目次


大乗仏教(再掲)

*般若経典の学びを続けながら折にふれて書いてきた記事が、かなり溜まってきましたので、まとめて読 んでいただくと参考にしていただけるかなと思い、目次を作りました。まとめて読んで、感想をいただける と幸いです。






大乗仏教
2006年1月9日


 西暦一世紀前後、「大乗」と自称した新しい仏教の流れが興ります。
 先にもいいましたが、それまでの流れを批判して、「自分だけが学んで、自分だけが瞑想して修行して、自分 だけが覚るというのは、それはいわば、迷いのこちららの岸から覚り・救いの向こう岸に行くのに、自分一人し か乗れない小さな乗り物・小乗だ。それに対して自分たちは、自分だけではなくてみんなで一緒に迷いや苦しみ や悩みのあるこの世界から、そういうことがすべてなくなった向こうの世界にみんなで渡って行こうとする。そう いう大きな乗り物なのだ」と主張する流れです。
 こうして、「小乗仏教」と「大乗仏教」という違いが出来たのですが、「小乗仏教」という言い方は、あくまでも大 乗の側から見たやや偏りがある批判といえないこともありません。
 かつて「小乗」と呼ばれた流れが、今日まで東南アジアに伝えられていて、上座部またはテーラヴァーダといい ます。
 実際に行って修行した方たちから聞いた印象では、そのお坊さんたちの修行の深さや境地の深さ、行ないの 清らかさに関しては、「大乗仏教」を自称している日本のお坊さんたちの多くよりも徹底しているようです。
 そういう意味で、必ずしも「小乗仏教はだめ」とか、「劣っている」といえないところがあるようです。
 それはもちろん平均的なレベルの話で、東南アジアにも堕落した僧はいるでしょうし、日本にも立派なお坊さ んはおられます。
 しかし、私の知る範囲では、特に戒律をちゃんと守っているかどうかという基準で、全体として平均的なレベル を比べると、どうも日本のお坊さん方はかなわないという評が多いようです。
 けれども、少なくとも、救いの目標を自分自身の覚りや救いにとどめず、自分と人々、さらに生きとし生けるも のすべて(衆生・しゅじょう)と一緒に救われる・覚ることを目標にしたという点では、大乗の主張にはある種の妥 当性がある、と私は評価しています。
 大乗を主張する新しい経典として、紀元1世紀前後から、まず『般若経(はんにゃきょう)』のさまざまなタイプ のものが生まれてきます。
 『般若経』の一番最初のものは、八千ほどの詩句でできている『八千頌般若経(はっせんじゅはんにゃきょう)』 だろうといわれています。
 それがだんだん広げられ大きくなっていって、『十万頌』のものまで作られていきます。
 やがて長くなりすぎた『般若経』のエッセンスを最小限にまとめたものが、日本人なら誰でも知っているといっ てもいいほど有名な『般若心経(はんにゃしんぎょう)』です。
 そうした『般若経』で語られている「空(くう)」の思想は、以下の定型句とその意味が示しているように、ブッダ から部派仏教までの教えを含んで超えるものだといっていいでしょう。
 「縁起だから空である」=「縁によらないで起こっているものは何もない」
 「無自性(むじしょう)だから空である」=「変わることのないそれ自身の本性をもったものは何もない」
 「無常だから空である」=「いつまでもあるものは何もない」
 「無我だから空である」=「実体として存在しているものは何もない」
 「苦だから空である」=「〔最終的な意味で〕自分の思いどおりにできるものは何もない」
 これらのコンセプトに共通している「何もない」というニュアンスを「空」という一言でまとめ、かつ深めて捉えた のだと考えられます。
 ですから、「空」は、ありのままのほんとうの世界は「すべてがつながりあっていて、けっきょくは一つ」という面 からいえば、「一」「一如」「真如」と表現することもできる事実を示しているのです。
 この「空」という言葉とちょうど逆なのが、「実体」というコンセプトです。
 西洋の哲学的な言葉の翻訳で、「他のものとの関わりなしに、変わることのないそれ自身の本性をもってい て、いつまでも存在できる」ようなものを「実体」と呼びます。
 「空」はまさにその正反対ですから、「実体がない」「無実体」あるいは「非実体」と言い換えることもできます。
 この「空」という事実を覚ることが無明を克服することであり、すべての苦を超えることになるというのです。
 「空」を覚ることは、「空」という思想を知ることとは違うことですが、まず知らないことには覚りたいという気にも なりませんから、次回から、もうすこしくわしく、でもできるだけわかりやすく「空」思想についてお話していくことに しましょう。






言葉を止めると心は爽やか
2006年10月18日 





 最近、鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』を、少しずつ読んでいます。
 昨日読んだところにあった句が、実に深く的確だなあと思いました。

 「シャーリプトラよ、ただ言葉があるので菩提(覚り)だというのである。ただ言葉があるので菩薩だとい う。……〔しかし〕言葉は、直接的原因と間接的原因が結びついて作られたものにすぎず、ただ分別し想 定して仮に名前で呼ぶだけのことである。そういうわけで、菩薩・大士は、般若波羅蜜を実践する時、一 切の言葉を見ることをしない。見ないので、執着することもないのである。」(私訳)

 覚りを求めている人=菩薩が、深い智慧=般若波羅蜜の修行を実践する時には、心の中で言葉がめぐり、 分別知が働くことを、徹底的に休止させていきます。
 その場合、自分が「覚り」を求めているとか、自分は菩薩だとかいうことさえも忘れてしまうのです。
 「覚りたい」とか「すぐれた菩薩になりたい」という願い・欲求さえも、もはや心から消えていきます。
 言葉によって対象を分別・想定しなければ、願ったり執着したりしようもないからです。
 言葉の働きが休止すると、執着して悩んでいた心も休止し、静かに、爽やかになっていきます。
 私も、坐禅をしている間は、いささかそういう気分になれるようになりました。
 別に自慢するほどのことではないのですが、ともかく坐禅をするとその時だけでも確実に爽やかないい気分に なれるので、みなさんにお勧めしたくなる(慣れるまで少し足が痛かったりしますが)というだけのことです。
 よかったら、あなたも坐禅をしてみませんか。






智慧と瞑想と菩薩
2006年10月20日


 少しずつ読むつもりだった『摩訶般若波羅蜜経』が面白くて、今日も大学の行き帰りの電車の中でずっと読み ふけってしまいました。
 そろそろ、またスウェーデンものに帰ったほうがいいんですけどね……
 今日、心に残ったのは、次の言葉でした。これは、漢文書き下しのままでもわかる文章なので、そのまま引用 しておきます。

 「般若波羅蜜は諸(もろもろ)の三昧(さんまい)に異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜に異なら ず、菩薩は般若波羅蜜及び三昧に異ならず、般若波羅蜜及び三昧は、菩薩に異ならず、般若波 羅蜜は是れ三昧、三昧は即ち是れ般若波羅蜜、菩薩は即ちこれ般若波羅蜜及び三昧、般若波羅 蜜及び三昧は即ち是れ菩薩なればなり。」(相行品第十)

 ものごとをばらばらに見てしまう分別知に対して、すべてを一体であり空であると見る智慧を般若といいます。 そして、その智慧に到る修行が般若波羅蜜であり三昧なのですが、菩薩(求道者)は徹底的に般若波羅蜜およ び三昧と一体であってこそ菩薩なのだ、というのです。
 こうした句を読んでいると、大乗仏教で語られる「般若」や「空」といったコンセプトは、単なる哲学的な理念・概 念・観念ではなく、徹底的に実践−体験に裏付けられたものであることが、はっきりとわかります。
 般若・空の智慧を得たかったら、三昧・瞑想を行なうこと。三昧・瞑想のない般若や空の話は、『摩訶般若波 羅蜜経』の語っている大乗の菩薩のものとしての般若・空ではない、ということでしょう。
 美しい秋の山を味わいたかったら、山の本を読んでいるだけでなく、実際に山の見えるところまで行くこと、で きれば自分の足で登ること。






自然な行為としての慈悲
2006年10月21日


 今日は、これから秋の山を見に行きます。紅葉が始まっているでしょうか。
 なので、今日も簡単に『摩訶般若波羅蜜経』の一節をご紹介して記事にすることにしました。

 一切衆生を救済(ぐさい)し、一切衆生を捨てず。是の事あるも、亦(また)是の心有るを念(お も)わず。是れを菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)、一切衆生の中に於て、利益安楽心(りやくあんらく しん)を生ずと名づく。」(金剛品第十三)

 菩薩という大乗の理想は、自分だけでなく生きとし生けるものすべてを救いたいという願にあります(これは下 手をすると誇大妄想といってもいいくらいの理想ですね)。
 しかし、それがふつうの自意識的な願望と違うのは、「一切衆生を救済する」という事実があるにも関わらず、 それを「念わず」つまり意識しないというところです。
 分離した実体としての私が、分離した実体としてのあなたがたをお救いしたいと思うのではないのです。
 般若波羅蜜・三昧が深まれば深まるほど、自然に心の奥底から他者と自分との一体性の実感が湧いてくるの で、自然に他者=自分の利益や安楽につながるような行動をしてしまう、ということでしょう。
 唯識で説明すれば、「念う」のはマナ識にコントロールされた意識の働きです。
 「利益安楽心」というのは、平等性智に裏付けられた妙観察智成所作智の働きのことでしょう。
 そういう深い大きな心になれるよう――ということはまだなっていないという意味ですが――般若波羅蜜・三昧 を精進していきたいと思っています。
 これから山を見に行くのも、自然との一体感を少しでも実感したいからです(と、別に言い訳をする必要もない んですけどね)。
 今日、明日、天気になーれ!






ススキ原で思ったこと
2006年10月23日




箱根仙石原のススキ


 土日、箱根仙石原でサングラハのミーティングを行ないました。
 終わって、参加者のみなさんと有名なススキ原に行きました。
 残念ながらまだ穂ぜんぶが真っ白になっておらず、雨模様だったので、ススキ原全体が純銀に輝いている様 子までは見せてあげられませんでしたが、それでもみごとに広いススキの原に「すごい!」と歓声が上がりまし た。
 真っ白なススキに、今読んでいる『摩訶般若波羅蜜経』の「幻学品(げんがくぼん)第十一」のスブーティ(須菩 提)と釈尊の問答を思い出しました。

 「スブーティ(須菩提)よ、おまえはどう思うか、布施という波羅蜜と幻と異なりがあるだろうか?……」
 「いいえ、そうは思いません、世尊よ。なぜかというと、色(しき、物質的現象)は幻と異ならず、幻は色と 異ならず、色はすなわち幻であり、幻はすなわち色だからです。……それから、この上なく等しいもののな い覚りは幻と異ならず、幻はこの上なく等しいもののない覚りとことならず、この上なく等しいもののない覚 りはすなわち幻であり、幻はすなわちこの上なく等しいもののない覚りだからです。」……
 スブーティが仏陀に申し上げるには、「世尊よ、初めて大乗に志した求道者(新発大乗意菩薩、しんぽ つだいじょういぼさつ)は、般若波羅蜜が説かれるのを聞いて、恐怖はないでしょうか?」と。
 仏陀がスブーティに告げられるには、「もし初めて大乗に志す求道者は、般若波羅蜜について巧みな手 だて(方便)がなく、またよい指導者(善知識、ぜんちしき)を得なければ、その求道者は、あるいは驚いた り、あるいはおののいたり、あるいは恐れたりすることだろう」と。

 「すべてが空であり幻のようなものである」と聞くと、初心者は下手をすると、すべては虚しいのかと不安になっ たり、恐れたり、ニヒリズムに陥ったりしかねません。
 「すべてが、さまざまなものとのつながりの中である時間だけ現われて消える現象だ」ということと、だからこそ 生きることには意味がある、あるいは人生は意味体験をするチャンスであるということは、いい指導者に出会う ことができ、巧みな方法で教えてもらわなければ、なかなか理解できないのです。
 それどころか、勝手に「消える」という部分だけ強調して聞いてしまい、恐ろしくなったり、虚しくなったりしてしま いがちです。
 しかし幸いなことにいい指導者の上手な説き方に出会うことができると、例えば、真っ白なススキがやがて風 に吹かれてすべてどこかに飛んでいってしまい、後には枯れた葉が残り、それもまた朽ちていき、やがて野焼き で焼かれて灰になっていくことだけでなく、ススキがいま・ここで純銀のように光輝いていること、そして飛び散っ た白い毛は新しいいのちの種を運んでいることに目を向けることができるようになるでしょう。
 「花の咲かない枯れススキ」に見えるものは、実は新しいいのちの種子の群であり、やがて新しい場所で新し いいのちの姿に生まれ変わります。
 このように生から死へと、そしてまた死から生へと、幻のように変化すること、ダイナミックに運動することこそ 自然の本質であり、それが空ということなのです。1)  2) 3) 4) 5) 6)
 こうして、幻のように、万華鏡のように、さまざまに変化していく自然の姿を、親しい人たちと一緒に爽やかに 楽しめる人生の一日を与えられたのはとても有難いことだ、と思ったことでした。






菩薩の大きな願い
2006年10月24日


 今日の電車中の読書は、スウェーデンものと、『摩訶般若波羅蜜経』の続きの半分ずつでした。
 後者の心に響いた句をご紹介します。

 菩薩・大士の大きな誓い・願いの美しさは、生きとし生けるものを限定して、私は一定の人を救うつもり であって、その他の人を救うつもりはない、としないことにある。私は一定の人をこの上なく等しいものの ない覚りに至らせるつもりで、その他の人をこの上なく等しいもののない覚りに至らせるつもりはない、と 言ったりしない。この菩薩・大士は、すべての生きとし生けるもののためにこそ大きな誓い・願いを厳かに 美しくも立てるのである。(弁才品第十五)

 これは、菩薩の布施-慈悲の実践が、相手を選ばない「無差別平等」なものであることを語っています。
 こんなにすごいことがすぐ自分にできるとは思えなくても、誇大妄想的にさえ感じられても、それでもなぜか心 うたれるきわめて美しい理想です。
 たとえ100パーセントでなくても、たとえ何万分、何十万分の一でも、ただの真似ごとでも、したいと思わせら れます。
 せめて授業に出て来てくれる学生だけでも全員の「仏性(ぶっしょう)」を信じて、選り好みせず本気で教えよ う、と改めて思いました。






仏教とキリスト教のフュージョン?
2006年10月28日 


 最近読み続けている『摩訶般若波羅蜜経』(昭和新纂国訳大蔵経版)は、全部で90品(章にあたる)もある、 長いお経です。
 これまで何度も挑戦しかけて途中で挫折したのですが、今回はなぜか続いています。
 といっても、他の仕事の合間を見ながらなので、まだようやく第40のところまで到達したところですが。
 でも、この調子なら、最後まで読み通せそうです。
 続いている理由を考えみると、2つあるようです。
 1つは、かつて読み始めた時は意味を十分に読み取れなかったので、文字面を追っているだけになって厭き てきたということです。
 今回は、「なんと深いのだろう!」と驚くことができる程度に読み取ることができているのです。
 年季は重ねるものです(もっと年季を重ねたら、もっと深いと思うことでしょう)。
 もう1つは、繰り返しが多いことの意味も感じられるようになったことです。
 わかったつもりになり、おぼろげに覚えてはいても、しっかりとわかりしっかりと記憶してない修行者が、声に 出してこの繰り返しを読んでいるうちに知らず知らずのうちにそのリズムと一緒に内容のもっている雰囲気が無 意識(アーラヤ識)に熏習され定着していく、というのがお経の文句の繰り返し効果なのではないかと思うので す。
 私は、まだ声に出して読んではいませんが、目で追っているだけでもそういう感じになってきます。
 これから、この書き下し文をお経として読んでみるとさらにいいのではないか、やってみようという気になってい ます。
 ところで、今夜は仕事の後で、ものすごく久し振りにかみさんとコンサートに行きました。
 サングラハの仲間のお母様が加わっている合唱団のコンサートで、招待していただいたのです(感謝、合唱に 合掌)。
 プログラムはプーランク『グロリア』とデュリュフレ『レクイエム』、そしてアンコール曲はフォーレ『レクイエム』の 一部という、近代フランスの宗教音楽づくしでした。
 どれも心洗われるような美しい曲、感動的な演奏でした。
 指揮者、合唱団、オーケストラ、オルガニスト、全員に心から拍手をしました。
 帰り道、デュリュフレかフォーレのレクイエムをバックに道元『正法眼蔵生死巻』か『摩訶般若波羅蜜経』のど れかの品(章)の朗読をやってみてはどうか、きっと感動的になるのではないか、というアイデアが浮かびまし た。
 そのうち、密かに実行して、MD録音でもしようかなと思っています。
 成功したら――「たら」です――サングラハの関係者のみなさんには、お聞かせするかもしれません(著作権 の関係で内部使用にとどめざるをえないのがちょっと残念ですが)。
 かつて、新潟・旧山古志村の木喰観音堂で、CDプレーヤーでバッハのカンタータ『目覚めよと我を呼ぶ声あ り』(カール・リヒターの指揮のもの)をバックに流しながら『般若心経』を唱えたことがありましたが、実によかっ たので、今回もきっといいのではないかと予想しています。






空と一体は同義語
2006年11月16日 


 しょっちゅう、「空と一如は同義語です。空とは、宇宙のすべてのものが一体だという意味なのです」と言ってい ますが、実はどの経典のどこに書いてあるかははっきり把握できていませんでした。
 大雑把な性格なもので、たくさん読んできた空に関する文献のどこかにまちがいなく書いてあった、という記憶 でしゃべっていたのです。
 しかし読書はするものです。
 大学への電車の中の読書、『摩訶般若波羅蜜経』にあることを見つけました。

 「諸仏如相(しょぶつにょそう)は皆是れ一如相(いちにょそう)なり。不二不別不尽不壊(ふにふべつふじ んふえ)、是れを一切諸法如相と名く。…仏、般若波羅蜜に因りて、是の如相を得。…是の如相を得るが 故に仏を如来と名く。」(「仏母品第四十八」)

 「諸仏のありのままの姿はすべてこれ一体性という姿である。二つでなく別れておらず尽きることなく壊 れることがない。これを一切の存在のありのままの姿と名づける。仏は、般若波羅蜜によって、このあり のままの姿を覚り得たのである。このありのままの姿を覚り得たので仏を如来・ありのままからやって来 た人と名づけるのである。」

 また忘れてしまわないうちに、メモ―紹介しておくことにしました。
 これから授業、帰宅してから、解説を書くつもりです。
 乞うご期待。

 *以下、簡単な解説です。
 ここでは、仏が般若波羅蜜=智慧の実践によって覚ったのは、一如相=世界が一体だということだ、といわ れています。
 また別のところでは、仏は智慧の実践によって空を覚ったことになっていますから、つまり一如=空だというこ とです。
 すべてがつながっていて、結局は一つであり、徹底的に一つで他に比べて数えるものがないので、ゼロ=空と いう表現にもなるというのが、深い禅定によって体験される世界のありのままのリアルな姿なのです。
 私たちは、まずつながりコスモロジーによって、理論的に学び、ワークによって少し実感し、さらに禅定を実行 すれば、いっそう深くコスモスとの一体性を体験することができます。
 よかったら、さらにご一緒に学んでいきましょう。






学びの区切りと継続
2006年12月28日 


 暮の仕事を片付けたり、次のステップに向けて関係者たちと意見交換をしたり、いろいろなお問い合わせに対 応したり……していて、ブログの更新がお休みになっていました。
 今日は、夕食前と夕食後、またリヒテル「平均律」を聴きながら、『摩訶般若波羅蜜経』の第71品から第82品 まで読みました。
 「実際品第八十」の以下の須菩提(スブーティ)と世尊(ブッダ)との以下の対話が心に響きました。

 須菩提(しゅぼだい)仏に白(もう)して言(もう)さく、「世尊、若し衆生畢竟(ひっきょう)じて得(う) べからざれば、菩薩は誰(た)れの為の故に般若波羅蜜を行ずるや。」
 仏須菩提に告げたまはく、「菩薩は実際の為の故に般若波羅蜜を行ず。須菩提、実際と衆生際 と異なれば、菩薩は般若波羅蜜を行ぜず。須菩提、実際と衆生際は異ならず、是(ここ)を以ての 故に、菩薩摩訶薩は衆生を利益(りやく)せんが為の故に般若波羅蜜を行ず。……」

 スブーティがブッダに申し上げた、「世尊よ、もし衆生というものが究極的には実体的に把握でき ないものだとしたら、菩薩は誰のためというので智慧の修行をするのでしょうか。」
 ブッダはスブーティに告げられた、「菩薩は、宇宙的真理の本性(コスモスのロゴス)のために智 慧の修行をするのである。スブーティよ、宇宙的真理の本性と衆生の本性が異なったものである のならば、菩薩は智慧の修行をしないであろう。スブーティよ、宇宙的真理の本性と衆生の本性は 異ならないのだ。それだからこそ、菩薩・大士は衆生を幸せにするために智慧の修行をするので ある。」

 菩薩とは、衆生・生きとし生けるものすべてと宇宙が一体だということを知って、宇宙のため=衆生のために 智慧の実践をするのだ、というのです。
 もちろん、菩薩=宇宙=衆生ですから、菩薩は自分のため=宇宙のため=衆生のために、衆生を幸せにす るために智慧を学び続けるわけです。
 ある種、永遠に鳴り響き続けるという感じのする――もちろん実際には曲ごとに終わりがあるのですが――リ ヒテルのバッハ・平均律を聴きながら、菩薩の永遠の慈悲行ということを思いました。
 今年と来年というのもこだわれば分別ですから、緩やかに区別することにして、やはり今年中に『摩訶般若波 羅蜜経』を読み終えたいものだと思っていますが、あと8品ですから、たぶん出来るでしょう。
 1年の区切りに学びの区切りもつけたいと思っています。
 そう思いながら、クリシュナムルティが自分の創立した学校の子どもたちへのトークの終わりに語った、「子ど もたちよ、いったん始まると、学びには終わりはないのだよ」という言葉を思い出しました。
 今年も来年も許されたいのちの限りは、みんなが幸福になるための英知を学び続けたいものです。










空と仏とすべてのものと
2006年12月29日


 昨夜、ブログ記事を書いた後と今朝、『摩訶般若波羅蜜経』の第83〜90品まですべて読み終えました。
 拙著『よくわかる般若心経』(PHP文庫)では、「筆者がいまのところわかった範囲では、『空』も『仏』も『全体』 もほぼおなじことをいい表わそうとしている言葉だといっていいと思うんですが……」と書きました。
 しかし正直なところ、研究書などを読んでわかった範囲だったので、「そんなこと、お経のどこに書いてあるん だ」と聞かれるとちょっと困る状態でした。
 その証拠・典拠探しという意味もあって、『摩訶般若波羅蜜経』全部を読んでおきたいと思ったわけです。
 読んでみると、ちゃんとどこに書いてあるか把握できました。
 まさにそのとおりのことが書いてある個所が、なんと、最後の1つ前の「法尚品(ほうしょうぼん)第八十九」とい うところにあったのです。

 諸法如は即ち是れ仏なればなり。……空は即ち是れ仏なればなり。……諸仏如と諸法如は一如 にして分別なし。……是の如は常一にして無二無三なり。(法尚品第八十九)

 もろもろすべての存在のあるがまま(の姿)は仏なのである。……空はすなわち仏なのである。 ……もろもろの仏のあるがままともろもろの存在のあるがままは一つのあるがままであって分離し ていない。……このあるがままは永遠に一であって二や三はない。

 文献はちゃんと最後まで読むものです。
 これで、読者にいいかげんなことを言っていなかったことがはっきりして、内心ほっとしました。
 しかも「ほぼおなじこと」ではなく、「まったくおなじこと」だと捉えてまちがいないことがはっきりしました。
 これですっきりして、後は床のワックスかけやパンフレットの発送や部屋の片付けなどを、雑務ではなく作務 (さむ)――日常の細々としたことも大切な務めをすることとして行なうという禅の考え方――の気持ちで行なう ことができました。
 夜は、とても美味しい濁り酒をお猪口に2杯ですっかりいい気分になりました。
 いい暮を過ごすことができて、本当に感謝です。






菩薩の目標は平等社会
2006年12月31日 


 1年が終わろうとしています。この1年も、自分としては最善を尽くした1年でした(その内容はすでに書いたと おりなので、繰り返しません)。
 『摩訶般若波羅蜜経』の言葉を借りて言えば、目指すところは菩薩の目指すものでした。

 菩薩・大士が布施波羅蜜を修行している時に、もし衆生で飢え凍え、着物はぼろぼろになってい るの見たならば、菩薩・大士はまさに次のような願を立てるべきである。私がこの所・時に布施波 羅蜜を修行し、この上ない覚りを得た時には、私の国土の衆生にはこうしたことがなく、衣服や飲 食、生きるための必需品が、四天王、三十三天、夜摩天、兜率陀天(とそつだてん)、化楽天(けら くてん)、自在天といった天界のようにならせよう。……
 菩薩・大士が六波羅蜜を修行している時、衆生に下・中・上、下・中・上の家庭(という格差)があ るのを見て、菩薩・大士はまさに次のような願を立てるべきである。私がこの所・時に六波羅蜜を 修行し、仏の国土を浄化し衆生を成熟させ、私が仏になった時には、私の国土の衆生にはこうし た優劣は存在させはしない、と。

 菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)有りて檀那(だんな)波羅蜜を行ずる時、若し衆生の飢寒凍餓(き かんとうが)し、衣服弊壊(えぶくへいえ)せるを見れば、菩薩摩訶薩は当に是の願を作すべし。我 れ爾所(にしょ)の時に随ひ檀那波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が国土の 衆生をして是(かく)の如きの事無く、衣服飲食(えぶくおんじき)資生(ししょう)の具、四天王、三 十三天、夜摩天、兜率陀天(とそつだてん)、化楽天(けらくてん)、自在天の如くならしめんと。…
 菩薩摩訶薩は六波羅蜜を行ずる時、衆生に下中上下中上家有るを見て、当に是の願を作すべ し。我れ爾所の時に随ひ六波羅蜜を行じ、仏国土を浄め衆生を成就し、我れ仏と作る時、我が国 土の衆生をして是(かく)の如きの優劣(うれつ)なからしめんと。(『摩訶般若波羅蜜経』「夢行品 (むぎょうぼん)第五十八」)

 大乗の実践者・菩薩は、自らが覚って導く自分の国では、生きとし生けるものすべてにおいていかなる貧困も 差別もけっして存在させまい、と深く願いながら、それを可能にする英知を求め続けていく、というのです。
 菩薩にとって、目指すべきは根源的な平等社会であって、格差社会はけっして認めることのできないものなの です。
 日本を「大乗相応の地」(大乗仏教にふさわしい地)、「和の国」にするために、来年も最善を尽くしていきまし ょう、菩薩志願者のみなさん!
 では、よいお年を。






今年のモットー:こだわらず情熱的に
2007年1月1日 





 みなさん、明けましておめでとうございます。
 今年も、ぜひご一緒に学んでいきましょう。
 年末に引き続き、『摩訶般若波羅蜜経』の言葉で、始めたいと思います。

 もろもろの菩薩・大士は〔心を〕大スケールに美しく調え、私はまさに限りない数の衆生を救おう、 衆生は結局〔実体としては〕把握できないということを知っていてしかも衆生を救うのである、これ は困難なことであるとする。……
 スブーティよ、菩薩・大士は、二つの事柄を完成し、悪魔は破壊できない。何が二なのか。一切 の存在は空であることを瞑想的に洞察することと、一切の衆生を捨てないこととである。スブーティ よ、菩薩がこの二つの事柄を完成するならば、悪魔は破壊できないのである。

 諸(もろもろ)の菩薩・摩訶薩は大荘厳(だいしょうごん)し、我れ当(まさ)に無量無辺阿僧祇(む りょうむへんあそうぎ)の衆生を度すべし、衆生の畢竟不可得(ひっきょうふかとく)なることを知て 而(しか)も衆生を度す、是を乃(すなわ)ち難(かた)しと為す。……
 須菩提(しゅぼだい)、菩薩・摩訶薩は二法を成就す、魔、壊(え)すこと能はず。何等か二なる。 一切法空を観ずると、一切衆生を捨てざるとなり。須菩提、菩薩此二法を成就すれば、魔壊すこと 能はざるなり。(度空品第六十五)

 ニュースを見聞きしていると、世界は問題だらけであり、世界中に不幸な人々がたくさんいます。
 それらの問題や人々を実体として分別知的に捉えた上で、それらを解決したい、それらの人々を救いたいと 執着すればするほど、気持ちが暗くなってきます。
 問題の大きさに途方に暮れ、人々の多さにとても手が及ばないと無力感を感じ、自分の非力を嘆き、落ち込 み、絶望しそうにさえなってきます。
 しかし菩薩は、物事を実体視する心の汚れを清め宇宙スケールの清らかさ・美しさに調えて、一切の存在が 空であり、だからもちろん根源的には衆生も空であり、そういう意味では善悪、幸不幸を超えていて、救うも救 わないもないことをしっかりと洞察します。
 しかしブッダは、弟子の中で空の理解において第一人者とされた(解空第一・げくうだいいち)須菩提・スブー ティに向かって、2度も呼びかけながら、すべてが空であると洞察しつつ、しかもすべての衆生を捨てずどこまで も救おうとする、この2つのことを実践するならば、〔落ち込み、落胆、あきらめ、絶望などの〕どんな悪魔も、菩 薩を妨げ、挫折させることはできない、と説かれています。
 情熱的に行動するがこだわらない、こだわらないが情熱的に行動できる――もっと日常的な言い方にすれ ば、熱心なのに気軽、気軽なのに熱心――そういう心になれるよう、心を調え浄化しながら、今年も最善を尽く していきたいと思っています。
 よかったら、ご一緒しませんか。






長い長いお経を読む気になっています
2007年1月6日 


 年末、年始は、紅白、行く年来る年、年の初めはさだまさしを見たり、箱根駅伝を見たり、かみさんの実家に 帰って95歳になる義母と過ごしたり……とごくふつうにやっていました。
 その合間に、「いよいよもう間もなく60歳、還暦になるが、平均寿命くらいは生かしてもらうとして、残された人 生の有限な時間の中で、どうしてもやっておきたいことは何なのか、できればやりたいことは何なのか、まあで きてもできなくてもどちらでもいいことは何なのか、優先順位を決めなければならないな」などと考えながら、実 家の倉庫に預けていた40箱以上の「そのうち読みたい」と思って溜め込んでいた本の整理を始めました。
 優先的に読むつもりのもの、研究所の資料として後に残してもいいもの、古本屋に売ってもいいもの、捨てる しかないものなどに分類するつもりですが、まず今回は、8箱分だけ選んでミーティングルームに送りました。
 特筆すべきことは、去年、『摩訶般若波羅蜜経』が思いがけず面白かったので、引き続いて『大般若経』に挑 戦してみようかという気になり、積み上げた箱の山の中から探し出して送ったことです。
 『大般若経』はなんと全600巻という般若経系統の経典群の大全集で、日本でも古来重んじられ、多くの寺院 に置いてあり、正月などには『大般若会(だいはんにゃえ)』というなかなか素敵な儀式も行なわれるのですが (折本の経典をぱらぱらと繰って読んだことにして、年に一度の風入れにもするという「転読(てんどく)」を見たこ とのある方もいることでしょう)、全部を読んだ人はあまりいないという代物で、私も買ってはあっても一生読むこ とはないだろうなと思っていました(和綴じの国訳大蔵経版)。
 ところが、読みたくなったのです。
 その内容を一言で言えば、「一切空」とか「諸法空相」でも済んでしまうもののようです(先学によれば)。
 転読の際に使われる回向文(えこうもん)でも、

 「諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう、すべての存在は直接間接の関係によって生ずる)。
 因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう、関係によって生じるのでそれ自体の変わることのない本 性はない)。
 無自性故無去来(むじしょうこむこらい、本性がないので去るとか来るということもない)。
 無去来故無所得(むこらいこむしょとく、去ることも来ることもないものを〔実体的に〕把握することはでき ない)。
 無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう、把握できないので結局は空というほかない)。
 畢竟空故是名般若波羅蜜(ひっきょうくうこぜみょうはんにゃはらみつ、結局空なのでこれを般若波羅蜜 ――分別知でない智慧という完成の行――と名づける)。
 南無一切三宝(なむいっさいさんぼう、すべての仏・法・僧という宝に帰依します)、無量広大(むりょうこ うだい、量り知れず広大な)、発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい、この上なく等 しいもののない覚りを得たいという心を起こします)」

という程度で済むことのようです。
 でありながら、語るとなると600巻も長々と語ることもできるわけですが、それはどんなことになっているのか、 確かめてみたくなったのです。
 これもまた、マスト化するつもりはありません。他の仕事の合間に、興味がずっと続いたら読んでいくつもりで す。
 長くて長くてなかなか終わらない、なかなか終わらないということは楽しみがなかなか終わらないということで、 そこがいいという、大長編小説に取り掛かる時のような、ちょっとわくわくするような気分です。
 長いお経を読もうとするのにわくわくするなんて、変わってると思う人もいるでしょうね。
 しかし、そうなんです。今年も仏教の楽しい学びが続きそうです。






学びは続く
2007年1月10日 


 昨夜の講座では、ナチの収容所を生き延びて『死と愛』を書くまでのフランクルの半生について講義しました。
 例えば、ある期間フロイトとアドラーとフランクルそしてヒトラーがウィーンという同じ町に住んでいたという時代 のドラマを、聴講者のみなさんに感じていただきたかったからです。
 ヒトラーが作った収容所に入れられ、そして極限的な悲惨を体験しながら、なお生きることには無条件に意味 があることを確信し続けたフランクルの精神の強靭さ、それを裏付ける思想の深さ、収容所から解放されて直 後から書き綴られた『死と愛』という著作の重さを知ってから、その内容を詳しく学んでいただきたいと思ったの です。
 みなさん、深く感じていただけたようです。
 学びは、これから思想の具体的内容に入っていきます。
 そこには、ヒトラーをも生み出したニヒリズムという近代の怪物に対する徹底的な闘いそして克服の筋道が語 られています。

 今日は、ほとんど事務処理に終わりましたが、それでも『大般若経』を読み始めました。まだ巻1、2だけです が。
 ところで、かみさんの実家から送り返したものはよく見たら『大品(だいぼん)般若経』=すでに読んだ『摩訶般 若波羅蜜経』であって、600巻の『大般若経』ではありませんでした。
 私の早とちりでしたが、それにしても紛らわしい。
 でも、国訳一切経(大東出版社)の『大般若経』も第1巻と飛んで第6巻は買ってありましたので、そちらで読み 始めたというわけです。
 読み進むにつれて買い足さなければなりません……買い足したいなと思っています。
 ところで、+αの話もいいけれど、まとまった授業はまだ始まらないのかと待っていてくださる方もあるかもし れません。
 もう少ししたら始めるつもりですから、お待ち下さい。






大般若経の深い一節
2007年2月25日 


 全六百巻という『大般若経』を読む気になって、少しずつ読み進めています。
 当たり前といえば当たり前ですが、あちこちに実に深いことが語られています。

 一箇所、ご紹介したくなりました。

 通達(つうだつ)とは謂ゆる能く遍(あま)ねく所有(あらゆ)る縁起を知るを言う。諸縁に由るが故 に諸法起ることを得。故に縁起と名づく。
 是の如き縁起は都(すべ)て所有(しょう)無し。是の如きを名づけて縁起に通達すと為す。即ち 此れを名づけて遍ねく縁起を知ると為す。謂ゆる能く如実に起る無きを顕示し、起る無きを以ての 故に説いて縁起と名づくるなり。
(大般若経第十六般若波羅蜜多分之一)

 〔覚りに〕通達するというのはいわゆるあらゆる縁起を知ることができることを言う。さまざまな縁 によってさまざまな存在は生起することができる。それゆえに縁起と呼ぶ。
 こうした縁起にはすべて実体性はない。こういうのを縁起に通達すると呼ぶ。すなわちこれを縁 起を知り尽くすと呼ぶのである。いわゆるありのまま実体として生起することがないことを明らかに し、生起することがないのを〔あえて〕縁起と呼ぶのである。

 今夜は、「持続可能な緑と福祉の国・日本をつくる会」のミーティングで遅くに帰ってきたので、解説は明日に でも書き足すことにして、ご紹介だけしておきます。
 ……と書きましたが、昨日(26日)は片付けなければならないことがいろいろあって、書けませんでした。
 「通達」というのは、覚るということです。
 覚るというのは、あらゆるもの(諸法)が他との関係によって生起すること(縁起)を知ることです。
 とはいっても、私たちが常識的な考え方(分別知)で聞くと、やはりまずそれぞれのものがそれ自体で存在して いて、それらが関係して何かが起こる、という話だと誤解しがちです。
 そこで、それぞれのものはもちろん、縁起そのものもそれ自体で存在するもの=実体ではない(つまりであ る)と注意を促します。
 ありのままの現実の世界は、現象としては関わり合いながら生起しているけれども、実体としては生起しない ことを、「縁起」というのです。
 「それにしても深い把握だなあ」と感嘆しながら読み直しました。






大般若経入手!
2007年3月1日 


 昨日、国訳一切経の『大般若経』全6巻が届いて、とても喜んでいます。
 時々、古本屋のサイトで探していて、数日前に比較的安いのが見つかり、「この際、思い切って買おう」と決め てから、ふと、「もしかしたらもっと安いのが……」と、インターネット・オークションで探すと、さらに格安のがあっ たのです。
 それで、落札して連絡をしたら、持ち主の方が私を『唯識の心理学』の著者と知って、「有効に使っていただけ ればそれでよろしいです」と、大幅に値引きしてオークションの実費だけで頒けて下さいました。
 いったんは遠慮したのですが、結局、お言葉に甘えさせていただきました。
 不思議なタイミング−ご縁にとても感謝しています。

 それで、どんどん読みたいと思ったのですが、早く片づけたいと思っていた帳簿の整理が、間に他の仕事も入 ってなかなか終わらず、まだ少しだけ残っていました。
 今日になって、ようやく終わりました。
 明日、青色申告会に行って指導を受けて提出する予定です。たぶんオーケーでしょう。
 なんともいえずほっとしたところです。
 少し慣れたとはいえ、何年やってもその度にストレスなものですから。

 それから、午後、散歩から帰ってきて、ここのところ読んでいた第6巻の最後の部分(元の巻数でいうと592 〜600巻)を読み終えました。
 この部分は、『善勇猛般若経』(『大乗仏典@般若部経典』中公文庫所収)に当たり、現代語訳で読んでみて、 非常に深い内容があってしかも比較的コンパクトなので、まずここから読んでみようと思ったわけです。
 漢文(書き下し文)の言葉のもっている格調・熏習力はやはりすばらしい、と感じています。
 例えば最初のところで、善勇猛菩薩が「般若波羅蜜多とは何か」と問うと、釈尊はこう答えています。

 何をか般若波羅蜜多と謂うや、とは汝等当(まさ)に知るべし、実に少法(しょうぼう)も般若波羅 蜜多と名づくべき無しと。甚深(じんじん)般若波羅蜜多は一切の名言(みょうごん)の道を超過せ るが故に。
 …般若とは謂ゆる仮施設(けせせつ)なり。仮施設に由りて説いて般若と為す。

 何を般若波羅蜜多(智慧の完成)というかといえば、おまえたちはまさにこう知るべきである、実 にほんのわずかも般若波羅蜜多と名づけるようなものはない、と。はなはだ深い般若波羅蜜多は 一切の言語表現を超えているからである。
 …智慧というのはいわゆる仮に設けた言い方である。仮に設けた言い方で、〔あえて〕智慧と説く のである。

 覚りの智慧については、どんなに語っても結局語ることはできません。
 覚りたければ、最後は黙って坐るしかないのです。
 しかし、そういってしまうと、人に伝えることはできませんから、禅定その他の波羅蜜多の実践に誘うために、 あくまでも仮に言葉にするわけです。
 そして、いったん言葉にし始めたら、『大般若経』600巻にもなってしまうのです。
 国訳一切経版は、途中の繰り返し・重複的な部分を省略していて600巻全部ではないのですが、それでも主 要なところはすべて入っています。
 ともかく、根気が続いたら、この6冊を読み終えて――あるいは読みながら並行して――省略された部分にも 原漢文で挑戦しようか、という気になっています。
 ある意味では退屈してうんざりするほど繰り返しが多く長い長いお経なのですが、なぜか不思議な魅力を感じ ています。
 玄奘三蔵が、一言一句省略せず全部訳そうとした気持ちが少しわかるような気がします。
 たぶん、過去のいつでもなく、未来のいつでもなく、今しかそういう気にはならないというふうな、人生の時機な のかもしれません。
 ともかく、一千数百年も前に伝わり今も伝承されている仏典は、きわめて興味尽きない私たちの精神的遺産 です。
 この精神的遺産を伝えてくれるこの6冊の本は、明日、還暦を迎える自分へのプレゼントにするつもりです。






般若波羅蜜多はコスモロジーである
2007年3月2日


 一般の方はもちろん、ネット学生の諸君の中にさえ、「そんな長たらしいお経が手に入ったからといって、そん なにうれしいのかな」と思われる方がいるかもしれません。
 それで、ちょっと説明をしておきたくなりました。

 善勇猛、是の如く学する所の甚深般若波羅蜜多は是れ自然学(じねんがく)にして一切世間に及 ぶ者無し。

 善勇猛菩薩よ、このように学ぶはなはだ深い智慧の完成は、これは自然の学であって、すべて の世間には及ぶものがない。

 上記の一節に出会った時は、うーむとうなってしまいました。
 般若波羅蜜多の学びは、自然の学つまりコスモロジーの学びであり、こうしたコスモロジーは世間のどこにも ない、もっともすぐれたものだというのです。
 一般社会はばらばらコスモロジーで営まれていて、だからこそ問題だらけです。
 しかし、ほんとうの自然はすべてつながって一つであり、空なのです。
 ふつうに暮らしていると、運がよくなければ、そういうつながりコスモロジーに出会うことはありません。

 又た、舎利子、若し諸の有情(うじょう)善根未だ熟せずば薄福徳の故に尚お是の如き般若波羅 蜜多の経典の名字すら聞くことを得ず、況(いわ)んや手に執りて読誦受持(どくじゅじゅじ)し書写 供養し他の為に広説することを得んや。……
 若し諸の有情善根已に熟せば宿願力(しゅくがんりき)の故に此の経に遇うことを得て聴聞受持 し書写読誦し恭敬(くぎょう)供養して他の為に広説せん。
 又た舎利子、若し諸の有情善根増盛(ぞうじょう)にして意楽(いぎょう)調善(ちょうぜん)せば是 の如き般若波羅蜜他相応の法教乃ち其の手に堕ちん。

 またシャーリプトラよ、もしもろもろの心ある存在の善なる働きがまだ熟していなかったら、幸運 になる効力が不足していて、こうした般若波羅蜜多の経典の名前すら聞くことはできず、まして手 にとって唱え保ち、写経し供養して、他の人のために広く説くことなどできないのだ。
 もしもろもろの心ある存在の善なる働きがすでに熟していれば、宿願の力のおかげてこの経典に 遇うことができ、聴いて保ち、写経し唱えて敬って供養し、他の人のために広くことができるだろう。
 またシャーリプトラよ、もしもろもろの心ある存在の善なる働きが盛んで心が善く調っているなら ば、般若波羅蜜多に対応した真理の教えがその手に落ちるだろう。

 私たちが、つながりコスモロジー・空の教え、そしてそれが書き記された般若経典に出会うのは、偶然ではな いというのです。
 自分の心のもっとも深いところに貯められた善なる働きの蓄積が幸運をもたらし、真理の教えの経典に出会 わせてくれたのです。
 還暦になるところで『大般若経』が思いがけない値段で手に入ったのも、ただの偶然の幸運ではなく、宿願の 力・福徳ということなのかもしれない、という気がします。
 学んで、さらにこれを広くたくさんの心ある方に伝えることができるようになるには、さらなる善なる働きの成熟 が必要でしょう。
 続けて精進し、心が少しでも熟してきたら、またその分をお伝えしたいと思っています。






年頭に当り「MUST化せず精進したい・できるといいな」と思う
2008年1月1日


 去年の年始に、六百巻という長い長い経典である『大般若経』を読む気になったと書きました。
 去年一年も多忙な年で、当然の職務としての大学での授業とその準備、研究所の講座での講義とその準備、 お引き受けした講演、それらに関わって読んでおかなければならない文献、『サングラハ』誌や雑誌連載などど うしても書かなければならない原稿……を優先せざるを得ず、また読書体力も落ちてきているので、残念ながら 思ったほどは読むことができませんでした。
 内容的な意味があって国訳一切経版の第6巻から読み始め、ようやく読み終わって第1巻に取り掛かってい るという現状です。
 しかし、読めば読むほどすごいお経だと感じています。
 「縮み志向の日本人」に比べると、古代のインド人はまるで「誇大妄想」ではないかと思うほどの大スケールで ものを考えるのです。
 ですから、六波羅蜜の「精進」についても、私たちの考えるような「精一杯・できるだけ」などというものではあり ません。
 ごく一部を私の意訳でご紹介すると、こんな感じです。

 もし菩薩・大士が一年かけて行なった事業を振り返って、とても長かったという想いになるような ら、まさに「怠慢な菩薩」と名づけられると知るべきである。
 もし菩薩・大士が一年かけて行なった事業を振り返って、ほんの一日のちょっとした片付け仕事 のように思うなら、まさに「精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかり踏みとどまっている」と名づけら れると知るべきである。……
 もし菩薩・大士が一カルパかけて行なった事業を振り返って、とても長かったという想いになるよ うなら、まさに「怠慢な菩薩」と名づけられると知るべきである。
 もし菩薩・大士が一カルパかけて行なった事業を振り返って、ほんの一日のちょっとした片付け 仕事のように思うなら、まさに「精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかり踏みとどまっている」と名づ けられると知るべきである。
 ……もし菩薩・大士がカルパ数を考えて限界を設けるようなら、精進し勇猛果敢に覚りの行を修 行し、この上なく等しいもののない覚りを求め覚ったとしても、まさに「怠慢な菩薩」と名づけられる と知るべきである。
 もし菩薩・大士が次のような考えをしたとしよう。たとえ数限りない大カルパを経ても精進し、勇猛 果敢に覚りの行を修行して、必ずこの上なく等しいもののない覚りを覚ろう。私は、この上なく等し いもののない覚りを追究する上で、決して心に厭きや嫌気や挫折感を起こしたりはしない、と。〔こ のような菩薩・大士こそ〕まさに、「精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかり踏みとどまっている。精 進波羅蜜多を修行して速やかに完成し、生死輪廻を超越してただちに一切の智慧を得る智慧を覚 り得て、もろもろの心ある生き物(有情)のために大いなる益をなす」と名づけられると知るべきで ある。

 これは、ほんの一部にすぎません。こうした文章が表現や比喩を変えて実に長々と綴られているのです。まさ に、取りようによっては「誇大妄想」の不可能な理想です。
 しかし、そうした経文を読んで、「こんなのは誇大妄想だ、キレイごとだ」、「とても私などには無理だ」という反 応をするか、「及ばずながら、そうありたい」という反応をするかは、読む人しだいだと思うのです。
 私は、これまでにも書いたとおり、MUST化しないかたちで、「及ばずながら、できるだけ、そうあれるといいな あ、そうありたいなあ」という気持ちで、また許されるならばもう一年精進したいと願っています。
 年頭の所感というほどのものではありませんが、そういうわけなので、本年もよろしくおつきあいのほどお願い 申し上げます。






エネルギーは実体か?
2008年08月14日


 過去の記事「この世界には実体は存在しない:諸法無我」(2005.12/25)に対して、最近、以下のようなコメン ト・質問をいただきました。

 エネルギーは実体ですね。
 「実体」の3条件
 @それ自体で存在することができる。
 Aそれ自体の変わることのない本性・本質をもっている。
 Bいつまでも・永遠に存在することができる。
を満たしているから。そうすると、私や、色々な物体もエネルギーという実体を抱えている(エネルギーの 塊)から空ではないのでないでしょうか。お釈迦様の時代には、"エネルギー不変"という概念は無かった (そんな科学が無かった)から止むを得ないと思います。
 でも、未だに「すべての存在は非実体である」と言うのはおかしいのではないでしょうか。勿論、質量もエ ネルギーの一種です。又、エネルギーは形式を変え、分散したり、集中したりします。でもトータルのエネ ルギー量は変わりません。私はお釈迦様の教えは正しいとおもいつつ、この事で非常に悩んでいます。 良きご指導のほどをお願いします。(後略)

 それに対して、コメント欄にはまず以下のように書かせていただきました。

 とても重要なご質問有難うございました。
 とても重要なので、ご質問をその答えを読者のみなさんと共有したく、本文記事でくわしくは書かせてい ただきます。
 ただ一つだけ、ここでお答えしておきますと
 阿含経などを読んでみても――私の解釈では――仏教においては教えはどこまでも方便だ、と思いま す。
 それは、「縁起」や「空」といった仏教の基本的教えでさえそうだと思われます。
 ですから、とりあえず空というコンセプトが私たちの知るかぎりのほとんどすべてに当てはまるということ で納得し、後は空体験をしてマナ識、アーラヤ識の浄化を進めていく、という修行実践にとりかかることが 肝要かと思いますが、いかがでしょうか。

 しかし、私の考えをもう少し詳しく書かせていただき、読者のみなさんと共有したほうがいいと思いましたので、 続きを含め記事欄にしました。

 ゴータマ・ブッダの教えの基本線は非常に妥当性が高いと思いますが、ご指摘のとおり、現代のような科学が ――自然科学だけでなく、社会科学も人文科学とりわけ心理学も――なかったのですから、足りないところがあ って当然です。
 ですから、ブッダの教えと現代科学の理論が万一矛盾したとしても、あまり悩まれる必要はないのではない か、と思いますが、いかがでしょう?
 私たちは、「多くの聖者・賢者が絶対に正しいことを知っていて、それを私たちに教えてくれる。その結果、私 たちも絶対に正しいことを知っている人間になれる」ということを期待しがちですが、そういう姿勢は必然的に 「〜原理主義」に陥って、独善性・排他性を生み出すので、何教、何主義にかかわらず「原理主義」は避けたほ うがいい、と私は考えています。
 しかしそれはそれとして、エネルギーは「実体」ではないのか、という問いは理論的にはとても重要だと思いま すので、私の考えを書かせていただきます。
 私の知るかぎりの現代科学の考え方では、宇宙はただ一つのエネルギーの塊である以前は物質でも空間で も時間でも、エネルギーでさえない時があった、その状態はもはや「無」と呼ぶほかない(ビレンキンの説)という ことになっているようですから、その無から――それとの関わりで――創発したという意味で縁起的であり(@の 否定)、無だったものがエネルギーに変化したのですから変わらない本性はなかったというべきでしょう(Aの否 定)。
 ですから、エネルギーも「実体」とは言い切れないのではないでしょうか。
 ただ、最近の宇宙膨張の観測によれば、私たちのこの宇宙はほぼずっと拡大しつづける――永遠に?―― ということになったようですから、無だった過去はともかく未来に向かってはずっと存在するのかもしれませんか ら、Bは当てはまる?ような気もしますが、しかし薄くなり続けるのですから、やはり無常といったほうがよさそう です。
 お答えになったでしょうか?
 さらにしかし元に戻ると、ブッダにとって、仏教にとって、私たちにとってより重要なのは、縁によって生まれて きた形あるさまざまな存在(諸法)、特に私たち人間のこの体と心の形が「空」であり、ということは、すべて形あ る存在は実はつながりあっていて一つであるということであり、さらに私たちがそういう言葉で表現されたことそ のものを言葉を超えて直接体験することによって、安らかな心になり、他者と自己とが区別はできても分離して いないことに気づいた柔らかな心になることだ、と私は捉えています。
 もしすでに修行をしておられるようでしたら、ぜひ理論に滞らず、行を深めていただきたいと思いますし、まだ でしたら、よき師を求めて修行をお始めいただけるようお祈りしております。






我は幻の如く夢の如し
2008年8月19日


 まだ若いいとこがガンで亡くなり、お別れに行ってきました。
 ちょうど五十歳、本人も「人生五十年か……」と言っていたそうです。
 短いけれど密度の濃い充実した人生を送ったようです。
 しかしやはり、遺された者には、惜しい、悲しい、どうしてこんな若さでという想いがあります。
 死に顔を見ながら、『摩訶般若波羅蜜経』の「幻聴品(げんちょうぼん)」の言葉を思い出していました。

 〔実体としての〕自我は幻のようであり夢のようであり、生きものというのも知る者も見る者もまた幻のよ うであり夢のようである。……物質的現象は幻のようであり夢のようであり、感受、想念、意思、思考は幻 のようであり夢のようであり、眼から意識に至る接触という因縁から生まれる感受は幻のようであり夢の ようであり、布施という修行から智慧という修行に至るまで幻のようであり夢のようである。……仏道は幻 のようであり夢のようである。

 我は幻の如く夢の如し、衆生乃至知者見者も亦幻の如く夢の如し。……色は幻の如く夢の如く、受想行 識は幻の如く夢の如し、眼乃至意触因縁生の受は幻の如く夢の如く……檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜は 幻の如く夢の如し。……仏道は幻の如く夢の如し。

 かたちあるこの身心のいのちが実体ではなく有限であることを、死者から改めて学ばなければならない、と思 いました。
 「幻の如く夢の如し」ということが、決して空しいことではなく、だからこそ執着することなく爽やかに生きて爽や かに死ぬことのできる根拠であることを、どのくらい自分自身の坐りとして、生き死にすることができるか。
 帰宅してから、鎮魂の想いを込めて静かに坐禅をしました。






私を超える禅定
2008年9月17日


 いろいろな仕事の合間に、断続的に『大般若経』(国訳一切経版、6分冊)を読んでいます。
 先に第6分冊目を読み終え、第1分冊に取り掛かってから、どのくらい経ったでしょう(調べてみたら、もう9 ヶ月近くになっています)。
 ようやく第1分冊(六百巻のうち七十五巻まで)を読み終えたところです。
 実に多様な、豊かな学びをさせてもらっていますが、特に最後の七十五巻の「初分浄道品第二十一之一」に 「六波羅蜜多に各二種有り、一には世間、二には出世間なりと」とあって、禅定=静慮(じょうりょ)にも俗世間的 なものと超世間的なものがあるという注意がなされているのに感じ入りました。

 シャーリプトラが言った、どのようなものが世間的な禅定ですか。スブーティが答えて言った、もし菩薩・ 大士が禅定を実修しても、拠りどころあって次のような考えをする(場合である)。私は一切の心ある生き ものに利益を与えるために禅定を実修する、私は仏の教えに従って優れた精神統一に関して正しく修行 している、私は禅定を実修している、等。……彼は三つの要素に執着して禅定を実修している、一には自 分という想念、二には他者という想念、三には禅定という想念である。この三つの要素に執着して禅定を 実修しているので、世間的な禅定とするのです。
 シャーリプトラが言った、〔では〕どのようなものが超世間的な禅定波羅蜜多なのですか。スブーティが答 えて言った、もし菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとしよう、一には私が禅定を修行 していると執着しない、二にはそのためにしているのだと心ある生きものに執着しない、三には禅定(その もの)とその成果に執着しない。これを、菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとするの です。

 舎利子言はく、云何が世間の静慮(じょうりょ)なるやと。善現(ぜんげん)答へて言はく、若し菩薩摩訶 薩、静慮を修すと雖も而かも所依有りて謂ゆる是の念を作す、我れ一切有情を 饒益(にょうやく)せんが 為に静慮を修す、我れ仏の教えに随ひて勝等持(しょうとうじ)に於て能く正しく修習す、我れ静慮を行ず と。……彼れ三輪に著して静慮を修す、一には自想、二には他想、三には静慮想なり。是の三輪に著し て静慮を修するに由るが故に、世間の静慮と為すと。
 舎利子言はく、云何が出世間の静慮波羅蜜多なるやと。善現答へて言はく、若し菩薩摩訶薩静慮を修 する時三輪清浄ならん、一には我れ能く定を修すと執せず、二には為す所の有情に執せず、三には静慮 及び果に著せず。是れを菩薩摩訶薩、静慮を修する時三輪清浄なりと為す。

 舎利子・シャーリプトラは、ブッダの弟子の中で智慧が最高と讃えられた人であり、須菩提=善現・スブーティ は空の理解が最高と讃えられた人です。
引用したのは、この二人の問答によって、普通の、世間的な、つまり分別知に捉われた禅定と、真の、超世間 的な、無分別智による禅定の違いを明らかにしている個所です。
 実体としての私が、実体としての生きものたちのために、実体としての禅定を修行するのだ、と思っている間 は、本当の禅定にはならない、というのです。
 私も空、生きものも空、禅定さえも空、禅定の三つの要素も一切空つまり一切無分別となってこそ、ほんもの の禅定です。
 「私は、深い禅定ができるようになって、境地が深まって、人の役にも立てるような人間になれた」などと思って いるうちは、まだまだなんですね。
 道元禅師が「只管打坐(しかんたざ)」といわれたのは、そういう空三昧の坐禅ということであって、ただ坐って いればいいということではないことを、改めて大般若経を通して確認したという気がします。
 私もまだまだ、だから、これからだ、と思いを新たにしました。
 学びには終わりはない、と思います。



(c) samgraha サングラハ教育・心理研究所