なぜコスモロジーセラピーか

 昨年秋、研究所のオリジナルなプログラムである「コスモス・セラピー」を「コスモロジーセラピー」と改称しました。

 「コスモス・セラピー」という呼称で知られてきつつある状況なのになぜ? と思った関係者もおられたようでなので、以下簡単に説明をしておきます。

 それは、「人間は言葉(ロゴス)を使って生きる生き物である。したがって、人間が健全に生きるためには健全なコスモロジー(コスモス+ロゴス、宇宙観・世界観)が必要であるし、人間の心の根本的癒しには不健全なコスモロジーを健全なコスモロジーに変換することが必須である。要するにポイントは、コスモス・宇宙そのものというより、その捉え方つまりコスモロジーなのだ」という基本的な考え方が、私の中ではっきりしてきたことを表現したいと思ったからです。

 ついでになぜ「・」なしかというと、例えばフランクルのロゴセラピーはいわば固有の商標であるため表記が「ロゴ・セラピー」ではなく「ロゴセラピー」であるのとおなじように、「コスモロジーセラピー」もオリジナルなプログラムであるという自己主張です。

 より説明的にすれば単に「コスモロジーセラピー」ではなく「つながりコスモロジーセラピー」、さらに詳しく説明すれば「つながり・重なり・一体性コスモロジーセラピー」となるでしょうが、さすがにそれは長すぎるので「コスモロジーセラピー」にとどめました。

 私や私たち(もっとも広く言えば人類、さらには生命全体)が全体(whole)としての宇宙とつながっていて、究極のところ一体であること、さらに宇宙は重層的に自己複雑化・進化を続けていて、私たちはいわばその最前線にあることが、浅い意識的な知識にとどまらず、深層のコスモロジーになった時、私たちの心は根源的に癒され(heal)、健全(health)になる、というのがコスモロジーセラピーの基本的作業仮説であり、それはこれまで報告してきたとおり1)2)3)実践の中で実証されてきたと考えています(残念ながらまだ純粋な第三者による検証はなされていませんが、何人ものセラピスト、精神科医、教育者による実践の成果の報告はいただいています)。

 できるだけ多くの人と共有したいと願って、コスモス・セラピーの文章化できる内容についてはかなりの部分を本ブログで公開してきましたが、単に知識的ではなく体験的なセラピーであるという要素が大きく、最終的にはやはり実際に参加していただくほかありませんでした。

 コスモロジーセラピーについても、今後、公開できる部分は公開していくつもりですが、参加して体験していただくしかないという面はますます大きく残ります。

 今月から、東京でも高松でも講座を行ないます。関心を持っていただけた方は、どうぞ参加して、体験してみてください。

 *問合せ・申込みは、samgraha@smgrh.gr.jp へどうぞ。


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来年はコスモロジー的ポジティブシンキングの年にしたい!

 

 身辺の用事に取り紛れ、なかなか記事を更新できませんでしたが、今年最後の記事を書いておきたいと思います。 

 タイトルどおり、「来年はコスモロジー的ポジティブシンキングの年にしたい!」と思っています。

 メンタル・タフネス(心の強さ)とポジティブシンキング(積極的思考)は大きく重なっています。ポジティブシンキングができるようになると、メンタルがタフになります。

 しかし、日本ではポジティブシンキングと能天気な楽天主義が混同されている傾向がありますので、ピールがはっきり、きっぱり、誤解を正した文章を引用しておきます。

 ポジティブシンキング(積極的思考)はどんな時にでも効果があるのか? 答えは「イエス」である。それがかなり大胆な言い方だということはわかっている。

 当然、次のような反論が予想できる。「本当にそうだろうか。私には問題がありすぎる。ポジティブシンキングについて読んでみたが、依然として行きづまったままだ」。

 また、次のように言う人もいるかもしれない。「私の仕事は行きづまっている。ポジティブシンキングをやってみたが、仕事はいまだに行きづまっている。ポジティブシンキングは事実を何も変えていない。破産はそのままだ。そのことを否定するとしたら、君は砂の中に頭を突っ込むバカなダチョウみたいなものだ」。

 よくあることだが、人々はポジティブシンキングの本質を本当には理解していないのだ。ポジティブシンキングをする人は、ネガティヴなことがあると認めるのを否定するのではない。ただ、ネガティヴなことをいつまでも考えているのを否定するだけなのだ。

 ポジティブシンキングとは、習慣として最悪の事態から最善の成果を探し求めるというかたちの考え方である。事態がよくないように見えても、建設的な何かを探すことはできるし、自分で最善のことを期待することはできる。そして注目すべきことは、いいことを探し求めれば、おそらくまちがいなくそれを見出すだろうということだ。

 積極的なものを探し求めるというのは、熟考されたプロセスであるし、さらにいえば選択の問題なのだ。

  (ビンセント・ピール『積極的思考の驚くべき結果』ダイヤモンド社、5~6頁、ただし全面的改訳)
 

 やってきつつある新しい年を前にして、一見破壊に見える出来事をとおして次々に新しいより複雑な秩序を産み出してきた・これからも産み出していく宇宙のポジティブな進化の働きに合わせて、私たちもよりよい新しい、よりよいものを創り出していきたい、いくぞ! と思いを新たにしています。

 来年もよろしくおつきあいのほど、お願いいたします。

 *「コスモロジー的ポジティブシンキング」とは何か? これまでサングラハ教育・心理研究所に関わってきてくださったみなさんには、ある程度おわかりだと思いますが、改めて来年、初心者の方にも伝わるように、徐々に記事を書いていきたいと思っています。ご期待ください。

「死にたい」と「死ぬのが怖い」は同根

 ここのところ、「死ぬのが怖い」という新聞の人生相談の投書を読み、「死にたい」と思っている若い女性たちがだまされて殺されたという事件のニュースを聞きながら、「一見まったく逆のように見える2つのことの根っこは実はおなじなのだから、そこから取り組んでこそ根っこからの、つまり根本的な解決に到ることができるのだがな……」と思っています。

 それは、現われた感情は逆でもその元・根っこになっている「死」の観念はまったくおなじだということです。

 今、日本人の多くは「死」をすべての終わりあるいは無になることと考えているように見えます。

 死がすべての終わりあるいは無になることだとすると、現状の生・生活がそれなりに楽しくて一定の愛着・執着があれば、それを失いたくないので、当然、「死にたくない」「死ぬのが怖い」ということになります。

 しかし、現状の生・生活が耐えられないくらい苦しいと感じられると、すべてが終わる=苦しみも終わる=楽になれると思うので、「死にたい」という気持ちになるわけです。

 しかし、ほんとうに「死はすべての終わり・無になること」なのでしょうか?

 確かに個人のことだけを考えると、死はすべての終わりのように見えます。

 しかし、「いのち」というものは先祖から子孫へと続いているもので、現代科学によればおそらく地球上での生命の誕生以来38億年か40億年前から続いています。

 ある生物学者の譬えによれば、ある乗客が自転車からバスへ、そして電車に、さらに飛行機へ……と乗り換えていく場合、乗り物は換わっても乗る人はずっとおなじであるように、いのちは個体を乗り換えながら40億年生き続けている、ということになるのだそうです。

 私という個体は、いのちを前の世代から受け継ぎ次の世代へとバトンタッチしていく存在なのです(私個人が子どもに恵まれなかったり産まなかったとしても、前の世代やその前の世代から枝分かれしていのちは続いていきます)。

 死は、個体にとって終わりであっても、いのちにとっては自然な引き継ぎのプロセスであって、終わりではありません。

 ところが、戦後教育で近代的個人主義を教え込まれたため、現代の日本人は、若ければ若いほど、自分を自分・個人だけで考え、連続するいのちの鎖の一つとは捉えないようです。

 しかし、「個体は死んでもいのちは終わらない」のです。

 だとしたら、個人の生きて死ぬ理由は、自分だけが幸福・楽しいか不幸・苦しいかだけにあるのではなく、自分の代でいのちをより豊かにしてそれを次の世代につなげることができるかどうかにある、そちらのほうがより重要なのではないか、と私は考えます。

 さらに、戦後教育ですべてを物質と捉える近代科学主義を教え込まれたため、現代の日本人の多くは、物質の複雑なメカニズムである生命体・私は、死んだらばらばらの物質(原子や分子)に解体して終わりであり、物質は残るが、それは意味としては無意味なので、「無になる」と考えているようです。

 しかし、アインシュタイン以降の現代科学の眼で見れば、「すべては物質」であるのはあるレベルのことであって、もっと掘り下げると「すべては宇宙エネルギー」しかも「すべては一つの宇宙エネルギーの現われ」ということになるようです。

 生も死も、宇宙エネルギーのある時の現われ・かたちなのです。

 そういう意味で言えば、個人は死んだら宇宙エネルギーの世界に帰るのであって、無になるのではありませんし、なによりもいのちは生き続けるのです。

 こうしたことがしっかりとわかり、心に染みてくると、少しつらいくらいですぐ死にたいと思ったり、自然なプロセスとしてやがて来る死を過剰に怖れたりすることがなくなるのは、すでにご紹介したコスモロジー教育の効果からして明らかだ、と私は自己評価していますが、読者はどうお考えになるでしょう。

死にたくなくなるセラピー

 ここのところ毎日のように、「死にたい」と思っていた若い女性とその関係者あわせて9人をだまして殺したという事件が報道されています。

 事件の残虐さ、容疑者――報道によれば犯行を認めているとのことなので「犯人」と言っても差し支えないでしょうが――の極端なエゴイストぶり、異常な心理については言うまでもありませんが、ここで改めて指摘したいのは、死にたいと思っている若者がそんなにも多いという事実、それに対して適切かつ十分な社会的対応が取られていないのではないかという疑問です。

 それに対し、コスモロジーセラピー(旧称コスモス・セラピー、教育場面ではコスモロジー教育)は、一言で言えば、「死にたくなくなるセラピー」です。もっと言えば、「死にたい」から「生きます!」への大逆転セラピーです。
 それは、以下のエピソードとコスモロジー教育の授業を受講した学生の感想(かつて紹介したものですが、現時点で意味があると思うので、改めて掲載します。了承は得てあります)を読んでいただけば、わかっていただけると思います。
 「典型的なエピソードをあげると、初めて大学に毎週講義に行くようになった年、数回の授業が終わった後、やや幼い顔をした女子学生が、その顔に似合わない本気で深刻な表情で質問に来て、
 「先生、私は、考えれば考えるほど死にたくなるんですが、友達に相談したら、『バカ、考えるから死にたくなるんだ。考えるのはやめろ』と言われました。やっぱり考えないほうがいいんでしょうか?」
と言うのです(その後、次第にわかってきたことですが、彼女のような死にたくなる若者、心を病んでいる若者が驚くほど多数いるのです。統計を見ると大人もです)。
 そこで筆者は、こう答えました。
 「戦後、ぼくたちやきみたちが学校で教わってきたことを元にして考えると、考えれば考えるほど死にたくなるんだけど、これから、考えれば考えるほど死にたくなくなる、それどころか生きたくなる考え方を伝えるから、あわてて死にたがらないで、がんばって授業に出ておいで」と。
 するとその後、彼女はがんばって続けて授業に出てきて真剣に聞いている様子で、回を重ねるにつれて目が輝いてくる様子なので、そっとして深追いはしないで前期末まで待ってから、
 「どう、まだ死にたい?」と聞きました。
 すると、彼女はニコリと微笑んで、
 「だいぶ死にたくなくなりました」と答えてくれたのです。
 そして、さらに学年末にはすっかり元気になっていきました。」(拙著『コスモロジーの心理学』(青土社、「まえがき」より)。

 

 以下の感想は大学2年の女子学生のものです。

 〔授業の要約部分省略〕
 先生が授業でおっしゃっていた、「人間は水素と炭素と酸素とちっ素と少しの何か」でできていると聴いたときは、正直言って、「人間を原子つまりモノのように言っているなんて……」と否定的な気持ちになってしまいましたが、私たちが生きている世界、また宇宙も原子からできていて、私たちは「星の子」と聴いたときは、胸から何かがこみ上げてきました。
 宇宙カレンダーを見たときは、人間は、自然の力でできたのだなと思い、いのちのでかさを感じさせられました。
 仏教も、いのちの大切さを教えてくれるけど、私は正直言って、現代科学の説明をして下さった先生の授業のほうが現実的で、よりいのちの大切さを学ぶことができました。
 ニヒリズムの塊であった私を先生はハンマーで砕いてくれました。現代科学は、仏教では説明しきれない、いのちの大切さを教えられる気がしました。
 だから、先生は仏教心理論なのに現代科学の話をしたのではないかと私は思いました。
 また、私は過去または今でもたまに自殺したいと思ってしまう時があります。それは、高校の時少しいじめられたことや、所詮、人間は、エゴイズムでしかない。そういう考えからです。
 でも、私が今、こうして元気に生きていられるのは、お母さん、お父さん、ご先祖様、そして、宇宙の歴史なのです。私のつらさなんか、米粒くらいのことでしょう。ご先祖様たちが今までつらいこともあった中で、子孫に継いでいた中の1人が私なのです。良く言えば、私は宇宙の歴史の中の代表者なのです。これは、今生きている人間全員に言えることです。
 こんな大切ないのちを捨てるわけにはいきません。私は生きます!……
 ありがとうございました。私は変わります。

 

 こうしたことは自分で書けばどうしても「自己宣伝」になるので、なかなか信用していただきにくいのかもしれませんが、そういう意味で、単に私個人のためだけではなく、日本社会全体のために、ぜひ広がってほしいと思っています。

 半信半疑程度にでも信用していただけた方、ぜひコスモロジーセラピーの講座にお出かけください。そして、しっかり信用できたら、拡げることにご協力ください(今年は、あと2回、11月18日、12月16日、東京神田の会場で。問合せは samgraha@smgrh.gr.jp へ)。


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コスモロジー心理学の効果2

 この10月からコスモス・セラピーのヴァージョンアップ版を「コスモロジー・セラピー」と改称することにし、東京で入門講座を開始しています。

 第1回は終わっていますが、テキストを読んでいただけば、第2回(11月18日)からの参加も可能ですし、効果も期待していただけると思います。ご希望の方は samgraha@smgrh.gr.jp 宛にお問い合わせください。

 それにちなんで、これまでのコスモス・セラピー=コスモロジー教育の効果について、感想やアンケート調査の結果などをまとめておくことにしました。

 長くなったので、1,2と分割して掲載します。


 「唯識心理学の教育的・セラピー的効果」2011年02月08日

 「若者の心にヒューマニズム復活の兆し?」2011年10月21日

 「2011年度授業の成果 1」2012年05月06日

 「2011年度授業の成果 2」2012年05月06日

 「授業への感想 第1回」2012年05月14日

 「民主主義とエゴイズム」2012年07月11日

 「レポート感想:中2の自分に聞かせてやりたかった!」2012年07月23日

 「病院に行くより先にコスモロジーを」2012年08月08日

 「ピンチを支えるコスモロジー:3つのケース」2012年08月10日

 「人生の質、癒しの始まり、そして定着:学生の報告から」2012年08月12日

 「敗戦、心の闇、いのちの鎖」2012年08月16日

 「震災-津波体験を超えて」2012年08月17日

 「心のガンを取る薬」2012年08月19日

 「変化への不安や抵抗」2012年08月20日

 「自殺を考えている人にかける言葉が見つかった!」2012年08月21日

 「私たちが生きるこの場所も宇宙、私たちも宇宙」2012年08月22日

 「みんな星の子・宇宙の子」2012年08月23日

 「コスモス・セラピーというメソッドの確立」2012年08月24日

 「ばらばらからつながりへのパラダイム転換」2012年08月26日

 「認識のパラダイム-コスモロジーの転換」2012年08月27日

 「コスモロジー授業へのQ&A 2012-1」2012年08月29日

 「なぜ、中枢で仕事をしないのか?:Q&A2012-2」2012年08月31日

コスモロジー心理学の効果

 この10月からコスモス・セラピーのヴァージョンアップ版を「コスモロジー・セラピー」と改称することにし、東京で入門講座を開始しています。

 なぜ改称したかについては、以下の文章を参照してください。まだ説明不十分のところもあるので、書き直したいと思っていますが、本ブログの読者にはこれでも大まかな感じはつかまえていただけると思います。

 「これまでは、コスモス・セラピー、唯識心理学、論理療法、ロゴセラピー、アドラー心理学、フランクル心理学などなどをそれぞれ別々の講座のかたちでお伝えしてきましたが、今後はそれらを統合したかたちを新たに「コスモロジー心理学」(セラピーとして行う場合は「コスモロジー・セラピー」、教育としては「コスモロジー教育」)と呼び、まさに統合的なプログラムを行なっていきたいと考えています。

 コスモロジー・セラピー=コスモロジー教育は、講義(トーク)と実習(ワーク)と対話(ダイアローグ)を通じて、クライアントの生き方のいわばOSになっている深層のコスモロジーをばらばらコスモロジーからつながり・一体性のコスモロジーに変容させること、そのことによって自我の確立・再確立、自己実現、自己超越という人間成長のプロセスを総合的・統合的に促進することを目指しています。

 そこで、特に講義(トーク)について言えば、参加者・クライアント・聴衆に、①新しい科学的知識を伝え、②それだけでなくさらにそれに対する新しい解釈・主客融合的解釈を伝え、③それによって感動を誘発し、④その積み重ね・繰り返しによって深層記憶に定着させ(熏習)、⑤深層のコスモロジーを近代科学主義的でニヒリズムに到るようなものから現代科学的でニヒリズムを超えるものへと変容させる(転識得智)ことを目標とします。」


 第1回は終わっていますが、テキストを読んでいただけば、第2回(11月18日)からの参加も可能ですし、効果も期待していただけると思いますので、ご希望の方は samgraha@smgrh.gr.jp 宛にお問い合わせください。

 それにちなんで、これまでのコスモス・セラピー=コスモロジー教育の効果について、感想やアンケート調査の結果などをまとめておくことにしました(手間と時間がかなり必要で一挙にはできませんので、少しずつ更新していきます)。


 「教師の勲章」2005年10月22日

 「学生たちの変化」2005年11月3日

 「若者には縁起がわかる」2005年12月6日

 「レポートの採点開始」2005年12月27日

 「授業の成果」2006年1月11日

 「唯識を学ぶと」2006年1月25日

 ●以後、徐々に更新していきます。

「死んだら終わり」から「生命は生き続ける」へ

 前回の記事「死の怖れとコスモロジー教育」にたくさんの読者がアクセスしてくれました。
 
 有難うございました。

 リンクしておいた関連記事まで読んでくださった方も少なくなかったようなので、読み返しながら、さらに他の関連記事も再録したりリンクしたりしておくともっといいと思い、以下、再録とリンクをします。

 続けて読んで参考にしていただけると幸いです。

 前の記事で「戦後教育を真に受けたら当然こうなる」と書きました。

 それについてくわしくは

 「死んだらどうなると思っていますか?」(2005年08月20日)
 「近代化の徹底とニヒリズム」(2005年08月30日)
 近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 1(2005年09月02日)
 近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 2(2005年09月03日)
 「現代科学のコスモロジー:そのアウトライン」(2005年10月9日)

などを参照していただきたいのですが、

 ともかく「いろいろな事情があって、日本の戦後教育では『近代科学』の大まかな成果は学校で教えられるのですが、『現代科学』の、特にコスモロジーとしての到達点については、まったくといっていいほど教えられてい」ないのが大問題なのです。

 「近代科学は、すべてを究極の部分(ある段階では「原子」という「物質」)に分析・還元して、世界の客観的な姿を捉える努力をしてきました。…/それは、研究の方法としては、きわめて有効・妥当だったのですが、まず何よりも、「生きた現実」としての世界の姿を捉えたとはいえません。それが第1の問題点です。
 そして第2の問題点は…そうした方法で描かれた世界は、ばらばらのモノ(原子)の組み合わせでできていて、神も魂もそういう方法では検証できない以上存在しないことになったということです。
 個々人のいのちや心さえも「物質の組み合わせと働きにすぎない」ということになったのです。
 「神はいない。人間とモノだけがある」から「神はいない。モノだけがある」というところまでいった物質還元主義(唯物主義)な科学の目で見ると、「すべては究極の意味などないただのばらばらのモノの寄せ集めだ」ということになります。
 世界はばらばらのモノの寄せ集めであると考えるような世界観を、私はわかりやすく〈ばらばらコスモロジー〉と呼んでいます。
 近代の世界観はつきつめると〈ばらばらコスモロジー〉になり、それを人生観にまで適用すると、ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義に到らざるをえない、そこに近代の決定的なマイナス面・限界(の主要な1つのポイント)がある、というのが私の見方です。」

 しかし現代科学のコスモロジーからは、以下のようなことが言えるのです。 

 「相対性理論と散逸構造論とビッグ・バン仮説と、ワトソンとクリック以降の遺伝子研究・分子生物学などを総合して「生命」を考えると、

 「生命も複雑ではあるが物質の組み合わせにすぎず、死んだら元のばらばらの物質に解体して終わり、相対的意味もなくなる」ということではなく、

 「生命は宇宙の自己複雑化・自己進化の成果であり、確かに個体は死ぬが、それですべてが終わりではなく、DNAによって生命そのものは引き継がれ、生き続けている。

 地球上の生命は、誕生してから約40億年生き続けているし、今後も(当分、数十億年は)生き続けるだろう」ということになったのです。

 しかも、宇宙エネルギー・レベルで見ると、個体・個人もまた、宇宙エネルギーから生まれ、今も宇宙エネルギーの一つのかたちとして生きており、死んでも宇宙エネルギーであるまま、あるいは「宇宙エネルギーの世界に還るだけ」と言ってもいいのですから、「死んだら終わり」ではないのです。」

 よりくわしくは

 「現代科学のコスモロジー:ポイントの整理表」(2012年07月13日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 1」(2012年07月26日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 2」(2012年07月27日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 3」(2012年07月28日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 4」(2012年07月29日 )

などをお読みください。

 きっと、過度な死の怖れの緩和、空しさからの脱出、つまりニヒリズムの克服の確かな手掛かりにしていただけると思います。

法身と意識的努力:唯識のことば40

 本連載は、ひとまず今回で終了(ストック切れ)です。

 ご愛読いただいたたくさんの読者に心から感謝申し上げます。

 できれば、また時々は新しい記事を書いていきたいと思っていますので、お待ちください。

 
 
  
 諸仏如来に具わっている法身の相はどのようなものであるか。……五種ある。……

 第四には永遠に変わらない(常住)というのが相である。

 ありのままの真理で清浄であるという相であるからであり、過去の願を維持・浸透させることを究極とするからであり、なすべき正しいことをまだ窮めおえていないからである。……

 法身は、始めのない過去以来、差別なく、限りないとはいっても、法身を得るためには、意識的努力(功用)をしないわけにはいかない。
     
                         (摂大乗論第十章より)
 
 
 
 私の住んでいるところは盆地のせいか夜靄がかかったようになることが多く、引っ越して来るとき期待したほどではありませんが、それでも空が澄んでいるので時々「満天の星空」を見ることができます。

 そういう時、私は、パソコン画面で楽しめるミニ・プラネタリウムのStella Theater Lite というソフトで星空と対照しながら楽しんでいます。

 (これは、ポップな、でもそれなりの宇宙感覚を喚起してくれるいい道具で、おすすめです。簡単に検索・ダウンロードできます)。

 私たちは、考えれば考えるほど、知れば知るほど、感じれば感じるほど、コスモスのなかに、コスモスの現われとして生きていることに気づいていきます。

 私たちのいのちのなかには、宇宙の一三八億年の営々たる営為が込められていて、それは留まることなく展開しつづけています。

 それは、私個人についてもそうですし(自分はコスモス・大然の部です)、生命系全体も、地球全体も、太陽系も、我々の天の川銀河もそうであり、みなただ一つのコスモスの部分でありながら、実に多様なそれぞれのかたちを現わしながら、動きつづけ、働きつづけています。

 上の唯識のことばは、そのことを精神的・内面的に自覚し表現したものだといっていいでしょう。

 ただ仏教は、現代科学のような観察-仮説-実験・検証といった方法が確立していない時代の神話的コスモロジーに基づいていますから、「始めのない過去」ということになっていますが、私たちはその部分は「宇宙一三八億年の歴史」というふうに読み換え・修正をしていいでしょう。

 こういう読み換えを容認すれば、仏教は現代人にとってきわめて有効・妥当性のある英知の遺産です(神話的コスモロジーに固執していれば、もちろんもはや大きな意味をもちえない遺物にすぎなくなりますが)。

 コスモスは、永続的に存在しており(宇宙論科学では外面的な宇宙に終わりがあるかどうかについてまだ結論が出ていないようです)、そのままでOKなのですが、同時に進化の方向性、目指すこと、達成したいと願っていることがはっきりあって、それはまだ完成していないのです。

 改めて確認しておくと、私の主宰するサングラハ教育・心理研究所は、そういう読み換えた仏教を一つの核としています。

 そのためか、大変名誉なことに、既成仏教の方々から、なかなか興味深い、賛成の声、反対の声、それから無視もいただいています。

 反対、無視は思想の自由ですから置いておいて、賛成してくださる方々とも一緒に、現代世界のなかで「法身を得る……意識的努力」をしていきたというのが、私たちの願いです。

 いちばん深いところでは、調和も不調和も、善も悪も、「差別なく、限りないとはいっても」、新しい、調和に満ちた世界を生み出すことは、法身・コスモスが目指している、まだ窮めおえていない、なすべき正しいことであり、私たちがそうしたコスモスの営みに能動的に参加する・法身を得るには、「意識的努力をしないわけにはいかない」のだと思います。
 
 
 
*サングラハ教育・心理研究所の講座はすべてそういう意識的努力の営みの一つです。
 関心を持っていただける方は、ぜひ能動的にご参加ください。
 
 

精進を支える因と果:唯識のことば36

 
 
 
 人間成長を探求する人間が限りない自分の潜在的可能性を開発していくプロセスで、繰り返し起こってくる問題が、あきたりめんどくさくなったりしてしまうということです。

 しかし大乗‐唯識の学びをしている菩薩であれば、正しい認識に基礎づけられた意識的な努力によって、そうした停滞や後退を克服することができます。


 菩薩は無上菩提(むじょうぼだい)に於て、正勤(しょうごん)を起し厭倦(えんけん)無きに二種有り。

 一には因の定まることを見、二には果の希有(けう)なることを見る。

 故に、難行(なんぎょう)の中に於ても、心に厭倦無し。

                       (摂大乗論釈真諦訳巻第六より)
 
  
  
 やや横道の話をすると、この「正勤」ということばは、意味は「精進」とおなじなのですが、音の響きがいっそう凛としていて、真冬の禅道場の冷えた、しかし張り詰めた空気を思い出させて、筆者はとても好きです。

 忙しさにかまけて、疲れに負けて、坐禅をさぼりたくなるとき、このことばを思い起こして、気持ちを奮い立たせることがあります。

 「この人生で与えられる時間は有限である。意味深く過ごす時間も、意味なくだらだらとやり過ごしてしまう時間も、おなじく帰ってこない貴重な人生の時間なのだ」という事実を思い返すのです。

 最近、年齢のせいか、時が過ぎることがひじょうに早く感じられます。

 「生死事大、無常迅速」という禅語が思われてなりません。

 しかし幸いにして、一方ではなんとか一定のところまでは達したという思いもあって、生きることへの肯定感がしだいしだいに深まっていっています。

 かつてなら、自分の境地とは遠すぎて恥ずかしくて、好きなのですが書けなかった「日々是好日(にちにちこれこうにち)」という禅語を、最近ちょっとだけ自分におまけをしてあげるというところもあって、サインに書かせていただいたりしています。

 アーラヤ識を持って生まれており、しかももともと宇宙の一部である人間という存在であり、アーラヤ識そのものが宇宙の一部である以上、ある意味ですでに覚りの世界に生きており(本覚)、また修行しだいで覚りを開く(始覚)潜在力を与えられていることは確実です。

 覚りの根本的な原因はすでに具わっているのです(仏性・如来蔵)。

 『摂大乗論』冒頭のことばを今回は意訳して引用しましょう。
 
 この心の領域・アーラヤ識は、限りない過去からずっと、すべての存在が実体としてあるという妄想が生まれる発生源となっており、そのために迷いの生があるのだが、またそれがあるからこそ覚りを得ることもありうるのだ。
 
 とはいえ、現実を見ていくと、実際に覚るという結果に到る人は残念ながら多くはありません。

 アーラヤ識に根気よくたゆむことなく真理の種子を蓄えていくという作業をついついさぼってしまうからです。

 そういう、自分のきわめて高い可能性と、にもかかわらず怠けて可能性を実現できないままに終わりがちな実情を正確に認識すると、「大変だ、めんどうだといって、さぼっている暇は、この短い人生にはないんだな」という気がしてきて、「やるほかない」という再決断に到ります。

 
 

混迷状況も実体ではない:唯識のことば35


 
 
 どのようにして、さまざまな外的対象が目の前に現象するにもかかわらず、それが実体的な存在ではないと知るのか。……

 一には、差異のある識という相を知ることである。

 たとえば、餓鬼、蓄生、人間、天人は、同じ対象についても〔それぞれの〕認識作用〔の差異〕によって〔認識内容に〕差異があるのである。

                      (摂大乗論第二章より)
 
 
 「ものごとは心のあり方しだいで実にいろいろなふうに見える」というのが唯識の基本的な考えの一つです。

 それは、抽象的な話ではなく、例えばここのところ目立ってきた世界の混迷という「外的対象」についても当てはまると思われます(この文章を最初に書いた時点では「不況」でした)。

 混迷状況があまりにもありありと「目の前に現象」してきているので、私たちはそれが変化することのない実体的な存在・問題であるかのように考えがちです。

 そして考えれば考えるほど、不安になったり、気が重くなったり、暗くなったり、困ったり、つらくなったり、絶望したりしがちです。

 その場合、いちばんふつうの対処法は、「考えると暗くなるから、考えるのはよそう」と、なるべく気にしないようにして、何とか一日一日やり過ごすというやり方でしょう。

 それはそれで何とかなっている方には、まさにそれでいいのだと思います。

 しかし唯識を学んだ私たちには、「考え方を変えて、もっと明るくなる」という手もあります。試みてはどうでしょう。

 まず第一に、どんな外的対象も、つまり混迷でさえも、実体ではなく無常であり、どんなに長くても永遠には続きません。いつかは終わります。

 どんな困難にも必ず終わりがあるのです。

 それどころか「破壊・混沌の後に新しいより高度な秩序の創発」というのはコスモスの法則です。

 そう思うと、かなり気が楽になってきませんか。

 あわてて心を乱さないで、ゆっくり気長に終わりを待ちましょう。

 第二に、混迷もまた「状況」の一つで、いろいろな見方ができるものです。

 餓鬼には、水が燃え盛る膿の流れに見えるように、これまでの日本のそこそこ安定した生活の水準を絶対視すると、混迷はとても不安なピンチに見えるでしょう。

 畜生・魚にはそれが生きる場所のすべてに見えているように、今の状況がすべてだと思っていると、暗くて出口のないトンネルに入ろうとしているように思えるかもしれません。

 しかし人間には、水は下手をすると溺れるものですが、基本的にはいのちの糧であるように、理性・知恵を使って能動的に対応すれば、どんな状況も「ピンチはチャンス」と捉え直すことができます。

 例えば、「混迷は避けられない」という見方を「確かに一定期間のカオスは避けられない。でも、なるべく短期に終わらせて新しい秩序を創造する可能性はゼロではない」と変えると、「では、どうすればいいか」と知恵が働きはじめます。

 混迷の終わりを受動的に待つだけでなく、さらに混迷、というより混沌・カオスを新しいよりよい秩序に向かうチャンスに変える能動的な工夫を精一杯していきましょう。

 天人になると、水はその上を歩くことのできる透明で美しい床に見えるのでした。「天人」とはいわば「コスモス的人間」です。

 コスモス的な見方ができれば、カオス状態にも意味があり、それを一つのステップとしてしっかりと踏んで歩むことができる、ということになります。

 「そんなこと言ったって」という声が聞こえてきそうなので、もう一言。

 これまでどおりの安定・安心を過剰に求める見方にこだわって元気が出ないのと、見方を変えて少しでも元気を出すのと、どちらが混迷・カオスを乗りきる可能性が高まるでしょう。

 見方を選ぶのは、もちろん個々人の自由です。



*3月17日の「持続可能な国づくりを考える会」の学習会は、混乱を最小限にとどめ次の新しいよりよい秩序に向かうための大きなヒントを学べる機会です。ぜひ、ご参加ください。