依りどころとしての無分別智:唯識のことば34

 
 
 
 ふつうの人つまり凡夫は、自分の思いどおりに生きたいということを基本にしていて、それは当たり前だと思い込んでいます。

 これは特に現代の若い世代であるほど、その傾向が強いようです。

 八識的な心、特にマナ識的な心が生き方の基本・依りどころになっているといってもいいでしょう。

 それに対して、そういうふつうのものの見方や生き方には限界がある、つまりよりよく生きさわやかに逝くための本当の依りどころにはならないと気づいて、それを超えたいと思っている人つまり菩薩は、そういう八識あるいはマナ識的な心を最終的な依りどころにして生きようとは、もう思っていません。

 そういう意味で、菩薩の生きる依りどころはふつうにいう「心」ではないわけです。

 かといって、意識という意味での「心」がなくなってしまったのではもちろん生きていけません。

 ではどういうことになるのかというと、菩薩は繰り返し禅定において体験する無分別智の心を究極の依りどころにするのだといわれています。
 
 
 諸菩薩の依りどころは 心でなく心でないのでもない それは無分別智であって 妄想の類ではないからである

 諸菩薩〔が菩薩になる・であるため〕の直接・間接の原因(=因縁)は 語られた言葉を聞いたことの熏習であり それは無分別智であって 理のままに正しく思惟することである……

 諸菩薩を維持するものは 無分別智であって 〔それによって〕その後得智の働きは 成長し究極に到ることができる
                           (摂大乗論第八章より)
 
 
 
 菩薩・修行者は、そういう無分別智に関する教えを聞いてまずは意識的・分別知的に正しく分かり、アーラヤ識に熏習していきます。

 そして繰り返し思い出して、それが理にかなっていることを自分の心のなかで確認します。

 そしてもちろん禅定を実践します(「思惟」には、思索することと禅定することの二重の意味があります)。

 菩薩が菩薩になるための原因は、正しく聞くことと正しく思惟すること(さらに分けていうと思・思索と修・禅定)を繰り返すことです。

 そういう聞くことと思惟すること(聞-思-修)を怠っていると、いつの間にか凡夫に戻り、菩薩でなくなってしまう、とアサンガ菩薩は警告しています。

 すなわち、聞・思・修が、菩薩になる・であるための基本・依りどころなのです。

 食べ物を食べないでいるとお腹が空っぽになってくるように、心の糧を摂取しないでいると心が空しくなるのは、当たり前のはずなのですが、私たちはしばしば忘れてしまいがちです。

 一度か何度か聞いて、分かったつもりになったら、もう学ばない、少し坐禅をしてみて爽やかな気分を体験したけど、いつの間にかあきたりめんどくさくなったりして止めていた、ということがよくあります。

 しかし、凡夫と違った広くて豊かな心の存在・菩薩になるためにも、菩薩であることを維持するためにも、不可欠なものは無分別智です。

 これは文字どおり「不可欠」・欠かせないのです。

 無分別智を繰り返し学ぶことによって、日常生活をより質の高いものにしてくれる「後得智」も豊かに成長し完成していく、とアサンガ菩薩・『摂大乗論』は保証しています。

 その言葉を信じて、さらなる実践を続け、菩薩であり続けましょう。
 
 
 

考え直し決め直す:唯識のことば29

  

 

 菩薩は福徳と智慧を生長させ その二種の糧は無限である 

 真理について思惟し心が決まるので 外界のあり方を分別する原因を理解する

                     (摂大乗論第三章より)
  

 時々、私は菩薩つまり自他の幸福(福徳)と覚り(智慧)を求めることを志している人間なのだろうか、凡夫つまり根本煩悩に駆られて自分(たち)だけの幸福――などというものがあると錯覚してそれ――を求めている人間なのだろうか、と反省します。

 すると、菩薩のつもりだったのに、いつの間にか凡夫的になっていることに気づきます。それを「退行」といいます。

 まあ、「凡夫の菩薩」という言葉もあるくらいですから、そのくらいの成長段階にいるのでしょう。

 筆者は、残念ながら決して退行しないというほどすばらしい境地には到っていないのですが、折々に気づいて、気を取り直せるくらいにはなっているので、あまりがっかりしないことにしています。

 もちろん反省はしますが、自己非難はしないのです。

 自分の幸福とみんなの幸福をバランスよく追求することと、智慧の心をみんなで育てていくことで、生活の糧と心の糧を得ようとする、それが真理・コスモスの法則に合った生き方だとはっきり理解できると、人生に迷いがなくなります。心そして志が決まるのです。

 決まっていたつもりなのに、いつの間にか迷いはじめる。

 そういう場合どうしたらいいのかというと、要するに原点にもどることです。

 ……と偉そうに言っていますが、筆者はそうしています。

 単純に、逸れたらもどる、逸れたらもどる、です。

 自分と他者とが分離しており、損と得が別々にあり、幸福と不幸が絶対に別のものであり……と外界を分別して捉えてしまうのは、実体視された自分と自分のつごうを物差しにしているから、でした。

 でもそれは、コスモスの現実に合っていない、非現実的、非論理的、非合理的な思い込みなのです。

 非現実的・非合理的な思い込みで行動すると、短期には得をするように見えますが、長期には必ず損・失敗をします。

 長期にわたってほんとうに自分のいのちを養ってくれるもの=糧を得たいのなら、コスモスの法則に従うのが賢いのでした。

 自分の迷いや悩みの原因がすっきりわかると、爽やかな勇気が湧いてきます。

 個人としても、社会・国も、人類も、一日も早く、コスモスの法則をしっかり見つめた英知に基づいた長期的な利益を追求できるようになるといいですね。

 まずは、自分からそうしましょう。

 きびしい時代だからこそ、短期的な幸不幸や損得に振り回されたりしないで、自他の長期的な幸福という目標に目を据えてしっかり追求していくというのが私のライフスタイルだ、と腹を固めなおしましょう。


   

苦しみといういいこと:唯識のことば27

  
 
 堅実でないものを堅実であると考え
 転倒した妄想にとどまり
 煩悩に汚染される者
 彼らこそ勝れた覚りを得る                

(摂大乗論第二章より)
 
 
 大乗仏教の言葉の中には、表面的な意味と深い意味がまるで違うものがあります。

 そういう表現方法を「逆説」といいます。

 右の言葉も、そうした逆説的な表現で、軽く読むと「え?」と思うようなことが書かれています。

 頼りにならないものを頼りにし、分別知から出た常識・浅知恵にこだわり続け、そのせいで悩みに悩んで心がドロドロになってしまうような人間、そういう人間こそすばらしい覚りに到ることができる、というのです。

 これは、すべては空であり実体ではなく、だから頼りにしてはならないと考え、常識は妄想だとして捨て去り、さっぱり爽やかに生きる人間が、「勝れた覚りを得る」のではない、ということになります。

 この言葉は、私たちの仏教に対する常識的な考え方とはかなり違っていて、非常に逆説的で、こういう表現に出会うと、私たちは単純に読み過ごすことができず、「これはいったい真意はどこにあるのだろう?」と考え込むことになったりします(もちろん「ふーん」というふうに読み飛ばしてしまうこともしばしばありますが)。

 しっかり考え込むことになったら、この言葉が禅でいう「公案」の役割を果たすことになるでしょう。

 「公案」に対する解答を「見解(けんげ)」といいますが、ご参考までに、私のとりあえずの見解を書いてみたいと思います。

 私は、この言葉からは、二つのことを読み取ります。

 第一は、これは本気で修行に苦闘した人の実感のこもった言葉だということです。

 頭では堅実ではない、空だといくら思って、やはり頼りにしたくなるものがいろいろあります。健康、容姿、地位、名誉、財産、知識……。

 分別知は妄想だと教わり、納得しても、だからといってすぐにやめられるものではありません。

 意識だけでなく、アーラヤ識の底まで汚染されているからです。

 私たちの日常は、マナ識-アーラヤ識の働きで欲望(神経症的欲求)と悩みに汚れっぱなしです。

 しかしその悩み・葛藤がもう耐えられないほどだという気持ちになるからこそ、本気でそこから抜け出したい、だから修行するという気になるものです。

 ゴータマ・ブッダから始まって、深い悩みなしに修行する気になり、覚った人は、ほとんどいないようです。

 だとすると、今悩んでいて、修行を始めたみなさん、おめでとうございます。

 スタートを切ったら、途中で棄権しないかぎり、いつかはゴールに着くことが決まっています。

 第二は、それとも関わって、筆者がずっと言ってきたことですが、唯識、広く言えば大乗仏教は「絶対肯定の思想」であるということです。

 人生におけるあらゆること、悩みや苦しみさえもオーケーだ、人生には悩みはあるもので、それは究極的にはいいことだ、ということです。

 苦しみといういいこと・必要なことがあるからこそ、私たちはもっといいこと、つまり覚りへと向上しようとする、せざるをえなくなるのです。

 コスモスは、グッドからベターへ進化し続けていて、私たちはそのプロセスの一部なのです。