会報誌「サングラハ」第203号(2025年9月)について

会報誌「サングラハ」今号の内容についてご案内致します。

2025年9月25日発行、全頁、A5判、700円

目次

目次

目 次
巻頭言 ……高世仁 … 2
近況と所感 ……岡野守也 … 3
『正法眼蔵』「家常」巻 講義(3) ……岡野守也 … 4
サンカーラの発見(6) ……羽矢辰夫 … 14
『アダルトチルドレン』考(4) ……杉山喜久一 … 16
私のサングラハでの学び―「鬼滅の刃」と唯識 ……森哲史 … 20
サングラハと私(17) ……三谷真介 … 22
講座・研究所案内 …… 38

巻頭言

研究所主幹代理 高世 仁

「アメリカ・ファースト」を掲げる大統領が、世界に大混乱を招いている一方、日本でも「ファースト」を掲げる政党が参院選で躍進しました。ネットには、移民や難民、在日外国人を「この国を脅かす存在だ」と攻撃するヘイトスピーチがあふれ、社会全体に不寛容の空気が広がっているように感じられます。
この風潮の根底には、私たち誰もが持つ、自分だけ、自分の家族だけ、自分の会社だけを優先する利己的な心が横たわっています。その行き着く先が「この国だけ」「この国民だけ」という、他者を排除して自己の利益を守ろうとする「ファースト」主義なのでしょう。 

先日、岡野守也主幹の『聖徳太子「十七条憲法」を読む』をあらためて読み直しました。十七条憲法の第一条には、「和を以て貴しとなし、忤らうことなきを宗とせよ」とあります。平和を最も大切にし、抗争しないことを規範とせよ、という意味です。まず最初に、わが国のスローガンは平和だ、と高らかに宣言したのです。
これに続けて「人みな黨あり。また達れるもの少なし」、人はみな、無明(根本的な迷い)から生じる党派心というものを持っており、真に覚りを開いている者は少ない、と争いの根源を鋭く見抜いています。党派心がむき出しになった抗争が戦争へと繋がる、今の世の中を見事に言い当てています。
そして争いを解決するには「論うに諧うときは、事理おのずから通ず。何事か成らざらん」、睦まじく問題を話し合えるなら、自然に事実と真理が一致する、そうすれば、実現できないことは何もない、というのです。
今から千四百年も前にこの憲法が書かれたとは思えない、人間に対する深い洞察とリアリズムを感じます。

平和な社会を築くために、私たちは何をすべきなのでしょうか。つねに自らの心を磨くとともに、ヘイトスピーチのような、党派心から生まれる排他的な言動を黙って見過ごさず、勇気を持って立ち向かっていくことが必要ではないかと思います。それは世の中全体をより良い方向に導きたいという、慈悲の心の実践です。
世界が争いに満ちた今こそ、聖徳太子の「和」の思想を学び直すことを皆さんにお勧めします。

近況と所感

研究所主幹 岡野守也

九月半ばになっても、危険な暑さが続き、記録的な大雨被害が頻発し、物価高は続き、戦争は終わらず…等々、書ききれないほどの問題が山積し、日本も世界も混乱・混沌状態にあります。
その中でそれでもある程度平穏な日常が送れているとしたら、それは奇跡的僥幸と言うべきかもしれません。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか? 朝に夕に、神仏・天地自然・祖先に、皆さんそして一切衆生の無事をお祈りしています。
私は、ライフワークだった語ること・書くことがほとんどできなくなって、非常に残念ですが、これも能力は天から一時託されたものであって、永遠に保証された自分の所有物・我が物ではないことの現われであり、私には極めて不都合ではあっても、不条理ではない、と認識・忍辱して、というか、認識しよう、忍辱修行しようと務めています(正直に言えば、時にへこたれそうになるのですが、その度に、学んできたあらゆる手を使って自分を勇気づけています)。
世界的混乱のうち純粋な天災を除いた人災的現象の根本的原因が分別知・無明にあり、無明を智慧に転換する道もあることは、繰り返しお伝えしてきたとおりです(直近では本誌二○○号の拙稿を参照)。
かつて拙著『唯識のすすめ』(NHKライブラリー)で、「唯識は21世紀の常識だ」とモットー風な言葉を書きました。
それはもちろんすでに常識になっているという意味ではなく、そうなってほしい、そうなるべきだという意味です。
特定宗教としての仏教の特定学派である唯識学ではなく、唯識―大乗仏教が伝えている人類に普遍的に通じる英知のメッセージが人類の常識になることは、混沌から秩序が生まれるための核ができることであり、人類が今の危機を超えて生き延びることに根本的に貢献するはずだ、と筆者は考えてきました。
サングラハは、規模はささやかでも、「唯識(コスモロジーも合わせ)を人類の常識に」という大きな志をもった機関です。
共鳴してくださってきた皆さん、その維持と展開に、ぜひさらなるお力をお貸しください。
改めて心からお願いいたします。

成熟衆生厳成仏土

『正法眼蔵』「家常」巻 講義 3

宇宙の働きとしての空腹や疲れ

 原文

 先師古仏、ちなみに台州瑞巌浄土禅院の方丈にして示衆するにいはく、「飢来喫飯、困来打眠。炉韛亙天(飢来れば喫飯し、困来れば打眠す。炉韛天に亙る)」。いはゆる飢来は、喫飯来人の活計なり。未曾喫飯人は、飢不得なり。しかあればしるべし、飢一家常ならんわれは、飯了人なりと決定すべし。困来は困中又困なるべし。困の頂上より全跳しきたれり。このゆゑに、渾身の活計に、都撥転渾身せらるゝ而今なり。打眠は仏眼法眼、慧眼祖眼、露柱燈籠眼を仮借して打眠するなり。

 現代語訳

 先師古仏は、ある時、台州の瑞巌寺、浄土禅院の方丈で、僧たちに示して言われた。「飢えが来たら飯を食い、疲れが来たら眠る。炉とふいごが〔一体になって働いて炎が〕天に届くようである。」ここで言われている「飢えが来る」とは、飯を食べてきた人における活き活きとした働きである。いまだ飯を食べたことのない人は、飢えることもできない。そういうわけだから、知っておくがよい。飢える(お腹が空く)のが日常になっている我々は、これまで飯を食べてきた人間であると決まっている、と。また、「疲れが来る」とは、〔体の〕疲れの中にさらに〔心の〕疲れが来るということである。〔体の〕疲れの頭の上を跳び超えて〔心の〕疲れが来るのである。それは、全身の活き活きとした働きによって全身すべてが動かされているのが今という時だということである。〔そこで〕眠る場合も、仏の眼、法の眼、智慧の眼、仏祖の眼、あるいは柱や灯籠の眼を借りて眠るのである。

前回と同じく、道元禅師が「先師古仏」と深く尊敬する如浄禅師が、台州にある瑞巌寺の浄土禅院の方丈で、たくさんのお坊さんたちにお説法をしたというのです。「ちなみに」とは「ある機縁があって」ということですから、ふつうに訳すと「ある時」といった感じになります。和尚さんがいる所を方丈といいますが、そこで「示衆」、すなわちたくさんのお坊さんたちに説示・お説法をして、「飢えが来たら飯を食い、疲れたら眠る。炉とふいごは天に連なっている」と言ったと。まずここを見ておきます。
お腹が減ったら飯を食う、疲れたら寝る。これはきわめて自然な働きで、この自然な働きをまさに自然の働きとして自覚し自然に生きるというのが、禅僧の覚りの究極の姿です。だから、非日常的な覚りの意識体験を一回するのだけれども、戻ってくるところは誰もがやっているのとある意味で同じように見える日常です。しかし、根本的なところで一味違うと。
どこが違うかというと、私たちは日常生活をやりながらどこかに不満を抱いたり、不安を感じたり、いろいろ文句を言ったりするのですが、覚った人は日常あるがままのそこに不安も不満も何もなく、ただお腹が空いたらご飯を食べ、疲れたら眠る。もちろんご飯がなかったら食べないし、疲れてもやるべきことがあったらやる、というのです。ふつうで言えば、「お腹が空いてご飯を食べるのは誰でもやっている」とか、「疲れたら眠るのは誰でもすることじゃないか」となりますが、それがきわめて自然に「自然の働き・宇宙の働きとして食べ、眠る」ということになっていると。
「炉韛天に亙る」という言葉は、いちおう現代語訳のように解釈しました。しかし正直に言っておけば、『正法眼蔵』の研究家としては一流だとされる方の解説や講読を参照しましたが、この箇所についてはどれを読んでも納得のいく解説がなく、何かわけのわからない形で流してしまっている感じでした。私もわかり切らなかったものの、先の「一口呑虚空、虚空合掌受」と同じことを、別の表現で言おうとしていると読むことができると思います。
すると、「炉に火を燃やし、ふいごでもってその火を強くして鉄を精錬したりする日常の働きや、そこで炉が燃えふいごで炎が燃え上がることそのものが、天に連なっている事柄、宇宙的な出来事なのだ」と読めてきます。だから「飢来れば喫飯し、困来れば打眠す」ということも、もちろん全部宇宙につながったことなのだと、とりあえず解釈できるかなと思っています。
この「炉鞴天に亙る」の意味については、とりあえずの解釈だと思っておいてください。この巻をまた講義する日が来るかどうかわかりませんが、その時までに学びと読みが深まっていたら、「あの時はああいう意味だと言いましたが、実はこういう意味のほうが正しい」みたいなことを言うかもしれません。もっとも時々お断わりしているとおり、講義ではその時の私の理解力の範囲でわかったことをお伝えしているので、三年経ち五年経ち十年経ったら、別のことを言い出すこともあるでしょう。大体において、それは「学びが深まったために解釈が変わった」ということでしょうが、今後は「ボケてきたから解釈がいい加減になった」ということもあり得るかもしれません(笑)。いずれにせよ、いつもその時その時の暫定的解釈だと、ご了承いただきたいと思います。
といっても、今日の段階でどこまで読めるかについては、知的なレベルと瞑想的なレベルの両方から、かなり真剣にとことん「この言葉はこう読めるか」「こう読めばいいのか」「これなら話が通るだろうか」と詰めており、いい加減にはやっていません。けれども繰り返せば、もし理解力や境地が深まると、また別の読みをするかもしれません。特にこの「炉鞴天に亙る」に関しては、私自身も暫定的にこう解釈しているということです。
虎の威を借る狐ではありませんが、偉い人のエピソードでごまかすと、あの聖徳太子でさえ『三経義疏』をお書きになった時に、経典の言葉がどうしてもわからないところでは、「愚心、及び難し」「愚かな心の私には理解しきれない」という注釈を書いておられます。「ここに関しては、私には解釈しきれない」と。
伝説的に言うと、聖徳太子はお経のある部分がわからない時には、今の法隆寺の夢殿の前身と言われているお堂に、瞑想的にわかるまで何日間もこもったそうです。すると「金人」、つまり金色に輝く仏さまが夢に現われて、「そこはこういう意味なのだ」と教えてくれた、というエピソードが残っています。しかし、それでも理解しきれなかったところには、「愚心、及び難し」と正直に書いておられるのです。
聖徳太子でさえそうなのだから、私が道元禅師の言葉を理解しきれないところがあっても、許してもらえるのではないかと。もちろん、これはただの言い訳です(笑)。いちおう今日の時点で大体読めているつもりですが、ここについては読みきれていません。
さて、次に行きます。
「飢えが来る」とは、ご飯を食べてきたからこそ生きていて、生きてきたからこそ飢えるわけです。ご飯を食べずに死んでしまったら、飢えたりはしません。今飢えているということは、今までご飯を食べてきて生命が維持されているからであって、その生命の活き活きとした働きとして、「飢えが来る」ことがあると。だから、ふつうに言うと「飢える=お腹が空いてしまう」のはネガティブなことなのだけれども、「お腹が空くこと自体、飢えそのものが、宇宙の働きであり、いいことなのだ」と、ここで語っているようです。
「ご飯を食べたことがない人は、飢えることもできない」、言われてみればそのとおりです。日本は飽食の時代がまだ続いているので、本格的な飢えを日常的には体験しません。けれども、私たちの少年時代はまだ日本の食糧事情が十分でなかったので、道の草を食べるところまではいきませんでしたが、本格的な飢えを体験しました。
私が生まれ育ったのは貧乏牧師の家庭だったので、記憶するところでは、一日三食ともお芋が少し入っただけの茶粥だったことがあります。それに梅干しが付くこともありましたが、小さい頃だから梅干しは酸っぱくて食べたくなかった。それで、三食お茶と茶粥だけ、それも好きなだけ食べていいわけではないから、ほんとうにお腹が空いていたという少年時代の記憶があります。
だから、雑草ではありませんが、イタドリの枝葉を取って、カポンと割って皮を剥いたのを「スカンポ」と言って、これはけっこう食べられました。ちょっと酸っぱいけれども、それで腹が減っているのが少しだけ満たされたものです。それからマキの実ですね。私の田舎はミカンの産地だったので、防風林にしてあるマキの木に実がなるのです。お百姓さんは別にマキの実を採ったりしないから、ほんとうにお腹が減っていると、子どもたちでそこへ行って、実を採って食べたりしたことがありました。小さい頃から本格的に飢えたことのない人は、一回断食をやるといいかもしれません。飢えると食べ物が美味しいですよ。
それをさらに深く言うと、「食べて生きてきたからこそ、飢えが来る」ということになります。飢えることは、宇宙のすばらしい働きなのです。
道元禅師は、たくさん食べられずあまり栄養状態のよくない修行僧たちに、ここで次のように教え諭しているのだと思われます。「諸君、お腹が減っているだろう。だけど、それは宇宙の働きだ。これまで死なない程度には食ってきたから、今お腹が空いているんだよ。お腹いっぱいになるのもいいことだけれど、お腹が空くのもいいことなんだ。いわゆる『いい』と思っていることだけがいいことではなくて、『いやだ』と思っていることの中にも、宇宙の働きがあるんだよ」と。
「飢一家常」とは、「飢えるのが日常になっている」という意味のようです。「飢えているのが日常で、毎日腹を空かせながら修行している。でもそれは、ご飯を食べているからこそ死なないで生きていて、修行ができるということなのだ。そのことをよく知っておくべきである」と。
また、疲れが来るのはふつうにはいやなことなのだけれども、その疲れは、いわば宇宙全体の働きの中のある種の停滞状態として、「宇宙的な疲れの真っただ中に、個人の疲れが来る」ということなのだと。「困来は困中又困なるべし」とは、そういう意味であるように読めます。
私たちは疲れると、自分が個人として存在していると思いながら、ただ「疲れた」「いやだな」と感じるものです。けれども、「疲れもまた宇宙の働きの一つなのだ」と思って、そして自然に疲れたら、次は眠ろうとする。そうした、宇宙の働きとしてのいのちの働きにおいて、疲れて眠るということになると、日々が実に自然に流れていきます。
ふつう私たちは、「好きだ・嫌いだ」、「損だ・得だ」、「食べるのはいいけど、腹が減るのはいやだ」、「疲れたくない。休んで楽をしていたい」などと、いろいろ善し悪しを言います。しかしそうしたことを言わず、ただひたすら生きるのが、禅の目指すところであるわけです。だからこの件に関しても、善し悪しを言うのではなく、「全て宇宙の働き」という認識の中で受け止めなさいと。
そうして、その宇宙全体の働きとしての疲れが、個人の働き、個人としての疲れという形で現われてくるのだと自覚できたら、それは最高の疲れをも、ある意味で全く飛び越えることなのだと言います。「頂」は「頭のてっぺん」ですから、「困の頂」とは「最高の疲れ」という意味です。
「飢える」ことを考えても「疲れる」ということを考えても、それらは「渾身の活計」であり、個人の全身ではなく、宇宙全体の活き活きとした働きです。またそれによって、全てがいわば跳ね飛ばされ転がされて、宇宙のダイナミックな働きとして、今ここ・私ということが起こっているのだと。
だから眠る時にも、その眠ることの中に真理が現われていて、仏の覚りの眼、真理の眼、智慧の眼、祖師の眼を借りて、眠るのです。すなわち、眠ることの中にさえも大宇宙の働きがあり、真理の働きがある。
かといって間違えてはならないのは、「仏の眼を借りて眠る」とは、すごいことのように思えますが、お寺にある柱や灯篭もまた宇宙の一部ですから、その眼を借りて眠るということでもある。
個人として「眠る」とか「眠れない」と言うのではなく、修行者は心を込めて修行し、そしてお腹が空いたらご飯を食べ、疲れてきたら眠る。そういう修行の仕方、日々の送り方をしなさい、と。その中に、大きく言えば仏の眼が働いているというのです。けれども、「仏とは何か特別な、大きなことだけだ」と思うと誤解するから、「そこに入っている柱の眼を借りることでも、灯篭の眼を借りることでもあるのだよ」と。
ともかく全体の自然の働きの一部として、私が飢えることも、疲れることも、眠ることもある。ここまで日常のことに徹して、もし私たちが覚れたら、お腹の空き方も、疲れ方も、眠り方も、少し変わるのではないかと思います。こういう眠りがほんとうに身に染みてきたら、いろいろ心配事があって不眠だ、といったことは起こらないでしょう。だから、覚った人は寝る時には安らかに眠るようで、徹底的に安らかに眠ると、睡眠時間が少なくて済むようです。
名僧・高僧たちも、やはりぐっすり短時間の眠りで済むようなので、この眠ることにおいても、私は少し修行が足りないなと思います。布団に入ったら何の悩みもなく五秒で寝て、朝起きたらもうすっきり、みたいな眠りにぜひなりたいものです。残念ながら、私は七時間以上八時間ぐらいは寝ないと翌日使いものになりませんし、それでもまだ眠く睡眠の質も十分でないので、睡眠においても修行ということがあると、ここで学びました。
そして睡眠だけではなく、お腹も空かし方があり、疲れ方もあるのだと。日々のことだけれども、ほんとうに深い学びをこういうところからさせてもらえるな、と思いながら読みました。
(続きは本誌)

編集後記

危機的な気候変動を実感した夏でしたが、皆さまご無事だったしょうか。人類の前途に光明を見出すため、コスモロジーの展開・受容がますます重要になっているのは間違いありません。引き続き御協力のほどお願いいたします。
主幹の『正法眼蔵』「家常」巻は全四回の第三回目、如浄禅師の「飯を食べ眠る」という説法を取り上げて、覚りの境地が語られている箇所です。覚りとは普通に考えられるような非日常のものすごい体験なのではなく、日常のごく当たり前のことや美しい風景、それどころか汚くつらい現実も、宇宙のダイナミックな働きそのものであると気づくことであると、道元禅師は修行者に繰返し語っています。主幹の解説によって、論理的にはすっきりとシンプルな話であることがわかりますが、長い坐禅修行の末の「今ここ」の境地であることは常に押さえられており、そのことを外すわけにはいかないのだと思われました。羽矢先生の「サンカ―ラの発見」では、主幹による講座でも学んできたとおり、「諸行無常」の「行」(サンカ―ラ)に関する日本的無常感が、美しくも誤解だったことが解説されています。杉山さんの御連載では、厳しい家族関係で傷つき抑圧されてきた、大人の心の中の「子どもの心」が、どうやってその苦しみから解放されるかが、実践に基づいて語られており、次号以降も期待されます。森さんの御寄稿では、長らく人気の「鬼滅の刃」を唯識心理学の視点から読み解かれています。私も最近観てなるほど名作だと思いました。高世さんの「AIと哲学対話を試みた」、増田さんの「ウィルバーが描く未来の仏教」はいずれも休載となります。(編集担当)

 (編集担当)

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