足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話(増補再録)

 もう十年以上前に書いた「足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話2」という記事が今でも毎日かなりの数読まれています。

 それどころか、特に9月9日には8千人以上の方が読んでくださいました。

 それは、坐禅・瞑想をやってみたいが、足の痛み・しびれが心配でなかなか踏み出せないという方、思い切ってやってみたがやっぱり辛くて続けられなかったという方が、驚くほど多いということなのかと思われます。

 そこで、そういう方々のために、過去の記事を増補改訂して再録しておくことにしました。参考にしていただければ幸いです。

 坐禅・瞑想は、覚りというレベルまで目指さなくても、ストレスを緩和する効果がとても高いことからしても、それはもったいないことだと思い、筆者は、なるべく痛い思いをしないですむよう、柔軟体操付の坐禅の指導をしてきました。

 さらに、最近では、マインドフルネス瞑想の効果の科学的研究により、ストレス緩和という目的には、両足を組むいわゆる結跏趺坐は必ずしも不可欠でなく、呼吸法がポイントであることが明らかになったようなので、イスでできるやさしい呼吸法・瞑想法=イス坐禅もお伝えすることにしています。
 足の痛みやしびれがやっぱり心配だという方は、ここからスタートしていただけると、楽に入門できると思います。

 もちろん、本格的になってきたら結跏趺坐の坐禅を身に付けていただくのが望ましいと思いますが。

 私は、四十五年以上前に、臨済宗系の秋月龍珉(あきづきりょうみん)先生の道場で坐禅を教わりました。

 他にいろいろな瞑想法があることは、いろいろな文献で学んできましたし、試しにやってみたこともありますが、自分にはこれがいちばん合っていると感じてきました。
 ただ最近は、先にも書いたとおり、試してみてマインドフルネス瞑想法も悪くないと感じていますが。

 ともかく、私がこれまでお伝えしてきたのは、臨済禅系の「坐禅」というかたちの禅定・瞑想です。

 まず「調身」といって体の姿勢を調えるのですが、ご存知のように、坐禅では、左右の足を組む「結跏趺坐(けっかふざ)」というかたちを取ります。

 これはもともと、足をしびれさせて我慢会をさせ、根性を養うためにするのではありません。

 両ひざとお尻の下にしいた座蒲(ざふ)で長さを足した尾てい骨の3点で、ちょうどカメラの三脚のような安定した状態を作るためにするのです。

 これは、脚が長くて痩せている人の多いインド人にとって、静かに長く坐っているためにはいちばん楽な姿勢だと言われています。

 確かに比較的脚の短めの日本人が、足首、膝、股関節やその周辺の筋肉がこちこちに硬いままで、最初から無理にこんな姿勢をすると痛い目にあいます。
 最近は、脚が長い若い世代も多くなりましたが、筋肉・関節が硬いままだと、やはりかなり痛みはあるでしょう。

 かつては、社員研修などで無理やりに坐禅をさせられて、足のしびれと痛みですっかり懲りて、坐禅なんか二度としたくないと思ってしまう人が多かったようで、残念なことでした。

 しかし、ちゃんと準備の柔軟体操をして筋肉・関節を柔らかくしてからすると、それほどひどいことにはなりませんし、慣れてくると体を安定した姿勢にして心を安定させるという目的のためにはやはり結跏趺坐がいちばんふさわしいと感じるようになります。

 最近は、柔軟体操から指導する禅道場もあるようですし、イス坐禅を指導している若い僧侶の方もおられるようですし、私の講座では、必ず柔軟体操をしてから坐っています。

 これまで、このブログの唯識‐仏教の記事を読んできて、人間の根本問題を解決するには、やはりアーラヤ識、マナ識という無意識の領域まで含めた心全体の浄化が必要だと感じた方、少なくとも私のところでは、「足がしびれて痛くてひどい目にあうのではないか」という心配はありません。

 それに、人間の体はとても柔軟に適応できるように出来ていて、坐禅の結跏趺坐や茶道の正座のようなふだんしない坐り方もしばらく続けていると、脚の血管にバイパスが作られてちゃんと血液が流れるようになり、しびれは問題なくなると言われています。
 慣れるまで、つまりバイパスが出来るまで、ほんのしばらくの辛抱です。

 思い切ってがんばって、坐禅に取り組んでみませんか。あるいは、やさしいイスでできる瞑想・イス坐禅からでも始めてみませんか。

 どんなに効果の高いトレーニング・メニューがあっても、それを読んでいるだけでは、レベル・アップはしません。

 どんな特効薬の効能書きがあっても、読んでいるだけでは治りません。

 まちがえないでいただけるとうれしいのですが、仏教の話・知識は薬の効能書きのようなものだと筆者は考えています。

 読んだだけでも、ほっとするという安心効果があるのですから、それではダメだとは思いませんが、それだけではもったいないと思うのです。

 薬やリハビリ・メニューにあたる実際の効果をもたらすのは、六波羅蜜です。

 私は、まわりの若い人によく「飲まない薬は効きません」と言ったものです。

 「飲まない薬が効かなくて、病気がよくならないのは、ぼくの責任じゃないよね?」と。

 これは別に意地悪を言っているわけではないと思いますが、どう思われますか?

 因みに、過去記事のコメントで、お釈迦さまも『遺教経』で「服すと服せざるとは医の咎(とが)に非ず」(飲むか飲まないかは医者の責任ではない)と言っておられることを教えていただきました。

 もっとも最近は、よりポジティブかつやさしく、「飲んだら、よくなりますよ」と言うようにしています。

不安から安心への移行

 繰り返すと、当研究所の講座プログラムは、「正しく適度な心配はするが過剰な不安に囚われず、やれることをやって、後は宇宙に任せる(受容)ことのできる心」を育み、危機の時代を生き抜く心備えを確立することを目指しています。

 不安に対処する3つの方法のうち③の「正しく考える」方法としては、論理療法、ロゴセラピー、ポジティブシンキングなど、「大きく正しく考える」方法としてマルクス・アウレーリウスなどのトア哲学、そして唯識ー仏教心理学、さらにそれらを融合したコスモロジー心理学などのプログラムを提供しています。

 こうした方法を適切に組み合わせながら、繰り返し持続的に実行すると、「不安を感じていない時間」が多くなることは確実ですし、究極の理想的モデルとしては、不安も含め悩みが一切ない大安心(だいあんじん)・涅槃・ニルヴァーナの境地に到達できることになっています。

 不安から大安心までは、白黒ではなくいわばグラデーションですが、ともかく瞑想を核とした総合的プログラムに参加していただくことでストレス・不安から安心への大幅な移行が起こることは、参加者の方々へのアンケート調査からも明らかです(まだ第三者による科学的エビデンスがないので、自己宣伝っぽくなるのが残念ですが)。

 実際に体験していただくことに優るものはないのですが(「百聞は一見に如かず」!)、なかなか時間が取れない、おっくうだ、ためらいがある…といった方のためにも、参加していただいた方の反復学習用にも、今後ともできる範囲で公開していきたいと思っていますので、読んで参考にしていただけると幸いです。


*東京土曜講座の「不安の時代の心理学――なぜいまコスモロジー心理学か」は、次回、10月6日の第2回のみの参加も可能です。前回の簡単な復習――シンプルで楽な瞑想を含む――をして先に進みますから、この回のみご参加いただいても、十分、多くのヒントを得ていただけると思います。

瞑想はストレス・不安を緩和する

 最近、アメリカでは、「マインドフルネス瞑想法」が大流行しているようです。

 いまやグーグル、アップル、ヤフー、メルカリ、ゴールドマン・サックス、サンサン、ゼネラル・ミルズ、メドトロニック、エトナなどなど、もっと、多数の優良企業が社員教育に採り入れているというのは、驚きです。

 しかし、日本にとってマインドフルネスはいわば仏教の瞑想法の逆輸入物で、それは以下のとおり創始者のジョン・カバットジン氏もはっきり認めているとおりです。

 「『マインドフルネス瞑想法』というのは、“今”という瞬間に完全に注意を集中するという方法です。これは、仏教における瞑想の中核といわれており、禅宗を初めとして、そのほかの仏教宗派でも非常に重んじられているものです。しかし、仏陀も強調しているように、『マインドフルネス瞑想法』は、仏教と以外の人が普通の生活に広く応用できる普遍性を備えているものです。私は、多くのアメリカ人が、新しい生活や新しい生き方をめざし、この古くから実践されてきた『マインドフルネス瞑想法』をとり入れ、それが肉体的にも精神的にもたいへん役だっていることを、日本の方々にも是非お知らせしておきたいと思います。」(春木豊訳『マインドフルネス ストレス低減法』「日本の読者のみなさんへ」ⅵ、北大路書房)

 とはいっても、もちろん伝統的なかたちそのままではなく、「マインドフルネスストレス低減法は、東洋思想や技法をベースにしているのであるが、それをカバットジンはプログラム化して分かりやすくしていることである」と訳者の春木先生は言っておられます(同書ⅲ)

 筆者が学んでいる範囲で言うと、

 ①仏教の特定宗派の教義は説かず、心を調えるうえで妥当・有効な洞察だけを採り入れている、
 ②結跏趺坐にこだわらず、より楽な坐り方やイスでもできるように工夫している、
 ③体のリラックス法としてヨーガもそうとうに採り入れている、
 ④それらの全体がプログラム化されており、その臨床効果が医学的・科学的に検討―確認されてきている、

といったところが大きな特徴だと思われます。

 中でも、たくみなプログラム化と臨床効果の科学的実証については、長年いわば本家の禅のかたちで実践してきた筆者も脱帽です。

 それから、臨床効果の科学的なエビデンスを学んだ結果、坐禅・瞑想の姿勢は「結跏趺坐でなければならない」という一種の原理主義を、少なくともストレス緩和の方法という点に関しては大幅にゆるめることにしました。

 そこで、すでに研究所の講座では、かなりゆるやかにやっていただくようご指導してきましたが、結跏趺坐や半跏趺坐でも足の痛み・しびれでつらい方には、より楽な坐り方やイスでもできる瞑想法として、より積極的に「マインドフルネス的瞑想法」――こちらがいわば本家なわけですが「マインドフルネス瞑想法」としてまとめ上げたのはカバットジン氏ですから、敬意を表して少し呼び方を変えることにしました――も使っていこうと思っています。

 いずれにせよ、坐禅、マインドフルネス瞑想法、ヨーガの瞑想法、ヴィパッサナー瞑想法、チベット仏教の瞑想法などの瞑想どれもが、ストレス・不安の緩和に顕著な効果があることは、もう議論の余地はないようです。

 あと、ストレス・不安の緩和法としてどれを選択するかは、自分との相性の問題なのかもしれません。

考えなければ不安はない

 考えるのなら、腰を据えて考え抜く。

 いい考えが浮かばないのなら、一度徹底的に頭を空っぽにしてみる。

 考えなければ、ストレスは感じない、不安にも鬱にもならない。

 俗な言い方をすれば、「バカは悩まない」のである。「バカはへこたれない」「バカほど打たれ強い」。

 では、いったん意図的にバカになってしまってはどうだろう。 


 以下の『大般若経』(初分教誡教授品第七之二十六)の言葉も、とても格調の高い言い方をしているが、要するにそういうことを言っているのだと思われる。

 スブーティよ、覚りを求める者・志の大きな者が智慧を完成する行を修行する時には、すべてのことについて認識しないようにする(何も考えない)。すべてのことについて認識しない時には、その心は衝撃を受けるとか恐怖を感じるとか不安におののくといったことはない。すべてのことにかかわって心が沈み込んでしまうことも、またくよくよと鬱になることもない。

 善現、是の如く菩薩摩訶薩、般若波羅蜜多を修行する時、一切法に於て都(すべ)て見る所無し。一切法に於て見る所無き時、其の心驚かず恐れず怖(おのの)かず。一切法に於て心沈没(ちんもつ)せず亦た憂悔(うげ)せず。

錬磨心:唯識のことば37

 
 
 唯識を学んでいると、修行者がしばしばぶつかる問題について、実に用意周到かつみごとに答えられていて、感心してしまうことがよくあります。今回の個所も、その一つです。
 
 
 
 どのようにして悟入することができるのか。……三相の錬磨心があるから。……

 [第一は自分自身を軽く賤しいものとする退行の心である。……

 修行者のなかには、この上ない悟りがはなはだ広く深く修行することも獲得することも難しいと聞いて、いま私などにどうしてこうした獲得しがたい無上の悟りが得られようか、と思う者がいる……。

 こうした思い込みがあるので、自分自身の心が退行する。

 この心を除くために、第一の錬磨心を学ぶべきである。]

 全世界は量りしれないものであるから。

 人間世界にある無数の衆生は、あらゆる瞬間にこの上ない悟りを得る〔ことがありうる〕。

 これを〔知ることを〕、第一の錬磨心と名づける。

                   (『摂大乗論現代語訳』一一一~二頁) 
 
  
 引用のうち、 [ ] 内は、アサンガ(無著)菩薩の本文に対するヴァスバンドゥ(世親)菩薩の注釈ですが、初めて読んだとき、人間の弱さに対するきわめて鋭い洞察に感心させられました。

 初心者や、しばらく修行した人のなかに、「悟りなんて、私みたいなダメな(あるいは、怠け者の、集中力のない、素質の悪い……)人間にはとても無理です」といいはじめる人がいます。

 ヴァスバンドゥ菩薩は、そういうことをよく知っていて、その気持ちへの深い共感ももっていたようです。

 しかし共感したからといって、「私なんかには無理だ」という気持ちをそのまま認めるわけではありません。

 はっきり、「それは思い込みだ」といっています。

 「思い込み」の漢訳は「執」で、自分へのマイナスのこだわりです。

 アドラーの用語を借りれば「劣等コンプレックス」、マズローの用語を借りれば「ヨナ・コンプレックス」といったところでしょう。

 「私なんか悟れっこない」というのは、霊性的な劣等コンプレックスであり、こだわりであり、思い込みであって、正しい自己認識ではないのです。

 そういう思い込みが、いつのまにか、修行をやめ、元の凡夫へと退行する口実になります。

 「退屈心」とか「退弱心(こにゃくしん)」といわれる、人間成長の途上で起こりがちな、典型的な霊性の病い(の三つのうちの第一)です。

 それ(第一の退屈心)は、どうしたら治せるかというと、「(第一の)錬磨心」を学ぶことによってだといいます。

 同じような退屈心の起こりがちな私たちも、アサンガの言葉によく耳を傾けましょう。

 「人間、つまり八識を抱えた存在として生まれた者にとって、人生のあらゆる瞬間は悟りのチャンスである」ことを認識するのが、第一の錬磨心だといいます。

 このことを、しっかり心に収めれば、劣等コンプレックスは根本的に解消されるはずです。

 私たちはみな、まちがいなく八識の凡夫ですから、だからこそこの人生は悟りのチャンスだともいえるのです。
 
 
 

人間成長の六つの方法:唯識のことば30

 

 
 「また一切の衆生と共にあって成熟させるための依りどころだから」というのは、

 布施波羅蜜によって衆生に利益を与え、持戒波羅蜜によって衆生に害を与えない。

 忍辱波羅蜜によって彼らの迫害をあまんじて受け、恨みに報いる心を起こさない。

 精進波羅蜜によって、彼の善の機能を生えさせ、彼の悪の機能を枯らす。

 こうした利益を原因として、一切の衆生をみな教育・調整することができる。

 次に彼の心がまだ静寂さを得ていないならば静寂にさせるために、すでに静寂を得ているならば解脱させるために、禅定と智慧という波羅蜜を立てる。

 これら六つの悟りの彼岸へ到る手段によって、菩薩はよく衆生を教える。それゆえに、成熟させることができる。

                        (摂大乗論第四章より)


 「教えることは学ぶこと」ということばがあります。

 ただ学んだだけだと、実は学んだつもりなだけで、人に伝えようとしても記憶があいまいでちゃんと話せないとか、聞かれても説明できないとか、人生のいざという時に使えないということになりがちです。

 人に教えると、自分がきちんとつかんでいないとしどろもどろになりますから、真剣に学び、説明できるところまで理解しようとします。

 そして、教えている間に、自分でも「そうか、そうだな」と納得していくということが起こります。

 大乗仏教の実践の基本は六波羅蜜です(六波羅蜜についてよりくわしくはこの記事以下を参照してください)。

 これを実践することは、一切の衆生を成長・成熟させることですが、同時に一緒に成長・成熟していくことにもなります。

 利益を与え、害を与えない。報復をしない。つまり、あらゆる方法で、その人の存在を肯定すること、「あなたが生きていることはすばらしいことだ」というメッセージを贈ることこそ、人を教育するための原点です。

 それによって、その人の中に自他を肯定できる善い心の機能が生まれ、自他を否定する悪い心の機能が弱くなり、消えていきます。

 そういう努力を続けることが、人を育てることなのです。

 それに加えて、空しい欲望や怒りや嫉妬や空しさや落ち込みで心が騒ぎ・動揺して悩んでいる人に、禅定をすると心が静かで爽やかになると勧め、心が静かになったところで、世界の本当の姿の学びを伝え、ニヒリストかエゴイストか、さもなければ小市民的な幸福主義者かといった、人間性の低いレベルから脱出する手段を提供する。

 そういうふうにして、「菩薩はよく衆生を教える」、そして「成熟させることができる」のです。

 そしてまだ初歩の菩薩である私たちは、そういうことを人に伝える努力をすることで、同時に自分自身の心にも伝え、染み込ませ(熏習)、全身心的に自分のものにして、自分を成長・成熟させることができるでしょう。

 筆者などは、どちらかというと、させるよりも自分のほうがさせてもらっているという気がしますが、いずれにせよ、六波羅蜜の実践は自分と他者とが共に成熟していくためのきわめて有効な依りどころ・手段・方法だと、改めて思います。

 あきることなく、みんなで一緒に教え・教えられながら、実践を続けていきたいものです。