朝日よりも美しい夕日

今日、毎日新聞に「元気に年を取り活動的な生活を――サクセスフル・エイジング」という鳥越俊太郎氏と山野学苑総長の山野正義氏の対談が掲載されているのを、先に読んだ妻が教えてくれた。

その中で山野氏が、アメリカのとてもいい言葉を紹介していた。

Sunset is as beautiful as sunrise.

直訳するとこういう感じだろうか。

夕日は朝日とおなじくらい美しい。

暮から今日まで滝宮はわりに好天に恵まれ、毎夕、私の書斎から羽床富士・堤山の右側に沈んでいく美しい夕日が見える。

我が家の場合、朝日は他のお宅の屋根から昇るので、夕日のほうが朝日よりも美しい。

私は、お年を召された方にお話しする機会があるとよく「日本には〈老熟〉といういい言葉があります。私もそれを目標にしています。もしいつまでも変わらないで若いままだったら、老熟はないんです。老熟していけるんですから、変化していくこと・無常はいいことなんです」とお話ししている。

先の言葉を山野氏は「生きるほど美しく」と訳しておられ、実にいい訳だと思った。

年を重ねるにつれ、朝日よりも美しい夕日のようになっていきたい、と思う。

それには、もちろん日々の精進が必要なことは言うまでもない。精進波羅蜜多!

 

 

堤山の夕焼け

(これまでずっと話し言葉で書いてきましたが、これから時々、書き言葉の小論文やエッセイも書こうと思いますので、読者のみんさん、よろしくお願いします。

滝宮に来てから、書斎の南側のガラス戸の外にはいつも讃岐七富士の一つ堤山(つつまやま)が見えているという生活をさせてもらっている。

「讃岐七富士」といっても、おにぎりのようなかたちをした小山で、ほんものの富士山とはまるで違い、ふだんは日本昔話にでも出てきそうなのどかな様子で、そこがまた気に入っている。

かつて、辻堂西海岸というシャレた地名の海沿いの団地のいちばん海側の棟の三階に住んでいて、窓の外、晴れた日にはいつもキラキラ光る湘南の海が見えているという、これもある種ぜいたくな生活をしたことがあった。もちろんそれとは見えているものが違うのだが、どこか共通した満足感がある。

いつも海かあるいは山が見えている、というのが「ほんとうの生活」だという思いがあるからだろう。それに、夜は晴れていれば「満天の星」でなければならない。

それはともかく、ふだん堤山はのんびりと可愛らしい山なのだが、一昨日、夕焼けの時間にふと見ると、そこにはある種荘厳といってもいい光景があったので、少し驚き、そして感動した。

急いでカメラを取り出して、いろいろな角度から撮ってみた。私のカメラと腕では実物の雰囲気を撮りきれないが、いちおう載せておくことにしよう。

急に寒くなってきて、もう初冬の気配であり、気づくと二十四節気の小雪(しょうせつ)である。数日前には、家の南側の休耕田に真っ白な初霜が降りていた。

東側の空き地の縁は山茶花の生垣になっていて、可憐な白い花がいくつも咲き始めている。

今年は秋が短くて、今から散歩気分で登るのにはちょっと寒いかな、季節を外してしまったかな、という感じがあるのだが、それでも気が向いたら登ってみよう、少なくとも来年の春にぜひ登ろう、などと思っている。

*アクセス解析を見ていたら、この記事に合わせてかつて書いた「夕焼け・朝焼け空はなぜ赤いか? コスモス・セラピーの解釈」という記事を読んでくださった方が何人もいたらしく、「ああ、こういうことも書いたな」と思い出しました。参考になると思いますので、リンクしておきました。

『ストイックという思想』書評

先週から今週の日曜日、いくつもの地方紙の書評欄に、拙著『ストイックという思想――マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』の書評が掲載されました。

私が読者に伝えたいことをとても上手に要約-表現してくださっていて、有り難いと思いました。

まだお読みになっていないブログ読者のみなさん、以下のように評価していただいた本です。

よかったら、読んで元気になって下さい。