目 次

 *持続可能な社会とスウェーデン・モデルというテーマで書いた記事がかなり溜まってきましたので、
   読者のみなさんに通しで読んでいただきたくて、目次を作りました。ぜひ、ご覧下さい。

 ○『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』との出会いから「持続可能な国づくりの会」設立まで

 ○スウェーデン・モデルの学び

 ○日本における持続可能な社会づくりの例







持続可能な社会は実現可能である?
2006年3月16日

  小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」――安心と安全の国づくりとは何か』(朝日選書)を読み ました。
  カバーの内容案内に以下のようにありました。

  私たちの社会は、このままでは持続不可能だ。人類の生存を脅かす環境破壊が現実のものとなり、少 子高齢化が進みつつある今、人間の作った仕組みを自然法則に合わせて変えていかないかぎり、次世 代に無事、安心と安全な社会を引き渡すことはできない。
 日本が「失われた10年」を空しく過ごしている間に、スウェーデンは、2025年頃に「生態学的に持続可 能な社会」あるいは「緑の福祉国家」を実現する、という大きな見取り図のもと、年金制度改革、化石燃料 の消費量を抑える、資源の再利用、廃棄物を減らすといった施策を着々と進めてきた。「国家の持続可 能性ランキング」(2001年に「国際自然保護連合」が発展した数字)で1位にランクされている国、スウェ ーデンから、私たちの学ぶものは多い。

  いずれ時間を見つけて、ちゃんとしたものを書きたいと思いますが、取り急ぎ、読者のみなさんにご紹介、ご 推薦しておきたいと思いました。
 この本は、環境がテーマの本としては私にとって70年代の『成長の限界』以来という感じの重要な本になりそ うです。
  一言でいうと、スウェーデンに関しては、実際に環境と経済の両立が実現する見込みが十分にある、という事 実を初めて知って(これまで詳しいことを勉強していなかったので)、プラス−マイナス両方のショックを受けまし た。
  プラスは、十分に自由と民主主義の確立した国なら、近代的な工業国家だった国でも、生態学的に持続可 能な社会に向けての方向転換が可能になる実例があるのだ、といううれしいショックです。
  これまで、「持続可能な開発」というのは環境問題の深刻さをカモフラージュするインチキなキャッチ・フレーズ ではないかと疑っていたことを、少なくともスウェーデンに関しては訂正する必要があるようです。
  マイナスは、現在の日本がスウェーデンとはまるで違う方向を向いていて、当面とても方向転換できそうには 見えない、ということへの深い残念さ(コスモロジーや論理療法をやっていなかったら、過剰な絶望感になりかね ないくらいの)を感じさせられた、ということです。
  私の中で、このうれしさと残念さの入り混じった気持ちの振幅は、そうとうなものです。
  いずれ私も書きますが、関係者のみなさん、まだでしたら、ぜひ読んで、ご意見をお聞かせ下さい。







環境問題:入口と出口の限界
2007年8月29日

 1972年の『成長の限界』以来、環境問題の本をいろいろ読んできましたが、もっとも問題の原因−現象−結 果について明快にしてくれたのが、小澤徳太郎先生の『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日新聞社) であったことは、何度も書きました。
 「持続可能な国づくりの会」の設立総会でお目にかかってお話しした後、帰ってきてまた改めて頁を繰りなが ら、下記の図の意味を再確認しました。
 環境省(つまりは国の機関ですが)も、理論としては経済活動の拡大が環境問題の原因であることは明快に 捉えているわけです。
 資源の大量消費によって、経済活動の拡大すなわち大量生産と大量消費が可能になるが、その結果、資源 の枯渇と大量廃棄=環境の汚染が進行する、と。
 この公的文書(環境白書)にいわば国の見解としてはっきりと公表されている図解の意味は決定的に重要だ と思います。
 つまり、どう考えても、これまでのようなやり方の「経済成長」には、はっきりと入口と出口の両方で限界がある のですね。
  ただ、この認識が国の経済と環境の政策に十分反映しているとは思えません。そこが問題です。

 
 このあたりの問題については、小澤先生のブログにしっかりと書いてありますので、私が繰り返す必要はあま りないと思います。
 環境問題の根本的な解決を本気で望んでいる市民のみなさん、ぜひお読みになることをお勧めします(特に 市民連続講座:環境問題)。







日本を〈緑の福祉国家〉にしよう!
2006年4月24日

 

 昨日は、若者たちの手を借りて、サングラハ教育・心理研究所の会報『サングラハ』第86号の発送をしまし た。
 そして、発送が終わった後で、ミーティングを行ないました。
 この授業でお伝えしているようなコスモロジーを、どうすればもっとたくさんの人に伝えることができるか、その ための機関としての研究所をどうしたら経済的に確立できるか、そのことによって日本全体をよりよい方向に変 えることにどう貢献できるかなど、テーマは重く真剣なものでしたが、終始笑いでいっぱいの楽しい雰囲気で徹 底的に討論することができました。
 そのための企画の一つとして、研究所の会員であり、会報に連載してくださっている前国立環境研究所所長・ 東京大学医学部名誉教授の大井玄先生(内諾済)、最近お目にかかったばかりの『スウェーデンに学ぶ「持続 可能な社会」』(朝日選書)の著者、小澤徳太郎先生(これから交渉)と筆者の3人、もしくはもうお1人くらいに加 わっていただいて、「日本を〈緑の福祉国家〉にしよう!――本当に持続可能な社会を実現するための条件」 (仮題)というふうなシンポジウムはどうだろう、という提案をしましたが、ぜひやろうと盛り上りました。
 (企画がまとまったら、またこのブログやサングラハのHPでお知らせします。ご期待ください。)
 その他のことについても、若者諸君は、課題に向けて、決心を新たにしてくれたようです。
 東海道線上りの最終ぎりぎりまで話し合って、家に帰り着いたのは12時過ぎでした(それでもミーティング・ル ームを藤沢にしたお陰で、東京での講座よりは1時間以上早く帰れて、還暦まじかの私には助かります)。
 帰って郵便ポストを開けると、会員の甘蔗珠恵子さんの『まだ、まにあうのなら――私の書いた いちばん長 い手紙』増補新版(地湧社)と知人の尾崎真奈美さんの『ウィルバー・メッセージ 奇跡の起こし方――みんなつ ながっていて だれもが正しいんだよ!』(グラフ社)が届いていました。
 前者は「原発はいらない。みんなが気づけば、まだ、まにあう」、後者は「いじめも戦争もなくなるよ、ほんとう に」という、熱いメッセージの本です。
 ネット受講生のみなさん、ぜひ、読んでみてください
 もしかしたら日本も、長い長いあきらめやたかをくくるという停滞の後で、ようやくよりよい社会の実現に向かう ほかない、そしてそれは不可能ではない、とみんなが動き始めているのかもしれない、という期待を感じていま す。
 私も、ちょうど、会報の「学びのことば」というコラムで、以下のようなメッセージを発信したところでした。

 それゆえに、若者よ、国土清浄を欲する菩薩は、自分の心を治め浄めることにつとめるべきであ る。
 なんとなれば、どのように菩薩の心が浄らかであるかに従って、仏国土の清浄があるからであ る。
(長尾雅人訳『維摩経』中公文庫より)

 漢訳書き下し

 是の故に宝積(ほうしゃく)、若し、菩薩浄土を得んと欲せば、当に其の心を浄むべし。
 其の心浄きに従って則ち仏土浄し。

 今日本では(そして世界全体でも)、見聞きすればするほど、腹が立ったり、悲しくなったり、気が重くなったり、 心が暗くなるようなことが頻発しています。
 このまま行くと、「不幸な人だらけの国・ニッポン」になるのではないかと危惧します。
 「どうしてこんな国になってしまったんだろう?」という疑問形の嘆声をあげる方も多いでしょう。
 また、そこであきらめてしまう人も多いのですが、サングラハに関わってくださる方たちは、あきらめないで、 「どうしたらこの国をよくすることができるだろう」と考えておられると思います。
 そして、「国をよくする出発点は自分の心をよくすることだ」という点については、合意してくださっているでしょ う。
 いい心・英知のある国民とその代表としてのリーダーがいなければ、国はよくなりません。
 もっといい国にしたいのなら、まず自分の心をよくすることです。
 そして、リーダーの心をよくすることです。
 さらに、リーダーの心があまりよくないようなら、少しでもましな心を持った人間が代わってリーダーになるべき です。
 聖徳太子以来(太子は『維摩経義疏』を書いたとされます)、日本は建前としては菩薩がリーダーになるべき 国です(拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む――日本の理想』大法輪閣、参照)。
 日本のリーダーは菩薩であるべきだ、と言い換えてもいいでしょう。
 優れたリーダーのいる国は、優れた国になりえます。
 そして今「優れた国」とは、何よりも経済と福祉と環境のバランスのとれた「真に持続可能な国家」を意味す る、と私は考えます。
 最近、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(小澤徳太郎、朝日選書)という本を読んで、衝撃でした。
 どうも、スウェーデンは計画的に着々と「持続可能な国家」の確立に歩を進めているようです。
 そしてそれを可能にしているのは、賢明な国民と賢明なリーダー(財界人も含む)の協力体制であるようです。
 戦後、ひたすら経済偏重で来た日本と、経済と福祉のバランスを考え、さらに環境とのバランスも可能な社会 を現実に構築しつつあるスウェーデンの差は、英知・賢明さの違いだと思います。
 しかし、もともと「菩薩」という理想を持っている国日本ですから、その差を埋めることは不可能ではないと思い ます。
 経済偏重を脱して、バランスのよさ・真に持続可能な国家の構築という点でこそ、ぜひ、「追いつき追い越」し たいものです。
 ガンバレ! ニッポン! ガンバレ! 私たち!







緑の福祉社会・シンポジウムの企画
2006年4月29日

 すでに一部お知らせしていますが、「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい」というシンポジウムを企画しています。
 昨日しっかりと話し合った結果、小澤徳太郎先生も喜んで参加・協力してくださるとのことです。
 環境が危ないという情報が溢れている割にははっきりと希望のある方向がほとんど示されていない――と私 には見えます――中で、方向指示の決定版になると思います。
 今、前国立環境研究所長の大井玄先生と、小澤先生と、私の3人の合意のポイントは、

 1)エネルギーの無制限な消費を続けることは地球環境そのものの限界からして不可能である(しかしエネル ギーの浪費をしなくても、環境・福祉・経済のバランスを取ることが可能であることはスウェーデンで実証されつ つある)。
 2)(スウェーデンが典型的であるように)環境問題の根本的な解決には政治・政府主導の方向付けが必要で ある。
 3)本当に環境・福祉・経済のバランスの取れた〈緑の福祉国家〉を実現するには、それを可能にする国民の 文化、指導者の資質という心の問題を視野に入れることが不可欠である。

という3点です。
 もう一人の候補の方とも話し合って、この3点で合意できたら参加していただくかもしれません。
 ともかく、いわば環境の〈ビッグ・ネーム〉に集まっていただくことができるのですから、しっかりと広報活動をし て、できれば政治家や環境運動家や各分野の専門家なども含む本気の人を300人集め、シンポジウムの内 容は出版し、それを核にしてさらに、方向性・思想のはっきりした環境運動を確立していくスタートにしたいと願 っています。
 これは、自分につながる次の世代のために希望ある未来を創出するための、いわば先行投資です。
 そういう意味で、本当の成功には、あらゆる世代の参加・協力が必要です。
 ネット学生のみなさんにも、ぜひ、ご参加・ご協力をお願いします。
 それぞれのブログや口コミなどで、このシンポジウム企画の先行広報、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社 会」』の広報、私の「自然成長型文明に向けて」の広報などに協力してください。







愛するもののための持続可能な社会
2006年5月4日

 

 約1週間、娘夫婦と1歳10ヵ月の孫娘と過ごしました。
 楽しさとかなりの疲れの入り混じった濃い時間でした。
 もっと体力と気力がほしい!
 孫娘は、日進月歩の成長で、前回会った時は初めて「じーじ」「ばーば」と呼んでくれたのですが、今回はこれ また初めてかたことで「じーじ、だいすき」「ばーば、だいすき」と言ってくれました。
 期待していたのですが、期待以上の感動でした。
 彼女は、パパとママとじーじとばーばとみんないるのが好きで、誰に言われたのでもなく「みんなだいすき」と言 っていました。
 愛情深くて元気でストレートなとても可愛い子です。
 これからこの子が生きる世界がひどいことにならないように、じーじとしては最善の努力をしようと改めて思っ たことでした。
 ばーばも「ほんとうにそうね」と共感と協力の意思を再表明してくれました。
 データを読めばはっきりしているように、時代は特に環境に関してこのままではひどいことになっていくことは ほぼ確実です。
 もう「うちの子だけよければ」という発想では「うちの子」もよくなれない時代になっていると思います。
 美辞麗句ではなく本当に「持続可能な社会」を構想し構築することは、大きなスケールのヴィジョンの話である だけではなく、それなしにはもう愛するものの未来の幸福を保証してあげることもできない、身近で切実な問題 になっているのだと思います。
 そういう意味で、今のピンチは持続可能な社会を創出するためのチャンスに変えることもできるのではないで しょうか。
 愛するものをもっているみなさん、課題の大きさに、引いたり、ひるんだり、あきらめたりしないようにしましょ う。
 彼ら、彼女らの「いいご先祖さま」になれるよう、精一杯の努力をしていきましょう。







よかったら一緒に〈緑の福祉国家〉へ
2006年5月6日

  政治家を目指す女子学生への公開書簡

 Oさん、しばらく連絡をしていませんでしたが、元気にしていますか。連休ももう終わりですね。どう過ごしました か。
 約束した、私の知っている政治家に紹介するという件を果たしていないこと、忘れたわけではありません。ずっ と心にかかっています。
 しかし、今すぐあなたを政治家に紹介することに意味が感じられなくて気乗りがせず、忙しさもあってそのまま にしていました。本当に失礼しました。
 このまま約束を破ったかたちのままうやむやで終わらせるのはよくないな、なぜ気乗りがしないのかをお伝え しておいたほうがいいなと思い、手紙を書いています。しかも、これは単に個人的な問題ではない部分がありま すので、あえてブログ公開のかたちにさせていただきました。
 あなたの「政治家になって世の中をよくしたい」という気持ちは出発点としてとても大切だと思うのですが、それ だけにその後の方向性がもっと大切だと思うのです。
 何を目指して政治家になるのか、それを実現するにはどういう条件が必要なのか、それが明確でないと、政 治家になれたとしても、それ自体が自己目的化してしまい、いつの間にか目指していたものと違う結果を生み出 してしまう、というのはこれまでの理想や善意に燃えて政治家になったはずの人たちがあまりにもしばしば陥っ た落とし穴です
 その最悪の例の1つが、暴力によるロシア革命と成功(?)した結果としてのスターリズムです。ロシアの共産 主義革命は、意図としてはすべての人民の解放と幸福という善意だったのですが、結果は恐るべき専制と抑圧 だった、と結論づけるほかないようです(その他の国でもほとんどそうだったのではないでしょうか)。
 学生時代にそういう歴史的事実を知って以来、「では、どうしたら、暴力によらない、スターリニズムに陥らな い、社会の変革が可能になるか。そもそもどういう社会が望ましい『いい社会』なのか。それを実現するための 必要・十分条件は何か」ということを探究し続けてきました。
 私は、60年代末の学生時代以来、一部政治も含め実にさまざまな運動に関わってきましたが、ずっと失望し てきました。運動家たちはみないちおう善意ではあるのですが、それは唯識でいうマナ識的なこだわりをほとん ど自覚していない善意だと私に見えました。
 そのため、善意で出発してもその善意とは違った結果を生み出すということが、あまりにも頻繁だったので す。
 そこで、自分自身の善意を自己絶対化することなく心の奥のマナ識的こだわりに少なくともはっきり気づいて いること、そしてできるだけ浄化の作業に取り組んでいることが、善意の実現のための決定的な必要――十分 ではないが――条件だと考え、そのことに40年近くそうとう集中して取り組んできました。それが、私のこれまで の主な仕事(著作等)です。
 しかしそれと並行して、「どういう社会がいい社会なのか」ということも考え続けてきました。
 そこではっきり認識したことは、どういう社会がいいかということに先立って、そもそも「社会そのものがそのベ ースである自然環境なしには成り立ち得ない」というきわめてシンプルな事実です。
 いい社会を創るためには、大前提としていい自然環境が持続していることが必須なのです。
 ところが、日本を含むいわゆる先進工業国の大半は、そのシンプルな事実の厳密な認識が不足したまま営ま れている、と私には見えます(認識がまったくないわけではなく、日本の各政党もいちおう政策綱領の一部に取 り入れてはいるようですが、優先順位の位置づけが不適切だと思います)。
 そこで、自然と調和した新しい文明(文化や政治・経済システム)を構想する必要があると考え、ある段階でま とまったヴィジョンを「自然成長型文明に向けて」という文章にまとめました(まだでしたら、ぜひ読んでみてくださ い)。
 しかし、そこで考えた到達すべき目標と日本の現状のあまりの隔たりに、具体的にはどうすればいいのか、考 え込んでしまいました。
 そこで、とりあえずまずこうした認識をできるだけたくさんの人に伝え共有してもらうことから始めようということ で、研究所を開設し、大学にも行くことにしたのです。
 そこで目標と現実の距離を埋めることのできるリーダーを育てたいと思ったからです。そして、もちろんさまざ まな領域でのリーダーが必要なのですが、この大きな距離を埋めるには、特に強力な政治的リーダーシップが 必要だと考えてきました。
 しかし70年代の新左翼の影響の強かった学生運動の敗北―終結以来、日本の善意ある市民の多くは「政治 アレルギー」に罹ってしまっていて、理想・善意に燃えて政治を志す若者がほとんど見当たらなくなっているよう です。私の見るかぎり、いても、先に言ったような問題には気づいていないようです(これが私が知らないだけの 誤解であればうれしいのですが)。
 そこに、私の授業を受けたあなたが「政治家になりたいです」と言って来てくれたのですから、もう「待ってまし た。ようやくこういう若者が出てきたか」という感じで、うれしかったのです。
 さらにそれに加えて、新学期始まって早々、まるで共時性・シンクロニシティのごとく、『スウェーデンに学ぶ「持 続可能な社会」』、著者の小澤先生との出会いがありました
 私にとって、小澤先生の報告しているスウェーデンの方向性――「緑の福祉国家へ」――は、日本などのよう な「高度産業型文明」という現状から未来のあるべき「自然成長型文明」へ向かう、実現可能な、それどころか 実現しつつあるプロセスに見えています。
 この件に関して、ブログの「緑の福祉社会・シンポジウム企画」の記事に書いたとおり、小澤先生と私の間に は3つの点で大きな合意ができています(これももしまだでしたら、ぜひ読んでください)。
 私としては、そういうことを学んでもらうことのほうがまず必要で、政治家に関わり、実際に政治家になっていく のはその後のほうがいいと思っているのです。
 でないと、「善意が悪い結果をもたらす」というこれまでの悪い例にまたしても陥るのではないかと危惧します。 というより、陥る危険がきわめて高いとシミュレーションをします。
 そういうわけで、政治家に紹介するという約束は、当面、申し訳ないのですが破棄させてください。
 そして、よかったら「緑の福祉国家」に向けて、遠回りのように見えても結局はいちばん着実だと私が思ってい る活動に参加してもらえると、とてもうれしいです。
 返事は公開でも非公開でも、してもしなくても、かまいません。ともかく、これが最近ご無沙汰のお詫びです。
 では、よい学び、世の中をよくしたいという志、ぜひ持続してください。







シンポジウム:日本を〈緑の福祉国家〉にしたい! 広報1
2006年5月17日

 

 今日は、シンポジウム「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい!(仮題)」の広報の意味で、書き終えたばかりの 『サングラハ』の「近況と所感」の一部を刊行に先立って掲載することにしました。

 今年度は、学生だけでなく教師の方ともとても不思議な出会いがありました。
 前号でもご紹介した『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)の小澤徳太郎先生との出会いで す。
 私がその本をブログで紹介したら、教え子の一人がそれを読んで、今年法政社会学部に小澤先生が非常勤 で環境論の授業に来られることを知らせてくれました。
 お会いして話をしたいと思っていたので、「これは何というタイミングだろう。大学へ行ったら連絡先を聞こう」と 喜んでいて、最初の授業に行って終わって講師室に帰ると、なんと、事務の方が小澤先生の名刺と伝言を伝え てくれたのです。
 その教え子が小澤先生の授業に出て、終わって話に行き、私の紹介で小澤先生の本を読み始めていると伝 えたのだそうです。
 先生は、「スウェーデンはどうでもいい。日本をなんとかしたいのだ」と言っておられたそうで、どうも本気の人 のようでした。行動の速さはその本気さの表われのようです。
 早速連絡を取って、次回の私の授業の後でお目にかかることになりました。ところが、小澤先生は、私の「自 然成長型文明に向けて」もHPを検索してすでに読んでくださっており、さらにその日は早めに来て、なんと私の 授業を聞いて下さったのです。
 終わってからうかがうと、授業を聞いた結果、持っていた疑問がほとんど解消したとのことでした。そして、環 境に関する見解がほぼ一致していることも確認できました。
 その日は、お互いに次の予定があって時間が足りなかったのでもう一度会うことになり、次にお会いした時に は、徹底的に合意点を確認することができました。
 そこで、「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい!(仮題)」というシンポジウムを提案したところ、全面的に参加・協 力していただけることになりました。
 本誌に連載してくださっている前国立環境研究所所長の大井玄先生にも加わっていただいて、これまでの環 境論、環境運動に足りなかったところをはっきりさせ、これからの日本と世界がどこに向かったらいいのか、明 快な方向指示になる共同提案をしようということで、完全に意思一致ができました。
 今後、本誌でもやや詳しく論じていくつもりですが、まず三者の合意点を簡略にお伝えしておきます(先日、大 井先生ともしっかり確認をしました)。

@エネルギーの無制限な消費を続けることは地球環境そのものの限界からして不可能である(しかしエ ネルギーの浪費をしなくても、環境・福祉・経済のバランスを取ることが可能であることはスウェーデンで 実証されつつある)。
A(スウェーデンが典型的であるように)環境問題の根本的な解決には政治・政府主導の方向付けが必 要である。
B本当に環境・福祉・経済のバランスの取れた〈緑の福祉国家〉を実現するには、それを可能にする国民 の文化、指導者の資質という心の問題を視野に入れることが不可欠である。

 まず、夢のエネルギー技術ができたら、無限にエネルギー消費を続けるような経済の拡大もそのままできる、 ということは、廃熱―熱汚染ということを考えるとまったく不可能です。
 そのことに気づいていない、技術によって環境問題がすべて解決できるかのような主張に対しては、ここでは っきりノーを言った上で、しかし、環境・福祉・経済のバランスの取れた社会の質的成長は可能であることをスウ ェーデンは実証しつつあることの事実認識を共有していきたいと思います。
 それから、環境問題という大きな問題は、個々人ができることからすることによっては解決できません。
 一国の経済システムそのものの方向転換は、政治・政府の強力な方向づけなしには実現しないでしょう。逆に 言うと、スウェーデンは、政府の方向づけがあれば実現しそうな実例です。
 日本人もここで政治アレルギーを克服して、持続可能な社会を構築できる、政権担当能力のある政治勢力を 創出する必要があると思われます。
 そういう政治勢力を創出するには、そういうヴィジョンと能力のある政治的指導者が必要です。
 その指導者は、権力そのものを自己目的としてしまうことのないような、高い人間的資質を持っている必要が あります。
 そして、そういう指導者が生まれ選出されるには、そういう質の高い国民文化が必要です。
 そして、ここからはまだ討論―合意の過程を踏んでいない私の意見ですが、岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』 (岩波新書)などを見ると、スウェーデンはきわめて賢明な指導者を次々に生み出す国のようです。
 同書に描かれている、スウェーデンの政治家たちの柔軟で実際的でありながら、時間をかけて確実にヴィジョ ンを実現していく政治力には驚いてしまいます。
 しかも、「スウェーデンは長期政権にありがちな政治腐敗の定期的噴出・腐敗の構造化という事態を慎重に回 避してきた。そのために、権力が自ら、定期的にその構造を徹底的に分析・調査してきた。権力の自虐的とも 言える自己省察は感動的でもある。権力が自らの既得権を調査の対象にするという行為は、デモクラシー成熟 の条件であるかもしれない。」(同書137頁)というのです。
 「権力は必ず腐敗する」という言葉がありますが、驚くべきことに、ほとんど腐敗しない権力も実在するようで す。「自浄能力のある権力」というのが現実にあるのです。
 こうしたスウェーデンの実例からすると、日本の良識的な人の多くが無意識にもっている――私ももっていまし た――「権力(政治)は汚い。だから、権力(政治)に近づくと自分も汚れる。だから、汚れないためには、権力 (政治)には手を出してはいけない」という思い込みは、日本の政界の現状を見ただけの「過度の一般化」であ ったということが言えそうです。
 岡沢氏の語るスウェーデンの政治の姿が、理想化・美化されたものでなく、おおむね事実だとしたら(どこまで 事実かこれから自分で確かめていきたいと思っていますが)、その事実をしっかり認識することが日本人の政 治アレルギーへのきわめて有効な解毒剤・治療薬になるのではないか、と私は期待しているところです。

 つい最近の授業の後、話しにきた学生にシンポジウムの話をしたら、日本の良識的な人(学生)の典型的な 反応をしました。
 〔そういう政治的な運動をすることは〕「危なくないですか?」と。
 私は、「放っておいてこのまま環境が悪化していくことの危なさと、運動をすることの危なさの、どちらがより危 ないと思うかい? 運動しないでおいたら、自動的に環境はよくなるのかな? 今の政府がちゃんとよくしてくれ ているのかな?政治の主導権を取ることを考えない市民運動をすることで、全体の環境はよくなってきたのか な?」と問うと、その学生はポイントに気づいてくれたようです。

 確認しておくと、かつても今後も、サングラハでは直接政治運動をするつもりはありません。
 しかし何よりもまず、現代において「本当によりよい社会とはどういう社会か」、「そういうよりよい社会を創出で きるよりよい指導者とはどういう人間か」ということを明らかにしたいと思うのです。
 そのことを通じて、政治も含めあらゆる分野のすぐれた指導者を育てたいと思っています。
 それは、創設以来変わることのない、サングラハの目標です。
 心のことを重要視してきましたが、決して、ただ心のことだけをやっているのではないのです。
 この秋(日程はほぼ11月19日(日)で決まると思います)、予定しているシンポジウム「日本を〈緑の福祉国 家〉にしたい!」も、それ自体を政治運動や政治集団へと展開していくつもりはありませんが、そこで示された方 向を刺激―ヒント―指針とした新しい政治運動や政治家が育つことは期待しています。
 何度もお話ししていますが、一つのモデルは松下村塾です。
 ある方向性をもった学びの集まりですから、ある意味で思想運動だということはできるでしょう。
 しかしこれも何度でも繰り返す必要があると思いますが、決して参加者に何かを強制することのない、まったく の自発性と合意に基づいて学びの共有を目指す運動なのです。
 私たちの時代の大きな危険を放置したくない方、よかったらコミットして下さい(ということは、よくなかったら、 いつでも自由に去っていただいてかまいません、ということです)。
 みなさんのご支援とご参加を心からお願いします。

*以上の記事を、自由にリンクしたり、コピー、引用して広報に協力したいただけると幸いです。







緑の福祉国家への第一歩
2006年6月23日

 

 昨日は、藤沢ミーティング・ルームで、11月19日のシンポジウム「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい(仮題)」 に向けた、ミーティングを行ないました。
 『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)の著者、小澤徳太郎先生と、前国立環境研究所長の 大井玄先生と、私の三者の合意点を確認し、さらに具体的にどう進めていくかを話し合いました。
 スタッフ参加を申し出てくれた方たちの何人かにもオブザーバー参加をしてもらって、終電まで熱く語り合いま した。
 このシンポジウムの場に、できるだけたくさんの、政治家、知識人、活動家、メデイア関係者、それにもちろん 市民のみなさんに結集していただいて、これからの日本の進むべき方向について、大きな合意を形成する場に したいと願っています。
 あるべき民主主義の政治のあり方を確立し、経済と福祉と環境のバランスのとれた安心して生活できる国創 りに向けて、できるだけのことをしていくことを、参加者全員で確認しました。
 これで、〈緑の福祉国家〉への第一歩が踏み出されたといってもいいでしょう。
 折にふれて広報をしていきたいと思いますので、本ブログの読者のみなさんも、ぜひ、ご注目、ご理解、そして ご参加いただきたいと思います。







日本は心理的な雪崩寸前?
2006年6月28日

 YOKOさんの6月25日のコメントに以下のような、やや質問風の感想がありました。

 私は『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』を読みながら、彼(スウェーデン)と我(日本)のあまりの 違いに暗澹たる気分に陥ります。問題は山積みなのに時間は短くて・・。どこから手をつけるべきかと考 えると・・・。まず問題意識の共有とそれぞれのちからを結集ということですか?

 これは、多くの方が共通に感じる感想−質問という面があると感じましたので、ここでお答え風感想を述べた いと思います。
 私も、『スウェーデンに学ぶ……』を読んだ時、あまりの違いに絶望的な気分になりそうになりました。
 YOKOさんの「暗澹たる」という表現、とても共感できます。
 そうですね、問題は山積みです。
 どこから手をつけるべきか、考え込んでしまいそうですね。
 しかし、実は私は1970年代に『ローマクラブ・レポート 成長の限界』(ダイヤモンド社)を読んだ時に、すでに そういう気分になりました。
 そこで、いろいろ考えてきた結果やってきたのが、編集者時代の企画であり、自分の著作であり、サングラハ の創設でした。
 そのプロセスで、願望実現瞑想法という、一見怪しく見える方法に出会いました。
 それは、簡単にいうと、宇宙の法則に沿っている切実な願望は、適切な瞑想をすると実現する、という話で す。
 その第一歩は、「もし願望をもつのなら、それは必ず実現すると信じること」という原則です。
 疑っていては、実現する確率がいちじるしく下がります。
 強く信じると(そしてもちろんその信念のエネルギーを元にして適切な行動をすると)、実現する可能性が高ま るのです。
 だから、願望が本当に切実なのなら、それは必ず実現すると信じるのです。
 ……というわけで、私はそれを学んで以来、絶望しかかるたびに、自分に「本当に切実に願っているのか」と 問い、内面から「本当に切実だ」という声が返ってきたら、「ならば、信じよう」と言い聞かせてきました。
 なので、YOKOさんの「暗澹たる気分に陥る」のはとてもよくわかるにもかかわらず、私は暗澹たる気分になら ないのです。
 それから、「時間は短くて」ということに関しては、「コスモスには進化のための時間はたっぷりあるので、大丈 夫!」と思うことにしています。
 肝心の「どこから手をつけるべきか」ということについては、おっしゃるとおり、「まず問題意識の共有とそれぞ れのちからを結集ということです」。
 しかも今回共有するのは1つ、「少なくともスウェーデンでは、一国単位で解決の目途がついている」らしいとい う驚くべき事実の認識です。
 確かに、日本との違いは大きいのですが、スウェーデンにできたのですから、日本も条件さえ調えられれば、 実現できないはずはありません。
 条件を調えるには、もちろん「一人では何もできない」のです。
 しかし、一人でできないのなら、みんなでやればいいのではありませんか?
 問題は、どうすればみんなでやれるのかということですが。
 そのためには、ともかく今の段階で認識を共有できる人が「ちからを結集する」ことですね。
 その力の結集を、多くの政治家、学者・知識人、環境活動家、メディア関係者などのオピニオン・リーダーと、 心ある市民で行なえばいいわけです。
 かつて梅原猛氏が、「日本人は雪崩を打つ国民である」という名セリフを言っておられます。
 大雪の積もった斜面に、小さな雪玉をぽんと投げてやると、たちまち雪ダルマになり、そしてそれに釣られて 斜面全体が雪崩になるという現象があります。
 日本の歴史を見ると、日本人はなかなか変わらないように見えて、変わる時には雪崩を打って変わることので きる国民のようです。
 自然を愛してきた日本人が今環境の荒廃に感じている、まだ十分には意識化されてはいないけれど、じつは とても深い不安は、もしかすると雪崩寸前の心理状況かもしれません。
 だとしたら、必要なのは、最初の雪玉です。
 秋、私たちが行ないたいと思っているシンポジウムは、そういう雪玉を投げてみる試みです。
 雪の斜面の状態次第では、深い雪の中にぽんと埋もれておしまいかもしれませんが、雪崩を誘うことができる かもしれません。
 ともかく、やってみる価値はあると思うのです。
 ぜひ、一緒にやってみましょう。







もう夏?
2006年7月15日

 まだ梅雨明け宣言はありませんが、湘南地方はかなりきつい日射しで、猛烈な暑さでした。
 私の好きな夏の花、ハチス(槿ともいう)が咲き始めました。
 特に真っ白なハチスが、暑い日射しにも負けず、凛と咲いているのが好きなのです。
 私も、ああいうふうでありたい、と思うのですが、この暑さではなかなか。
 夕方になって、いくらか涼しくなり、外に散歩に出たら、林で蝉が鳴き始めていました。
 妻に聞くと、昨日からのようです(私は朝から大学などずっと外出でしたので)。
 しかし、今日は何ともうカナカナが鳴き始めていたのです。
 これはちょっとちがうのではないか、と思ってしまいました。
 私の記憶では、カナカナは、夏の終わりを告げる少しさみしい気分にふさわし蝉だと思っていましたので。

 これは、異常気象のせいではないんでしょうか? くわしい方、教えてください。
 (*ふと思い出して、人に頼っていないで自分で調べようと、ウィキペディアを見てみたら、「地域にもよるが、 成虫は梅雨の最中の6月下旬頃から発生し、ニイニイゼミ同様、他のセミより早く鳴き始める。以後は9月中旬 頃までほぼコンスタントに鳴き声を聞くことができる」とあって、この件に関しては大丈夫のようです)。

 しかし、去年の夏は記録的な暑さ、この冬は北では記録的な豪雪だったことは確かで、今年の夏はさらに記 録的な暑さ……ということにならなければいいんですが。
 「茹で蛙」の話は、もう現実化しつつあるのかもしれない、と感じています。
 もっとも大きなコスモスのスケールでは心配していないんですが、地球規模のスケールについてはとても心 配です。







競争原理から協力・つながり原理へ
2006年7月16日

 以下は、2003年に『人材教育』という雑誌に書いた小エッセイですが、ふと思い出して、この時点で改めてみ なさんに読んでいただこうかなと思いました。

 ごく最近、遅ればせながら、2002年度アカデミー賞主要4部門授賞で評判の『ビューティフル・マインド』を見 ました。
 研究に打ち込むあまり精神のバランスを失い、統合失調症の幻覚に悩まされふつうの生活ができなくなった、 天才数学者ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアが、妻の愛に支えられて、やがて大学に復帰し、ついにノーベ ル賞を授賞するまでの47年の苦闘の、実話に基づいた物語です。
 「ゲーム理論」について多少は知っていたのですが、その土台を築いた数学者にこんなドラマがあったとは知 りませんでした。
 そして、評判どおりとても感動的な物語でした。
 しかし、ここでは映画の紹介をしたいわけではありません。
 不勉強をさらけるようで恥ずかしいのですが、この映画で、「ゲーム理論」が――ノーベル賞を授けられるほど ――確立され広く承認された理論であることを改めて確認したことを言いたいのです。
 主人公が友人達とバーに行くと、3人の女子学生が入ってきて、中の1人が大変な美人なので、目は彼女に 集中します。
 その時、主人公はインスピレーションで、従来の競争理論に基づいて行動すると、男達は美女に集中して奪 い合いをし、結果としては誰もが彼女を手に入れることができない、しかしもし「自分の利益とグループ全体の 利益を同時に追求する」ことにして、競争をやめて他の2人にもアプローチしたら、みなが女子学生の誰かと付 き合える(つまり全体の利益になる)、と言います。
 主人公はやがてそれを数学的に定式化し、150年間の定説であるアダム・スミスの理論――「各人が自由に 自分の利益を追求することが本人の利益にも結局全体の利益にもなる」――を根底から覆したというのが、話 の始まりです。
 しかし映画の話はそこまでで、私が言いたいのは、「ゲーム理論」がノーベル賞的に正しいとすると、もしかし て「競争原理(理論)」が社会や会社を活性化すると思っている(ように見えます)、日本も含む先進諸国の多く のリーダーのやっていることは、とても古く(150年前)有効性を失った理論に基づいていることになるのではな いか、ということです。
 数学理論そのものを論評する力はありませんが、どうもそうではないかという気がします。
 気がすると言っても、単に主観的・直感的に言っているわけではありません。
 ここ数年、現代科学の様々な分野の標準的な仮説をできるだけ統合的に学んでみた結果、近代科学から現 代科学へは大きな飛躍があることに気づいたことと、その話が非常によく一致しているからなのです。
 そして、教育=人材育成、人材活性化=再教育に関わる世界でも、すでに「競争原理」(筆者の用語では「ば らばらコスモロジー」)ではなく「協力原理」(「つながりコスモロジー」)、しかもきわめてスケールの大きな規模の 協力・つながり原理に移行することが、真の、長期的な、自・他の利益になる時代がはっきり来ている、と筆者 は考えています。







日本も緑の福祉国家に
2006年7月22日

 去年の夏は記録的暑さでした。
 今年の冬は記録的豪雪でした。
 そして今年の梅雨は記録的豪雨が続いています。
 私の親しい環境専門家の方は、「明らかに地球温暖化による異常気象です」と言っておられました。
 私たちは「身近なできることをする」だけでは、「本当に効果のある」ことをすることはできないようです。
 では、どうすれば本当に効果が出るのでしょうか。
 私たちが今達している結論は、「人間の経済行為を自然の許容する範囲にとどめながら、しかも一定の安心 で安全な豊かな社会を維持できるような成長は続ける」という戦略を政治主導−国家単位で実行するほかな い、ということです。
 そういう、「経済・財政と福祉と環境のバランスを取る」という離れ業を実現しつつある国がある――スウェーデ ン!――というのは、驚くべきことですが、事実だと思われます。
 スウェーデンに関する情報を知れば知るほど、驚きと羨望とそして希望の思いが湧いてきます。
 今日も終電まで、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』の著者小澤徳太郎先生と、シンポジウムに向けて の打ち合わせを、スタッフも含めて徹底的に行なってきました。
 「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」







生態系崩壊の崖っぷち――ジャンプか転落か
2006年7月23日

 シルル紀(4億3千9百万年前)に植物が海から上陸しはじめ、デヴォン期(4億8百万年前)にそれを追って 動物が上陸をはじめて、海と陸との「環境」と生物のバランス、微生物と植物と動物のバランスという意味での 地球の「生態系(エコ・システム)の原型がほぼ出来上がってきたと考えられます。
 このシステム=組織は、コスモスの130億年以上の自己複雑化・自己組織化の成果です。
 地球の歴史でいっても、40億年以上の進化の産物、生命の歴史でいえば35億年あまりの進化の到達点で す。
 このシステムは、生命と非生命(環境)、それぞれの生命グループというふうに分かれてはいても(分化)、一 つのシステムとしてまとまりをもち絶妙のバランスを保ってきたようです(統合)。
 しかし人類の登場、特に文明の誕生以来、人類(の一部、文明を形成した人々)は、必ずといってもいいくらい その文明圏の生態系のバランスを壊してきたようです。
 「文明の後に砂漠が残る」という言葉があるとおりです。
 考えて見ると、古代文明の後はすべて砂漠的な環境になっています。
 いまや文明の規模はグローバルになっていますから、生態系の崩壊もグローバルに起こりつつあります。
 そういう状況を見て、「人間は地球・生態系のガンだ」という人もいます。
 確かにこのままだと、そう言われても仕方ないでしょう。
 そして、ガンそのものがガンの患者さんの死と共に死なざるをえないように、人類も〔人類が生き延びられるよ うなかたちの〕生態系の崩壊と共に崩壊するのは理の当然です。
 (といっても、人類をふるい落とした後、ややかたちを変えた生態系は確実に残り、コスモスはまちがいなく進 化を続けると思われますが)。
 しかし私は、人類が地球のガンとして絶滅していくのか、コスモスの自己認識・自己感動器官として意味深い 生存を続けるのかは、まだ決着がついていないと思っています。
 間違いなく、瀬戸際・崖っぷちではあるでしょう。
 そして、ジャンプして向こう岸に渡れるか崖から転落するのかは、ジャンプする覚悟ができるかどうか、覚悟が できたとして、ちゃんと必要な距離のジャンプができるかどうかにかかっていると思います。
 いずれにせよ、私たちがスリル満点の時代に生きていることは確かです。
 もちろん私は、ハラハラドキドキしながら、なんとか十分な飛距離のジャンプをしたいと身構えています。
 スウェーデン・モデルは、飛距離が十分かどうかという疑問は残りますが、確実に一つの大ジャンプだ、と私に は見えています。
 さて、ここで、ご一緒に大ジャンプに挑戦してみませんか?







東尋坊で思ったこと
2006年7月24日

 明後日、曹洞宗大本山永平寺での催しで講演をさせていただくことになっています。
 道元禅師の『正法眼蔵』はそろそろ40年読んできた「私の古典」であり、その道元禅師の創建された大本山 永平寺で講師として話をさせていただくのは、きわめて名誉なことであり、大きな喜びです。
 その『正法眼蔵』の有名な巻である「山水経(さんすいきょう)」の冒頭に、次のような美しい言葉があります。

 而今の山水は古仏の道現成なり。
 (にこんのさんすいはこぶつのどうげんじょうなり。)

 「今目の前にあるこの山と河は永遠なる仏の真理がありありと実現したものである」というふうな意味でしょう。
 これは、道元禅師が京都におられた頃に書かれたものであり、とすればこの「山水」は直接には京都深草あ たりの山や川のことでしょうが、永平寺に近い白山や九頭竜川などを見ると、むしろこうした雄大な風景こそ、こ の言葉にふさわしいという気がします。
 といっても、実は福井、永平寺に来るのはまだ二度目です。
 せめて、雄大な絶壁の風景で有名な東尋坊くらいは見ておきたいと思って、今日、小雨の中を行ってきまし た。

 

 東尋坊のみごとな岩場は、新生代第3紀にマグマが噴出しやがて固まってできたものだそうです。
 これもまた、「古仏の道現成」、コスモスの働きのありありとした現われにちがいありません。

 

 晴れていたらもっとすばらしい日本海の風景も見ることができたのにな、とやや残念でした。
 それよりももっと残念だったのは、プラスティック、発泡スチロール、ビニールといった、なかなか自然に還らな いゴミが、何十メートルもある崖の上から見てもわかるくらい、岩場に打ち上がっていたことです。
 さらにそれだけではなく、バス停から岩場まで、いくつもの食堂などが廃業しているのが、物悲しい感じを誘い ました。
 地方には景気の回復など及んでいないようです。
 自然は汚れ、地方はさびれていくばかり、今の日本はどう考えても道をまちがっているのではないか!という 怒りと嘆きが湧いてきて、ただ楽しく観光とか、自然の美しさに感動するだけでいられないのが、物書きとして は、さらにさらに残念でした。
 高浜虚子や三好達治の句碑、詩碑が立っていましたが、彼らは私のように余計なことを考えないで、ひたすら 自然の美しさを詠うことのできる時代に生きたという意味で、うらやましい、と思ったことです。

 

 無条件に礼賛できる自然の美しさと、ことごとに物悲しさを感じないでいい豊かな生活を、私たちは何としてで も再獲得する必要があるのではないでしょうか。
 でなければ、大自然や道元禅師や私たちのご先祖さまに申し訳がたたない、と改めて思いました。







原爆記念日に
2006年8月6日

 原爆記念日、今、一分間の黙祷をしたところです。
 私は戦後生まれですが、小学生の時、学校で見せられた原爆の記録映画(たぶん『原爆の子』)に受けたショ ック(数日間、悲惨なシーンが脳裏を離れず、どうしようもなく憂うつでした)が、私の公的仕事すべての原点で す。
 みなさんと同じく、「二度とこんなことはあってほしくない」という思いを原点に、しかしそれだけでなく「どうした ら、二度とこんなことが起こらないようにできるのか」と考え続けてきました。
 ようやく、その原理と方向性だけはつかめたのではないかと思っています。
 秋のシンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」も、そうした方向性を具体化するための試みです。
 スウェーデンは何とこの180年余り、まったく戦争に加わっていないのです。
 なぜ、加害者にも被害者にもならない国であり続けることができたのか、そのモデルに学びたいと思っていま す。







暑い熱い2日間
2006年8月20日

 昨日、今日、大船のお寺で、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」のスタッフの合宿でした。
 猛烈な残暑(まちがいなく温暖化による異常気象)の中、講師の小澤徳太郎先生(『スウェーデンに学ぶ「持続 可能な社会」』朝日選書の著者)を囲んで、暑い二日の熱い学びでした。
 改めて「環境問題はこの数十年ひたすら悪化の一途をたどっていること」
そして事態は、きわめて深刻で、相当多くの日本人が半分あきらめ半分楽観視しているのとまるで違って、
「誰かが何とかしてくれているはず」とか「成り行き任せで何とかなるさ」という状態ではない
しかし希望はある、スウェーデンはかなりの程度その希望の道の道しるべになりうる
という共通認識を深めました。
 昨夜は夜中の3時半過ぎまで話し合いをしていて、今朝は6時半には起きたので、もうくたくたです。
 今日は寝ます。
 そこで学びあったことの内容は、またおいおい書いていくつもりです。







日本の政治をこの路線のままにしておいていいのか?
2006年8月24日

 このブログで何度も紹介してきた小澤徳太郎先生から、以下のようなメールと資料が届きました。
 みなさんと、ぜひ共有したいので、了解を得て、転載します。

 

 8月23日の岡野さんのブログ「伝えたい……」を拝見しました。

 『成長の限界』というレポートを出したローマクラブは、1968年に集会が行なわれて70年に発足した、 財界人、政治家たちの地球の未来を考える研究グループです。72年の段階でレポートを出しましたが…

 この部分を読んで、時系列的にスウェーデンの行動を思い出しました。
 スウェーデンでは、1960年代前半ごろから環境問題の議論が起こり、68年にスウェーデン政府は、国連に 国連初の環境会議の開催の提案を行い、ローマクラブが発足した70年には、大阪万博でユニークなスカンジ ナビア館を建て、環境問題の重要性をアッピールしておりました。
 私たちは一般に現在の環境問題の認識の原点は72年の「成長の限界」と理解しているようですが、これらの 事実を総合的に考えると、スウェーデン政府の行動がローマクラブという国際的研究グループの活動より、先ん じていたことがわかるような気がします。ご参考まで。

 改めて、スウェーデンの人びと――政府、パルメ首相らリーダー――の気づきがいかに早かったかということ に驚かされます。
 1972年6月に開催された、スウェーデン・ストックホルムでの第一回の国連環境会議には、私たちのシンポ ジウムの呼びかけ人のお一人大井玄先生も出席しておられたそうです。
 先生は、その時以来、繰り返し現地での視察などによって、世界の環境の悪化と、スウェーデンなどの国の政 策と日本の対策の違いを見てこられたのですから、初めてお目にかかった頃、私に「ほとんど絶望しています」 とおっしゃった気持ちは痛いほどわかります。
 何しろ、1972年、日本も環境会議に代表を送りはしていますが、国内では7月に田中角栄氏が自民党総裁 −首相になり、「日本列島改造論」をぶち上げていたのです。
 何という違いでしょうか。
 この政治路線の違いは、いまだにあまり変わっていないようです。
 必ず大量生産−大量消費−大量廃棄をともなう「経済成長」を維持し促進し続けるというのが、いまで も日本の政治路線です。
 自分たちの子どもたち・孫たち、「次の世代」のことを本当に心配しておられる市民のみなさん、日本の 政治をこの路線のままにしておいていいとお考えですか?







全体状況は悪化しているが希望もある!
2006年8月30日

 ここで確認を共有したいのですが、すでに60年代半ばに警告はあったし、さまざまな人やグループが誠実で 真剣な努力を重ねてきたことはまちがいありません。
 しかし、地球環境は全体としては悪化しています。まず、このことをはっきり認識しなくてはいけないと思いま す。
 お話ししてきたように、最新のデータを見ても、全体としての地球環境はさらに悪化するばかりで、近い将来で の改善の見込みは立っているようには感じられません。拾っていくと目の前が真っ暗になりそうな話ばかりで す。
 さまざまな真剣で誠実な努力が、悪化の速度を遅くするうえで大きな貢献をしたことは確かですし、一生懸命 やってこられた方にケチをつけようという気持ちはまったくありません。しかし、冷静にみると、にもかかわらず 全体状況はあきらかに悪化しているのです。
 かつて私の研究所で、大井玄先生に講座をもっていただいて、1960年代には世界で4番目の面積があった アラル海――カスピ海の東にあり、カザフスタンとウズベキスタンの国境にまたがっています――が干上がって なくなりつつあることを、現場で見てこられた体験を通して報告していただきました。
 また、大井先生からコピーをいただいたペンタゴン(アメリカ国防省)発表のレポート(鳥取環境大学環境問題 研究会訳)によると、温暖化→氷河の溶解と降水量の増大→北大西洋の淡水化→暖流であるメキシコ湾流が 止まる→ヨーロッパのシベリア化→食糧不足に伴う世界規模の政治の不安定化、紛争の危険が増大している ことが予測されています。しかもメキシコ湾流が止まってしまうのは、早ければ2010年頃かもしれないというの です。
 深刻にならざるをえない事例は、この他、挙げていけば無数にあります。そうした状況に対して、「今、多くの 環境学者たちは非常な無力感に陥っています。私もそういう気持ちがします」と大井先生はいっておられまし た。日本でもっとも豊富で正確なデータに接する立場におられた方の言葉は、非常に重いものがあります。
 しかし、それに対して筆者は、あえて3つのことを申し上げてきました。
 1つは、「無力感」に陥る気持ちは十分、十二分にわかりますが、でも論理的・正確に捉えると、力が「ほとん どない」は、「まったくない」ではなく、「すこしはある」ことであり、そのことをちゃんと確認すれば、まず無力感か ら「微力感」くらいにはなるはずではないか、ということです。論理療法的に言えば、「無力感」は、非論理的な考 え方から生まれた不適切な否定的感情ということになるでしょう。
 そして、私はいつもいうのですが、「微力でも協力すれば強力になる」のではないでしょうか。
 さらに2つめは、それだけを集中的に見れば「ある」、つまり環境問題解決のための力や方策はまちがいなく あるのであり、しかも確率的には―つまり比較すると―きわめて低いとしても、潜在的には大きな可能性を秘め ていると考えることもできるのであり、私たちはその可能性に賭けるほかないのではないか、ということです。
 「大きくて自分一人の力ではどうすることもできない」と感じられるような危機(あるいはその情報)に直面した 時、私たちが取りうる態度の選択肢がいくつかあり、どんなに小さくてもあるのならその可能性に賭けるというの が最善の選択だ、と筆者は考えています。
 それに関わって、筆者がこれまでにご紹介してきたような危機のデータを知ってから、それをまわりの方に伝 えようとして受けた反応には、典型的に次のようなものがありました。

@「そういう話を聞いていると気持ちが暗くなるだけだから、聞きたくありません」。
 これは、非常に多く見られるもので、無視・逃避、あるいは抑圧という態度です。
A「今までもいろいろ大変だといわれてきたけど、結局どうにかなってきたじゃないですか。今回もおなじじゃな いんですか?」。
 これは、危機の過小評価、たかをくくるという態度です。
B「個人でどうにかできるようなことじゃないでしょう。人類が滅びるとしても、それはそれでしかたないんじゃな いですか?」。
 これは諦め、責任放棄という態度です。
C「何かしたいんですが、私に何ができるかわからないんです」。
 これは、問題意識を持っていながらまだ解決の方向性が見つからないという状態の場合もありますが、あえて 率直にいうと、思考停止、勉強不足にすぎないこともあります。
D「私は環境には気を使っていて、〜をやっています。これ以上、何をすればいいんですか」。
 これは、いわゆる「環境派」の市民の方によく見られるもので、環境問題は、近代という時代、近代産業主義 の行き詰まりを示しているということ、地球規模の問題だという時間と空間のスケールへの認識不足であること が多いのではないでしょうか。

 いうまでもありませんが、これらのどの態度も問題解決にはつながらない、と筆者には思えます(こういうことを はっきりいうから、嫌われるんでしょうね、あーあ)。
 「大きくて」=地球規模で、「私一人の力ではどうすることもできない」=個人は微力なのなら、「地球規模の影 響力のある強力な人間集団を組織して解決に当たる」というのが、唯一ありうる問題解決への道だと思います。 これは、理の当然だと考えますが、いかがでしょう。
 では、地球規模の影響力のある強力な人間集団はあるでしょうか。『サングラハ』第75号(2004年5月)で は、以下のように考えていました(とても残念ながら情報不足=勉強不足でした)。

 …資本主義経済―だけでなく社会主義経済を含む近代産業主義経済―には、一時的かつ局地的に―つまり 近代、先進国で―貧困を克服できたというプラス面はあっても、原理的にいって、エコロジカルに持続可能な社 会を構築できないという決定的な限界があると思われます。(中略)
 まず環境破壊について簡単に言えば、原因は近代の産業主義にあると思われます。そして、資本主義国では 産業は国に所属した私企業が担っており、社会主義国では国家が産業をコントロールすることになっています。 つまり、全体としての産業主義を変更することのできるのは国家だけであって、民間のエコロジー運動でもなけ れば国連の環境機関でもありません。
 もちろん国家主導でやったとしても、近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移 行するのは、きわめて困難です。しかし、他に道がないとしたら、その困難な道を志向するほかない、と筆者は 思うのです。(中略)
 筆者は、これまでも公言してきたとおり、まず日本を自然成長型文明を志向する国家にしたい、そしてそういう 日本が世界のオピニオン・リーダーとして世界に働きかけることによって、世界全体を自然成長型文明へと移 行・変容させたい、と考えています(略)。
 これは、どんなに大げさな夢のように聞こえても、ほとんど不可能なくらい困難に見えても、ほんとうによりよい 世界を望むのなら、他には考えようがないのではないか、と思っています。

 しかし、幸いなことに、「近代産業主義的な経済システムから真に持続可能な経済システムへ移行する」 という課題に、国家単位で取り組んでいる国があったのです。
 その代表がスウェーデンですが――繰り返し紹介してきましたが、小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可 能な社会」』(朝日選書)をお読みになっていない方はできるだけ早くお読みになることを強くお勧めします―― それだけではなく、北欧諸国はみな「持続可能な社会」を政府主導で目指しているようです。
 それは、北欧諸国にとって、必ずしも「大げさな夢」でも「ほとんど不可能なくらい困難」でもなく、今実現しつつ ある目標なのです。
 そして、特にスウェーデンは、これまでも国連の環境政策に大きな影響を与えてきましたが(例えば、1972 年、スウェーデン・ストックホルムでの国連環境会議開催!)、さらにEU加盟後はEU全体の環境政策にも大き な影響を与えつつあります。
 環境(と経済と福祉の巧みなバランスの取り方)に関して、スウェーデンはこれからますます、世界のオピニオ ン・リーダーになってくれることでしょう。
 スウェーデンの現状を知ったことは私にとって、「希望ある衝撃」でした。
 その衝撃が、「日本も〈緑の福祉国家〉(=エコロジカルに持続可能な国家)にしたい! スウェーデン に学びつつ」のシンポジウムの企画につながっています。
 まず日本がしはじめたのではなく、「日本も…したい!」であるのは、日本人としてはちょっとだけ残念ですが、 そんなことにこだわっている場合ではありませんね。
 どこの国が掲げたのであれ、希望は希望です。







日本は、相変わらず〔エネルギー消費の増加を伴う〕経済成長路線に向かう?
2006年9月2日

 今日の朝日新聞朝刊に安倍晋三氏の総裁選立候補にともなう政権公約「美しい国、日本」の要旨が掲載され ていました。
 いろいろなことが語られていましたが、そこでは、相変わらずの、「成長なくして日本の未来なし」、「イノベーシ ョンによる経済成長」という路線と、かなり後のほうで――それとは原理的に矛盾すると私には思える――「地 球環境問題の重点的取り組み」という建前があげられていました。
 もちろん、スウェーデンのように、エネルギー消費量の上限を押さえるという目標をはっきり掲げた上で、新し い「知識産業」を発展させることによって、福祉を支えうるだけの経済を維持し、しかも環境が「持続可能な」レ ベルまで回復するよう配慮するという、きわめて賢明な政策はありうるようですから、そういうことならとてもうれ しいのですが、そういうことではなく、おそらくまちがいなく、いっそうの原子力発電の推進などによる「エネルギ ーの安全保障」を考えているのでしょう。
 原発に関していえば、核廃棄物の問題、放射能汚染の問題、やがて老朽化した時の廃炉の問題、それから 廃熱・熱汚染という問題をどうするつもりでしょう。
 イノベーション(技術革新)で、「そのうちなんとかなる」と考えているのでしょうね。
 しかし、核廃棄物の処理法も廃炉の技術もまだ完全に確立してはいないようですし、中でもいったん放出され 蓄積されていく放射能を回収する技術がそのうち=近い将来開発されるとはあまり期待できませんし、まして地 球の大気圏規模に及ぶ熱汚染を処理する方法(地球規模の空調設備?)がいつかは開発されるなど、私には 想像できません。
 安倍氏以外の人が首相になっても、この路線に関しては変わらないんでしょうね。
 ……というわけで、とても残念ながら、当面、日本の政治路線は私たちの望む方向に変わりそうにありません が、日本と世界の環境――ということはつまり私たちの子どもや孫たち、次の世代の――未来を考えると、多 少手間暇がかかっても、どうしても変える必要があると思うのですが。
 みなさんは、どうお考えですか? ぜひ、意見を聞かせてください。







シンポジウム趣意書
2006年9月8日

シンポジウム『日本も〈緑の福祉国家〉にしたい! ――スウェーデンに学びつつ』

趣意書

 多くの警告や専門機関、専門家、民間活動家も含めた多くの人々の努力にもかかわらず、この数十年、世界 全体としての環境は悪化の一途をたどっています。
 例えば、地球温暖化―異常気象、オゾン層の破壊、森林の減少、耕地・土壌の減少、海洋資源の限界―減 少、生物種の激減、生態系の崩壊、化学物質による大気・耕地・海洋の汚染、核廃棄物や産業廃棄物から生 活ゴミまでの際限のない増加などなど、どれをとっても根本的に改善されているものはないのではないでしょう か。
 専門家が警告を発し、それを聞いて理解した人々が「できることをする」ことによって、こうした環境の悪化は やや減速されたかもしれませんが、止まってはいない、それどころかじわじわと深刻化していると思われます。 環境問題は私たちが豊かになるという目的のために行ってきた経済活動の結果、必然的に「目的外の結果」が 蓄積し続けているものだからです。このことは、改めて確認しておく必要があるでしょう。
 残念ながらこれまでの多くの努力は、まだ有効な結果を生み出しているとは言いにくいのです。「努力をしてい れば、そのうちなんとかなる」という発想は、こと環境に関しては不適切です。たとえ心理的には不快であって も、出発点としてはそのことのきびしい認識が不可欠だと思われます。
 しかし悪化し続けている現状を認識するだけでは、私たちは危機感と不安が高まり、無力感と絶望に陥ってし まうだけでしょう。
 そういう意味で、本シンポジウムは、「環境の危機を訴える」ことだけを目的にしていません。それは、きわめ て早い段階の『ローマクラブ・レポート(邦訳『成長の限界』ダイヤモンド社)』(1970年代初め)を典型とする、 国連を初め国内外の信用できると思われる機関や専門家が示してきたデータに基づいた警告をごく素直に読 むと、地球環境が非常な危機にあることはすでにあまりにも明らかだと思われるからです。
 私たちは本シンポジウムを通じて、むしろ環境の危機に対して「どういう対策が本当に有効かつ可能か」という ことを、スウェーデンという一つの国家単位の実例をモデルとして検討します。そして、そこから大枠を学ぶこと によって、もちろんそのままにではないにしても、日本のこれから進むべき方向性が見えてくるのではないか、と いう提案をしたいと思うのです。
 かつてヨーロッパの北辺のきわめて貧しい農業国だったスウェーデンが、戦前から特に戦後にかけて、急速 な近代化・工業化によって豊かな福祉国家に変貌してきたことは、よく知られているとおりです。単に「経済大 国」になるのではなく、「生活大国」になったのです。
 しかし、70年代、そして90年代前半、スウェーデンが不況にみまわれた時、「それ見たことか、やりすぎの福 祉のための高い税と財政の負担が経済の足を引っぱった。やはり『スウェーデン・モデル』には無理があったの だ」という印象批評がありました。
 ところが実際には、90年代前半の不況をわずか数年でみごとに克服し、国の財政収支はほぼバランスし、世 界経済フォーラム(ダボス会議)の経済競争力調査では2005年までの過去3年間世界第3位にランクされてい ます。いまや経済・財政と福祉、さらには環境とのみごとなバランスを確立しつつあるようです。
 しかもそれは、たまたまうまくいったのではありません。問題解決の手法として、目先の問題に対応するのをフ ォアキャスト、到達目標を掲げそれに向けて計画的に実行していくのをバックキャストといいますが、スウェーデ ンは、政治主導のバックキャスト手法によって、「エコロジカルに持続可能な社会=緑の福祉国家」という到達 目標を掲げ、それに向けて着実に政策を実行し、目標の実現に近づいているということなのです。
 「日本も『循環型社会』というコンセプトで努力しているではないか」という反論もあるかもしれません。しかし、 決定的な違いは、必然的に大量生産―大量消費―大量の廃棄物を生み出すというかたちの経済成長を続け ることが前提になっていることです。これは原理からしても「持続可能」だとは思われません。
 それに対しスウェーデンは、政府レベルで、経済活動を自然の許容する範囲にとどめながらしかも高い福祉 水準を維持できるような成長は続けるという、きわめて巧みなバランスを取ろうとしていますし、それは成功しつ つあるようです。
 私たちは、もちろんスウェーデンを理想化・美化するつもりはありませんし、他の国からも学ぶ必要がないとは 思っていませんが、国際自然保護連合の評価を信じるならば、現在のところ「エコロジカルに持続可能な社会」 にもっとも近づきつつある国であるようです。そういう意味で、きわめて希望のもてる「学ぶべきモデル」だと考え ているのです。
 しかも、政治アレルギーに陥っている日本の市民にとって重要なことは、スウェーデンの政治権力はみごとな までの自己浄化能力・自己浄化システムを備えているということです。堕落しない民主的な政治権力というもの が、現実に存在しえているのです。
 自浄能力のある真に民主的な政治権力の誘導によってこそ、経済・財政と福祉と環境のバランスのとれた、 本当に「持続可能な社会=緑の福祉国家」を実現することが可能になるのではないか、それはこれからあらゆ る国家が目指すべき近未来の目標であり、日本にとってもそうであることはほぼまちがいないのではないか、と 私たちは考えています。
 私たち日本人が今スウェーデンから学ぶべきものは、なによりも国を挙げて「緑の福祉国家」を目指しうる国 民の資質とその代表・指導者たちの英知と倫理性だと思います。
 きわめて残念ながら当面日本には、「緑の福祉国家」政策を強力に推進できるような国民の合意も政治勢力 も見当たりませんし、すぐに形成することも難しいでしょうが、環境の危機の切迫性からすると早急に必要であ ることは確かだと思われます。
 本シンポジウムは、そうした状況の中でまずともかく、方向性に賛同していただける方、あるいは少なくとも肯 定的な関心を持っていただける方にお集まりいただき、近未来の日本の方向指示のできる、ゆるやかではある が確実な方向性を共有するオピニオン・グループを創出したい、という願いをもって開催致します。
 趣旨にご賛同いただける方、次の世代のためにぜひご参加・ご協力いただけますようお願い致します。

      2006年8月28日

シンポジウム呼び掛け人

元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー 環境問題スペシャリスト  小澤徳太郎
サングラハ教育・心理研究所主幹  岡野守也
元国立環境研究所所長  大井 玄

*一般の方への参加募集は9月15日から始まっています。シンポジウム事務局のブログでご覧下さい。







シンポジウム参加者募集が始まりました
2006年9月14日

 下記の要領で、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい! スウェーデンにまなびつつ」の一般 参加者の募集が始まりました。
 環境問題をぜひ解決したい、そのために自分にできることをしたいと真剣に考えておられる方々の参 加を心からお待ちしております。



 本シンポジウムは、環境問題について一般的な知識をお伝えするというより、趣意書のような方向性について 予め理解していただき、基本的に合意できそうだと思われる方にお集まりいただいて、その方向性を再確認 し、可能ならばご一緒にその先の展開を考えていただくことを目指しております。
 そのため、シンポジウムの進行もスケジュールをきっちり決めるのではなく、ごく大まかに、開会から午前中、 大井玄(元国立環境研究所所長・東京大学医学部名誉教授)、小澤徳太郎(環境問題スペシャリスト・元スウェ ーデン大使館環境保護オブザーバー)、西岡秀三(国立環境研究所理事)、岡野守也(サングラハ教育・心理 研究所主幹)によるシンポジウムの趣意についての確認の発題、午後から4者の対談の後、出席者からのメッ セージ、コメント、質問をいただく、というふうに考えております。
 また、討議内容をその場かぎりでない実りあるものにするため、ご参加のお申し込みをいただいた方には、シ ンポジウムの発題の内容のパンフレットを予めお送りしてお読みいただけるようにする予定です。
 皆様、それぞれに大変お忙しいことは十分承知しておりますが、なにとぞ趣旨をご理解いただいた上で、ぜ ひ、万障繰り合わせて、ご出席・ご参加いただけますようお願い申し上げます。
 また、意思はあるが都合で今回は参加できないという方には、ぜひ、メッセージをいただきたいと思っておりま す。

日 時 2006年11月19日(日)午前10時〜午後5時
会 場 龍宝寺 玉縄幼稚園講堂
住 所 247-0073 神奈川県鎌倉市植木129(JR大船駅より徒歩20分、バスの便あり) 
参加費 2000円(昼食のお弁当・お茶代を含む。お支払いは当日受付にて)

●お問い合わせ、お申し込みは、シンポジウム事務局宛にファックス(0466−86−1824)またはメー ル(greenwelfarestate@mail.goo.ne.jp)でお願い致します。お名前、お仕事、ご住所、お電話・ファックス番 号、メールアドレスをご明記下さい。お申し込みいただいた方には後日、発題パンフレット、地図等、資料 をお送りします。
 終了後、インフォーマルな二次会も行ないたいと思っております。併せてそちらへのご参加の有無もお 知らせ下さい。
 申し込み締め切りは、9月30日とさせていたきます。

   2006年9月14日

  シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」事務局

*ご賛同いただける方は、ぜひ、趣意書やこの記事をコピーしていただいて、たくさんの同じ気持ちの方にお伝 えいただけると幸いです。







「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」特集号
2006年10月8日

 

 もうほとんど台風のような天気の後、昨日今日と晴天に恵まれています。
 特に今日は、雲一つない青空です。
 今日はメンバーが藤沢のミーティングルームに集まり、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!―― スウェーデンに学びつつ」の発題を特集した『サングラハ』第89号の発送を行ないます。
 出来上がって昨日手元に届いた雑誌は、シンプルで爽やかな表紙、コンパクトできわめて充実した論文と、す ばらしい出来で、とても喜んでいます。
 このパンフレットはきっと、静かなしかし確実な影響を広げていくにちがいないと期待しています。
 大井玄先生の「地球温暖化と倫理意識」、小澤徳太郎先生の「三〇年前に行動を起こしていたら――科学と 政治、そして、チェック・システムと」、西岡秀三先生の「持続可能な社会からのバックキャスティング――試金 石となる低炭素社会の実現」、どれをとっても今最高の論考です。私の「『持続可能な社会』の実現に必要・十 分な条件とは何か」は、すでにブログ公開済みの文章の改訂版ですが、これまでの環境論に欠けていたところ を補ったものと自負しています。
 シンポジウムにはご参加いただけない方で、内容に関心を持っていただける方がおられましたら、送料とも4 80円(80円切手6枚代用可)でお頒かちしますので、下記にお申し込み下さい。
   サングラハ教育・心理研究所 岡野守也




.


危機管理意識をもつ必要
2006年10月11日

 北朝鮮が核実験を強行したようです。
 それをめぐって、今朝、TVの国会中継では、同じ自民党でありながら枡添氏が安倍総理他、政府首脳にそう とう厳しい質問をしていました。
 それを見ながら改めて感じたことは、日本政府そして日本人はこれまであまりにも局地的な平和と経済的な 繁栄に慣れてきて、軍事、外交、天災、資源などなどについて「危機管理意識」が驚くほど希薄で、その結果、 「危機管理体制」がそうとうに不十分であり、かつ「危機への対応の速度」が非常に遅いのではないか、というこ とでした。
 かつてイザヤ・ベンダサン=山本七平氏が、「日本人は安全と水はタダだと思っている」と指摘していました。
 最近、ミネラルウォーターを買うことには慣れましたが、安全に関しては、依然としてそういうところが強く残っ ているのでしょう。
 当面、軍事にまで関わる外交的な危機管理体制が問われているわけですが、これほど緊急を要する事態で あるにも関わらずそれに対する対応の遅さを見ていると、ましてもう少し時間のスケールの長い環境の危機へ の認識−反応−対策が鈍いのは、ある意味当然かもしれない、と妙に納得してしまいました。
 しかしそんなことでは国民はとても困るのですから、「安全のためには十分な先行投資をして予防措置を講ず る必要がある」という当たり前のことを十分自覚している指導者のいる国に早くしたいものです。
 そのためには、まず私たち国民がしっかりとした危機管理意識をもつ必要があるでしょう。
 といっても一市民の現状では、北朝鮮の核に関しては、なんとしても使われないように祈ることしかできないの がもどかしくてなりません。







政治アレルギーの治癒
2006年10月30日

 竹崎孜『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』(あけび書房)を読んでいます。
 まさに「なぜ生活大国になれたのか」が、わかりそうです。
 読み終わったら、またポイントを書きたいと思いますが、今夜は引用されていた、古代ギリシャの格言が心に 響いたので、ご紹介したくなりました。

 政治に無関心な人民は愚かな政治家に支配される。

 日本は大きな転機にさしかかっていると思うにつけても、一日も早く日本人の政治アレルギーが治ることを、 心から願わずにはいられません。







楽しいミーティング
2006年11月6日

 

 昨日は、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!」のミーティングで終電まででした。
 こまごまとした実務的な面の打ち合わせの他、予想外に政治家、環境専門家、環境活動家の反応が少なか ったことなど、いろいろ話し合われました。
 私たちのアプローチが不十分、または下手だったのかもしれませんが、反応から判断するかぎりでは、環境 問題を本当に解決するためには政府・国家の主導が必要であること、そうするためには現在の政府のあり方 ――環境の限界を十分考慮に入れていない経済成長路線――を変える必要があること、そしてそのためには 環境のことを真剣に考えている人間ができるだけ結集して大きな勢力を形成する必要があること、などについ ては、まだ広範囲な合意形成にはかなり遠いようです。
 しかし、私の「自然成長型文明に向けて」や『サングラハ』誌の第89号シンポジウム発題特集で、はっきりと根 拠を挙げたとおり、本当に環境問題を全体として解決の方向に向けたいのなら、それはどうしても必要なことだ と思われますから、時間はかかっても必ず世論の盛り上がり−広範囲の合意が出来てくるでしょう。
 それまで、今回のシンポジウムをスタートとして、気の長い歩みを持続するほかないと、腹を括っているところ です。
 といっても、幸いにして今の日本では、そうした活動をするのに生命の危険を感じるほどのことはなさそうです し、みんなでわいわい楽しくお酒も飲んだりしながらやっていける状況ですから、楽しみながら続けるつもりで す。
 昨日もとても楽しいミーティングでした。
 よかったら、みなさんも参加しませんか? シンポジウムの定員にはまだ余裕がありますよ。








風に吹かれて
2006年11月7日

 秋らしい紅葉も落葉も、とりあえず始まっています。
 今日もいい天気……ですが、日向を歩いていると暑いくらい。
 これはやっぱり11月らしくないな、と感じます。
 四季の巡りを素直に喜べない時代になってしまったことが、とても残念です。
 何しろ感性の質がとことん歳時記的−四季派的に出来てしまっているものですから、四季の乱れはアイデン ティティのゆらぎにさえなりかねないくらいの気分なのです。
 それでも、やや強い風に吹かれて、道路を落ち葉が小動物の群れのように走っていました。
 雑木林には落ち葉が積もり始めています。
 晩秋、初冬の風物詩です。
 心に引っかかるものなく、心ゆくまで自然の美しさを味わえる時代になるのに、どのくらいの時間がかかるの でしょうか。







明日はシンポジウム
2006年11月18日

 
                 寒桜?

 先週の栃木−鳥取出張の後も連日いろいろな仕事が続いていて、更新が思うに任せません。
 今日も、シンポジウムに向けた準備でこれから一日かかりそうです。
 しかし、これも「コスモスの一部(私)がコスモスのもうちょっと大きな一部(環境)のためにやりたいこと=自然 なことをしている」と思えば、自然に楽しく働けそうです。
 協力しあうコスモス・ジェネレーションの諸君もいることですしね。
 よしっ! 今日も頑張る!







緑の福祉国家と聖徳太子の理想
2006年12月4日

 昨日は、サングラハ第90号、特集「持続可能な社会の条件――『自然成長型文明に向けて』改題増補版」の 発送と、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに学びつつ」の反省会、そして二次 会で、午前中から最終電車まででした。
 実り多い、充実した疲れの一日でした。帰ってきたらがっくりで、ブログ記事を書く気力が足りませんでした。

 何よりも大きな反省は、多くの市民ががんばってきた「環境運動」の「自分のできることをする」というアプロー チに対して、「政治・経済の方向性と市民のしていることの方向性のベクトルが一致していれば、市民のしてい ることは有効に作用するのですが、ベクトルが違っているために、せっかくの市民の努力がムダになってしまっ ています。それではあまりにも残念ではありませんか。努力がムダにならないよう、ベクトルを一致させるため のもう一努力を一緒にやりましょう」ということを伝えたいのに、「あなたたちのやってきた(やっている)ことはム ダだ」と聞こえる言い方をして、無用な反発を招いたのではないか、ということでした。
 これから、もっとたくさんの人に心情的に受け入れやすく、一緒に行動していけるような、ポジティヴなアプロー チの仕方を一工夫も二工夫もしなければならないな、と思っています。
 それから、いろいろやむをえない事情はあったにせよ、DMの発送など広報をもっと早く始められるとよかっ た、という反省もありました。
 次回はもっと早くから企画、準備、広報を進めたいと思います。
 最後に、シンポジウムの趣旨をさらに発展させ実現していくために新しい組織を立ち上げていくこと、そのため の準備委員会を作ることが決まりました。
 ともかく、みんなますますやる気になっています。とても楽しい熱気が感じられます。
 これで、日本を持続可能な社会=緑の福祉国家にするためのさらなる一歩を進めることができる、という手ご たえを感じています。

 ところで、日本を緑の福祉国家にすることは同時に、私にとって聖徳太子の高く掲げた日本の国家理想を実 現していくということを意味しています。
 一見、意表をつかれた感じがする読者がおられるかもしれませんが、私にとってそれはまったく一つのことな のです。
 そして実は、それは日本人全体にとってもそうなのではないか、と思っています。
 これまでの記事、そして今書いている記事を続けて読んでいただけると幸いです。
 今日は、ミーティング・ルームの後片付けに行ってきてから、記事を書いています。

*なお、本ブログに掲載した「自然成長型文明に向けて」を大幅に増補した『サングラハ』特集号「持続可能な 社会の条件」をご希望の方は、送料とも700円でお頒けします。代金は郵便振替後送でけっこうです。住所氏 名を明記して、okano@smgrh.gr.jp 、サングラハ教育・心理研究所宛にメールでお申し込み下さい。







福祉と経済は矛盾するか?
2006年12月11日

 少し前の朝日新聞の記事を小澤徳太郎先生が送ってくれました。
 とても重要なポイントが書かれてしますが、小さな記事なので、私同様、見落とした方も多いと思いますので、 そのまま紹介しておきます。

 

 経済学者から始まって経済人や政治家に到るまで、日本のリーダー的存在の大多数が、こうしたスウェーデ ンのような事例があることつまり事実に反する思い込みを持っておられるように見えます。
 経済・財政と福祉は矛盾する、と。
 だから、経済・財政を立て直すには福祉は犠牲にせざるを得ないのだ、と。
 だから大きな政府ではなく小さな政府だ、と。
 はっきりそう言う場合もありますが、あまり言い過ぎると国民から背を向けられるので、「改革なくして成長な し」→「成長なくして福祉なし」というふうな言い方もされるようです。
 そして、経済・財政が最優先、福祉はその次、環境はさらにその次に余裕が出来たら取り組んでもいいが、今 はそれどころではない、と。
 昨日NHKTVを見ていて、「一生懸命働いてもちゃんとした生活ができない=報われない方々=ワーキング・ プア」が急増している現状を改めて知りました。
 景気が回復したといいながら、ますます痛みの強くなる人の増えている「改革」とは何だったのでしょう。
 しかも、経済成長はエネルギーの大量消費なしにはありえないから、クリーンでしかも大量に使える次のエネ ルギー源は原子力だ、等々と。
 そして、実際に経済・財政と福祉と環境のみごとなバランスを取りつつある国があるにもかかわらず、「あれは 規模が小さいからできるのだ」などと、あまり論理的とは思えない理由で否認・無視し、「なぜできるのか」「どうし たら日本もそうできるか」と考えようとはされないようです。
 しかしうれしいことに、今回の朝日の記事は、「規模や負担の大小より政府の『働き方』が重要」と的確に報 道・評論してくれました。
 国の規模に関わりなく、賢い政府がリードすれば、経済・財政と福祉と環境のみごとなバランスの取れた国を 創ることは不可能ではないのではないか、と思われます。
 これから少しずつ、なぜそう考えるようになったか、この1年で集中的に学ぶことのできたポイントを紹介して いきたいと思っていますが、とりあえず改めて、いくつか参考文献を挙げておきたいと思います。
 ぜひ、読んでみて、みなさんのご意見を聞かせて下さい。

1)小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)
2)岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波新書)
3)神野直彦『人間回復の経済学』(岩波新書)
4)  〃  『痛みだけの改革、幸せになる改革』(PHP研究所)
5)竹崎孜『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』(あけび書房)







日本を公正で透明な社会に
2006年12月13日

 今日の朝日新聞の1面に、「液晶大手を日韓当局調査――価格カルテルの疑い」という見出しの記事と、「や らせ質問約15回――タウンミーティング 首相含め処分へ」という見出しの記事がありました。
 大企業と政府・内閣府が不正を働いていたようです(まだ疑いの段階ですが)。
 それぞれ公正取引委員会と政府の調査委員会が調査した結果、明らかになりつつあるようです。
 事実だとして、それは監視する機関があったのでなんとか暴くことができたということでしょう。
 しかしこうしたことがあまりにも多いことから推測するに、これらは氷山の一角にすぎず、監視・暴露しきれな い事例が実は山ほど隠れているのではないか、と思われてなりません。
 おそらく現在の監視機関の制度・人員・費用では監視・暴露しきれないのではないでしょうか。
 こうしたことが頻発するには、いろいろ事情−口実はあるでしょうが、1つは要するに当事者の「自分たちの利 益のためには法を犯してもいい」「隠れてやってバレなければいい」というきわめて低劣な倫理観から出ている と言ってまちがいないでしょう(個人の内面象限の問題)。
 もう1つは、「赤信号みんなで渡れば恐くない」という川柳(?)があったように、法に関する意識がかなりいい 加減という日本の文化の問題もあるでしょう(集団の内面象限の問題)。
 そのために、十分に費用などをかけた社会全体の不正に関する監視システムが整備されていないのではな いでしょうか(集団の外面象限の問題)。
 その結果、数も種類も制度も人員も費用も不十分な監視機関しかなく、それぞれの機関が精一杯がんばって もあまりにも多い(らしい)隠れた不正を摘発しきれないのでしょう(個別の外面象限の問題)。
 どうすれば日本を公正で透明な社会にすることができるか、課題は非常に大きく見通しが付けにくいのです が、ともかく4つの象限すべてにわたって取り組む必要があり、どの象限の取り組みが欠けても根本的に解決し ないこと、それから取り組みを始めるのはどの象限からでも始められること、この2つは確かだと思われます。







改正?教育基本法の成立
2006年12月16日

 15日、参議院本会議で改正教育基本法が与党の賛成多数で可決され、成立しました。
 そこで、成立した政府案とこれまでの基本法の文部科学省のHPで公開されている新旧対照表を改めて読み 直してみました。
 読みながら、道元禅師の言葉を思い出しました。

 「ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし(車の前方を北にして おいて南の国ベトナムへ向かおうとし、顔を南にしておいて北斗七星を見ようとするようなものだ)。いよい よ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり(いよいよ〔苦しい〕生死輪廻の原因を集めて、さら に解脱の道を失ってしまっている)。」

 確かに、どこに向かいたいかその気持ちについては共感できるところもあります。
 戦後日本の教育基本法−戦後教育には、「個人の尊厳」や「個性」や「新しい日本」を重んじるあまり、「公共 の精神を尊ぶ」ことや「自他の敬愛や協力」や「伝統を継承」することについて欠けるところがあった、と私も思 います。1) 2)
 特に、日本人が日本という国に正当・妥当な愛国心を持つことが望ましい、そうでなくては国民的アイデンティ ティが確立できず、結果として個人のアイデンティティも十分に確立することも困難である、という感覚について は、まったく同感です。 3)
 日本を本当に「美しい国」にしたいものです。4) 5) 6)
 そういう気持ちから表現された理念は、文面としては相当に妥当性があるように思えます。
 しかし、日本をますます競争社会にしようとしながら「自他の敬愛や協力」と言い、環境的に持続可能な社会と は正反対の大量生産−大量消費−大量廃棄型の経済成長の持続を目指しながら「生命を尊び、自然を大切 にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと」と言い、やらせタウンミーティングをやっておいて「道徳心を培う」 と言い、経済・財政が優先で福祉は後回しにされて行政を恨む人を増やしながら「国と郷土を愛する……態度 を養う」と言う等々は、向かいたいという気持ちと実際に向かっている方向がまるで違っていると思えてなりませ ん。
 これでは、いよいよ社会崩壊の原因を集めるだけで、現代文明の危機の一部としての日本の危機的現状か ら脱出する道を見失ってしまっているのではないでしょうか。
 基本的に経済−政治−福祉−環境のシステムを「競争社会」ではなく、「協力社会」に向けなおさなければ(神 野直彦『「希望の島」への改革――分権型社会をつくる』NHKブックス、参照) 、美しい理念は美しいウソになっ てしまうでしょう。 7)
 当事者もウソをつくつもりはなく言った、そして他者に大迷惑をかけてしまうことになったウソほど悲惨なもの はありません。
 既存のリーダーのみなさんとこれから誕生するであろう新しいリーダーたちに、「できたものはできたものです から、今後はこの改正教育基本法を生産的に転用して、『協力社会』を創り出すための教育の建前として機能 させていくことにしませんか」と呼びかけたいと思います。







菩薩の目標は平等社会
2006年12月31日

 1年が終わろうとしています。この1年も、自分としては最善を尽くした1年でした(その内容はすでに書いたと おりなので、繰り返しません)。
 『摩訶般若波羅蜜経』の言葉を借りて言えば、目指すところは菩薩の目指すものでした。

 菩薩・大士が布施波羅蜜を修行している時に、もし衆生で飢え凍え、着物はぼろぼろになってい るの見たならば、菩薩・大士はまさに次のような願を立てるべきである。私がこの所・時に布施波 羅蜜を修行し、この上ない覚りを得た時には、私の国土の衆生にはこうしたことがなく、衣服や飲 食、生きるための必需品が、四天王、三十三天、夜摩天、兜率陀天(とそつだてん)、化楽天(けら くてん)、自在天といった天界のようにならせよう。……
 菩薩・大士が六波羅蜜を修行している時、衆生に下・中・上、下・中・上の家庭(という格差)があ るのを見て、菩薩・大士はまさに次のような願を立てるべきである。私がこの所・時に六波羅蜜を 修行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生にはこうし た優劣は存在させはしない、と。

 菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)有りて檀那(だんな)波羅蜜を行ずる時、若し衆生の飢寒凍餓(き かんとうが)し、衣服弊壊(えぶくへいえ)せるを見れば、菩薩摩訶薩は当に是の願を作すべし。我 れ爾所(にしょ)の時に随ひ檀那波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が国土の 衆生をして是(かく)の如きの事無く、衣服飲食(えぶくおんじき)資生(ししょう)の具、四天王、三 十三天、夜摩天、兜率陀天(とそつだてん)、化楽天(けらくてん)、自在天の如くならしめんと。…
 菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、衆生に下中上下中上家有るを見て、当に是の願を作すべ し。我れ爾所の時に随ひ六波羅蜜を行じ、仏国土を浄め衆生を成就し、我れ仏と作る時、我が国 土の衆生をして是(かく)の如きの優劣(うれつ)なからしめんと。
(『摩訶般若波羅蜜経』「夢行品(むぎょうぼん)第五十八」)

 大乗の実践者・菩薩は、自らが覚って導く自分の国では、生きとし生けるものすべてにおいていかなる貧困も 差別もけっして存在させまい、と深く願いながら、それを可能にする英知を求め続けていく、というのです。
 菩薩にとって、目指すべきは根源的な平等社会であって、格差社会はけっして認めることのできないものなの です。
 日本を「大乗相応の地」(大乗仏教にふさわしい地)、「和の国」にするために、来年も最善を尽くしていきまし ょう、菩薩志願者のみなさん!
 では、よいお年を。







アレルギーが治りつつある
2007年1月16日

 昨日は、朝9時から夕方5時までかけて、聖徳太子「十七条憲法」の講義をしました。
 内容については、すでに書き始めていて休止状態になっている記事をもう間もなく再開しますので、ここでは 書きませんが、聞いてくださった方の反応で、とても典型的なものが2つあったのを紹介しておきたいと思いま す。
 1つは、もっとも初期からのサングラハの会員で現在長崎在住の方が言っておられた、「今日、この講義を聞 いて、なぜ岡野さんが一方でスウェーデンに一所懸命になり、もう一方で聖徳太子のことを話すのか、やっとわ かりました」という言葉でした。
 聖徳太子の掲げた国家理想は、人間と人間が平和に、お互いがお互いを幸福にしあうような暮らしをすること ができ、人間の暮らしと自然の営みが調和しているような、そういう「和の国」日本をつくろうということだった、と 私は考えています。
 そして、現代の世界の中で、そういう「和の国」に限りなく近い「緑の福祉国家」を実現しつつあるのがスウェー デンだ、と思うのです。
 だから、私の中では日本の原点ともいうべき聖徳太子「十七条憲法」と「スウェーデン・モデル」はまったく1つ のことなのです。
 そしてそれは単に私個人のことではなく、これが1つのことだとわかることで、現在の日本人がどこに向かえば いいのか、大きな合意形成が可能になるのではないか、と私は考えているのです。

 もう1つは、ちょうど折り良く講座のほんの数日前に、九州で私の講義を聞ける機会はないかと問い合わせを くださり、急いでお知らせしたら、早速出かけてくださった方の言葉でした。
 その方は、私の本をそうとうたくさん買って読んで下さっているということでしたが、『聖徳太子『十七条憲法』を 読む』を見た時、最初は、「岡野先生ともあろう方が天皇絶対主義を復活させるような本を書くとは」と思われた とのことでした。
 しかし、本を読み、そして改めて講義を聞いて、「そういうことではないんだ、とよくわかりました」と言ってくださ ったのです。
 聖徳太子→天皇絶対性・軍国主義というアレルギー反応は、かつて私も罹っていた戦後日本人のいわば「精 神の自己免疫疾患」です。
 〔自己免疫とはいうまでもありませんが、ほんとうは自分のいのちの一部であるものを「異物」と認識してしまう ことです。〕
 これを治さないことには、私たちは健康なエネルギーを取り戻すことができず、前に進むこともできないと思う ので、私は誤解を恐れず語ることにしているのですが、こうして少しずつ誤解が解けていくことは、ほんとうにう れしいことです。
 こうして少しずつではあれ、深刻なアレルギーがようやく癒されつつあるようで、希望を感じます。
 原点にあった「和」という国家理想に戻りながら、そこを出発点として前進し、綺麗ごとではなく実際に「美しい 国」をみんなでつくりたいものです。

 今日は、連投の後の中日という感じの1日を過ごしました。また、明日は東京で大切な用事です。







正式名称決定!「持続可能な国づくりの会」
2007年4月1日

 今日は、横浜で「持続可能な緑と福祉の国・日本をつくる会(仮)」の会則づくりのためのミーティングでした。
 併せて、会の正式名称も決定しました。「持続可能な国づくりの会――緑と福祉の国・日本」です。
 かなりの議論を経て、会の目的を示す「前文」も以下のように決まりました。

「私たちは、日本そして世界が安心して暮らせるかたちで末永く持続すること、まだ見ぬ将来世代 にまでより豊かに引き継がれることを強く希望します。
私たちは、自然環境と調和した持続可能な経済・社会・政治システムの構築を目指します。」

 日本の未来への不安、地球環境への不安が高まりつつありながら、全体としてはリーダーたちも市民も現状 維持ないし現状の延長線上でなんとかしたいと思っている(と私には見えるのですが)という状況の中では、会 のメッセージが広がり、日本全体に影響を与えるようになるまで、たくさんの困難があるでしょう。
 しかし、どうもこの方向しかないように思えるので、困難があっても前に進むほかない、と腹を据え直して取り 組んでいくつもりです。
 といっても私が1人でやっているわけではなく、相当数の仲間がおり、とりわけ若者が中心になって取り組んで くれているので、きっと何とかなるでしょう。
 I have a dream!







社会サービスと知識社会
2007年4月14日

 昨夜は、金曜日中級講座で『唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)』の学びが始まりました。
 千数百年も前に、人間の心の深いところへのこんなにも的確な洞察がなされていたのかと、学ぶたびに驚き を感じます。

 今日は、明日の「持続可能な国づくりの会」のメンバーとの読書会のために、もう一冊のテキスト、神野直彦 『人間回復の経済学』(岩波新書)のレジュメ作りをしました。
 著者は、現代は第三次産業革命−重化学工業から知識集約型産業への転換期にあること、適切な転換の ためには知識社会を形成するための社会サービス(教育や福祉や環境)の充実が必須であること、そういう意 味で人間性を豊かにする社会こそ知的能力の高い社会になるのでありその結果経済的にも豊かになりうると いう時代になりつつあることを、非常に説得力のある論理と実例で語っています(実例は、ここでもスウェーデン です)。
 この本を読んでいると、経済学の問題としても実際の政策の問題としても、新自由主義経済学をベースにした 日本の「構造改革」が、いかに不適切であるかがわかってきます。
 賃金、労働時間、雇用形態、福祉、教育などなど、人間的な豊かさを犠牲にして経済的な豊かさ・国際競争力 を高めようとするのは、もうまったく古くて有効性がなくそういう意味で「間違った」政策である、というほかないよ うです。
 もちろん、環境に関してはいうまでもありません。単純明快に「環境なくして経済なし」なのですから。
 詳しくはいずれ書くつもりですが、とりあえず今夜のところの簡単な感想を書いておこうと思いました。
 みなさんも、読んでごらんになりませんか。







環境・エコロジー教育とコスモロジー教育
2007年7月21日

 最近、環境のこと、持続可能な社会のことについて発言すると、「どうしたら、みんなが環境のことを考えるよう になるんでしょう。いい環境教育の方法はないでしょうか?」という質問を受けることがよくあります。
 私が「地球環境も宇宙の一部ですから、コスモロジー−宇宙カレンダーを伝えることによって、エコロジー意識 を育むことが可能だと思います」と答えると、なんだか具体性のない遠い話をしていると感じているような(と私 には見える)表情をされる方がいます。
 しかし、学生たちの実際の反応を見ていると、コスモロジーを学ぶことでただ生きることの宇宙的な意味に気 づくだけでなく、エコロジー意識に目覚めることも非常にしばしばです。
 典型的な実例として、以下、経済学部3年生の男子学生の「宇宙カレンダーについて」のレポートの感想を引 用しておきます(数値の誤解が若干ありますが、全体としては大切なポイントをつかまえていると思います。改行 等、少し手を加えてあります)。

 宇宙カレンダーを勉強して第一に感じた事は、地球への感謝の気持ちです。豊かな自然と生命を育む 地球という存在の尊さを感じました。私たち人間は、地球の様々な恩恵を受けながら生きています。水、 酸素、植物やその他、身の周りの多くのものが、人間の命を支えます。また、人間という存在自体が「進 化論」においても、「食物連鎖」においても、地球という母体をもとに成り立っています。
 ただこれが地球上で構築されるにいたっては、途方もなく長い年月をついやしている事が、宇宙カレン ダーの勉強によってわかりました。宇宙の歴史において、そもそも地球自体が誕生するまでが長い。1年 におきかえると、8月末にようやく地球ができた事に驚きました。宇宙ができて60億年もかかったので す。そして、地球ができてから生命が生まれるまでに1年において1ヶ月(20億年)かかり、そして人が生 まれるまでに4ヶ月(46億年)もかかりました。
 私たちが存在するまでに、壮大なストーリーが存在し、私たちの歴史なんかは、ほんのささいなものであ る事がわかりました。このように考えると、私たちが存在している事は、宇宙と地球の奇跡であるといえる ので、今、私たちがこのように生活している事に感謝しなくてはいけないと思いました。
 いずれにしても、とてつもない時間があったという事であり、その事に感謝の念をはらうべきであるが、 宇宙カレンダーからすると、ほんの1秒にもみたない期間の現代人が我が物顔で地球を支配し、無駄な 戦争を起こし、地球環境を破壊しているのは、事実、130億年つみあげてきたものを、人間は一瞬で無 にしてしまうという事です。人間の持つ宇宙レベルの影響力はすごいが、その力をもって地球をこわし、自 分たちの存在をこわしてしまうのは、悲しすぎると思いました。
 私たちは、人間である事におごりが強い事を感じました。地球から恩恵を受けているにもかかわらず、 人間は、地球を支配するものだと考えています。このように考えるのは、人間は、もの事をばらばらに考 えているからだと思います。しかし、この宇宙カレンダーを勉強すると、すべてのものはつながっているの だという事が理解できました。
 そこで、人間は切っても切れない存在である地球をもっと大切にすべきだと強く感じました。私自身も、 もの事の「つながり」という事を自覚して、おごりをすて、助け合いを大切にし、謙虚に生きていかなくては いけないと思いました。

 コメントしておくと、まず1つ、最後のほうで、「この宇宙カレンダーを勉強すると、すべてのものはつながってい るのだという事が理解できました。/そこで、人間は切っても切れない存在である地球をもっと大切にすべきだ と強く感じました」と書いているところが重要だと思います。
 宇宙のすべてとのつながりの理解は、より身近な存在としての地球とのつながりの理解、さらに理解だけでは なく、「私自身も、もの事の「つながり」という事を自覚して、おごりをすて、助け合いを大切にし、謙虚に生きてい かなくてはいけないと思いました」と書かれているように、自分自身の生き方への決意をももたらしているようで す。
 授業を受け、テキストを読んだ時点での理解、感動、決意がどのくらい持続するか、効果の持続性については フォローアップの調査はあまりできていませんが、少なくともスタートとしての気づきをもたらしていることはまち がいないと思われます。
 環境・エコロジー教育に関心のある方に、ぜひ、コスモロジー教育にも目を向けていただきたいと願っていま す。







暑い夏と持続可能な社会
2007年8月20日

 猛暑が続いています。
 暑さのせいと、仕事のせいで、なかなか記事を更新できませんでした。
 それにしても暑いですね。これは紛れもなく「地球温暖化」の影響です。
 仕事の1つは曹洞宗大本山永平寺の雑誌『傘松(さんしょう)』に書き始めた「環境問題と心の成長」2回目の 原稿でしたが、そこでも「地球温暖化」のことにふれておきました。
 4月7日の朝日新聞の、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書の記事を紹介したことがあ りましたが、要点だけ再掲載します。
 近未来予測を拾ってみると、2020年代(気温上昇幅 0.5〜1.2度程度)に次のようなことが起こると危惧・警 告されていました。

・ 数億人が水不足による被害にさらされる
・ サンゴ礁の白化現象が広がる
・ 生き物の生息域が変化し、森林火災の危険性が増す
・ 洪水と暴風雨の被害が増える
・ 栄養不足、下痢、呼吸器疾患、感染症による負担が増える
・ 熱波、洪水、干ばつにより病気になったり、死亡したりする確率が増える
・ 感染症を媒介する生物の分布が変わる
・ 北米では、河川の流量が減り、現在のような水需要は満たせなくなる

 賢明な読者はすでにお気づきのとおり、2020年代ではなくすでに「熱波、洪水、干ばつにより病気になった り、死亡したりする確率が増える」、「洪水と暴風雨の被害が増える」、「生き物の生息域が変化し、森林火災の 危険性が増す」という事項は現実のものになっています。
 これから、さらに深刻になっていくことが予想されています。
 被害を最小限にとどめるには、最大限の努力が必要で、それには必然的に資源の大量消費―大量生産― 大量消費―大量廃棄という流れになってしまう「経済大国」「経済成長」という社会の方向性を根本的に転換す る必要があると思われます。
 社会の方向性を転換するには、強力な政治的指導が必要です。
 そのためには、そういう指導のできる政治勢力が必要です。
 しかし、現状の日本にはそういう政治勢力は見当たりません。
 ならば、新たに創るしかありません。
 しかし、すぐには創れそうにもありません。
 ならば、まず創るための準備をするしかありません。
 というきわめて単純明快な論理の展開の結果、昨年11月のシンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にした い!――スウェーデンに学びつつ」1) 2)をふまえて、「持続可能な国づくりの会」を設立することになりました。
 来週の日曜日、26日に設立総会を行ないます。
 総会の後で学習会の講師として話します。
 暑いさなかですが、できるだけのことをやっています。







今年は記録的猛暑・去年も記録的猛暑・来年はもっと?
2007年8月21日

 「今年は記録的猛暑だ」とニュースでは言っています。
 「今年は記録的猛暑だ」と去年のニュースでも言っていたような気がします。
 (そう言えば、シンポジウムのための合宿の時も暑かった。)
 「今年も記録的猛暑だ」と言ったほうがいいのではないでしょうか。
 「今年も去年を超える記録的猛暑だ」と言うとよりはっきりします。
 「来年も今年を超える記録的猛暑になるでしょう」と言ったほうがもっといいように思います。
 猛暑に関するニュースと温暖化に関するニュースは、ぼんやりとリンクさせているようです。
 しかし、つい数日前の番組でも、相変わらず白熱球を蛍光球に替えるとか、打ち水をしたら涼しくなった……と いった話題が流されていました。
 (そう言えば、去年の合宿の時によく似た番組を見たなあ。)
 1年経っても日本の平均的認識は依然として、自然資源の大量消費―大量生産―大量消費―大量廃棄とい うメカニズムの認識に到らないようです。
 近代の産業システムは、入口で自然資源の有限性と出口で自然の自己浄化能力の有限性という限界に直面 している、というのは私たちのグループの共通認識なのですが、なかなかたくさんの方と共有できるに到りませ ん。
 しかし、明らかに事態は目に見えて進行というより悪化しています。
 後は、多くの人がいやおうなしに認識する時が来るのを待つだけ、ということなのでしょうか。
 手遅れになる前に――この焼けるような暑さで「茹で蛙」どころか「焼き蛙」になってしまう前に――時よ来い!







IPCCは「持続発展型社会シナリオ」を示唆していた!?
2007年8月23日

 今朝、ふと今年2月のIPCC第4次報告の新聞報道は読んだけれど、報告書そのものはちゃんと読んでいな かったなと思って、ネット検索をしてみました。
 2月2日付けの報道発表資料がすぐに見つかりました。
 「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第4 次評価報告書第1作業部会報告書 政策決定者向け 要約(SPM)の概要 速報版」
 改めて、素人でも知ろうとさえ思えばそうとうなことを知ることができるのだな、と実感しました。
 再確認したのは、まず「出席者:107か国の代表、世界気象機関(WMO)、国連環境計画(UNEP)等の国際 機関等から合計306名が出席。わが国からは、経済産業省、気象庁、環境省などから計9名が出席した。」こ と、「第4次評価報告書の作成には、3年の歳月と、130を超える国の450名を超える代表執筆者、800名を 越える執筆協力者、そして2,500名を越える専門家の査読を経て、本年順次公開される。」ことです。
 これだけ多数の国、つまり国同士の利害関係は必ずしも一致しない国々の、多数の専門家たちがあえて出し た報告・警告であるというのは重要です。
 主な結論の第一に、「気候システムに温暖化が起こっていると断定するとともに、人為起源の温室効果ガスの 増加が温暖化の原因とほぼ断定。」とありました。
 これはすでに多くの報道機関等が指摘していますが、めったなことではものごとを断定しない職業意識が身に ついている科学者たちがあえて「断定」したというのはまったく異例であり大変なことだと思います。
 しかも「政策決定者向け」となっています。
 日本も、経済産業省、気象庁、環境省などから9名が出席したということですが、「政策決定者」に正確に伝わ っているのでしょうか。率直なところ、そこが疑問です。
 特に重要だと思うのは――しかし、これは新聞などでも報道されていなかったように記憶しますが――「参考」 の欄に、どういう政策が採られたらどういう結果になるかというシナリオがちゃんとあったことです。これは驚きで した(勉強不足、というか勉強遅れですみません)。以下、長いのですが、あえて引用しておきます。

(参 考)

SRES(排出シナリオに関する特別報告)の温室効果ガス排出シナリオ

○A1「高成長社会シナリオ」
 高度経済成長が続き、世界人口が21 世紀半ばにピークに達した後に減少し、新技術や高効率化技術 が急速に導入される未来社会。A1 シナリオは技術的な重点の置き方によって次の3 つのグループに分 かれる。
A1FI:化石エネルギー源重視
A1T :非化石エネルギー源重視
A1B :各エネルギー源のバランスを重視

○A2「多元化社会シナリオ」
 非常に多元的な世界。独立独行と地域の独自性を保持するシナリオ。出生率の低下が非常に穏やか であるため世界人口は増加を続ける。世界経済や政治はブロック化され、貿易や人・技術の移動が制限 される。経済成長は低く、環境への関心も相対的に低い。

○B1「持続発展型社会シナリオ」
 地域間格差が縮小した世界。A1 シナリオ同様に21 世紀半ばに世界人口がピークに達した後に減少す るが、経済構造はサービス及び情報経済に向かって急速に変化し、物質志向が減少し、クリーンで省資 源の技術が導入されるもの。環境の保全と経済の発展を地球規模で両立する。

○B2「地域共存型社会シナリオ」
 経済、社会及び環境の持続可能性を確保するための地域的対策に重点が置かれる世界。世界人口 はA2 よりも緩やかな速度で増加を続け、経済発展は中間的なレベルにとどまり、B1 とA1 の筋書きより も緩慢だがより広範囲な技術変化が起こるもの。環境問題等は各地域で解決が図られる。


 「どのシナリオでも、今後20年間に、10年当たり約0.2℃の割合で気温が上昇。」とされていますが、しかし B1のシナリオがいちばん予測値が低いこともグラフなどではっきりと示されています。
 「政策決定者」が、報告書を正確に読めば、これからどのシナリオの採用を決定するよう示唆されているか、 「火を見るように」明らかなのではないでしょうか。
 それはともかく、民主主義の国日本では、最終的な「政策決定者」は国民であって、政府は「政策決定代行 者」にすぎません。
 私たち国民ひとりひとりが自分で、この報告書をちゃんと読む必要があったのだな、と感じています(まだの方 はどうぞ読んでみて下さい)。
 残念ながら、私の知るかぎり、どの報道機関も、IPCCがあえて「政策決定者」に向けてこの「B1持続発展型 社会シナリオ」がもっとも適切な選択肢であることを示唆している(ように読める)ことに注意を促すような報道は していなかったようです(ちゃんとやっていたのに私が知らなかっただけだったら、失礼)。
 さらに不思議なことに、3月20日付けの「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第4 次評価報告書第1作 業部会報告書 政策決定者向け要約(2007,確定訳」**のほうを見てみると、みごとなくらい「火を見るように 明らか」な印象はなくなっていました。ここには何か作為があるのでしょうか。
 ともかく、現在の「政策決定代行者」が適切なシナリオを選択しないのならば、真の「政策決定者」「主権者」で ある国民が、適切なシナリオを選択できるような新しい「政策決定代行者」を選択しなおさなければならない、と いうのが「持続可能な国づくりの会」の思いです(とメンバーの一員である私は思っています)。
 7月の参院選の結果が、国民の気づきの微かな兆しであれば、と願っているところです。







IPCC予測の衝撃、しかし前進あるのみ
2007年8月24日

 今朝も「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第4 次評価報告書第1 作業部会報告書 政策決定者向け 要約(SPM)の概要 速報版」を読み直しています。
 冒頭の「報告書の主な結論」に、次のような項目があったことを再確認しました(太字による強調は筆者)。

●1980 年から1999 年までに比べ、21 世紀末(2090 年から2099 年)の平均気温上昇は、環境の保全と 経済の発展が地球規模で両立する社会においては、約1.8℃(1.1℃〜2.9℃)である一方、化石エネ ルギー源を重視しつつ高い経済成長を実現する社会では約4.0℃(2.4℃〜6.4℃)と予測(第3 次評価 報告書ではシナリオを区別せず1.4〜5.8℃)
●1980 年から1999 年までに比べ、21 世紀末(2090 年から2099 年)の平均海面水位上昇は、環境の保 全と経済の発展が地球規模で両立する社会においては、18cm〜38cm)である一方、化石エネルギー源 を重視しつつ高い経済成長を実現する社会では26cm〜59cm)と予測(第3 次評価報告書(9〜88cm)よ り不確実性減少)
●2030 年までは、社会シナリオによらず10 年当たり0.2℃の昇温を予測(新見解)

 繰り返すと、被害を最小限にとどめるためにはどちらのシナリオを選択すべきかは火を見るよりも明らかで す。

 それからもう一つ、「気候システムの変化の実態」と「地球規模の将来予測」のところに、穏やかな気候の美し い自然に包まれて生きることを心の支えとしてきた日本人(川端康成のいう「美しい日本の私」)にとってはきわ めてショッキングな予測が書かれていることに気づきました(昨日もぼんやりとは読んでいたのですが)。

●20 世紀後半の北半球の平均気温は、過去1300 年間の内で最も高温であった可能性が高い。最近 12 年(1995〜2006 年)のうち、1996 年を除く11 年の世界の地上気温は、1850 年以降で最も温暖な12  年の中に入る。
●人為起源の二酸化炭素により、千年以上にわたって温暖化や海面水位の上昇が続く。

 万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、連歌や俳句、そしてなにより歳時記に表現されてきたような、日本の 伝統的美意識が穏やかな四季のめぐり――冬は冬らしく、春は春らしく……という温帯の気候――をベースに していることは明らかですが、この予測が示していることは、日本もそれらが育まれてきたこれまで1300年と はまったくちがった気候風土(亜熱帯?)になっていく、ということです。
 かつて公害にふれて筑波常治氏が『自然と文明の対決』(日本経済新聞社、1977年)で、次のようなことを述 べておられ、深く共感しました。この指摘は公害よりもさらに広く深刻な問題である「地球環境問題」にもみごと に当てはまるように思います。 かなり長いのですが、引用してご紹介しておきたいと思います。

 ……公害は、日本人にとって、文字どおりひとつの「宗教」の崩壊を意味したと思う。……
 いまあえて「宗教」という言葉を使ったが、それは要するに日本人の心のなかで、これだけは絶対に間 違いないと思いこまれてきた信念のことである。自然にたいするその信念とは、どのようなものだったか。 ……
 自然にたいする日本人の態度を文学的に表現すれば、自然への甘えにつらぬかれているといえよう。 「自然のふところに抱かれて」過ごすことを、理想視するのである。あるいは哲学的表現をもちいるなら、 人間と自然の一体観といえよう。また科学的表現であらわせば、自然それじたいの天然の補償再生能力 にたよりきった態度といえよう。それはたとえていうと、母と幼児との関係によく似ている。母や幼児に、無 条件で愛情をそそぎかける。なぜなら母とは本来、そのような本能にささえられた存在なのだからであ る。母性愛は無限であり、ときに手痛い叱責をくわえることはあっても、原則的には幼児のねだりに、とこ とんまで応えてくれる相手にほかならない。
 ……このような自然への態度こそ、いわゆる公害(自然破壊)を、ことのほか極端におしすすめてしまっ た大きな原因のひとつである。機械文明の導入と浸透にともない、河川に放棄される、汚物、廃液の量は 激増した。山野を切り崩しての開発≠ェ、猛烈な速度ですすめられた。こうして旧来とは比較にならな いほど、自然の消耗がひどくなった。にもかかわらず補償のほうは、従来どおりいぜんとして、自然じたい の再生能力にまかせきりだった。かくしてさしもの日本列島の自然も、追いつくことができなくなった。自然 破壊の速さが、回復力を上回ってしまったのである。
 その結果が、日本の公害問題にほかならない。公害はまず、生活環境の現実の劣悪化として日本人を おびやかしている。しかし、日本人がこうむった心理的ショックの内容は、単にそれのみにとどまらない。 外部環境だけでなく、精神内部の深奥で、大きな崩壊現象がはじまったのである。日本人の大部分が自 覚しているかどうかは別として、むしろ後者の影響のほうが深刻なのではないだろうか。
 すなわち現在の事態は、およそ二千年以上にわたってつづいてきた伝統的自然観の崩壊を意味してい る。これまで日本人が当然のこととして、腹の底から信じきっていた常識が、じつは間違いだったという警 告を受けているわけだ。この結果、日本人はいま非常な精神的不安におそわれている。公害のもっとも 深刻な打撃とは、じつはこの部分にあるのではないだろうか。
 ……二千年の間いだきつづけた信仰、つね日ごろあらためて意識する必要もないほど当然のこととさ れていた思想が、じつは間違いであったという烙印がおされた。それは十九世紀のむかし「進化論」をつ きつけられたときの欧米人の衝撃に匹敵しよう。

 伝統的自然観(自然との一体感)を「含んで超える」かたちで、この衝撃に耐えることのできる新しい自然観を 創造しようという試みが、私のいう「コスモロジーの創造」であり、現段階である程度のかたちになったものを共 有したいというのがコスモロジー教育=コスモス・セラピーであり、本ブログの目的でもあります。
 IPCC報告は大きな衝撃ですが、その衝撃に耐えて前に進むコスモロジー的勇気を自分の心のなかに湧きあ がらせようと改めて思います。







時代は動き始めた:2つの集い
2007年8月26日

 昨日は、コスモス・フォーラム第12回に行ってきました。
 池内了先生(総合研究大学院教授、天体物理学)、内井惣七先生(京都大学名誉教授、科学哲学)、海部宣 男先生(国立天文台前所長・名誉教授、電波天文学)、佐藤勝彦先生(東京大学大学院教授、宇宙論)、竹宮 惠子先生(漫画家、京都精華大学教授)というまさにそうそうたるメンバーの方々と名刺交換をし、少し話をさせ ていただきました。
 宇宙論についてもっとも学ばせていただいた鈴鹿短期大学学長の佐治晴夫先生も来ておられて、久しぶりに お目にかかり、短い時間でしたが、非常に大切なポイントの話をすることができました。
 フォーラムで案内チラシを配っていましたので、もう公表していいようですが、私も第14回にパネリストとして 参加させていただきます。
 詳しい話は明日の記事に書くつもりですが、こうした方々とコスモロジーに関して大きな合意を形成することが できる歴史的な段階に差し掛かっていると感じました。
 今日は、「持続可能な国づくりの会」の設立総会でした。
 ここでも、きわめて有意義な話し合いをすることができましたが、それも明日書くつもりです。
 今夜は、とりあえず、報告だけでもしておきたいと思いました。
 では、みなさん、おやすみなさい。よかったら、また明日読んで下さい。







「持続可能な国づくりの会」設立総会・報告
2007年8月28日

 一昨日の「持続可能な国づくりの会」の設立総会のことを昨日書くつもりでしたが、コスモス・フォーラムの記事 だけで手一杯でした。一日遅れでご報告します。
 総会の冒頭で、数日前のブログ記事とほぼ同じ内容の設立趣旨のスピーチをしました。
 参加者は多くはありませんが、みな本気の方ばかりでした。
 「私たちは、日本そして世界が安心して暮らせるかたちで末永く持続すること、まだ見ぬ将来世代にまでより 豊かに引き継がれることを強く希望します。私たちは自然環境と調和した持続可能な経済・社会・政治システム の構築を目指します。」という前文、「本会は、日本を持続可能な緑の福祉国家にするために必要な諸事業を 行い、世界と人類の持続に広く貢献することを目的とする。」という目的を含んだ「会則」が全員一致で可決され ました。
 総会後の学習会では、まず私が「IPCC第4次報告などなど 1) 2)、十分な情報は提供されているにもかかわ らず、市民にも政治家や経済人にも――資源の大量採取―大量生産―大量消費―大量廃棄という流れにな る近代の産業システムを変えようという――適切な反応が起こらないのはなぜか?」という問題提起を行ない、 みなさんと話し合いをしました。
 さまざまな有意義な発言がありましたが、その一部だけご紹介します。
 まず1つ、「『理性は情動の奴隷である』というヒュームの言葉をあげて、人間は差し迫った危機でないと情動 が動かされないので行動しない」という指摘がありました。
 もう1つ、「経済と環境の関連 3) への報道は十分ではなく不足している。今日の生産物は明日の廃棄物とい うきわめて当たり前のことについて、正確な情報を与えれば人は動くはずだ」という発言もありました。
 それからもっとも初期からコンピューターなど新技術の開発−普及に関わってきた方から、「新しいものの普 及は、20%から40%、そしてブレークスルーという傾向がある。最初の20%までが長い、そして大切。日本人 は、理屈より周りの空気で動くものなので、空気が変わるまでが大変だが、空気が変わればがらりと変わる」と いう興味深い指摘がありました。
 それに対して、「そういう傾向は、拡大がいいことだと思われていた時代には当てはまるが、今後はどうか」と いう疑問が出されましたが、それに対して「環境問題についても、団塊の世代が動けば、動くと思う」と答えてお られました。
 また、「日本は閉鎖系社会であり、等質な生き方、我がままを抑える、まわりに合わせるという民族性が育ま れてきているが、それはプラスにもマイナスにもなる」という指摘もありました。
 さらに若い世代から、「リーダーの世代は、戦後の空腹体験とそれを経済成長で克服したという成功体験から 抜けられないのではないか。次世代への想像力が欠けているのではないか」という発言がありました。
 また、「理性によって情動をコントロールできる人がリーダーであるべきで、理性的に行動すべきグループとそ れができないグループを区別する必要がある」という意見も出ました。
 私は、情動と理性の関係について、「経済成長に対しての『目的合理性』と『エコロジカルな合理性』を区別す るといいと思う。これからのリーダーに必要なのは『エコロジカルな合理性』だと思う」と述べました。
 そして最後に、適切な行動が起こっていない原因としては以下のことが考えられる、とまとめました。

@日本人の民族性としての、いくらでもおねだりに応えてくれどんな粗相をしても尻拭いをしてくれる優し い母のような自然への甘えの感性。4) 5)
Aお上意識――民主主義の未成熟。6) 7)
B科学技術による経済成長・拡大・成功がアイデンティティになっている。アイデンティティの変更にはアイ デンティティ・クライシス、不安が伴うので、大きな抵抗が起こる。
C心理学的にいうと、不安に対しては、2つの反応パターンがある。否認・抑圧という防衛メカニズム、不 安の原因の認識‐適切な対応。後者のほうが適切な反応であることはもちろんだが、防衛メカニズムに陥 ることがしばしばある。
D戦後の物質還元主義科学と個人主義的民主主義のせいで次世代への想像力―自然といのちのつな がり意識が失われてきている(2005年8月頃の記事参照)。

 そして、では今後どうすればいいのか、どうするのかということについては次のことを提案しました。

@梅原猛氏の言葉を借りれば「日本人は雪崩をうつ国民」なので、情報・状況が閾値を超えるまで、つま りブレークスルーまで、辛抱強くアッピールし続ける。
A現代科学的な根拠のある「つながりコスモロジー」 8) を伝達していく。
B行動を動機づける主な情動に欲望、不安、愛情がある。情動=マイナスと捉える必要はない。愛情= つながり感覚という情動に動機づけられれば、次世代のための適切な行動が生まれる可能性は十分に ある。

 最後近く、孫のいる女性から「行動できるかどうかのポイントは、次世代への愛情だと思う」というまさにポイン トをついた発言がありました。
 公式プログラムが終わった後の二次会まで、有意義で楽しい集いでした。
 趣旨に賛同していただける方、次世代の子どもたちの未来のために、これから、ぜひご参加・ご入会下さい。







持続可能な国づくりの会・学習会
2007年10月1日

●「持続可能な国づくりの会」の活動が始まっています。今月は下記のとおり学習会を行ないます。
 日本を持続可能な社会にしたい!と本気で思っておられる方も、それはどういうことだろう?と関心をもってお られる方も、ぜひお出かけ下さい。

 







シンポジウム趣意書
2008年3月25日

 シンポジウム「持続可能な国家のビジョン〜経済・福祉・環境のバランスは可能だ!〜」

趣意書

 多くの警告や専門機関、専門家、民間活動家も含めた多くの人々の努力にもかかわらず、この数十年、世界 全体としての環境は悪化の一途をたどっています。
 特に近年、記録的暑さ、記録的豪雪、記録的強風、記録的豪雨など、「気候変動・地球温暖化」を実感させる 異常気象が頻発しています。メディアでも、頻繁に「温暖化の影響」という言葉が使われ、「猛暑日」や「不都合 な真実」が流行語にノミネートされるまでになりました。
 言うまでもありませんが、「地球環境問題」はそれにとどまりません。その他、
 オゾン層の破壊、
 森林の減少、
 耕地・土壌の減少、
 海洋資源の限界―減少、
 生物種の激減、
 生態系の崩壊、
 化学物質による大気・耕地・海洋の汚染、
 核廃棄物や産業廃棄物から生活ゴミまでの際限のない増加
などなど、根本的に改善されているものは一つとしてない、地球環境が非常な危機にあることはすでにあまりに も明らかである、と私たちは捉えています。
 そうした状況の中で、一般市民の意識・危機感もゆるやかではありますが、確実に高まっています。しかし、そ うした危機感は、「できることからはじめよう」という努力には結びついていますが、それだけでは社会全体の方 向は変わらず、環境問題の根本的な解決にはつながりません。
 環境問題は、近代先進国の人々が豊かになるという目的のために行ってきた経済活動――資源の大量使用 ―大量生産―大量消費―大量廃棄による経済成長――の、予想していなかった、しかしよく考えれば必然的 な「目的外の結果」が蓄積し続けているものであり、問題の解決には、そうした社会・経済システムを変更する ほかない、というのが私たちの考えです。
 しかし多くの人が本音のところ、「環境は確かに問題だが、それに力を注ぎすぎると経済がダメになる」、「経 済と環境は二者択一だ」、さらに「経済と福祉と環境は三すくみだ」と考えているようです。確かに、経済成長を 一切否定するような「昔帰り」は、近代の経済成長の恩恵を受けてきた現代人にとってはできない選択でしょう。
 けれども私たちは、そうした不毛な発想は採りません。このシンポジウムにおいて、副題のとおり「経済・福祉・ 環境のバランスは可能だ」と主張したいのです。それこそが「持続可能な国家のビジョン」の要だと考えるからで す。
 私たちは、すでに二〇〇六年十一月、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに 学びつつ」を開催し、環境の危機に対して「どういう対策が本当に有効かつ可能か」を、スウェーデンという国家 単位の実例をモデルとして検討し、そこから大枠を学ぶことによって、日本の進むべき方向性が見えてくるので はないか、と提案しました。
 かつてヨーロッパの北辺のきわめて貧しい農業国だったスウェーデンは、戦前から特に戦後にかけて、急速 な近代化・工業化によって豊かな福祉国家に変貌し、単なる「経済大国」ではなく「生活大国」になりました。しか し、七〇年代と九〇年代前半、スウェーデンが不況にみまわれた時、「それ見たことか、やりすぎの福祉のため の高い税と財政の負担が経済の足を引っぱった。やはり『スウェーデン・モデル』は無理なのだ」という印象批評 がありました。
 ところが実際には、九〇年代前半の不況をわずか数年で克服し、国の財政収支はほぼバランスし、世界経 済フォーラム(ダボス会議)の経済競争力調査では二〇〇五年までの過去三年間世界第三位にランクされてい ます。いまや経済・財政と福祉、さらには環境とのみごとなバランスを確立しつつあるようです。
 しかもそれは、たまたまうまくいったのではありません。問題解決の手法として、目先の問題に対応するのをフ ォアキャスト、到達目標を掲げそれに向けて計画的に実行していくのをバックキャストといいますが、スウェーデ ンは、政治主導のバックキャスト手法によって、「エコロジカルに持続可能な社会=緑の福祉国家」という到達 目標を掲げ、それに向けて着実に政策を実行し、目標の実現に近づいています。
 「日本も『循環型社会』や『低炭素社会』というコンセプトで努力している」という反論もあるでしょう。しかし決定 的な違いは、依然として大量生産―大量消費―大量廃棄を前提とした「経済成長の持続」を路線としている点 です。それは原理的に「持続可能」だと思われません。
 それに対しスウェーデンは政府主導で、経済活動を自然の許容する範囲にとどめつつ高い福祉水準を維持 できる経済成長を続けるという、きわめて巧みなバランスを取ることに成功してきました。それは、政府関係者 が、早くから「第二次産業革命」と呼ばれた重化学工業中心の時代から「第三次産業革命」・知識産業中心の 時代に移りつつあることを認識していたことにもよるようです。
 多くの人の誤解と異なり「スウェーデンは小さい国だからできた」のではありません。政治指導者に、「社会全 体は協力原理で営み、経済分野は競争原理で活性化する」という統合的な英知があり、そうした方向性で合意 して市民も科学者も財界人も協力したからできたのではないでしょうか。
 もちろんスウェーデンが唯一で完璧なモデルだとは思いませんが、国際自然保護連合の評価では、現在「エ コロジカルに持続可能な社会」にもっとも近づきつつある国です。そういう意味で、きわめて希望のもてる「学ぶ べきモデル」だ、と考えているのです。
 しかも、長らく政治アレルギーぎみだった日本の心ある市民にとって重要なことは、スウェーデンの政治権力 はみごとなまでの自己浄化能力・自己浄化システムを備えているということです。堕落しない民主的な政治権力 のある国が現実に存在しているのです。
 私たち日本人が今スウェーデンから学ぶべきものは、なによりも国を挙げて「緑の福祉国家」を目指しうる国 民の資質とその代表・指導者たちの英知と倫理性です。
 自浄能力のある真に民主的な政治権力の指導によってこそ、経済・福祉・環境のバランスのとれた、本当に 「持続可能な社会=緑の福祉国家」を実現することが可能になるのではないか、それは、世界中の国々が目指 すべき近未来の目標であり、日本にとっても今こそ必要な国家ビジョンである、と私たちは考えます。
 きわめて残念ながら当面日本には、「緑の福祉国家」政策を強力に推進できるような国民の合意も政治勢力 もまだ存在していませんが、危機の切迫性からすると早急に必要です。そうした状況の中で、まずそうした方向 性に賛同していただける方、関心を持っていただける方にお集まりいただき、希望ある国家ビジョンを共有する オピニオン・グループを創出したい、という願いをもって前回のシンポジウムを開催し、そこで得られた合意に基 づき「持続可能な国づくりの会<緑と福祉の国・日本>」というグループを結成しました。本シンポジウムは、私た ちのいわば第二歩です。
 趣旨にご賛同いただける方、次世代に手渡すことのできる「持続可能な国」をつくり出すためのステップを、ぜ ひご一緒にお踏みいただけますよう心からお願い致します。







シンポジウム:持続可能な国家のビジョン
2008年3月27日


 「持続可能な国づくりの会〈緑と福祉の国・日本〉」主催のシンポジウムのテーマ、日程、パネリストが決まりま したので、お知らせします。

 テーマ:「持続可能な国家のビジョン〜経済・福祉・環境のバランスは可能だ!〜」

パネリスト(50音順):
大井玄 (元国立環境研究所長、東京大学医学部名誉教授)
小澤徳太郎 (環境問題スペシャリスト、元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー)
岡野守也 (サングラハ教育・心理研究所主幹、思想家〔←最近外部の方にいただいた呼称〕
神野直彦 (東京大学大学院経済学科教授、財政学)
西岡秀三 (元国立環境研究所理事、IPCCに参加)

 日本の政・官・財界や知識人、市民に広く――建前ではなく本音でいうと――存在する「経済と環境は矛盾す る」さらに「経済と福祉と環境は3すくみ(トレードオフ)だ」という思い込み・非論理的な思考(イラショナル・ビリー フ)を、事実と理論とそしてなによりも時代の絶対的必要という視点から、徹底的に論破する挑戦的なシンポジ ウムです。
 環境問題を本当に解決するためには、何をどうすればいいのか、はっきりした方向性を示しうる、今日本で望 みうる最高の論客にお集まりいただくことができました(筆者はともかくとして)。
 心ある多くの方々に、自信をもってこれからの日本が向かうべき方向・国家ビジョンを提案したいと考えていま す。

日時:2008年5月11日(日)13:00〜19:00(12:30開場)
場所:板橋区立グリーンホール(東京都)(http://www.city.itabashi.tokyo.jp/bkaikan/map.htm)
参加費:一般2000円、学生、会員1000円
*お問い合わせは、「持続可能な国づくりの会」事務局(greenwelfarestate@mail.goo.ne.jp)へ(参加の予 約できます)。







お知らせ:シンポジウム論集とサングラハ98号ができました
2008年4月28日

 5月11日のシンポジウムが近づいてきました。
 みなさんと共有したいことを予め論集にまとめました。
 ぜひ、お読み下さい(参加申し込み、資料請求は 「持続可能な国づくりの会」事務局 greenwelfarestate@ mail.goo.ne.jp まで)

 

遅れていた『サングラハ』第98号もできました。
今回も充実した内容です。
講読ご希望の方は、サングラハ教育・心理研究所(okano@smgrh.gr.jp) へお問い合わせ、お申し込み下さい。

 







エコロジカルに持続可能な社会を創りうる心
2008年5月16日

 5月11日のシンポジウム「持続可能な国家のビジョン〜経済・福祉・環境のバランスは可能だ!〜」が終わり ました。
 多くのみなさんに集まっていただくことができ、大成功だったと思います。
 ……が、私は当日の寒さ、というかここのところの温度の乱高下・異常気象と累積疲労にちょっとだけ負け て、軽い風邪を引いてしまいました。
 大学や研究所の講義はなんとかこなしていますが。
 ブログの更新もなかなかできず、気になっていました。
 今日は、休養日――といっても、大学のテキスト『コスモス・セラピー――生きる自信の心理学』の原稿の最終 見直しをしました――で、ちょとだけ更新しようと思い、何を書こうかと思いましたが、シンポジウムでは論集とは ちがうことを話しましたので、その原稿を公表しておこうと思いました。
 このブログで書いてきたことの繰り返し・要約という感じですが、短くまとめたものを読んでいただくことにも意 味があるのではないかと思っています。
 ぜひ、ご意見をお聞かせ下さい。


   エコロジカルに持続可能な社会を創りうる心

 エコロジカルに持続可能な社会を作るには、なぜそれが必要なのかという認識とぜひそれを創造というか再 創造したいという強い情熱が必要である。正確な認識がなければ、行動は期待した効果をもちえない。強い情 熱がなければ、本気の行動は生まれないからである。
 スウェーデン−北欧の人々、その指導者には六〇年代から一貫して、正確な認識と強い情熱があったようで ある。「持続可能な社会」というコンセプト自体北欧発である。
 そこで我々は「スウェーデン・北欧に学びつつ、日本も緑の福祉国家にしたい」と考えてきた。
 さて、地球環境の危機の原因が近代の経済‐産業システムにあることは、ほぼ論を待たない。欧米を中心とし た近代社会は、近代科学‐技術‐産業の成長・発展によって大量生産‐大量消費‐大量廃棄を行ない、いわゆる 「先進国」に限っては一時的に豊かな社会を作り出した。しかし、近代のシステムはスタートから、入口では資源 の有限性、出口では地球の自己浄化能力の許容度という「限界」を抱えていたといえるが、そのことが十分自 覚されないまま二百年あまり営まれ続け、結果として資源の枯渇、環境の汚染という深刻な問題を生み出し た、といっていいだろう。
 すでに六〇年代から「成長の限界」への警告はなされてきたし(『ローマクラブ・レポート 成長の限界』邦訳ダ イヤモンド社)、いまや建前としては「持続可能な発展」は国際的に合意されるに到っているが、国際社会全体 のいわば本音としての実際の対応は、適切な速度・規模でなされてきていないように見える。
 幸いスウェーデンを先頭とする北欧諸国などは本格的に持続可能な社会に向かっているわけだが。
 それにはいくつもの複雑な理由があるだろうが、もっとも根底には西欧先進国の人々、特にリーダーの心の 中でほとんど無意識といってもいいくらい自明化されている、近代科学的な世界像・コスモロジーの問題がある と思われる。デカルト『方法序説』に典型的に示されたような方法とその方法を適用することによって発展した近 代科学のコスモロジーには、非常なプラス面と同時に深刻なマイナス面がある、と私は考えている。

 近代科学のばらばらコスモロジー
 近代科学の方法の第一のポイントは、「主客分離」である。自分がどう思うか、伝統社会がどう考えてきたか、 自分たちがどう信じているかといった「主観」を脇におき、対象=客体そのものがどうなっているかを「客観」的 に観察・研究するのである。
 第二のポイントは、「分析」(と「総合」)である。観察する主体と分離して向こうに置かれた研究対象=客体の 「全体」は、できるだけ小さな「部分」へと「分析」される。ばらばらにして「部分」へ還元するのである。
 そしてそれぞれの「部分」がどうなっており、部分がどう組み合わさっているかを明らかにし、最後にばらばら の「部分」を元のかたちに組み立てる、つまり「総合」である。「部分」が組み合わされると、対象・客体の「全体」 が分かったことになる。
 この「デカルト的方法」は実に切れ味がよく、この方法を使うと、あらゆることが分かるように見えた。また、全 体を部分の組み合わせとして捉えれば、組み合わせはどのようにでも変えられるから、実に便利だった。分析 という方法が、さまざまなものを人間の都合のいいように組み換える「技術」を驚異的に発達させたといっていい だろう。その極みが「遺伝子組み換え技術」である。いのちのかたちを生み出す情報を分析し、組み換え、今ま でなかった新しいいのちのかたちを作り出すことさえできるようになったのである。
 こうした近代科学の、主体(人間)と客体(研究対象)を分離し、さらに客体も部分へと分離・分析するという方 法によって描き出された世界像を私はわかりやすく「ばらばらコスモロジー」と呼ぶことにしている。
 私は、近代のばらばらコスモロジーには大きなマイナス面があると考えているが、それを含んで超えることに よってしか前に進めないと考えていることと、公平を期すということもあるので、まず近代のプラス面について整 理しておきたい(以下は、主に富永健一氏のきわめて明快な整理による。『近代化の理論』、『日本の近代化と 社会変動』、『マックス・ウェーバーとアジアの近代化』、講談社学術文庫、参照)。

 近代のプラス面
 @まず技術面では、人力・畜力から機械力へと動力革命が行なわれ、さらに情報革命にまで発展してきた。こ れは、労働が効率的になり便利になるという意味では、もちろんプラスである。さらに富永氏は指摘しておられ ないが、「医療技術」の発達も挙げる必要がある。病気の克服は人類の長年の夢だったのだから、これも近代 のすばらしい成果である(しかしそれが人口問題を引き起こしているという面がある)。
 A経済面では、第一次産業から第二次・第三次産業へと比重が移り、自給自足経済から市場的交換経済 (資本主義)へ発展してきた。これは、産業化→社会の生産力の飛躍的な向上→貧困の克服という面だけから 見るとまちがいなくプラスである(しかし、「貧困の克服」はこれまでのところ先進国でしか実現していない)。
 B法と政治の面では、法が伝統法から近代法へと発展し、政治では、封建制が近代国民国家へ、専制主義 が民主主義へと発展した。「市民革命」の成果である。個々人が多くの不合理な制約から自由になったという意 味で、決して後戻りしてはならない近代の大きな成果だというべきだろう。
 C社会面では、社会集団は、家父長制家族から核家族へ、機能的未分化な集団から機能集団(組織)へと変 化してきた。並行して、地域社会は村落共同体から近代都市へと「都市化」を遂げる。社会階層については、身 動きのつかない身分階層から自由・平等で努力しだいで移動が可能な社会階層になってきた。抑圧的で硬直 的な身分制から、自由・平等な社会になったことは、いうまでもなく「進歩」である。
 D文化の面では、まず社会の主流の知識が神学的・形而上学的なものから実証主義的なものへと大変動を 遂げた。いわゆる「科学革命」である。価値に関する面では、「宗教改革」と「啓蒙主義」によって、非合理主義 から合理主義へという大きな変動・進歩があった。もちろんこれも、ある面、確かに大きな進歩・発展である(し かしそこからニヒリズムが生まれている)。
 以上のような「近代化」の成果の主な部分に関しては、大変な成果であり進歩であり、そのプラス面に関して は、「決して後戻りしてはならない、できない。どころか、不十分なところはさらに進めなければならない」と、私 は考えている。そういう意味で、全面肯定はしていないが、近代の成果は十分に評価しているつもりである。
 また、こうした近代のプラス面があまりにも大きいために、多くの人にとって、あえてそれを否定し・超える社会 システムを構想することが困難なのであろう。

 近代のマイナス面
 しかし、ばらばらコスモロジーをベースにした近代社会は、@ニヒリズム、A戦争の規模拡大、B地球環境問 題、という三つのきわめて深刻なマイナス面をも生み出した、と私は捉えている。ここでは、テーマに沿って環境 問題についてのみ述べる。
 近代科学では、前述のように自然は自らとは分離した客体として分析的に認識される。さらに近代の科学技 術は、分析的に認識され仕組みが分かった自然を組み換えることを目指す。そうした技術をベースに営まれる 産業では、当然の流れとしてそうした自然は人間とは分離した利用する対象としての「資源」とのみ見なされが ちだった。そして近代の経済システムおよび経済学では従来、自然は分離して外にある「経済外要素」と見なさ れたため、資源・浄化能力の両面の有限性が経済学者・経済人や政治家の視野・計算にはほとんど入ってき ておらず、その傾向は現在まで強固に続いている。
 そういう意味で、近代のばらばらコスモロジー的な価値観で固まった経済人や政治家によって主導されている かぎり、現在の経済‐政治システムが根本的に変更される見込みはなく、したがって資源の枯渇と大量廃棄に よる環境汚染は避けられず、持続可能な社会・世界の構築もほとんど不可能だと思われる。
 それに対して、近代以前の人間は、多かれ少なかれ自然に対する畏怖・畏敬の念を持っていたと考えられ る。また、とりわけアジア、アフリカ、ネイティヴ・アメリカ世界では、自然は神のような存在であり、かつ人間と切 っても切れないつながりがあると感じられていた。日本の古神道的な感覚でも、山や川、森や巨木や巨岩など は「神」として崇められてきた。
 だからといって、近代西欧以外でまったく環境破壊がなされなかったわけではない。しかし、そこに憚りやため らいや畏れといった強い歯止めもあったのではないだろうか。科学‐技術の未発達、産業の未発達とも相まっ て、環境破壊は一定限度に留まっていた。
 近代西洋の科学、政治、経済などの分野の指導的人々の心の中から、自然と人間との本質的なつながりさら には一体性が見失われた時、自然を資源、つまり利用の対象としてのみ捉え、憚りなく大量使用‐大量浪費す ることも、使い終わって自分に用がなくなると大量廃棄することも可能になったのだと考えられる。
 テーマに即していうと、「近代的な心のあり方が近・現代の極限的な環境破壊をもたらしている。したがって心 のあり方が変わらなければ、環境問題を含めた近代の問題・マイナス面の根本的解決はありえない」と私は考 えている。

 現代科学のつながり・かさなりコスモロジー
 空気、水、食べ物(植物、動物)、地球、太陽、太陽系、銀河、宇宙……それらなしには、生物としての人間は 生きられない。人間は、人間以外の自然とのつながりなしには生きられないのである。
 また、個人としての人間のいのちは自然とのつながりと先祖とのつながりによって生まれたものである。
 こうしたことに改めて気づいていくと、「つながってこそいのち」ということができるのではないか。
 近代のばらばらコスモロジーは方法としては有効だったが、本質的にはつながりを見失っている。
 しかし幸いにして少なくとも現代科学では、すでにそうした近代科学的な世界像は克服されている。その主要 な五つのポイントを挙げると次のとおりである。

 一八六九年、ヘッケルによるエコロジー(生態学)の提唱から始まり、二十世紀全体を通して、地球上で はすべての非生命・環境とすべての生命(人間も含む!)が互いにバランスをとりながら一つのシステム をなしていることが明らかになってきた。
 一九〇五年、アインシュタインの相対性理論により、宇宙は究極のところ「物質にすぎない」のではなく エネルギーからなっていることが明らかにされた。
 一九四七年、ガモフが宇宙はたった一つのエネルギーの玉から爆発的に創発したという「ビッグバン仮 説」を唱え、六十年をへていまや宇宙論の定説となっている。
 一九五三年、ワトソンとクリックが遺伝子の二重ラセン構造を発見し、一九六二年にノーベル賞を受賞 した。それをベースにした研究の積み重ねにより、すべての遺伝子が一つの源泉にたどれるのではない かと考えられるようになってきた。もしそうだとすると、それはすべての生命の一体性の発見ということに なる。
 一九七七年、プリゴジーヌの散逸構造の理論がノーベル賞を受賞し、物質には自己組織化・自己複雑 化の能力があることが明らかになった。

 以上のような現代科学の成果全体から、宇宙のすべてのものは本来一体であり、つながり合いかさなり合い ながら、一つのエネルギー→物質→生命→心と進化し続けているといった、近代のばらばらコスモロジーとは全 く異なる新しいコスモロジーが描き出されつつある。もともとは一つの極小のエネルギーの玉であった宇宙は一 三七億年前に大爆発的な拡大を始め、次第に分化してそれぞれのかたちを成しさまざまに多様化してきたが、 それはばらばらに分離したのではなく一体のままであり、つながり合ったまま自己組織化・自己複雑化=進化 を続けている、と捉えられるのである。
 とりわけエコロジーが明らかにしてきたのは、地球においては非生命・物質的な環境は生命とつながり合って 一体のエコシステムをなしており、さまざまな生命も共通の先祖をもったいわば一つの家族だということである。
 人間と、他の生命と、私たちの生きているスケールの自然としての地球環境と、もっとも大きなスケールとして の宇宙とが、区別・区分はあっても本来的に分離できない一体の存在であることへの気づきが自らのコスモロ ジー(世界観・人生観・価値観)になった時、「地球の環境=エコシステムを破壊することは自分を破壊すること だ」と本気で感じざるをえなくなるだろう。逆の言い方をすると、「大きなスケールと長い期間で見れば、環境に 利することこそ自分の利益だ」と本音で思うはずである。
 つながりを深く認識した――頭でわかることから始まって、それが腹に収まり、ハートで実感しているというレ ベルにまでなった――時、つながりを大切にしたい、つながりを再創造したいという強い情熱が湧いてくるので はないだろうか。つながりコスモロジーの内在化が必要である。
 そうした「つながり・かさなりコスモロジー」を真に自分のものとした人々が社会の主流になった時に初めて、必 然的に資源の大量使用(‐資源の枯渇)‐大量生産‐大量消費‐大量廃棄‐環境の崩壊という流れにならざるを えない近代的な産業・経済システムとそれを前提にした政治システムを超える、新しい「持続可能な社会システ ム」を構築することが可能になるのではないか、と私は考えている。







持続可能な国づくりへの次の一歩
2008年6月2日

 昨日は、「持続可能な国づくりの会」のシンポジウム反省会でした。
 シンポジウムの参加者の方から、「具体的にはどうしたらいいんですか」とか、「ビジョンはすばらしいが、これ を実行するには、戦略と具体的施策が必要だと思う」という意見をいただいているのを、どう受け止めるかとい うことが、大きなテーマでした。
 私は、「持続可能な国づくり」をするには、言うまでもなく「持続可能な国をつくる能力のある政党が主権を掌握 する必要があること」、そのためにはその前にまず「持続可能な国づくりを目指す政党が必要であること」、しか し状況はそこまで熟していないので、そういう政党の準備、人材に結集してもらう場として「オピニオン・グループ をつくる」ことが戦略目標だろう、という話をしました。
 そして、「そういう戦略目標を立てても、漠然と『みんなでやろう』というのでは、責任主体がはっきりしない。誰 が責任をもって担うかが問題だ」と問題提起をすると、代表を含め3名の若者が、「担うつもりがある」と決意表 明をしてくれました。
 これで大きく次の一歩が踏み出されたと感じています。
 次は、方向性を共有できる人材をできるだけたくさん見つけ、結集してもらうための呼び掛けをしていくという のが主な具体的な施策・行動の一つになるでしょう。
 また、機が熟してからでいいと思っていたので勉強していなかった「政党の作り方」も調べる必要があると思 い、早速、ネット情報から検索をしてみると、「任意団体としての政党はまさに任意に作れる」ことがわかりま した。「だれでも、いつでも、すぐにでも作れる」のです。
 しかし、法人としての政党を作るには、「国会議員が5名以上いること、国会議員が5名未満の場合、直近の 国政選挙で2%以上の得票をしていること」というややきびしい条件があるそうです。
 その条件が満たされれば、中央選挙管理委員会に申請するのです。
 そして、さらに政党交付金を受けるには、法人登記ができてから、総務大臣に申請する、という手順を踏めば いいということでした。
 あわてることなく、しかしなるべく迅速に、着実に歩を進めたいと思っています。







政治が面白くなる?
2008年6月7日

 

 昨夜は、大阪の盛和塾(稲盛和夫氏が主宰している経営者塾)で唯識の講義をしてきました。
 主に経営者のみなさんの30名ほどの参加者ですが、その熱心なことに驚きと期待を感じています。
 こういうところから日本が変わるかもしれない、と。
 「持続可能な社会」というテーマにも本気の関心を持った方がたくさんおられるようです。

 新幹線の中で、同世代の社会学者橋爪大三郎氏――彼とはかつて『自己から世界へ』(春秋社、残念ながら 品切絶版)というシンポジウムで議論しました――の『政治の教室』(PHP新書)を読みました。
 帯に「民主主義についての正しい知識と理解身につけ、私たち一人一人が政治の主人公として行動するのを サポートする、待望の教科書」とありましたが、読んでみて、なるほどとうなづきました。
 2001年に出たものですが、今でも、今こそ役に立つ(特に私にとって)本だ、と感じました。
 いつもどおり論旨明快な文章で、読後感が爽快でした。
 教えている学生が言うように教えている私自身も、もちろん他者の意見をすぐに「鵜呑み」にするつもりはあり ませんし、「民主主義」理解については他にいろいろな意見がありうると思いますが、現代日本の政治をどうす るかについて考えるためのとてもいい参考・刺激になりました。







今日のことば 3 : もし地球が壊滅状態になるとしても
2008年7月12日

 まったりと脱力して終わりなき日常を生きることができる、と多くの若者が錯覚している間に、世界は北極の氷 も溶け、ヒマラヤの氷河も溶け、IPCCの深刻な警告にもかかわらず 1)、洞爺湖サミットはしないよりはいいけ ど……程度の合意で終わり、石油価格も食糧も高騰し、多くの人々が飢えに苦しみ、死に……という危機が深 まっています。
 しょっちゅう人身事故で電車は止まるのですが、しばらくするとまた動き出し、秋葉原では何事もなかったかの ように電気製品が売られており、教育委員会や校長・教頭が汚職をしているのが発覚し、どうもそれは氷山の 一角に過ぎないらしく……と、私たちの時代は、一見、先行きが見えないように見えます。
 しかし、私たちが賢くなれば、先行きというより、行き先はある、というのが私たちの考えです 2) 3)
 そんな状況の中で、宗教改革者マルティン・ルターのものと伝えられる言葉を思い出しました。
 40年も前に、大学生の頃、先生から教わって深く記憶に残っているものです。

 「明日、世の終りが来るとしても、私は今日、一本のリンゴの木を植える。」
 "Wenn morgen die Welt unterginge, wurde ich heute ein Apfelbaumchen pflanzen." 

 とても美しい、励まされることばです。
 「明日、世界が滅亡するとしても、私は今日リンゴの木を植える」という訳もあるようですが、私はein 、「一本 の」が入った訳のほうが好きです。
 ルターは、もちろん神を信じ、世の終末には神が正しい裁き(最後の審判)を行なって、人類史の不条理にす べて決着をつけてくれることを深く信じており、しかもその終末がいつ来るかは神のみぞ知るであって、自分の 知りうるところではないと思っていたからこそ、こういうことばを語ることができたわけです。
 それに対して私たちは、コスモスの進化には終わりがないということを科学的に認識しているので 4) 5) 、もし 現代文明が壊滅状態になったとしても、「それでもコスモスの進化は止まらない」というゆるぎなき安心感をもっ て、このことばを味わいなおすことができます。
 もし、まもなく現代の地球文明がそうとうな壊滅状態になるとしても、私は今日、その先の世代のために自分 たちにできることをする。
 しかも、私(ひとり)にできるささやかなことだけでなく、私たちにできる、できるだけ大きなことをしたいと思って いる。
 それにあわせて、60年代のフォークソング、ピート・シガーの歌詞、「一人の小さな手、何もできないけど それ でも みんなの手と手をあわせれば 何かできる 何かできる…」も思い出しました。







この夏、北極の氷が消滅する?
2008年7月22日

 去年の7月から大本山永平寺の『傘松』という雑誌に「環境問題と心の成長」というタイトルで2年間の連載を しているのですが、昨日の夜、2年目に入った13回目の原稿のために、北極の氷の状態についてネット検索し てみて、改めて「うーむ、こんなに進んでいるのか」と驚きました。
 「衛星画像&データ 地球が見える」というサイトの去年9月28日の記事には、「北極の海をおおう氷は、今年 過去に例のない速度で減少を続け、最小面積の記録を更新し続けてきましたが……今年2007年9月24日に 記録された425.5万平方キロメートルが衛星の観測史上最小面積の記録となりました。以前最小面積を記録 した2005年……に比べ日本列島約2・8個分の氷が消失したことになります」とありました。
 ところが、今年6月28日のCNNのニュースでは、「地球温暖化の影響で北極の氷は今年の夏、9月までに消 滅する可能性が非常に高いと、米国の研究者が警告した。……米国立雪氷データセンターの研究者マーク・セ リーズ博士によると……数年前までは、夏に北極の氷が消滅するのは2050年から2100年ごろと考えられて いた。最近ではこの予測が2030年ごろと見直されたが、現実にはこれを上回る速度で氷が減少していると指 摘している。……現在の状況が続けば、北極から氷が消滅することは避けられないという」とのことです。
 つまり北極の氷は、去年は「観測史上最少」で、今年は「消滅」つまりゼロ、これ以下はないという「観測史上 最少」になるかもしれないのです。
 「一事が万事」ということばがありますが、この一事を見ただけでも、地球全体としての環境問題がどのくらい 緊急事態にあるか想像できるはずだと思うのですが、洞爺湖サミットで議長国日本を含め世界22カ国の首脳 は、緊急事態にふさわしい緊急行動をする合意・決断をしたとは見えません。「待ったなし」と口では言いなが ら、行動は「待った・先延ばし」です。
 なぜ緊急対応ができないんでしょう?
 先進国の首脳からは、環境問題の深刻さに関する発言のニュアンスの差はあっても、「経済成長を制限して も環境問題に取り組むべきだ」という発言は聞こえてきません。
 そして新興諸国の首脳も、「先進国並みの経済成長をすることは自分たちの権利だ。環境問題は先に起こし た責任のある先進国が取り組むべきだ」と主張するのみで、「我が国の経済成長をある程度制限してでも環境 問題に取り組みたい」という発言は私の知るかぎりでは皆無だったようです。
 それは、先進か新興かを問わず、リーダーたちが、経済成長という「国益」は譲れないものだ、つまり「国益優 先」という価値観を強く抱いているからではないでしょうか。
 「国益に反しない範囲で環境問題にも取り組む」というのが、彼らの基本姿勢のようです。
 特にG8首脳に関していえば、環境の危機、とりわけ気候変動・温暖化に関する警告を発している代表的な組 織IPCCが訳せば「気候変動に関する政府間パネル」であるように、政府関連の公式機関がデータを提示して いるのですから、各国の政府首脳である人々は、情報がない・知らない、だから緊急度を認識できていない、だ から緊急対応ができない、ということではありえません。
 そうではなく、データが提供されてもそれを読み取る心が、経済成長という国益は絶対にゆずれないという価 値観で枠付けられているため、さらには賢く振舞えば環境が許容する範囲の経済成長は可能だという英知を得 ていないために、自分たちの価値観や思い込みに反するデータは、たとえ目にしても、十分理解しないでスクリ ーニングしてしまうのだと思われます。
 わかりやすくいえば、「人は事実であっても見たくないものは見ようとしないものだ」ということです。
 しかし私たちは、大きな方向性はすでに確認しているので、ちゃんと見て、適切な行動をしていきましょう。
 まず第一歩は、「オピニオンを共有する大きな潮流を創り出すこと!」







日本は北欧より安全・安心な国?
2008年7月24日

 最近、筆者は、北欧福祉国家 1) 2) 3) 4) 5) 6) 7) 8) と日本人の精神的荒廃 9) 10)に ついて書くことが多かっ たので、あらゆる点で「北欧はいい、日本はダメ」と比較して劣等感を感じる、「自虐」的な話をしていると誤解さ れるかもしれませんので、このあたりで日本のいいところを一つ。
 いくつかの犯罪率の国際統計を見ると、世界の中でも日本はかなり犯罪率の低い、そういう意味ではまだま だ安全な国です。
 最近の信じられないような無差別の通り魔事件などの報道に接すると、「日本は最悪」といった感じになる方 が多いようなので、ここであえて、「確かにかつてに比べると相当に荒廃してきているが、犯罪に関してはまだ北 欧より安心・安全な国である」ということも指摘しておきたいと思います。
 「社会実情データ図録」というサイトの「犯罪率の国際比較(OECD諸国)」のグラフを以下に引用します。



 記事によれば、「日本の犯罪率は、2000年に15.2%と先進国中最低である(英国は各地域毎に調査されてお り、北アイルランドだけは日本より犯罪率が低い)。ただし、1989年の8.5%から急増しており、犯罪の増加が目 立っている。」とのことです。
 繰り返すと、「先進国中最低」ということは、上のグラフからも明らかなように、犯罪に限れば日本は北欧諸国 よりもまだまだ「安心・安全な国」だということです(実感されているとおり、残念ながら福祉についてはまったく安 心・安全ではありません)。
 これは、日本人が聖徳太子以来追求し、とりわけ天下泰平の江戸時代にかなりの完成に到った「和の国日 」の遺産だと思います。
 それは、とても和を重んじ、もめごとを嫌い、真面目で正直に暮らしてきた日本人の無意識的な文化的心性― ―ほとんどの人が「そんなこと当たり前」と思ってきたこと、マックス・ウェーバーのいう「エートス」――によるもの であり、それを培ってきたのは「神仏儒習合」のコスモロジーだ、というのが私の推測です。
 しかし、集合無意識・民族的無意識に精神的遺産として遺されていたエートスを日本人は、明治以降、とりわ け敗戦以降、無自覚に軽視し、忘れ去ろうとしているように思えます(かなりやむをえない事情があったことは繰 り返し書いてきたとおりです)。
 そうしたエートスによって犯罪の少ない社会が維持されているにもかかわらず、そのエートスをしっかりと相続 して、さらに増収を図る・拡大深化させるどころか、意味を理解できないまま捨て去ろうとしているのは、いわば 「親不孝者の遺産の食い潰し」です。
 ここのところ頻発している「ニヒリズム犯罪」とでもいうべき犯罪などは、このまま行けば、まさに日本の精神的 倒産・破産が間近だという兆候だと思ってまちがいないでしょう。
 倒産・破産をしたくなかったら、無自覚・無責任に食い潰すのではなく、遺産を自覚的に相続して、それを有効 運用して、さらなる本格的増収を図るほかありません。
 せっかく膨大な遺産があるのですから、相続して、さらに増収・増益を図りましょう、日本国民のみなさん!
 私の公開授業には、日本の精神的遺産を意識的に相続しようという呼びかけという意図もあることは、常連 読者のみなさんにはおわかりいただいているとおりです。
 ぜひ、ご感想、ご意見をお寄せ下さい。







北極海の氷:等身大の実感と地球大のデータ
2008年9月19日

 去年に比べると今年は残暑がきつくないようです。
 そうすると等身大の実感レベルでは、「温暖化はそれほど進んでないのかな?」という気がしてきかねませ ん。
 しかし、グローバルつまり地球大のスケールではどうなのか、意識的にデータを追う努力が必要です。
 私は、7月22日に「この夏、北極の氷が消滅する?」という記事を書きました。
 9月中旬がもっとも氷が少なくなる時季だとのことで、気になっていたので、ネット検索してみたところ、不幸中 の幸い、完全消滅は免れていました。
 しかし、9月16日付けのweathernewsのプレス・リリースでは、
「観測史上初!北極海(北東・北西)の海氷が消滅」という見出しで、
「株式会社ウェザーニューズ……のグローバルアイスセンターでは、9月10日、北極海北東部のロシア側 航路(北東航路)に沿って海氷が消滅していることを確認しました。先月18日、北極海北西部のカナダ側 航路(北西航路)に沿って海氷が消滅し北極海の海氷が観測史上最も早く減少していることを当アイスセ ンターで確認しましたが、両側(北東・北西)の海氷が消滅したのは1978年に始まった衛星による観測史 上初。地球温暖化による影響であると考えられます。」
 「北西航路のあるカナダ側、北極海西側では、8月下旬(8月27日)に2007年の最小面積を抜いて観測 史上最小面積となりました。北極海全体では2007年に次いで氷が少ない状態が継続しています。海氷の 融解が2007年に迫る勢いで進んでいたため、観測史上最小面積となる可能性もありましたが、その後は 横ばいの状態が続いています。」
 「海氷面積が最小になる例年9月中旬頃を過ぎると、北極海周辺では気温・水温が次第に低下し、海氷 の面積は増加に転じます。当アイスセンターでは、北極海の海氷が今後どう変化していくか、引き続き監 視していきます。」
とのことでした。
 心配されたような最悪の事態ではなかったけれども、事態が悪化していることはまちがいないと思われます。
 日本では洞爺湖サミットで「リーダーシップを取る」と言っていたリーダーがあっさりと政権を投げ出してしまっ た政治的空白状況、ニューヨークの株価の下落は続いています。
 食という人間の生存のもっとも基礎部分でも、日本人の倫理的崩壊は進んでいます。大臣、次官の辞職で済 むような問題ではないと思います。
 その他、問題は山積です。
 しかし、私たちの向かうべき方向ははっきりしていますから、あわてず騒がず、前進していきます。
 気づいた日本国民のみなさんのご参加を、心からお待ちしています。







新左翼とは何だったのか
2008年7月27日

 今日本人が直面している問題の多く―特に環境問題―は、政治主導で解決するしかない、またできるもの だ、というのが私たちの主張です。
 しかし、日本国民のアレルギーといってもいいくらいの政治離れ、政治嫌いはなかなか改善されないようです。
 そんな中、政治アレルギーの主な原因となった―と私が捉えている―六〇年代〜―七〇年代の新左翼の過 激な暴力的活動とその失敗・挫折が、いったいどういうものだったのか、かつての当事者の一人が書いた本を 読みました(荒岱介『新左翼とは何だったのか』幻冬舎新書、2008年1月刊)。
 熱かった、ある部分は共感した、しかし当時から全面的には参加できないものを感じていたあの時代を思い 出しました。
 そして、あの頃から今に至るまで、なぜ日本では、穏健、つまり穏やかで健全で長い目でみると明らかに有効 な、北欧型(ノルディック)デモクラシーが、育つどころかほとんど注目さえされなかったのか、その理由の一端を 再確認したような気がしました。
 かつて日本の若者たちの心は、心情の論理に過度に同一化していて、自己相対化のできる、ほんとうの理 性・論理段階までへの成熟を遂げていなかったのではないか、と思うのです。
 しかし、事の大小にかかわらず、過去の失敗については「後悔しないで、反省する」というのが、私のモットー です。
 同世代たち、そしてもちろん自分自身の精神的成熟を願わずにはいられません。







「ちょっと変だぞ日本の自然V」は変だと思った
2008年7月30日

 つい今しがた、NHKテレビの「ちょっと変だぞ日本の自然V」を見ました。
 現在の「持続可能な国づくりの会〈緑と福祉の国日本〉」につながっている一昨年のシンポジウム「日本も緑の 福祉国家にしたい!」の準備の時、スタッフのみんなでTを見たことを思い出しました。
 報道されている異変はもう「ちょっと変だぞ」というタイトルで取り上げるようなものではないと思われます(それ はTの時から感じていることですが)。まずそこが変だと思いました。
 あまりの深刻さに視聴者が引いてしまわないように、印象をやわらげる工夫をいろいろしているのかな、という 感じはしましたが、しかし、危機というものは、やわらげて伝えるようなものなのでしょうか?
 もちろん過剰な危機感を煽るべきではありません。
 しかし、過剰な危機感を煽らないために表現をやわらげ、結果として必要な危機感を薄めてしまうというのは メディアとして正しい報道の姿勢ではない、事実としての危機への適切な対応を生み出すような適切な危機感を 醸成すべきだ、と私は考えます。
 さらに可能ならば、あくまでも一つの提案として、適切な対応策の提案もしていいのではないか、と考えます。

 さて、話題の一つはこうだったと思います(見たばかりなのにちょっと記憶があいまいなところもありますが、そ こは素人なのでご容赦を)。
 チベットの温暖化 1) 2)
 →高原の降雨量の減少
 →高原の草の草丈の低下と減少
 →高い草丈が抑えていたナキウサギのオスとメスとの出会いが容易になり、異常繁殖
 →草の減少の加速化・砂漠化
 →さらなる温暖化
 →アジア全体の気候に大きな影響を与えているチベット高気圧が大きくなる
 →日本上空まで広がってくる
 →上にはチベット高気圧、下には太平洋高気圧と二重の高気圧のために日本は猛暑になり、集中豪雨 が増えている

 もう一つは、こうだったかな?

 シベリアの温暖化 3)
 →永久凍土が溶けている+積乱雲が起こり雨が多くなっている
 →永久凍土の上側の地面が陥没する
 →そこに溶けた凍土の水と降った雨水が溜まる
 →草地だったところが湖になる+タイガ(広大な針葉樹の森)の木の根が水浸しになって枯れる
 →永久凍土の溶解が加速する
 →永久凍土に閉じ込められていた気体の約50パーセントを占めるメタンガスが空気中に放出される
 →メタンガスの温室効果は二酸化炭素の20倍にもなるので、温暖化はさらに加速される

 もう一つは琵琶湖の湖底の酸素の減少が加速しており、固有種が絶滅する危険がある、という話でした。

 ここで、私がもっとも問題にしたいのは、私たちの仲間である国立環境研究所の西岡秀三先生をコメンテータ ーとして迎えておきながら、発言の機会はごくわずかしか与えず、しかも「小さなことの積み重ねが大きなことに なることがある」「一人ひとりが……」というコメントしかさせていないということです。
 もちろん先生としては「一人ひとりの小さなことの積み重ねも大切ですが、国の政治・経済のシステム全体が 変わらなければ、根本的解決にはなりませんね」といったコメントをなさりたかったはずです 4)
 「ちょっと変だぞ」、いや「すごく変ではありませんか? NHKさん」と感じました。
 そういう姿勢はもしかしたら過剰な「政治的中立性への配慮」から来ているのでしょうか?
 そうだとして、それは政府のためのメディアではなく、国民のためのメディアの取るべき姿勢でしょうか?
 あるいは、環境問題は資源の大量使用・大量生産・大量消費・大量廃棄という経済・産業システムをそのまま にしておいても、政府や産業界や市民の努力の積み重ねと環境技術の進歩でなんとかなる、と認識しておられ るのでしょうか?
 それは、違うと思います 5)
 といっても私は、NHKに個人的な投書をするつもりはありません。
 もっと国民全体の世論が盛り上がって、NHK、その他のメディアの姿勢が変わるほどの影響を与えるのを待 つほかない、と思っているからです。
 ご覧になったみなさんは、どうお感じですか。
 あなたの意見も世論の一部です。もし共感していただけたなら、ネットを通じて世論を盛り上げませんか?







広島の平和記念式典に寄せて
2008年8月6日

 今朝、テレビで広島の平和記念式典を見ました。
 今年も一分間黙祷を奉げました。
 小学低学年の頃に学校で見せられて見た原爆映画(おそらく『原爆の子』)から受けたショックが、私の思想的 営みの一つの決定的な原点です。
 それだけに、広島への想いは複雑で、行かなければと思いつつ、とうとう去年まで原爆ドームに直面する勇気 がありませんでした。
 去年、記念日の前日、ようやく行って、ドームの前で般若心経を唱えることができました。
 なんとかして、なんとしてでも、「人間と人間の平和、人間と自然の調和を」というのが、50年以上変わること のない私の志であることを、今日も再確認しました。
 広島市長秋葉忠利氏「平和宣言」が感動的でした。
 まだ秋葉氏のことを十分に知らない、イメージの話ですが、「こういう人を国政レベルのリーダーへと押し上げ たい」と強く思いました。
 ところで、明日、もう一人、知人が「この人を総理大臣にしたい」と言っている、地方自治体のリーダーにお目 にかかってきます。
 私が知らないだけで、日本にはまだまだ人材がいるようです。とてもうれしいことです。
 そうした方たちと大きな連帯を形成したい、と願っています。







日本の代表的指導者 : 上杉鷹山
2008年10月22日

 学生時代、内村鑑三の『代表的日本人』(岩波文庫)を読んで以来、江戸時代の名君上杉鷹山にずっと関心 があり、童門冬二『小説上杉鷹山』(学陽文庫)や藤沢周平『漆の実のみのる国』(文春文庫)なども読み、一度 米沢に行ってみたいと思っていて、先日(20日)ようやく行くことができました。
 ほんとうに人民が幸せになれる国づくりは、近代ならやはり北欧、スウェーデンやデンマークでしょうが、日本 にも、江戸時代という時代的制約を考えるとよくぞここまでという国づくりをした人がいたということは、誇りにし ていいことだと思います。
 石碑になっている、鷹山公が跡を譲る時に継子治広に示した有名な「伝国之辞」を読みながら、あの時代にこ こまで国家と人民の関係を深く正しく捉ええた人がいたことに、改めて感動をおぼえました。

一、 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべき物には無之候、
二、 人民は、国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候、
三、 国家人民の為に立たる君にして、我私すべき物には無之候、
右三条、御遺念有間敷候事、
天明五巳年二月七日     治憲 花押
治広殿 机前

 「君主、トップ・リーダーは、国家人民、共同体と共同体のメンバーのために存在する」という、このあまりにも 当然ともいえることを深く自覚し、本気で実行した君主がかつて日本にいたのですね。
 往復の新幹線の中で、童門冬二『上杉鷹山と細井平洲』(PHP文庫)を読みました。
 現代日本にも、聖徳太子や鷹山のようなリーダーが育ってほしい、そうしたリーダーを育てる平洲のような教 育者が存在してほしいものだ、と切実に思いました。


                       鷹山公の銅像

 ……考えてみると、北欧への関心もきっかけは内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』(岩波文 庫)でした。
 いつの間にか内村鑑三から受けていた影響は大きいのだなあ、と思っています。







持続可能な国づくりの会・連続公開講座1
2008年11月30日

 私も運営委員をしている「持続可能な国づくりの会」の連続講座です。

 演題:「日本のビジョン――GDP志向とHPI志向を超えて――」

 日時: 1月18日(日)13時〜17時
 講師:小澤徳太郎氏  環境スペシャリスト
           元スウェーデン大使館環境保護オブザーバー
 場所: 横浜市スポーツ医科学センター 大会議室
    日産スタジアム内 新横浜・小机駅から徒歩15分
    http://www.yspc.or.jp/ysmc/access.htm
 受講費:会員 ¥1,000 、一般 ¥1,500

 昨今の異常気象や各種報道により地球温暖化、環境の問題が益々深刻化していることが肌身で感じられる ようになってきました。
 また、社会格差や年金問題に加え、米国発の金融危機に始まる経済問題が、私たちの生活の安定を脅かし ています。
 そのような中、さらなる経済成長により現在の危機を脱しようとする声が高まっています。
 もちろん、環境や福祉の問題も大事だけれどGDP成長が何より重要だというのが多くの人々の本音ではない かと推察します。
 また、HPI指数(幸福な惑星指数)という新たな指標によって、経済だけではない総合的な人間の幸福度を測 る試みもなされています。
 しかし、高度に工業化された日本において、HPI幸福度ランキングの上位に位置する国々の生活は、日本の 新たなビジョンとするには大変困難と考えます。
 しかし、北欧の国スウェーデンでは、福祉と環境に配慮しながらも経済成長を続けるというバランスを保ってい ます。
 21世紀の日本のビジョンを考えるにあたり、スウェーデンはとても貴重なモデルとなるのではないでしょうか。
 そこで、我々は、環境問題スペシャリスト、元スウェーデン大使館科学技術部環境保護オブザーバー小澤徳 太郎氏を講師に迎え、GDP志向、HPI志向を超えた21世紀の日本のビジョンを皆さんと共有したいと考えてしま す。
 お忙しい中とは思いますが、どうぞご参加ください。
  ◆持続可能な国づくりの会<緑と福祉の国・日本>
  ◇事務局長 松原 弘和 
  ◆ mail : jimukyoku@jizokukanou.jp
  ◇ H.P. : http://jizokukanou.jp/default.aspx
  ◆ Blog : http://blog.goo.ne.jp/greenwelfarestate

  講座参加のお申込はこちらから→http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P5485478







「スウェーデン・ショック」状態
2006年5月18日

 ここのところの記事で書いたとおり、最近、小澤徳太郎『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書) を読み、スウェーデンの政府が主導する〈緑の福祉国家〉構築への着実なステップを知って衝撃を受けました。
 続けてそこに紹介されている本と自分で買って積読になっていた本を何冊か読み、衝撃はさらに深くなってい ます。
 もう、「スウェーデン・ショック」状態です。
 岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波書店)は、すでに1991年に出た本で、出た時に買ってあったのです が、何と15年も積読状態でした。
 なぜ、もっと早く読む気にならなかったのか、残念です。
 ここで受けたショックは、昨日の記事にも書きましたが、何よりも「権力は必ず腐敗する」――マナ識が平等性 智に変容しないかぎり――と思っていたのに対し、統合的な理性――ウィルバーのいう「ヴィジョン・ロジック」― ―のレベルに成熟した指導者群と適切なチェック機能があれば、「権力は必ずしも腐敗しない」というスウェーデ ンの実例つまり事実(だと思われます)です。
 続いて神野直彦『人間性回復の経済学』(岩波新書、2002年)を読んで、経済学の分野でも「日本の構造改 革を支えている経済政策思想は、「新自由主義」と呼ばれる」ものであり、「…新自由主義は人間の生活を破壊 し、人間の生活をおびやかしていく。しかも、市場経済によって破壊される恐れのある人間の生活を保護する使 命を担っている財政をも破壊してしまう」ことへの、論旨明快な批判がなされていること知った。
 「たしかに、重化学工業を機軸とするケインズ的福祉国家という、経済システム、政治システム、社会システム の結合方式は行きづまっている。とはいえ……ケインズ的福祉国家を解体して、市場経済つまり経済システム をむやみに拡大する構造改革を実行しても、社会的危機が激化するばかりである。」
 ではどうすればいいのか。ここでもモデルはスウェーデンです。
 「…現在のエポックで展開している第三次産業革命では…スウェーデンでかかげられている言葉で表現すれ ば、人間の歴史が工業社会から「知識社会」を目指して大きく動きはじめたのである。」
 内容は簡単に要約できないので、本を読んでいただくほかないのですが、要するに「知識社会」へと産業構造 を変革していくことで、経済と福祉と環境のバランスを取ることのできる「人間性回復の経済」が実現できるとい うのです。
 なぜスウェーデンはこういうふうになれたのだろう、という疑問の半分くらい、歴史的プロセスは、これも積読だ った百瀬宏『北欧現代史』(山川出版社、1980年)で解けてきました。
 第一次世界大戦、第二次世界大戦の中で、何とか巻き込まれず中立−平和を維持しようとしてきた北欧の 人々のまさに血の滲む苦闘に心打たれました。
 多くの人々の英雄的努力の集積なのです。考えてみれば当然のようですが。
 まだ解けないのは、なぜ北欧、とりわけスウェーデンに、柔軟で賢明で英雄的な指導者が次々と生まれてきた のか、そういう文化、国民性がなぜ、どういうふうにして育まれてきたのか、という疑問です。
 これからさらにいろいろ学んでいきたいと思っています。いい文献、情報をご存知の方、ぜひ教えてください。







スウェーデンのエコロジー的思考
2006年8月9日

 今日は、半日、クーラーの修理のことでミーティング・ルームにいました。
 修理してもらうのを待っているだけで、他にすることがなく、しかも修理にすごく時間がかかったお陰で、小澤 徳太郎先生の『いま、環境・エネルギー問題を考える――現実主義の国スウェーデンをとおして』(ダイヤモンド 社)をほとんど読むことができました。
 これは、なんと1992年の本です。つまり、もう14年も前ということです。
 本文に、こういう言葉がありました。

 私は「わが国とスウェーデンは異なった価値観に立った工業国である」と考えるべきだと思っています。
 スウェーデンの考え方の中にはものごとを総合的に関連づけて考える、言い換えれば「エコロジー的な (生態学的な)考え」があります。
 〔スウェーデンでは〕共通の問題に対してこれを個人的に解決しないで、集団的に、あるいは共同体とし て解決する方法を選択し、それをシステム化していく。
 わが国とスウェーデンの特徴を一言で表現すれば、わが国は「治療志向の国」、スウェーデンは「予防 志向の国」といえるでしょう。

 いろいろ感じさせられ、考えさせられています。
 ちょっと夏バテ気味かなという感じなので、今夜は引用だけにして、また明日にでも少し書こうと思います。
 よかったら、またのぞいてみてください。







プロテスタンティズムとスウェーデンの精神
2006年11月8日

 スウェーデンについて学んでいることを、まとめて書きたいと思いながら、なかなか時間が取れないので、重要 なポイントについて、覚書風に書いていきたいと思います。
 なぜ、スウェーデンはかなりみごとな「福祉国家」を形成し、さらに「緑の福祉国家」つまり「エコロジカルに持続 可能な社会」を目指すことができるのか、というのが学び始めた最初から大きな疑問でした。
 そして、そういうことを可能にするのはスウェーデンの国民性であり、その国民性を育んだのは、少し前まで国 教だったプロテスタントキリスト教の精神に違いないという推測をしていました。
 そして、『スウェーデン人』(新評論)で、自らスウェーデン人のイリス・ヘルリッツが次のように書いているのを 読んで、まちがいなかった、と思いました。
 「人は、だれかに何かを負うべきではありません。そのほかの多くの考え方におけるのと同様に、こうし た視点は、ルターの教義のきわめて厳格な所産です。」
 「ある社会では、こういうことが言われるかもしれません。/『生きるために働くのである』/スウェーデン においては、私の思うところ、次のように言うほうがより正確だと思われます。/『働くために生きているの である』……結論としては、たいていの場合、スウェーデンではほとんど清教徒的と言ってもよい職業意 識が支配的であると強調しても差し支えはないでしょう。」
 スウェーデンの福祉国家を支えているのは、自分で働いて自分を支える、しかし大きな問題には共同して支え あうという、自立と連帯の精神だと思われますが、その源泉はルター派キリスト教の精神であるようです。
 そのさらなる源泉として、例えば新約聖書(聖書協会訳)「テサロニケ人への第一の手紙」第4章9節〜12節 に以下のような言葉があります。

 「兄弟愛については、今さら書き送る必要はない。あなたがたは互いに愛し合うように神から直接教えら れており、また、事実マケドニア全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しか し、兄弟たちよ、あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。そして、あなたがたに命じておいたよう に、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身を入れ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の 人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。」

 かつてのスウェーデン人(のそうとうな部分)が、こうした聖書の教えをきわめて真直ぐに受け止めてきたのだ と思われます。
 それが、国の主流の思想が社会民主主義という非宗教的なかたちになっても、国民性のベースとして生き続 けていると見てまちがいないと思われます。
 マックス・ウェーバーに『プロテスタンティズムと資本主義の精神』という名著がありますが、それになぞらえて いえば、「プロテスタンティズムとスウェーデンの精神」ということになるでしょう。
 スウェーデンでは、プロテスタンティズム→社会民主主義→中立→緑の福祉国家という道筋があり、日本では 明治国家→神仏儒習合の崩壊の始まり→戦争と敗戦→神仏儒習合の崩壊の進行→戦後資本主義・過度の競 争社会という筋道があるのではないか1) 2) 3) 4) 5) 6) 7) 8) 9) 10) 11)、と見えてきました。

 さて、こんなにも違う筋道をたどってきた日本は、どうしたらスウェーデンに学ぶことができるのでしょうか? う ーむ……







スウェーデンの政権交代
2006年11月9日

 「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい! スウェーデンに学びつつ」というシンポジウムを企画した人間としては、 スウェーデンの9月の総選挙の結果、社会民主党が政権の座を降りることになって、「緑の福祉国家」路線はど うなるのかと興味津々、やや心配でしたが、大きな変化はないようです。
 スウェーデンの国民的な合意というのは、きわめてしっかりしていて、政党の交代くらいであまり揺らぐことは ないらしいのです。
 最近、参考にさせてもらうことの多い「スウェーデンの今」というブログの最新記事によれば、保守党に大幅な 路線変更をさせ福祉国家モデルを受け入れさせたという意味で、今回の選挙の結果は、むしろ「社会民主党の 掲げてきた社会民主主義の勝利」と見なすことができるという見解さえあるとのことです。
 私は、もう1つ今回の政権交代は、北欧型社会民主主義が、旧ソ連型の「人民民主主義」という名前で独裁 が行なわれるようなものではなく、選挙の結果によっては政権交代がありうるきわめて健全な「民主主義」であ ることをイメージづけるものだとも言えるのではないかと考えています。
 ともかく、学べば学ぶほど、スウェーデンというのは驚くべき国です。







スウェーデン・IPCC報告・統一地方選
2007年4月9日

 「持続可能な国づくりの会」のメンバーとの読書会のために岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』(岩波新書)を読 み直しています。
 これは1991年に出た本で、「スウェーデン神話」について、こう書かれていますが、これは「神話」というより、 15年以上たった今もほとんどの項目が「事実」であるようです(うらやましい! *項目ごとの改行と、←の後の コメントは筆者です)。

 「戦後、特に六〇年代以後、国外で熱っぽく語り継がれてきたスウェーデン神話を構成しているのは、 例えば次のような印象である。
 @市民の生活水準が世界でも最も高い国の一つらしい。
 A胎児から墓場まで手厚い社会福祉が完備した豊かな福祉国家らしい。
 B超福祉国家でありながら国際競争力を持つ優良企業があり、安定成長が続いているらしい。
 C労働紛争の少ない平和的・協調的な労働市場があり、労働者の権利が手厚く保証されているらし い。
 D積極的な労働市場政策で産業構造の転換がスムーズに行われるので、企業の国際競争力が高い ばかりでなく、失業者も少ないらしい。 ←失業率はやや高くなっていて、それが昨年秋、社民党が政権を 失った主な原因らしい。
 E慎重審議を基礎にした合意形成優先の妥協政治が定着しているので、意思決定過程に暴力が入り 込む余地はないらしい。
 F分配過程は社会主義的平等原理で貫かれており、すべての市民が同じ生活水準を享受できるらし い。
 G言論・集会・結社の自由をはじめあらゆる自由が保証されている自由の国らしい。
 H非同盟・中立主義の平和国家で、国際政治の場では常に民族自決権を支持し、小国の利益を擁護 する反覇権主義の国であるらしい。 ←非同盟・中立主義はEUへの加盟によって変わったが、依然とし て反覇権主義という点では一貫しているらしい。」

 そして、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(小澤徳太郎、朝日選書)によれば、こうした「福祉国家」を 確立した上に、

 I世界でもっとも「持続可能な社会・緑の福祉国家」に近づいている、しかも政府主導で意図的・計画的に近 づいている国らしい、のです。

 この本では、なぜスウェーデンではそういうこと――「経済大国」ではなく「生活大国」――が可能になったの か、歴史的なプロセスがわかりやすく書かれています。
 読んでいると、同時に、なぜ戦後日本は、「生活大国」ではなく「経済大国」を目指し、いちおう成功したかに見 えた後、「バブル崩壊」から「失われた10年」を経て「格差社会」=持続不可能な社会に向かいつつあるのか、 わかってくるような気がします。
 そこで決定的なのは、残念ながらリーダーの英知の差だと感じます。

 さて、4月7日、新聞には、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書の記事がありました。
 ごく一部、近未来予測を拾ってみると、

2020年代(気温上昇幅 0.5〜1.2度程度)
・ 数億人が水不足による被害にさらされる
・ サンゴ礁の白化現象が広がる
・ 生き物の生息域が変化し、森林火災の危険性が増す
・ 洪水と暴風雨の被害が増える
・ 栄養不足、下痢、呼吸器疾患、感染症による負担が増える
・ 熱波、洪水、干ばつにより病気になったり、死亡したりする確率が増える
・ 感染症を媒介する生物の分布が変わる
・ 北米では、河川の流量が減り、現在のような水需要は満たせなくなる

 2050年代、2080年代とさらに深刻になっていくことが予想されています。
 被害を最小限にとどめるには、最大限の努力が必要で、それには「経済大国」「経済成長」という社会の方向 性を根本的に転換する必要があると思われます。

 地球全体はそういう状況にあるといわれているのですが、昨日8日に投票があった第16回統一地方選挙の 前半の状況を見ていると、こうした予測を踏まえて日本の方向転換をうったえている候補は、私の知るかぎり、 ほとんど(まったく?)いなかったようです。
 つまり、この件に関して、日本の現在のリーダーたちの英知が決定的に不足しているのではないか、と推測さ れます。
 本当に困ったことです。
 一日も早く、新しい英知あるリーダーを育成−誕生させたいものだ、と思うのです。







ストックホルム学派=福祉国家を創り出した経済学
2007年7月4日

 知らないことは調べればいいというのは、当たり前なのですが、なかなか実行しないことがあります。
 めんどくさがって、誰か知っている人に教えてもらいたがったりします(私の場合)。
 しかし今回、スウェーデンの福祉国家実現を支えた経済政策の理論的源泉になっているらしい「ストックホル ム学派」については、とても気になったので、ふと「もしかすると」と思って、今朝、「ウィキペディア」で検索してみ ました。
 検索すると、あった、あった、「スウェーデン学派」という項目にちゃんとありました。それにしてもインターネット 情報は便利になったものです。
 「スウェーデン学派は、19世紀末から20世紀前半にかけてのスウェーデンの経済学者の一派であり、彼 らの考え方を一括してスウェーデン学派と呼ぶことが多い。クヌート・ヴィクセル、グスタフ・カッセルなどス トックホルムを中心として活躍した経済学者たちの流れをくむ人々が多く、ストックホルム学派あるいは北 欧学派と呼ばれることもある。……カッセルの業績はその後、ベルティル・オリーンやグンナー・ミュルダ ールによって展開されていった。」
 なるほど、と思って続いてミュルダールを検索してみました。
 「ミュルダールは1898年にスウェーデンのダーラルナ県ガグネフで生まれた。ミュルダールは1933年から1947 年までストックホルム経済大学で経済学の教授として教壇に立ち、さらに1945年から1947年までは通商大臣と しても活躍した。」のだそうです。
 さらに、「不況期に景気を刺激するための財政赤字を好況期に黒字で相殺していくという反循環政策を理論 的に初めて支持した1933年の財政法案の付属文を執筆した。これはジョン・ケインズ以前のケインズ政策とも 呼ばれている。」
 「またミュルダールは新古典派経済学を強く批判し、1960年の『Beyond the Welfare State(福祉国家を越え て)』で福祉国家思想を展開した。」
 これで、1つ謎が解けました。
 スウェーデンの福祉国家実現――それがベースになってさらに私たちのテーマである「緑の福祉国家」という 話になるわけですが――にはちゃんと経済思想の裏づけがあったのですね。
 日本の経済政策の背後には「新自由主義経済学」があり、スウェーデンの経済政策の背後には「ストッ クホルム学派経済学」があった、と。
 これからの日本を「持続可能な国・緑の福祉国家」にしたいと思っている私たちにとって、どちらの理論 をガイドとして選択するべきかは、言うまでなさそうです。
 こなせるかどうかわかりませんが――もう「半端で行く宣言」はしたので楽な気分で――ミュルダール『豊かさ への挑戦』(竹内書店、1964年)でも読んでみようかと思っています(「日本の古本屋」サイトですぐ見つかりまし た)。
 それにしても、どうして学生時代に発見しておけなかったんでしょうねえ……時代のせいもあって、マルクス、 エンゲルス、レーニンなどなどは読んでいたんですけどねえ。







福祉国家の経済学・ミュルダールの翻訳書
2007年7月9日

 スウェーデンの福祉国家建設を支えた(らしい)ストックホルム学派=スウェーデン学派経済学・社会科学の 代表選手ミュルダールという人について、名前しか知らなかったのですが、調べてみると、随分昔(戦前)からち ゃんと翻訳は出て紹介されていたのですね(これは「日本の古本屋」サイトで見つかった範囲)。残念! 知らな かった。
 でも、これでとりあえずスウェーデン語は読めなくても、ある程度、というかかなりの程度学べることがわかりま した。よかった!

 『経済学説と政治的要素』日本評論社、1932
 『人口問題と社会政策』協和書房、1933
 『福祉国家を超えて』ダイヤモンド社、1963
 『豊かさへの挑戦』竹内書店、1964
 『社会科学と価値判断』竹内書店、1971
 『貧困からの挑戦』竹内書店、1971
 『アジアのドラマ――諸国民の貧困の研究』東洋経済新報社、1974
 『反主流の経済学』ダイヤモンド社、1975
 『経済理論と低開発地域』東洋経済新報社、1975

 うーむ、なんだか面白そうだけど、これだけ読んで理解するにはかなり手間暇かかりそうだなあ……ま、徐々 にやるか。
 誰か、一緒にやりませんか。
 誰か、すでにしっかりとやっている、私たちに要点をわかりやすく教えてくれそうな経済学者を知りませんか (私も探してみますが)。
 『よくわかるミュルダール経済学入門』とか『だれでもわかるスウェーデン学派経済学入門』なんて文献はない んでしょうかねえ。







「ミュルダール入門?」を見つけた!
2007年7月11日

 またまたインターネットの恩恵にあずかりました。
 「ミュルダール」で検索していたら、藤田菜々子氏(名古屋大学)の「ミュルダールの福祉国家論」という論文に 出会いました。
 論文調なので、「だれでもわかるミュルダール経済学入門」というわけにはいきませんが、ていねいに読んで いくと、論旨は明快でとても参考になりました。
 ここで藤田氏に心から感謝申し上げたいと思います。
 みなさんもよかったら読んでみられませんか。
 一部だけ、読者のみなさんの参考に引用させていただきます(改行は筆者)。

 「1930年代において,ミュルダール夫妻は,スウェーデンの福祉国家形成過程のとりわけ思想面におい て大きな役割を果たしたことがしばしば指摘される。
 当時のスウェーデンでは,出生率低下という人口減少問題が社会問題として深刻に受け止められつつ あったが,ミュルダールは妻アルバとともに共著『人口問題の危機』(初版1934年)を出版し,政策論を展 開した。
 ミュルダール夫妻の基本的主張は,出生率低下の原因は経済的な困難にあるが,それは働く機会が あるのに出産のためにはそれをあきらめなければならないというような困難であるということであった。
 彼らは,子供を持つことに対する社会経済的困難は取り除かれなければならないという見解に基づき, 事後的あるいは対症療法的ではなく,事前的かつ普遍主義的・平等主義的な社会政策としての「予防的 (preventive, prophylactic)社会政策」の必要性を訴えた。
 そこには理念的にスウェーデンの普遍主義的福祉政策の原型が現れていたと評価される。」

 つまり、ミュルダールは、
@「スウェーデンの福祉国家形成過程のとりわけ思想面において大きな役割を果たし」、
Aかつ「『予防的社会政策』の必要性を訴え」、
Bさらに「そこには理念的にスウェーデンの普遍主義的福祉政策の原型が現れていたと評価される」のだそう で、
 どうもそんなことはその世界(経済学界? 福祉学界?)では「しばしば指摘される」ような常識だったようで す。
 うーむ、残念、私は知りませんでしたが。
 「知るを知るとなし、知らずを知らずとなせ、これ知るなり」(孔子)なので、知らないことはこれから勉強して知 ることにします。
 なんだか、もう一度学生に戻った気分です(この分野については学生も学生、一年生みたいなものですから ね)。
 しかし、学生ではないので、一言文句を言います。
 こんなに翻訳や研究はなされているようなのに、なぜ、市民の耳に届いて、日本の政治の現場に活かされる ような〈生きた知〉にならなかったのでしょうね。
 そんなことはない、要するに私が知らなかっただけ、なんでしょうかねえ。







これはいい! スウェーデンの参考資料
2007年08月31日

 先日、曹洞宗大本山永平寺の雑誌『傘松』から環境問題に関する連載の依頼を受けたことを報告しました。
 続いてまた環境問題についての講演依頼を受けることになりそうです(正式に決まったら広報させていただき ます)。
 専門家ではないにもかかわらず、発言をさせていただける―聞いていただけるのは有難いことですが、それ だけさらに十分な知識を得なければならないという責任感も感じています。
 環境やスウェーデンについての学びをしていると、どちらかというと自分の専門の心の問題についての学びの 時間が取られてしまいます。時間が足りない!
 しかしそれも時代の求めているものということで、やむをえない、ある程度、中途半端になるのはしかたない、 と自分の心にもみなさんにも「半端で行く宣言」 1) 2) をしたので、妙な言い方ですが、もう中途半端に徹するほ かないと思っています。
 それで、スウェーデンにも見学に行ってこなければと思っているのですが、ちょうどいいタイミングで読者から 情報をいただきました。有難うございました。
 コメント欄だと目立たないので、ここでも紹介・シェアさせていただきます。
 とても参考になります。みなさんもぜひご覧下さい。







スウェーデン・フィンランド視察旅行1
2008年02月27日

 今日午前中、スウェーデン・フィンランドの視察旅行から帰ってきました。
 スウェーデンについて、文献で学び、いろいろ語っているうちに、やはり自分の目で見ておかなければならな い、と思うようになっていたところ、幸いなことに提携先の株式会社はせがわの環境に関する視察旅行に講師と して同行させていただくことになったのです。
 ただ、寒さにあまり強くない私としては、寒いさ中の北欧というのでかなりためらいがあったのですが、どうして も一度は行って見てきておかなければならないという思いで、あえて決心して行ったいわば「義務としての旅」で した。
 ところが行ってみると、幸か不幸か――個人的には幸、世界的にはきわめて不幸なことに――驚くほどの暖 冬‐異常気象でした(北極圏は別にして、「東京のほうが寒い」という状態)。
 覚悟して防寒具を買い込んでいったので、その点に関しては拍子抜けでした。
 しかし、文献で知ったことを現地で見て確かめるという目的は十分に達成された実り多い旅でした。
 その実りについて、詳しいことは徐々に書いていこうと思いますが、今日はまずイメージ写真を数枚。
 スウェーデン・フィンランドの第一印象は、何よりも白樺、白樺、白樺……の美しい国でした。
 私のカメラと腕ではその美しさを撮り切れなかったのが残念です。


 


 


 







スウェーデン・フィンランド視察旅行2
2008年02月28日

 スウェーデン・フィンランドの旅で、あまりにも予想外だったのは、ヘルシンキ、ヨーテボリ、ストックホルムなど で、まったく雪がなかったことです。
 ストックホルムで聞いたところでは、250年ぶりのことだそうです。
 バルト海も凍っておらず、砕氷船が暇そうでした。
 北極圏に行っても、雪はそこそこにしかありませんでした。
 寒がりの私が恐れていた寒さは、ほとんど感じることなく、帰ってきた成田のほうが寒いくらいでした。
 温暖化・気候変動はもうここまで来ているのだ、と深刻に実感しました。
 そして、もう一方、スウェーデンが「緑の福祉国家」に向かってみごとなまでに着実に歩みを進めていることも 感じてきました(準備の勉強が不足していたので断定は避けますが、おそらくまちがいなくフィンランドも)。
 それを可能にする国民性の優秀さについての理解も深まりました。
 しかし、「日本はダメだ、北欧はいい」といった不健全な羨望は感じることなく、「いいなあ、私たちもぜひこんな ふうにしたいなあ」という健全な羨望を、強く強く感じてきました(論理療法をやっていますからね)。
 こういう面でこそ、日本も一日も早く「追いつき追い越せ」といきたいですね。

 画像は、上からヨーテボリ、ストックホルム、ヘルシンキです。
 とても絵にはなっていると思う町並みですが、雪はこのとおりありませんでした。


 


 


 







スウェーデンは「いい国」か?――スウェーデン・フィンランド視察旅行3
2008年03月03日
 スウェーデンに関する日本語の文献をかなり読んで、多数の著者とごく少数の著者の間に評価の相違がある ことを知って、現地に行って自分の目と耳でどちらが正しいかの感触をつかむ必要があると思ったのが、今回 の「義務としての旅」の1つの目的でした。
 その第1は、「スウェーデン国民は総体として高福祉のための高負担について納得しているのか、いないの か」という点でした。
 これについては、アトランダムにかなり多数の市民に聴き取りをした結果の確かな感触として、若干の批判や 疑問はあるにしても基本的には納得していると思えました。
 それと関わって第2は、「スウェーデンでは国民と政府の間にしっかりとし信頼関係が成り立っているのか、い ないのか」」ということでした。
 これもまた、「あなたの国の政府・政治に満足していますか」と聞いてみて、全員基本的には満足しているよう でした。
 第3は、「スウェーデン国民は幸福そうか。市民は町を愛しているか」ということでした。

 因みに行く前にネットで、いくつもの項目について国際比較を調べてみましたが、どの項目でもスウェーデン・ フィンランドは上位にありました。

1.国の持続可能性ランキング   第1位:スウェーデン、第2位:フィンランド、第24位:日本
2.国別環境対策ランキング    第1位:スイス、第2位:スウェーデン、第14位:日本
3.環境的住みやすさランキング  第1位:フィンランド、第4位:スウェーデン、第12位:日本
4.国民の幸福度ランキング    第1位:デンマーク、第6位:フィンランド、第7位:スウェーデン、第90位:日本
5.国際競争力ランキング(WEF) 第1位:スイス、第2位:フィンランド、第3位:スウェーデン 第7:位日本
6.国際競争力ランキング(IMD) 第1位:アメリカ、第9位:スウェーデン、第17位:フィンランド、第24位:日本
7.政府の透明度ランキング    第1位:アイスランド、第2位:フィンランド、第6位:スウェーデン、第21位:日本

 スウェーデンでもフィンランドでも、町を歩いている人々、特にスーパーで買い物をしている人々などの表情を できるだけ注意深く――じろじろという感じにならない範囲で――観察して感じたのは、まさに「幸福度ランキン グ第6位、第7位」がぴったりという感じで、浮ついた陽気さはありませんでしたが、堅実に安心して暮らしている という雰囲気でした。
 「住んでいる人々が自分の町を愛しているかどうかは、ゴミの状態でわかる」というのが私の持論です。
 そしてヨーテボリ、ストックホルム、ヘルシンキを観察してみると、ゴミはそこそこに落ちていて、舐めたように 綺麗にはなっていませんでしたが、荒れた感じではなく「生活感」があるという感じで、気詰まりにならない程度 のルーズさがあってかえっていいかもしれない、と思いました。
 教育、医療、老後についてお金の心配がまったくなく、安全で安心で堅実な生活があることは、両国ともまち がいないようです。
 ほんの数日ですべてがわかるわけはなく、何の問題もないとは思えませんし(いくつかの問題点についてはま た述べます)、理想視して礼賛するつもりもありませんが、ともかく「本当にいい国らしい」と、来てみて感じまし た。













石造りの建物・貧しい農家:スウェーデン・フィンランド視察旅行4
2008年03月08日

 ストックホルムは、バルト海とメーラレン湖が運河で結ばれてできた14の島からなる水の都で、その美しさの ために「バルト海の女王」と呼ばれているそうです。
 今回は雪がなかったので、写真で見たような北欧らしい冬景色も、緑と水のなす自然と融け合った都市の美し さも見ることができなかったのは、観光的な意味では少し残念でした。
 しかし長年にわたる中立政策のおかげで一度も戦禍にあうことなく、中世の姿をみごとにとどめた石造りの建 物群はさすがヨーロッパという感じでした。
 もっと気候の良い時に行けたら、きっともっと美しい姿を見ることができたでしょう(たぶんまた行くことができそ うです)。



                        王宮


 
              12世紀・ストックホルムで一番古い教会


 
                      ノーベル記念館


 
               中世そのままの雰囲気を残す裏通り


 しかし今回だけでも、旅行の目的はかなり達成できました。
 その1つは、ユールゴーデン島にあるスカンセン野外博物館に集められたスウェーデンの伝統的な建物群の 中にある一つの藁葺き(?)の農家を見て、「ヨーロッパ北辺の貧しい農業国家だった」というフレーズの実感的 な裏づけを得たことです。
 その建物は、それでも比較的豊かで使用人もいるほどの農家のものだということでしたが、素朴といえば素 朴、とても貧しさを感じさせるものでした。
 室内は本当は撮影禁止で、小さな窓で薄暗い室内の粗末な家具などの様子が1枚しか撮れなかったので、 感じがお伝えしきれませんが。
 かつて、スウェーデンの農民が「一日の食べ物はジャガイモ1個、それを家族で分け合って食べる」ような日も あった、というエピソードが実感的に「わかった」ような気がしました。
 貧しさに堪えかねて、なんと100万人以上国民がアメリカへ移住したといわれています(1850年の人口は3 50万人、1900年で500万人ですから、その割合のすごさがわかります)。


 
               それでも比較的豊かだったという農家


 
                      小さくて暗い窓


 
                        暗い室内



                     粗末な板葺きの農家


 しかし、そうした貧しく悲惨な祖国の現状に絶望することなく、あえて踏みとどまって「この国をいい国にしよう、 できる」と信じ働き続けた人々、特にリーダーたちがいたからこそ、今日の安全で安心で豊かな国があるわけで す。
 希望・信念というものがいかに重要であるかがよくわかります。
 福祉国家スウェーデンの基礎を築いた最初期の指導者が、社会民主労働党党首であり、首相にもなったヤ ルマール・ブランティング(1860-1925)です。
 暴力革命によってソヴィエト・ロシアを造り上げたウラジミール・イリイチ・レーニン(1870-1924)と同時代人で ありながら、まったく違う議会主義による変革を唱え、実行したことの賢明さ・有効性が、ソ連・東欧崩壊後の今 になってようやくはっきりしてきた、という気がしています。
 予め旅行の日程には入っていなかったのを、あえてガイドさんに頼んで場所を確認してもらい、その銅像を見 てきました。


 
      ストックホルム市議会の近くにあるブランティングと民衆の銅像


 
  ブランティングの肖像画(ウィキペディアより引用)


 そうしたきわめて優れた人材を生み出し、リーダーへと押し上げていくことのできたスウェーデンの優れた国 民性の秘密を知りたい、というのが旅のいちばん大きな目的でした。
 まだ完全ではないにしても、その目的にもかなり迫ることができました。
 それについては、また書こうと思います。







首都に国立公園がある!:スウェーデン・フィンランド視察旅行5
2008年03月12日

 昨日、青色申告がようやく終わりました。
 税法上は自営業・著述業なので、毎年この時期にはこれがついてまわるのです。
 そのため、スウェーデン・フィンランドの報告をどんどん書きたいと思いながら、なかなか筆……じゃなかった キーボードが進みません。
 今日も天台宗の布教師会の講演で出かけます。
 が、出かける前にちょっとだけ書いておこうと思います。
 今回の旅で、スウェーデン人にとって自然と切り離された生活というのはもともと考えられないものなのだとい うことを実感しました。
 ガイドさんによると、スウェーデン人に「どんなことに関心があるか」というアンケートを取ると、必ずといってい いほど順位が決まっているのだそうです。
 第一が休暇、第二が自然、第三がスポーツ、だということでした。
 なんと健全な国民性でしょう。
 働くために生きるのではなく、生きるために働く。
 そして、生活と自然はいつも一つのものである。
 さらに、積極的に体を動かして活き活きと生きている。
 休暇になると、自然の中に入って、のんびり、ゆったりと過ごしたり、スポーツをする。
 それは、首都であるストックホルムに住んでいる人々にとってもそうで、前回にもお話しした市街地のすぐそば ユールゴーデン島にはきわめて広い国立公園・エコパークがあり、たくさんの人々が土日になるとここにやって きて、森の中の道でウォーキングやジョギングなどを楽しんでいます。
 この公園は16世紀から王家の狩猟場だったそうですが、少し前は都市開発の波で危機にさらされたこともあ ったといいます。
 しかし、自然環境保護の運動が起こり、市民団体、自治体、政府の間で合意がなされ、1995年国会で天然 資源法の改正が行なわれて国立公園になったそうです。


 
                 枝の上にあるのはサギの巣


 
   太陽の光が水面に反射していてもやや寒々しくいかにも「北欧の冬」という感じ      


 この、市民団体−自治体−政府の間で「都市開発よりも自然保護」を優先するという合意が成り立つところ が、すばらしい!
 当面の経済よりも自然と一体の生活を大切にする、というのが合意の背後にある価値観でしょう。
 それがスウェーデンの国民性の一つの決定的な特長だと思われます。
 かといって、中長期の経済に関していえば、決して犠牲や我慢といった路線ではなく、健全な成長を続けてい るのですから、日本の平均的常識からすれば、驚きです。
 しかし、よくわかってくると、それは理にかなったことなのでした。
 それについては、3月23日「持続可能な国づくりの会」の学習会でやや詳しく話したいと思っています。よろし ければ、お出かけください。







深く根づいた自然観:スウェーデン・フィンランド視察旅行6
2008年05月17日

 中断していたスウェーデン・フィンランド視察旅行の報告を続けます。

 スウェーデンの人々にとって、短期の利益や便利さよりも、自然と一体化した生活のほうが優先的に重要であ る、ということをもっとも実感したのは、ストックホルム近郊のハンマルビー再開発地区を視察した時のことで す。
 そこでは、工業地帯だったところが住宅地として再開発されています。


 


 細かい点は省きますが、町の背後にはしっかりと自然が残され、太陽光エネルギーや生活ゴミから作られる バイオガスなどでできるかぎりエネルギーが自給できるように工夫されており、ゴミがほとんどリサイクルできる ようなシステムが作られており、排水等が完全浄化されて海に流されるようなっている、などなど、みごとなまで に計画的・体系的に「持続可能な都市」開発がなされていることに驚きました。





 それ以上に驚いたのは、説明に当ってくれた市の都市計画担当者に、「この計画は外部の知恵――私の意 図は「都市と自然の調和を提案する学者など」という意味――を借りたのか」と質問すると、「いや、私たち市の 計画課で考えたのだ」という答えで、「どうしてこういう――私の意図は「持続可能な」という意味――街を作ろう と思ったのか」と質問すると、「住宅が足りなかったから」という答えが帰ってきたことです。


 


 この後もいくつか角度を変えて聞いたのですが、期待したような答え――識者から、「これまでの近代的な都 市とはちがった、新しいエコロジカルに持続可能な都市が必要だ」というアドヴァイスを受け、これまでの考えを 改めた、等々――は返ってこず、とうとう私は質問を続けることを断念しました。
 彼らつまり市の都市計画課の職員も含むスウェーデン市民にとって、人間の生活と自然の調和が必要である ことは、改めて言う必要のないほど当然・自明のことであるようです。


 


 自然と人間は分かちがたくつながっていることへの思いが、彼らの心の奥深くに経済を含むあらゆる行動の 規範となるくらいしっかりとした価値観として根付いているのだと思われます。
 それは、「北欧の神秘主義的自然観」という言葉で語られるもののようで、これが日本人の自然観 * と決定的 にちがうところかもしれません。
 このあたりのことについては、まだ知識不足でこれからさらに学んでいきたいと思っている点です。







北欧に生まれるという幸運
2008年05月19日



                       美しいバルト海の朝焼け


 読もうと思って買っておいたマックス・ヤコブソン『フィンランドの知恵』(サイマル出版会、一九九〇年、原著一 九八八年)の頁をパラパラと繰りはじめたら、早速次のような言葉に出会って、「なるほど!」とうなづいてしまい ました。
 「スカンジナビアに生を享けることは人生という宝くじで当たり券をつかむようなものだというダグ・ハマーショル ドの金言は、フィンランド人に新しい民族的モットーとして受け入れられている。」(同書五頁)
 視察旅行に行ってみて、これは本が出て二十年も経った今、ますます「そのとおり」というほかない言葉です。
 幸福度世界ランキング九〇位の日本人としては、健全な強い羨望を感じます。


 
                      温室を改造したエコレストラン


 
                    いろいろ美味しそうなパンやケーキ


 
                 これまたいろいろな野菜や穀物を使ったサラダ類


 
            ビュフェスタイルで食べ放題なのをここまで押さえた私のランチ


 ところで、ダグ・ハマーショルドは、第二代の国連事務総長を一九五三年から一九六〇年九月に公務中の飛 行機事故で亡くなるまで務め、国際社会で「ダグに任せろ」と合言葉が生まれるほど信頼され親しまれた人です (ウィキペデイア情報)。
 その回想録『道しるべ』(邦訳、みすず書房)は、学生時代に読んだ覚えがあります。
 でも、感動した、忘れたの口で、今は押し入れのダンボール箱の中にあるはずですぐには見つかりそうにあり ませんが、見つけ出して、読み直したいと思っています。
 ハマーショルドは、自分のことを「キリスト教神秘主義者」だとしていました。
 彼だけでなく、かなり多くのスウェーデン−北欧の良質な知識人を支えている(あるいはいた)のは、硬直した 神話的・原理主義的なものではなく、神秘主義的なキリスト教(これは自然神秘主義ともきわめて近い、あるい は同質である)なのではないか、という推測を少しずつさらに確かめていくつもりです。
 尾崎和彦『スウェーデン・ウプサラ学派の宗教哲学』(東海大出版会)という大著も手には入れているのです が、忙しくて、なかなか読むことができていません。
 読めたら、またご紹介したいと思っています。







北欧福祉国家とキェルケゴール
2008年06月09日

 スウェーデンについての学び、尾崎和彦氏の『スウェーデン・ウプサラ学派の宗教哲学』(東海大学出版会、2 002)は大著すぎて、電車の中で読むことができないので、後回しにして、それよりは薄い(でも大著ですが) 『北欧思想の水脈』(世界書院、1994)を先に読みました。
 北欧の福祉思想の基本線ともいうべき「自立と連帯」は、キェルケゴール――確かに気づいてみれば、「実存 哲学の祖」であると同時に「デンマークのキリスト教思想家」でした――の「単独者」と「隣人愛」の思想をある意 味で源流としている、という指摘に驚きとともに納得しています。
 詳述はできませんが、北欧知識人たちの大変な苦闘を経た神話的キリスト教からヒューマニズムへという発 展・飛躍が、北欧福祉思想そして福祉国家を生み出していることがはっきりしてきました。
 スウェーデンー北欧が「福祉国家」を超えてさらに「緑の福祉国家」に接近できるには、大変な歴史的な積み 重ねがあるのですね
 すでにいちおう目を通した宮本太郎『福祉国家という戦略――スウェーデンモデルの政治経済学』(法律文化 社、1999)に加えて、『…ウプサラ学派…』も読み、できれば石原俊時氏の『市民社会と労働者文化――スウ ェーデン福祉国家の社会的起源』(木鐸社、1996)、K・ハストロプ編『北欧のアイデンティティ』(東海大学出版 会、1996)なども読んでから、まとめて報告したいと思っています。
 とりあえずの途中経過報告でした。
 それにしても、学びたい、学ぶに価する、学ばなければならないものが多い、多すぎる。時間が足りない。







持続可能な社会に向かう思想と政治
2008年11月26日

 以下は、11月8日に行なわれた茨城大学と東洋大学共催のセミナーで発表した原稿に若干の訂正を加えた ものです(26日、文献の追加等再増補を加えました)。
 ブログ記事としては長いのですが、今、このテーマに関して私が読者のみなさんにお伝えしたいことの要点が うまく書けていると思いますので、ネット公開することにしました。
 ぜひ、共感や生産的な批判の声をお寄せ下さい。


 「国家の持続可能性」ランキング第1位の国:スウェーデン

 国際自然保護連合(国連から始まり現在独立機関)の2001年「国家の持続可能性ランキング」(180カ国) によれば、1位にランクされているのはスウェーデンです(ドイツ12位、日本24位、米国27位)。OECD30カ 国の「持続可能性ランキング」でも、2004年、2007年と1位にランクされています。
 それらのランキングをとりあえず信用するとすれば、私たちが「環境問題」とその具体的・実際的な解決につ いて考え取り組んでいく上で、スウェーデン――その思想と政治――はもっとも参考にされるべきだといえるで しょう。
 実は、「〔エコロジカルに〕持続可能な社会」というコンセプト自体、北欧発です。なかでもスウェーデン政府‐社 会民主党は、すでに1968年頃、前首相エランデルと首相パルメらの首脳陣が環境問題の重要性を認識して おり、世界に呼びかけて、1972年、ストックホルムで「第一回国連人間環境会議」を開催しています。
 これは、ちょうど日本では田中角栄首相が「日本列島改造論」をぶち上げていた年です。環境に関するスウェ ーデンと日本の意識の違いには驚くばかりです。
 スウェーデン政府は、すでに高いレベルで実現した福祉国家を超え、さらに80年代後半からきわめて意識的 に「〔エコロジカルに〕持続可能な社会」の模索を開始し、96年には25年計画で「緑の福祉国家」を建設すると いうビジョンを掲げました。
 国際自然保護連合の評価では、第1位のスウェーデンでさえまだ完全に「持続可能」にはなっていないという ことですが、環境問題スペシャリストでスウェーデンの環境政策に詳しい小澤徳太郎氏によれば、そのビジョン は着実に実行されつつあり、このまま行けば2010年から20年までの間には、少なくとも一国単位では「持続 可能な国家」を確立しているだろうとのことです。
 そこまで福祉と環境を重視する政策をとって財政・経済に支障はないのかと疑問を感じる方もあるでしょうが、 例えば2006年「世界競争力ランキング」(世界経済フォーラム・ダボス会議)では3位です(6位米国、7位日 本、8位ドイツ)。
 理想化するつもりはありませんが、経済・財政と福祉と環境のみごとなバランスのとれた国家形成が政府主 導で実際に行なわれつつある、と見てまちがいないようです。

 持続可能な国づくりを可能にしたもの

 そして、それを可能にしたのは、風土・自然環境とプロテスタント・キリスト教によって培われた国民性と、その 近代化・非宗教化されたものとしての社会民主主義‐ヒューマニズムによる「自立と連帯」の思想だと思われま す。
 ヨーロッパ北辺の厳しい風土――特に厳しい冬の寒さ――の中にあって、それぞれの人間が他に依存せず 自分のことは自分で責任をもってやるという「自立」と、同時に必要な時には徹底的に助け合うという「連帯」なし には、私たちは生き延びることができなかった、とスウェーデンの人々は言っています。
 また、スウェーデンは、10世紀頃までヴァイキングの国であり、北欧神話に表現されたような民俗宗教を信じ る国でしたが、12世紀頃からキリスト教(カトリック)が伝えられ、次第に受容していきます。そして、1520年 頃、政治的事情も関わって指導者たちがルター派のプロテスタント・キリスト教に改宗します。
 「自立と連帯」なしには生き延びることができないという風土的条件に加えて、思想的に「連帯」するべき絶対 的根拠を与えたのがキリスト教の「愛」という概念だったと考えられます。
 例えば、新約聖書「コリント人への第一の手紙」には、きわめて明確に
 「実際、からだは一つの肢体だけでなく、多くのものからできている。…もしからだ全体が目だとすれば、 どこで聞くのか。もし、からだが耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞ れ、からだに備えられたのである。…目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足に むかって、『おまえはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろからだのうちで他よりも弱く見える肢体 が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっ そう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣ってい る部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がな く、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな 共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストの体であり、ひ とりびとりはその肢体である。」
といった思想が存在しています。
 「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に 喜ぶ」という精神を制度化するとすれば当然、協力社会・福祉国家になるでしょう。先の聖書の個所のような教 えが国民性を育み、そうした精神を指導者が誠実に・本気で受け止めたら、福祉国家を形成せざるをえないだ ろうということは、ほとんどなんの解説もなくおわかりいただけるのではないでしょうか。
 そしてキリスト教の「愛」の精神が非宗教化されて社会主義の「共同体・連帯」という思想に到ることも自然な 流れとして納得できます。
 とりわけプロテスタントになってからは、国民一人一人が繰り返しルターの『小教理問答書』を読み、さらに直 接に聖書を読むことを要求されましたから――聖書を読めないと結婚できないので若者がみな必死で字を覚え たことが識字率を高め、高度な知識の必要な近代的労働者を育んだといわれています――当然、そうした聖書 の思想に直接触れることになります。
 ルターの『キリスト者の自由』に有名な以下のような言葉があります。「キリスト者は全ての人の上に立つ自由 な主人であって何人にも服従しない。キリスト者は全ての人に仕える僕であって何人にも服従する。」これもま た、前半は「自立」、後半は「連帯」を促す思想であることは明らかです。

 社会民主主義と「緑の福祉国家」

 スウェーデンでは近代、社会の主導的な精神は非宗教化されプロテスタントから社会民主主義・ヒューマニズ ムへと移行したわけですが、底流を流れているのはほとんどおなじと言ってもいい、人間同士を一つの共同体 (からだ)のメンバー(肢体)と捉える基本感覚・「暖かい心」です。
 もっとも直接的には、社会民主労働党の初期の政治家であり1932年から46年まで首相を務めたペール・ア ルビン・ハンソンの「国家は国民の大きな家でなければならない」という思想が、福祉国家形成の基盤になって います。
 これはきわめて重要なことなので指摘しておくと、ソ連型・マルクス主義的な社会主義と社会民主主義はいく つかの重要な点で異なっています。
 マルクス主義的な社会主義では、政治は暴力革命を経たプロレタリア政党すなわち共産党による一党独裁が 正しいとされます。
 それに対し社会民主主義は、暴力革命を否定し、多数政党による議会制民主主義の選挙の結果としての政 権担当を目指します。
 スウェーデンでは、社会民主労働党が長期政権を維持してきましたが、一党独裁ではなく選挙によるものであ り、先般の選挙では選挙によって政権交代が行なわれました。
 さらに、マルクス主義的な社会主義国家の経済システムは、実態はともかく原則としては国家による中央統制 経済(生産手段の国有化、計画経済)であり、私企業の存在や自由主義的な競争経済は認められていませ ん。
 それに対し、社会民主主義の国家では、私企業の存在、自由主義的な競争経済が相当程度公認されていま す。
 こうした相違は、たまたまではなく「主義=思想」としての違いです。
 かつてのソ連・東欧と異なり、「社会民主主義」の国スウェーデンは「民主主義のもっとも成熟した国」と評され るように、言論や政治活動の自由度のきわめて高い国です。
 また自由主義的な競争経済を許容していて、経済効率もきわめて高いようです(順調な国内経済、高い国際 競争力など)。
 これらは、北欧全体に言えることのようです。
 ただし、もちろん政府の介入をできるだけ避けて競争−市場原理に任せようとするいわゆる「新自由主義」経 済ではありません。政府の立法や予算措置等による経済活動の規制や誘導は、相当に強く行なわれていま す。自由な経済活動が結果として大きな社会的不平等を生み出すことのないように、政府が相当に介入するの です。
 北欧型社会民主主義のソ連型社会主義との基本的違いの一つは、社会の分野のうち、経済は限りなく自由 主義的(競争原理)に、その他の分野では限りなく社会主義的(協力原理)にという基本方針にあります。
 そして、一定程度競争原理を導入することによって経済を活性化し、活性化した経済によって税収・財政を確 立し高度な福祉を可能にする財源を確保してきたのです。
 これは結果として見れば、非常にすぐれた「大人の知恵」だったと評することができるでしょう。
 スウェーデン社会民主労働党の政府は、財界に対して完全雇用を要求することによって労働者の支持を得、 自由主義的な経済を許容することによって財界との妥協・協力関係を形成し、労働者と財界との妥協・協力に よって経済を活性化し、活性化された経済によって福祉を保障してきました。そうした国民全体の妥協・協力に よる信頼関係が、環境に関しても合意形成を容易にしているのだと言われています。
 スウェーデンでは、社会民主主義・ヒューマニズム・人間尊重の思想があったからこそ、「福祉国家」というビジ ョンが生み出され実現され、さらにその発展としての「緑の福祉国家」というビジョンも生み出され、実行されつ つあると言ってまちがいないでしょう。
 あえてわかりやすく言えば、「社会民主主義なくして福祉国家なし」、「福祉国家なくして緑の福祉国家なし」 と いうことです。
 しばしば指摘・批判されるのと異なって、北欧では、ヒューマニズム・人間尊重の思想は人間中心主義に陥る ことなく、むしろ人間の健全な生活つまり福祉の基盤として健全な環境が必須であることが科学的・エコロジー 的に明らかになると、本格的にエコロジカルに持続可能な社会に取り組む動因となりえています。
 それに対し、「新自由主義」的な資本主義は、私企業が政府の介入なしに自由に利益を追求することを求め るものです。
 しかし、経済的利益の無制限な追求は、資源の大量使用―大量生産−大量消費による経済成長を目指さざ るを得ず、結果として資源の枯渇と大量廃棄をもたらし、環境の悪化をもたらさざるをえないという点で、もはや 持続不可能だ、と思われます。
 近代の産業経済システムとりわけ自由主義的資本主義は、もともと入口・資源の有限性と出口・地球の自己 浄化能力の有限性という、2つの根本的な限界を抱えていたといえるでしょう。
 もう一方ソ連型社会主義も、独裁のもたらす不自由さと経済的な非効率性という点で、もはや今後の世界の 選択肢ではありえない、と思われます。
 そういう意味で、第三の道、スウェーデン−北欧型社会民主主義こそ、経済・財政と福祉と環境のバランスを 可能にし「持続可能な社会」を実現する上で実際的な有効性のある思想的・政治的選択肢ではないか、と私は 考えています。
 それは、たんなるイデオロギーの問題ではなく、「持続可能な社会」を実現できる政治・経済体制は何かという 意味での「理念」・「ビジョン」・「政治経済思想」の選択の問題なのだ、と思うのです。

 その他の要因

 さらに補足すると、スウェーデンが国を挙げて経済最優先ではなく「経済と福祉と環境のバランス」によって「緑 の福祉国家」に向かうという国民的・全社会的合意を形成する上で、ヴァイキング時代以来、北欧の人々が持 ち続けている自然に対する深い畏敬と愛着の思い――「自然神秘主義」と呼ぶこともできるような価値観―― が、それを容易にする大きなファクターになっていることも指摘しておくべきでしょう。
 また社会民主労働党のごく初期から自然科学者や社会科学者と政治家のコミュニケーションがきわめてよか った――例えば初代党首のブランティングは天文学専攻であり、ストックホルム学派経済学のウィグフォシュや ミュルダールが社民党政権の経済政策担当者だったなど――という点も、ごくスムースに科学者の環境の危機 への警告を政治家が真剣に受け止めて経済や福祉とのバランスを考えながら政策を立案することを可能にし ていると言えるでしょう。
 以上述べたような理由で、今、私たち日本人が「持続可能な社会」を目指す上で、スウェーデンの思想と政治 から学ぶべきものはきわめて大きい、と私は考えています。


 参考文献(著者の50音順)

I・アンデション/J・ヴェイブル/潮見憲三郎『スウェーデンの歴史』文真堂
石原俊時『市民社会と労働者文化――スウェーデン福祉国家の社会的起源』木鐸社、1996
石原俊時他『もう一つの選択肢――社会民主主義の苦渋の歴史』平凡社、1995
岡沢憲芙『スウェーデンは、いま――フロンティア国家の実像』早稲田大学出版会、1987
      『スウェーデン現代政治』東京大学出版会、1988
      『おんなたちのスウェーデン――機会均等社会の横顔』日本放送出版協会、1994
      『スウェーデンを検証する』早稲田大学出版会、1996
      『スウェーデンの挑戦』岩波新書、1991
岡沢憲芙他編『スウェーデンの経済――福祉国家の政治経済学』早稲田大学出版会、1994
        『スウェーデンの政治――デモクラシーの実験室』早稲田大学出版会、1994
尾崎和彦『北欧思想の水脈――単独者・福祉・信仰―知論争』世界書院、1994
  〃  『スウェーデン・ウプサラ学派の宗教哲学』東海大学出版会、2002
小澤徳太郎『いま、環境・エネルギー問題を考える――現実主義の国スウェーデンをとおして』ダイヤモンド社、 1992
     『21世紀も人間は動物である――持続可能な社会への挑戦 日本VSスウェーデン』新評論、1996
     『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』朝日新聞社、2006
訓覇法子『スウェーデン人はいま幸せか』日本放送協会、1991
生活経済政策研究所編『ヨーロッパ社会民主主義論集(W) スウェーデン社会民主党党綱領 他』生活経済 政策研究所、2002
竹崎孜『スウェーデンはなぜ生活大国になれたのか』あけび書房、1999
     『スウェーデンはなぜ少子国家にならなかったのか』あけび書房、2002
藤井威『スウェーデン・スペシャル』T・U・V、新評論、2002
I・ヘルリッツ/今福仁『スウェーデン人 我々は、いかにまた、なぜ』新評論、2005
宮本太郎『福祉国家という戦略――スウェーデン・モデルの政治経済学』法律文化社、1999
百瀬宏『北欧現代史』山川出版社、1980







スウェーデンは小さな国だからできた?
2008年11月19日

 スウェーデンの話をすると、しばしば出てくる言葉に「スウェーデンは小さい国だからできたので、日本の参考 にはならない」というのがあります。
 しかし、昨日の記事を読んで下さった方にはもうおわかりのとおり、スケールの問題ではなく、なによりも社会 システムの問題であり、優れたシステムを創り出すことのできたスウェーデンの指導者の質−英知の問題であ り、そういう優れた指導者を生み出すことのできたスウェーデンの優れた国民性の問題なのです。
 まだ「エコロジカルに持続可能な社会」にはほど遠いところにいる私たち日本人にとって、今、一つの大きな問 題・課題であるのは、いかにして優れた国民性と優れた指導者を育むかということです。
 日本の伝統精神である「神仏儒習合」とその中核である仏教、そして神仏儒習合の精神による「和の国・日 本」の創造を呼びかけた聖徳太子「十七条憲法」〔の再発見〕が、その基本的な教材になる、と私は考えていま す。
 しかし日本人全体が、それらの意味を再発見するにはまだまだ時間がかかりそうです。
 またしかし、授業を通して大学生たちに伝えていると、意外に早いかもしれないという期待も湧いてきます。
 どちらにせよ、これからも根気強く伝える仕事を続けていくつもりです。乞御支援!
 今日はこれから「持続可能な国づくりの会」の学習会に行ってきます。







持続可能な町づくりの実例:徳島県上勝町
2008年05月23日

 ようやく風邪も98パーセントくらい治り、少しだけしわがれ声が残っていますが、昨日は大学で講義をしまし た。
 今日は、参宮橋・不二禅堂での講座――軽い坐禅と「ゴータマ・ブッダは何を教えたか」の講義――にまもなく 出かけます。
 その前に、ふと思いついて、講座に参加しておられるサングラハの会員でジャーナリストの高世仁さんのブロ グをひさしぶりに開いてみたら、さすがジャーナリスト(当たり前か)、 「持続可能な世界モデルを目指す町長 」 という記事で、徳島県上勝町のすばらしい取り組みを書いておられました。
 詳細はそちらを見ていただくことにしますが、読んでうれしくなりました。
 スウェーデンやフィンランドに羨望を感じているだけでなく、日本にもこんな取り組みがあるのだと、とても希望 を感じました。
 私も、機会を作って上勝町へ行ってみたくなりました。
 そして可能なら「持続可能な国づくりの会」との連携・提携を提案できるといいのではないかと思っています。







持続可能なまちは小さく、美しい:上勝町の挑戦
2008年07月04日

 


 ご縁があって、持続可能なまちづくりで知られる徳島県上勝町町長の笠松和市さんと環境ジャーナリスト佐藤 由美さんの共著『持続可能なまちは小さく、美しい』(学芸出版社、本体1500円+税)を送っていただきまし た。
 レポート採点と重なってしまい、なかなか読めなかったのですが、ようやく時間を見つけて読み終わりました。
 地方の自治体単位でも、ここまで出来るという希望を感じさせくれる、すばらしい報告です。
 しかし同時に、戦後政府の農政・地方政策が結局は地方・農村を疲弊させる方向にあったこと、それを根本 的に克服するにはやはり国が掌握している立法権と徴税・起債権という権限のところまで考えるほかないという ことも考えさせられました。
 ぜひ、「持続可能な国づくりの会」との提携−連帯を提案したいものだ、と考えています。
 くわしいことは、また時間を作って書いてみたいと思っています。

 






持続可能な社会へさらに一歩
2008年08月07日

 今朝、東京田町まで出かけて、『持続可能なまちは小さく、美しい』の著者お二人とほんの一時間あまりでした が、お会いしてきました。
 お一人は、お送りしたパンフレット「日本も緑の福祉国家にしたい」「持続可能な国家のビジョン」「持続可能な 社会の条件」「コスモス・セラピー」すべてを読んで下さっていて、きわめてよく理解・共感してくださっていました (たぶん、私の感じでは)。
 もうお一人は、お忙しくてまだだとのことでしたが、「直観的におなじことを考えていることはわかる」とのことで した。
 ぜひお読みいただいて、大まかな路線に合意をしていただけたら、ぜひ提携ないし合流をしたい、と申し出て おきました。
 おそらく、実現すると思います。
 実現したら、これはまた大きな前進になるはずです。
 これまでは、学者の方に加わっていただいているのみで、現場の政治に取り組んで成功しておられる方はま だでした。
 持続可能なまちづくりを実践しておられる政治家の方 1) 2) が加わってくださると、具体性・説得力が倍増しま す。
 まだもちろん確定ではありませんが、確かな感触をつかんできました。
 面談が終わって大船に引き返し、曹洞宗のお寺の大施餓鬼会の法話を「布施の心」という題でしてきました。
 檀信徒のみなさんと、一体感を感じることのできる、楽しい学びの時間でした。
 今日は、今日の仕事の報告だけで終わりにさせてください。







持続可能な滋賀社会ビジョンを読みました
2008年06月01日

 5月11日のシンポジウム「持続可能な国家のビジョン」の時に、西岡先生から「滋賀県はここまでやってます よ」とお知らせをいただきながら、風邪をひいたり、当面の仕事でとても忙しかったりで、なかなか滋賀県のHP を見ることができませんでしたが、ようやく少し時間を見つけて読みました。
 これは、なかなかすばらしいビジョンです。みなさんも、まだでしたら、ぜひご覧下さい。
 県政レベルでここまでのビジョンを描くのは大変なことだったでしょう。
 これが本格的に実行されることを願わずにはいられません。
 私の住む神奈川県のビジョンは、残念ながらかなり違うようです。
 しかし、先週のH大の授業の後、講師室で小澤先生にコメントを求めたら、「こうした地方、県政レベルの努力 は、ほかにもいろいろあって、すばらしいのですが、どうしても法律、予算、税制などのところで限界にぶつかっ てしまいがちなので、やはり国政レベル−政治主導で行かないと」と言っておられました。
 確かにそうだと思います。
 こうしたいろいろある努力−勢力が、地方レベルにとどまるのでなくなんとか国政レベルまでまとまるといいの だが……まとめ上げていきたいものだ、と改めて思いました。




(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所