サングラハ教育・心理研究所主幹  岡野守也 




 現代は一つの大きな転換期――近代がもたらした危機

 現代という時代は一つの大きな区切りにさしかかっています。この五百年間は西欧中心・白人中心の近代文
明が発達し、それが地球全体にかなり広がり、まだ広がりきってはいませんが、圧倒的な流れになっている。
ルネッサンスや啓蒙主義の時代以来展開してきたこの文明には、大きなプラス面もあるけれど、いまマイナス
面のほうが大きく出てきて、近代のものの考え方ややり方ではもう先に進めないのではないか、という状況にな
っている時代だといえます。そういう意味で大きな区切りということです。

 マイナス面による限界が現象としてはっきり現われているいちばん大きな問題は、地球規模の環境破壊でし
ょう。「環境」といういい方そのものが実は近代的ないい方で、人間と環境を分離したいい方です。環境とは、も
ともと大きくいえば人間を包み込んだ「自然」です。人間が、その自然を自分自身が生きていくのに難しい状態
に変えてしまっている。この二百年の西欧の科学技術に基づく産業社会が、われわれの生きる基盤である自
然を生きられないところまで変えようとしている。そういう大きな問題を抱えている。個々の問題については、今
日は環境問題の講演ではないのであげませんが、地球温暖化から環境ホルモンの問題などきちんとあげられ
ているデータを読んでいくと、このままいくと人類が健康に生きていける自然環境は百年もたないだろうなという
感じがする……というか、直感ではなく、専門の学者たちの予測を聞くと、そうとう確実にそう考えられます。こ
の予測について関心のある方は「自然成長型文明に向けて」(サングラハ心理学研究所)というパンフレットを
お読みください。

 それから第二は、人類が始まってから六百万年くらいたっているという説を取るとすると、人類は、六百万年
来、仲間同士の殺し合い、つまり戦争をやめることができない。やめることができないどころか、二十世紀は、
歴史上最大規模の戦争を二度もやった時代です。第一次世界大戦と第二次世界大戦です。それでそうとう懲
りたはずなんですが、二十一世紀になっても戦争をやめられないどころか、「これは戦争です」というセリフが出
てくるような問題が現に持続している。どうしたら人類が戦争をやめられるかということについてめどがついてい
ない。

 それから第三の問題として、心の問題があるわけです。それは先進国で、特に日本で顕著だと思いますが、
生きることの意味、というか人間は生きれば必ず死ぬわけですから、生きることと死ぬことの意味、それから、
人間は、なぜ陰に隠れて人をだましてはいけないか、なぜ人を殺してはいけないか、なぜ悪いことをしてはいけ
ないのか、といったことがわからなくなっている。要するに意味と倫理が見失われている。神さまもいなければ、
絶対のものもないから、絶対の善悪も生死の意味もない、というようなものの考え方を「ニヒリズム」(これはニ
ーチェの用法とちがう一般的な意味で使っていますが、専門的な問題になるのでふれません)といいます。

 現象として現われていることをあげると、もっとたくさんの問題がありますが、最大の、環境破壊と戦争とニヒ
リズムという三つの問題は、人類がずっと解決できないどころか、特にニヒリズムというのは近代の心の問題で
あり、これらを解決できないで二十一世紀に持ち越して、いまだにどうしたらいいかわからないという状態のな
かで、多くの人が未来に不安を感じている。あるいは不安どころか絶望を感じるという方もずいぶんおられるよ
うです。

 いろいろなところで講演をさせていただくと、話が終わったあと、「実をいうと話を聞くまでは絶望していたので
すが」という方がたくさんいらっしゃる。比較的高齢の人は、絶望しかかっているけれど、「少なくともおれが生き
ている間は大丈夫だろう」と思っておられる方が多いようですが、これは率直にいって少し無責任なのではない
でしょうか。

 環境問題についていえば、多くの専門家たちがまず一回目の億単位の餓死者が出るような危機が二〇二〇
年ころに起こるとはっきり予測しています。これは国連関係あるいは日本の環境関係の学者たちがきちんとし
たデータに基づいていっていることです。そのあたりに関心のある方は、石弘之氏――東大の環境の先生で国
連の委員も勤めた方ですが――が、岩波新書で『地球環境報告U』という本を書いておられて、これを読んで
みると、いま世界の環境がどのくらいすごいことになっているか、専門家は真剣に警告しているのに、政治家や
経済人や市民はそれほど真剣に対応していないことがわかると思います。

 ともかく、こうした問題の根っこは主としてほとんど近代的な世界観にあると思うのです。


 コスモロジーとは、その意義とは

 今日の講演のタイトルに「コスモロジー」という言葉を使ったのはなぜかといいますと、「世界観」というと、特別
の学者や哲学者にとっての問題で、私には関係ないという感じがしてしまうからです。しかし私たちは、生きて
いくには、無意識のうちに世界はこうなっていて、人間というのはこういうものだ、だからこういうふうに生きなけ
ればいけないという、ある考え方のまとまりを自分の中にもっている必要があります。だから一貫した行動がで
きるわけです。そういう意味で、世界がどうなっているかという世界観、人生とはどういうものか、したがって何
が価値があり何が価値がないかという、善悪を含めての価値観、それがセットになっているシステムのことを、
人類学や宗教哲学では「コスモロジー」といいます。コスモスというのは宇宙、あるいは秩序のことですが、そう
いう意味で私たちの心がある一定の一貫した秩序ある行動ができるのは、自分の心の中に自分なりのコスモ
ロジーがあるからで、そうでないと生きられません。

 人間が他の生物と決定的に違う点は、生まれてすぐ自分がどういうふうにすればきちんと生きられるかという
ことがわかる本能がないということです。「本能」というとしばしば悪いもののように思われていますが、それは
「衝動」というべきで、本能というのは本来もっている能力です。生物の場合、複雑さが少ないほうがかえって、
生まれてすぐ自分がどう生きていったらいいかを知っています。例えばある種の虫は、卵から孵ったら自分が
どの葉っぱを食べたらいいか知っている。どうやったら雌雄お互いを見つけて子孫を作ることができるかもわ
かる。教えなくても、きちんと知っている。けれど人間は、生まれたばかりの時はほとんど何もわかりません。口
の中に入ってくる食べ物が毒物かどうかの区別もつかない。だから小さいときにお母さんかお母さん代理に、
「これまんまよ。こればっちばっちよ」と、きちんと言葉を使って世界はどうなっているのかを教えてもらわないと
生きていけない。そのときにお母さんは、無意識のうちにもっている世界観・価値観、つまりコスモロジーを子ど
もに伝えていくわけです。そういうかたちで私たちは、小さいうちに親や周りの人から世界はどういうものであ
り、人生はどういうものであり、だから何に価値があって何に価値がないかを教わりながら、それを身に付けて
いくことによって生きられるようになる。人間というのはそういう生物であるわけです。

 近代は社会のベースに近代的コスモロジーが共通の常識として存在していて、そのコスモロジーには先ほど
いいましたように非常にプラス面がある。この五百年あるいは二百年、うまく機能してきたんです。だから、どん
どん近代化することはいいことだと思ってきたし、いまだに思っている人がいっぱいいるんですが、その近代の
コスモロジーのマイナス面がいまだんだん出てきているわけです。


 近代のコスモロジーのプラス面

 まず、プラス面を大まかに説明します。近代ではものを考えるとき非常に理性的に考える。それ以前は、古い
ところで呪術的、もうすこし近代に近いところで神話的で、いずれにせよ科学で検証できるような、事実として確
認できて、誰もが共有できるという理性的な手続きが近代までは確立していなかった。ところが近代は方法とし
てそれをはっきり確立した。そのことによって自然を理性的に捉えることができるようになって、自然を科学的
にしっかりと分析することで自然の仕組みが分かると、それをどう変えたらいいかも分かってくる。そこで技術
が飛躍的に発展した。科学と技術が発展してくると、それに基づいていままでなかった産業が生まれる。そし
て、そういう能力は基本的に誰にもあるから人間は基本的に理性的な存在であり、人間には価値があるという
人権の思想が近代になって確立したわけです。それが、理論的な説得力もあり、産業的な力も、さらに軍事力
もあるため、植民地化というかたちで、近代のコスモロジーが世界に輸出されていきました。西欧型の近代的
なものの考え方がいちおうスタンダードであるということが、この五百年から二百年かかって行き渡りつつある
わけです。

 いまどこの国も人権を無視することはできないし、理性的でない神話的、呪術的なものの考え方を、「われわ
れはこう信じているんだから、科学で検証されようがされまいがかまわない」と全面的に打ち出して、国際社会
で押し通す国もなくなったわけです。植民地化をベースにしながら、地球化が進んできた。それがうまくいくと、
地球の一体化になるんですが。いまのところ、「グローバリゼーション」というとかっこはいいんですが、利害関
係でいっぱい対立しながら、争いながら、それでも結局はつながってしまっている状態で、これでは「一体化」と
はいえません。しかし、対立しながら、戦争をしながらでも付き合うしかないという地球化が進んでいます。近代
以前は、それぞれの民族、文明、国家がかなりの独立性をもってそれぞれにやっていたんですが、もう世界を
視野に入れないで自分のことだけを考えるというのは不可能になっている。そういうことが、この五百年あるい
は二百年かかって進んできたのです。これが、全体として見た近代のプラスということになります。

 このプラス面はもう後戻りができないくらいの大きな意味があって、近代化が進んだ国では、いくら神話的・宗
教的な世界観が安らぎがあるからといっても、理性を捨てて宗教に戻ることはもうできないという状態になって
います。しかし、神話的な宗教をしっかりと信じることによって国を確立しようという国もあって、やっかいな問題
になっているわけですが、それはまたあとでふれることにします。


 近代のコスモロジーのマイナス面

 マイナス面についてもう一度整理しますと、科学技術が進み、産業化が進み、その結果として二十世紀は何
をやったかというと、植民地獲得戦争をやったんですね。第一次大戦と第二次大戦は、基本的には先進諸国
の植民地獲得競争が原因でしょう。そしてそのときできた矛盾が解消しないまま、また新しい矛盾を生み出すと
いうかたちで、戦争をやめることができない。それとかかわって、科学技術のうちの軍事技術が大展開するな
かで、人類が完全に自滅することができる核兵器が登場してしまいました。一応米ソ対立が終わって核の危機
が去ったかのように考えている方がいると思いますが、いま人類はいまだに全部を爆発させると地球の表面を
全部焦土にしてなお余りある核をもっている。どのくらい余りあるかというと、数十回全地球を焦土にするだけ
の核兵器が残されている。「核廃絶」とかいって何とかしようとしているけれど、ちっともできていない。

 それから先ほどの環境破壊、これが実に危機的な状況にある。例えばここ数年、南極にも北極にもオゾン層
の大きな穴があいていてちっとも小さくならない。去年は北極のオゾン層の穴が北海道あたりまで来ていたよう
ですが、日本ではあまり大きく発表するとパニックになるからでしょうか、公共的な気象機関では大きくは報道し
なかったようです。

 それからもう一つがニヒリズムの問題です。とにかく中学生が「どうして人を殺しちゃいけないの」と公の場で
言って、先生方がそれに対してきちんとした答えができない。そういう状況に日本の思想界や教育界がなって
いる。みなさんは、若い世代の人から、「どうして人を殺してはいけないの」と訊かれたらきちんと説得できるだ
けの論拠を自分の中にもっているとお感じでしょうか。いろんな講演会でお聞きするんですが、「そんなことは決
まっているだろう」という以上の、きちんと三十分か一時間言って聞かせて、子供を「ああそうだったのか」と納
得させる自信のある方はほとんどいないみたいです。

 大人はよくわかっていないけど、これまでの習慣で「あまり悪いことはしないようにしようかな」なんていいなが
ら、実はけっこう脱税をしてみたり、いろんなごまかしをやって、「誰も見ちゃいないからばれないだろう」と思っ
ていたりする。そういう大人を見ながら育つと、子どもも「陰で悪いことをすれば、ばれないだろう」と思ってやっ
てしまう。それどころか、「ばれてもオレが強ければやっつけられないからいいだろう」、さらに「人間どうせ死ん
じゃうんだから、死刑になってもいいから悪いことをやりたいだけやりたい」といいもし、実際やるという若い世
代が出てきている。

 こういう状況が近代の大きなマイナス面です。どういうところからこれが出てきたのか、これからお話ししてい
きます。


 近代のコスモロジーはばらばら思考

 近代的なものの考え方、価値観の体系の基本は、わかりやすくいえば「ばらばら思考」です。すべてのものを
ばらばらにして考えていくというやり方です。これは、日常的に私たちは当たり前のことと思っているので、言わ
れてみるまでなかなか気がつかない。たとえば、今日みなさんがここに来られたことについて、「私が来たいか
ら来たのであり、それでここにいるんだ」とたぶん頭から思っている。今日は自分が興味があって自分で決め
て、歩いてきたか車に乗ってきたかのどちらかでしょう。それは全部間違いではないですが、根本的なところで
ものすごく限られた考え方なんです。

 私がここにいるためには、人として生きていなければならない。生きているためには、お父さんとお母さんが
いなければいけない。でもそれをいちいち感じている人は、まずいませんね。ここに電車で来られた方は、電車
の運転手さんが運転してくれないと来られなかった。車に乗ってきたという方は、車を作った自動車会社の人
がいないと車に乗れなかった。今、みなさんは「オレはオレで生きている」と思っているでしょうが、十分間くらい
息を止めると、脳がほとんど回復不可能なダメージを受けて死んでしまいます。私がいまここにいるのは、空気
があって、水があって、食べ物があって、父母のご先祖がいて……そういう数限りないつながりが、いま私がこ
こにいることを可能にしている。ところが近代の考え方は、「私は私だけでいるんだ」と、他の人や他のものとの
つながりを無視して「私だけで存在するんだ」というばらばら思考になっている。


 主客分離と還元主義

 これをもっと大きな思想の流れとして見ますと、近代の科学の基本的な方法は対象化・客観化ということにな
る。これは観察される対象と観察する主体が分離していることが前提になっていて、主体がどう思うかに関係な
く客観的にものを見るということが科学の基本的方法になっている。それを「主客分離」といいますが、主客分
離という方法を前提として近代の科学はものを考えてきた。それが一定の有効性をもっていた。

 さらに、客体そのもの・観察されるものを分析する、ばらばらにする。それがどういう構成要素からなっている
か分かったら、「分かった」というわけです。分析のあと総合をやらなければいけないんですが、分析で終わっ
てしまうことがしばしばで、特に世界に関しては総合ということがなされていない。

 「専門分野」とか「他の分野」とよくいいますが、「分ける」という字を使っています。ばらばらに分けてしまう。
「私の専門分野はここですから」と、ここだけを勉強する。「そっちのことは知りません。知らなくてもいいんです」
と。近代ではこれでよかった。むしろその方が専門家として信用できる。しかしそれでは、他とのつながりが見
えなくなってしまう。それでも、主客分離の方法で理性・科学を押し進めて、それを実用化するとすばらしい技術
ができる。それをとことん進めると、遺伝子のことまで分子のレベルで理解ができるようになる。これを進めた
らこの先どういうことになるか、こわいですね。でも科学者も技術者もやめない、やめられない。

 そういうふうに「ばらばら思考」でものを見ていくと、分析した最後のところは一応原子のところまでくる。原子
という言葉自体が「いちばんもと」という意味なんですが、近代では「すべては原子でできている」と見なすことに
なった。つまり、「すべては原子という物質から成り立っている」と。物質科学主義です。すべてを物質に還元す
ると、それで客観的で正しい世界の姿が見えるんだと深く思い込んで、近代は科学を進めてきて、一定程度は
みごとに成功したわけです。いまだに成果がたくさんあがるものですから、ずっとこれでやっていけると思ってい
る科学者、技術者、産業人もたくさんいるようです。そして、「産業のほうが環境より重要だ」と。


 個人主義と個別集団主義

 それからこれを人間に当てはめていくと、人間も最後のところは「原子からできている有機体の細胞の集合
体にすぎない」と考えられてしまう。そこまでいうと、人間も物質の集まりということでむなしくなってしまうので、
一応、いのちは別だということにして、それが実体的な見方と重なると、人間が全部個人に見えてくる。

 先ほど申し上げたとおり、本当は個人なんて存在しないんです。自分だけで存在しているという意味での「個
人」は存在していない。親がいない人はいませんし、空気を吸わないでいられる人もいません。他の植物や動
物を食べものとして取り込むということをさせてもらわないと生きていられませんから、そういう意味で、他とつな
がりのない、「私だけで存在する私」という「個人」はどこにもいない。

 ところが、個人がいることにして、近代は個人主義的な道をとったというか、すべての権利や価値の根源は個
人にあると考え始めたんです。

 そういう経緯で、われわれは生まれたときからそういう教育を受けた世代なんですが、思想的には「個人がい
ちばん大事なのであって、家族とか社会とか、ましてご先祖さまなどはどうでもいいんだ」となる。「どうでもいい」
と教わるから、子どもは「どうでもいい」と思うわけです。

 大学で講義をするとき最初に学生さんに訊くんですが、みんな自分で考えて自分が大事と思っている、と思っ
ています。しかし本当はそうではなくて、近代的な教育を受けて、小さいときからそういうふうに教えられたから
そう思い込んでいるんです。

 「すべてのものを原子に還元してしまうことが正しいものの見方だ」、「すべての人間が生きていることの権利
や根拠は個人にある」、こう教わってきたんですが、これは実はアメリカの合理主義・科学主義と個人主義的な
民主主義の決定的な影響です。しかもたまたま影響を受けたのではなく、アメリカが戦後の言論政策として徹
底的に日本人に教え込んだことです。

 そういうふうに近代的に考えると、個人は近代的個人ということになる。それでも人間は集団ということがあり
ますから、外に対しては個別集団ということになる。それは、例えば「うちの会社が儲かれば、環境が汚れよう
がそんなことは関係ない」という発想になる。「我が国がうまくやっていけば、他の国は知ったことじゃない」とい
う本音をもっている国はいっぱいあるようです。「国際社会の平和のほうが、我が国の利益より大事です」という
ことをはっきり言って行動する国はあるのでしょうか。「国際的な調和も必要だけど、まずうちの国益です」と言
っていますね、公式見解として。こういうことが当たり前になっているのが近代国家です(国家のエゴイズムは
近代に始まったことではありませんが)。

 近代はつきつめると、個別のもの、人間でいうと個人、集団単位でいうと、うちの組織、会社、うちの国がいち
ばん大事ということになる。そういう個別のものが存在するすべてだと。すべてを分析するとそう見えるんです
が、本当にそうではない。

 念をおしますと、個別の集団が完全に分離していると思っていて、そして利害が対立すると、戦争をせざるを
えません。戦争ってなぜ起こるかというと、お互い関係ないところで離れていると戦争しようがないんです。一緒
の場にいながら対立をし、分離しているという心のあり方を国同士がもっていないと起こらない。心は関係ない
と思うでしょうが、戦争を起こしているのは、私にいわせると心です。「うちの国益とおまえのところの国益が対
立する」と心で思う。その指導者たちが、お互い「相手を倒せ」と思う。これは心の問題、価値観の問題であり、
コスモロジーの問題です。つまり「人類の平和よりも、私の国を守ることの方が大事」というコスモロジーをみん
な信じている。世界の指導者たちが、そういうことを信じている限り、平和は決してやってこないでしょうね。


 自然との分離

 それから近代は、人間と自然を分離してしまいました。「自然資源」という言葉が示すように、自然を資源とし
て一方的に勝手に使っていい物だと思った。それで、資源は枯渇しかかっている。そのくせ、自然は自己浄化
能力を無限にもっていると思っている。ところが、無限にもってなんかいなかった。資源も有限、浄化能力も有
限。そういう自然に対して、人間は「資源」とか「環境」と呼んで、自分と分離した存在として、「人間は、それを
勝手に変えたり利用したりしていいんだ」と深く思いこんで、それを徹底的にやってきたのがこの二百年です。
自分の足元を壊して、自分の吸っている空気が汚くなる。自分の飲む水が汚れてきている。自分の食べる食
べ物が汚染されてきている。

 医学的にはまだ解明されてないでしょうが、統計的に考えて、子どもたちの圧倒的なアトピーの増加は、どう
考えても水と空気と食べ物の汚染が主要な原因だと思うのですが、いかがでしょうか。そうでないとしても、これ
らの汚染が人間のさまざまの細胞を侵して、現代的な病気の潜在的な原因になっていることはほぼ疑いようが
ない。この汚染が止まりそうにありませんから、当然、今後は人類のこのような汚染による病気が増えてくる。
医者の需要はますます増えるわけでしょうが、人類が存続している限りの健康ですから、どうなることでしょう
か。お説教をして申し訳ないのですが、人を癒すというだけでなく、社会を癒すという仕事を、お医者さまが是非
やって、協力していただきたいと思います。個人を癒すだけでは間に合わない時代がきています。


 死んだら灰になる

 それから、生命というものをすべて分析、還元してしまうと、人間が生きているということは物質の組み合わせ
の運動ですから、石ころが転がっているのと、物質という意味では何ら変わらない。ということは、石を割って悪
いといえないように、人を殺しても悪いといえない。硬い石と柔らかい石がぶつかって柔らかい石が割れたとし
て、別に硬い石が悪だということにはならない。強い人間という物体がいて、弱い人間という物体がいて、強い
人間が弱い人間を殺したとする。「物体が物体を変化させただけで何が悪い。力関係でしょう」となります。子ど
もたちに、「全部物質なんでしょう。物質を変えて、どうして悪いの」といわれたとき、「こうなんだよ」となかなか
いいにくい。

 生きているという実感をもつのは心ですけど、すべて物質ですから死んでしまうともとの分子や物質に解体し
ていきますね。そういう風に考えるわけです、還元主義というのは。

 私は、学生に訊くんですけど、「君たち本音でいって、死んだらどうなると思ってる」って。代表的な答えは、
「死んだら灰になる」。日本は火葬文化ですから灰になりますが、欧米では灰にならないんですが……。それか
ら、心が消えてしまって個人性というレベルではなくなるわけですから、「無になる」と思っている学生も多いよう
です。もう一ついくらか救いがあるのは「土に帰る」です。こういうのが七割から九割で、「魂があって生きつづけ
る」とか、「輪廻転生みたいなものがあるんじゃないかな」とか、「そう信じたい」と、頼りなげにいうのが一割から
三割です。

 「死んだら無になる」と思っていたら、「生きている間しか意味がない」と思うことになりますね。しかも個人主義
的民主主義で、「自分がいちばん大事だ」と思ってる。学生たちに「本音でいって、君たち、自分がいちばん大
事だと思っているんじゃない」と訊くと、死んだらどうなるかという質問のときよりきつい答えが返ってくる。「先生
だってそうでしょう。どうしていけないんですか」と。今の若い世代は、「自分がいちばん大事というのは、人間に
とって当然のことだ」と考えているのが九割以上です。


 昔の日本人は自分がいちばん大事ではなかった

 しかし日本人全体が昔からそう思っていたかというと、個人よりも家のほうが大事、国のほうが大事と思って
いた時代がついこの間まであったんです。自分がいちばん大事だと国民のほとんどが思い始めたのは戦後五
十年、特に最近です。

 でも、本当に人間って自分がいちばん大事なんでしょうか。だとしたら例えば、江戸時代のご先祖さまは百
年、二百年後の子孫が切り出すために、自分には何の得もないのに山に汗を流して木を植えてずっと世話を
していた。自分がいちばん大事だと思ったら、何でそんなことをするんでしょう。ご先祖さまにとっては、自分と
子孫のいのちのつながりのほうが個人よりも大事だったのではないでしょうか。もし私たちが、私のいのちより
も……「よりも」というと全体主義になりますから、「同じくらい」といい換えましょう。自分と子孫が同じくらい大事
だと思っていなかったら、これから持続可能な社会をつくるために親の世代で必死になんかなれません。

 いま日本では、本音で自分がいちばん大事だと思っている人が多いために、国民の大半は百年、二百年後
の子孫のために日本と世界を何としても持続可能な社会にしようという情熱的な行動をやっていないと思いま
す。

 しかし私たちの先祖さまって、そんなに無責任だったんでしょうか。昔のご先祖さまはそうではなかった。だか
ら私たちがここにいる。なのに私たちはそういう先祖たちを見習わなくていいんですか。自分がいちばん大事で
いいんですか。実をいうと、この講演ではそういうことをいちばんいいたい。

 ただ、それを心から納得するためにはコスモロジーが必要なので、残りの時間、コスモロジーの話をしていき
たいと思います。


 近代以前のコスモロジーはつながり―かさなり思考

 いま簡単に、近代以前のコスモロジーの話をしましたが、近代以前のコスモロジーの基本は、つながりとかさ
なりを大事にする思考でした。日本では神さまと仏さまと天地自然とご先祖さま、それ全部と私とのつながりが
大事でした。ということは、私はいま子孫ですけど、子どもにとっては先祖で、この先の子どもの子どもの子ども
にとってはご先祖さまになる。私たちは全員、ご先祖さま予備軍です。

 これをいうと、老人クラブですごく受けます。「みなさん、死んだら無になるとか、灰になると思っているでしょう
が、違うんです。死んだら、ご先祖さまになるんです。私たち一人一人、死んだら、ご先祖さまになります。でも、
ご先祖さまには、いいご先祖さまと悪いご先祖さまがありましてね、子孫に悪いカルマ・悪い業を残すご先祖さ
まと、いいカルマを残すご先祖さまがいて、みなさんがどっちのご先祖さまになるかは、生前の行為によって決
まるんです。だから八十になったから私にはもうやることがありませんなんて、そんなことないんです。あと残さ
れた人生をどうやって子孫たちのために手本になれるよう生きるかっていうのは、大変なカルマなんです。それ
を残せるかどうかで、あなたがいいご先祖さまになるかどうか決まってくるので、八十だから九十だからもうや
ることはないなんて、とんでもない話です。いくつになっても、あるいはいくつの時でも、私たちは子孫に対して
責任をもたなければいけない」……と。

 戦後生まれの講師から先祖崇拝の話を聞くことになるとは思わなかったかも知りませんが、私も最近、再発
見したんです、実をいって。とても大事だったんですね。先祖崇拝というのは日本人の心の支えだったんです
が、これからも支えでなければいけないと思う。ただし、今までは直系の先祖だけを崇拝していたので、本当は
ご先祖さまはお父さんとお母さんのそれぞれのご先祖さまがいて、直系だけでなくすべてのご先祖さまを敬うと
いうのでなければいけない。先祖を敬い、そして子孫を思うということは、人間にとっていちばん大事なことのは
ずです。戦後の個人主義、民主主義は、確かにそれ以前の人権無視的な部分を改善するという意味ではプラ
スでした。そういうプラス部分をやめてはいけません。しかし、それが最善の人間観ではありません。人間はば
らばらの個人で存在しているんじゃなくて、いのちのつながりの中で存在しているわけです。かつての日本人
は、もっともっとすべてのものとのつながりとかさなりのコスモロジーの心を高くもって生きていたんです。戦前
の方、それから明治以前の方は。


 近代科学から現代科学への質的なジャンプ

 しかし、いまみなさんがたとえば「西の方に十万億土行ったら、極楽浄土がある」といわれても、西の方にずっ
と行ったら地球を一周して元に戻ってくることを知っているから、そういう神話的なコスモロジーはいまさら信じら
れない。では近代的なばらばら思考に基づいたコスモロジーがいちばん客観的で科学的なものの考え方なの
かというと、早めにいうとアインシュタインの相対性理論の一九〇五年から始まって、特に一九六〇〜七〇年
代にベルギーのプリゴジーヌという科学者が、ものはすべてただ漠然と存在しているんじゃなくて自己組織化能
力をもっているということを明らかにしてノーベル賞を取って以来、はっきりと近代科学と現代科学の間には質
的なジャンプが起こっている。

 しかし私たちは、学校ではほとんど近代科学を学んでいて、現代科学を学んでいません。そのため現代科学
的なコスモロジーがきちっと頭に入っていない。しかし現代的な科学のレベルでは、もう「つながり―かさなりコ
スモロジー」が標準的な仮説です。

 前近代的コスモロジーと近代的コスモロジーのプラス面を統合できる新しいコスモロジーについて、ごく大まか
にお話しします。


 宇宙の始まりはすべてが一つ、いまも宇宙は一つ

 いま標準的な科学のいちばん大きなスケールの話は、宇宙論ですが、宇宙には始めがあったということにな
っている。宇宙はある時に始まったんです。一五〇億年くらい前に。いろいろ説があるようですが、標準的には
一五〇億年です(二〇〇三年NASAのデータを元に一三七+−二億年と言われるようになりました――補
注)。一五〇億年前には宇宙は私たちの目で見ることができない大きさの凝縮されたものだった。どのくらいの
大きさかというと、一〇のマイナス三四乗センチ。ミクロン、ナノという単位よりはるかに小さい。それに全部凝
縮されたエネルギーの玉だった。外側が気になるんですが、科学ではその外というのはない。時間と空間と物
質にもまだならないエネルギーのかたちで、全部そこに込められていたということになっています。

 高校の教員研修の講演でこういう話をしたら、物理の先生に、「そんなことはとっくに知っているよ」と怒られた
ことがありました。知っておられるのはいいんですが、「それが人生論としてもっている意味を生徒さんにちゃん
と伝えておられますか」と伺うと、それはしておられなかったようです。

 どういう意味をもっているかというと、いま宇宙に存在する物質も時間も全部昔、つまり一五〇億年前は一つ
だったということです。

 ここに小さな小さなゴム風船があるとします。これをものすごく大きくふくらませたと想像してください。最初の
大きさからは想像もつかないほど大きくふくらんだと。そのとき、ちょっと伺いますが、風船の数はいくつになっ
たでしょう。……答えをいってしまいますが、一つのものは、いくらふくらんでも一つのままです。一つだった宇
宙はいまだに一つです。ということは、ここにいる私たちは全部宇宙の一部として、元々一つの宇宙の中の一
部として、いまだに一つだということです。分離していると思うかもしれませんが、それは区分できるかたちにな
っているだけであって、分離などしていないのです。その証拠を今から考えましょう。


 私と宇宙のすべてのものはつながっている

 みなさん自分でそこに座っているとお思いでしょうけど、そうやって座るには椅子がいります。椅子の足を支え
る床がいるんです。その床がきちんと床として機能するためには、建物全体がきちんとしていないといけない。
建物が建っているためには、大地がなければならない。この宇都宮市が大地としてあるためには、関東地方全
体につながっていなければならない。ここだけ宙に浮いて大地をやっているわけじゃない。……もうそろそろわ
かっていただいていると思いますが、いま私がここにいるのは地球全体が存在しているから存在しているわけ
です。もう前々からわかっている方はお説教だと思わないで、復習だと思って聞いてください。誰もがいわれた
ら気がつくけど気がついていないことがある。学校で、親から、マスコミから、教わらなかったから気がつかなか
ったけど、教わると、誰でも事実として認めざるをえない事実があるんです。

 いま地球が地球として存在するためには、太陽がないといけない。空間と重力のつながりがないと、こういう
かたちで存在しえません。それどころか、たぶん五〇億年くらい前は地球と太陽は同じ一つの星の塊だったよ
うです。いまの惑星科学のかなり確実な仮説です。それから、太陽系が太陽系として存在するためには、われ
われがいる天の川銀河全体との質量や重力の関係性が必要です。いまこの瞬間天の川銀河全体が存在する
のは、他の銀河や他の目に見えない物質・ダークマターなど全宇宙の全質量を前提にしてのことです。これが
ないと、銀河は銀河でありえない、太陽系は太陽系でありえない、地球は地球でありえないし、私は私ではな
い。この瞬間、私と宇宙はつながって一つである。しかし、このことを教わっていない。これは現代科学の話を
しているんです。宗教の話をしているんじゃないです。昔の宗教が伝えていた「天地自然と人間は一体だ」とい
う話を、いま科学がはっきりと確認し始めている。


 私たちは太陽の子

 もう少し話しますと、まず一五〇億年前に、バーンと爆発的に拡がり始めた宇宙なんですが、最初はエネル
ギーだけがあった。エネルギーの拡がり方にゆらぎ――専門用語でゆらぎといいますが、ようするにばらつき
があり、エネルギーの濃いところと薄いところができた。濃いところが物質になり薄いところが空間になった。私
たちは、物質ははじめから完全に物質だと思っているけれど、物質も時間も空間も元は一つのエネルギーだっ
たわけです。それがだんだん一五〇億年くらいかかって銀河をいっぱい創ってきた。われわれの天の川銀河
がだいたい一〇〇億年前に誕生したといわれてます。その一〇〇億年前の天の川銀河が存在しなかったら、
私はここにいないんですね。銀河は私たちのご先祖さまです。

 それから太陽系ができた。太陽系は私たちのご先祖さまです。現に私たちが生きているエネルギー源は全部
太陽から来ている。私がしゃべっているのも、みなさんが椅子にちゃんと座っていられるのも、エネルギーを太
陽から植物、そして植物から動物、それらが食べ物として私の体に、というふうにもらっているからなんです。私
たちのいのちの根源は太陽にある。私たちは一人残らず、科学的にいって「太陽の子」です。童話やロマンチ
ックな話ではなくて、科学的に太陽の子なんです。このことを大人も自覚し、子どもに伝えられる時代がやって
来ている。学校の授業で、「私たちは太陽の子です」と教えていいんです、科学として。宗教じゃなく、説教として
じゃなく、文学としてでもなく。


 すべての生きものは親戚同士

 私たちはもちろん地球の子でもあります。この地球上の過去の海の中で発生したただ一つの生細胞から分
化―進化してきて、すべての生命になっているらしい。少なく見積もっても二〇〇万種、おそらく発見されていな
い種類を合わせると、どう考えても二五〇〇万種以上。それから最近、土中に非常に複雑なバクテリアがいっ
ぱいいることがわかってきた。これを含めるともっとすごい。そういう無数の生命がこの地球に存在しているん
ですが、遺伝子を調べると――これは近代科学がやはり優れているところ、分析が優れているところで――遺
伝子の類似性を家系図のように整理していくと、全部一つの生命に集約されそうだ、というのが遺伝子研究の
生物学の有力な仮説です。単数ではなくて、若干の複数ではないかという説を唱えている学者もいます。しか
し、主流の学説では、たった一つの生物からすべての生物が進化して分かれてきている。

 だとすると、すべての生物は親戚です。論理的に親戚なんです。まあ遠縁ですけどね。遠縁の仲から近い親
戚までいますけど、全部親戚なんです。それはそうですよね、宇宙と天の川銀河と太陽系がご先祖さまなんだ
から、みんな親戚に決まってますけど、生命レベルでいっても親戚なんです。小さいときから、「親戚と仲良くし
ようね」とか「親戚を大事にしようね」と教えていない子どもに、「すべての生命は親戚だから仲良くしようね」とい
っても実感ないかもしれませんが、すべての生命は家族です。これを科学的に語れる。私はこのことがわかっ
てきたとき、すごく感動しました。もう宗教の話でなく、科学の話です。すべての生命はきょうだいなんです。これ
はすごいことだなと。

 それなのに、他の生命の都合を無視して人間だけが勝手な繁栄という名前のことをやっていいんでしょうか。
本当に繁栄するのならまだいいんですけど、繁栄の極みに滅亡しそうな、そういうバカを続けていていいんでし
ょうか。いいわけないですよね。ビッグバンの昔からいまの私まで全部宇宙がつながっていると本当にわかっ
たら、環境破壊はやれない。仲間とどうして戦争するんでしょう。親戚と親戚がケンカする、嫌がらせするとか、
きょうだいケンカとかいうのは、おろかですよね。わかったら戦争できない。何とか主義とか、何とか教とか、う
ちの国益とかいってると、戦争せざるをえない。みんなみんなつながったいのちだって、心の底から思ったら戦
争できません。しないんじゃなく、できない。しないんじゃなく、できないというところが大事です。本当にわかった
ら殺せますか。悪いことをしちゃいけないんじゃなくて、できない。したくなくなる。


 ビッグバンの前はどうなっていたのか

 それで、宇宙の進化史ですが、ビッグバンの前が気になるんですが、ビッグバンの前を考えた物理学者もい
まして、かなり定説になりかかっているのは、エネルギーの塊の前はどうだったかというと、エネルギーでさえも
なかった。空間でも、時間でも、物質でも、エネルギーでもないとしたら、これを何と呼ぶんでしょう。「無」としか
いいようがない。ビレンキンという超一流の物理学者などがはっきりと、「宇宙は無から始まった」といっていま
す。


 宇宙は自己組織化・自己複雑化してきた

 生命の進化の話に戻りますが、個体のレベルでいうと、自己複製能力をもった生命体がやがて内部にはっき
りとした核をもった真核生物に進化します。これがいわゆる細胞ですが、これが多細胞生物まで進化して器官
ができたわけですが、その器官の複雑化がやがて脳を生み出した。そしてついに人間の脳というところまで複
雑化が進んだんです。こういうことを現代の科学では「自己組織化・自己複雑化」といいます。なぜ自己組織化
というかというと、宇宙自身がしているからです。宇宙が自らをそういうふうに複雑化・組織化させている。

 宇宙の自己組織化・複雑化は個体レベルではそういうふうになっていて、それから集まりレベルでいいます
と、原子の集まりが星になり、星の集まりが銀河になり、これが銀河群とか、その銀河群がまた集まって大きな
銀河団をつくっていって、とにかくいまわれわれが観測できる範囲で、銀河が最低二〇〇〇億、多めに計算す
ると一兆くらいある。私たちの天の川銀河は太陽クラス以上の大きさの星……それ以下の星は計算しないで、
太陽クラスの星が少なくても一〇〇〇億、多めに見て二〇〇〇億くらいある。これが私たちが夜見る天の川な
んですね。その中の一角に私たちは存在している。どう考えてもそう、私たちは宇宙の一部なんです。私がここ
にいて宇宙がむこうにある、というのが近代科学なんです。いまだに近代科学をやっているマスコミでは、例え
ば「宇宙飛行士が宇宙空間に出ました」とかいっている。あれを聞きながら、私は「地球も宇宙じゃないのかい」
と思うんです。みなさん宇宙というと、暗い星空が宇宙だと思うでしょう。でもここも宇宙なんです。みなさん一人
一人が宇宙。しかもその宇宙はすごいかたちで宇宙。

 その話を続ける前に一息入れて水を飲みます。


 私でなかったものが私になり、私でなくなっていく

 いまから水を飲みますが、水は私でしょうか。……返事がありませんが、常識的にいうと水は私ではないです
よね。いま、飲みます。体の中に入る。入ったらどうなるでしょう。体の細胞の中の水分になります。私の体の
中の細胞の中の水は私でしょうか、私でないでしょうか。私が細胞をもっていたり、水分をもっていたりするんで
しょうか。それとも私の細胞の中の水は私の一部でしょうか。……私の一部ですよね。私はいままで何千人も
の方にこの話をしてきましたけど、たった一人だけ「やっぱり違うよ」と突っぱる方がいましたが、みなさんいか
がですか。

 しかし、これはいつまでも私の一部にとどまってはいません。とどまったら水ぶくれになって死んでしまいま
す。おしっこや汗やツバで出ていかないと。している最中、自分のおしっこだという責任感はちょっとあるでしょう
けど、ざっと流したあとはもう私じゃないと思う。さっきまで私だったんですが。

 そうすると私というのは、水レベルで考えても、私じゃなかったものが私になるというプロセスですね。呼吸も
そうです。私を構成しているすべての原子がそうです。プロセスとして、私でなかったものが私になり、私であっ
たものが私でなくなっていく。その瞬間瞬間はつながっている。

 私はいま、空気を吐いてしゃべって、空気を吸って生きているんですが、さっきから一時間以上たっていま
す。空気は部屋中で混じり合いますから、みな同じ部屋の空気を吸っているんですね。この話をすると特に若
い女性は嫌がりますが、でもそうなんです。たぶんさっき私の肺に入っていた窒素とか酸素や炭酸ガスをみな
さんお吸いになっている。私もそうです。いやでもすきでも、みんなつながった宇宙だからしょうがないんです
ね。


 私の体の中の元素の原子核の陽子は宇宙の始まりのころできたもの

 水の話に戻りますが,水というのは化学式でH2Oですね。Hは水素、Oは酸素でした。水素の陽子と電子の
数を覚えていますか。陽子一個、電子一個です。いちばん簡単な、宇宙で最初にできた元素ですね。いつごろ
できたかまでわかっています。宇宙が始まってほどなく、いま現に存在している水素原子の核になる陽子は全
部できていたようです。全部です。科学的にいって一個の例外なく。電子というのは取れたり、くっついたりする
んですけど、陽子はそういうふうにならないで、非常に長い寿命をもっているようです。どのくらい長いかという
と、少なくとも一〇兆年くらい。崩壊するものも確率的にごくわずかあるようですけど、ほとんどは原則的に崩壊
しない。だから宇宙全体が安定しているんです。

 私が、水を飲んだということは、H2Oが体に入ったということですが、それどころか、体の六〇%以上が水分
のようですね。そのうちには水素がいっぱい入っている。他の分子にも水素がいっぱい入ってますから、とにか
く体の中に水素がいっぱい入っているわけです。体を構成している水素のその原子核は、宇宙が始まって最初
の一〇万年から三〇万年にできた陽子で、それがそのまま私の体に入っている。そのままです。私たちのい
のちの中に宇宙一五〇億年の歴史が全部入っている。

 水素原子だけじゃなくて、他の原子の話をすると厚い本が一冊書けるぐらいとても面白いんですけど、とにか
く、水素と水素が核融合するとヘリウムになるんでしたね。陽子の数がその原子の原子番号になっているとい
うふうに、原子は複雑化していった。でも、すべての原子はもともとは水素……という具合に、複雑化した原子
が私たちの体を一〇〇%構成しています。原子でないものは一個もありません。だから私たちの体は全部宇
宙製です。隅から隅まで宇宙です。すごいことですよね。宇宙は全部つながっていて、宇宙一五〇億年の歴史
の積み重ねが私を私にしているんです。いまも宇宙につながっている。


 生命の創発

 宇宙が、エネルギーから素粒子に、原子に、分子に、高分子に……とずっと積み上げてきて、ある時あるジャ
ンプが起こって生命ができた。それは物質レベルに還元できない新しい性質をもちはじめた。これは生物学の
標準仮説で、エマージェンス=創発といいます。創造的に発生するという意味です。つまり、宇宙は創発に満ち
ている。すべて物質に還元などできないというのが、いまの最先端の学説です。

 物質に還元できるというのは近代科学で、現代の科学では、物質はさらに元は最後にエネルギーになってし
まうんだから、物質に還元できない。エネルギーをもっとたどると無になってしまうんだから、物質に還元できな
いどころか、あるとき、物質をベースにしてはいるけれど、ただ物質を集めればできてしまうとはいえない生命と
いうジャンプを起こしている。創造的な発生が四〇億年前の地球で起こったんです。宇宙の一部の地球で。宇
宙が、自分自身の中に生命という創発を起こしたんです。


 脳による宇宙の自己認識

 それからやがて神経器官、その他もろもろができて、脳ができて、人間の脳になった。人間は世界をながめ
る、世界を観察することができて、今や人間は宇宙と自分たちのことを考え、かつ解明するところまできまし
た。その人間の脳と心は宇宙がつくったんです。全部、宇宙の一部です。だとすると、人間がものを考えるとい
うことは、宇宙が自己認識をしているということです。私がものを考えるということ、認識するということは、宇宙
の一部としての私が、すなわち宇宙が自己認識をしているということになります。これをはじめて聞いたとき、
「実感がわかない」という学生がたくさんいるんですが、一年授業を聞いてもらうと、最後にはすごくわかったと
いうレポートが返ってきます。ですから、今日みなさんが初めて聞いておわかりいただけなくても、大変失礼で
すが、この件に関しては、大学か高校の一年生だと思ってください。


 生まれる前も、今も、死んでからも私は宇宙

 私はえらそうにこんな話をしていますが、実は宇宙の一部としての私が、宇宙の一部としてのみなさんに宇宙
はこうなっているんですと確認している。すごいなあって。あなたも私も実は宇宙なんだって。

 そうだとすると、人間は死んだら灰になりません。ご先祖さまになり、同時に宇宙になる。生まれる前も宇宙で
す。生きているときも宇宙で、死んでからも宇宙です。宇宙でないときは一瞬もありません。ただし、個体として
分離して生きていると思っているこの意識とこの体は、まああるところで解体するでしょうが。死んでも無になん
かならない。生きた証しはご先祖さまとして残りますし、それから何といっても、私たちの本質は生まれる前も、
いまも、死んでからもずっと宇宙です。まあ物質的宇宙には始まりがあるから終わりもあるでしょうけど、この先
二〇〇億年としても、私たち人間、個人にとっては、ほぼ永遠のようなものだといっていいでしょう。

 そしてさらにもっとすごいことに、その宇宙がなくなっても、宇宙は生まれる前も無だったんですから、そこに
戻るということでしょう。無はすべての存在の母です。死んだら無になる、というのは意味がなくなってしまう。私
たちは母なる無から生まれ、母なる無に戻るんだとしたら、別に怖いことなんてなくなる。こういうコスモロジーだ
と、戦争をなぜ解決できるかおわかりでしょう。みんながこういうことに気づいたら戦争のしようがないんです。
環境破壊もしようがない。他の人とすべて親戚、自然とも全部親戚、なぜけんかするの。したくなくなる。


 希望のコスモロジー

 それでニヒリズムの問題ですが、あなたがここにいま存在するのは宇宙が一五〇億年かけて努力してあなた
を生かしたんです。一五〇億年分の努力を宇宙がしたのに、まだそれでも価値がない?これはまさに宇宙的
な価値、絶対的な価値です。一人一人に全部絶対的・宇宙的な価値があるということは、科学です。宗教では
ない。特定のイデオロギーでもない。生きることと死ぬことの意味は、宇宙の進化の流れにいちばんふさわしく
私の生きる意味をさがして、ご先祖さまからのいのちをうまく子孫につないでいく、将来のご先祖さまとしてよく
生きて、よく死んでいくこと、そこに宇宙的な意味がある。生死の意味と倫理の目標は、こういうコスモロジーか
らすれば非常にはっきりする。このことを学生たちに伝えると、「わあ、生きていける。むなしいとかいろいろ思
っていたけど、人生むなしくない。そうか、私のいのちってそんなにすごいのか」と変わります。

 これは科学的に検証できることですから、たぶん人類が共有できるコスモロジーになる。特定のイデオロギー
や宗教で争う必要がなくなります。こういうコスモロジーを私たち一人一人が自覚し、それも単に知的にだけで
なく、自分の生き方で実感して、それがみなに伝わり共有されていき、当面は家族、地域社会、それから日本、
それが国際的な世界で共有されるものになったら、世界に全人類レベルで完全な平和と自然との調和と意味
のある生と死が実現する。それは、そんなにユートピア的な夢物語ではない思います。もちろん実現のプロセ
スは非常に困難でしょうが。

 こういう予測をどう考えられるか、それはみなさんが各自に評価していただきたいので、私の評価を押し付け
ようとは思いません。でも、このくらい説得力のある話だと、きちんと頭を冷やして聞くことができる大人や子ど
もなら、たぶん人類のほとんどが共有できそうだなと思います。中学生にこの話をしたら、すごく感激をしたとい
うレポートをいっぱい書いてくれました。大学生にこういう授業を週一回一年間していくと、一年間の最初には
「死んだら無になる」といってニヒルな顔をしていた男の子が、だんだん顔が元気になってきて、最後の授業で
もう一度「死んだらどうなる」って訊いたら、「生きてても死んでも宇宙ですよね」と答えてくれました。

 ものを書いたり、言ったりするには、自分の考えていることはすばらしいことだという思い込みがないとやって
いけないので、私もそう思っていて、もしかしたら本当はつまらないことを申しあげたのかもしれませんが、こう
いうふうに人類が共有できるコスモロジーが考えられるのではないか、と思っています。こういうことを考えてい
るのは私一人ではありません。ほぼ同じ考え方に到達している人たちがいま、アメリカ、ヨーロッパそして日本
に相当数います。そういう意味では、私のオリジナルでも、独りよがりの独創でもないのですが、みなさんはどう
お感じでしょうか。質問、感想、疑問など、お聞かせください。

 予定を過ぎてしまいました。長時間、熱心に聞いていただいて、どうもありがとうございました。


*以上は、二〇〇二年二月七日、宇都宮市医師会自主講演会の録音を宇都宮市医師会員のN氏が整
理して下さったものです。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所