足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話(増補再録)

 もう十年以上前に書いた「足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話2」という記事が今でも毎日かなりの数読まれています。

 それどころか、特に9月9日には8千人以上の方が読んでくださいました。

 それは、坐禅・瞑想をやってみたいが、足の痛み・しびれが心配でなかなか踏み出せないという方、思い切ってやってみたがやっぱり辛くて続けられなかったという方が、驚くほど多いということなのかと思われます。

 そこで、そういう方々のために、過去の記事を増補改訂して再録しておくことにしました。参考にしていただければ幸いです。

 坐禅・瞑想は、覚りというレベルまで目指さなくても、ストレスを緩和する効果がとても高いことからしても、それはもったいないことだと思い、筆者は、なるべく痛い思いをしないですむよう、柔軟体操付の坐禅の指導をしてきました。

 さらに、最近では、マインドフルネス瞑想の効果の科学的研究により、ストレス緩和という目的には、両足を組むいわゆる結跏趺坐は必ずしも不可欠でなく、呼吸法がポイントであることが明らかになったようなので、イスでできるやさしい呼吸法・瞑想法=イス坐禅もお伝えすることにしています。
 足の痛みやしびれがやっぱり心配だという方は、ここからスタートしていただけると、楽に入門できると思います。

 もちろん、本格的になってきたら結跏趺坐の坐禅を身に付けていただくのが望ましいと思いますが。

 私は、四十五年以上前に、臨済宗系の秋月龍珉(あきづきりょうみん)先生の道場で坐禅を教わりました。

 他にいろいろな瞑想法があることは、いろいろな文献で学んできましたし、試しにやってみたこともありますが、自分にはこれがいちばん合っていると感じてきました。
 ただ最近は、先にも書いたとおり、試してみてマインドフルネス瞑想法も悪くないと感じていますが。

 ともかく、私がこれまでお伝えしてきたのは、臨済禅系の「坐禅」というかたちの禅定・瞑想です。

 まず「調身」といって体の姿勢を調えるのですが、ご存知のように、坐禅では、左右の足を組む「結跏趺坐(けっかふざ)」というかたちを取ります。

 これはもともと、足をしびれさせて我慢会をさせ、根性を養うためにするのではありません。

 両ひざとお尻の下にしいた座蒲(ざふ)で長さを足した尾てい骨の3点で、ちょうどカメラの三脚のような安定した状態を作るためにするのです。

 これは、脚が長くて痩せている人の多いインド人にとって、静かに長く坐っているためにはいちばん楽な姿勢だと言われています。

 確かに比較的脚の短めの日本人が、足首、膝、股関節やその周辺の筋肉がこちこちに硬いままで、最初から無理にこんな姿勢をすると痛い目にあいます。
 最近は、脚が長い若い世代も多くなりましたが、筋肉・関節が硬いままだと、やはりかなり痛みはあるでしょう。

 かつては、社員研修などで無理やりに坐禅をさせられて、足のしびれと痛みですっかり懲りて、坐禅なんか二度としたくないと思ってしまう人が多かったようで、残念なことでした。

 しかし、ちゃんと準備の柔軟体操をして筋肉・関節を柔らかくしてからすると、それほどひどいことにはなりませんし、慣れてくると体を安定した姿勢にして心を安定させるという目的のためにはやはり結跏趺坐がいちばんふさわしいと感じるようになります。

 最近は、柔軟体操から指導する禅道場もあるようですし、イス坐禅を指導している若い僧侶の方もおられるようですし、私の講座では、必ず柔軟体操をしてから坐っています。

 これまで、このブログの唯識‐仏教の記事を読んできて、人間の根本問題を解決するには、やはりアーラヤ識、マナ識という無意識の領域まで含めた心全体の浄化が必要だと感じた方、少なくとも私のところでは、「足がしびれて痛くてひどい目にあうのではないか」という心配はありません。

 それに、人間の体はとても柔軟に適応できるように出来ていて、坐禅の結跏趺坐や茶道の正座のようなふだんしない坐り方もしばらく続けていると、脚の血管にバイパスが作られてちゃんと血液が流れるようになり、しびれは問題なくなると言われています。
 慣れるまで、つまりバイパスが出来るまで、ほんのしばらくの辛抱です。

 思い切ってがんばって、坐禅に取り組んでみませんか。あるいは、やさしいイスでできる瞑想・イス坐禅からでも始めてみませんか。

 どんなに効果の高いトレーニング・メニューがあっても、それを読んでいるだけでは、レベル・アップはしません。

 どんな特効薬の効能書きがあっても、読んでいるだけでは治りません。

 まちがえないでいただけるとうれしいのですが、仏教の話・知識は薬の効能書きのようなものだと筆者は考えています。

 読んだだけでも、ほっとするという安心効果があるのですから、それではダメだとは思いませんが、それだけではもったいないと思うのです。

 薬やリハビリ・メニューにあたる実際の効果をもたらすのは、六波羅蜜です。

 私は、まわりの若い人によく「飲まない薬は効きません」と言ったものです。

 「飲まない薬が効かなくて、病気がよくならないのは、ぼくの責任じゃないよね?」と。

 これは別に意地悪を言っているわけではないと思いますが、どう思われますか?

 因みに、過去記事のコメントで、お釈迦さまも『遺教経』で「服すと服せざるとは医の咎(とが)に非ず」(飲むか飲まないかは医者の責任ではない)と言っておられることを教えていただきました。

 もっとも最近は、よりポジティブかつやさしく、「飲んだら、よくなりますよ」と言うようにしています。

『サングラハ』第161号が出来ました!

  会報誌『サングラハ』第161号が出来ました。

 本日発送しましたので、読者のみなさん、少しお待ちください。

 今号も執筆者のみなさんの力作の原稿が揃いました。

 特にコスモロジー教育の小学校での実践報告、子どもたちの感想がなかなか感動的です。

 筆者の「『唯識三十頌』を学ぶ」は、唯識を初歩から学びたい方のための連載です。まだ第2回ですから、前号の第1回と合わせて読んでいただければ、唯識の学びのスタートが切れるので、お勧めします。

 関心を持ってくださるブログ読者のみなさん、よろしければ、さらに踏み込んで本誌もお読みになりませんか。


  目 次

 ■ 近況と所感……………………………………………………… 2

 ■『唯識三十頌』を学ぶ(2)……………………………岡野守也… 6

 ■ 唯識と論理療法を融合的に学ぶ(11)………………… 〃…… 16

 ■ 新・ゴータマ・ブッダのことば(13)……………………羽矢辰夫…34

 ■ 近代、アメリカ、日本三つの未完のプロジェクト(1)…増田満… 36

 ■ 実践報告:合唱曲「COSMOS」の詞より(2)……松原弘和…… 42

 ■ 講座・研究所案内…………………………………………………46

 ■ 私の名詩選(60)万葉集の月の歌…………………………………48


 お問い合わせは、samgraha*smgrh.gr.jp(*を@に換えてください) へどうぞ。

不安から安心への移行

 繰り返すと、当研究所の講座プログラムは、「正しく適度な心配はするが過剰な不安に囚われず、やれることをやって、後は宇宙に任せる(受容)ことのできる心」を育み、危機の時代を生き抜く心備えを確立することを目指しています。

 不安に対処する3つの方法のうち③の「正しく考える」方法としては、論理療法、ロゴセラピー、ポジティブシンキングなど、「大きく正しく考える」方法としてマルクス・アウレーリウスなどのトア哲学、そして唯識ー仏教心理学、さらにそれらを融合したコスモロジー心理学などのプログラムを提供しています。

 こうした方法を適切に組み合わせながら、繰り返し持続的に実行すると、「不安を感じていない時間」が多くなることは確実ですし、究極の理想的モデルとしては、不安も含め悩みが一切ない大安心(だいあんじん)・涅槃・ニルヴァーナの境地に到達できることになっています。

 不安から大安心までは、白黒ではなくいわばグラデーションですが、ともかく瞑想を核とした総合的プログラムに参加していただくことでストレス・不安から安心への大幅な移行が起こることは、参加者の方々へのアンケート調査からも明らかです(まだ第三者による科学的エビデンスがないので、自己宣伝っぽくなるのが残念ですが)。

 実際に体験していただくことに優るものはないのですが(「百聞は一見に如かず」!)、なかなか時間が取れない、おっくうだ、ためらいがある…といった方のためにも、参加していただいた方の反復学習用にも、今後ともできる範囲で公開していきたいと思っていますので、読んで参考にしていただけると幸いです。


*東京土曜講座の「不安の時代の心理学――なぜいまコスモロジー心理学か」は、次回、10月6日の第2回のみの参加も可能です。前回の簡単な復習――シンプルで楽な瞑想を含む――をして先に進みますから、この回のみご参加いただいても、十分、多くのヒントを得ていただけると思います。

「死んだら終わり」から「生命は生き続ける」へ

 前回の記事「死の怖れとコスモロジー教育」にたくさんの読者がアクセスしてくれました。
 
 有難うございました。

 リンクしておいた関連記事まで読んでくださった方も少なくなかったようなので、読み返しながら、さらに他の関連記事も再録したりリンクしたりしておくともっといいと思い、以下、再録とリンクをします。

 続けて読んで参考にしていただけると幸いです。

 前の記事で「戦後教育を真に受けたら当然こうなる」と書きました。

 それについてくわしくは

 「死んだらどうなると思っていますか?」(2005年08月20日)
 「近代化の徹底とニヒリズム」(2005年08月30日)
 近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 1(2005年09月02日)
 近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 2(2005年09月03日)
 「現代科学のコスモロジー:そのアウトライン」(2005年10月9日)

などを参照していただきたいのですが、

 ともかく「いろいろな事情があって、日本の戦後教育では『近代科学』の大まかな成果は学校で教えられるのですが、『現代科学』の、特にコスモロジーとしての到達点については、まったくといっていいほど教えられてい」ないのが大問題なのです。

 「近代科学は、すべてを究極の部分(ある段階では「原子」という「物質」)に分析・還元して、世界の客観的な姿を捉える努力をしてきました。…/それは、研究の方法としては、きわめて有効・妥当だったのですが、まず何よりも、「生きた現実」としての世界の姿を捉えたとはいえません。それが第1の問題点です。
 そして第2の問題点は…そうした方法で描かれた世界は、ばらばらのモノ(原子)の組み合わせでできていて、神も魂もそういう方法では検証できない以上存在しないことになったということです。
 個々人のいのちや心さえも「物質の組み合わせと働きにすぎない」ということになったのです。
 「神はいない。人間とモノだけがある」から「神はいない。モノだけがある」というところまでいった物質還元主義(唯物主義)な科学の目で見ると、「すべては究極の意味などないただのばらばらのモノの寄せ集めだ」ということになります。
 世界はばらばらのモノの寄せ集めであると考えるような世界観を、私はわかりやすく〈ばらばらコスモロジー〉と呼んでいます。
 近代の世界観はつきつめると〈ばらばらコスモロジー〉になり、それを人生観にまで適用すると、ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義に到らざるをえない、そこに近代の決定的なマイナス面・限界(の主要な1つのポイント)がある、というのが私の見方です。」

 しかし現代科学のコスモロジーからは、以下のようなことが言えるのです。 

 「相対性理論と散逸構造論とビッグ・バン仮説と、ワトソンとクリック以降の遺伝子研究・分子生物学などを総合して「生命」を考えると、

 「生命も複雑ではあるが物質の組み合わせにすぎず、死んだら元のばらばらの物質に解体して終わり、相対的意味もなくなる」ということではなく、

 「生命は宇宙の自己複雑化・自己進化の成果であり、確かに個体は死ぬが、それですべてが終わりではなく、DNAによって生命そのものは引き継がれ、生き続けている。

 地球上の生命は、誕生してから約40億年生き続けているし、今後も(当分、数十億年は)生き続けるだろう」ということになったのです。

 しかも、宇宙エネルギー・レベルで見ると、個体・個人もまた、宇宙エネルギーから生まれ、今も宇宙エネルギーの一つのかたちとして生きており、死んでも宇宙エネルギーであるまま、あるいは「宇宙エネルギーの世界に還るだけ」と言ってもいいのですから、「死んだら終わり」ではないのです。」

 よりくわしくは

 「現代科学のコスモロジー:ポイントの整理表」(2012年07月13日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 1」(2012年07月26日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 2」(2012年07月27日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 3」(2012年07月28日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 4」(2012年07月29日 )

などをお読みください。

 きっと、過度な死の怖れの緩和、空しさからの脱出、つまりニヒリズムの克服の確かな手掛かりにしていただけると思います。

法身と意識的努力:唯識のことば40

 本連載は、ひとまず今回で終了(ストック切れ)です。

 ご愛読いただいたたくさんの読者に心から感謝申し上げます。

 できれば、また時々は新しい記事を書いていきたいと思っていますので、お待ちください。

 
 
  
 諸仏如来に具わっている法身の相はどのようなものであるか。……五種ある。……

 第四には永遠に変わらない(常住)というのが相である。

 ありのままの真理で清浄であるという相であるからであり、過去の願を維持・浸透させることを究極とするからであり、なすべき正しいことをまだ窮めおえていないからである。……

 法身は、始めのない過去以来、差別なく、限りないとはいっても、法身を得るためには、意識的努力(功用)をしないわけにはいかない。
     
                         (摂大乗論第十章より)
 
 
 
 私の住んでいるところは盆地のせいか夜靄がかかったようになることが多く、引っ越して来るとき期待したほどではありませんが、それでも空が澄んでいるので時々「満天の星空」を見ることができます。

 そういう時、私は、パソコン画面で楽しめるミニ・プラネタリウムのStella Theater Lite というソフトで星空と対照しながら楽しんでいます。

 (これは、ポップな、でもそれなりの宇宙感覚を喚起してくれるいい道具で、おすすめです。簡単に検索・ダウンロードできます)。

 私たちは、考えれば考えるほど、知れば知るほど、感じれば感じるほど、コスモスのなかに、コスモスの現われとして生きていることに気づいていきます。

 私たちのいのちのなかには、宇宙の一三八億年の営々たる営為が込められていて、それは留まることなく展開しつづけています。

 それは、私個人についてもそうですし(自分はコスモス・大然の部です)、生命系全体も、地球全体も、太陽系も、我々の天の川銀河もそうであり、みなただ一つのコスモスの部分でありながら、実に多様なそれぞれのかたちを現わしながら、動きつづけ、働きつづけています。

 上の唯識のことばは、そのことを精神的・内面的に自覚し表現したものだといっていいでしょう。

 ただ仏教は、現代科学のような観察-仮説-実験・検証といった方法が確立していない時代の神話的コスモロジーに基づいていますから、「始めのない過去」ということになっていますが、私たちはその部分は「宇宙一三八億年の歴史」というふうに読み換え・修正をしていいでしょう。

 こういう読み換えを容認すれば、仏教は現代人にとってきわめて有効・妥当性のある英知の遺産です(神話的コスモロジーに固執していれば、もちろんもはや大きな意味をもちえない遺物にすぎなくなりますが)。

 コスモスは、永続的に存在しており(宇宙論科学では外面的な宇宙に終わりがあるかどうかについてまだ結論が出ていないようです)、そのままでOKなのですが、同時に進化の方向性、目指すこと、達成したいと願っていることがはっきりあって、それはまだ完成していないのです。

 改めて確認しておくと、私の主宰するサングラハ教育・心理研究所は、そういう読み換えた仏教を一つの核としています。

 そのためか、大変名誉なことに、既成仏教の方々から、なかなか興味深い、賛成の声、反対の声、それから無視もいただいています。

 反対、無視は思想の自由ですから置いておいて、賛成してくださる方々とも一緒に、現代世界のなかで「法身を得る……意識的努力」をしていきたというのが、私たちの願いです。

 いちばん深いところでは、調和も不調和も、善も悪も、「差別なく、限りないとはいっても」、新しい、調和に満ちた世界を生み出すことは、法身・コスモスが目指している、まだ窮めおえていない、なすべき正しいことであり、私たちがそうしたコスモスの営みに能動的に参加する・法身を得るには、「意識的努力をしないわけにはいかない」のだと思います。
 
 
 
*サングラハ教育・心理研究所の講座はすべてそういう意識的努力の営みの一つです。
 関心を持っていただける方は、ぜひ能動的にご参加ください。
 
 

忍辱の瞑想:唯識のことば32

 
 
 
 五義とは、

 一には「すべての衆生=生きとし生けるものは無限の過去から私にさまざまな恩恵を与えてくれている(だからこそ、いまここで私が生きることができるのだ)」と洞察する。 

 二には「すべての衆生は、瞬間ごとに過ぎ去り滅びていくものである、いったい誰が傷つけ、誰が傷つけられるということが(仮にはともかく実体として)あるのか」と洞察する。

 三には「ただ法〔真理=存在=一体の宇宙〕があるだけなのだから、(実体的に)傷つけ傷つけられるものがあるだろうか」と洞察する。

 四には「すべての衆生はみな彼自身すでに苦しみを受けている、なぜさらに苦しみを加えたいと願うのか」と洞察する。

 五には「すべての衆生は、みな我が子である。なぜ、それに対して害を与えたいと願うのか」と洞察する。

 この五つの洞察によって深層の瞋りを滅ぼす。深層の瞋りが滅びれば、意識的な怒りや恨みはなくなってしまう。

                       (『摂大乗論釈』より)
 
 
 
 マナ識のあるところには、必ずといっていいほど争いがあります。

 ふつうの人間関係では、争いが絶えず、傷つけ、傷つけられるということがしょっちゅう起こるのです。

 そういう時、ふつうの人(凡夫)はどう対処するでしょうか。

 やられたら、やりかえす。

 あるいは、やりかえしたいけれど、相手が強すぎて、やりかえすと、もっとひどい目にあうから、我慢し、泣き寝入やゴマメの歯ぎしりをし、心の中で、恨み、憎み、呪う。

 あるいは、それができる時は、「嫌なヤツは嫌だ」と、相手から距離を置く……。

 だいたいそういうところでしょうが、菩薩=求道者なら、もうすこし違う、より賢い対応をしてはどうか、とヴァスバンドゥ菩薩(または真諦三蔵)は忠告してくれます。

 姿勢を調え、呼吸を調えて、静かに、引用した五つのことを瞑想・洞察する。

 洞察が深まると、無理して抑えるのではなく自然に、深層の瞋りがなくなる。

 瞋りがなくなれば、怒りや恨みが意識に湧き上がることもなくなる、というのです。

 ヴァスバンドゥ菩薩は、その後にとても大切なコメントを加えています。

 「この忍は、まず自分自身を瞋りという煩悩で汚し苦しめることをなくしてくれる」と。

 腹を立てている時は、自分も不快です。

 忍辱・許すことは、人のためというより、まず自分の心を爽やか・平和にしてくれるのです。

 「そして、自分の心が平和で、怒ったり恨んだりすることがなければ、他者を苦しめることもなくなる。

 すなわち、他者に対しても平和である。

 経典にこうある、忍を実行する人には、第一に恨みがない、第二に責めることがない、第三に人から愛される、第四に評判がよくなる、第五に次の世でいいところにうまれることができる、と。

 この五つの効果(徳)を、平和という。」

 傷つけられたと感じ、怒りや恨みで自分が苦しい時、まず自分の心の平和のために、この「五義観」という瞑想法を使ってみましょう。

 ゆっくり、しかし確実に心が癒されていくと思います。

 忍辱は損のようですが、心が得をするのです。
 
 
 

考え直し決め直す:唯識のことば29

  

 

 菩薩は福徳と智慧を生長させ その二種の糧は無限である 

 真理について思惟し心が決まるので 外界のあり方を分別する原因を理解する

                     (摂大乗論第三章より)
  

 時々、私は菩薩つまり自他の幸福(福徳)と覚り(智慧)を求めることを志している人間なのだろうか、凡夫つまり根本煩悩に駆られて自分(たち)だけの幸福――などというものがあると錯覚してそれ――を求めている人間なのだろうか、と反省します。

 すると、菩薩のつもりだったのに、いつの間にか凡夫的になっていることに気づきます。それを「退行」といいます。

 まあ、「凡夫の菩薩」という言葉もあるくらいですから、そのくらいの成長段階にいるのでしょう。

 筆者は、残念ながら決して退行しないというほどすばらしい境地には到っていないのですが、折々に気づいて、気を取り直せるくらいにはなっているので、あまりがっかりしないことにしています。

 もちろん反省はしますが、自己非難はしないのです。

 自分の幸福とみんなの幸福をバランスよく追求することと、智慧の心をみんなで育てていくことで、生活の糧と心の糧を得ようとする、それが真理・コスモスの法則に合った生き方だとはっきり理解できると、人生に迷いがなくなります。心そして志が決まるのです。

 決まっていたつもりなのに、いつの間にか迷いはじめる。

 そういう場合どうしたらいいのかというと、要するに原点にもどることです。

 ……と偉そうに言っていますが、筆者はそうしています。

 単純に、逸れたらもどる、逸れたらもどる、です。

 自分と他者とが分離しており、損と得が別々にあり、幸福と不幸が絶対に別のものであり……と外界を分別して捉えてしまうのは、実体視された自分と自分のつごうを物差しにしているから、でした。

 でもそれは、コスモスの現実に合っていない、非現実的、非論理的、非合理的な思い込みなのです。

 非現実的・非合理的な思い込みで行動すると、短期には得をするように見えますが、長期には必ず損・失敗をします。

 長期にわたってほんとうに自分のいのちを養ってくれるもの=糧を得たいのなら、コスモスの法則に従うのが賢いのでした。

 自分の迷いや悩みの原因がすっきりわかると、爽やかな勇気が湧いてきます。

 個人としても、社会・国も、人類も、一日も早く、コスモスの法則をしっかり見つめた英知に基づいた長期的な利益を追求できるようになるといいですね。

 まずは、自分からそうしましょう。

 きびしい時代だからこそ、短期的な幸不幸や損得に振り回されたりしないで、自他の長期的な幸福という目標に目を据えてしっかり追求していくというのが私のライフスタイルだ、と腹を固めなおしましょう。


   

菩薩の持続する志:唯識のことば28

 
 
 ふつうの人・凡夫が、人生のいろいろな悩みに出会ってなんとかそれを乗り越えたいと思ったり、すばらしい教えに感動したりして、修行を始めると、そこで覚りを求める者・菩薩になります。

 どんなに初心であっても、どんなに煩悩だらけでも、どんなに愚かでも、菩薩は菩薩なのです。

 初めて覚りたいという心を発したのを「初発心(しょほっしん)」といい(「新発意(しんぼち)」ともいいます)、はっきりと覚りたいと思ったら、それが「初発心」であり、そこで初発心の菩薩になります。

 もっともまだあまりの凡夫の状態で、とにかくやっと修行を始めたばかりだと、「凡夫の菩薩」という言い方もあります。

 私たちも、その程度かもしれませんが、でもやはりもう菩薩なのです。

 しかし長い仏教の修行の歴史のなかでは、いったん凡夫の菩薩になってももとの完全な凡夫に「退行」する人もしばしばいたようです。

 それは現在と変わりません。

 きっかけになった悩みが少し軽くなると、もう修行が面倒になってきたり、最初の感動が薄れてきて、なかなか実感できるような進歩がない、効果があがらないとなると、いやになってきたり、そこそこの体験があったり、ある程度の境地に到ったら自己満足してしまったり……と。

 初発心の時点からしばらくすると、ほとんど法則的といってもいいくらいに、停滞、退行の危険が忍び寄ります。

 人間成長・修行にとって、そこが一つの関門です。

 アサンガ菩薩は、おそらくみずからもそういう体験をしたのでしょうし、後輩、弟子たちが、そうした関門で行きどまってしまうのをたくさん見たのでしょう。

 『摂大乗論』のあちこちに、退行への警告と、関門を突破して前進するようにという励ましのことばがちりばめられています。

 もし菩薩が初発心から成仏に到るまで、飽き足りることのない心を捨てなければ、これを菩薩の長い時間の意志と名づける。

                  (『摂大乗論現代語訳』第四章より)

 菩薩には、ぜひ「長い時間の意志」、持続する志が必要です。どこかで倦み疲れたり、飽き足りたりしないで、精進しつづけること、それが菩薩の志というものなのです。

 初発心から成仏までは、唯識では三大カルパというおそるべき長い時間がかかることになっていますが、それでもどこかで満足してしまわない、あきらめてしまわない、へたばって坐りこんでしまわない。

 なかなかむずかしいことですが、せっかく人間、つまり覚る可能性をもった存在として生を受け、しかも幸運にもすばらしい道を見つけ、歩みはじめたのですから、途中でやめるなどというもったいないことはしたくないものです。

 自己満足しかかったら、人間にはほとんど無限の成長可能性があることを思い出して、疲れていたら少し休んでからでいいから、もう一度、前に向かって歩き出しましょう。

 これは、読者に向けていう前にまず自戒のことばです。
 
 
 

苦しみといういいこと:唯識のことば27

  
 
 堅実でないものを堅実であると考え
 転倒した妄想にとどまり
 煩悩に汚染される者
 彼らこそ勝れた覚りを得る                

(摂大乗論第二章より)
 
 
 大乗仏教の言葉の中には、表面的な意味と深い意味がまるで違うものがあります。

 そういう表現方法を「逆説」といいます。

 右の言葉も、そうした逆説的な表現で、軽く読むと「え?」と思うようなことが書かれています。

 頼りにならないものを頼りにし、分別知から出た常識・浅知恵にこだわり続け、そのせいで悩みに悩んで心がドロドロになってしまうような人間、そういう人間こそすばらしい覚りに到ることができる、というのです。

 これは、すべては空であり実体ではなく、だから頼りにしてはならないと考え、常識は妄想だとして捨て去り、さっぱり爽やかに生きる人間が、「勝れた覚りを得る」のではない、ということになります。

 この言葉は、私たちの仏教に対する常識的な考え方とはかなり違っていて、非常に逆説的で、こういう表現に出会うと、私たちは単純に読み過ごすことができず、「これはいったい真意はどこにあるのだろう?」と考え込むことになったりします(もちろん「ふーん」というふうに読み飛ばしてしまうこともしばしばありますが)。

 しっかり考え込むことになったら、この言葉が禅でいう「公案」の役割を果たすことになるでしょう。

 「公案」に対する解答を「見解(けんげ)」といいますが、ご参考までに、私のとりあえずの見解を書いてみたいと思います。

 私は、この言葉からは、二つのことを読み取ります。

 第一は、これは本気で修行に苦闘した人の実感のこもった言葉だということです。

 頭では堅実ではない、空だといくら思って、やはり頼りにしたくなるものがいろいろあります。健康、容姿、地位、名誉、財産、知識……。

 分別知は妄想だと教わり、納得しても、だからといってすぐにやめられるものではありません。

 意識だけでなく、アーラヤ識の底まで汚染されているからです。

 私たちの日常は、マナ識-アーラヤ識の働きで欲望(神経症的欲求)と悩みに汚れっぱなしです。

 しかしその悩み・葛藤がもう耐えられないほどだという気持ちになるからこそ、本気でそこから抜け出したい、だから修行するという気になるものです。

 ゴータマ・ブッダから始まって、深い悩みなしに修行する気になり、覚った人は、ほとんどいないようです。

 だとすると、今悩んでいて、修行を始めたみなさん、おめでとうございます。

 スタートを切ったら、途中で棄権しないかぎり、いつかはゴールに着くことが決まっています。

 第二は、それとも関わって、筆者がずっと言ってきたことですが、唯識、広く言えば大乗仏教は「絶対肯定の思想」であるということです。

 人生におけるあらゆること、悩みや苦しみさえもオーケーだ、人生には悩みはあるもので、それは究極的にはいいことだ、ということです。

 苦しみといういいこと・必要なことがあるからこそ、私たちはもっといいこと、つまり覚りへと向上しようとする、せざるをえなくなるのです。

 コスモスは、グッドからベターへ進化し続けていて、私たちはそのプロセスの一部なのです。
 
 

瞑想と願望成就:唯識のことば23

 
 
 第八回に夢の話を書きました。

 その時は迷いという悪い夢から覚める話でしたが、今回は積極的にいい夢を見ようという話です。
 
 私たちふつうの人間は、すぐ完全に夢から覚めることはできませんから、どうせ見るならいい夢を見たほうがいいわけです。

 それに、悪い夢よりいい夢を見た後のほうが、すっきり目を覚ますことができます。

 そこで、いい気分で、ほどほどの時間に目を覚ませるように、その前にいい夢を見ておくのも悪くありません。

 唯識では、私たちがいい意味での夢=「さまざまな願い」をもつことを否定していません。

 そういう意味では、「禁欲主義」ではないのです。

 それどころか、「瞑想修行する人は、願いを実現することができる」といっています。
 
 
 瞑想修行する人は、さまざまな願いと見方を成立させることができる。

〔瞑想修行する人があるいは自分の自由さを完成するために、あるいは他の人を誘って正しい教えを受けさせたいと欲して願うならば、さまざまな変化の願いはみな成就しうる。もし願が成就するならば、自分の見方も他者の見方も願ったようにみな成就しうる。〕

               (『摂大乗論現代語訳』七一~七二頁)
 
 種々の願と及び見とを、観行の人は能く成ず。

 〔勧行の人、或は自の自在を成せんが為に、或は他を引いて正教を受けしめんと欲するが故に願ひ、種々の願を成ずることを得。若し願、己に成ずれば、自見他見は所願の如く亦皆成ずることを得。〕

      (国訳一切経『摂大乗論釈』真諦訳、大東出版社、一〇二頁)
 
 
 といっても、もちろん人間にとって当然の、あるいは許される「願」と、歪んだ、自他に害のある欲望は違います。

 「観行」で「成ず」るのは「願」であって、「貪(むさぼり)」ではありません。

 でも、自分がほんとうに自由に、爽やかに生きたいという欲求と、まわりの人にもそういういい考え方、いい生き方を伝えたいという願いなら実現するというのです。

 アサンガ菩薩もそういっておられますし、私も全面賛成ですが、生き方の基本として、欲望を抑えようとするより、欲望の奥にある自然な欲求を回復するほうがいい。それから自利利他の高次の欲求を追求する。

 いわば〈生命欲〉の全面的解放を目指したいと思います。

 厳しい時代になってきたからといって、変にちぢこまったりしないで、のびのびと生きたいものです。

 人生は、マナ識的な自分の思いどおりになるわけではありませんが、自分の思いが宇宙と共振したときには、思いは実現するといわれています。

 宇宙が実現してくれるというのです。

 そういう意味で「いい」夢を描くと、夢は実現します。

 やすらかに眠る時のようにリラックスして、宇宙に全心身を任せて、子どもが欲しいもののことを夢に見ながら寝言をいうように、心の奥底からの願いをいえば、宇宙は聴いていて、いちばんいい時にかなえてくれる……ようです。

 ただし、子どもがどんなに欲しがる一見いいものでも、結局は害になるものを親は与えないように、結局はためにならないことは、宇宙はかなえてくれないようです。