瞑想はストレス・不安を緩和する

 最近、アメリカでは、「マインドフルネス瞑想法」が大流行しているようです。

 いまやグーグル、アップル、ヤフー、メルカリ、ゴールドマン・サックス、サンサン、ゼネラル・ミルズ、メドトロニック、エトナなどなど、もっと、多数の優良企業が社員教育に採り入れているというのは、驚きです。

 しかし、日本にとってマインドフルネスはいわば仏教の瞑想法の逆輸入物で、それは以下のとおり創始者のジョン・カバットジン氏もはっきり認めているとおりです。

 「『マインドフルネス瞑想法』というのは、“今”という瞬間に完全に注意を集中するという方法です。これは、仏教における瞑想の中核といわれており、禅宗を初めとして、そのほかの仏教宗派でも非常に重んじられているものです。しかし、仏陀も強調しているように、『マインドフルネス瞑想法』は、仏教と以外の人が普通の生活に広く応用できる普遍性を備えているものです。私は、多くのアメリカ人が、新しい生活や新しい生き方をめざし、この古くから実践されてきた『マインドフルネス瞑想法』をとり入れ、それが肉体的にも精神的にもたいへん役だっていることを、日本の方々にも是非お知らせしておきたいと思います。」(春木豊訳『マインドフルネス ストレス低減法』「日本の読者のみなさんへ」ⅵ、北大路書房)

 とはいっても、もちろん伝統的なかたちそのままではなく、「マインドフルネスストレス低減法は、東洋思想や技法をベースにしているのであるが、それをカバットジンはプログラム化して分かりやすくしていることである」と訳者の春木先生は言っておられます(同書ⅲ)

 筆者が学んでいる範囲で言うと、

 ①仏教の特定宗派の教義は説かず、心を調えるうえで妥当・有効な洞察だけを採り入れている、
 ②結跏趺坐にこだわらず、より楽な坐り方やイスでもできるように工夫している、
 ③体のリラックス法としてヨーガもそうとうに採り入れている、
 ④それらの全体がプログラム化されており、その臨床効果が医学的・科学的に検討―確認されてきている、

といったところが大きな特徴だと思われます。

 中でも、たくみなプログラム化と臨床効果の科学的実証については、長年いわば本家の禅のかたちで実践してきた筆者も脱帽です。

 それから、臨床効果の科学的なエビデンスを学んだ結果、坐禅・瞑想の姿勢は「結跏趺坐でなければならない」という一種の原理主義を、少なくともストレス緩和の方法という点に関しては大幅にゆるめることにしました。

 そこで、すでに研究所の講座では、かなりゆるやかにやっていただくようご指導してきましたが、結跏趺坐や半跏趺坐でも足の痛み・しびれでつらい方には、より楽な坐り方やイスでもできる瞑想法として、より積極的に「マインドフルネス的瞑想法」――こちらがいわば本家なわけですが「マインドフルネス瞑想法」としてまとめ上げたのはカバットジン氏ですから、敬意を表して少し呼び方を変えることにしました――も使っていこうと思っています。

 いずれにせよ、坐禅、マインドフルネス瞑想法、ヨーガの瞑想法、ヴィパッサナー瞑想法、チベット仏教の瞑想法などの瞑想どれもが、ストレス・不安の緩和に顕著な効果があることは、もう議論の余地はないようです。

 あと、ストレス・不安の緩和法としてどれを選択するかは、自分との相性の問題なのかもしれません。

考えなければ不安はない

 考えるのなら、腰を据えて考え抜く。

 いい考えが浮かばないのなら、一度徹底的に頭を空っぽにしてみる。

 考えなければ、ストレスは感じない、不安にも鬱にもならない。

 俗な言い方をすれば、「バカは悩まない」のである。「バカはへこたれない」「バカほど打たれ強い」。

 では、いったん意図的にバカになってしまってはどうだろう。 


 以下の『大般若経』(初分教誡教授品第七之二十六)の言葉も、とても格調の高い言い方をしているが、要するにそういうことを言っているのだと思われる。

 スブーティよ、覚りを求める者・志の大きな者が智慧を完成する行を修行する時には、すべてのことについて認識しないようにする(何も考えない)。すべてのことについて認識しない時には、その心は衝撃を受けるとか恐怖を感じるとか不安におののくといったことはない。すべてのことにかかわって心が沈み込んでしまうことも、またくよくよと鬱になることもない。

 善現、是の如く菩薩摩訶薩、般若波羅蜜多を修行する時、一切法に於て都(すべ)て見る所無し。一切法に於て見る所無き時、其の心驚かず恐れず怖(おのの)かず。一切法に於て心沈没(ちんもつ)せず亦た憂悔(うげ)せず。

自由自在の境地:唯識のことば39

 
 
 
 ①生死と涅槃において もし智が起こるならば平等である

 ②生死はすなわち涅槃である 二つにはあれこれはないからである

 ③それゆえに、生死において 捨てるのでなく、捨てないのでもない

 ④涅槃においてもそうである 得ることもなく、得ないこともない

               (『摂大乗論現代語訳』一八〇~一頁)

 
 
 大乗仏教の流れの一つである唯識が、結局のところ目指しているのは「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」 1) 2)です。

 生まれ変わり死に変わり、果てしなく生死輪廻することにも、それから完全に抜け出してしまうことにもとらわれない、自由自在の境地です。

 これは私たち「凡夫の菩薩」にはなかなか到達しがたい高み――心理学的な言い方をすれば「人間成長の最高段階」――ですが、話に聞くだけでも心が爽やかになるような気がします。

 引用したアサンガ・無著の頌(詩句)に、ヴァスバンドゥ・世親がほとんど解説の必要のないくらいみごとな注釈を加えていますので、訳してそのままご紹介します。

 まず①に「生死と涅槃とはどちらも分別が作り出すものであって、〔真実には〕同一の真如なのである。もし、無分別智を得れば、これを対象として平等が起こる」、

 ②に「不浄なあり方を生死と名づけ、清浄なあり方を涅槃と名づける。生死は虚妄であり、人間と存在の二つに実体性がないということが涅槃である。無分別智を得て、生死に実体性がないことを知れば、すなわち涅槃にも実体性がないことを知る。それゆえに、あれこれという違いはない」と注釈しています。

 これは、宇宙は、生死=迷いの世界と涅槃=覚りの世界の両方を包み含んで一つの宇宙だ、と言い換えられるでしょう。

 分離したものと捉えるのは、私たちの常識的・分離的なものの見方にすぎません。
 
 もし本当の智慧の目で見れば、全く一つ=平等、あれこれという違いはないというのです。

 続いて③に「無我を観じるけれども生死を離れない。これが、『捨てるのではない』ということの意味である。生死にあるけれども、常に無我を観じている。これが、『捨てないのでもない』ということである」、

 ④に「生死を離れて別に真理はないということを涅槃と名づける。菩薩はすでに生死をさえ得ず、また涅槃も得ない。これが、『得ることがない』ということの意味である。菩薩は生死に関して常にすばらしくかつ寂静であることを観じる。これが、『得ないこともない』ということの意味である」と注釈しています。

 宇宙はつながって一つであり、絶えずダイナミックに変化しています。

 個としての私は、宇宙と一つの、宇宙の現われ・働きの一部だと心の奥底まで気づくと、もう生にも死にも輪廻にも涅槃にも縛られない自由の境地に到るというのです。

 私たちも、そういう境地に一歩でも近づきたいものです。