目次
2007年10月17日
 
 テキスト:生きる自信の心理学

 ムダな努力をしないで幸福になる方法






戦後教育の「相対評価」
2005年9月6日


 さて、今日から『生きる自信の心理学』の内容に入っていきます。
(といっても、本の内容よりも簡略にする部分と、増補改訂する部分がありますので、予めご了承下さい。)
 戦後日本は、みごとなまでにプラス・マイナス含めて「近代化」されました。
 それは、社会のあり方でいうと、すっかり近代的な「自由主義−資本主義の社会」になったということです(そ れ以来、今に到るまでそうあることは、しっかり自覚しておく必要があると思います)。
 自由主義社会の基本原則は、人間は誰でもスタートのところの権利はまったく平等で、そこから「自由に競 争」し、勝ったものは勝ち、負けたものは負けということになる、それはフェアなことでしかたない、ということで す。
 つまり、自由主義社会の基本は「自由競争」です。
 しかも、「神はいない。人間とモノがあるだけ」の世界ですから、人間がどのくらいモノを獲得して、経済的に繁 栄するかということが、人生の基本的目的あるいは価値の基準になります。
 「資本主義」にはもともと「拝金主義」になる圧倒的に強い傾向があるのです(絶対、必ずということではないか もしれませんが)。
 そこで、いわゆる「社会人」つまり大人は、経済的な「業績」がもっとも価値の中心であると見なされる経済社 会で他者・他社と絶えず競争しながら生きていかなければならなくなりました。
 それと並行して、やがて「社会人」になるべく育てられる子どもも、経済的業績をあげること=成功することを 目指して教育されることになりました。
 その場合、近代の産業の繁栄を促進したのは何よりも合理的な知識でしたから、経済的業績につながるそう いう知識をどのくらい知っているかということ、それの客観的指標としての「成績」がもっとも重視されたのです。
 そういうわけで、戦後・近代化された社会では、大人は「業績」、子どもは「成績」というのが、価値の主な―― 場合によってはほとんど唯一の――基準になりました。
 そして、大人も子どもも、「自由競争」にさらされながら、日々を生きていくほかなくなったのです。
 競争とは別の言葉でいえば「比較」です。比較して、「優劣」を競うわけです。
 いつも成績というものさしで比較して優劣を競わされ、評価されてきたというのが、戦後の子どもたちの基本的 な状況だったのではないでしょうか(私もその一人です)。
 そういう評価の仕方を「相対評価」といいます。
 「相対評価」で優・劣を競わされた場合、「優れている」と評価された子どもはまあいいでしょう(本質的にはよく ないのですが、その話は後にします)。
 「自分は優れている=優等である」という「優越感」を持つことができます。
 しかし、「劣っている」と評価された子どもたちは、どうなるでしょう?
 当然のことながら、「自分は劣っている・劣等である」という「劣等感」を抱えざるをえなくなります。
 さて、クラスで考えみて、どのくらいが「優等」で、どのくらいが「劣等」ということになるでしょう。
 まあ、クラスの上位5分の1、できれば10分の1に入らないと、成績が優れているとはいわれにくいですね。
 とすると、どうなるでしょう?
 私たちの多数が経験してきたとおり、日本の子どもの多く――つまり5分の4から10分の9――が、成績でい うと「自分はできない・劣っている」という「劣等感」を抱えさせられているのです。
 これは、私のアンケート調査の結果ともぴったり一致しています。90%の学生たちが「自分に自信がない」と いっています。
 もちろん、成績による優越感−劣等感が問題のすべてだなどとは思っていません。
 現代人、とりわけ若者が「自分に自信がない」というのにはより多様で複雑な理由もあるでしょう。
 しかし、成績による比較、つまり「相対評価」にさらされ続けてきたことが、主要かつ決定的な問題だったので はないか、と私は推測しています。
……あ、今日はまだ明るい話になりませんでしたね。失礼。でも、もうそろそろ明るい話になりますからね。待っ てください。






目を開けると見える
2005年9月7日 





 さて、ようやく、自信を自分のものにするための理論と方法の話です。
 ここで、理論の話の前に、ワーク(実習)をしてみましょう。
 これは、ワークですから、ぜひ、読むだけにしないで、実際にやってみてください。私はよくいうのですが、「 むとするとでは大違い」です。
 目の前に、何か、いいもの、きれいなものを選んで、置いてください。
 適当なものがない人は、添付した写真のオレンジ・コスモスでも拡大して、パソコン画面の見えるところに置い てください。
 それから、それをしっかり見てみましょう。
 そこに、ありますね? まちがいなく「ある」と確認してください。
……ここで、「何のためにこんなことをわざわざやるんだろう? わざとらしくて嫌だな」と疑問を感じた方がいる かもしれません(よくいるのです)。
 そういう方のために、一つコメントを。
 これから学んでいくのは、心理学の理論と、方法つまり技法つまり「技(わざ)」です。
 新しい技は、まだ自分の身についていないから、「わざわざ」学ぶ必要があります。
 そして身についておらず慣れていないので、最初は何だか「わざとらしい」と感じがちなものです。
 しかし、新しい技を身につけたかったら、わざとらしくても、わざわざ練習する必要がある、というわけです。…
 では、元に戻りましょう。
 そこに、いいもの・きれいなものがまちがいなく「ある」と。これは、「事実」だ、と。
 では、目を閉じてください。どうなるでしょう?
 「見えなくなった」、そうですね。
 さて、この授業は音声ではなく文字なので、ちょっと不便なのですが……。
 目を閉じる前に、読んでおいて、目を閉じてから、考えてみてください。
 目を閉じると、そのいいものは見えなくなった。けれども、それは「なくなった」のでしょうか?
 そうではありませんね。事実、それは「ある」のですが、見え「ない」だけです。
 体の目も心の目もその点ではおなじで、どんなものが事実として「ある」としても、目を閉ざしていると「見えな い」のです。
しかし、「見えない」は「ない」ではありません。
 ところが、心の目はしばしば「見えない」ものは「ない」と思ってしまいがちなのです。そこに問題のポイントがあ ります。
 私たちが自分に自信を持つことができる理由・根拠、もっと俗にいえば「ネタ」は、私にいわせれば、誰に でも山ほどあるのです。
 ただ、あっても見えていないだけです。
 「え、ほんとう?」と思われる方が多いでしょう。
 大学で教えている学生も多数がそう思うようです。だから、自信がないと答えるんですね。
 「視界」という言葉があります。「見えている世界」という意味ですね。
 「見えている世界=視界」は、「世界」のすべてではありません。それどころか、「世界」のごく一部です。
 しかし、心の目は、「視界=見えている世界」が「世界のすべて」だと思い込みがちなのです。
 今、自分の視界には自分の能力やいいところが何も見えていないために、「自分(の世界)には能力もいいと ころも何もない」と思い込んで、落ち込んでいる人が、驚くほどたくさんいます。
 この思い込みを変えて、事実を見ていただくと、誰でも自信を獲得できます! 
 本当かウソか、続けて聞いて、やってみて、試してください。
 では、体の目でちゃんともう一度考えて見ましょう。
 「見えないことは、ないことか?」。ノー、断然、「ノー」ですね。
 「見えなくても、あるものは事実ある」んですね。
 さて、目を閉じているために、美しいものが見えない場合、見たかったら、どうしたらいいんでしょう?
 ここで、「何てわかりきったことを聞くんだ。子ども扱いするな」と反発を感じる方もいるかもしれません。
 しかし、私の行なうワークは、そこがポイントなんです。
 わかりきっているつもりのことを、確かめなおしながら、やがて本当にはわかっていなかったことに気づき、そ れから本当にわかっていく、というプロセスをたどっていくのです。
 よかったら、続けましょう(悪かったら、この辺でリタイアという手もあります)。
 「目を開ければいい」、そのとおりです。大当たり!
 目を開けると、今まで「あったのに、見えてなかった」、いいもの・きれいなものが見えます。
 目の前のものを使って、目を開けて見て、目を閉じると見えなくなることを確認し、それから目を開ければ見え るようになることをしっかりと確認して、心に留めてください。
 ただ、心の目は体の目とちがって、日ごろあまり訓練されていないので、自由に開けたり閉じたりすることがち ょっと難しいのです。
 しかし、練習すれば、誰にでもできるようになります。
 話が、明るくなってきたでしょう?
(ちょっと意地悪でネガティヴな言い方に変えると、「練習しなければ、誰もできるようにはならない」んですけど ね)。
 適切な技法を使って練習をすれば、あなたはまちがいなく「自信のある人間」に変われる!
……という、私の言葉が多少でも信じられるようでしたら、さらに学びを続けてください。
 最後に、簡単なワークの宿題です(「え、宿題があるの?」とおっしゃる方、「そうです、この授業には宿題が あるんです。でも、やってこなくても罰はありませんけどね」)。
 あなたはどんなことができますか? あるいは、あなたにはどんな能力がありますか? ノートを出し て、自分のできること・能力を6つ以上書き出してください。「私には〜ができる」とか「私には〜という能 力がある」というふうに。-->






無力感か自己能力感か、それはあなたの選択
2005年9月8日 


 さて、今日は少し理論編です。
 私たちが何となく「自信がない」とか「自信がある」という表現をする場合、「自信」とはどういうことを意味してい るのでしょう?
 「自信」とは「自己信頼」の略だと考えることができますが、自分が誰をまたは何を信じるのでしょう?
 ふだんあまり意識しないことですが、よく気づいてみると、私たちは自分で自分を信じられたり、信じられなか ったりしているようです。
 人間の「意識」というのは、とても不思議というか当たり前というか、ある年齢以上になると、「自分が自分を見 る」というかたちになっています。
 心の中が、「見る自分」と「見られる自分」に分化しています。それが、「意識」というものの本質であるようで す。
 そのために、人間では、見る自分が見られる自分に対して信頼できる・肯定できる・承認できると思えるかどう かという意味での「自信」が問題になってくるのだと考えられます。
(他の動物では、こういう複雑な心の問題は起こらないようですね。)
 自分で自分を認められることが「自信」だとして、その内容をもう少し細かく見ていくと「自分の能力」を認めら れるということと、「自分の価値」を認められるということ、2つの面に分けて考えることができると思います。
 つまり、「自信」とは、「自分が自分の能力と価値を認めている状態」と言い換えることができるのではないでし ょうか。
 前回の宿題は、「能力と価値」のうち、自分が自分の能力を認めているかどうか、そういう意味で「自信がある かないか」の自己テストをしていただくということだったのです。
 では、みなさんは、6つ以上自分の能力を書き出すことができたでしょうか?
 これまでの授業やワークショップでは毎回、書き出せないという人がかなりの数いました。
 それどころか、1つも書けないという学生たちも少なくありません。
 それは、「自分には何の能力もない・何もできない」と思っているということでしょう。また、実際、聞いてみると そういう若者がたくさんいるのです。
 精神医学・臨床心理学の世界で、「スチューデント・アパシー(学生の無力感)」という言葉で問題にされている ことです。
 大学教育の現場にいると、これは、単に専門家にとっての特殊な問題ではなく、いまや若者一般に広がって いる深刻な心の病というか病と健康の境界的な現象だと感じられます。
 私は、そういう状況の研究調査も必要ですが、それをどうするかが問題のポイントだと考えています。
 では、どうするか、に戻りましょう。
 自分の能力を6つ以上書き出せなかったみなさん、「私は見ることができる」と書いてありますか? 「聞くこと ができる」、「嗅ぐことができる」、「味わうことができる」、「温暖を感じることができる」、「知ることができる」、「考 えることができる」、「決めることができる」、「歩くことができる」、「話すことができる」……はどうですか?
 これは、すべてあなたが「できること=能力」です。
 私たちには、こうした生きるための基本的な「能力」がたくさんあります。
 こうした「能力」が6つ以上ないなどという人には、私は会ったことがありません。
 さらに、考えましょう。私は、「食べることができる=摂食能力」、「消化することができる=消化能力」、「呼吸 をすることができる=呼吸能力」……がある。
 どうですか? 私たちには数え切れないほどの「能力」が与えられているというのは「事実」ではありません か?
(目や耳の不自由な方も、確かにそれについては「できない=能力がない」)のですが、それでも他に「できるこ と=能力」がたくさんあるのではないでしょうか)。
 「何の能力もない」人なんか、この世には一人もいません!! 呼吸能力も消化能力も……何の能力もな かったら、とっくに死んでいます。
 ここで「でも……」という気のする方が多いことでしょう。「でも、そんなものは誰にでもあることで、能力というほ どのものじゃないんじゃないですか?」と。
 ここが1つのポイントです!
 私たちは、ふつうの「能力」は「能力」と感じていないのです。
 でも、「能力」じゃないですか? よく考えてみると、まちがいなく「能力」ですよね。
 それなのに、「能力」とは思えないのは、なぜでしょう?
 それは、私たちが戦後の競争社会の中で、幼い頃から比較して優劣を決める「相対評価」にさらされ続けてき たせいなのではないでしょうか。
 「人と比べて優れているのが『能力』だ」と教え込まれてきたのです。「比べて優れていなければ、そんなものは 『能力』とはいえない」と。
 「できる・できない」という言葉のもっとも典型的な使われ方を考えてみると、そのことがはっきりわかります。
 「できる」とは、まず子どもに関しては「成績が上位である」ということです。次に、社会人に関しては「仕事がで きる=業績が上位である=人よりも稼いでいる)」という意味になります。
 しかし、比較して誰よりも優れているのは1番の人だけです。2番以下の人は、1番に比べると劣っているので す。
 ですから、成績や業績で人を量る社会は、驚くべき数の「無力感」を抱えた人、「自信喪失」の人を生み出して いきます。
 あなたは、そうした社会の流れに、追随し、流され、埋没してしまいたいですか? 溺死させられるかもしれま せんが、それでいいんですか?
 社会のものさしで自分を量って、優越感と劣等感のアップ・ダウンにさらされたいですか?
(しかもこの乱高下はどちらかというとダウンの方に傾きがちで、しばしば「死にたくなる」んですよね?)
 それとも、「事実」に基づいて、「自分には驚くほどたくさんの能力がある」と感じて元気になりたいですか?
 社会の現実には目を開けているが、自分のいのちの事実には目を閉ざしているという状態で、無力感、 自信喪失、元気のないままで生きていきたいですか?
 これは、ある意味で、1つの選択です。自分を元気にするための、いわば人権としての選択です。
 「社会的な評価はいったん脇に置いて、私は私のいのちに与えられている驚くほどたくさんの能力に目 を開いて、自分で自分を認める、自信を取り戻す!」と、決めてください。
 「そんなこといったって、やっぱり社会は社会だし……」という方のために、コメントをしておきます。
 社会の評価というのは確かにあります。
 しかし、学校や会社にいる時ではなく、自分の部屋に帰ってまで、社会の評価を気にしていなければならない という、校則や社則でもあるんですか?
 そういう法律やモラルや、あるいは宇宙法則でもあるんですか?
 まったく、どこにもそんなものはないんじゃありませんか?
 ならば、社会の評価はいったん忘れましょう(必要な時だけ、思い出せばいいんです。必要な時にまで忘れて いては、ちょっとまずいですけどね)。
 社会的評価、比較を忘れて、事実そのものに目を開いてみましょう。
 すると、「私には実にたくさんの生きる能力がある」といえますね。
 心の中で、「私には何の能力もない」というのと、「私には(実にたくさんの生きる)能力がある」というのと、どち らが元気になりますか?
 元気になるのと、元気をなくすのと、あなたはどちらが好きですか?。
 好きなほうを選択してください。それは、あなたの人間としての権利です。






セルフ・イメージとセルフ・トーク
2005年9月9日


 人間の心は、見る自分と見られる自分に分かれている、といいました。
 自分のことを振り返ってみてください。そうなっていませんか?
 そして、見る自分は見られる自分のことを例えば「私はかっこいい」とか「私はかっこ悪い」というふうに思って いませんか?
 見る自分が見られる自分について描くイメージのことを「セルフ・イメージ(自己像)」といいます。
 そして、人間の心は相当程度言葉によって形作られていて、自分で描いた自分のイメージに対して、心の中で 言葉が語られます。
 「スタイルのいい私」というセルフ・イメージを描いていれば、当然「私ってスタイルいい!」というふうな言葉が 心の中で語られるわけです。
 心の中で自分が自分に向って言っている言葉のことを「セルフ・トーク」といいます(「内語」とか「内なるおしゃ べり」と訳されることもあります)。
 そして大切なポイントは、「セルフ・イメージ」と「セルフ・トーク」は循環するということです。
 いいセルフ・イメージを持っていれば、いいセルフ・トークをします。
 いいセルフ・トークをしていると、そういう気になってきて、セルフ・イメージがよくなっていきます。
 セルフ・イメージがよりよくなれば、当然、セルフ・トークもよりよくなります。
 ……というふうにして、いいセルフ・イメージとセルフ・トークは良循環・好循環するのです。
 問題は、悪いセルフ・イメージと悪いセルフ・トークの悪循環です。
 「能力のない自分」というセルフ・イメージを抱えていると、「私って能力がない、何もできない……」というふうな セルフ・トークが浮かんできます。
 そして、「私って何もできない」とセルフ・トークしている(=思っている)と、ますます自分は何もできないような 気分になってきて、「無力・無能な私」というセルフ・イメージが固定化され、さらに悪い場合には増幅されていき ます。
 自信を得るという実際的な目的のために話をシンプルにしてまとめます(心理学的あるいは哲学的に複雑に 論じれば、果てしなく複雑になりますが、実際の役に立たなくなりがちですから)。
 「自信」とは、自分が自分に対していいセルフ・イメージを描いており、その結果いいセルフ・トークがな され、イメージとトークが持続的に好循環している状態のことをいう、と。
 いうまでもありませんが、念のため。「自信がない・自己不信・自信喪失」とは、自分が自分に対して悪いセル フ・イメージを描いており、その結果悪いセルフ・トークがなされ、イメージとトークが持続的に悪循環している状 態のことをいうわけです。
 したがって、「自信がない・自己不信・自信喪失」という状態を克服して「自信を確立する」にはどうすれ ばいいか、原理は簡単です。
 いいセルフ・イメージを描き、いいセルフ・トークをして、それを好循環させること、です。
 ここで、「だって、私、何もできないんだもの」とか「そんなこといったって、オレ、いいとこ何もないし」(「だから、 いいセルフ・イメージを描くことなんかできるわけないし……」)という反応が出てきそうですね。
 まず、前回の話を思い出してください。本当に、「何もできない」んですか? いろいろできることがいっぱいあ りましたよね。驚くほどたくさんの生きる能力を与えられているんでした。
 「いいところ・長所・価値」の話はこの後にしますが、まず、「できること・能力」について、再確認しておきましょ う。
 「私にはできることがたくさんある」、「私には能力がいっぱいある」というのが、すべての人にとって「事実」でし た。
 では、事実に基づいて、「私にはできることがたくさんある!」、「私には能力がいっぱいある!」と、セ ルフ・トークしてみてください。
 すると、多かれ少なかれ、そういう気がしてきて、元気が出てきて、セルフ・イメージがよくなってきませんか?
 どうすれば、セルフ・イメージとセルフ・トークを改善できるか、そもそも改善なんてできるのかということについ て、さらに話は続いていきます。
 ネット学生のみなさん、途中で、いろいろ疑問や反論が心に浮かんできませんか? それに、「面白かった」と か、「ああそうか、そうなんだ、とうなづいた」とか、感想もいろいろあると思うのですが。
 教師は質問されるためにいる、と私は思っていますから、遠慮なく、質問をしてください。
 それから、いい感想を聞くとエネルギーをもらえますし、よくない感想は反省のきっかけになります。
 ぜひ、コメント欄に書き込んでください。






生きている価値のない人間などこの世にはいない
2005年9月10日


 「自信」とは、「自分が自分の能力と価値を認めている状態」である、といいました。
 今回は、「価値」の面を考えてみましょう。
 「私にはいいところがいっぱいある」、「私には長所がたくさんある」、「自分は価値のある人間だ」、「私の生き ていることには意味がある」と思っている状態を「自信」というわけですね。
 「オレにはいいとこは何にもない」とか「私は欠点だらけ」とか、「私は生きている値打ちもない人間だ」、「人生 には意味もクソもない」と思っているのが「自信喪失」状態です。
 結論から先にいいましょう。
 事実として、「生きている価値や意味がない」人間など、この世には一人もいません!
 けれども、自分の生きている価値・意味に目を閉ざしている人は、残念ながら、非常にたくさんいま す。
 能力とおなじく、価値・意味についてはなおさら、比較競争の社会では、見えにくくなっています。
 現代日本は、ちゃんと意識的に見なければ、自分が存在する価値・意味が見えなくなりがちな社会なのです。
 ですから、自分の価値や意味がわからなくなって、「自信喪失」に陥り、落ち込み、ひどくなると「うつ」状態にな り、最悪の場合は自殺する人が増えているのも当然という面があります。
 しかし、ここで「社会が悪い」といっても、当面の問題解決にはつながりません。
 事実存在する自分のいのちの価値・意味をどうすれば発見あるいは再発見できるか、そのことを考えて見ま しょう。
 ……ブログの性質からして、1つ1つの記事が長いと読むのがめんどうになるようですから、少しずつ区切って いくことにします。






心の目の向きを変える
2005年9月11日





 では続いて、「180度回転のワーク」というのをやってみましょう。
 できれば、一方は光と緑でいっぱいの明るい窓辺、もう一方はあまりぱっとしない暗い壁という部屋でやって いただくといいのですが……。
 そうでない場合は、ヴァーチャルで、添付した写真をコピーでもして、パソコン画面に置いてください。
 そして、まず窓(またはパソコンの写真)のほうを向きます。何が見えますか?
 明るい空や白い雲や緑の木々などなど、ですね?
 そこには、事実、確かに明るい世界が見えますね? 
 そのことを意識的にしっかり確認しておいてください。「事実、明るい世界はある」と。
 では、壁(またはパソコン画面の反対)のほうを向いてください。何が見えますか?
 あまりさえているとはいえない暗い壁(または部屋の別の面)ですね。
 見えているのは暗い面で、明るい面は見えなくなりました。
 さて、ここがまたポイントです。
 「明るい面は見えない」、で、それは「ない」んでしょうか? 
 もちろん、「ある」んですね? 「ある」けれども「見えない」、「見えない」けれども「ある」わけです。
 「ある」のに「見えない」、それはなぜですか?
 「そんなつまらないことを聞かないでほしい」、「当たり前だろ」と思うかもしれませんが、こうしたことが重要で す。
 私たちは、ごく当たり前のことに関して、あまりにも「当たり前だ」と思っているために、よく注意していない、だ から本当にはわかっていないということが、しばしばあるのです。
 では、ごく単純に、小学生になったつもりで、答えてみてください。
 あるのに見えないのは、なぜでしょう?
 「壁のほうを見ているから」、「壁に向いているから」、「見てないから」、「そちらを見ていないから」……みんな 正解です。
 時々、「後ろに目がついていないから」という、とても楽しい正解もあります。
 が、私がいちばんいってほしかった正解は、「そちらを向いていないから」というものです。
 人間の目は――体の目も心の目も――一時にすべての方向を見ることはできないようにできています。上 下、天地、左右、360度を見ることはできません。
 一時に一方向しか見ることができないのです。
 別のことばでいうと、人間はある時ある面を見ることができるだけだ、ということです。
 一つの部屋に、明るい窓の面と暗い壁の面がある場合、どちらの面も「事実」なのですが、私たちの目は同時 に両方を見ることはできません。
 でも、両方とも「ある」……んですよね?






心の目の向きを変える 続
2005年9月12日


 さて、私たちが今暗い面を見ているとして、明るい面を見たかったら、どうしたらいいんでしょう?
 「そちらを見る」、「そちらを向く」、そのとおりです!
 では、ぜひ、読むだけでなく、実際にやってみてください。(「読むとやるとでは大違い!」
 暗いほうをしっかり見ておいて、それからはっきり意識的に、明るいほうに向きましょう。
 できましたね?
 さあここで、セルフ・トークです。「私は、見る向きを変えて、明るいほうを見ることができる!」と。実際、で きたんですからね。
 180度回転すると、「視界」にはまるで別のものが入ってきます。
 私たちはともすると「視界」=「世界」だと思いがちです。しばしば、今見えていることがすべてだという気がする のです。
 でも、それはちがうんでしたね?
 ではさらに続けましょう。
 あなたは、明るいものを見るのと暗いものを見るのと、どちらが明るい気分になりますか?
 もちろん、明るいものですよね?
 では、あなたは明るい気分と暗い気分とどちらが好きですか?
 たぶん、明るい気分でしょう(例外として、ひどく落ち込んでいて暗い気分でいたい、そのほうが好きという場合 や期間はあるでしょうが)。
 では、どうすればいいでしょう?
 そうです、当たり! 明るいほう・明るいものを見ればいいんです。
 またまたここで、「そんなこといったって……」という声が上がりそうですね。「私のまわりは暗い話ばかり」、「い いこと何もない」、「私にはいいとこなんかない」……と。
 本当に、「ばかり」、「何もない」、「なんかない」んですか?
 そういう面がある、そういう面ばかり見えている、そういう面ばかり見ている、というのが事実なんじゃないでし ょうか?
 もし、あなたが「今は暗い気分のままでいたい」のなら止めませんが、でも、よかったら、自分の、人生の、世 界の明るい面に向いて、そちらを見てはいかがでしょうか?
 心の目は体の目とちがって、ふだん訓練していないので、それほど自由自在に向きを変えることができませ ん。
 暗い面を見る癖がついていると、そちらばかり見て、「自分には、人生には、世界には明るい面などない」と思 ってしまいがちです。
 私は、そういうものを見る方向の癖を「落ち込み癖」と呼んでいます。
 落ち込み癖があるなと思うみなさん、落ち込むのがお好きなのですか?
 たぶんそうじゃないですよね。だったら、癖を直しましょう。
 癖を直すのは、すごく楽にはできませんが、大丈夫、努力すればできます!
 では、そのためのワーク、「私の長所のリスト作り」というのをやってみましょう。
 あなたにはどんないいところがありますか? あなたの長所はどういうところですか?6つ以上、ノート に書き出してください。

*「なぜ、6つ以上なのか?」と疑問をもたれた方のためにコメントを。それは、「片手に余る」という意味です。 自分には片手に余るほどの能力や長所があることに気づいたら、もう自信喪失してはいられなくなるでしょう?






あなたには6つ以上長所がある!
2005年9月13日


 自分のいいところ・長所を6つ以上、見つけ出すことができましたか?
 できた方、おめでとう! できなかった方、残念ですね。
  これまで教えた学生のかなりの数(これはちゃんとした数値で把握していないのですが)が、6つ以上書けま せんでした。
 それどころか、能力とおなじく1つも書けないという学生も相当数いました。
 それは、「自分には何のいいとこもない」と思っているということで、それでは自信喪失になって当然ですね。
 でも、落ち込み癖のある方、自信喪失状態の方、だいじょうぶです!
 自信喪失から立ち直る、落ち込み癖を直す方法はあります。
 これから引き続いて、その方法をお伝えしていきますが、これはあなたが実行するための方法であって、知っ ただけでは効果がありません。ぜひ、実行してください。
 私はよくいいます、「飲まない薬は効きません」と。
 方法があっても実行しなければ、効果は出てこないのです。
 では、あなたにまちがいなく「ある」いいところ・長所について、発見のお手伝いをしましょう。
 あなたは、事実、この記事を読んでいますね? それは、まず「好奇心」がある証拠です。
 「好奇心」とは、「奇妙なものを好む心」ともいえますが、「新奇なものを好む心」でもあります。
 新しいものは一見奇妙に見えることがありますが、だからといって避けていては新しいものをつかむことはで きません。
 成長や進歩には、必ず好奇心が必要です。
 成長や進歩に必要な好奇心がある、それはまちがいなくあなたの長所です。
 さらに、あなたがこの新奇な授業のブログを見つけて読んでいることは、あなたの「積極性」の証拠です。
 「え、私に積極性が? いつも消極的・引っ込み思案だといわれるのに」という方、ここでも比較はやめましょ う。
 何もしないで引っ込んでいるだけでは、探して、見つけることはできません。人と比べた程度はどうであれ、ど んなにわずかでも、あったから、探したんですよね? 
 だったら、事実に基づいて「私には積極性がある」と認めてあげましょう。
 さらに、あなたには「行動力」があります。探して、見つけて、読んで……というのは、すべて「行動」です。それ をやっている以上、あなたには行動力があるのです。
 人間は、「動物」つまり動く物です。行動することは、人間らしく生き生きと生きるための必須条件です。
 そういう人間にとってとても大切な「行動する力」が、あなたにはありました。
 もちろん、あなたより行動力のある人はたくさんいるでしょう。でも、それはあなたに行動力がないということで はありません。比べると「少ない」だけで、「ない」んじゃありませんね。
 だったら、事実に基づいて「私には行動力がある」とセルフ・トークしてみてください。少し行動する元気 が湧いてくるような気がしませんか?






認めると伸びる
2005年9月14日


 人間の能力や長所には、「あると認めると、ただあるだけではなく、さらに伸びてくる」という法則があり ます。
 逆にいうと、「ないと思っていると、あるものまでしぼんでいく」ということです。
 もしかすると落ち込み癖のあるあなたは、「少ない=ない」と思い違いをして、自分に事実としてある能力や長 所を認めず、その結果しぼませてしまうという、とても損なことをやっていたのではないでしょうか。

 さらに、ここまで読んでこられた方、あなたには人生にとって大切な事柄を理解する力・「理解力」があります。
 「まるでわけわかんない」と思った方は、ここまで読み続けたりしていないでしょうからね。持続したことは、あな たに理解力がある証拠です。
 さて、持続する力のことは何というでしょう? そう、「持続力」です。ここまで、読み続けたあなたには、まちが いなく「持続力」があります。
 「え、オレはいつも飽きっぽい、根気がないと人からいわれているのに」という方、人がどういっているかという こと、つまり社会的評価はいったん脇に置きませんか?
 あなたには、飽きっぽい面もあるかもしれません。しかし、事実、持続しているのですから、「持続力」もあるわ けです。
 さあ、どちらの面を見るほうが元気になりそうですか? 元気になるのと元気をなくすのと、どちらが好きです か? 選ぶのはあなたです!
 ここでコメントを1つ。
 今やっていることは、心を改善するためのテクニック・技(わざ)です。
 自分を元気にするため、本当の自信を得るために、ふつうのこと=社会的な慣習の中で行われている ことではなく、ちょっとちがうこと=わざをわざわざやっているわけです。
 なるべく、今は社会的評価のことは忘れましょう。
 それでも気になる方のために、コメントをもう1つ。
 自分に能力や長所があると思うのとないと思うのと、どちらが元気になりますか?
 当然、あると思うほうですね。
 では、元気があるのとないのと、どちらが社会の中に出た時、評価されるような言動ができやすいですか?
 そうです。元気なほうが社会に出ても元気に活動して、評価を受けることのできる可能性が高まります。
 喩えていうと、車のガソリンが切れている時に、いくら「走れ、ポンコツ車! 車のくせに走れないなんて、お前 には何の価値もない!」とののしってみても、車は走らないようなものです。
 そういう場合、どうしますか?
 いったん走るのは止めて、ガソリン・スタンドへ行って、給油しますよね。
 「生きる自信の心理学」のワークは、給油のようなもの、つまり生きるエネルギーとしての「自信」を補 給するために、いったん心理的に社会から少し離れるということなのです。
 ガソリン・スタンドにいる間は、車は走ることはできません、走らなくてもいい、それどころか走ったらすごく危険 ですよね? 走ってはいけないのです。
 さて元に戻りましょう。
 あなたには、「好奇心」、「積極性」、「行動力」、「理解力」、「持続力」がありました。もうこれで5つで す。
 あと1つは自分で発見していただくといいのですが、でも、「いいところは1つもない」と思っていた方のために、 もう少しお手伝いします。
 さて、あなたは、そもそもなぜ、こんなブログなんか読んでいるでしょう?
 今日初めてという人は、単なる「好奇心」だけかもしれませんが、続けて読んでいる方は、自分をよりよくした いという気持ちがあって、その参考になるかもしれないと思って読んでいるのではありませんか?
 だとしたら、あなたにはまぎれもなく「向上心」があります。
 「向上心」・自己改善意欲というのは、長所を伸ばていくことのできる長所で、長所の中でも最高といってもい いくらいの長所です。
 もう1度、あなたには「向上心」がある! ならば、きっと向上できる!
 さあ、これで、事実としてあなたには6つ長所があることを発見しました。






あなたには両手に余る長所がある!
2005年9月15日


 たくさんの人に元気になっていただきたいと思って登録した人気ブログランキング、今朝、第9位になっていま した。
 みなさんのご協力、改めて心から感謝します。
 実際の大学での授業でも、たくさんの落ち込んでいた学生が元気になってくれます。
 授業が始まって間もなく、「死にたい」と訴えてきた学生が、もう前期の終わり頃には、目が輝いて、生き生きと 生きはじめてくれたりします。
 このネット授業も、たくさんの人に読んでいただき、たくさんの人を元気にできればと願っています。
 続けて、ご協力いただける方は、上のタグ(というのかな?)、クリックをお願いします。

 さて、お礼とサービスに、まちがいなくあるあなたの長所、いくつか追加しておきましょう。
 あなたがこのブログを見て、「これいいんじゃない?」と思ったとすると、それはすばらしい「直観力」。当たり、 です!
 そして、「確かにこれは役に立つ」と判断した。的確な「判断力」があります。
 読み続けようと決めた。「決断力」があります。
 一所懸命、自己成長・自己改善の努力をしている。あなたは、「真面目」です。
 「人から、クソ真面目といわれるんです」とか「真面目すぎるといわれてます」とかいう人、「クソ」も「すぎる」も 取りましょう。
 それは人の評価・社会的評価ですよ。ガソリン・スタンドで車を走らせるような危険なまねはやめてください!
 事実としていえば、クソだろうがすぎようが、「真面目は真面目」ではありませんか?
 「真面目」というのは、人生の大切な事に真直ぐに顔と目を向けているという意味です。それは、どう考えても 長所です。
 70年代以降、日本の若者風俗的な世界では、ニヒリズムと快楽主義から派生した不真面目文化が氾濫し、 まるで不真面目が価値で、真面目は価値ではないかのような錯覚が横行していますが、ちゃんと考えてみれば わかりきったことで、真面目さはとても重要な人格的価値です。
 さあ、これで、あなたには両手いっぱいの長所があることがわかりました。
 自分で1つでも発見したら、両手に余るいいところがあることになるんです。
 能力のワークと併せて、もう、「私は何もできないんです、いいところは1つもありません」とか「私には何の能 力も価値もない」とか、いわないでしょうね?
 ネット上ではそこまでいいにくいのですが、ワークショップに参加して直接接した方には、ユーモアを込めて、 「このワークショップに参加した以上、今後、もうそんなウソ――つまり事実に反すること――はいわせな いよ!」と宣言します。
 最後にセルフ・トーク。「私には、たくさんの能力や長所がある!」と、力強くいってみてください。
 人のいないところなら、声に出して、ちょっと恥ずかしかったら、心の中で、叫ぶくらいの強さで、自分に言い聞 かせましょう。
 「きみには、両手に余るほどできること・いいところがある! 自信持っていいんだよ!」と。






見える大きさは見る距離で変わる
2005年9月16日


 さて、ここまでで、自分に事実ある能力と長所・価値をちゃんと認めるというワークをやってきました。
 これで、かなり自己承認=自信がついてきたのではないかと思います。
しかし、それでもまだ「確かに少しくらいならできることやいいところはあるけど、大したことないし、そんなことで 自信を持ったら、なんか独りよがりみたいでカッコ悪いじゃないか?」と思っている方もいるかもしれません。
 ここまで来たら、「独りよがりではいけない」とか「カッコ悪い」とかいうのは、「走らなきゃ車じゃない。スタンドで 給油のために停まっていたり、修理のために工場に入ったりするのは許されない」といっているのに似ていると 気づいていただけますね?
 それでもまだ、「少しくらいなら……あるけど、大したことない」という気分は残るかもしれません。
 もう一つ、そういう気分を解消する技をやってみましょう。これは、「わざ」です。
 「十円玉のワーク」といいますが、まず、手元に十円玉を用意してください。
 それを右手の親指を人差し指ではさんで、左目を閉じて、右目で見てください。
 まず、30センチくらいの距離で、その大きさをよく感じてみましょう。
 それからゆっくりとひじを伸ばして目から離していきます。
 さあ、見える大きさはどうなったでしょう? 当然、小さくなりましたね。
 でも、それは小さくなったんですか?
 そうではありませんね。見え方が小さくなっただけで、実際の大きさは変わっていないんですよね?
 でも、小さくなったように見えた。
 さあ、勘のいいみなさんは、もうわかってきたかもしれませんが、「考えるとするとでは大違い」なのです。
 続けてやってみましょう。
 今度は十円玉をゆっくりと目に近づけていきます。
 十円玉は、どんどん大きく見えてきますね。
 目のそばまで持ってくると、まるで世界が十円玉でいっぱいのような気がしてきます。
 つまり「視界」がいっぱいになると「世界」がそれでいっぱいのような気がする、というのが人間の視覚 の法則です。
 そして、心にもその法則はほとんどそのまま当てはまるのです。
 さあ、直観力や洞察力のあるみなさん、このワークは何を目指しているのでしょう。
 そうです。自分の能力や長所を集中的に見て、自分にはものすごく大きな――まるで世界中(つまり視界)い っぱいになるくらいの能力と長所がある、という気持ちになることを目指しているのです。
 でも、たくさんの人がこの逆をやっています。
 自分のできないことやダメなところに目を集中して、その結果、当然ながら落ち込んでいるのです。
 とても損なことをしていますね。
 気持ちはよくわかります。私もかつてやっていましたから。
 でも、考えて見ましょう。
 いいところに目を向けているのと、悪いところに目を向けているのと、どちらが元気になりますか?
 いいところですよね。
 では、元気があるのと元気がないのと、どちらが悪いところを改善できる可能性が大きくなりますか?
 もちろん、元気があるほうですね。
 では、「視界」がいっぱいになると「世界」がそれでいっぱいのような気がする、というのが人間の視覚の法則 です。
 では、まず自分の能力や長所を集中的に見て、自分を認め、ほめてあげて、元気になって、その後で、 もし余力ができたら、悪いところも改善することにしませんか?
 フルスピードで走るのは、ガソリンを入れてからにしよう!
 これは、何千人もの若者や社会人を指導してきて、ほぼ90%以上の確率で、有効だと思う手順です。
 たまに、自分の悪いところを集中的に見て、「オレはダメだ、ダメだ」とネガティヴなセルフ・トークを連発して、 それで自分を叱咤激励して奮起する人もいますが(このタイプも昔は割に多かったのですが)、時間と労力の点 から見て、あまり効率的ではないようです。
 なので、よかったら、まず自分の能力や長所を発見して、評価して、自分に絶賛のセルフ・トークをして あげてみませんか? 
 「すごい! おまえはすごくがんばってる! おまえの努力はすばらしいぞ!」といったふうに。
 もちろん、叱咤激励が効く方は、それでやっていただいてけっこうです。






心を明るくする5つの質問
2005年9月19日


 おなじ事実でも、見方によってまるでちがって見える、ということをお話ししてきました。まとめてみましょう。
 @まず、事実は「ある」にもかかわらず、目を閉ざしていると見えず、目を開ければ見えるということです。
 A次に、事実はあり、目を開けていても、ある方向に向いていなければ見えず、その方向に向けば見えるとい うことです。
 Bさらに、事実はあり、目を開けて、その方向を見ていても、遠ざけていれば小さく見え、近づければ大きく見 えるということです。
 そこで、本当の自信を得るための技として、目を開け、そちらを向き、集中して見るためのワークをご紹介しま した。
 もう1つ追加のワークをしてみましょう。
 これは女性にやっていただくと、あまりお行儀がよくないのですが、あくまでも技として、あまり目立たないとこ ろでそっとやってみてください。
 まず足を大きく開いて立ちます。
 そして目の前に見える景色や物を見ます。
 続いて、後ろ向きになり、体を前に倒して、開いた足の間から、さっきの景色や物を見てください。
 どう見えますか?
 「逆さまに見える」、「ひっくり返って見える」、そうですね。
 小さい頃遊びとしてやったことのある方は多いでしょう。
 でも、これには遊び以上の意味があると思います。
 さて、「ものが逆さまに見える」わけですが、それは「ものが逆さま」なのでしょうか、「見方が逆さま」なのでしょ うか?
 もちろん、見方が逆さまなのであって、ものがさかさまになっているわけではありませんね(相対性理論でいう とちょっと別の話もできますが)。
 見えている世界=視界が逆さまであることは、事実として世界が逆さまであることではありません。
 この場合、正立した状態を見たかったらどうしたらいいんでしょう?
 そうです。逆さまになっている自分の頭を正立させればいいんですね。
 「自分には何もできない、いいところは1つもない」とか、「人生には意味がない」とか、「世の中は真っ 暗だ」とか、とても悲観的・ネガティヴな見方になっている時、実は心の目が閉じているか、見る方向がち がっているか、あまりにも遠ざけているか、あるいは逆さまになっているか、そのどれか、そのぜんぶか もしれません。
 そして、とても幸いなことに、事実がネガティヴなのではなく見方がネガティヴになっているだけなら、練 習すれば直すことができます。
 とはいっても、長く続いてきた癖になっている場合、直すのに手間暇は少しかかりますが。
 では、もう1つ、損な癖を得な癖を直して、新しい癖をつけるためのワークをご紹介しましょう。
 まず、深い呼吸をして、それから体を意識的にほぐしてリラックスしてください。
 それから、ゆっくりと、次の質問を自分にしてください。
@(比較はやめよう。どんなに小さくてもいい)最近私が成功したこと、うまくできたことは何だろう?
A(どんなに小さくてもいい)自分にはどんなことができるだろう、どんな能力があるだろう?
B(どんなに小さくてもいい)自分にはどんないいところ・長所があるだろう?
C(すごくかどうかはいい)私は誰を愛していて、誰に愛されているだろう?
D(どんなにわずかでもいい)私は何に感謝できるだろう?
 この問いをすると、自然に心が人生のポジティヴな面に向くのではないでしょうか?
 「こんなことで……」といわないで、やってみてください。






5つの質問のコメント
2005年9月20日


 5つの質問、してみましたか?
 する気にならなかった方と、あまりうまくいかなかった方のためにちょっとコメントをしておきましょう。
 @は、まさにどんなにささやかなことでもいいんです。例えば、今朝はちゃんと起きて学校に間に合ったとか、 レポートを期限どおりに出せたとか、アルバイト先でちゃんと仕事をこなせたとか……。
 ネガティヴなセルフ・トークによくあるのですが、「私は何をやってもダメだ。すべてうまくいかない」というのは、 まったく事実に反しているし、自分を落ち込ませるだけで、とても損なセリフです。
 何かはうまくやれている、それどころかかなりのことがうまくやれているから生きているんです。
 「すべてうまくいかない」のが事実なら、もうとっくに死んでしまっています。
 誰も頼んでいないのに、自分で自分を落ち込ませるような事実に反したセルフ・トークをするのは、もそろそろ おしまいにしましょう。
 特にAとBはすでに練習してありますから、楽勝!ですね。
 もし、楽勝でなかったら、もう1度練習してみてください。
 そして、手帳やカードに自分のできること・いいところをちゃんと書き出して、いつでも見直せるようにしておくの も、1つのいいテクニックです。
 落ち込んできた時、それを見て、「そうか、私にはこんなにもできること・いいところがあったんだ」と心の向き を変えましょう。
 Cについて、「愛」ということばが照れくさかったり、大げさすぎると感じたりしたら、「心にかけていてくれる」と か「好意をもっていてくれる」と言い換えてもかまいません。
 もし万一、「誰にも愛されてない」というセルフ・トークがめぐっている人がいたら、ぜひ、自分に「ほんとうにそう か? 私は世界中の人から憎まれているのか? 挨拶しても誰も返事してくれないのか? 笑顔を向けても1度 も笑顔が返ってきたことがないのか?」と自問してみてください。
 たぶん、ほんのちょっとかもしれないけれど、あなたに挨拶をしてくれたり、笑顔を向けてくれたりする人の1人 は2人はいるはずです。
 そういうのを何と呼びますか? そう「好意」です。
 誰からもどんなにわずかの好意も示されない人は、世界には1人もいない、と私は思いますが、どうでしょう?
 ゴータマ・ブッダの言葉に、「この世に誰からも愛されない人は1人もいない。誰からも愛される人も1人 もいない」というのがあります。本当にそうだと思います。
 最後の、感謝ということですが、いろいろ不満があったり、腹が立っていたりして、「何に感謝しろっていうん だ」という気分の方もあるかもしれません。
 その場合は、この段階では無理にお勧めしませんが、ちょっとだけ考えてみてください。
 自分の気もちの問題として、不満に思っていたり、腹を立てていたりすると、いい気持ちですか?
 まあ、不満や怒りを爆発させると、そのときだけはすっとしたような気持ちになるということはありますが、その 結果はあまりいいことにならないと思いますし、まあ、ふつう不満や怒りを抱えていると、とても不愉快だと思う のですが、いかがですか?
 そうすると、よく考えると、不満や怒りは気持ちとしては不快であり、不快だということは、損をしているというこ とになりませんか?
 無理やりさせられる場合を除き、感謝している時、自分の心は暖かになっていて、いい気持ちです。
 語呂合わせでよく言うのですが、「感情の損得を勘定すると、不満や恨みや怒りよりも、感謝のほうが明 らかに得ではありませんか?」と。
 ならば、得なほうを選択しませんか?
 まあでも、特別感謝できることが思い浮かばない方は、@からCまででもかまいません。やってみてください。
 実行した方のほとんどがいいます。「こんなことで気分が変わるのかと思ったんですが、やってみるとけっこう 変わりますね」と。
 毎度の決まり文句、「読むとするとでは大違い」。 






優越感は自信ではない
2005年9月21日


 さて、このあたりまで講義が進んでくると、必ずといっていいくらい出てくる疑問があります。
 ネット学生のみなさんも、たぶんおなじような疑問が湧いていると思いますので、それに答えていきましょう。
 まず@は、「能力や長所が少ししかないのに、自信なんか持てるんだろうか、持っていいんだろうか?」という ものです。
 こういう疑問の裏には、「人と比べてものすごく優れていなければ、自信を持つことはできない」という考え方が あると思われます。
 すでにお話ししてきたように、私たちは競争社会に生きていますから、どうしても人より優れていることが価値 だと思いがちです。
 そして、自分が人より優れていると思っている状態、つまり「優越感」が「自信」だと思いちがい・混同してい のです。
 思いちがいといいましたが、言葉は定義しだいでいろいろな意味を持たせることができますから、「優越感= 自信」と定義してもいけなくはありません。
 しかし、私は、「優越感」は「本当の自信」ではない、と定義しています。
 優越感というのは、他と自分を比較して自分が優越しているという気持ちですから、比較が前提になっていま す。
 したがって、もし比較して劣っていたら、劣等感を感じざるをえないということになります。
 つまり、優越感と劣等感は裏表なのです。
 そして、世界で一番でないかぎり、自分より下を見ると優越感を感じることができても、自分より上は必ずいま すから、その人に対しては劣等感を感じざるをえません。
 「高校の時は成績が上位で自信があったのに、大学に来たら自分よりできるのがたくさんいて、自信を失っ た」という学生がよくいますが、私は、「それは、優越感が劣等感になったということだよね?」と問いかけ、優越 感と自信のちがいの話をしていきます。
 さらに、あらゆる分野で世界一という人はありえませんから、自分にできることが評価される場面では優越感 を感じられても、自分にできないことが評価される場面に行ったら、とたんに劣等感を感じなければならなくなり ます。
 例えば、頭はいいけれどスポーツは苦手という人は、頭のいいことが評価されるグループでは優越感を感じる ことができるのですが、スポーツができないとバカにされるようなグループに入ると、とたんに劣等感を感じさせ られることになります。
 そういう、こちらでは優越感を感じても、あちらでは劣等感になるというふうに、ゆらいでしまう「自信」は、私の 定義では「本当の自信」ではありません。
 「本当の自信」とはゆるぐことのない自信でなければならない、と思うのです。
 さてでは、そんな「自信」を得ることなんてできるのか? できる、というのが私の授業で伝えたいことです。
 まず、比較をやめて、自分自身に事実としてある能力や長所をしっかりと認めれば、事実そのものはゆ らぐことはありませんから、気持ちもゆるがないはずです。
 といっても、比較しておいては「オレってダメだな」とセルフ・トークする癖があまりに強くついていると、すぐに事 実が見えなくなって、気持ちがゆらいでしましがちですから、いつも事実を見る癖をつけ直す必要があるわけで すが……。
 だいじょうぶです、ついた癖なら、つけ直すことも可能です!






傲慢は自信ではない
2005年9月22日


 「本当の自信」は、他人と比較して上か下かという相対的な「自分」ではなく、比較することのできない 絶対的な「自分そのもの」を認めた時に確立する、と私は考えています。
 授業でそういう話をしていたら、「それは、ナンバー・ワンじゃなくてもいい、オンリー・ワンになろう、という ことですね」といった学生がいましたが、そう、そういうことです。
 ある学生はこういう感想文を書いてくれました、「僕は僕であることについては誰にも負けない」と。
 「負けない」と表現するところに、まだ比較癖が残っているけれども、かなりいいところまで来たなと喜んだこと です。
 しかし、世の中にはそういうのではない自信を持っている人がたくさんいるようです。
 「自信たっぷり」、「自信満々」、「自信過剰」、「傲慢」……。
 しかし、「傲慢」は「本当の自信」ではありません。
 「傲慢」とは、自分がある特定のことについて一定の優越性を持っていることだけに心が集中し、さらに 固着・硬直して、優れているのは特定のことについてだけであることや、一定程度にすぎないことを無視 して、ひたすら自分の優越感を感じ、優越性を人に誇示するような態度のことですね。
 そういう硬直しひずみのある優越感が性格として固定してしまっているのを「傲慢な人」といいます。
 しかし私の見てきたかぎり、そういう傲慢な人も、心のどこか――意識と無意識の境のあたり――で、自分の 優越性が本当は相対的なものにすぎないことを知っています。
 そして、だから、それが時と場合では劣等感に転落してしまいかねないことも知っているようです。
 そのために、傲慢な人は心の奥のほうで不安を抱えていると思われます。
 しかし、不安を意識化すると、それこそゆらいでしまいますから、意識しないように、心の中で抑圧しているの です。
 感情は必ずエネルギーを伴っているので、抑圧するには力が必要です。
 そしてまた、不安な自分を人に知られるのは、自分の弱みを見せることで、劣等性に陥ると思っています。
 だから、傲慢な人は、自分の中でも、人に対しても、力まなければならなくなります。
 事実ありのままに・自然にゆるぐことのない自信があるのではなく、必死に力みながら自信があるつもり、自 信がある風を装っているのです。
 しかも、自信というのは、事実として自分に与えられているものを自覚するのがポイントですが、やはり他から 認めてもらえたほうが確立しやすいことも確かです。
 ところが、傲慢な人は、ほとんど法則的に人に嫌われます。……「傲慢な人が好き」という方はいませんよ ね?
 もちろん、その人にお金や地位や権力があるために、ゴマをする人はいるでしょう。
 しかし、それが本当にその人を尊敬したり愛したりしているのではなく、お世辞や追従にすぎないことは、本人 も心のどこかで知っています。
 本当は嫌われている(のかもしれない)と思いながら、「オレに力があるかぎり、人はおれにお愛想をふりまい て、ついてくる。嫌でも認めざるをえないんだ」と一所懸命力んでいるというパーソナリティの状態は、哀れでもあ り、また人迷惑でもある、と思いませんか?
 そういう心の奥に不安を抱えて力んでいる、哀れで人迷惑な状態・傲慢さを、私は「本当の自信」とは定義しな いのです。
 私たちが、「自信過剰」だなと感じるのは、自信がほんものでなく、そういう「傲慢さ」に陥りつつある途中の状 態のことなのではないでしょうか。
 「本当の自信」は、事実にぴったり合った心の状態ですから、「不足」にも「過剰」にもなることなく、いつ も「適切」なのだと思うのです。






うぬぼれは自信ではない
2005年9月23日


 さて、もう1つ自信と混同されがちなのが「うぬぼれ」です。「ひとりよがり」と言い換えてもいいでしょう。
 「うぬぼれ」は漢字で書くと「自惚れ」で、自分で自分に惚れ込んでうっとりしている状態です。
 「ひとりよがり」とは、まさに言葉のとおり、自分ひとりで勝手にいい気になっている状態のことです。
 うぬぼれ・ひとりよがりは、人から見ても確かにそうだなと思える事実に基づいていないのが特徴です。
 いちばんよくわかる例は、けっこうよくあるケースですが、カラオケで歌がちっともうまくないのにマイクを独り占 めして独りよがりで歌い続けている人がいます。
 もちろん自分ではうまいと「うぬぼれ」ているんですね。
 でも、事実はうまくない。
 もちろん、誰もその人が歌がうまいとは認めていませんし、そういううぬぼれ状態を心よく思ってはいません。
 これは、とてもはた迷惑で、かつとてもみっともなく恥ずかしい状態だと思うのですが、本人は気づいていない のです。
 こういう状態も、本人はいいと思っているのだから「自信」の1種だといえないこともありませんが、私は、「本 当の自信」とはいえないと思うのですが、いかがでしょうか?
 「本当の自信」は、ゆるぎない事実に基づいている必要がありますし、かつできるだけ人から見てもそのとおり であることが望ましい、と思います。
 実は、そういう「本当の自信」があれば、優越感に浸ったり、傲慢になったり、うぬぼれ・ひとりよがりを する必要がなくなるのです。

 *さて、ここでネット学生のみなさんにお断りですが、昨日から実際の大学の後期授業が始まりました。 それにしても、長い長い夏休みでした。
 これから、かなり忙しくなるので、これまでのような頻度で記事を更新するのが少しむずかしいかもしれ ません。
 たくさんの方に元気が出るメッセージを伝えたいので、できるだけの努力は続けるつもりですが、そこの ところを予めご理解いただけると幸いです。






ナルシシズムは自信ではない
2005年9月24日

 さて、もう1つ、「本当の自信」ではないと私が考えているのは、「ナルシシズム」です。
 ご存知のとおり、「ナルシシズム」とは古代ギリシャの神話に出てくる美少年ナルキッソスの話にちなんで作ら れた心理学的な用語です。
 ナルキッソスは、実際に美しい少年で、ある日散歩していて、泉に映る姿があまりに美しいので自分に恋をし てしまい、他の少女に恋をすることができなくなったというのです。
 この、ナルキッソスの「ナルシシズム」の場合、「うぬぼれ」と違って、事実、彼は美しいのです。
 (これも言葉の使い方の問題ですが、私は事実の裏づけが薄弱なのを「うぬぼれ」、裏づけはあるのを「ナル シシズム」というふうに区別しています)。
 ですから、これは「自信」といってもいいかもしれません。
 しかし、人間の意識は自分だけでは成り立たないようにできています。
 かつて60年代から70年代にかけて、アメリカの心理学の世界で「感覚遮断実験」というのが行なわれたこと があります。
 ボランティアの学生や社会人に、光も音も匂いもなく暑くも寒くもない温度の部屋に入ってもらい、中にいる時 間が長くなったら味のない飲み物・食べ物だけを摂ってもらう、というものでした。
 その結果、早い人ではもう数時間後には意識が朦朧として混濁しはじめ、何日も入っていた人は、大きなダメ ージを受け、正常な意識状態に戻るまでにそうとう時間がかかるということが明らかになったのです。
 つまり、意識はそれ自体で成り立っているのではなく、いつも外からの刺激があることによって維持されている ということです。
 そして、「自信」というのはいうまでもなく意識の1つの状態ですから、他からの承認・評価という刺激が一切な い状況では、獲得−確立−維持することはとても難しいのです。
 なんだか、今までいってきたことと矛盾したことをいっているように思われるかもしれませんが、そうではありま せん。
 戦後日本では、人から今の社会のものさしだけで比較して量られて、自信を失うということになりがちなので、 自信を回復あるいは獲得するための技術的な手順として、いったん比較をやめて、事実そのものに目を向け集 中することをお勧めしただけで、他からの承認・評価をまったく無視しようとか、無視できるとかいったわけでは ありません。
 それどころか、「本当の自信」つまりゆらぐことのない自信を得るには、できれば、できるだけ、他者からの承 認・評価も得たほうがいいのです。
 ところが、「ナルシシズム」状態の人=ナルシストの場合、自分で自分を認めているのはいいのですが、他の 人の能力や価値にはほとんど関心を示しません。
 その人がすごい美人や美男であるとか、すごい才能があるとかだと、最初は多くの人がその人を評価し、誉 めそやしたりします。
 しかし、自分だけ認めてこちらは認めてくれない人と長く付き合うと、ほとんど法則的に嫌になってくる ではありませんか?
 ナルシストと長くつきあうと、たいていの人がうんざりしてくるようです。
 つまり、最初はその人のすばらしいところを認めていたのですが、だんだんその人そのものは好きじゃなくな る、つまり認めたくなくなるのです。
 つまり、ナルシストは他者からの持続的な評価を受けることがとても難しいので、自分だけで自分を認める努 力を続けなければならないことになり、とても疲れるのではないでしょうか。
 さらに、人からの評価を受けられなくなることに対する不安をいつも心の奥に抱えることになると思われます。
 さらに加えて、例えば美しさや才能は、事実今はあったとしても、人間は変化し老いていきますから、ナルシス トはナルシシズムであるためのネタをいずれ失うかもしれないという意味でも、どこかに不安を抱えているようで す。
 そして、傲慢な人とおなじく、不安を抑圧するために力まなくてはならなくなるのです。
 心の奥に不安を抱え、力まなくてはならないような自信・ナルシシズムも、ふつうの意味でいえば自信 の一種でしょうが、私の定義する「本当の自信」ではありません。
 さて、ここまでで、優越感、傲慢、うぬぼれ、ナルシシズムと本当の自信との違いがどこにあるかがはっきりし たと思います。
 しかし、実際の人間の心は、こんなにすっぱりと分析・整理できるものではなく、それぞれの要素が入り混じっ たりしています。
 ただ、こういうふうに整理して考えておくと、「本当の自信」を自分のものにしていく上で、よぶんな混乱を避け ることができると思うので、あえて整理してお話ししたわけです。
 自分のことを振り返るためのヒントだと思ってください。





ムダな努力をしないで幸福になる方法






認められたかったら認めよう
2005年9月25日


 「比較をやめて、自分自身に事実としてある能力や長所をしっかりと認めれば、事実そのものはゆらぐことは ありませんから、気持ちもゆるがないはずです」といいました。
 これがしっかり実行できたら、かなりの程度「本当の自信」が身についてきたはずです。
 しかしこれは、原理はシンプルでも実際にはそれほどやさしくないと感じる方もかなりの割合でいるようです。
 それには主に2つの理由があるのではないでしょうか。
 まず第1は、競争社会に生まれ育ってまわりからあまりにも比較ばかりされてきたため、頑固な癖になってい て、なかなか比較をやめられない人が少なくないということです。
 しかしある程度の年齢になると、人間はだんだん自律性が高まってきますので、比較されることによってつけ られた比較する癖に気づいたら、自分の意思で直す、あるいは別のよりよい癖をつけ直すことができるのです。
 よりよいものの見方が癖になるには、かなり意識的な繰り返しが必要です。
 意識的な繰り返しの努力が必要です。
 努力しないで癖が直せるといいのですが、そういう安易で便利な方法は残念ながら私は知りません。
 しかし努力すれば直せるというだけでも有り難いことだ、と私は思うのですが、いかがでしょうか?
 次に第2は、人間は生まれる時から父母との関係の中で生まれるのであって、自分で自分を生むことはでき ませんし、かなりの年齢になるまでは自分で自分を育てることもできないので、他者と関係なく自分の心を形成 することはできないということです。
 父母などまわりの人から、ありのままの自分を認めてもらうことができず、親から見ていい子であるとか、能力 があるとかいう条件づきでしか認められたことがないという人がたくさんいます。
 そしてさらに、まわりの要求する条件がなかったので、ほとんど認められなかったという残念な幼少期を過ごし た人も少なくありません。
 他者からありのままの自分を認めてもらうという体験なしに、自分だけでありのままの自分を認めるというの は、幼い時にはほとんど誰にもできません。
 したがって、まわりに認めてもらえなかったので、自分を認められないまま・自信のないまま大人になったとい う人もかなり多いようです。
 しかし、非常に幸いなことに人間はある程度の年齢になると、自分だけでありのままの自分を認めよう という意識的な決断をし、努力をすることもできるのです。
 「誰が認めなくても、私は私自身を認めるんだ!」と。
 そうはいっても自信を持って生きていくには、他者からの承認もできるだけあったほうがいいに決まっていま す。
 ここが決定的なポイントですが、ある程度の年齢になりちゃんと方法を学んだら、私たちは他者からの 承認を勝ち取ることも十分に可能なのです。
 ただし、それには考え方の大転換が必要です。
 私たちは、子どもの頃はまず人から認められる・愛されることを求めますし、それは自然なことです。
 しかし、大人になったら、まず人を認める・愛することを先にすることもできるのです。
 私は、若者たちに、「これは、大人の鉄則です。人から認められたいのなら、まず人を認めなさい。愛さ れたかったら、まず愛しなさい」と伝えます。
 「人を認める」というと、「どうすればいいんだろう」と思う人もいるようです。
 それは、まず簡単なことから始まると思います。
 人に会った時、相手を認めていれば、当然、挨拶をするでしょう?
 それから、おそらく笑顔を向けるでしょう?
 時には話しかけるでしょうし、相手の話を聞くでしょう。
 好意や関心を示す言葉をかけたり、相手が話したがっていることをちゃんと聞くでしょう。
 相手が何を望んでいるかに気を配り、できるだけ希望に沿うよう努力するでしょう。
 こうしたことを自分の方から先にするように心がけると、私の経験では7、8割の人がちゃんと応えてくれます。
 挨拶には挨拶、笑顔には笑顔、言葉には言葉、行為には行為……。
 話をよく聞いてあげた相手は、こちらの話も聞いてくれます――ただし、これはちょっと割合が減りますけどね ……。一方的に話すばかりの人もいますので。
 そして、それは覚悟しておいたほうがいいのは、してあげても、して返さない人も、一定の割合ではいるという ことです。
 しかし、幸いにしてちゃんと返す人の割合のほうが多いようです。
 だとしたら、大人になったら、人が認めてくれるのを待っていないで、こちらから人を認める言動を能動的にし ていくことです。
 そうすると、かなりの頻度と程度で、相手もこちらを認める言動をしてくれるものです。
 こういう、認めることによって認められるという体験を重ねていると、だんだん「私は人から認められている」と いう感じを得ることができます。
 そして、自分で自分を認めることと人から認められることが繰り返されていくうちに、次第にゆるぎなき本当の 自信が育っていくのです。
 さあ、ここで判断と決断をしましょう。
 子どものように、すねたり、ふてくされたり、落ち込んだりしながら、人が認めてくれて自信をつけてくれ るのを待っているのと、大人になって、意識的・能動的に自分で自分を認め、人を認め、そして人からも 認められるように行動していくのと、どちらが「本当の自信」への近道でしょうか?
 そして、あなたは、どちらの道を選択しますか?
 判断し、決断するのは、あなたです。






変わるか変わらないかはあなたの自由です。
2005年9月26日


 自信のない状態から自信のある状態へ、元気のない状態から元気な状態へ変わるというのは、パーソナリテ ィ(一般的な心理学用語)あるいはアイデンティティ(エリクソンの用語)あるいはライフスタイル(アドラーの用語) の大きな変化です。
 自信・元気がないのよりあるほうがいいと思うのですが、自信を獲得する方法をお伝えすると、かなり多くの方 が、「できない、やりたくない」、「変われない、変わりたくない」という反応をされます。
 そういう反応をしたくなる気持ちは、とてもよくわかります。
 これまでの自分のスタイル−アイデンティティを変えるというのは、とても大変なことですからね。
 ですから、方法を学んだ上で、やらない・変わらないという結論を出すとしても、当然ながらそれはご本人の自 由だと思います。
 私は、みなさんによくいうのですが、「強くお勧めはしますが、決して強制はしません」。もちろん、したくてもで きませんしね。
 私は、心のあり方しだいで、ほとんどの人が今よりは幸福、かなり気が楽、いくらかでも耐えやすくなると考え ていて、できるだけたくさんの人にそうなって欲しいという、頼まれもしない余計なお世話の心がありますので、と ても残念でならないのですが、人間には心のあり方を変えないまま・不幸なままでいる権利もあるようです。 それは、認めざるをえません。
 しかし、でも、けれど……です。そういう方に会った時、ちゃんとお気持ちをうかがった後で、いつもこんなふう に質問させていただきます。
 「お気持ちは、ご本人ほどわかるとはいいませんが、私なりによくわかる気がしますが……あえて聞きますけ ど、ずっと不幸なままでいたいですか?」
 「そんなわけないでしょう!」と怒りで反応される方も含め、私が接したかぎりではすべての方が、「いたくあり ません」、「なれるものなら、幸福になりたいです」といわれます。
 「では、変わるための方法をやってみませんか?」とお勧めすると、「それをやると自分が自分じゃなくなってし まう」といった答えが返ってきたりします。
 「それは、今までのような自分じゃなくなる、という意味ですよね? でも今までのような不幸な自分はいつまで も変わらない、変われない、本当の自分なんでしょうか? 自分って、小さい時から今までいろいろ変わってき たし、これからも変わっていくものなんじゃないでしょうか? それから、自分で変えることのできるものなんじゃ ないでしょうか?」と、問いながら、一緒に考えていきます。
 「不幸な自分が自分だからといって、不幸なままでいたいですか? それとも、幸せな自分に変わりたいです か? 〈自分〉の中には、不幸という感情を感じている部分だけではなく、不幸な自分を幸福な自分に変えようと する意思や力を持った部分、自分の核のような部分があるんじゃありませんか?」
 気がつくと不思議なことのようでもあり、当たり前のようでもあることですが、ある年齢になると人間には意思 的な〈自己〉が出来てきます。
 その意思的な自己は、それまでの自分の状態を冷静に観察し、それを変えようとし、実行する力を持っ ているのです。
 「自分で自分を変える」というのは、そういうことです。
 私は、みなさんが「自分で自分を変える」ためのお手伝いをすることはできますが、「私があなたを変える」な んてことはできませんし、するつもりもありません。それでは、「洗脳」になりかねませんからね。
 それでも、「変わりたくないんです!」といわれる方がいます。
 「本当に変わりたくない場合は、変わらなくてもいいんです。でも、本当に変わりたくないのなら、なぜ、私の本 を読んだり、ここに来られたりしたのでしょう?……もしかするとそれは、変わりたいという気持ちと変わりたくな い気持ちがどちらもある、ということなんじゃありませんか?」と、私はお答えします。
 もしそうなら、ご自分の中で、「自分は本当には変わりたい=幸福になりたいのだろうか? それとも変 わりたくない=不幸なままでいたいのだろうか?」と、どちらの気持ちがより重いのか、本当にはどうした いのか、よく自問して、自分の本当の気持ちをはっきりさせて、それに素直になってください。
 「素直になりたくない、なれない!」というのも、もちろん自由です。
 それからもう1つ、こういう疑問もよくあります。
 「そんな簡単なことで変われるんですか?(そんなことでは変わらないんじゃないかと思うので、やりたくな い)」。
 お答えは、「やってみてください。飲まない薬は効きませんからね」、「これまで、ちゃんと繰り返しやってくださ った方の大多数――アンケート調査では約90%――が、多かれ少なかれ、いい方向に変わった、といってくだ さってます」。
 その場合、順番が大切です。
 すぐに人を認めよう・愛そうとしなくていいんです。そうしないほうがいいんです。
 それは、ガス欠で走ろうとするようなものです。
 まず、自分で自分をしっかり認めてあげましょう。
 心のエネルギー補給をしっかりやってください。
 「私ってダメなヤツ」とか「私ってイヤなヤツ」といったセルフ・トークを中止して、「私にもそれなりにでき ることやいいところがある」→「私にはできることやいいところがある」→「私っていいんじゃない?」という ふうに、セルフ・トークを変えてみてください。
 それから、これは自分1人ではできないことで、相手が必要ですが、次回、「認め合いのワーク」というのもご 紹介します。
 これは、体験した方はみんな口をそろえていうことですが、「とても効きます」、「元気になれます」。ご期待くだ さい。






認め合えば自信は深まる
2005年9月28日


 前までのところで、「自分で自分を認め、人を認め、そして人からも認められる」というのが、本当の自信を獲 得するための、有効で確実な方法であることをお伝えしました。
 もう少し、定義風にいうと、「自信とは、自己承認と他者承認がバランスよくある状態である」(『生きる自 信の心理学』39頁)ということになります。
 しかし自信喪失・落ち込み状態にあると、なかなか能動的に人を認めるということはできません。
 そこで、まず自分で自分を認めることから始めるのですが、さらにワークショップでは、次のようなワークを行 なっていきます。
 参加者が2人ずつでペアになってもらい、お互いに自分で確認した自分の長所を相手に話します。
 これは、最初は恥ずかしがる人が多いのですが、何度もいうように技(わざ)ですから、わざとらしくてもいいか ら、わざわざやってくださいといって、やっていただきます。
 聞く側になった人は、相手が自分の長所・いいところはこういうところだと自己申告するのを、よく聞 き、共感し、そしてそれを表現している言葉をしっかり覚えるように努力してもらいます。
 当然、6つ以上あがりますから、覚え切れないようなら、メモを取ってもらって、しっかり把握してもらうのです。
 これを相互に行なったら、次に、相手が自己申告したことと自分が発見したことを合わせて、その人を いいところをあげながら、徹底的にほめます。
 その人がうれしくて、恥ずかしくて、もう舞い上がりそうになるくらい、賞賛・絶賛のシャワーを浴びせて あげるのです。
 それからさらに、相手に自分の長所の中でも「特にこれが自分のいいところ、人から認めてほしいところ」と思 っていることを聞き、そこをほめてあげます。
 私たちは誰でも、「ここをほめてほしい」と思っている、いわば「賞賛のツボ」があります。
 そのツボを押されると、何とも快感なのです。
 ワークショップで、このワークをすると、みんな満面の笑み、大笑いになって、とても楽しい雰囲気になります。
 そして、ペア同士、参加者同士、みんな「認め合う」仲間になっていきます。
 このワークは、日常生活ではちょっと恥ずかしくてやりにくいかもしれませんが、親しい友達同士や恋人同士、 家族同士で、あえてゲームとして、あるいは元気づけ合うためのわざとして、わざわざ、わざとらしくやれば、や ってできないことはないでしょう。
 よかったら、ぜひ、やってみてください。
 それから、やはり、ワークショップに来て、ぜひ、グループの中で体験していただきたいと思います。
 これは、参加者の多くが「1度体験すると癖になる」というくらい人気のあるワークの1つです。






心の中の口癖を直そう
2005年9月29日


 人間の心には、いろいろな癖があります。
 なかでも「落ち込み癖」というのが、とても困る、しかしよくあるものです。
 自分で自分を認めるワークをし、お互いに認め合うワークをして、いったん元気になっても、また日常生活に 戻ると、落ち込み癖も戻ってくる、というケースがしばしばあります。
 しばしばというより、ごくふつうにあるといってもいいくらいです。
 ですから、これまで熱心にネット授業に参加し、ワークもやってみたけれど、効果は一時的だったという方、ど うぞがっかりしないでください。
 長いことかかってつけた癖はすぐには直りませんが、続けて実践していけば、ゆっくり直っていきます。
 そのための方法を、もう1つ、ご紹介しましょう。
 それは、「セルフ・トークの取り替え」と呼んでいるものです。
 私たち人間は、いつも心の中で言葉をめぐらせることによって考えています。
 その言葉のパターンが落ち込むようなものだと、当然ながら考えが暗くなり、そして気分も暗くなるわけです。
 そこで、どうするかというと、まず自分のなかでほとんど自動的にめぐっている否定的なセルフ・トークを見つけ て、ちゃんと自覚し、それからそれを肯定的なセルフ・トークと取り替える練習を繰り返せばいいのです。
 今回はまず、自分の中の否定的なセルフ・トークに気づくというワークをやってみましょう。
 これは、それほどむずかしいものではありません。
 1人で静かに落ち着けるところで、「落ち込んでいる時に、よく心の中でめぐっている言葉のパターンは、どん なものだろう?」と自問してみるのです。
 そうすると、何かというと自分で自分にいって落ち込ませている言葉のパターンが見つかるはずです。
 典型的な例を1ダースほどあげてみましょう。

 1 私ってダメなヤツ(最低、最悪etc)
 2 私には、いいところなんて1つもない。
 3 私は、何もできない。
 4 私って、まるでバカ(頭が悪い)。
 5 私って、まぬけ(ドジ、のろまetc)だから、どうせ何をやってもうまくできるわけない。
 6 バカみたいに思われるから、私は何もいわないでいたほうがいいんだ。
 7 私って、全然カッコ悪い。
 8 自分なんて、嫌いだ。
 9 私はだれにも愛されていない。私ってかわいそう。
 10 私なんか、生きててもしょうがない。死んだほうがいいんだ。
 11 私には、酒(あるいはタバコetc)さえあればいいんだ。あとは、どうでもいい。
 12 すべて○○(例えばアイツ)が悪いんだ。いつか仕返ししてやる。

 こういうセルフ・トークやそれに似たものが、毎日、心をめぐっていませんか?
 もし、そうだったら、落ち込まないほうが不思議くらいです。
 特に1から10は、自分で自分に意地悪をいっている。自分で自分をいじめている。自己虐待をしているので す。
 私はみなさんによくいうのですが、「自己虐待も虐待です。虐待は人権侵害です。たとえ自分のであって も、人権侵害はしてはいけないんです。人権を侵害するのは、やめましょう!」と。
 私たちは、基本的人権として、人からも自分からも虐待されない権利をもっているのではないでしょうか。
 だとしたら、自分の人権を尊重して、自分で自分にやさしくしなければならないのではありませんか?
 ネガティヴなセルフ・トークを見つけて、はっきりそれは自分への人権侵害であることに気づいて、自分 にやさしいポジティヴなセルフ・トークと取り替えて、自分の人間としての健やかに生きる権利を尊重して あげることにしませんか。
 次回、取り替え方をお伝えしますが、その前に、自分でちょっとトライしてみてください。
 例えば、「私には、いいところなんて1つもない」に対しては、事実に基づいて徹底的に反論して、「そんなこと はない! 私には、〜といういいところもあるじゃないか。〜といういいところもあるじゃなか……」と、ポジティヴ なセルフ・トークをしてみると、きっと元気が出てくると思います。






心の中の口癖を直す 1
2005年9月30日


 心の中のネガティヴな口癖を直すことを、「セルフ・トークの取替え」といいます。
 どうすればセルフ・トークを取替えられるのか、前回の典型的な例からいくつか取り上げてやってみましょう。
 まず、「私ってダメなヤツ(最低、最悪etc)」からいきます。
 自分の中にこういうセルフ・トークがあることに気づいたら、「本当に私はダメなヤツなんだろうか?」と自問し ます。
 「私はダメなヤツ」というのは、いいかえると「私=ダメなヤツ」ということですね。
 もし本当に「私=ダメなヤツ」だとしたら、私にはいいところはゼロでなければなりません。
 でも、「ダメなヤツ」といっていることの中には、自虐だけではなく反省の気持ちも一部含まれていたりしません か? そこには真面目さも含まれていませんか?
 それに、反省心や真面目さだけではなく、きっとほかにもたくさんのいいところがあるはずです。
 そうすると、事実をより正確に表現すると、「私にはダメなところもあるけれども、反省できるような心や真面目 さといういいところもある」ということになるはずですね。
 「私にはダメなところがある」という事実を「私=ダメなヤツ」と思ってしまうのを「誇大視」といいます。
 ここで「十円玉のワーク」を思い出してください。
 それは、マイナスの十円玉を目にくっつけて、視界が十円玉でいっぱいになっているだけなのに、世界が十円 玉でいっぱいだと錯覚しているのではありませんか?
 マイナスの十円玉を遠ざければ、十円玉は視界の一部、そしてさらに世界のもっと小さな一部にすぎません。
 そして、大事なことは、自分の悪いところといいところと、どちらに心を集中するのが元気になれるだろう? と いうことです。
 元気なのと元気がないのと、どちらが自己改善の意欲が出てくるでしょう?
 意欲があるのとないのとどちらが実際に改善できるでしょう?
 もう、いうまでもありませんね。
 ではまず、「確かに私にはダメなところもあるかもしれないけれど、私には反省心や真面目さや……いろいろ いいところもある」といいかえてみましょう。
 心の目の180度回転のワークです。
 さらに、「確かに」や「私にはダメなところもあるかもしれないけれど」をとって、「私には反省心や真面目さや… …いろいろいいところがある」といいかえてみましょう。
 心が少し元気になってきませんか?
 これは見る方向を変えて見るものを変えているわけです。
 嫌でなかったら、自分の中の元気がなくなる面ではなく、元気が出てくるような面を見ませんか?
 そして、心の元気が回復してきたら、「でも、ダメなところもあるから、改善しよう! 私ならきっとできる!」と自 分に言い聞かせてください。
 自己改善意欲、向上心のあるあなたなら、きっと自己改善・向上ができます!
 ちょっとおまけで、「最低」と「最悪」も取り上げておきましょう。
 「私って最低!」とセルフ・トークをする癖のある方、よかったら一緒に考えてみてください。
 「最低」とか「最悪」というのは、厳密にいうと「世界一悪い」という意味ですね。
 でも、ほんとうに、あなたは「世界一悪い」人なのですか?
 そんなこと、ありえませんよね?
 ヒトラーやアル・カポネよりひどい人なんて、そこらへんにはなかなかいませんからね。
 それよりなにより、そういうひどい、世界一悪い人がこんな自己改善のためのブログを読むなんてことはあり えない……でしょうから、読んでいるあなたは「世界一悪い」はずがない、「最低」「最悪」ではありえません。
 世界の人口は今63億人あまりだったと思いますが、あなたは「最低」つまり上から数えて63億番目なのです か? 悪いほうのランキングでは63億人中の1番なのですか?
 もちろん、そうではありませんね? あなたの上にも下にもかなりの数の人がいるはずです。
 ならば、「誇大視」して誇張された表現を使って、自己虐待するのはやめましょう。
 まず、「私には、あまりレベルが高いとはいえないところがある」と言い換えましょう。
 続いて、「でも、少しはいいところもある」と。
 さらに、「私には、いいところもある」と。
 そして、「私には、いいところがある!」と。
 前にもいいましたが、能力や長所は認めると伸びる、という法則があります。
 ダメなところに目を向け注目して落ち込むのより、いいところに目を向け注目して元気になって、もっといいと ころを伸ばすほうが、誰にとってもはるかにいい選択だと思いませんか?
 もし気に入ったら、「私はまだまだだけど、でもいいところもある。それを伸ばすこともできる。よっし、も っと向上しよう!」というセルフ・トークをやってみてください。






心の中の口癖を直す 2
2005年10月1日


 ネガティヴなセルフ・トークをポジティヴなものに取り替えるワークの続きです。
 「私には、いいところなんて1つもない」と「私は、何もできない」というセルフ・トークの消去−変換はもう簡単で すね。
 すでに能力や長所を6つ以上書き出すワークをしていますから(まだの方は過去の記事を見て、ぜひやってく ださい)、事実としてご自分には6つ以上の能力や長所があることは確認済みのはずです。
 ところが、何かのきっかけで落ち込むと、ふとこういう心の中の口癖が出てきたりします。
 そういう時には、自分に向かって「私にはいいところなんて1つもない……という気分になってるんだよね。気 持ちはよくわかるけど、でも、それは事実じゃない。事実としては、私には、好奇心、直感力、判断力、決断力、 行動力、理解力、持続力、真面目さ、向上心などなど、いいところがある。できることもいろいろある……私っ て、悪くないじゃない……どころか、けっこういいじゃない……私は、ステキだ!」と、言い換えをしていきましょ う。
 もし、こう言い換えていく途中で抵抗感がある場合、軽いものなら、少し努力をして次のところまで進んでくださ い。
 強い抵抗感があったら、無理をする必要はありません。
 落ち込んでいる自分を自分で受け容れてあげて、「そうか、今は心のエネルギーがないんだよね。じゃあ、し ばらく休もう」といってあげるといいかもしれません。
 他の、「まるでバカ」、「何をやってもできるわけない」、「何もいわないでいたほうがいい」、「全然カッコ悪い」、 「だれにも愛されてない」といったセルフ・トークもポイントは同じです。
 こうしたネガティヴなセルフ・トークによくある特徴は、「まるで」、「何をやっても」、「何も」、「全然」、「だれにも」 というふうに、非常に「誇大視」されていることです。
 ですから、ちょっと心を静めて、「本当に『まるで』なんだろうか?」、「本当に『何をやっても』なんだろう か?」……と、事実を確認していくと、「バカな部分が多い」(しかも、というような気がしている)、「うまく できないことが多い」(ような気がしている)ということにすぎないことに気づくはずです。
 そこに気づきさえすれば、あとは同じ要領で、セルフ・トークを取り替えていけばいいわけです。
 「私はまるでバカ……じゃない」→「バカじゃないところもある」→「ちょっとは賢いところもある」→「賢い ところがある」→「私は、すでにある賢いところを伸ばして、バカなところをなくしていくことができる! き っと、そうして見せるぞ!」というふうに。
 「だれにも愛されてない」、「死んだほうがいい」、「〜さえあれば、あとはどうでもいい」、「○○が悪い」なども、 基本的ポイントは同じなのですが、少し取り替えがむずかしいかもしれません。
 これらについては、この後の授業で、さらに徹底的な取替え作業に取り組んでいくことになります。ご期待くだ さい。






自信の3つのレベル


 「自信」という言葉は、「自己信頼」の略と考えることができます。
 この場合の「自己」とはどういうものかが問題になりますが、ここでは難しい哲学的な話をするつもりはありま せん。
 どうしたら「本当の自信」を得ることができるか、言い換えると「ゆるぎなき自己信頼」を獲得できるかという、実 践的な目的のために必要な範囲にかぎって、話をしたいと思います。
 まず、「自己」には、ふつうにいう「自分」つまり個人としての自己というレベルがあります。
 ここのところお話ししていたのは、この個人レベルの自己への信頼をどういうふうに確立するかという理論と技 法のことでした。
 「自己」は、ふつうそうした個人レベルの「自分」としか考えられていないことが多いのですが、実は集団の一 員としての「自分」というレベルもあり、そしてそれも非常に大切です。
 例えば、自分の家族に誇りを持てるかどうかは「自信」のあるなしに大きな影響がありますし、その他、自分の 所属する地域や組織を信頼できるかどうか、それに誇りを感じられるかどうかも影響するでしょう。
 それから、自分の国や民族を信頼し、それに誇りを持てるかどうかも、自信に関係してきます。
 近代の日本人は、自分の国や民族にあまり誇りを持てなくなって(されて)います。
 そのあたりの事情は、初めのほうの記事「崩壊の三つまたは四つの段階」で、ある程度述べたとおりです。
 集団レベル、特に国家・民族レベルの自信をどう回復するかは、非常に重要な問題であると同時に、非常に 議論の多いところです。
 そこを論じ始めるとかなり難しい問題になりますので、重要ではあるのですが、この授業では、ずっと後のほう にしたいと思っています。
 それからもう一つ。世界‐コスモスの中の「自己」に関する、世界観‐コスモロジーのレベルの問題もきわめて 重要です。
 近代人が究極のところなぜ自信が持てないか、近代化、近代主義、近代科学のコスモロジーなどについて詳 しくお話ししました。
 簡単に復習しておくと、近代科学の世界観=コスモロジーでは、「神はいない。人間とモノだけがある」から「モ ノだけがある=すべてはモノにすぎない」という考えに行き着き、その結果、自分の存在には意味がないという ニヒリズムに陥ってしまい、究極の自信喪失に到るほかない、ということでした。
 ところが、非常に喜ばしいことに、いわゆる「近代科学」と、一九世紀末から二〇世紀いっぱいをかけて形成さ れてきた、いわば「現代科学」との間は大きな飛躍があり、「現代科学」では、「すべてはモノにすぎない」というコ スモロジーは決定的に克服されているのです。
 私の考えでは、「現代科学」(の大きな合意ライン)を学ぶと、もうニヒリズムなどには陥っていられなくなるので す。
 ところが、いろいろな事情があって、日本の戦後教育では「近代科学」の大まかな成果は学校で教えられるの ですが、「現代科学」の、特にコスモロジーとしての到達点については、まったくといっていいほど教えられていま せん。
 そこで、次回から、「現代科学」の大きな合意ラインが描き出す、生きる自信をわきあがらせてくれる世界観= コスモロジーについて、必要以上に細部に入ることなく、なるべくわかりやすく全体像をお伝えしていきたいと思 います。
 このコスモロジーを学んだ多くの若者が、「世界が輝いて見えてきた」といってくれます。
 きっと、ネット学生のみなさんの多くも、そうなっていただけるでしょう。どうぞ、ご期待ください。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所