連載:持続可能な国づくりの条件 16

さて、時間がもう少しあるので、ご紹介しておきたいのですが、スウェーデン精神のベースは、私はプロテスタント・キリスト教から社会民主主義・ヒューマニズムへということだと捉えています。

かつてのスウェーデン国民は基本的に全員、毎週日曜日、教会に行っていました。

行ったら、牧師さんから必ず説教を聞かされる。30分から40分くらい聖書のお話を聞かされるのです。

そういう時に語られることの中に必ずあることは、「隣人への愛」ということです。

もっとも典型的なのは、『新約聖書』(日本聖書協会1954年改訳版)の「コリント人への第一の手紙」というところにある、「これが体現されたらまさに福祉国家スウェーデンになるな」と思わされる言葉です。

 

からだが一つであっても肢体は多くあり(注:肢体とは、手や脚といった体の各部分)、またからだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。

〔そして、教会は「キリストのからだ」と呼ばれていて、精神としてスウェーデンは国全体が一つの教会・キリストのからだであるわけです。〕

実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、私は目ではないからからえだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。

〔つまり、「おれには関係ない。知っちゃいないよ」といった社会意識を失った個人というのは本質的に存在しえない、ということがここで語られています。〕

もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこで見るのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれからだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。

〔つまり、メンバー全体、スウェーデンでいえば国民全体が、一つのキリストのからだという共同体を形成するのだということですね。実際、日本語ではすべて画一的に「肢体」と訳された言葉は英訳では場所によって members と訳されています。〕

目は手に向かって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足に向かって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなくて、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで他より見劣りすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体(英訳では以下すべて members) がお互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、他の肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、他の肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。

 

キリスト教の精神に忠実だったら、国民と国家の関係はこうなるということなのです。

キリスト教が国教だった時代のスウェーデンだけでなく、近代の合理主義によって神話的なキリスト教は否定されても、国民精神としての協力原理は、「豊かな人が貧乏な人を助けるのは当たり前であり、国全体が調和に満ちた一つの体をなすのが本当なのだ」というヒューマニズムとしてしっかり残り、具体的には社会民主主義的な「国民の家」というかたちになっていったと考えられます。

ブランティングやハンソンといったリーダーたちが、キリスト教精神をいわば世俗的なヒューマニズムに置き換えたわけですが、一貫する共通のベースは何百年にもわたって培われたスウェーデン精神だと私は思います。

翻って言うと、ブータンの大乗仏教精神がブータン国民とブータンの国王を育てたように、プロテスタント・キリスト教の精神とそこからくる社会主義ヒューマニズムが、スウェーデンの国民と国民的リーダーを育てたのです。

そういう精神性があったから、あの二つの国は持続可能な国づくりができているのだと思われます。