目次


*聖徳太子『十七条憲法』関連の記事の目次です。記事はまだ完結していませんが、大学の授業との関連で、 できたところまで掲載することにしました。時間をなんとか作って、続けて書いていきたいと思っています。



*以下はまだ記事が書けていませんので、条文と現代語訳のみです。









『十七条憲法』の授業
2005年12月10日


 大学の授業も残り少なくなってきました。

 後3回、論理療法の話と聖徳太子『十七条憲法』の話とどちらがいいかと希望を書いてもらうと、1つのクラス では大多数が『十七条憲法』でした。
 これは私にとってうれしい予想外でした。
 唯識を中心に仏教の話をした後で、
 「ところで、こうした深さと普遍性のある仏教を日本に導入した責任者は、聖徳太子です。
 そして太子は、驚くほど深く仏教を理解していたんです。
 その仏教精神を核に、人と人とが平和に、人と自然が調和して暮らすことのできる「和の国・日本」をみんなで 創ろうという呼びかけ・国家理想を語ったのが『十七条憲法』なんです。
 これが日本の最初の「憲法」です。
 明治憲法や現行憲法の前に、いわば日本の「国のかたち」・国家理想として最初にあったのは、『十七条憲 法』です。
 そもそも「憲法」という言葉自体、明治憲法を作ったとき、英語では constitution に当たる言葉をどう訳すかを 考え、『十七条憲法』から「憲法」としたんですね。
 ここに語られている国家理想を知るということは、日本人としてきわめて正当な国民的アイデンティティを確立 することにつながるので、こっちをきみたちに伝えておきたいという気もしているんだけどね。」
と話したことに反応してくれたのでしょう。
 昨日から始めましたが、学生たちは非常に感動して聞いてくれたようです。
 彼らはやはり「日本の子」、精神的な意味での「聖徳太子の子孫」なんだなあ、と感じたことでした。

*これから話していく詳しい内容については、拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)を参照し ていただけると幸いです。






日本の精神性の原点
2006年11月29日 


 教えているどの大学・学部でも唯識の話が終わりました。
 レポートの提出が始まっていますが、今年も唯識をしっかりと理解した学生がたくさんいるようで、とても喜んで います。
 私は、授業でよく言うのですが、「山の高さはどこで測るんだろう? 麓か中腹か頂上か? 決まってるよね」 と。
 「山の高さは頂上で測るんだよね。で、その場合、山の頂上が広いかどうか、あるいは山の裾野が広いかどう かというふうなことは、山の高さを測る上で参考にされるんだろうか?」
 「もちろん、されない」と。
 「文化の高さもそれと同じなんじゃないかな? しかも広さはそれほど問題じゃない。要するに頂上が高いかど うか、が問題なんだ、と僕は思うんだけどね」
 「ところが、明治以来、日本人は西洋近代の文化の高いところと、日本の近代化されていない一般の部分を 比べて、日本は程度が低い、劣っている、遅れていると感じてきたというところがあるんじゃないだろうか?」
 「歴史的にはやむをえない事情もあるんだけど、しかしそれは正当な比較の仕方じゃないよね」
 「比べるなら、高いところと高いところ、頂上と頂上を比べるのがフェアな比べ方だと思うんです」
 「そして、例えば唯識という高み・深みと、エックハルトでもフロイドでもユングでもアドラーでもいいけど、そうい う西洋の心に関する洞察の高み・深みを比べたら、東洋−日本はまったく見劣りがしない、どころか、ある面で ははるかに高い・深いと正当に主張することができる、と僕は思うんだよね」
 「君たちは、日本の戦後教育の基本方針のために、そういう日本の高み・深みを教えられないままに育ってき て、欧米に劣等感をもってきたわけだけど、これでもう劣等感をもつ必要はなくなったわけだよね。もっとも、比 較して優劣を競うというのは、しばしばあまりにも不毛だから、優越感をもつ必要もないんだけどね」
 「そして、授業はこれで終わりじゃないんだよ。これから、日本の精神的伝統のもう1つの高み・高峰、聖徳太 子の話をするからね」と前置きをして、昨日、火曜日から聖徳太子「十七条憲法」の話を始めています。
 ご存知だと思いますが、明治憲法でも現行憲法でもなく、聖徳太子「十七条憲法」こそ、日本最初の憲法で す。
 そこには、日本という国が国のかたちを創り始めたその時に高々と掲げた国家理想、「和」の精神が謳い上 げられています。
 「和」とは、人間と人間の平和、人間と自然との調和、2つの意味が含まれています。
 604年に公布されたものですから、なんと1400年以上前に、日本はいわば「緑の福祉国家」の理想を掲げ ていたわけです。
 私たちは、一方ではその始まりの古さを誇りにしていいと思いますし、もう一方ではその実現の遅さを恥じる べきではないかとも思います。
 いずれにせよ、私たちには帰るべき、帰るに値する原点があるということは、とても幸いなことだ、と私は思っ ています。
 教育基本法も憲法も、この原点に立ち帰ったところからこそ本当に改正する――正しく改める――ことができ るのだと思います。
 大変失礼ながら、そして残念ながら、与党も野党も、原点を忘れたところで議論しているように見えてしかたあ りません。
 これまた我田引水ですが、拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)を読んでくださっている国会議 員は、私の知るかぎり1名。とても共鳴してくださっているらしいのは、うれしいような、悲しいような……。
 なんとか、教えている数百人の学生だけでなく、国の責任あるリーダーのみなさん、そして国民のみなさん全 員に原点に立ち帰っていただきたいものだと願わずにはおれません。






緑の福祉国家と聖徳太子の理想
2006年12月4日 


 昨日は、サングラハ第90号、特集「持続可能な社会の条件――『自然成長型文明に向けて』改題増補版」の 発送と、シンポジウム「日本も〈緑の福祉国家〉にしたい!――スウェーデンに学びつつ」の反省会、そして二次 会で、午前中から最終電車まででした。
 実り多い、充実した疲れの一日でした。帰ってきたらがっくりで、ブログ記事を書く気力が足りませんでした。

 何よりも大きな反省は、多くの市民ががんばってきた「環境運動」の「自分のできることをする」というアプロー チに対して、「政治・経済の方向性と市民のしていることの方向性のベクトルが一致していれば、市民のしてい ることは有効に作用するのですが、ベクトルが違っているために、せっかくの市民の努力がムダになってしまっ ています。それではあまりにも残念ではありませんか。努力がムダにならないよう、ベクトルを一致させるため のもう一努力を一緒にやりましょう」ということを伝えたいのに、「あなたたちのやってきた(やっている)ことはム ダだ」と聞こえる言い方をして、無用な反発を招いたのではないか、ということでした。
 これから、もっとたくさんの人に心情的に受け入れやすく、一緒に行動していけるような、ポジティヴなアプロー チの仕方を一工夫も二工夫もしなければならないな、と思っています。
 それから、いろいろやむをえない事情はあったにせよ、DMの発送など広報をもっと早く始められるとよかっ た、という反省もありました。
 次回はもっと早くから企画、準備、広報を進めたいと思います。
 最後に、シンポジウムの趣旨をさらに発展させ実現していくために新しい組織を立ち上げていくこと、そのため の準備委員会を作ることが決まりました。
 ともかく、みんなますますやる気になっています。とても楽しい熱気が感じられます。
 これで、日本を持続可能な社会=緑の福祉国家にするためのさらなる一歩を進めることができる、という手ご たえを感じています。

 ところで、日本を緑の福祉国家にすることは同時に、私にとって聖徳太子の高く掲げた日本の国家理想を実 現していくということを意味しています。
 一見、意表をつかれた感じがする読者がおられるかもしれませんが、私にとってそれはまったく一つのことな のです。
 そして実は、それは日本人全体にとってもそうなのではないか、と思っています。
 これまでの記事、そして今書いている記事を続けて読んでいただけると幸いです。
 今日は、ミーティング・ルームの後片付けに行ってきてから、記事を書いています。

 *なお、本ブログに掲載した「自然成長型文明に向けて」を大幅に増補した『サングラハ』特集号「持続 可能な社会の条件」をご希望の方は、送料とも700円でお頒けします。代金は郵便振替後送でけっこう です。住所氏名を明記して、okano@smgrh.gr.jp 、サングラハ教育・心理研究所宛にメールでお申し込み 下さい。






菩薩の目標は平等社会
2006年12月31日


 1年が終わろうとしています。この1年も、自分としては最善を尽くした1年でした(その内容はすでに書いたと おりなので、繰り返しません)。
 『摩訶般若波羅蜜経』の言葉を借りて言えば、目指すところは菩薩の目指すものでした。

 菩薩・大士が布施波羅蜜を修行している時に、もし衆生で飢え凍え、着物はぼろぼろになってい るの見たならば、菩薩・大士はまさに次のような願を立てるべきである。私がこの所・時に布施波 羅蜜を修行し、この上ない覚りを得た時には、私の国土の衆生にはこうしたことがなく、衣服や飲 食、生きるための必需品が、四天王、三十三天、夜摩天、兜率陀天(とそつだてん)、化楽天(けら くてん)、自在天といった天界のようにならせよう。……
 菩薩・大士が六波羅蜜を修行している時、衆生に下・中・上、下・中・上の家庭(という格差)があ るのを見て、菩薩・大士はまさに次のような願を立てるべきである。私がこの所・時に六波羅蜜を 修行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生にはこうし た優劣は存在させはしない、と。

 菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)有りて檀那(だんな)波羅蜜を行ずる時、若し衆生の飢寒凍餓(き かんとうが)し、衣服弊壊(えぶくへいえ)せるを見れば、菩薩摩訶薩は当に是の願を作すべし。我 れ爾所(にしょ)の時に随ひ檀那波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が国土の 衆生をして是(かく)の如きの事無く、衣服飲食(えぶくおんじき)資生(ししょう)の具、四天王、三 十三天、夜摩天、兜率陀天(とそつだてん)、化楽天(けらくてん)、自在天の如くならしめんと。…
 菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、衆生に下中上下中上家有るを見て、当に是の願を作すべ し。我れ爾所の時に随ひ六波羅蜜を行じ、仏国土を浄め衆生を成就し、我れ仏と作る時、我が国 土の衆生をして是(かく)の如きの優劣(うれつ)なからしめんと。(『摩訶般若波羅蜜経』「夢行品 (むぎょうぼん)第五十八」)

 大乗の実践者・菩薩は、自らが覚って導く自分の国では、生きとし生けるものすべてにおいていかなる貧困も 差別もけっして存在させまい、と深く願いながら、それを可能にする英知を求め続けていく、というのです。
 菩薩にとって、目指すべきは根源的な平等社会であって、格差社会はけっして認めることのできないものなの です。
 日本を「大乗相応の地」(大乗仏教にふさわしい地)、「和の国」にするために、来年も最善を尽くしていきまし ょう、菩薩志願者のみなさん!
 では、よいお年を。






アレルギーが治りつつある
2007年1月16日


 昨日は、朝9時から夕方5時までかけて、聖徳太子「十七条憲法」の講義をしました。
 内容については、すでに書き始めていて休止状態になっている記事をもう間もなく再開しますので、ここでは 書きませんが、聞いてくださった方の反応で、とても典型的なものが2つあったのを紹介しておきたいと思いま す。
 1つは、もっとも初期からのサングラハの会員で現在長崎在住の方が言っておられた、「今日、この講義を聞 いて、なぜ岡野さんが一方でスウェーデンに一所懸命になり、もう一方で聖徳太子のことを話すのか、やっとわ かりました」という言葉でした。
 聖徳太子の掲げた国家理想は、人間と人間が平和に、お互いがお互いを幸福にしあうような暮らしをすること ができ、人間の暮らしと自然の営みが調和しているような、そういう「和の国」日本をつくろうということだった、と 私は考えています。
 そして、現代の世界の中で、そういう「和の国」に限りなく近い「緑の福祉国家」を実現しつつあるのがスウェー デンだ、と思うのです。
 だから、私の中では日本の原点ともいうべき聖徳太子「十七条憲法」と「スウェーデン・モデル」はまったく1つ のことなのです。
 そしてそれは単に私個人のことではなく、これが1つのことだとわかることで、現在の日本人がどこに向かえば いいのか、大きな合意形成が可能になるのではないか、と私は考えているのです。

 もう1つは、ちょうど折り良く講座のほんの数日前に、九州で私の講義を聞ける機会はないかと問い合わせを くださり、急いでお知らせしたら、早速出かけてくださった方の言葉でした。
 その方は、私の本をそうとうたくさん買って読んで下さっているということでしたが、『聖徳太子『十七条憲法』を 読む』を見た時、最初は、「岡野先生ともあろう方が天皇絶対主義を復活させるような本を書くとは」と思われた とのことでした。
 しかし、本を読み、そして改めて講義を聞いて、「そういうことではないんだ、とよくわかりました」と言ってくださ ったのです。
 聖徳太子→天皇絶対性・軍国主義というアレルギー反応は、かつて私も罹っていた戦後日本人のいわば「精 神の自己免疫疾患」です。
 〔自己免疫とはいうまでもありませんが、ほんとうは自分のいのちの一部であるものを「異物」と認識してしまう ことです。〕
 これを治さないことには、私たちは健康なエネルギーを取り戻すことができず、前に進むこともできないと思う ので、私は誤解を恐れず語ることにしているのですが、こうして少しずつ誤解が解けていくことは、ほんとうにう れしいことです。
 こうして少しずつではあれ、深刻なアレルギーがようやく癒されつつあるようで、希望を感じます。
 原点にあった「和」という国家理想に戻りながら、そこを出発点として前進し、綺麗ごとではなく実際に「美しい 国」をみんなでつくりたいものです。

 今日は、連投の後の中日という感じの1日を過ごしました。また、明日は東京で大切な用事です。






平和と調和という国家理想 : 十七条憲法第一条
2007年1月22日 


 聖徳太子「十七条憲法」は、604年に発布された日本の最初の憲法です。
 そもそも「憲法」という言葉自体、「十七条憲法」に由来するものです。
 ところが、戦後、かつてお話したような事情で、日本人が自分の原点を忘れてしまうような教育制度が出来上 がってしまいました
 日本史や倫理の時間にほんの少し仏教の話、聖徳太子の話が出てはきますが、「十七条憲法」の全文を高 校までの授業でちゃんと読む機会を与えられた人は、ほとんどいないでしょう。
 私も、読んだ記憶がありません。授業時に聞き取り調査をしていますが、私の学生の中でもこれまでのところ 1人もいないようです。
 しかし、良かれ悪しかれ、これは日本という国の出発点・原点です。
 価値判断の前に、ともかく私たちは読んでみる必要があるのではないでしょうか。
 読みもしないで、進歩主義的偏見で「古い」とか「右よりだ」とか「保守反動だ」と言ってしまうのは、おなじくちゃ んと読まないで信奉する保守主義的偏見とおなじくらい不毛でフェアでない態度だと思います。
 そこで、これからしばらくみなさんに原文(の書き下し)と私の現代語訳をご紹介し、短いコメントを加えて、判 断の材料にしていただこうと思います。

一に曰く、和をもって貴しとなし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな黨(とう)あり。ま た達(さと)れる者少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず。また隣里(りん り)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ、下(しも)睦(むつ)びて、論(あげつら)う に諧(かな)うときは、事理(じり)おのずから通ず。何事か成らざらん。

第一条 平和をもっとも大切にし、抗争しないことを規範とせよ。人間にはみな無明から出る党派 心というものがあり、また覚っている者は少ない。そのために、リーダーや親に従わず、近隣同士 で争いを起こすことになってしまうのだ。だが、上も下も和らいで睦まじく、問題を話し合えるなら、 自然に事実と真理が一致する。そうすれば、実現できないことは何もない。

 ここには、日本という国がもっとも優先的に追求すべき国家理想は人間と人間との平和――そして後でお話し することで明らかになるように人間と自然との調和も含まれています――であることが高らかに謳われていま す。
 しかもそれだけでなく、争い・戦争というものは無明*から出てくる自分たちさえよければいいという党派心から 生まれるという深い人間洞察が、短い言葉のなかでみごとに表現されています。
 無明がなくならないかぎり、戦争はなくならない、平和は実現しない、人間と自然との調和も実現しないので す。
 しかし、たとえまだ無明を克服し覚ることのできていない人間であっても、心を開いて親しみの心をもって、事 柄とコスモスの真理が一致するところまで徹底的に話し合うなら、たとえどんなに困難なことでも実現できないこ とはない、というのです。
 近代的な民主主義のまったくない時代に、私利私欲ではなく理想を目指して徹底的に議論すること、話し合い による政治を提唱し、「和の国日本」の建設という当時の状況からすればほとんど不可能に見える大国家プロ ジェクトをみんなで立ち上げよう、と太子は呼びかけています。
 この理想、このプロジェクトは1400年経っても、残念ながら実現されていないのではないでしょうか。
 これは、私たち日本人の立ち帰ることのできる原点、立ち帰るに値する原点、立ち帰らなければならない原点 だ、と私は思うのです。

 *ところで、ここで念のために言わせていただきますが、私は右でも左でもありません。右の妥当な面と左の 妥当な面を統合したいと思っているのです。






曲がった心を正す方法 : 十七条憲法第二条
2007年1月23日


 「十七条憲法」の第二条は、いわば仏教の国教化宣言です。
 ここには、なぜ太子が仏教を国教とするのか、きわめて明快な理由が示されています。
 人間の心は無明によって曲がってしまっている。そのために憎みあい、争いあい、自然の循環を乱してしま う。
 しかし、本来どうすることもできないほどの悪人はいない。すべての人には「仏性(ぶっしょう)」が具わってい る。
 仏が存在し、その真理の教え、つまり縁起の理法、すべてはつながって1つだという教えがあり、それを体得 した集団・僧伽があって、その真理を人々に教えるならば、人々は教化され真理に従うことができるようになる、 というのです。
 そうなれば、平和と調和に満ちた国、日本を創出することは不可能ではないのです。

 二に曰く、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは、仏(ぶつ)と法と僧となり。すなわち四生 (ししょう)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を 貴ばざらん。人、甚だ悪しきものなし。よく教うるをもて従う。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何を もってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

 第二条 まごころから三宝を敬え。三宝とは、仏と、その真理の教えと、それに従う人々=僧であ る。それは四種類すべての生き物の最後のよりどころであり、あらゆる国の究極の規範である。ど んな時代、どんな人が、この真理を貴ばずにいられるだろう。人間には極悪のものはいない。よく 教えれば〔真理に〕従うものである。もし三宝をよりどころにするのでなければ、他に何によって曲 がった心や行ないを正すことができようか。

 しかも、太子は、すべてはつながって1つ、縁起の理法は人間だけでなくすべての生き物のいのちの根拠でも あり、すべての国が到達すべき普遍的な事実であることをしっかりと認識しておられます。
 「いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん」というのは、太子がただ仏教を頭から信じ込んでいたの ではなく、それがあらゆる時代、あらゆる人に通用する普遍的真理であることをつかんでおられたことを示して います。
 かつての教条的な左翼の先入見――私ももっていました――と異なり、太子は、自分は理解したり本気で信 じたりしてもいないのに、「民衆の阿片」、つまり人々をだまして服従させるためのイデオロギー(虚偽意識)とし て、仏教を導入−利用したのではないようです。
 自ら、深く理解して、その普遍性・妥当性に信頼を置かれたので、和の国日本を創るために指導者から始ま ってすべての国民の心を浄化する有効な方法として導入されたのだ、と思われます。
 しかも、仏教を排他的に採用したのではなく、仏教に不足している倫理的な教えの部分については儒教を併 用し、従来の神道も十分に尊重しています。
 「神仏儒習合」という日本の心の基礎は、太子が作られたものだといっていいでしょう。
 ところで、歴史学的には、聖徳太子の3つの経典への注釈書『三経義疏(さんきょうぎしょ)』はすべて後代の ものであるという説が強く、それどころか太子の存在そのものさえ疑う説もありますが、「十七条憲法」と『三経 義疏』をちゃんと読むとそこには一貫した思想があり、同じ人の書いたものと考える方が自然なくらいです。
 この一貫した思想をもっていたのは、誰なのでしょうか? 実証史学では、そういうことは問題にされていない ようです。
 しかし、私はそうした問題に深入りする気はありませんし、論争をする気もありません。
 そうではなく、かつて古代の日本にはこんなにすぐれた国家理想があった、その理想を掲げたすばらしい国家 指導者がいた、という日本の〈物語〉の意味を読み取りたいと思っているのです。






本当の日本のリーダーとは : 十七条憲法第三条
2007年1月24日


 「十七条憲法」の第三条は、戦前もっとも誤読・誤用されたところです。
 しかし、第一条から続いている文章の流れ〈コンテクスト)で、しかもこの条文全体を素直に読んでみてくださ い。

 三に曰く、詔(みことのり)を承(うけたまわ)りてはかならず謹(つつし)め。君(くん)をば天とす。 臣(しん)をば地とす。天は覆(おお)い、地は載(の)す。四時(しいじ)順(したが)い行ないて、万 気(ばんき)通うことを得。地、天を覆わんとするときは、壊るることを致さん。ここをもって、君言 (のたま)うときは臣承る。上行なうときは下靡(なび)く。故に詔を承りてはかならず慎(つつし)め。 謹(つつし)まずば、おのずから敗れん。

 第三条 詔を受けたならば、かならず謹んで受けよ。君は天のようであり、臣民は地のようであ る。天は〔民を〕覆い、地は〔民を〕載せるものである。四季が順調に移り行くことによって、万物の 生気が通じることができる。地が天を覆うようなことをする時は、破壊に到るのである。こういうわ けで、君が命じたなら臣民は承る。上が行なう時には下はそれに従うのである。それゆえ、詔を受 けたならばかならず謹んで受けよ。謹んで受けなければ、おのずから事は失敗するだろう。

 戦前、この条は要するに「天皇陛下の命令には絶対服従せよ」という意味に読まれ、それが聖徳太子の教え だと説かれました。しかし、そうでしょうか。
 確かに最初に「詔を受けたならば、かならず謹んで受けよ」と言われてはいます。
 しかし、そこだけを読まず、前と後を続けて読んでいくと、「何であれ詔ならばいつも無条件・無批判に盲従せ よ」ということではないようです。
 それは特に、この後にちゃんと、「なぜ、どういう詔を謹んで受けなければならないのか」説明されているから です。
 「君すなわち天皇すなわちトップ・リーダーの役割は天の命を受けて天の代理として民およびすべての生きとし 生けるものを覆う・庇護することにあり、臣すなわち高級官僚すなわちサブ・リーダーの役割は大地のように民 およびすべての生きとし生けるものを載せる・支援する・支えることにある」と言われています。
 トップ・リーダーとサブ・リーダーが協力しあって本質的なリーダーとしての役割を果たすならば、四季は順調 に巡り――つまり異常気象になったりすることなく――万物のいのちの気が活き活きと通うことができる、という のです。
 ここで太子が言いたいのは、トップ・リーダーがその役目を果たすかぎりにおいて(つまり条件付きで)、サブ・ リーダーはその命令を天の命令のように謹んで受けなければならない、ということではないでしょうか。
 太子は、いうまでもなく儒教の「天命」「天子」という思想を踏まえて語っています。
 そしてここでは言及していませんが、もちろん、天子が天命にそむいた場合は、天命が変革される、つまり「革 命」がありうるのだという考えも知っていたはずです。
 それを知った上で、自らを「日出る処の天子」と名乗ったにちがいありません。
 天子は、天に代わって人と人の間に平和と幸福を、人間と自然の間に調和と安定をもたらすことが役割なの です。
 太子の視野には、人間だけでなく、自然と人間の関係も入っていることが、第三条からはっきりと読み取れ る、と私は思います(これは従来あまりちゃんと読み取られていなかったのではないでしょうか)。
 そうした天命である「和」を実現するためのリーダーとしての君・天皇には、臣・官僚たちは真心から従うよう に、というのがこの個所で語られていることです。
 ところが、サブ・リーダーが、自らの私利私欲のために権力を獲得したくてトップ・リーダーの座を狙うのは、地 が天を覆おうとするようなもので、天地自然の理に反しており、それでは集団が大混乱し破壊に到ってしまうで はないか、と(ここには、蘇我馬子への痛烈な警告が隠されていると思われます)。
 今、天皇(およびその代理・摂政として太子)が天命を受けて真心から「和の国日本」を創造しようとして詔(特 に第一条)を発している以上、それには誠心誠意従ってほしい、という命令・呼びかけです。
 そうしないと、すべての人、すべての生き物を幸せにしようという、この大きな国家プロジェクトは失敗してしま うだろう(そうなってしまえば、結局、誰も幸福にはなれないのだ)、というのです。

 これは、現代にもそのまま通用するリーダーの本質論ではないかと思います。
 努力した(その結果勝った強い)人(だけ)が経済的に報われるような経済成長だけを目指すリーダーは、聖 徳太子の国のリーダーとしてはまったく失格だ、とあえて言わざるをえません。
 今、日本では、例えば国民健康保険料が払えなくて(払わなくて、ではありません)、病気になっても医者にか かれない人が急増しています。
 8年連続で、今年も自殺者が3万人を超したそうです。
 ここで私が挙げるまでもなく、こうした問題は山積しています。
 現状を見れば日本は、「緑の福祉国家」どころか急激に「福祉国家」からもはるかに遠ざかりつつあります。
 日本をこんな国のままにしておいていいのでしょうか。
 日本の原点・「十七条憲法」の心をしっかり自分の志にした、本当の「日本のリーダー」の登場が待ち望まれま す。






リーダーが模範を示す : 十七条憲法第四条
2007年1月25日


 第一条から第三条までで、日本の目指すべき理想「和」が宣言され、それを妨げる無明の心と党派心が指摘 され、その曲がった心を正すには仏教が必要であることが示され、民とすべての生き物を庇護し支えることこそ リーダーの使命であると語られ、憲法のもっとも重要なポイントが語られていました。
 第四条は、それを実現する上でのリーダーのあり方について語っています。要するに「模範を示す」という、あ る意味では当たり前の話です。
 人間は、生まれつきいい(適応的で倫理的で幸福になれる)生き方ができるような本々の能力(つまり「本能」) をもっておらず、教えられてはじめていい生き方を身につけることができる生き物です。
 すでにいい生き方ができている人に模範・手本を示してもらってその真似をする――「学ぶ」は語源的に「真 似ぶ」から来ていることはご存知のとおりです――ことによって、ちゃんとよく生きていけるようになるのです。
 そういう人間の本質からして、大人・リーダーの責任は重大です。第四条は、そういうリーダーの模範を示す 責任について語っています。

四に曰く、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民を治むる本は、か ならず礼にあり。上、礼なきときは、下、斉(ととのお)らず。下、礼なきときは、かならず罪あり。こ こをもって、群臣礼あるときは、位次乱れず。百姓(ひゃくせい)礼あるときは、国家おのずから治 まる。

第四条 もろもろの貴族・官吏は、礼法を根本とせよ。そもそも民を治める根本は礼法にあるから である。上に礼法がなければ、下も秩序が調わない。下に礼法がなければ、かならず犯罪が起こ る。こういうわけで、もろもろの官吏に礼法がある時は、社会秩序は乱れない。もろもろの民に礼 法がある時は、国家はおのずから治まるのである。

 集団の重要な地位にある人は、法を守ることは当然ですが、まずそれに先立つモラルやエチケットつまり「礼 法」を守って、人間としてのいい生き方の模範を示す責任がある、というのです。
 人々を治める――これはもちろん支配・搾取・抑圧するという意味ではなく、穏やかに秩序を保って平和に幸 福に暮らせるようにするという意味です――には、根本的に生き方の模範を示すことが必要なのです。
 上に立つ人が、エチケット、モラル、さらには法にまで違反するようでは、下の人々がちゃんとするはずがあり ません。
 上に立つ人のモラルが乱れていれば、下々は犯罪さえ犯すようになるのです。
 しかし上に立つ人が、法律遵守することは当然、それ以上に品格のある行動をして模範を示せば、人々も「ち ゃんとした人間はああいうふうに生きるものなのだ」と、それに倣って秩序を守るようになる、というのです。
 そして人々がエチケットやモラルをちゃんと守るようになれば、まして法律を犯すようなことはなく、強制しなくて も自然に国が平和になっていくのだ、と太子は言っています。
 まさにそのとおり、話としては当たり前の話ではないでしょうか。
 しかし、毎日のニュースを見聞きしていると、日本の上に立つ人たちの多くが、品性のないことをするだけでな く、法律を犯しているという事件がしきりに起こっています。昨日の新聞記事もそうでした。
 これでは、「十七条憲法」の精神と真っ逆さま、あまりにも美しくない国ではありませんか。
 一日も早く、第四条の当たり前の話・理念が、同時に当たり前の事・現実であるような国になってほしいもので す、いや、したいものです、ぜひそうしましょう。
 そう思われませんか。






リーダーの役割としての公正な裁判 : 十七条憲法第五条
2007年1月28日


 前条で述べられたように、リーダーが手本を示し、メンバーがそれを学んで、内発的な秩序が自然に生まれる ことが望ましいのですが、人間の集団はなかなかそうはいきません。
 ふつうの人間の集団ではメンバーはほとんど全員凡夫であり、無明から生まれる自己中心性の傾きを多かれ 少なかれ持っていますから、どうしてもメンバー同士の争いが起こりがちです。
 しかし、もし集団のメンバー一人一人やその中のサブグループ同士が物理的力で抗争して、その勝敗でもの ごとが決まるのだとしたら、そこには暴力のバランスしか生まれないでしょう。
 暴力のバランスによる秩序は一時的かつ不安定で、けっして持続せず、何よりもメンバー全体の幸福につな がりません。
 ですから、共同体が持続的に安定するためには、メンバーのトラブルを調整・調停し裁く権力を与えられたリ ーダーが必要なのです。
 リーダーの最大の任務の1つは、共同体のあり方ができるだけメンバー全員にとってよいものになるように調 整することです。
 人間社会におけるリーダーとその権力は、もともとそういう共同体の必要によって生み出されたものだと思わ れます。
 本来、共同体全体の利益になるようメンバーを指導し調整するためにリーダーとその権力があるのであって、 リーダーのために共同体があるのではないのです。
 ですから、言うまでもなく、本来、リーダーは私利私欲のためになるものではありません。
 まして、リーダーの行なう調停や裁判が私利私欲のために行なわれるようなことがあってはならないのです。
 争いを裁く上での公正さは、リーダーの最重要の条件の1つです。
 菩薩は「貪り」という根本的な煩悩を超えなければなりませんが、「貪らない心(不貪)」こそ、リーダーの根本 的条件なのです。
 供応や賄賂への期待は、言うまでもなく貪り・私利私欲の心から生まれるものであり、菩薩的リーダーのもっと も避けるべきものです。
 しかし、第五条を読むと、〈太子〉の時代の実情は、ほとんど逆で、宴会を好み、賄賂を求める豪族・官僚が多 かったことがうかがわれます。

 五に曰く、あじわいのむさぼり(餮)を絶ち、たからのほしみ(欲)を棄てて、明らかに訴訟を弁(さ だ)めよ。それ百姓の訟(うったえ)は、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)るを、いわんや歳 を累(かさ)ねてをや。このごろ訟を治むる者、利を得るを常とし、賄(まいない)を見てはことわりを もうすを聴く。すなわち財あるものの訟は、石をもって水に投ぐるがごとし。乏しきものの訟は、水 をもって石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知らず。臣道またここに 闕(か)く。

 第五条 〔役人たるものは〕飲み食いの貪りを絶ち、金銭的な欲を捨てて、民の訴訟を明白に裁 くように。民の訴えは一日に千件にも及ぶほどである。一日でさえそうであるのに、まして歳を重ね ていくとますますである。このごろは、訴えを取り扱う者が私的利益を得るのが通常となってしま い、賄賂を取ってから言い分を聞いている。そのため、財産のある者の訴えは、石を水に投げ入 れるよう(に通るの)である。貧しい者の訴えは、水を石に投げかけるよう(に聴き入れられないの) である。こういうわけで、貧しい者は、どうしていいかわからなくなる。こうしたことでは、また君に仕 える官吏としての道が欠けるのである。

 成文法がなく慣習法だけだと、力があってしかも公正さを欠く権力者の勝手気ままに曲げられる危険がありま す。
 この時代、民の訴えも、族長への付け届けの高で、受け付けてもらえるかどうかが決まってしまうという実態 があったのだと推測されます。
 氏族が次第により規模の大きな国家へとまとまりつつあり、訴訟の件数も激増していたでしょう。
 こうした時に社会の平和が維持されるには、公正で迅速な裁判が不可欠です。
 ところが、「このごろは、訴えを取り扱う者が私的利益を得るのが通常となってしまい、賄賂を取ってから言い 分を聞いている」という状態だったようです。
 「そのため、財産のある者の訴えは、石を水に投げ入れるよう(に通るの)である。貧しい者の訴えは、水を石 に投げかけるよう(に聴き入れられないの)である」という比喩は状況を巧みに表現していて、臨場感がありま す。
 太子が、民と豪族たちの関係の現状をよく知っていたことの現われでしょう。
 「ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知らず」という言葉には太子の民への深い思いやりが感じられ、 「臣道またここに闕く」という豪族・リーダーたちへの厳しい忠告には、深い嘆きと怒りが感じられます。
 私たちの国は、いまだに利権のために政治家や官僚になり、賄賂によって公正でない公的決定が行なわれ ることが頻繁にあるという状態にあるようです。
 そういう意味で、幸か不幸か、『十七条憲法』は「済んだ過去の話」ではなく、依然として未来に向かう理想・到 達目標としての意味をまったく失っていない、と思うのです。

*中途になっていた『十七条憲法』の授業、ようやく再開です。1〜4条までの記事がだいぶ前になってし まいましたので、読者のみなさんの読みやすさを考え、少しだけ修正したうえで、近い日付に移動しまし た。更新記録をごまかそうという意図はありませんので、ご了承下さい。






勧善懲悪という当たり前のこと : 十七条憲法第六条
2007年2月8日 


 聖徳太子の目指す「和の国」は、第十五条を先取りしていえば、「公(おおやけ)」です。
 「おおやけ」という読みは「大きな家」を意味しています。
 日本を、リーダーとメンバーがそれぞれの果たすべき役割を果たしながら、助け合って穏やかに睦まじく暮ら していける大きな家族のような国にすることが、太子の夢だったといっていいでしょう。
 (これは、戦中・戦後スウェーデン社民党のリーダーだったハンソンの「国家は国民の家でなければならない」 という思想とまったくといっていいほど一致しています。)
 最終的には、すべての人が礼あるふるまいができるようになって、強制的な規制なしに自ずから治まる、いわ ば究極の「自治」を目指していたと考えられます(第四条参照)。
 そこに到るためには、当面は、まず徳のあるリーダーたちが模範・礼を示し、人々がそれをみならって礼を身 につけていくという「徳治」でいきたいと思っていたのではないでしょうか。
 しかし、そもそもサブ・リーダーたちからして、無明に覆われ、礼を知らないどころか、争いや貪りの心でいっ ぱいという現状を見ると、それも難しいので、まずせめてしっかりとした「法」を確立することによって治めること、 「法治」を考えざるをえなかったのでしょう。
 第六条には、そうした「法治主義」的な言葉が語られています。

 六に曰く、悪を懲(こ)らし善を勧むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって、人の 善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、 国家を覆す利器(りき)なり。人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。また佞(かだ)み媚(こ)ぶる者は、 上に対しては好みて下の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては上の失(しつ)を誹謗(そし)る。 それ、これらの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本(もと)なり。

 第六条 悪を懲らしめ善を勧めるのは、古くからのよいしきたりである。だから、他人の善を隠す ことなく、悪を見たらかならず正せ。へつらい欺く者は、国家を覆す鋭利な武器のようなものであ り、人民を絶えさせる鋭い刃の剣のようなものである。またおもねり媚びる者は、目上に対しては 好んで目下の過失の告げ口をし、目下に向かっては目上の過失を非難する。こういう人間はすべ て、君に対しては忠誠心がなく、民に対しては仁徳がない。これは、世の中の大乱の元である。

 ここで、「古くからのよいしきたり」と訳したのは、太子は、中国古典の話だけではなく、日本の稲作共同体の 伝統をも思い起こさせようとしているのだと解釈したからです。
 慣習法であれ成文法であれ、法によって治めようとすると、貪りを元に動いている人間は、法の網をかいくぐ って私腹を肥やそうと画策します。
 集団のメンバーの中に、悪事についてのかばいあいや逆になすりあいがあっては、せっかくの法も効果が薄 れてしまいます。
 集団が健全に機能するためには、「信賞必罰」が必須です。
 ところが、もともと私利私欲が動機で中間管理職的なポストについた豪族・官吏たちは、しばしば自己保身の ために上役の不正に加担したり、しないまでも見て見ぬふりをしがちだったのでしょう。
 また同じく自己保身のために、下から突き上げを食らうと、「悪いのは私ではない。上の人間なのだ。私は言 われてやっているだけで、しかたないのだ」といった言い訳をしたりしたようです。
 この風景は、いまでもあちこちの組織で見られるありふれた人間模様、凡夫の風景です。
 しかし、中級官僚たちのそうしたふるまいは、国民の大きな家・共同体としての国家を崩壊させ、その結果人 民の生活も崩壊させてしまいます。
 そうしたふるまいは、リーダーへの忠誠心がないというだけでなく、そもそも民たち・生きとし生けるものすべて を支え慈しむというサブ・リーダーの本来の役目を忘れた行為です。
 前条に続き、この第六条の「君に忠なく、民に仁なし」という言葉にも、太子の民への思いゆえの臣へのきわ めて強い怒りが表現されているように感じます。
 上司と部下の板ばさみの中でついつい自己保身だけを考えがちになる中間管理職的な官吏たちに、「そんな ことをしていたのでは、国が大混乱に陥ってしまうではないか。そうしたら苦しむのは多くの民だ。君たちの天か ら託されている仕事は民を慈しむことではないのか。そのためには、自己保身を図っていないで、上下に関わり なく公正に、善行は勧め表彰し、悪行は告発し罰しなければならないではないか」と厳しく勧告をしています。
 こんなある意味では当たり前のことを憲法に書かなければならなかった太子の思いは、察してあまりありま す。
 そして、現代日本社会の中間管理職的な人々の姿を見たとしたら、太子はどう思われ、どう言われるでしょう か。
 ともあれ、太子の勧告は、現代でもまた繰り返さなければならないものだ、と私には思えます。






賢者による政治 : 十七条憲法第七条
2007年2月11日


 第七条は、しばしば「プラトンの哲人国家の理想に似ている」と評されるところです。
 確かに「賢者による人民のための政治」という点では似ています。
 しかし、十七条憲法の「賢哲」は哲学者というよりは「聖」です。
 そして「賢哲」「聖」は第二条との関連でいえば、「菩薩」だと解釈すべきでしょう。
 太子が目指したのは、「菩薩による衆生のための政治」だったのではないでしょうか。

 七に曰く、人おのおの任あり。掌(つかさど)ること、濫(みだ)れざるべし。それ賢哲、官に任ずる ときは、頌(ほ)むる声すなわち起こり、?者(かんじゃ)、官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すな わち繁(しげ)し。世に、生まれながら知る人少なし。よく念(おも)いて聖(せい)となる。事、大少と なく、人を得てかならず治まる。時、急緩(きゅうかん)となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(かん) なり。これによりて、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危うからず、故に、古の聖王、官のために 人を求む。人のために官を求めず。

第七条 人にはそれぞれ任務がある。職掌が乱れてはならない。賢者が官に就く時、たちまち賞 賛の声が起こり、邪なものが官に就いている時は、災害や混乱がしばしばある。この世には生ま れながらにして聡明な人は少ない。よく真理を心にとめることによって聖者になる。事は大小にか かわらず、適任の人を得るとかならず治まるものである。時代が激しくても穏やかでも、賢者がい れば、自然にのびやかで豊かになる。これによって、国家は永久になり、人の群れは危うくなるこ とがない。それゆえに、古代の聖王は、官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設 けたりはしなかったのである。

 前条で、太子は官僚たちの現状を厳しく叱ったといってもいいのですが、それだけではなく、善は善として誉め る・顕彰するという方針も示しています。
 第七条ではさらに、「それにふさわしい人が官職に就いた時は、賞賛の声が起こるのだ。賞賛されたかった ら、それにふさわしい人間になる努力をせよ」とプライド・名誉心に訴えて、官僚たちに人格的成長への意欲を 湧かせようとしているかのようです。
 人間には天から命が与えられ、そして天命・天職が与えられるものだ、というのは儒教の基本的人間観・職業 観です。
 この世に生まれてきた以上、おのおのが人生で果たすべき任務があるのです。
 自分にはどういう任務・職掌が与えられているのか、それを取り違えてはならない、といわれています。
 高い地位すなわち大きな権限を委託される地位には、それにふさわしい賢者が就くべきであり、私利私欲の 強い邪まな人間が官職に就くと国家は大きく乱れてしまう。社会的混乱だけではなく天災まで襲ってくるのです。
 とはいっても、生まれつきそれにふさわしい智慧を持っている人はほとんどいません。
 しかし、真理をよく学びいつも心に留めるようすれば、誰でも聖者つまり菩薩になる潜在可能性を持っている、 というのは太子が大乗仏教から学んだ人間観です。
 それにふさわしい菩薩的リーダーがいれば、どんなに厳しい歴史的状況にあってもその国は平和でおのずか らゆったりと豊かになりうる、国家は持続可能になり、共同体が危機を脱出できる、というのです。
 太子の時代は、隋の拡大政策の影響で朝鮮半島が脅かされ、その影響を受けて高句麗、百済、新羅の間に も紛争が絶えないという厳しい時代でした。
 しかし太子が摂政になって間もなく、2度の新羅出兵が企てられながら太子の近親者の死(偶然ではない?) によって中止されて以降、太子が亡くなるまでは日本は対外戦争を行なっていません。
 近いところでは、第二次世界大戦中、ヨーロッパ全域が戦乱に巻き込まれているという厳しい状況の中、ハン ソン首相の指導下でスウェーデンがあえて徹底的な武装中立・平和を保ったことが思い出されます。
 賢明なリーダーの率いる国は、どんなに困難な状況にあってもなお平和で豊かな国を持続できる、愚かなリー ダーが率いる国は、天災と人災で大混乱に陥る、というのは歴史が実証しているところでしょう。
 「それゆえに、古代の聖王は、官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けたりはしなかった のである」というのは、トップ・リーダーの人材抜擢の大原則として現代にもそのまま通用するものです。
 そして太子の時代と違って、代議制民主主義の国・日本では、そもそも人材を抜擢する(例えば組閣)トップ・ リーダー(総理大臣)を選ぶサブ・リーダー(国会議員)を選ぶのは、一人の聖なる王ではなく、多数の民(国民) です。
 賢者を自分たちの代表として選出できるような、賢い国民が多くいれば、どんなに困難な時代であっても、必 ず乗り切れる。多数の国民が賢くなければ、愚かなリーダーが選ばれ、愚かなリーダーに率いられた国は必然 的に持続不可能になってしまうでしょう。
 それはあまりにもシビアな「当たり前の話」ですが、これからの日本はどうなるのでしょう、というより、私たち国 民は日本をどうしたいのでしょうか。






民のために働き続ける覚悟を : 十七条憲法第八条
2007年2月21日


 本(『聖徳太子『十七条憲法』を読む』大法輪閣)でも書きましたが、実のところ、この第八条は全十七条の中 でもっともうまく読み取れないところでした。
 一読すると、まるで「役職はサービス残業当たり前」という話のように感じられるからです。
 人間を大切にする心を持っておられる太子も、さすがに勤務時間に関しては労働基準法のない時代の意識し かなかったのかな、と。

 八に曰く、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。公事?(いとま)なし。終日(ひね もす)にも尽くしがたし。ここをもって、遅く朝(まい)るときは急なることに逮(およ)ばず。早く退(ま か)るときはかならず事尽くさず。

 第八条 もろもろの官吏たちは、朝早く出仕し夕方遅くに退出せよ。公の仕事には油断する暇は ない。一日すべてでも終わらせがたい。だから、朝遅く出仕するならば、緊急のことに間に合わな い。早く退出するならば、かならず仕事を成し遂げられなくなるだろう。

 しかし、繰り返し全条を読むうちに、この条は例えば第五条の「それ百姓の訟(うったえ)は、一日に千事あり。 一日すらなお爾(しか)るを、いわんや歳を累(かさ)ねてをや。…ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知 らず」や、第六条の「人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。…民に仁なし」、そして直前の第七条の「それ賢哲、官に 任ずるとき…官のために人を求む」といった文脈で、菩薩的リーダーへの勧告として読む必要があることに気 づきました。
 菩薩の衆生への慈悲、士大夫(したいふ、儒教でいうエリート、士・さむらいの語源の一つ)として民への仁を 志とした人間にとっては、生きることは使命を果たすことであって、楽をすることやもうけることや地位を得ること のためにあるのではありません。
 そういう意味で、生きることは働くことなのです(それはもちろん過労死しない程度の最小限の休養も必要ない ということではないでしょうが)。
 さまざまな苦しみ・問題を抱えている数え切れない数の民たちのための公・大きな家の仕事には、切りも終わ りもありません。
 「終日(ひねもす)」、朝早くから夜遅くまで一日中取り組んでも、まだ時間が足りません。
 まして、朝気の向いた時間にゆったりと出てきたり、気が向かないから夕方早く帰ってのんびりしようなどと思 っていたのでは、民たちのための緊急の「事」・事態への対応がどんどん遅れ、手遅れになりかねません。
 可能なかぎり、力の及ぶかぎり働き続ける覚悟がないのなら、リーダーにはならないことです。
 本当のエリートとは、民たちのために働くように選ばれた者なのですから。
 「きみたちがエリートであるということは、勤務時間自由の特権階級ということではない。時間の許すかぎり、 力の及ぶかぎり、力尽きるまで、民のために働く覚悟をせよ」というのが太子の言いたかったことなのではない でしょうか。
 この個所は、ふつうの人(凡夫)に対する強制的な就業規則ではない、ということに注意して読む必要がありま した。
 これは、菩薩への布施と精進の勧告なのです。
 この条をそう読めた時、「私もどこまでできるかわからないけれど、精一杯そうしたい、そうありたい」と熱い思 いが湧いてきました。
 まあ、でも、論理療法を学んで以来、「ありたい」と「あらねばならない」とは区別して考えるようになっているの で、あくまでも「ありたい」にとどめて、無理はしないつもりですが……。
 でも、有限な人生、自分で自分に納得のいく生き方はしたい、と思うのです。






誠実さがすべての根本である : 十七条憲法第九条
2007年2月27日


 「信」は、儒教では5つの基本的徳目、仁・義・礼・智・信の1つです。
 仏教では、心の善の働きの第一にあげられています。
 第九条の「信」は、まず儒教的な意味で語られています。
 群臣・官僚・リーダー同士での誠実さに基づく信頼関係という意味です。
 自ら省みて恥じるところがなく、他に照らしても恥じるところがなく、そして天の声を聴いても間違いないと思わ れる態度のことを「信・誠実」といいます。
 太子は、あらゆる事にそういう信の態度をもって臨むように、といわれます。

 九に曰く、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣と もに信あるときは、何事か成らざらん。群臣信なきときは、万事ことごとくに敗れん。

 第九条 誠実さは正しい道の根本である。何事にも誠実であるべきである。善も悪も、成功も失 敗も、かならず誠実さのあるなしによる。官吏たちがみな誠実であれば、どんなことでも成し遂げら れないことはない。官吏たちに誠実さがなければ、万事ことごとく失敗するであろう。

 いうまでもなく、「隠れてやってバレなければ平気だ。隠れてうまくやったものの勝ちだ」という考え方は、信の 真っ逆さまです。
 誠実さがなければ、ついそう考えて悪に走る、というのは当たり前のことです。
 しかし、太子は誠実さは善悪だけではなく、事の成否をも決めるのだ、といっておられます。
 誠実でなくても短期間なら人をだまし世をあざむいてうまくやる、つまり個人的に成功することはできます。
 しかし、人も世も中長期だまし通せるほど甘くはないのではないでしょうか。
 誠実でない人は、結局人との持続可能な信頼関係を形成できません。
 他者の持続的な協力なしには、大きな事は成功しません。
 他者の持続可能な協力を得るには、持続可能な信頼関係を確立しなければなりません。
 まして「和の国・日本」の建設というきわめて困難な大事には、リーダー間の深い信頼関係が必須です。
 そのためには、各人に深い誠実の心が必要なのです。
 信=誠実と信頼関係――実はこれは人間同士だけではなく、人間を超えた大いなる何ものか(神仏・天)との 関係にも言えることで、仏教的な意味も含まれていると思います――があれば、「何事か成らざらん」、どんな困 難なプロジェクトでもきっと成功する。信がなければ、必ず失敗する。
 この「何事か成らざらん」という言葉は、第一条にあった言葉の繰り返しで、つまり十七条のちょうど真ん中・核 心にあたる部分で、もう一度強調されているのだ、と理解していいでしょう。
 「和の心、信の心をもって当たれば、どんな困難なことも実現可能である」というのが太子の信念であり、千四 百年を経た今でも響いている日本国民へのメッセージなのではないでしょうか。
 そのメッセージを聴き取れるかどうかに日本の将来がかかっている、と私には思えてなりません。






十七条憲法第十条
2008年1月3日


*記事を書く時間がなかなか取れないので、まず条文の残りと現代語訳を掲載して、折を見ながら解説を書き 加えていこうと思います。


十に曰く、こころの忿(いか)りを絶ち、おもての瞋(いか)りを棄てて、人の違(たが)うことを怒らざ れ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とする。われ是とすれ ば、かれは非とす。われはかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡 夫(ぼんぷ)のみ。是非の理、?(たれ)かよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみが ね)の端なきがごとし。ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(あやまち) を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

第十条 心の中の怒りを絶ち、表情に出る怒りを捨て、人が逆らっても激怒してはならない。人に はみなそれぞれの心がある。その心にはおのおのこだわるところがある。彼が正しいと考えること を、私はまちがっていると考え、私が正しいと考えることを、彼はまちがっていると考える。私がか ならずしも聖者であるわけではなく、彼が愚者であるわけではない。どちらも共に凡夫にすぎない のである。正しいかまちがっているかの道理を、誰が〔絶対的に〕判定できるだろうか。お互いに賢 者であり愚者であるのは、金の輪にどこという端がないようなものである。このゆえに、他人が〔自 分に対して〕怒っても、むしろ自分のほうに過失がないか反省せよ。自分一人が真理をつかんでい ても、多くの人に従って同じように行動せよ。






十七条憲法第十一条
2008年1月3日


 十一に曰く、功過(こうか)を明らか(あきらか)に察(み)て、賞罰はかならず当てよ。このごろ賞 は功においてせず、罰は罪(つみ)においてせず。事を執る群卿(ぐんけい)、賞罰を明らかにすべ し。

第十一条 功績と過失を明らかに観察して、賞罰をかならず正当なものにせよ。最近は、功績に 賞を与えず、罪に罰を与えないことがある。政務を執る官吏たちは、賞罰を明快にすべきである。






十七条憲法第十二条
2008年1月3日 


 十二に曰く、国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なし。民に両主なし。率土 (そつど)の兆民は王をもって主となす。所任の官司はみなこれ王民なり。何ぞあえて公(おおや け)と、百姓に賦斂(おさめと)らん。

第十二条 もろもろの地方長官は、民たちから〔勝手に〕税を取り立ててはならない。国に二君は なく、民に二人の君主はいない。国すべての多数の民は天皇を君主とする。任命された官吏はみ な天皇の民である。公的な税の他に私的な税を取り立てることが許されるはずはない。






十七条憲法第十三条
2008年1月3日


十三に曰く、もろもろの官に任ぜる者、同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病(やまい)し、あ るいは使して、事を闕(おこた)ることあらん。しかれども知ることを得る日には、和(あまな)うこと むかしより識(し)れるがごとくにせよ。それ与(あずか)り聞かずということをもって、公務(こうむ) をな妨げそ。

第十三条 もろもろの官職に任命された者は、お互いに職務内容を知り合うようにせよ。あるいは 病気になったり、あるいは出張して、仕事ができないことがあるだろう。しかし〔復帰して〕職務内容 を知ることができたら、協力して以前からずっと了解し合っていたとおりにせよ。自分が参加せず 話を聞いていないからといって、公務を妨げることのないようにせよ。






十七条憲法第十四条
2008年1月3日 


 十四に曰く、群臣百寮(ぐんけいひゃくりょう)、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉(うらや) むときは、人またわれを嫉む。嫉妬の患(うれ)え、その極(きわまり)を知らず。このゆえに、智お のれに勝るときは悦ばず、才おのれに優るときは嫉妬(ねた)む。ここをもって五百歳にしていまし 今賢に遇(あ)うとも、千載(せんざい)にしてひとりの聖を待つこと難し(かた)。それ賢聖を得ず ば、何をもってか国を治めん。

第十四条 もろもろの官吏は、嫉妬があってはならない。自分が妬めば、人もまた自分を妬む。嫉 妬のもたらす災いは限界がない。それゆえに、〔人の〕知恵が自分より勝っていると喜ばず、才能 が自分より優れていると嫉妬する。そういうわけで、五百年たってようやく今現われた賢者に出遭 うことも、千年に一人の聖人を待つこともできない。〔だが〕賢者・聖人が得られなければ、何によっ て国を治めることができるというのだろうか。






十七条憲法第十五条
2008年1月3日 


 十五に曰く、私(わたくし)を背きて公(おおやけに向(ゆ)くは、これ臣の道なり。おおよそ人、私 あるときはかならず恨みあり。憾(うら)みあるときはかならず同(ととのお)らず。同らざるときは私 をもって公を妨ぐ。憾み起こるときは制に違(たが)い、法を害(やぶ)る。ゆえに初めの章に云う、 上下和諧せよ、と。それまたこの情(こころ)か。

第十五条 私利・私欲に背を向け公の利益に向かうことこそ、貴族・官吏の道である。おおよそ人 に私心があるときにはかならず人を恨むものであり、恨みを抱けば共同できない。共同しなけれ ば、私心で公務を妨げることになる。恨みが起これば、制度に違犯し、法を侵害することになる。 それゆえに最初の章で、上下和らぎ協力せよ、と言ったのである。それもまた、この趣旨を述べた のである。






十七条憲法第十六条
2008年1月3日


 十六に曰く、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ゆえに、冬の月に 間(いとま)あらば、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節なり。民を使 うべからず。それ農(なりわい)せずば、何をか食らわん。桑(くわと)らずば何をか服(き)ん。

第十六条 人民を使うに時期を選ぶのは、古来のよいしきたりである。それゆえ、冬の月に暇があ るようなら、民を使うべきである。春から秋に到るまでは、農繁期である。民を使ってはならない。 いったい農耕しなかったならば、何を食べるのであろうか。養蚕しなければ何を着るのであろうか。






十七条憲法第十七条
2008年1月3日


 十七に曰く、それ事はひとり断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし。少事 はこれ軽(かろ)し。かならずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あ やまち)あらんことを疑う。ゆえに衆と相弁(あいわきま)うるときは、辞(こと)すなわ理(り)を得 (え)ん。

第十七条 そもそも事は独断で決めるべきではない。かならず、皆と一緒に議論すべきである。小 さな事は軽いので、かならずしも皆と相談する必要はない。ただ大きな事を議論するに当たって は、あるいは過失がありはしないかと疑われる。それゆえに皆と互いに是非を検証し合えば、その 命題が理にかなうであろう。






美しかった日本
2007年10月4日


 最近、人から「名著です」と紹介されて、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社)を読みました。
 まさに名著、感動的でした。
 そこに引用された幕末から明治初期にかけて来日した欧米人たちの報告する日本の姿は、川端康成風に言 えばまさに「美しい日本」でした。
 一部を抜粋・引用してご紹介します。


 まず、「第二章 陽気な人びと」です。

 十九世紀中葉、目本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国 民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。ときには辛辣に日本を批判したオールコックさ え、「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思わ れる」と書いている。ペリーは第二回遠征のさい下田に立ち寄り「人びとは幸福で満足そう」だと感じた。 ペリーの四年後に下田を訪れたオズボーンには、町を壊滅させた大津波のあとにもかかわらず、再建さ れた下田の住民の「誰もがいかなる人びとがそうありうるよりも、幸せで煩いから解放されているように見 えた」。
 ティリー(生没年不詳)は一八五八年からロシア艦隊に勤務し、五九(安政六)年その一員として訪日した 英国人であるが、函館での印象として「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」という。……
 一八六〇(万延元)年、通商条約締結のため来日したプロシャのオイレンブルク使節団は、その遠征報 告書の中でこう述べている。「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのか もしれない」。また一八七一(明治四)年に来朝したオーストリアの長老外交官ヒューブナー(一八一一〜九 二)はいう。「封建制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれ何と考えられよ うが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るま で、人々は幸せで満足していたのである」。

 続けてご紹介したいと思いますが、私たちの学んだ日本史では、江戸時代は「封建的」でひたすらひどい時代 だったという印象を与えられてきましたが、まったく違った一面――もちろんひどい面があったことも事実でしょ う――があったことを知り、その面の美しさに感動させられたのです。
 庶民が満足し幸福である国こそ「美しい国」なのではないでしょうか。






簡素で豊かだった日本
2007年10月5日


 昨日に続いて、『逝きし世の面影』の「第三章 簡素と豊かさ」から引用・紹介をします。


 日本が地上の楽園などである はずがなく、にもかかわらず人びとに幸福と満足の感情があらわれてい たとすれば、その根拠はどこに求められるのだろうか。当時の欧米人の著述のうちで私たちが最も驚か されるのは、民衆の生活のゆたかさについての証言である。そのゆたかさとはまさに最も基本的な衣食 住に関するゆたかさであって、幕藩体制下の民衆生活について、悲惨きわまりないイメージを長年叩きこ まれて来た私たちは、両者間に存するあまりの落差にしばし茫然たらざるをえない。一八五六(安政三)年 八月日本に着任したばかりのハリスは、下田近郊の柿崎を訪れ次のような印象を持った。

 「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあ らゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。 彼らの家屋は必要 なだけの清潔さを保っている」。むろんハリスはこの村がゆたかだと言っているのではない。それは貧し い、にもかかわらず不潔ではないと言っているだけだ。しかし彼の観察は日を追うて深まる。次にあげる のは十月二十三日の日記の一節である。「五マイルばかり散歩をした。ここの田園は大変美しいいくつか の険しい火山堆があるが、できるかぎりの場所が全部段畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されてい る。これらの段畑中の或るものをつくるために、除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがあ る」。十月二十七日には十マイル歩き、「日本人の忍耐強い勤労」とその成果に対して、新たな讃嘆をお ぼえた。翌二十八日には須崎村を訪れて次のように記す。「神社や人家や菜園を上に構えている多数の 石段から判断するに、非常に古い土地柄である。これに用いられた労働の総量は実に大きい。しかもそ れは全部、五百か六百の人口しかない村でなされたのである」。ハリスが認知したのは、幾世代にもわた る営々たる労働の成果を、現前する風景として沈澱させ集積せしめたひとつの文化の持続である。むろ んその持続を可能ならしめたのは、このときおよそ二百三十年を経ていたいわゆる幕藩体制にほかなら ない。

 彼は下田の地に、有名な『日本誌』の著者ケンペル(一六五一〜一七一六)が記述しているような花園 が見当たらぬことに気づいていた。そしてその理由を、「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、 ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ」と考えていた。ところがこ の記述のあとに、彼は瞠目に値する数行をつけ加えずにおれなかったのである。「それでも人々は楽しく 暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当りもよくて気 持がよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っていると ころはあるまい」。これは一八五六年十一月の記述であるが、翌五七年六月、下田の南西方面に足を踏 みこんだときにも、彼はこう書いている。「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を一人も見て いない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきがよい。彼らが 十分に食べていないと想像することはいささかもできない」。

 ハリスはこのような記述を通して何を言おうとしたのか。下田周辺の住民は、社会階層として富裕な層 に属しておらず、概して貧しいということがまず第一である。しかしこの貧民は、貧に付き物の悲惨な兆候 をいささかも示しておらず、衣食住の点で世界の同階層と比較すれば、最も満足すべき状態にある―― これがハリスの陳述の第二の、そして瞠目すべき要点だった。ちなみに、ハリスは貿易商としてインド、東 南アジア、中国を六年にわたって経めぐって来た人である。

 プロシャ商人リュードルフはハリスより一年早く下田へ来航したのであるが、近郊の田園について次の ように述べている。「郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の 際までことごとく耕作されている。恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほし いというものが何でも、この幸せな国に集まっている」。彼は下田に半年しか滞在しなかったのだから、美 事な稲田の耕作者たちが領主階級の収奪を受けていないかどうかという点にまで、観察を行き届かせた わけではない。だが彼の記述はハリスのそれの信憑性に対する有力な傍証であるだろう。もし住民が悲 惨な状態を呈しているのなら、地上のパラダイスなどという形容が口をついて出るはずがない。

 おなじ安政年間の長崎については、カッテンディーケの証言がある。彼の長崎滞在は安政四年から六 年にわたっており、その間、鹿児島、対馬、平戸、下関、福岡の各地を訪れている。彼はいう。「この国が 幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が何よりの証拠である。百姓も日傭い労働者も、皆十分な 衣服を纏い、下層民の食物とても、少なくとも長崎では申し分のないものを摂っている」。この観察もハリ スの陳述をほぼ裏書きするものといってよかろう。すなわちここでも、日本の民衆は衣と食の二点で十分 みたされているものと見なされているのだ。……

 オールコックは一八五九(安政六)年日本に着任したが、神奈川近郊の農村で「破損している小屋や農 家」をほとんど見受けなかった。これは彼の前任地、すなわち「あらゆる物が朽ちつつある中国」とくらべ て、快い対照であるように感じられた。男女は秋ともなれば「十分かつ心地よげに」衣類を着ていた。「住 民のあいだには、ぜいたくにふけるとか富を誇示するような余裕はほとんどないにしても、飢餓や窮乏の 徴候は見うけられない」というのが、彼の当座の判定だった。これはほとんどハリスとおなじ性質の観察と いってよい。

 しかし一八六〇(万延元)年九月、富士登山の折に日本の農村地帯をくわしく実見するに及んで、オール コックの観察はほとんど感嘆に変った。小田原から箱根に至る道路は「他に比類のないほど美し」く、両 側の田畑は稔りで輝いていた。「いかなる国にとっても繁栄の物質的な要素の面での望ましい目録に記 入されている」ような、「肥沃な土壌とよい気候と勤勉な国民」がここに在った。登山の帰路は伊豆地方を 通った。肥沃な土地、多種多様な農作物、松林に覆われた山々、小さな居心地のよさそうな村落。韮山 の代官江川太郎左衛門の邸宅を通り過ぎたとき、彼は「自分自身の所在地や借家人とともに生活を営む のが好きな、イングランドの富裕な地主とおなじような生活がここにあると思った」。波打つ稲田、煙草や 綿の畑、カレーで味つけするととてもうまいナスビ、ハスのような葉の水分の多いサトイモ、そしてサツマイ モ。「立派な赤い実をつけた柿の木や金色の実をつけた柑橘類の木が村々の周囲に群をなしてはえてい る」。百フィート(約三十メートル)以上の立派な杉林に囲まれた小さな村。一本の杉の周囲を計ると十六フ ィート三インチ(約五メートル)あった。山峡をつらぬく堤防は桃色のアジサイで輝き、高度が増すにつれて 優雅なイトシャジンの花畑がひろがる。山岳地帯のただ中で「突如として百軒ばかりの閑静な美しい村」 に出会う。オールコックは書く。「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し陣吟させられている 抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切って、非 常なゆたかさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見ていると、こ れが圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。むしろ反対 に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富 な風土はどこにもないという印象を抱かざるをえなかった」。

 熱海に彼はしばらく滞在した。「これほど原始的で容易に満足する住民」は初めて見たと彼は思った。 ……「村民たちは自分たち自身の風習にしたがって、どこから見ても十分に幸福な生活を営んでいる」の だと彼は思った。……たしかに「そこにおいては封建領主がすべてであって、下層の労働者階級はとるに 足らぬものである」。しかし現実に彼の眼に映るのは「平和とゆたかさと外見上の満足」であり、さらには 「イギリスの田園にけっして負けないほど、非常に完全かつ慎重に耕され手入れされている田園と、いた るところにいっそうの風致をそなえている森林」である。ケンペルは二世紀も前に、「彼らの国は専制君主 に統治され、諸外国とのすべての通商と交通を禁止されているが、現在のように幸福だったことは一度も なかった」と述べているが、結局彼は正しかったのではないか。この国は「成文化されない法律と無責任 な支配者によって奇妙に統治されている」にもかかわらず、「その国民の満足そうな性格と簡素な習慣の 面で非常に幸福」なのだ。次の一節はこの問題に関する彼の省察の結語といっていい。「とにかく、公開 の弁論も控訴も情状酌量すら認めないで、盗みに対しても殺人に対するのとおなじように確実に人の首 をはねてしまうような、荒っぽくてきびしい司法行政を有するこれらの領域の専制的政治組織の原因と結 果との関連性がどうあろうとも、他方では、この火山の多い国土からエデンの園をつくり出し、他の世界と の交わりを一切断ち切ったまま、独力の国内産業によって、三千万と推定される住民が着々と物質的繁 栄を増進させてきている。とすれば、このような結果が可能であるところの住民を、あるいは彼らが従って いる制度を、全面的に非難するようなことはおよそ不可能である」。


 タイトルがみごとに言い当てているように、幕末、明治初期の日本は簡素で豊かな国だったようです。
 けっして贅沢ではないけれども悲惨な貧困ではなく、庶民は「簡素」と表現できるようなつましく堅実で、そして 清潔で美しさを感じられる生活をしていたというのです。
 「封建制=圧制と貧困の悪の体制」という印象で教えられてきたことは、いったいなんだったのでしょう。
 著者の渡辺氏も言っておられるように、もちろんこの時代にダークサイドがなかったというのではありません。
 しかし総体として、きわめて明るい面をもっており、その面を見るかぎり「恐らく日本は天恵を受けた国、地上 のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている」とまで絶賛されるような 「美しい国」だったようです。
 幕末−戦前−敗戦−70年代という歴史的プロセスを経て、こうした日本が次第に失われつつあり、いまや絶 滅寸前の危機にある、というのが私の見方です*。






和の国日本の実現
2007年10月6日


 引き続き、『逝きし世の面影』「第四章 親和と礼節」から引用・紹介させていただきます。


……江戸社会の重要特質のひとつは人びとの生活の開放性にあった。外国人たちはまず日本の庶民の 家屋がまったくあけっぴろげであるのに、度肝を抜かれた。オールコックはいう。「すべての店の表は開け っ放しになっていて、なかが見え、うしろにはかならず小さな庭があり、それに、家人たちは座ったまま働 いたり、遊んだり、手でどんな仕事をしているかということ朝食・昼寝・そのあとの行水・女の家事・はだか の子供たちの遊戯・男の商取り引きや手細工などがなんでも見える」。……

 家屋があけっぴろげというのは、生活が近隣に対して隠さず開放されているということだ。したがって近 隣には強い親和と連帯が生じた。家屋が開放されているだけではなく、庶民の生活は通路の上や井戸・ 洗い場のまわりで営まれた。子どもが家の中にいるのは食事と寝るときで、道路が彼らの遊び場だった。 フォールズが述べている。「日本人の生活の大部分は街頭で過され、従ってそこで一番よく観察される。 昔気質の日本人が思い出して溜息をつくよき時代にあっては、今日ふさわしいと思われるよりずっと多く の家内の出来ごとが公衆の目にさらされていた。……家屋は暑い季節には屋根から床まで開け放たれ ており……夜は障子がぴったりと引かれるが、深刻な悲劇や腹の皮のよじれる喜劇が演じられるのが、 本人たちは気づいていないけれど、影に映って見えるのである」。……

 開放されているのは家屋だけではなかった。人びとの心もまた開放されていたのである。客は見知らぬ ものであっても歓迎された。ルドルフ・リンダウは横浜近郊の村、金沢の宿屋に一泊したとき、入江の向 い側の二階家にあかあかと灯がともり、三味線や琴で賑わっているのに気づいた。何か祝い事をやって いるのだろうと想像した彼は、様子を見たく思ってその家を訪ねた。「この家の人々は私の思いがけぬ訪 問に初めは大層驚いた様子であったし、不安を感じていたとさえ思えた。だが、この家で奏でられる音楽 をもっと近くから聞くために入江の向うからやって来たのだと説明すると、彼らは微笑を漏らし始め、よう こそ来られたと挨拶した」。二階には四組の夫婦と二人の子ども、それに四人の芸者がいた。リンダウ は、歓迎され酒食をもてなされ、一時間以上この「日本人の楽しい集い」に同席した。彼らは異邦人にびく びくする様子はなく、素朴に好奇心をあらわして、リンダウの箸使いの不器用さを楽しんだ。そして帰途は わざわざリンダウを宿屋まで送り届けたのである。これは文久二(一八六二)年の出来ごとであった。

 通商条約締結の任を帯びて一八六六(慶応二)年来日したイタリア海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨン (一八三〇〜九七)も、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国はほかにはない」と感じた一人だ が、彼が「日本人の暮らしでは 、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、 進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階層にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しな いような人間だけである」と記しているのは留意に値する。つまり彼は、江戸峙代の庶民の生活を満ち足 りたものにしているのは、ある共同体に所属することによってもたらされる相互扶助であると言っているの だ。その相互扶助は慣行化され制度化されている面もあったが、より実質的には、開放された生活形態 がもたらす近隣との強い親和にこそその基礎があったのではなかろうか。

 開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった。われわれは江戸時代において、ふつう の町屋は夜、戸締りをしていなかったことをホームズの記述から知る。しかしこの戸締りをしないというの は、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だったらしい。ましてや農村で戸締りをする家はなかっ た。アーサー・クロウは明治十四年、中山道での見聞をこう書いている。「ほとんどの村にはひと気がな い。住民は男も女も子供も泥深い田圃に出払っているからだ。住民が鍵もかけず、何らの防犯策も講じ ずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている」。……

 平和で争いのない人びとはまた、観察者によれば礼譲と優雅にみちた気品ある民であった。ボーヴォ ワルは、立ち寄った商店の女がお茶と煙草をすすめる仕草に感心し、「庶民の一婦人のこの優雅さ」から すれば、「われわれを野蛮入扱いする権利」をたしかに日本人に認めないわけにはいかないと感じた。街 ゆく人びとは「誰彼となく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口もとにほほえみを絶やさな い」。田園をゆけば、茶屋の娘も田圃の中の農夫もすれちがう旅人も、みな心から挨拶の言葉をかけてく れる。「その住民すべての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか。……地球上最も礼儀正しい民族 であることは確かだ」。……

 しかし画家ラファージ(一八三五〜一九一〇)は、日本人の礼節に「自由の感情」あるいは「民主的と呼 んでよさそうなもの」を感じた。これはチェンバレンの感じたことに非常に近い。だが、封建制≠るい は身分制度の一表現でもあるはずの丁重な礼儀作法が、ある種の自由や自立に通じるという逆説に は、ここでは深入りを避けよう。それよりも問題として重要なのは、観察者に深いおどろきを与えた日本 人の礼儀正しさが、彼らがこぞって認めた当時の人びとの特性、無邪気で明朗、人がよく親切という特性 のまさに要めに位置する徳目だということだ。その点を明瞭に認識したのはエドウィン・アーノルドである。

 「都会や駅や村や田舎道で、あなたがたの国のふつうの人びとと接してみて、私がどんなに微妙なよろ こびを感じたか、とてもうまく言い表わせません。どんなところでも、私は、以前知っていたのよりずっと洗 練された立ち振舞いを教えられずにはいなかったのです。また、ほんとうの善意からほとばしり、あらゆる 道徳訓を超えているあの心のデリカシーに、教えを受けずにはいられませんでした」。東京クラブでこう語 ったとき、アーノルドは日本人の礼儀正しさの本質をすでに見抜いていたのだった。

 彼によるとそれは、この世を住みやすいものにするための社会的合意だったのである。「日本には、礼 節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育 ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男 でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を 吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤 ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのであ る」。「この国以外世界のどこに、気持よく過すためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許 すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万 人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な 抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、 美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへ のこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦 人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心――この国 以外のどこにこのようなものが存在するというのか」。「生きていることをあらゆる者にとってできるかぎり 快いものたらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、心に悲嘆を抱いている のをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませることをすまいとする習慣 をも含意している」。

 いまこそわれわれは彼が次のように述べた訳が理解できるだろう。「国民についていうなら、『この国は わが魂のよろこびだ』という高潔なフランシスコ・シャヴィエルの感触と私は一致するし、今後も常にそうで あるだろう。都会や町や村のあらゆる階層の日本人のあいだですごした時ほど、私の日々が幸福かつ静 澄で、生き生きとしていたことはない」。アーノルドは一八八九年(明治二十二)年十一月に来日し、麻布に 家を借りて娘と住み、九一年一月に日本を離れた。彼は九七年に日本人女性と結婚したそうだが、日本 讃美者にありがちな幻滅が晩年の彼を襲ったかどうか私は知らない。しかしそれはどうだって構わないこ とだ。私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持のよいものに しようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情 愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことので きる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表われていたのは、故なきことではなかったので ある。


 ぜひご紹介したいので、長い長い引用になりました。
 この本に教えられて私も著者と共に、「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をでき うるかぎり気持のよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと 言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝 えあうことのできる社会だった。当時の人びとに幸福と満足の表情が表われていたのは、故なきことではなかっ たのである。」と言いたくなりました。
 江戸末期、日本は聖徳太子以来の国家理想「和の国日本」を相当なレベルで実現していたように思えます。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所