『サングラハ』132号抜粋
●講義録 金剛般若経を読む 第10回(最終回)   研究所主幹 岡野守也

  布施と智慧の功徳の違い

  では、はじめていきたいと思います。こんばんは。
  今日は『金剛般若経』の学びの最終回で、テキストの一二六頁からです。

  須菩提よ、もし、菩薩にして、恒河の沙に等しき世界を満たすに七宝を以てして、布施したりとせん。 もしまた、人有りて、一切の法は無我なりと知りて、忍を成ずることを得たりとせんに、この菩薩は、前の 菩薩の得る所の功徳に勝れたり。

  ここでいったん区切ります。
  ここでは、六波羅蜜の中の布施波羅蜜と般若波羅蜜・智慧波羅蜜の重さを喩えで表現しています。
  ガンジス川の砂ぐらいの数の世界があるとして、それを七種類の宝で一杯にするぐらいの布施をしたとしよ う、と。毎回申し上げていますが、非常に雄大というか誇大妄想的というか、インド的な大きなスケールの比喩 ですが、そのくらいの布施をしたとする。
  それに対して、一切の法は無我ということを知っている人がいるとする。この「忍」というのは言べんのつい た「認」と意味上は同じと言われています。つまり、これは忍ぶ・忍耐するということではなく、知的な認識も含 みますが、それだけでなく唯識でいう平等性智や大円鏡智というレベルまでの智慧を得るということです。そう いう菩薩がもう一人いるとする。
  その場合、山ほどというか宇宙ほど布施をした菩薩よりも、一切の法は無我ということを覚った菩薩のほう が功徳が優れている、ということを非常に明快に語っています。ですから、一般的な仏教として言っても、やは り布施波羅蜜をするよりも智慧波羅蜜を得ることのほうが、圧倒的に大切だということです。しかし実は、その 智慧波羅蜜から本当の布施波羅蜜が出てくるということではあるのですが。
  それから確認ですが、ここに「一切の法は無我なり」と書いてあるように、無我という言葉は人間の話だけで はなくてすべての存在ということに関わっている。つまり、「無我」とは「実体ではない」という意味であって、決し て「私心がない」とか「自己主張が強くない」という話ではありません。ですから、ここで無我という言葉の大乗 仏教本来の意味として、「一切の法は無我」というのは空とほとんど同義語だということが確認できます。その 空・無我ということを覚ったとすると、それはどんな布施をした菩薩よりも功徳が優れているのだ、ということが まずここで明快に語られているわけです。

  菩薩は富や幸せにこだわらない

  その続きですが、

  須菩提よ、もろもろの菩薩は福徳を受けざるを以ての故なり。須菩提、仏に白して言う、「世尊よ、い かなれば菩薩は福徳を受けざるや。」「須菩提よ、菩薩は、作す所の福徳に、まさに貪著すべからず。こ の故に、福徳を受けずと説けるなり。

  福徳とは富と言ってもいいし幸せと言ってもいいのですが、菩薩は一切の存在が空・無我と覚っていますか ら、そもそも幸・不幸とか損・得とかという分離的、分別的な認識をしません。ですからそういう意味で、不幸を 捨てた幸せ、損を捨てた得だけを得ようとは思わないのが菩薩だということですね。
  スブーティはわかっていて問うわけですが、「菩薩が福徳を受けないということの意味はどういうことでしょう か」と。相対的に言えば区別できるという意味での、幸・不幸とか損・得はもちろんあるわけですが、すべて空 かつ一如ですから、それに対して「私のもの」というかたちで貪ったり執着するということは、そもそも成り立ち ません。心理的には成り立ちますし、それから一時的にそれができるかのように見えます。しかしどんなに貪り どんなに所有したつもりでも、その所有者自体が死んでいなくなるのですから、絶対的・永続的な意味での「所 有」などというものは世界の中では成り立たないのです。
  しかし私たち一般の人間は、自分の人生が有限であることを計算外にしていますし、そして時々刻々と過去 になり未来はまだ来ない今・今・今という瞬間を、ある一定期間宇宙から預けられるだけ、とは思っていないも のですから、人生の大部分をあくせくと儲けることや幸福になることに費やして、その費やしている時間は実は 心は全然幸せではないというか、さわやかではない。
(『サングラハ』132号、4・5頁より抜粋。以下誌面に続く。)





『サングラハ』131号抜粋
●講義録 金剛般若経を読む 第9回   研究所主幹 岡野守也

  衆生は衆生ではない

  さて、ではそろそろ始めましょうか。こんばんは。
  『金剛般若経』の学びが続いていますが、今日は、ワイド版岩波文庫のテキストでいうと、一一六頁のところ からですね。

 その時、慧命須菩提は、仏に白して言う、「世尊よ、頗る衆生有りて、未来世においてこの法を説くを 聞きて信心を生ずるや、いなや。」仏、言いたもう、「須菩提よ、かれは、衆生にも非ず、衆生ならざるも のにも非ず。何を以ての故に。須菩提よ、衆生、衆生とは、如来(これを)衆生に非ずと説きたればな り。これを衆生と名づくるなり。」

  まず、ここで区切りますが、今まで繰り返し出てきた般若即非の論理、「AはAにあらず、ゆえにAなり」という のとほとんど同じ形がここでも出てきています。「衆生は衆生ではない。だから衆生と名づけるのだ」と。「衆生 (サットヴァ)」は、いちおう生きとし生けるもの・生き物ということですが、ただ私たちの常識とやや違っている のは、「有情」という訳もあるように、仏教では「心のある生き物」のことです。
  まず、スブーティ長老がブッダに質問をします。「世に尊ばれる、良き師よ」と呼びかけて、このような深く難し い常識を超越した教えは、ブッダが在世中でいらっしゃるならば、まだブッダの人格的力というか存在感という か、そういうものによって、意味はわからなくともとにかく耳を傾けようという生き物(特に人)がいるかもしれな いけれども、「肉身をとったブッダがいらっしゃらなくなった未来世において、いったいこのような微妙な、不思 議な、論理を超越したような教えを、聞くような人がそもそもいるのでしょうか」と。
  聞いて、それに信の心を起こすということですが、日本では信の心・信心というと、例えば阿弥陀さまを信じ るとか『法華経』を信じるとか、あるいは日蓮上人を信じるとか親鸞聖人を信じるとか、そういう誰かや何かを 絶対に正しいと思い込むことが「信心」だと考えられがちでした。
  一般的に信心や信仰という言葉にはそういう意味合いはもちろんあるのですが、もともと仏教の「信」には、 原語では「真っ白なけがれのない心」という意味があります。日常的に言い換えると非常に「素直な心」というこ とです。素直な心というとまた「すぐにだまされる」と取られがちですが、それは「あるものはある、ないものはな い」とするという意味で素直な心です。自分が認めたくないからあっても「ない」と言うとか、ないのにあって欲し いから「あるはずだ」と言い張るとか、そういうことではなく、「あるものはある、ないものはない」と素直に物事 をありのままに認め素直に受け入れることのできるような心です。ですから、誠実とか真心と訳すこともできる と思います。
  サンスクリットでは「シュラッダー」といいますが、漢語にも日本語にもそのまま当てはまる言葉がありませ ん。大乗仏教では―ゴータマ・ブッダもそうだと言ってまちがいないと思いますが―今言ったような意味が「信 心」という言葉の本来の意味なのであって、常識的な信心が語られているのではないと理解するといいと思い ます。
  つまり、凡夫のふつうの分別知の論理を超越したこのような教えが説かれるのを聞いた時、あるいはこうい う『金剛般若経』が読まれる時、「ああ、ここには何かほんとうのことが書いてある」と素直に受けとめることが できるような、そんな衆生(この場合は特に人間)がいるでしょうか、という問いをしている。
  もちろんスブーティ長老はわかっていて問うているわけです。真理を明らかにするため、問うて答える、問う て答えるという形で、ブッダから言葉にならない世界をあえて言葉にしていただくためにやっているので、わか っていなくて聞いているのとはちょっと違うのですが、そういう問いに対してブッダは、まずそもそも、そういう人 間や生き物がいるかどうかと問う前に、人間や生き物そのもののことを考えてみなさい、ということをおっしゃ るわけですね。
  真理の言葉を素直に受け入れるような存在とは、迷いの生存を繰り返し、輪廻転生を繰り返す凡夫として の、そういう意味での衆生ではない、と。ですから、凡夫であり衆生であるかぎりは、そもそも真理の言葉は聞 けないのです。真理の言葉が心に素直に入ってきたら、もうその時点ですでに凡夫ではなくなっているわけで す。かといって、もちろん物質でもなければ死者でもないので、衆生でないものというわけでもない。
  ですから、ダルマ・真理に対して心を開くことができた時には、もはやすでに衆生を超えて菩薩になっている わけです。菩薩は生と死の対立を超えてしまっていますから、そういう意味でいうと単純に「生き物」というので はないのですけれども、では生きていないのかというと、やはり今生の肉体を持った菩薩であるならば、「衆生 性」・生き物としての性質はあるわけです。
(『サングラハ』131号、4・5頁より抜粋。以下続く。)




『サングラハ』130号抜粋
●講義録 金剛般若経を読む 第8回   (研究所主幹 岡野守也)  

  経典は真理への手段

 それでは、『金剛般若経』の学びの後半の二回目です。
『金剛般若経』に限らず経典というものはすべて、真理そのものというより真理に到達するための手段だと言っ ていいと思います。五六頁(岩波文庫版)にこういう言葉がありました。

『汝ら比丘よ、わが説法を筏の喩えの如しと知る者は、法すらなおまさに捨つべし。いかに況んや非法を や』と。

 この筏の譬えは、歴史的なゴータマ・ブッダも使われたものです。仏教では、迷っている状態を川のこちらの 岸に譬えます。そして、大きな流れを渡って、ようやく覚りの向こう岸に行く。これを此岸と彼岸といいます。私 たちは、こちら側の迷っている側・此岸にいるわけですから、彼岸に渡るには乗り物が必要です。その乗り物 の中でも、特に筏に譬えていて、確かに向こう岸に渡るためには筏が必要だけれども、渡ってしまえば、重た い筏をあえて担いでいく愚か者はいない。向こう岸に渡ってしまえば、筏というものはいらない。
 そういうふうに、言葉で語ることができないものを覚らせるために、あえて言葉を使っているので、覚ってしま えば言葉はいらない。ですから『金剛般若経』も、あくまでも私たちは、それを自己目的的に学ぶのではなく て、言葉にならない世界をかいま見、かいま見るにとどまらず覚るための筏・手がかりとして学ぶ。そういう学 び方をする必要があるわけです。そもそも『金剛般若経』を学ぶことが、基本的にどういうことかということをも う一度頭に入れながら、今日のところを学んでいきたいと思います。

  無我に達した人が菩薩

 前回の一〇六頁の最後の個所をもう一度見て、それから今日のところへ入っていきたいと思います。

須菩提よ、もし菩薩にして、無我の法に通達せる者あるときは、如来は説いて真にこれ菩薩と名づけた り。

 ここで、非常に大切なポイントが語られています。「菩薩として修行するにはどうしたらいいのでしょうか」とい うのが、『金剛般若経』全体を通じるスブーティのブッダに対する問いですね。それに対して、ブッダは「真に菩 薩と言えるのは、無我の法に通達した時だ」と答えています。
 「無我」について復習をしておきますと、通常日本では、「無我」というと、「自我がないこと」、あるいは、もっと 日常的には「我を張らないこと」「自己主張をしないこと」というふうな意味に使われるんですが、仏教における 本来の意味は、それよりももっと広い意味を持っています。そもそも、この「我」は、「自我」の我ではありませ ん。原語のサンスクリットでは「アートマン」で、実体のことでしたね。
 「実体」という言葉にも非常にはっきりと定義があることを学びました。@それ自体で存在できる。ほかのもの の助けを借りる必要がない。それから、Aそれ自体の変わることのない本性を持っている。そして、B永遠に 存在できる。そういうものを「アートマン・実体」といいます。これを漢訳で「我」と訳したわけです。
 ゴータマ・ブッダは、この世には実体と呼べるものは何もないということを「アナートマン」という言葉で表現を されました。もうひとつ同じく「無我」と訳されている原語として「アナッター」という言葉もありますが、アナートマ ンの方が重要だと思われます。「ア」は否定の接頭辞で、「〜ではない」という意味です。中村元先生は、「アナ ートマンは、無我よりはむしろ〈非我〉と訳したほうがよかったのではないか」とおっしゃっていますが、つまり、 「実体ではない」という意味です。
 実体ではないということは、実体ではなくても現象はあるということなのであって、何もないということを言って いるように誤解されがちですが、そうではないわけでした。
 もちろん自我もそうですが、自我だけではなくてすべてのものには実体は無いということが、「無我」という言 葉で表現されています。
 そこで、後にはもっと明確にするために、自我が無我・非実体であることを言う時には「人無我」、人間以外 のものの非実体性を言う時には「法無我」という述語で表現されるようになりました。こういう二つの述語で表 わされているように、無我には両方の側面があって、自我も実体ではないんですが、その他のものも実体では ない。あわせて「人法二無我」と言います。般若経典よりもう少し後に、仏教の教学が整備されてきた時、こう いう述語による区別がしっかりなされていきます。
(『サングラハ』130号、4・5頁より抜粋。以下続く。)




『サングラハ』129号抜粋
●講義録 金剛般若経を読む 第7回   (研究所主幹 岡野守也)  

 空という言葉を使わず空を語る経典

 こんばんは。前回も申し上げましたが、『金剛般若経』の後半は、前半と非常に重なった話が出てきていて、 その他の特徴からも、どうも前半までで『金剛般若経』の原型は終わっていたのではないかと言われています が、大乗の論師いわば宗教哲学者の代表的な存在の一人アサンガ・無着菩薩は、後半は前半をより深めた ものと理解しています。私たちもそういう読みで後半を学んでいきたいと思います。
 それで、今日は新しく来られた方もいらっしゃいますし、ちょうど区切りのところで、みなさんの理解度・定着 度を確認していただくという意味も含め、復習的なことを最初にお話ししてから、本文に入っていきたいと思い ます。
 大乗仏教の非常に主要なコンセプトは「智慧」ですが、それは何についての智慧か一言で言うと「空」の智慧 です。そしてそこから「慈悲」が出てくる。この空・智慧・慈悲―空と智慧は一つに重なっていると考えるとこの 二つのことが、大乗仏教の大乗仏教たるゆえんである、いちばん根本のところである、ということを学んできま した。
 そして『金剛般若経』は、どちらかというと智慧のことが語られているように見えますが、実は慈悲のことが智 慧とぴったりと重なって語られている。それは、前半で、菩薩の修行すべき代表的なこととしてまず布施波羅蜜 から始まっているということで確認したところです。
 「空」という言葉は、日本語で読むと「空しい」と送ることができるため、空はしばしば「すべては空っぽで、空 しく、でもそれはこの世の真実なのだから、受け入れるしかないではないか。しょうがないじゃないか」、そういう 意味で言うと、そのことをあきらめることなのだ、と。
 また、「あきらめる」という言葉自体がそうで、「明らかにする」というのが本来の意味ですが、いつの間にか 「もうそれは仕方のないことなのだ」と、よく言えば受け入れ、悪く言えば放棄するのを「あきらめる」ということ になっています。
 しかし大乗仏教の空、空を明らめる智慧とはそういうものではないのだということを、ずっと続けて学んで下さ っている方は、『般若心経』から『善勇猛般若経』、そして今回の『金剛経』と通しで学んできたわけです。
 いちばんポイントになるところは、空という言葉は、まず禅定の言葉にならない・本来は言葉にしようのない 体験を、あえて言葉にする時に選ばれた言葉だということです。ですから、自ら言葉にならない体験をすること なしには、空を本当にわかるとか、空を明らめるということにはならない。ここのところが、くどいようですけれど 非常に重要なので、決して落としてはならないわけですね。
 日本という文化の中で「空」という言葉は、言葉だけだったら誰でも知っているようで、そして何となく意味が わかったような気がする。しかし日本では、文部省の教育指導のあり方に根本的な問題があるといつも申し上 げていますが、戦後公立の学校で宗教を教えてはいけないというふうに教育基本法が機能してきた。そのた めに私たちは、学校では日本の長い精神性の伝統の中核にある仏教を中身として勉強することができない。 ということは、平均的には日本の子どもや市民は、仏教のことをちゃんと勉強したことがないということですね。
 そして、それらしいことを勉強するとなると、文学ならば宗教ではないということで、特に中世の『平家物語』や 『方丈記』、『徒然草』など、中世仏教的な文学は、日本人は誰でも古文などの時間で学んだ憶えがある。そう すると、そこで語られる「無常感」のようなことが仏教の中身なのだというふうに、何となく思ってしまう。
 しかしながら、そういう文学の、美意識としての「無常感」は、漢字で書けば感じるの「感」であり、一方、仏教 の本来の「無常観」は観察・洞察するほうの「観」で、そこには根本的な違いがあるのだということを申し上げて きました。にもかかわらず、一般的には何となくわかって、空とはそういうふうなものだと思ってしまっています。
 その大きな問題の第一点は、もう一回言いますと、それは禅定体験を通じて自ら直接に体験するほかない 世界なので、知識で、ましてや日本中世文学的な常識で、空とか仏教とかがわかったかのように思ってもらう と、これははなはだ困るというか、はなはだ不幸ということですね。
 しかし、とは言っても誰もがすぐに禅定をするとか、禅定した結果、空体験・覚るという体験をすぐにできると いうふうには、残念ながらなかなかいきません。初心の修行者は、まずは最初にコンセプトとしての「空」を正 確に理解するだけでも、とにかくきちんとしなければいけない。……

(『サングラハ』129号、6・7頁より抜粋。以下続く。)



『サングラハ』128号抜粋
●講義録 金剛般若経を読む 第6回   (研究所主幹 岡野守也)  

  はじめに

 講義が、『金剛般若経』(ワイド版岩波文庫)の半分あたりまでしかきていませんが、予定を延長して最後まで やるということでいきたいと思います。
 そして、前回申し上げたことですが、一六C、九七頁のあたりが区切りになっていて、文献学的にいうと『金剛 般若経』の原型はこのあたりで終わっていたのではないかと言われています。そして、後の一七以降ではかな り重なったエピソードが出てきますが、インド文化の繰り返しを厭わないという性格もあり、似たような別のテキ ストも後からくっつけられて現在の『金剛般若経』ができているのではないかと言われています。
 そういう意味では、今日終わる予定のところまでで、内容的には完結していると言えないこともないのです が、無着(アサンガ)が『金剛般若経』への注釈的な短い頌を書いていて、そこでは、「前半で論じられたことが さらにもう一歩深められて後半で論じられている」という解釈がされています。確かにそういうふうに読むことも できますから、似た話がもう一回出てくるのですが、私たちも、「前半で入門的な話がなされ、後半は中級・上 級編に深められた」という解釈で読んでいきたいと思います。
 「空」という言葉を使わないで空の中身を語るといわれる『金剛般若経』は、私たちの常識的な言葉の理解の 仕方で読んでいっても、何が書いてあるかさっぱりわからないというお経で、それを何とか理解するためのポイ ントを説明するために、前半は少し長くなりましたが、後半は、説明はもう済んでいるということで、本文を通読 していくというかたちでいけば、それほど長くはかからないと思います。
 そういうことで、今日は一四から一六まで、つまり前半部分を終わらせるということで学んでいきたいと思いま す。

  清浄な信心と真実を見ること 

 前回と少し重なりますが、七八頁の終わりの三行目からいきます。

 その時、須菩提、この経を説きたもうを聞きて深く義趣を解し、涕涙悲泣して仏に白して言う、「希有な り、世尊よ、仏はかくの如き甚深の経典を説きたもう。われ昔よりこのかた、得る所の慧眼もて、未だ曾 て、かくの如きの経を聞くことを得ざりき。世尊よ、もしまた人有り、この経を聞くことを得て、信心清浄な らばすなわち実相を生ぜん。まさに知るべし、この人、第一希有の功徳を成就せんことを。
 世尊よ、これ、実相はすなわち、これ、非相なればなり。この故に如来は説いて実相と名づけたもう。 世尊よ、われ今、かくのごとき経典を聞くことを得て、信解し、受持するに難しとなすに足らず。もし、まさ に来るべき世の、後の五百歳に、衆生ありて、この経を聞くことを得て、信解し、受持することあらば、こ の人をこそ、すなわち第一希有となすなり。
 何を以ての故に。この人は、我相も、人相も、衆生相も、寿者相も無ければなり。ゆえはいかに。我相 はすなわち、これ、相に非ず、人相も、衆生相も、寿者相も、すなわち、これ、相に非ざればなり。何を以 ての故に。一切の諸相を離れたるを、すなわち、諸仏と名づくればなり。

  ここまでのところ、ブッダが須菩提に説いてくださったことを聞いて、というのが今日の個所ですが、まさに お経が終わりかかっていることが感じられるところです。そしておっしゃっていることの中身「義趣」をよくわかっ た、と。「涕涙」というのは鼻水と涙で、涙が出る時には鼻水もいっしょに出てきますね。「涕涙悲泣」というのは 非常に感動して泣いたということです。
  ここは自らも理解して読むと感動のある個所です。しばしば「あの人は悟った様な顔をしている」という表現 が使われますが、常識的には、何があっても平然としていて、なんの感情も動揺もないような態度を「悟ったよ うだ」といいます。覚ったら、悲しみやうれしさや、ましてや怒りやそういう感情はなくなるのではないかと常識的 には考えられていますが、実は違います。喜びも悲しみも怒りもみな浄化されるだけであって、決してなくなら ないどころか深くなるんです。特にこういう真理の言葉が本当にわかった時などは、非常に深く感動する。とて もクールに、「ふむふむ、そういうことか。分かったぞ」みたいなことではなくて、聞いた時、もう涙があふれて鼻 水まで垂れてしまうぐらいに感動するというのが、真理の言葉を聞くということであるわけです。
  「希有なり」というのは本当に奇跡的な、めったにないことという意味です。「世尊」とは世から尊敬されるに 足る人ということで、仏の尊称の一つです。「仏はかくの如き甚深の経典を説きたもう」、こんなに深い経典を 説いてくださった。さっきも言ったように、まさにこれでいちおう経典は一区切り、終わりですといった雰囲気で す。
「われ昔よりこのかた、得る所の慧眼もて、未だ曾て、かくの如きの経を聞くことを得ざりき」というのは、これ は作者は須菩提に言わせているわけですから、昔の、小乗というか部派仏教の伝えてきた経典にも比較でき ないくらい深い経典なのだ、と。私、須菩提でさえ、未だかつてこのように深い経典を聞いたことがなかった、 初めてです、ということですね。

(『サングラハ』128号、4・5頁より抜粋。以下続く。)





『サングラハ』127号抜粋
講義録 金剛般若経を読む 第5回 (研究所主幹 岡野守也) より  
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 空と「應無所住而生其心」

  『金剛般若経』の学び、丁寧にやっているので予定よりも少し長引きそうですが、こういうものは教養として 「こういうことが書いてあります。はいおしまい。」という学び方ではないほうがいいと思いますので、ゆったりと 続けて学んでいきましょう。
  前回でワイド版岩波文庫『金剛般若経』の六八頁まで終わりました。最後の「まさに住する所無くして、しか もその心を生ずべし」というところは、在家時代の六祖慧能がこれを聞いてはっと気づくことがあり、それがき っかけで本格的に修行を始めたというエピソードのある有名な言葉でした。
  私たちは通常、ものを実体だと見てしまう。実体だと見ることそのものがとらわれですし、それから実体と見 ると、いいと思う実体には肯定的なとらわれをする。悪いと思う実体には否定的なとらわれをする。ふつうの言 葉でいうと、愛着あるいは愛して執着する。「愛執」という言葉がありますが、肯定的なものにはそうなります し、否定的なものには憎しみとか恨みとか、そのようなこだわりの心をもつようになる。
  しかし、存在そのものが、そしてその自己という存在そのものが、実体ではなく空であるということがよくわ かると、執着ができないということがわかり、執着をしなくなる。執着できない、執着する必要がない。それなの にしても仕方がないですから、そのことが深くわかると、だんだん執着をしなくなるはずなんです。 しかし、私 たちのこだわる心、実体であると思う心は、非常に心の奥深くに染み込んでいますから、なかなかそう簡単に はいかないんですが、その心が覚りの心に変わると、こだわるところがなくなる。「住する」というのはこだわる という意味ですね。
  菩薩というものは覚りを求める人あるいはある程度覚りを開いた人で、物事を実体視しない、実体視しない からこだわることもない、しかも、心というのはちゃんと働く。
  そういう覚りに至るために禅定するわけですが、禅定はしばしば恍惚状態とか、気を失ったような状態にほ とんど近いような無意識とか、そのような心の状態であると取り違えられがちです。
  余計なことを言ってるから、なかなか先に進まないんですが(笑)、この間、『禅』という映画を観たんです が、映画としてはとても映像の美しい、なかなか感動のあるものでしたが、ただ道元さんが覚るシーンが、上の 方に上っていって空中に溶けていくというふうな表現になっていました。一般の方がああいう映像をご覧になる と、覚りとはああいうものだという誤解を招きかねないので、あの点は大変よろしくないなと思いました。
  覚るというのはそういうことではなくて、道元自身が「身心脱落」―師である如浄さんは「心塵脱落」と言った らしいんですが―と表現しているように、自分の身体と自分の心を実体であると思ってそれに執着するという 心が、なくなってしまう、落ちるということが「身心脱落」で、その体験を「覚り」ともいうのであって、なんだかどこ か高いところにハイになって溶けてしまうという理解では困るんですが……。
  そういう住する・執着するところはない、しかし意識がある。それが、「まさに住する所無くして、しかもその 心を生ずべし」ということであるわけです。

 〈空〉の復習

  今日初めて来られた方もありますから、復習も含めて言いますと、私たち人間は、言葉とりわけ名詞を使っ て物事を認識して考えていくという生き物です。であるために、私たちは、言葉の秩序が存在の秩序であると 取り違えてしまうという、大変大きな根本的な問題をもっています。
  すなわち言葉というのは、例えば何でもいいんですが、白と言ったら白であって黒ではないし、灰色でも青 でも赤でもない。もうそれ自体がそうである、というふうに言葉は使われます。
  そうすると、私たちは、言葉の秩序と同じように存在がそうなっていると思う。例えば、「私」という代名詞を 使って自分を見ると、「私が私だけで私である」というような錯覚を抱く。
  しかしよく考えると、私たちは、親との関係・つながりつまりは縁によって生まれてきたものですし、例えば現 在、空気との縁で呼吸をして生きている。食べ物との縁で栄養・エネルギーを得て生きている。このようなさま ざまなものとのつながり・縁によって生きている。そして、その縁が終わると、そこで終わりということで、私たち の命にはやがて必ず終わりがある。
  そのプロセスで、かつては皆さんも、個別にはかわいかったかどうか知りませんが、一般的にはかわいい 赤ちゃんだった(笑)。それから、幼児になり、少年少女になり、というふうにして皆さんの現在の年齢まで来て いらっしゃって、記憶と面影という程度のつながりはあるわけですけれど、しかし生まれた時の赤ちゃんから今 の自分までではそうとう大きな変化をしてきている。
  まさに私たちは、他とのつながりによって時々刻々と変化しながら存在していて、変わることのない本性と いうものを持っていない。そういう意味で実体ではない。
  今申し上げたことを仏教のテクニカルタームでいうと、それぞれどれにあてはまるか、学んできた方にはお わかりのとおりです。
  つながりによって、私たちの命というものが存在している。すべてのものはそうなんですけれど、特に私とい うものの命が存在している、生きている。「縁起」ということですね。
  そして時々刻々と変化しているというのは、「無常」でした。
  それから、縁起ということからいっても無常ということからいっても、私たちは変わることのない本性というも のを持っているわけではない。それを「無自性」といいました。
  そして、縁起、無常、無自性というこの三つは、サンスクリットでいうとアートマン―漢訳語が「我」という言葉 ですね―とちょうど逆になっている。
  アートマン=我=実体は、@それ自体で存在できる。Aそれ自体の変わらない本性を持っている。そして、 Bいつまでも存在する。この三つの性格を持っているものを、アートマン=実体というわけですが、縁起、無 常、無自性というものは、この三つの実体というものの定義とちょうど逆ですね。したがって実体ではない。こ のことを「無我」といいます。
(『サングラハ』127号、6・7頁より抜粋。以下続く。)




『サングラハ』126号

      研究所主幹 岡野守也

 ・PDF版も頒布しています
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 それでは、そろそろはじめていきましょう。
 今夜はこの冬一番の冷え込みだそうで、ここは禅堂・禅会としては比較的ゆるやかで、石油ストーブが三つ も入っていますが、それでも寒いですね。寒さに負けず、しばらく学びをしていきたいと思います。
 『金剛般若経』の言葉の福徳『金剛般若経』の学び、今日はテキスト(ワイド版岩波文庫『般若心経・金剛般 若経』)の五八頁の中ほどからですが、最初のところから重ねて読みながら解説をしていきたいと思います。

 須菩提よ、意においていかに。もし、人、三千大千世界を満たす七宝を、以て用いて布施せんに、この 人の得る所の福徳は、寧ろ多しとなすやいなや」。須菩提言う、「甚だ多し、世尊よ。何を以ての故に。こ の福徳は、すなわち、また、福性に非ざればなり。この故に如来は、福徳多しと説きたもう」。「もしまた、 人有り、この経の中において、乃至四句の偈等を受持して、他人のために説くときは、その福は彼より も勝れたり。何を以ての故に。須菩提よ、一切の諸仏および諸仏の阿耨多羅三藐三菩提の法は、皆、 この経より出でたればなり。須菩提よ、いわゆる仏法とは、すなわち仏法に非ざるなり。

 まずここまでで区切っておきます。
 最初のところで、物質的な宝を使って布施をする、しかも、インド的な比喩は非常に大げさという話をしました けれども、三千大千世界、すなわち仏教的・古代インド的な世界観でいう全宇宙にある七種類の宝すべてを使 って布施をする、とあります。
 そういう布施をしたとして、この人がそのことによって得るところの報いとしての幸せ、その布施の効果、それ を福徳といいますが、これは多いということになるだろうか、という問いをブッダがなさって、スブーティが「それ はもちろん大変多いです」と答える。それはなぜかというと、世界中・全宇宙にある富、そしてその富のもたら す効果というものが、本来は富とか効果というような実体として語ることもできないものだからだ、と。
 今までも申し上げましたが、いろいろなところで「実体としての〜ではない」というふうに読むと、一見矛盾して いるような言葉の意味がわかってきます。ここも「実体としての功徳、効果ではない」というふうに読むといいん ですね。
 すなわち、空とは別の言葉で言うと一如ということでもあると話してきましたが、宇宙と私が一体ということに なると、宇宙の富はぜんぶ私の富、そしてあなたの富でもある、という関係になりますから、布施をすること が、宇宙が宇宙自身のために宇宙の富をこっちからこっちへ移しただけ、ということになります。
 そういう宇宙の働きとしての布施を、私が宇宙の一部として行なう。このような時に、布施が宇宙的に大きな 効力をもつことになる。ほんとうの布施とは、布施をする人・布施するもの・布施をしてもらう人が、ぜんぶ一 体・空という、そこでなされるべきものだ。それは全宇宙にわたることなのだ、と。
 布施というのが最初に出てきたわけですが、ここでもう一度語られて、次のところで福あるいは福徳というふ うな言葉との関連で、今度はいわば精神的な布施、つまり真理を伝えるという布施がテーマとして出てきてい ます。
後の布施のまとめ方、財施と法施それから無畏施という三つの要素で言うと、まず財施の話の先に出てきて、 それから次に法施、真理や教えを施すということが次に語られているというわけです。
 「偈」というのは詩句、「受持」というのはテキストの現代語では「とり出して」というように訳されていますが、 「もし人がいて、このお経のたった四行の詩の句を自分のものとして保ちそれを持って、そして他の人のため に説く時は」ということです。
 この受持という言葉が、単に「とり出す」というよりはなかなか意味が深いと思います。自らがまずそれをちゃ んと保持・記録をする。もちろんちゃんと理解すればますますよろしいのですが、少なくとも自分がそれの価値 を多少でも理解して、そして記憶する。今でいえば本を持っていって「これはいい本だよ」と人に差し上げるとい う手もありますが、昔だったら、やっぱりちゃんと憶えておいて、人にお話をするということです。
 この「福」という言葉は、それを持つ他者をほんとうの意味で幸せにしていくところの効力、功徳ということで す。そういう力、宇宙中の宝を布施するよりももっと大きな効力があるのだ、と。
 それはなぜかというと、仏教では覚った人はみな仏さま・ブッダですから「諸仏」ということになりますが、その すべての仏さま・諸仏が説く真理の教え、それから阿耨多羅三藐三菩提、もうこれより上がなく比較するものも ない真理というものが、この経、つまり具体的にはこの『金剛般若経』で説かれていて、諸仏の最高の覚りの 真理や真理の教えはそこから出てきている、と。

  仏法も実体ではない

 文献学的には大乗仏典は歴史的なゴータマ・ブッダが説いたものではないと確実に言えるという話をしまし た。それをもとにして言うと、これは大変なことを言っているわけで、「一切の諸仏および諸仏の阿耨多羅三藐 三菩提の法は、皆、この経より出でたればなり」と、この経の著者は言っているわけです。
(『サングラハ』126号、6・7頁より抜粋。以下続く。)



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