合、よくなるのは誰でしょう?
 医者ですか、患者ですか?
 そう、患者さんご本人ですね。
 自分のために、やるべきことをやり、やるべきではないことはやらない、というのは、これは誰かに強制・束縛 されることでしょうか?
 そうではありませんね。自分で自分をコントロールすることですね。
 それは、他律ではなく自律です。
 自分のために自分を律する、自分のために治療に必要な規則を守るわけです。
 それに似て、「持戒」というのは自分の心の健康回復−成長のためにすることですから、自分で納得して自分 のために自分に戒律を課すこと、つまり「自戒」なのです。
 「持戒」は「自戒」で、自分のためです。
 「不放逸」「不誠実、怠惰、好き勝手な心」の記事で、私たちはマナ識と非論理的な考え方のせいで、目先、 自分が楽をすること、自分の楽しいことをすること、自分の好きなように、自分勝手にすることがいいことだと思 いがちだという話をしました。
 でも、よく考えたら、それは違うんでしたね。
 もう1つ、譬え話を。
 また金メダルの話ですが、金メダルを目指す選手は、毎日、どういう生活をしているんでしょう。
 好きなように食べ、好きなように寝、好きなように夜更かしをし、めんどくさいことはなるべくやらないようにし… …というふうにしているわけはありませんね。
 筋肉トレーニング、ウェイト・コントロール、メンタル・トレーニングにいたるまで、できること=やるべきことは何 でも精一杯やります。
 そういう人たちが口をそろえていうことは、「自分に勝つ」ということです。
 怠けたい、楽をしたい、好き勝手をしたい自分に、向上したい、金メダルを取りたい、世界記録を出したい自 分が勝つんですね。
 目標のために自分で自分をコントロールする、セルフ・コントロールすなわち「自律・自戒」が「持戒」の基本で す。
 もちろん仏教では、「戒師」から「授戒」されるのですが、それはトレーナーからトレーニング・メニューを提案さ れるようなものだと考えればいいでしょう。
 他から提示されたメニューを自分のために受け容れて実行するということです。
 「持戒」の基本的な意味がわかってから、私も「持戒・自戒」の努力をする気になりました(といっても、伝統的 な仏教の戒律を授かって保つということをしているわけではありませんが)。






基本的な5つの戒:持戒の話 2
2006年5月29日


 私は、伝統的な仏教の戒律を授かって守っているわけではありませんし、戒律についてはあまり勉強していな いのですが、いちおうおおまかなポイントだと思うことだけお話ししていきます。
 まず、僧も在家の人も共通に守る、非常に基本的な5つの戒、「五戒(ごかい)」というのがあります。
 不殺生(ふさっしょう)、殺さないこと、不偸盗(ふちゅうとう)、盗まないこと、不邪淫(ふじゃいん)、不適切なセ ックスをしないこと、不妄語(ふもうご)、ウソをつかないこと、不飲酒(ふおんじゅ)、お酒を飲まないこと、の5つ です。
 不邪淫と不飲酒で引っかかる人は多いでしょうが(不飲酒については私もです)、他の3つは言うまでもないほ ど人間として非常に基本的なルールですね。
 覚るかどうかという話以前に、人間同士が信頼しあい安心して生きていく上で、これらは鉄則といってもいいで しょう。
 これらがきちんと守れただけでも、世の中はどんなに平和になるでしょう。
 これらが権威ある仏の教えとして広められたことによって、アジアの人、日本人の真面目な国民性が育くまれ てきたことはまちがいありません(もちろん儒教の影響も大です)*。
 そして、前にお話ししたように、近代化によって仏教―神仏儒習合のコスモロジーが否定されるにつれて日本 人の倫理性・精神性も崩壊しつつあります。
 私たちは、仏教の戒の意味をコスモロジー的視点からもう一度見直す必要があるのではないかと思います。
 それから、「不邪淫」はもともと、僧はセックスそのものをしてはいけない、在家は結婚という形式の外でのセッ クスはいけないという意味です。
 これは、いい悪いは別にして、現代の日本ではほとんど通用しない戒ですね。
 しかし、セックスは人間同士の行為ですから、これを「相手も自分も傷つけるような不適切なセックスは避け る」という意味に取れば、現代でもきわめて有効な規準だと思います。
 性は、命のすばらしい機能であると同時に、人間においては非常に歪み汚れたものになる危険も含んでいま
 かたちは時代によってある程度変わっていくにしても、男女がお互いを幸せにできるようなセックスが人間とし て適切であり、自分も含め誰かを傷つけるようなセックスは不適切であるという大まかな物差しがあれば、その 時代、状況にふさわしいルールが出来上がってくるのではないか、と私は考えています。
 現代の日本では、最後の「不飲酒」という戒は、僧侶を含め守っていない人が圧倒的多数のようです。
 それどころか、仏教の裏用語で「般若湯(はんにゃとう)」というのはお酒のことです。
 「覚りに導くお湯」と呼んで、お酒を飲むこと=不飲酒戒を破ることをごまかしたのですね。
 東南アジアのテラヴァーダ仏教の僧侶の方からすると、日本の僧侶がお酒を飲むのは、許しがたい破戒に思 えるようです。
 私もかつてプロテスタントの「禁酒禁煙」という厳格なモラルを守っていましたが、日本のお酒を飲むことによっ てコミュニケーションを図るという習慣を見ているうちに、「酒は呑むべし、呑まれるべからず」ということでいい のではないかと思うようになり、適度な範囲で人と楽しく飲むようになりました。
 呑まれてしまって羽目をはずし、大失敗、とんでもないことをするなんてことにさえならなければ、「不飲酒」は 「酒に飲まれないこと」というゆるやかなルールでもいいのではないでしょうか。
 どちらにしても、原則は、心の健康回復のために妨げになることはしない、助けになることはするということだ と思います。






八戒、十戒、二百五十戒:戒の話 3
2006年5月31日


 五戒の次に「八戒(はっかい)」または「八斎戒(はっさいかい)」と呼ばれるものがあります。
 これは、在家の人が特定の時に限って守り、いわゆる精進潔斎(しょうじんけっさい)をする場合の戒です。
 五戒に、「不塗飾香鬘舞歌観聴(ふずしょくこうまんぶかかんちょう)」、香料を塗ったり髪を飾ったりせず、踊り を見たり、歌を聞いたりしないこと、「不眠高広厳麗床上(ふみんこうこうごんれいしょうじょう)」、高くて広くて豪 華で美しい床で寝ないこと」、「不食非時食(ふじきひじじき)」、決まった時以外に食事をしないことが加わりま す。
 簡単にいえば、贅沢、華美なことをしないで身を慎むということでしょう。
 余談ですが、『西遊記』の猪八戒の名前はここから来ています。彼がいぎたなくて食欲、性欲などのコントロー ルがきわめて苦手だったからこそ、この八戒を守るようにという意味で、三蔵法師がつけたわけです。
 それから、さらに多くなるのが「十戒(じゅっかい)」または「十善戒(じゅうぜんかい)」です。
 不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語までは五戒と重なり、不飲酒が省かれて、「不両舌(ふりょうぜつ)」、二枚 舌を使わないこと、「不悪口(ふあっく)」、人の悪口をいわないこと、「不綺語(ふきご)」、飾った言葉を使わない こと、「不貪欲(ふとんよく)」、欲張らないこと、「不瞋恚(ふしんい)」、腹を立てたり恨んだりしないこと、「不邪見 (ふじゃけん)」、因果・縁起の理法を否定するような考えをもたないことの5つが加えられています。
 これも在家、出家共通の戒ですが、特に在家の信者の熱心な人には、この「十善戒」が授けられ、守るように 教えられました。
 お酒の好きな人は、不飲酒が省かれているので、ほっとするかもしれません。
 かつての日本人の真面目さ、潔癖さ、正直さ、真面目さ、やさしさ、柔和さ、質素さといった美点は、先にお話 した五戒や、こうした十善戒の心がお寺でのいろいろな機会に語られたお説法などを通じて庶民に滲み込んで いったことで育まれたという面がかなり大きいと思います(それは寺子屋で儒教が説かれたことと並行していま す)。
 かつて私自身、仏教の意味は高尚で難解な教理や厳しい修行によって到る深い境地などだけにあると思い がちでしたが、現代のように荒廃してきて初めて、こうした一見当たり前のようにも思える、日常的な戒めがどん なに大切なところで日本人の精神性を育んできたのか、見直さなければならないと思うようになりました。
 人間は、倫理も含めてすべてのことに関して、教えられなければ学ぶことは困難です。
 私たちは、仏教だけに通用するのではない、普遍性のある、こうした十善戒のようなことをちゃんと子どもたち に教えることのできる教育制度を考えなければならないのではないか、と思います。

 (ただし、これまでお話してきたことと矛盾するように思われる方もあるかもしれませんが、私は現在の教育基 本法の改正には疑問を感じています。
 民主主義というのは、議員の多数決という手続きを経ればそれでいいというものではないからです。
 教師〔つまり教育の現場を担う国民〕の大多数との合意が十分に形成されないところで――現状では形成さ れているとはまったく思えません――法律だけが制定されると、それは罰則を伴って強制的に執行されることに なりかねません。
 強制によって本当には納得できていないことを教え−教えられることは、教育者にも子どもにも心の大きな歪 みを生み出すことはほぼ確実です。
 心の歪みをもたらすようなものは教育とは呼べないでしょう。
 教育とは呼べないものを強制する法律を「教育基本法」として制定するのは、民主主義国家の国民のために 存在している政治家としてやるべきことではありません。
 本当に意味のある改正をしたいのなら、何年かけても何十年かけても、国会議員の過半数だけではなく、現 場の教師の大半が心から納得して子どもたちに伝えることのできるように中身の徹底的な合意形成に努力す るべきだと思います。
 そのためには、これから国民の大半、教師の大半、そしてその代表としての国会議員の大半が心から納得で きる日本のコスモロジーの創造から取りかかる必要があるのではないか、というのが私の意見です。
 拙速は、まさに速いだけできわめて拙いのです。
 「○年もかけて議論してきたのだから、もういいのではないか」という話ではありません。
 長い横道の、しかし大切なコメントでした。)

 さて、出家者すなわち僧が、守るべき戒はこんなものではありません。
 250もあるのです。「二百五十戒」といいます。
 さらに尼僧はもっとたくさんの戒を課せられます。
 しかし、これはお坊さんではない読者のみなさんにはあまり関心のないところでしょうし、正直なところ私も細 かく正確には学んでいませんので、この授業では省きたいと思います。
 最後に、唯識の代表的古典の1つ『摂大乗論』(真諦訳)で、戒について述べられていることを紹介しておきた いと思います。
 そこでは、戒には3つあるといわれています。
 第1は「摂正護戒(しょうしょごかい)」といい、これは要するに、守るべき戒を正しくちゃんと守るということで す。
 これは「戒」という言葉の一般的な意味そのままで、特別な特徴はありません。
 第2がいかにも大乗仏教らしい戒の捉え方で、「摂善法戒(しょうぜんぽうかい)」といいます。
 すべての善いことは全部やるという戒なのです。
 消極的にやってはならないことをやらないというだけではなく、やるべきことやるというだけでもなく、もっと積極 的にやれる善いことは何でもやるというのですから、すごい話です。
 第3はいっそう大乗仏教らしく、衆生の利益になることなら何でもやるという戒、「摂衆生利益戒(しょうしゅじょ うりやくかい)」です。
 第2、第3の戒は、もういわゆる「戒律」という言葉の印象から来るような窮屈な堅苦しい話を超えて、やれる 善いことなら何でもやろう、衆生のためなら何でもやろう、という柔軟でスケールの大きな生き方の方針とでもい うようなものです。
 そして大胆にも、もし第1の意味での戒を破ることが衆生のためになることだったら破ってもいいと第3の「摂 衆生利益戒」ではいわれています。
 まさにすべての衆生を救いたいという大乗の菩薩の願いにふさわしい「戒」のあり方ですね。
 まだまだベッドで寝たきりからようやく起きあがって、初歩の初歩のリハビリを始めたばかりの菩薩である私た ちには、難易度の高すぎてうっかりすると怪我をしかねない戒ですが、究極の理想、指針として心にしっかりと 留めておきたいものです。






難易度のもっとも高いトレーニング・メニュー:忍辱(にんにく)の話 1
2006年6月5日


 自分と他人、おれたちとあいつら、この物とあの物、人間と自然など、すべてのことを分離し別れたものと見る ものの見方を「分別知(ふんべつち)」というのでした。
 確かにそれぞれの物・事には区別があります。
 くっきりと区分することができます。
 しかし、根本的には分離していない、つながっていて、結局は一つなのでした。
 そういう根本的な真理・法・ダルマからいうと、他人が私に損をさせた、嫌な思いをさせた、傷つけたというの は、広く深い意味で自分が自分に損をさせた、嫌な思いをさせた、傷つけたということになります。
 傷つけられたというので傷つけ返したら、実は深い意味での自分を二重に傷つけることになります。
 譬えると、右手に包丁を持ってお料理をしていて、誤って左手の指を切ってしまったというので、傷ついた左手 が包丁をひったくって右手に切りつけて仕返しをしたら、両手とも傷ついてひどいことになるようなものです。
 いうまでもなく、右手と左手は同じ一つの体のそれぞれの部分ですから、決してやられてもやり返したりはしま せん。
 それどころか、左手の指を切った拍子に刃が上を向いた状態で包丁を落とし右手のほうがもっとひどい怪我 をしたというケースなら、軽く傷ついた左手でもっと傷ついた右手の治療をすることだってあります。
 六波羅蜜の第三で、ある意味では〔少なくとも私にとって〕もっとも難易度の高いメニューである「忍辱(にんに く)」というのは、他のもの(者・物)から傷つけられてもそれを忍ぶということです。
 〔もちろん私も含めて〕私たちは、なかなか自分に不利益を与えた相手を許すことができません。
 腹を立て、憎み、恨み、仕返しをしようと思ってしまいます。
 しかし、すべてがつながって一つということを知って、さらにそれを実感し、覚りたいのなら、この困難なトレー ニング・メニュー、「忍辱」に挑戦する必要があります。
 ここで重要なのは、これは条件付きmustで、強制的な意味での倫理、絶対化されたmustではないということ です。
 無理をして、「人を許さなければならない」と思っても、なかなかできません。
 無理をしないためには、まず頭だけでいいから理を認識することが先です。
 「あいつとおれとは、実は一体なのだ」と理論としてだけでも認めるのです。
 そこのところを、唯識では「忍はまず認から始まる」といいます。
 怒りや恨みや仕返ししたいという感情を押さえつけようとするより、感情は感情としてあるがままにしておい て、理をしっかりと認識するのです。
 そして理をしっかり認識できたら、少しずつでも実習するのです。
 「まったく腹が立つ。どうにもゆるせない。何とか仕返しをしてやりたい……でも、本当はあいつとおれとはつな がっていて、それどころか一つの宇宙の部分同士なのだ。まったく気に入らない、そんな気になれない、どうして もそうは思えないけど……しかし理としてはそうなるんだ。ならば、せめてひどい仕返しをするのだけはやめてお こう」というふうに。
 ブッダの言葉に「怨みに報ゆるに怨みをもってすれば怨みの絶ゆることなし」というのがあります。
 憎しみに対して憎しみ返すと、また憎しみが増幅されてこちらに返ってきます。
 果てしない憎悪の悪循環を断つためには、忍辱という薬が必要です。
 それより何より、人を憎むと自分自身の心も不愉快です。
 自分自身の心の爽やかさのためにも、憎悪の悪循環を断つためにも、そして「すべては一体」と覚って心が超 健康になるためにも、このきわめて難易度の高いメニューに何とか取り組んでいきたい、と筆者も思っていま す。
 みなさんも、金メダルに向けて選ばれた人・選手のように、菩薩でありたいと思われるならば、ぜひ挑戦してく ださい。
 たぶん、よほど運のいい方か、もともときわめて柔和な方以外は、毎日のように忍辱修行のチャンスを与えら れていると思います。
 この世・娑婆(しゃば)世界は怨憎会苦(おんぞうえく)の世界ですからね。
 毎日続くハード・トレーニング、長丁場で挫折しないよう、お互いに健闘を祈りあいましょう。






苦しみに能動的に立ち向かう:忍辱の話 2
2006年6月6日 

 仏教の「忍辱(にんにく)」には、人から辱められたことを忍ぶという意味だけではなく、暑さや寒さや餓えや災 害など、環境から来るいろいろな苦しみを耐え忍ぶという意味もあるといわれています。
 世界と私は一体だといっても、区分という意味では分かれていますし、世界は区分された個体としての「私」を 中心に私の都合に合わせて存在しているわけではありません。
 大きな全体の都合でダイナミックに動いています。
 その動きは時に私の都合に合わないこともあるというのが、世界・自然の自然な姿なのです。
 ところが、私たちが自分の都合・願望・希望・欲望…へのこだわりの心で世界を見ると、世界はしばしば不条 理・不自然そのものに思えます。
 「私をこんな目に遭わせるなんて、神も仏もあるものか」と思うことがありますが、世界にはそういうすべてを私 の都合どおりにしてくれる存在という意味での神や仏はいないようです。はなはだ残念なことですが。
 コスモスは、私たちにいのちを与えてくれた存在でもありますが、時にまったく非情にいのちを奪う存在でもあ ります。
 それは、いくら恨んでも嘆いても仕方のない、コスモスのありのままの自然な姿だというほかありません。
 それでも、怒ったり恨んだり嘆いたり絶望したりしたくなるのが、私たちの人情つまり凡夫の感情です。
 菩薩は、そういう凡夫の感情に深い同情・憐れみの心をもっていますが、しかし、自分に関しては「それが人 情だからしかたない」とは考えないのです。
 人情は人情として受け止めながらも、感情に溺れ、打ち負かされてしまわないように努力するのです。
 「これは、個人としての私にとってとてもつらいことだが、だからといって誰か・何かを恨むようなことではない のだ。これもまた、ありのまま、自然なことなのだ」と認識して、能動的に受容しようとするのです。
 忍辱とは、ただ受動的に「しかたない」とあきらめて我慢することではありません。
 あらゆる苦しみを積極的な修行のチャンスと捉えて、能動的に受け容れようと精一杯努力するのです。
 仏教用語で真理を意味する「諦(たい)」は、「あきらめる」と読まれますが、これは、受動的に弱々しく、希望を 捨てることではありません。
 真理を明らめる・明らかに把握することによって、自分の都合で考えたり感じたりすることを能動的に断念す るという意味なのです。
 ナチのユダヤ人収容所から奇跡的に生還したことで知られる精神医学者フランクルが、「人間は、意味のな い苦しみには耐えられないが、意味のあることなら雄雄しく耐えることができる」という意味のことをいっています が、確かにそうだと思います。
 苦しみに意味を見出し、積極的・能動的に雄雄しく立ち向かうことによって、高い、深い人間的成熟がもたらさ れることは、多くの苦労された方の実例からも明らかです。
 私個人としてはまったく望まないことですが、やってきたら逃げてもしかたない、苦しみに正面から立ち向かう ほかないと思いながら、これまで生きてきました。
 乗り越えることができるたびに、少しは人間的に成熟できたかな、と自分では思っています(私のしてきた苦労 などもっと苦労された方に比べれば大したことはありませんが)。
 人の辱めを忍ぶこと、さまざまな苦しみに耐えること、忍辱は難易度の高いトレーニング・メニューですが、くじ けないで取り組みたいものです。






有限な人生を生きる心構え:精進(しょうじん)
2006年6月8日




雪の残る八甲田山


 六波羅蜜の4番目は、精進(しょうじん)です。
 いちおう「努力」と訳すことができます。
 これは善の心の働きの中にもありました。
 つまり、普通に考えてもいい心の働きだということですが、覚るためにも、これは不可欠な項目だということを 意味しています。
 私たちの生きている世界は、ダイナミックに動いており、変わっていくものでいつまでも同じであるということは ありません。
 つまり、「無常」なのです。
 そして個人としての私たちに与えられた人生の時間も無常ですから、永遠に続くものではありません。
 好むと好まざるにかかわらず、それぞれに与えられた人生の時間は有限です。
 これはまさに「好むと好まざるにかかわらず」で、ほとんどの人は好まないのですが、人生は有限なのです。
 (私もとても好まないのですが。)
 ですから、言うまでもないことですが――しかし言わないとなかなか気がつかないことですが、人生ですること のできることも有限です。
 やりたいことをいつまでも何でもやり続けるということは、本当に残念なことですができないのです。
 ですから、無常ということ、人生は有限だということに気がつくと、やらなくてもいいことや、どちらでもいいこと をしている暇はないということがわかります。
 ましてやってはいけないことなどするのは、人生の無駄遣いどころか悪用です。
 なるべくやりたいこと、やるべきことに限定して精いっぱいやっても、人生の時間はまるで足らないという気が します。
 ですから、前にも言いましたが、人生では最優先事項、優先事項、少し後に回してもいいことをしっかりと区分 する必要があると思います。
 特に世界新記録、金メダルクラスのきわめて高い人間成長をしたいと思うのなら、他の余計なことをしている 暇はないでしょう。
 目標に向かってまっしぐらにトレーニングを重ねていくほかありません。
 それが「精進」という言葉の意味だと思います。
 これは布施、持戒、忍辱と異なって、特定のことをするというよりは、有限な人生の時間の使い方の基本的な 心構え、まっすぐまっしぐらにわき目もふらず、修行していくという姿勢のことだと思っていいでしょう。
 ちなみに日本の日常用語に「精進料理」という言葉がありますが、これはもともとお寺で修行に励む時の食べ 物という意味です。
 修行の中心は、この次にお話しする「禅定(ぜんじょう)」で、心を静め、集中して空・一如の世界を直感するこ とです。
 そのためにもちろん体の姿勢も坐禅という静かな姿勢を取ります。
 心も体も静かにするためには、食べ物も淡泊なものである必要があります。
 ですから、生き物を殺してはいけないということも含めて肉や魚は食べませんし、ネギやニラやニンニクといっ た体に元気がつきすぎるものも避けるのです。
 主として穀類と野菜で作られた、しかし非常に繊細なおいしい食べ物が工夫されました。
 それが一般的な料理になったのが「精進料理」です。
 グルメとして高級な精進料理は食べるけれども、人生における精進は心がけないというのではもうまるで本末 転倒ですね。
 人生の楽しみのひとつとしてたまには高級な精進料理を食べることも悪くないと思いますが、やはり人間として 与えられた潜在的な成長可能性を精いっぱいに引き出して、芽生え、伸び、花開き、実り、しっかりと熟してか ら、大地に戻る植物の営みのように、有限な人生の四季を無駄なく生きたいと、私は思うのですが、みなさんは いかがでしょう。






ばらばらの見方・分別知を超える方法:禅定(ぜんじょう)の話 1
2006年6月10日





 私たち普通の人間の心は、心の奥底から表面まですべて物事をばらばらに分離したものとして捉えます。
 「分別知」です。
 そして、言葉を話すことは口のカルマ、考えることは心のカルマで、カルマは種子になり、マナ識を通ってアー ラヤ識に溜まり、やがて芽生えてマナ識を通って意識に浮かんでくるという循環をしますが、この循環はすべて 分別知の悪循環になっています。
 この悪循環を断たないかぎり、分別知から生まれる煩悩を断ち切ることはできません。
 煩悩を根本から断ち切るためには、分別知の悪循環を断ち切る必要があるのです。
 六波羅蜜の第5、「禅定(ぜんじょう)」はそのための方法です。
 ここで具体的なことを詳しくお話しすることはできませんが、大まかなポイントだけ話しておこうと思います。
 ご自分のことを振り返ってみてほしいのですが、人間はだれでも朝起きてから夜寝るまで目がさめている間 中、心の中にいろいろな言葉やイメージがめぐっているのではないでしょうか。
 そういう心中での言葉やイメージのことを仏教では「念」といいます。
 それは驚くほどしっかりと自動化されていて、言葉やイメージをめぐらないようにするというのは、やってみると ほとんど不可能だと思うくらいに困難です。
 私たちの心中では朝から晩までほとんどいつも、いろいろな言葉やイメージ、つまりばらばらの「雑念」がとめ どもなく湧いては沈み湧いては沈み…と、めぐっています。
 雑念をなくして「無念無想」になろうとしても、まず無理です。
 雑念をなくそうという思い自体ある種の分別知による念・雑念ですから、雑念に雑念が重なり、雑念と雑念が 葛藤して、心が混乱状態になるばかりなのです。
 ところが、古代インドの瞑想家たちは、そういう念と念が葛藤する状態を超えるみごとな方法を発見したので す。
 それは、直接念を押さえつけ、心を静めようとするのでなく、いわば念を生み出す心の裏をかくような方法で す。
 人間の心と体は、区別はできますが分離はできない一体のものです。
 そして、意識的な心で、無意識的な心(つまりマナ識やアーラヤ識)をコントロールして静め、落ち着かせること は難しくても、体を静かにし、落ち着かせるならそれよりはいくらか容易です。
 そこで、@まず体の姿勢を調えて、落ち着いて静かに坐ることから始めるのです。
 それが、坐禅などの坐り方・坐法です。
 さらに瞑想家たちは、人間の体の機能のうち意識的な心である程度コントロールでき、しかもそれが無意識的 な心につながっているという特殊なものがあることを発見したのです。
 ちょっともったいぶった言い方をしてしまいましたが、要するに呼吸です。
 呼吸は、意識である程度コントロールできます。
 そして、呼吸が浅く短いと、無意識を含めた心全体があわただしい気分になり、深く長いと、落ち着いた静か な気持ちになります。
 A体の姿勢を調えたら、次に呼吸を、なるべく細くて長くて静かでなめらかになるように調えるのです。
 実際にやっていただくとわかりますが、これは「いくらか容易に」と表現したように、すごく容易ではありません。
 それどころか、かなり難しいことが実感できるでしょう。
 それでも、直接、無意識の心を調えようとするよりは容易です。
 Bそれからさらに、「無念」になろうという念を起こすのではなく、一つの念に集中する、いわば「専念」すること で、心を静めていくのです。
 それは、例えば特定の聖なる言葉・マントラであることもあり、聖なるイメージであることもあります。
 どういうものを専念・精神集中の対象にするか、仏教を含む古代インドの宗教ではきわめて多様な方法が工 夫されました。
 こうした、心を静める手順は、禅では@「調身(ちょうしん)」、A「調息(ちょうそく)」、B「調心(ちょうしん)」と呼 ばれています。
 次回、この手順についてもう少し詳しくお話ししていこうと思いますが、ネット授業という枠で坐禅の指導の具 体的なところまですることは難しいので、関心のある方には、私の主宰するサングラハ教育・心理研究所のブッ クレット『サングラハ・実践の手引き』をお読みになり、時々開催している坐禅入門の講座に参加されることをお 勧めしておきたいと思います。
 研究所については、ブックマークのところでアクセスしてみてください。






足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話 2
2006年6月11日




八甲田山のブナ林


 私は、三十五年くらい前に、臨済宗系の秋月龍a(あきづきりょうみん)先生の道場で坐禅を教わりました。
 他にいろいろな瞑想法があることは、いろいろな文献で知っていますが、自分にはこれが合っていると感じて きました。
 他の方法は、本を読んでできる範囲で独習したことはありますが、本格的に教わったことはありません。
 そこで、私がお話しできるのは、臨済禅の「坐禅」というかたちの「禅定」です。
 まず「調身」ですが、ご存知のように、坐禅では、「結跏趺坐(けっかふざ)」といって、左右の足を組みます。
 これは、足をしびれさせて我慢会をさせるためにするのではありません。
 両ひざとお尻の下にしいた座蒲(ざふ)で長さを足した尾てい骨の3点で、ちょうどカメラの三脚のような安定し た状態を作るためにするのです。
 これは、足が長くて痩せている人の多いインド人には、静かに長く坐っているためにはいちばん楽な姿勢なの だそうです。
 確かに比較的足の短めな日本人が、足首、膝、股関節やその周辺の筋肉がこちこちに硬いままで、最初から 無理にこんな姿勢をすると痛い目にあいます。
 社員研修などで、無理やりに坐禅をさせられて、足のしびれと痛みですっかり懲りて、坐禅なんか二度としたく ないと思ってしまう人が多いようですが、残念なことです。
 しかし、ちゃんと準備の柔軟体をしてやわらかくしてからすると、それほどひどいことにはなりませんし、慣れて くると体を安定した姿勢にして心を安定させるという目的のためにはやはり非常に適切な姿勢だと感じるように なります。
 最近は、柔軟体操から指導する禅道場もあるようですし、私の指導している唯識と坐禅の会では、必ず柔軟 体操をお教えします。
 これまで、授業を受けてきて、人間の根本問題を解決するには、やはりアーラヤ識、マナ識という無意識の領 域まで含めた心全体の浄化が必要だと感じた方、少なくとも私のところでは、「足がしびれて痛くてひどい目にあ うのではないか」という心配はありません。
 決心して、坐禅に取り組んでみませんか。
 どんなに効果の高いトレーニング・メニューがあっても、それを読んでいるだけでは、レベル・アップはしませ ん。
 どんな特効薬の効能書きがあっても、読んでいるだけでは治りません。
 多くの方がまちがえているようですが、仏教の話・知識は薬の効能書きのようなものです。
 読んだだけでも、ほっとするという安心効果があるのですから、それではダメだとは思いませんが、それでは 不足だと思うのです。
 薬やリハビリ・メニューにあたる実際の効果をもたらすのは、六波羅蜜です。
 私は、まわりの若い人によく「飲まない薬は効きません」といいます。
 「飲まない薬が効かなくて、病気がよくならないのは、ぼくの責任じゃないよね?」と。
 これは別に意地悪をいっているわけではないと思うのですが、どうでしょう?






呼吸を調え数える:禅定の話 3
2006年6月12日





 臨済宗で初心者に指導される「数息観(すそくかん)」という坐禅の方法があります。
 足を組んで坐る「結跏趺坐(けっかふざ)」か、初心の間は片方の足だけもう一方の足の太ももに乗せる「半跏 趺坐(はんかふざ)」で、まず坐り方が調うと、次にひざがしらと尾てい骨で逆三角形の重心に背骨を立てるとい う感じですっと上体を伸ばします。
 それから、両手で卵型よりやや丸めという感じの「法界定印(ほっかいじょういん)」というかたちを作り、下腹 部に軽く当てます。
 次に、口を少しだけ開けて息を吐きながら上体をゆっくり前に倒していきます。
 息をしっかりと吐ききりながら、体を倒しきったら、口を閉じて鼻から生きを吸いながら、ゆっくり上体を起こし ます。
 (道場では、適当なタイミングの時に鳴り物が入るのですが、ここでは省略します。)
 そして首筋を伸ばして正面を見、そのまま首筋が伸びた状態で、視線だけ1メートルほど前方に固定します。
 すると、まぶたが下がるので、一見、人から見ると目を閉じているような感じになるので「半眼(はんがん)」と 呼ばれていますが、目は閉じるわけではなくしっかり開けていなければなりません。
 よくテレビドラマの武将などが目を閉じて坐禅しているシーンがありますが、あれは基本的には間違いです。
 目は、一点を見つめるのではなく、ただきょろきょろしないように、一ヵ所に固定するだけです。
 ここまでで「調身」ができたわけです。
 続いて、おへその少し下あたり、東洋医学でいう「臍下丹田(せいかたんでん)」から吐いて、そこに吸うという 感じで、ゆったりと呼吸をしていきます。
 「呼吸」と表現されているように、吐くのが先で、吸うのは後です。
 しっかりと吐かないとしっかり吸うことができません。
 丹田に気合を入れて、なるべく長くて細くて静かで滑らかに呼吸するように、といわれています。
 そして、呼吸を数えていきます。
 吐く時に「ひとー」、吸う時に「つー」と数え、「とお」まで数えたら、また「ひとー、つー」に返ってこれを所定の時 間繰り返します。
 呼吸を調えるのが「調息」ですが、数息観では、呼吸を調え数えることに集中することで同時に「調心」を行な っていきます。
 これは単純な方法ですが、決して容易ではありません。
 「長くて細くて静かで滑らかな呼吸」は、やってみるとなかなかうまくいきません。
 さらに、他のことを考えずそれだけに専念することも困難です。
 呼吸は乱れ、気は散り、足はしびれて痛くなってきて、「なんで痛い思いをしてまで、こんなことをやっているん だろう? おれには坐禅なんて無理なんじゃないか? こんなことをやったって、効果があるんだろうか?」など など、いろいろな雑念が湧いてきます。
 そこで学んだことを思い出すことが必要なのですが、雑念はすべて分別知です。
 分別知が悪循環しているかぎり、煩悩は浄化できません。
 煩悩を浄化したいのなら、そういう疑問−雑念は放っておいて、「ひとー、つー」と集中していかなければなりま せん。」
 生まれてこの方ほとんど分別知だけを熏習してきたマナ識やアーラヤ識が、短期間で浄化されるわけはあり ませんが、気長に続けていると、ごくわずかずつですが変化していきます。
 何年も何十年も経って振り返ると、ゆっくり、しかしじっくり確実に心が昔より爽やかになっていることが実感で きるのです。
 こういう話をすると、多くの方に「もっと即効性のある方法はないんですか?」と聞かれます。
 私は、「すぐに効いてすぐに効き目がなくなる方法と、すぐには効かないが効き目が持続する方法と、どちらが 好きですか?」とお答えすることにしています。
 実は、コスモス・セラピーというかたちでかなり即効性のある方法も工夫しているのですが、私のところで学ば れる方には、最終的にはやはり坐禅をすることをお勧めしています。






言葉を超えるための言葉:智慧(ちえ)の話
2006年6月18日




小雨に濡れる東寺の五重塔


 六波羅蜜の最後は、「智慧(ちえ)」です。
 人間の心の病の根本的な原因は「無明」ですから、無明が除かれて智慧に変わることが根本的な治療である ことは、これまでお話ししてきたことではっきりしたと思います。
 これまで無明を智慧に変えるための5つのトレーニング・メニューをご紹介してきましたが、おもしろいことは、 無明を智慧に変えるためのメニューそのものの中に智慧が含まれているということです。
 唯識では、人間は生まれつき――前世から引き継いで――アーラヤ識の中に無明の種子を持って生まれてく ると考えられています。
 現代風に言い換えると、言語を使った分別知を持つようになる遺伝的な素質といってもいいでしょう。
 それに加えて、生まれてこの方ずっと言葉による分別知の教育を受け、それもアーラヤ識の中に記憶として 蓄えられていきます。
 そういう先天的および後天的原因によって、私たち人間は分別知のかたまりとして育ってきます。
 その中でも重要なのが、自分が実体であると思い込む無意識の中の分別知のかたまり、つまりマナ識です。
 アーラヤ識とマナ識という深くて広い心の領域が分別知のかたまりなのですから、意識や五感がそれにコント ロールされて分別知的な働きしかできないのは、当たり前といえばあまりにも当たり前です。
 ところが、不思議なことに、人間の意識は、分別知とは違うものの見方を教えられるとそれなりに理解すること もできます。
 「分かる」という言葉がみごとに表現しているとおりどこまでも分別知でありながら、しかも分別を超えた智慧に ついて理解することができるのです。
 心のトレーニング・メニューである六波羅蜜の1つとしての「智慧」は、まず言葉を超えた究極の智慧に到るた めの手段としての言葉による智慧から始まる、といっていいでしょう。
 すでに私たちが学んできたつながりコスモロジーや縁起や空という考え方が、そういう言葉による「智慧」にあ たります。
 しっかり聞いて理解し、よく自分で考えて納得するというプロセスを繰り返し繰り返しやっていると、そのカルマ が種子となってアーラヤ識に熏習されていきます。
 アーラヤ識に熏習された、いわば蒔かれた種はやがて芽を吹いて意識に上ってきます。
 意識からアーラヤ識に熏習される時と、アーラヤ識から意識に芽吹いてくる時のどちらの時にもマナ識を浄化 していく、という良循環のプロセスについては「煩悩から覚りへ:悪循環を良循環に変えればいい」のところでお 話ししたとおりです。
 しかし縁起や空、つながりコスモロジーという考え・思想は、どんなに深くアーラヤ識に熏習されても、やはり分 別知というところを超えられません。
 それを超えるのが「禅定」という方法なのでしたね。
 分別知によって分別知を超える「智慧」を学ぶことと並行して、禅定によって無分別の世界そのものを直接に 体験し、無分別というカルマの種子をアーラヤ識に熏習することが不可欠なのです。
 もちろん、他の4つの波羅蜜の種子も熏習していく必要があります。
 それらの種子の総合的な力によって人間の心は、5つの段階を踏んで徐々に徐々に、八識から四智に転換し ていくわけです。
 ……というと、六波羅蜜の6番目としての「智慧」には6分の1の大切さしかないと思う方もあるかもしれませ ん。
 確かにそういう面もあるのですが、人間が「言葉を使って生きる動物」であり、意識的な存在であるという点か らいえば、言葉によって意識的に分かる智慧には決定的な重要性があります。
 人間は、言葉による智慧によって言葉を超える世界を分かることができるからこそ、言葉を超えた体験をした い、しなければならないことも分かり、そのための方法としての六波羅蜜の意味も分かり、実践しようという意志 を抱くこともできるのです。
 特に「資糧位」から「加行位」にかけて、この言葉による智慧をしっかり学び、身に付けていくことが必要です。
 資糧位の菩薩のみなさん、治りたいのなら、リハビリ・メニューをこなしましょう。
 成果をあげたいのなら、トレーニング・メニューに取り組みましょう。
 言葉による智慧の復習も、毎日の大切な心磨きの1つです。
 ネット学生のみなさん、ブログ記事や私の本などをぜひ繰り返し読んでください。






唯識仏教の目指すところ:無住処涅槃(むじゅうしょねはん)の話 1
2006年6月19日




梅雨の晴れ間、夏近し


 唯識−仏教の目指すところを一言でいえば「覚り」です。
 覚りというと何かとても深遠で神秘的で「曰く言いがたい」もののように感じられるかもしれません。
 しかし、これまでお話ししてきたとおり、あえて言葉で「すべてが1つでありすべてがつながっていることを見るこ とができる心のあり方」と表現することもできるのでした。
 そのことを理論的に詳しく説明したのが「三性説」です。
 心理学的な言い方をすれば、「心理機能論」といってもいいでしょう。
 しかし私たちふつうの人間は、すべてがばらばらにあって後からつながりができるかのようなものの見方をし ています。
 心の奥底から表面まで、すべてばらばらのものの見方しかできないのです。
 そういう心の仕組みを8つの領域に分けて分析したのが「八識説」でした。
 それに対して覚りの心を4つの智慧からなるものとして分析したのが「四智説」でした。
 これも心理学的な言い方をすれば、「心理構造論」ということができるでしょう。
 八識の心を転換して四智の心を獲得することを「転識得智(てんじきとくち)」といいます。
 八識の凡夫から四智の仏までの段階を明らかにしたのが「五位説」です。
 心理学的には、「心理発達論」にあたるでしょう。
 ここまでが、いわば原理論で、次の「六波羅蜜論」が臨床論になります。
 八識の心を転換して四智の心を獲得するには6つの方法が有効−必要であるという話でした。
 これで、唯識の理論の大切なポイントはほぼ尽きるといってもいいのですが、もう1つ、六波羅蜜を実践して八 識が四智に転換した結果どういう心境・境地になるのかという、治療−修行のいわば「目的論」にあたる話があ ります。
 「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」という、大乗仏教独特の考え方です。
 大乗以前の仏教では、生きるということそのものが「迷いの生存」というふうに捉えられていて、覚り・涅槃はそ ういう迷いの生存からの解放・脱出すなわち「解脱(げだつ)」と同一視されていました。
 ですから、覚った人は輪廻の世界から永遠に解脱して2度と輪廻の世界には戻ってこないことになっていまし た。
 といっても、覚ったらすぐ死ぬというわけにはいきません。
 覚ってもまだ体があって生きている状態は、「有余依涅槃(うよえねはん)」と呼ばれました。
 「迷いの生存・煩悩の依りどころである体がまだ余って有るが、心はいちおう覚りの状態にある」といったふう な意味です。
 すでにお話ししましたが、「涅槃」とは「ニルヴァーナ」を漢音に写したもので、煩悩の炎の消えた状態というふ うな意味です。
 しかし、大乗以前の仏教の修行者たちは、肉体があるかぎり性欲や食欲といった欲望はなくならない、欲望を 完全になくするには肉体そのものがなくなるほかない、と考えたようです。
 そういう肉体がなくなり欲望もなくなった状態のことを、「無余依涅槃(むよえねはん)」といいます。
 「依りどころである余計な肉体が無くなって煩悩の炎が完全に消えてしまった状態」というふうな意味でしょう。
 それに対して大乗仏教の人々は、そういう考え方は自分ひとりが苦しみの生存の世界から逃れようというちっ ぽけな考え方、自分しか乗れない小さな乗り物だ、として批判をしました。
 確かに体がなくなれば煩悩もなくなり、自分は楽になるかもしれませんが、煩悩に苦しんでいる他の人々を救 うことはできません。
 他の生きているもの=衆生とおなじ体があって初めて、慈悲・救いの実践をすることができます。
 「この体があるままで完全な涅槃に入れる」というのが大乗仏教の特徴的な教えです。
 私たちの体・生命そのものが、煩悩と迷いの生存の主体であることから解放されて、覚りと慈悲の主体に変 容することが可能だ、というのです。
 これが本当だとすると、単に特定宗教としての仏教の枠をはるかに超えた、人類全体にとって大変な希望の メッセージです。
 それが本当かどうか(もちろん私は本当だと考えているわけですが)、次回、ご一緒に考えていきたいと思いま す。






無限の世界に入る:無住処涅槃の話 2
2006年6月21日





 大乗仏教の究極の目的である覚りとは、宇宙の本質である「空」ということに心の奥底まで目覚めるということ でした。
 そして「空」というのは「一如」と同義語で、宇宙のすべてのものは一体であるということでもありました。
 大乗仏教の修行者たち=菩薩は、徹底的な禅定の実践の結果、徹底的な無分別の智慧に到りました。
 そうすると、それまで損と得、幸福と不幸、善と悪、汚染と清浄、生と死というふうに分別していたこともすべて 無分別=一体であることが見えてきたのです。
 宇宙では、善と悪、汚染と清浄というふうな相対的な区別はできても、絶対的には分離しておらず、一体です。
 大乗仏教では、そういう汚染と清浄という人間的な分別を超えた宇宙の本質を、あえてもともと絶対的に汚れ を離れている、汚れや悪という意味での煩悩は本来的には空であるという意味で、「本来清浄涅槃(ほんらいし ょうじょうねはん)」と捉えています。
 この本来清浄涅槃というところから見ると、私たちの体や心も「本来清浄」です。
 そこでは、煩悩の依りどころである体が残っているとか残っていないとかという問題は超えられてしまいます。
 「体があるままで本来清浄である」という宇宙的事実の発見が、それまでの小乗仏教に対する大乗仏教の決 定的なポイントだといっていいでしょう。
 無分別智的に見れば、体も心も含んだ自分もまたそのまま一つの宇宙の一部です。
 さらに大乗仏教の菩薩たちは、無常なるこの身心の自分がそのまま宇宙と一体なのならば、この身心よりも むしろ宇宙そのものを「自己」と捉えるべきだと考えました。
 英語で表現すれば、小文字で始まるselfではなく大文字で始まるSelfこそ本当の自分だということです。
 こういう驚くべき深い境地に立った大乗の菩薩たちは、衆生すなわちすべての生きとし生けるものの輪廻とい うことに関しても、それまでとはまったくといってもいいほど違った考え方をするようになりました。
 この身心に限定された自分というのは確かに生まれて死ぬものですが、宇宙としての自己は時間と空間と物 質をすべて包んで超える存在です。
 そういう大きな自己と、その1部としての特定の身心を持ったこの「私」との関係は、区別はできても分離できな いものです。
 そして他の人と私の関係も、同じ1つの宇宙のあの部分とこの部分というふうに区別はできても分離できない ものです。
 そうすると、他の人の喜びは私の喜び、他の人の苦しみは私の苦しみということになります。
 特にこの世は四苦八苦という苦しみの世ですから、多くの人がいろいろに苦しんでいます。
 その苦しみを私の苦しみと感じたら、放っておけなくなります。
 他者の苦しみを自分の苦しみと感じて放っておけないと思う気持ちのことを「悲」といい、他者を喜ばせること を自分の喜びと感じる気持ちのことを「慈」といって、あわせて「慈悲」というわけです。
 修行者=菩薩自身もこの苦しみに満ちた世界にあって、その苦しみの世界から抜け出したい、つまり涅槃に 入りたいと思うのですが、いざ本当に深い涅槃の世界に入ってみると慈悲という気持ちのために、この苦しみの 世界で苦しんでいる衆生を放っておけなくなります。
 そこで、状況に応じて絶対の安らぎの世界=涅槃の世界にいたり、やはり衆生とともに苦しみの輪廻の世界 にいて、苦しみをなくし安らぎを与えるという働きをしたりというふうに、自由自在に居場所・住所を変えるという あり方をするのです。
 そういう自由自在、住所不定の境地のことを「無住処涅槃」と呼んでいます。
 どこまでもこの体と心が「自分」だという思い込みを脱しきれない私たちからすると、これはあり得ない話のよう に思えます。
 それを少しでもわかりやすくするために、次のような譬えが考え出されました。
 それは、「海の水と波」の比喩です。
 海の表面に立っている波を見ると、一つ一つ別の波のように見えます。
 しかしそれを海の水という面から見ると、すべて同じ1つの水です。
 海は、状況によって、鏡のように平らであることもできれば、さざ波になることも、大波になることも、怒涛にな ることもできます。
 しかしどういう波になっても、それが海の水であるということは決して変わりません。
 海は、自由自在に形を変えることができます。
 私たちが自分の本質を「波」と捉えると、それは現れては消えるはかないという意味で「無常」な存在と感じざ るをえません。
 そうすると、不安になったり、むなしくなったり、絶望したりするほかありません。
 しかし本当の自分は「海」なのだと覚ると、それは時を超えて時の中で永遠にダイナミックに働き続けるという 意味で「無常」な存在だとわかります。
 そうすると、根本的な安らぎと爽やかさを感じながら、時には働いたり時には休んだり、自由自在に宇宙の働 きの一部としてあるがままにあり、なるがままになり、なすがままになしていくということが可能になる、というわ けです。
 これはあまりにも深い境地なので、私も唯識の文献を手掛かりに「そういうことになっています」という話しかで きませんが、修行を深めていけばいつの日か――三大カルパを経て――そういう境地に到達できるというのは 納得のできることです。
 そして、前にもお話ししたとおり、私たちの今生の課題としては、これをはるか彼方の行くべき方向を示してく れる道しるべ・理想として、行けるところまで行けばいいということだと思います。
 個人としての私も、できるだけ修行して、なるべくこの「無住処涅槃」に近い境地になってからこの世を去ること ができたらいいな、と思っています。
 よろしければ、今後もご一緒に、リハビリ仲間、トレーニング仲間として学んでいきましょう。






心磨きをしてますか?
2006年6月14日





 昨日、授業が終わった後で話に来た学生がいました。
 その話の中で、典型的な質問がありました。
 「授業を受けた時は元気になるんですが、その後また1週間、だんだん元気がなくなるんですけど……(どうし たらいいんでしょう?)」という質問でした。
 そこで、最近よく使っている譬えを話しました。
 「あのね、ちょっと汚い話になるけど、『口が臭くて気持ち悪いんですけど』という相談を受けたとするよね。
 そしたら、ぼくはまず『いつ歯を磨きましたか?』と聞くだろうね。
 で、『1週間前に磨きました』と答えたとすると、どうだろう?
 『それは臭くて気持ち悪くなるのが当たり前でしょう』と言うしかないよね。
 『でも、それまで20年もずっと毎日3回磨いてたんですよ。それなのに……』と文句を言われても、それは困 る。
 悪いけど、それはぼくの責任じゃないよね。
 歯磨きを毎日できれば毎食後3回、せめて朝夕2回、最低でも1回くらいはしないと、口が臭くなったり、口の 中が気持ち悪くなったりするのは、いわば自然にそうなるんだよね。
 そういうふうになっているのは、誰の責任でも、もちろんぼくの責任でもないんです。
 もし、口が臭くなったり気持ち悪くなったりするのが嫌なら……もっとポジティヴな言い方に換えよう、口がすっ きりと爽やかなのが好きなら、毎日歯を磨くしかないんだよね。
 めんどくさいとか、どうして長年磨いたのが続かないのかとか言われても、それはしようがないね。
 心磨きも、歯磨きとおんなじで、毎日しないと、心が汚れてきて、落ち込んできたりする。
 気持ちがすっかり落ち込んで憂うつになるのを『腐る』というけど、まさに心が腐ってくるんだね。
 というわけで、爽やかで元気な心の状態を維持したかったら、毎日忘れず心磨きをしましょう!」と。
 ネット学生のみなさん、心磨き毎日してますか?



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