自由自在の境地:唯識のことば39

 
 
 
 ①生死と涅槃において もし智が起こるならば平等である

 ②生死はすなわち涅槃である 二つにはあれこれはないからである

 ③それゆえに、生死において 捨てるのでなく、捨てないのでもない

 ④涅槃においてもそうである 得ることもなく、得ないこともない

               (『摂大乗論現代語訳』一八〇~一頁)

 
 
 大乗仏教の流れの一つである唯識が、結局のところ目指しているのは「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」 1) 2)です。

 生まれ変わり死に変わり、果てしなく生死輪廻することにも、それから完全に抜け出してしまうことにもとらわれない、自由自在の境地です。

 これは私たち「凡夫の菩薩」にはなかなか到達しがたい高み――心理学的な言い方をすれば「人間成長の最高段階」――ですが、話に聞くだけでも心が爽やかになるような気がします。

 引用したアサンガ・無著の頌(詩句)に、ヴァスバンドゥ・世親がほとんど解説の必要のないくらいみごとな注釈を加えていますので、訳してそのままご紹介します。

 まず①に「生死と涅槃とはどちらも分別が作り出すものであって、〔真実には〕同一の真如なのである。もし、無分別智を得れば、これを対象として平等が起こる」、

 ②に「不浄なあり方を生死と名づけ、清浄なあり方を涅槃と名づける。生死は虚妄であり、人間と存在の二つに実体性がないということが涅槃である。無分別智を得て、生死に実体性がないことを知れば、すなわち涅槃にも実体性がないことを知る。それゆえに、あれこれという違いはない」と注釈しています。

 これは、宇宙は、生死=迷いの世界と涅槃=覚りの世界の両方を包み含んで一つの宇宙だ、と言い換えられるでしょう。

 分離したものと捉えるのは、私たちの常識的・分離的なものの見方にすぎません。
 
 もし本当の智慧の目で見れば、全く一つ=平等、あれこれという違いはないというのです。

 続いて③に「無我を観じるけれども生死を離れない。これが、『捨てるのではない』ということの意味である。生死にあるけれども、常に無我を観じている。これが、『捨てないのでもない』ということである」、

 ④に「生死を離れて別に真理はないということを涅槃と名づける。菩薩はすでに生死をさえ得ず、また涅槃も得ない。これが、『得ることがない』ということの意味である。菩薩は生死に関して常にすばらしくかつ寂静であることを観じる。これが、『得ないこともない』ということの意味である」と注釈しています。

 宇宙はつながって一つであり、絶えずダイナミックに変化しています。

 個としての私は、宇宙と一つの、宇宙の現われ・働きの一部だと心の奥底まで気づくと、もう生にも死にも輪廻にも涅槃にも縛られない自由の境地に到るというのです。

 私たちも、そういう境地に一歩でも近づきたいものです。
 
 

錬磨心:唯識のことば37

 
 
 唯識を学んでいると、修行者がしばしばぶつかる問題について、実に用意周到かつみごとに答えられていて、感心してしまうことがよくあります。今回の個所も、その一つです。
 
 
 
 どのようにして悟入することができるのか。……三相の錬磨心があるから。……

 [第一は自分自身を軽く賤しいものとする退行の心である。……

 修行者のなかには、この上ない悟りがはなはだ広く深く修行することも獲得することも難しいと聞いて、いま私などにどうしてこうした獲得しがたい無上の悟りが得られようか、と思う者がいる……。

 こうした思い込みがあるので、自分自身の心が退行する。

 この心を除くために、第一の錬磨心を学ぶべきである。]

 全世界は量りしれないものであるから。

 人間世界にある無数の衆生は、あらゆる瞬間にこの上ない悟りを得る〔ことがありうる〕。

 これを〔知ることを〕、第一の錬磨心と名づける。

                   (『摂大乗論現代語訳』一一一~二頁) 
 
  
 引用のうち、 [ ] 内は、アサンガ(無著)菩薩の本文に対するヴァスバンドゥ(世親)菩薩の注釈ですが、初めて読んだとき、人間の弱さに対するきわめて鋭い洞察に感心させられました。

 初心者や、しばらく修行した人のなかに、「悟りなんて、私みたいなダメな(あるいは、怠け者の、集中力のない、素質の悪い……)人間にはとても無理です」といいはじめる人がいます。

 ヴァスバンドゥ菩薩は、そういうことをよく知っていて、その気持ちへの深い共感ももっていたようです。

 しかし共感したからといって、「私なんかには無理だ」という気持ちをそのまま認めるわけではありません。

 はっきり、「それは思い込みだ」といっています。

 「思い込み」の漢訳は「執」で、自分へのマイナスのこだわりです。

 アドラーの用語を借りれば「劣等コンプレックス」、マズローの用語を借りれば「ヨナ・コンプレックス」といったところでしょう。

 「私なんか悟れっこない」というのは、霊性的な劣等コンプレックスであり、こだわりであり、思い込みであって、正しい自己認識ではないのです。

 そういう思い込みが、いつのまにか、修行をやめ、元の凡夫へと退行する口実になります。

 「退屈心」とか「退弱心(こにゃくしん)」といわれる、人間成長の途上で起こりがちな、典型的な霊性の病い(の三つのうちの第一)です。

 それ(第一の退屈心)は、どうしたら治せるかというと、「(第一の)錬磨心」を学ぶことによってだといいます。

 同じような退屈心の起こりがちな私たちも、アサンガの言葉によく耳を傾けましょう。

 「人間、つまり八識を抱えた存在として生まれた者にとって、人生のあらゆる瞬間は悟りのチャンスである」ことを認識するのが、第一の錬磨心だといいます。

 このことを、しっかり心に収めれば、劣等コンプレックスは根本的に解消されるはずです。

 私たちはみな、まちがいなく八識の凡夫ですから、だからこそこの人生は悟りのチャンスだともいえるのです。
 
 
 

菩薩の持続する志:唯識のことば28

 
 
 ふつうの人・凡夫が、人生のいろいろな悩みに出会ってなんとかそれを乗り越えたいと思ったり、すばらしい教えに感動したりして、修行を始めると、そこで覚りを求める者・菩薩になります。

 どんなに初心であっても、どんなに煩悩だらけでも、どんなに愚かでも、菩薩は菩薩なのです。

 初めて覚りたいという心を発したのを「初発心(しょほっしん)」といい(「新発意(しんぼち)」ともいいます)、はっきりと覚りたいと思ったら、それが「初発心」であり、そこで初発心の菩薩になります。

 もっともまだあまりの凡夫の状態で、とにかくやっと修行を始めたばかりだと、「凡夫の菩薩」という言い方もあります。

 私たちも、その程度かもしれませんが、でもやはりもう菩薩なのです。

 しかし長い仏教の修行の歴史のなかでは、いったん凡夫の菩薩になってももとの完全な凡夫に「退行」する人もしばしばいたようです。

 それは現在と変わりません。

 きっかけになった悩みが少し軽くなると、もう修行が面倒になってきたり、最初の感動が薄れてきて、なかなか実感できるような進歩がない、効果があがらないとなると、いやになってきたり、そこそこの体験があったり、ある程度の境地に到ったら自己満足してしまったり……と。

 初発心の時点からしばらくすると、ほとんど法則的といってもいいくらいに、停滞、退行の危険が忍び寄ります。

 人間成長・修行にとって、そこが一つの関門です。

 アサンガ菩薩は、おそらくみずからもそういう体験をしたのでしょうし、後輩、弟子たちが、そうした関門で行きどまってしまうのをたくさん見たのでしょう。

 『摂大乗論』のあちこちに、退行への警告と、関門を突破して前進するようにという励ましのことばがちりばめられています。

 もし菩薩が初発心から成仏に到るまで、飽き足りることのない心を捨てなければ、これを菩薩の長い時間の意志と名づける。

                  (『摂大乗論現代語訳』第四章より)

 菩薩には、ぜひ「長い時間の意志」、持続する志が必要です。どこかで倦み疲れたり、飽き足りたりしないで、精進しつづけること、それが菩薩の志というものなのです。

 初発心から成仏までは、唯識では三大カルパというおそるべき長い時間がかかることになっていますが、それでもどこかで満足してしまわない、あきらめてしまわない、へたばって坐りこんでしまわない。

 なかなかむずかしいことですが、せっかく人間、つまり覚る可能性をもった存在として生を受け、しかも幸運にもすばらしい道を見つけ、歩みはじめたのですから、途中でやめるなどというもったいないことはしたくないものです。

 自己満足しかかったら、人間にはほとんど無限の成長可能性があることを思い出して、疲れていたら少し休んでからでいいから、もう一度、前に向かって歩き出しましょう。

 これは、読者に向けていう前にまず自戒のことばです。
 
 
 

苦しみといういいこと:唯識のことば27

  
 
 堅実でないものを堅実であると考え
 転倒した妄想にとどまり
 煩悩に汚染される者
 彼らこそ勝れた覚りを得る                

(摂大乗論第二章より)
 
 
 大乗仏教の言葉の中には、表面的な意味と深い意味がまるで違うものがあります。

 そういう表現方法を「逆説」といいます。

 右の言葉も、そうした逆説的な表現で、軽く読むと「え?」と思うようなことが書かれています。

 頼りにならないものを頼りにし、分別知から出た常識・浅知恵にこだわり続け、そのせいで悩みに悩んで心がドロドロになってしまうような人間、そういう人間こそすばらしい覚りに到ることができる、というのです。

 これは、すべては空であり実体ではなく、だから頼りにしてはならないと考え、常識は妄想だとして捨て去り、さっぱり爽やかに生きる人間が、「勝れた覚りを得る」のではない、ということになります。

 この言葉は、私たちの仏教に対する常識的な考え方とはかなり違っていて、非常に逆説的で、こういう表現に出会うと、私たちは単純に読み過ごすことができず、「これはいったい真意はどこにあるのだろう?」と考え込むことになったりします(もちろん「ふーん」というふうに読み飛ばしてしまうこともしばしばありますが)。

 しっかり考え込むことになったら、この言葉が禅でいう「公案」の役割を果たすことになるでしょう。

 「公案」に対する解答を「見解(けんげ)」といいますが、ご参考までに、私のとりあえずの見解を書いてみたいと思います。

 私は、この言葉からは、二つのことを読み取ります。

 第一は、これは本気で修行に苦闘した人の実感のこもった言葉だということです。

 頭では堅実ではない、空だといくら思って、やはり頼りにしたくなるものがいろいろあります。健康、容姿、地位、名誉、財産、知識……。

 分別知は妄想だと教わり、納得しても、だからといってすぐにやめられるものではありません。

 意識だけでなく、アーラヤ識の底まで汚染されているからです。

 私たちの日常は、マナ識-アーラヤ識の働きで欲望(神経症的欲求)と悩みに汚れっぱなしです。

 しかしその悩み・葛藤がもう耐えられないほどだという気持ちになるからこそ、本気でそこから抜け出したい、だから修行するという気になるものです。

 ゴータマ・ブッダから始まって、深い悩みなしに修行する気になり、覚った人は、ほとんどいないようです。

 だとすると、今悩んでいて、修行を始めたみなさん、おめでとうございます。

 スタートを切ったら、途中で棄権しないかぎり、いつかはゴールに着くことが決まっています。

 第二は、それとも関わって、筆者がずっと言ってきたことですが、唯識、広く言えば大乗仏教は「絶対肯定の思想」であるということです。

 人生におけるあらゆること、悩みや苦しみさえもオーケーだ、人生には悩みはあるもので、それは究極的にはいいことだ、ということです。

 苦しみといういいこと・必要なことがあるからこそ、私たちはもっといいこと、つまり覚りへと向上しようとする、せざるをえなくなるのです。

 コスモスは、グッドからベターへ進化し続けていて、私たちはそのプロセスの一部なのです。
 
 

瞑想と願望成就:唯識のことば23

 
 
 第八回に夢の話を書きました。

 その時は迷いという悪い夢から覚める話でしたが、今回は積極的にいい夢を見ようという話です。
 
 私たちふつうの人間は、すぐ完全に夢から覚めることはできませんから、どうせ見るならいい夢を見たほうがいいわけです。

 それに、悪い夢よりいい夢を見た後のほうが、すっきり目を覚ますことができます。

 そこで、いい気分で、ほどほどの時間に目を覚ませるように、その前にいい夢を見ておくのも悪くありません。

 唯識では、私たちがいい意味での夢=「さまざまな願い」をもつことを否定していません。

 そういう意味では、「禁欲主義」ではないのです。

 それどころか、「瞑想修行する人は、願いを実現することができる」といっています。
 
 
 瞑想修行する人は、さまざまな願いと見方を成立させることができる。

〔瞑想修行する人があるいは自分の自由さを完成するために、あるいは他の人を誘って正しい教えを受けさせたいと欲して願うならば、さまざまな変化の願いはみな成就しうる。もし願が成就するならば、自分の見方も他者の見方も願ったようにみな成就しうる。〕

               (『摂大乗論現代語訳』七一~七二頁)
 
 種々の願と及び見とを、観行の人は能く成ず。

 〔勧行の人、或は自の自在を成せんが為に、或は他を引いて正教を受けしめんと欲するが故に願ひ、種々の願を成ずることを得。若し願、己に成ずれば、自見他見は所願の如く亦皆成ずることを得。〕

      (国訳一切経『摂大乗論釈』真諦訳、大東出版社、一〇二頁)
 
 
 といっても、もちろん人間にとって当然の、あるいは許される「願」と、歪んだ、自他に害のある欲望は違います。

 「観行」で「成ず」るのは「願」であって、「貪(むさぼり)」ではありません。

 でも、自分がほんとうに自由に、爽やかに生きたいという欲求と、まわりの人にもそういういい考え方、いい生き方を伝えたいという願いなら実現するというのです。

 アサンガ菩薩もそういっておられますし、私も全面賛成ですが、生き方の基本として、欲望を抑えようとするより、欲望の奥にある自然な欲求を回復するほうがいい。それから自利利他の高次の欲求を追求する。

 いわば〈生命欲〉の全面的解放を目指したいと思います。

 厳しい時代になってきたからといって、変にちぢこまったりしないで、のびのびと生きたいものです。

 人生は、マナ識的な自分の思いどおりになるわけではありませんが、自分の思いが宇宙と共振したときには、思いは実現するといわれています。

 宇宙が実現してくれるというのです。

 そういう意味で「いい」夢を描くと、夢は実現します。

 やすらかに眠る時のようにリラックスして、宇宙に全心身を任せて、子どもが欲しいもののことを夢に見ながら寝言をいうように、心の奥底からの願いをいえば、宇宙は聴いていて、いちばんいい時にかなえてくれる……ようです。

 ただし、子どもがどんなに欲しがる一見いいものでも、結局は害になるものを親は与えないように、結局はためにならないことは、宇宙はかなえてくれないようです。