錬磨心:唯識のことば37

 
 
 唯識を学んでいると、修行者がしばしばぶつかる問題について、実に用意周到かつみごとに答えられていて、感心してしまうことがよくあります。今回の個所も、その一つです。
 
 
 
 どのようにして悟入することができるのか。……三相の錬磨心があるから。……

 [第一は自分自身を軽く賤しいものとする退行の心である。……

 修行者のなかには、この上ない悟りがはなはだ広く深く修行することも獲得することも難しいと聞いて、いま私などにどうしてこうした獲得しがたい無上の悟りが得られようか、と思う者がいる……。

 こうした思い込みがあるので、自分自身の心が退行する。

 この心を除くために、第一の錬磨心を学ぶべきである。]

 全世界は量りしれないものであるから。

 人間世界にある無数の衆生は、あらゆる瞬間にこの上ない悟りを得る〔ことがありうる〕。

 これを〔知ることを〕、第一の錬磨心と名づける。

                   (『摂大乗論現代語訳』一一一~二頁) 
 
  
 引用のうち、 [ ] 内は、アサンガ(無著)菩薩の本文に対するヴァスバンドゥ(世親)菩薩の注釈ですが、初めて読んだとき、人間の弱さに対するきわめて鋭い洞察に感心させられました。

 初心者や、しばらく修行した人のなかに、「悟りなんて、私みたいなダメな(あるいは、怠け者の、集中力のない、素質の悪い……)人間にはとても無理です」といいはじめる人がいます。

 ヴァスバンドゥ菩薩は、そういうことをよく知っていて、その気持ちへの深い共感ももっていたようです。

 しかし共感したからといって、「私なんかには無理だ」という気持ちをそのまま認めるわけではありません。

 はっきり、「それは思い込みだ」といっています。

 「思い込み」の漢訳は「執」で、自分へのマイナスのこだわりです。

 アドラーの用語を借りれば「劣等コンプレックス」、マズローの用語を借りれば「ヨナ・コンプレックス」といったところでしょう。

 「私なんか悟れっこない」というのは、霊性的な劣等コンプレックスであり、こだわりであり、思い込みであって、正しい自己認識ではないのです。

 そういう思い込みが、いつのまにか、修行をやめ、元の凡夫へと退行する口実になります。

 「退屈心」とか「退弱心(こにゃくしん)」といわれる、人間成長の途上で起こりがちな、典型的な霊性の病い(の三つのうちの第一)です。

 それ(第一の退屈心)は、どうしたら治せるかというと、「(第一の)錬磨心」を学ぶことによってだといいます。

 同じような退屈心の起こりがちな私たちも、アサンガの言葉によく耳を傾けましょう。

 「人間、つまり八識を抱えた存在として生まれた者にとって、人生のあらゆる瞬間は悟りのチャンスである」ことを認識するのが、第一の錬磨心だといいます。

 このことを、しっかり心に収めれば、劣等コンプレックスは根本的に解消されるはずです。

 私たちはみな、まちがいなく八識の凡夫ですから、だからこそこの人生は悟りのチャンスだともいえるのです。
 
 
 

依りどころとしての無分別智:唯識のことば34

 
 
 
 ふつうの人つまり凡夫は、自分の思いどおりに生きたいということを基本にしていて、それは当たり前だと思い込んでいます。

 これは特に現代の若い世代であるほど、その傾向が強いようです。

 八識的な心、特にマナ識的な心が生き方の基本・依りどころになっているといってもいいでしょう。

 それに対して、そういうふつうのものの見方や生き方には限界がある、つまりよりよく生きさわやかに逝くための本当の依りどころにはならないと気づいて、それを超えたいと思っている人つまり菩薩は、そういう八識あるいはマナ識的な心を最終的な依りどころにして生きようとは、もう思っていません。

 そういう意味で、菩薩の生きる依りどころはふつうにいう「心」ではないわけです。

 かといって、意識という意味での「心」がなくなってしまったのではもちろん生きていけません。

 ではどういうことになるのかというと、菩薩は繰り返し禅定において体験する無分別智の心を究極の依りどころにするのだといわれています。
 
 
 諸菩薩の依りどころは 心でなく心でないのでもない それは無分別智であって 妄想の類ではないからである

 諸菩薩〔が菩薩になる・であるため〕の直接・間接の原因(=因縁)は 語られた言葉を聞いたことの熏習であり それは無分別智であって 理のままに正しく思惟することである……

 諸菩薩を維持するものは 無分別智であって 〔それによって〕その後得智の働きは 成長し究極に到ることができる
                           (摂大乗論第八章より)
 
 
 
 菩薩・修行者は、そういう無分別智に関する教えを聞いてまずは意識的・分別知的に正しく分かり、アーラヤ識に熏習していきます。

 そして繰り返し思い出して、それが理にかなっていることを自分の心のなかで確認します。

 そしてもちろん禅定を実践します(「思惟」には、思索することと禅定することの二重の意味があります)。

 菩薩が菩薩になるための原因は、正しく聞くことと正しく思惟すること(さらに分けていうと思・思索と修・禅定)を繰り返すことです。

 そういう聞くことと思惟すること(聞-思-修)を怠っていると、いつの間にか凡夫に戻り、菩薩でなくなってしまう、とアサンガ菩薩は警告しています。

 すなわち、聞・思・修が、菩薩になる・であるための基本・依りどころなのです。

 食べ物を食べないでいるとお腹が空っぽになってくるように、心の糧を摂取しないでいると心が空しくなるのは、当たり前のはずなのですが、私たちはしばしば忘れてしまいがちです。

 一度か何度か聞いて、分かったつもりになったら、もう学ばない、少し坐禅をしてみて爽やかな気分を体験したけど、いつの間にかあきたりめんどくさくなったりして止めていた、ということがよくあります。

 しかし、凡夫と違った広くて豊かな心の存在・菩薩になるためにも、菩薩であることを維持するためにも、不可欠なものは無分別智です。

 これは文字どおり「不可欠」・欠かせないのです。

 無分別智を繰り返し学ぶことによって、日常生活をより質の高いものにしてくれる「後得智」も豊かに成長し完成していく、とアサンガ菩薩・『摂大乗論』は保証しています。

 その言葉を信じて、さらなる実践を続け、菩薩であり続けましょう。