連載:持続可能な国づくりの条件 18 〔完結〕

 結 論

そこで結論です。日本国民の多数が本気になる。そしてスウェーデンやブータンに学びながら、持続可能な国を創出する。

これは緊急に求められていることだと思います。

そのためには、まずスウェーデンやブータンのことを勉強しましょう、と。

それから、それを鏡に、日本はなぜできないのかを自覚しましょう、と。

そこまで自覚したら、ではどうしたらいいのかということを、これから共有して、どこかだけではなくて4象限全体にわたって、日本が持続可能な国になるように条件を調えていく。

そういうことを、これから本気でやれば、なんとかなるのではないか、と。

しかし、ちょっと片手間でやっているぐらいではどうにもならない。「私のできることをできる範囲でやります」くらいの精神では、正直言ってどうにもならないと私は思います。

そうとう本気になる必要があります。

日本が危機にあることに対する心情的な受け止め方が、例えば維新の会など、いろいろな形で表われていると思います。

私は、そういう方たちに心情的には一部共感しますが、考えていることは評価していません。

彼ら同等以上の熱意を持って、持続可能性という方向に向かって明確な理念とビジョンを持って本気になって努力する人間集団、やがては党が出来上がって初めて、日本には先がある。

それが出来なかったらちょっと、というよりそうとう危ういな、というか正直言うとだめだろうな、と私はシミュレーションしています。

私も子どもや孫がいて、あと10年後、20年後、40年後の日本がズタズタになっていたら……例えば20年後の日本がガタガタだと、孫たちが青春ですから、とても困るので、「だめだろうな」などと言って済ませるわけにはいきません。

なんとかしておきたいということで、6年あまりみなさんと一所懸命、「持続可能な国づくりの会」ということで呼びかけてきましたけれど、はなはだ残念ながら、今のところまだあまりたくさんの方に結集していただいていません。

今後も結集しないままだったらとても困るんですが……。

もちろん、この会ではなくて、例えば「日本未来の党」に結集してもらってもいいんです。「緑の風」に結集してもらってもいい。なくなってしまったけれど、昔の「日本緑の党」に結集してもらってもよかったんです。

けれども、次世代の未来の展望を開くために、あえてはっきり言いますが、それらのグループにも4象限にわたる理念とビジョンが不足していると思います。

それから何よりも、結集するだけの危機感と熱意が日本国民に足りないのが問題だ、と私は思っています。

ここにお集まりになった方は、熱意をお持ちだからこそ学ぼうと思って来てくださったのだと思いますが、ぜひ、今日投げかけたことをどう思われるか、ぜひ質問や共感の感想や、「いや、違うんじゃないか」という反論など、いろいろ出していただいて、共有できる方とは本気で共有をするというプロセスを、残り時間の可能な範囲でやっていきたいと思います。

だいたい予定通りの時間になりましたので、ここで一区切りです。お疲れさまでした。

 

*現時点(2014年9月)でも、「結集するだけの危機感と熱意が日本国民に足りないのが問題」という状況は大きくは変わっておらず、多数の傾向としては「高度経済成長よもう一度」という夢を見ている状態のようですが、さすがにここのところの顕著な「気候変動」「異常気象」に目が覚めてきた市民もじりじりと増えてきているのではないかと期待しているところです。

ただちに影響があってもなくても、言えること・言うべきことをこれからも言い続けていくつもりです。

ぜひ、続けてお読みください。そして、ぜひ、賛否どちらであれコメントをいただけると幸いです。

 

 

 

連載:持続可能な国づくりの条件 17

運営委員長の岡野です。

サングラハ教育・心理研究所の東京集中講座のため、しばらく記事更新ができなくなりますので、結論まであと2回分、今日まとめて掲載します。

 

 日本の神仏儒習合の精神と「絆」の喪失

それに対して日本では、かつて江戸時代まで、神仏儒習合、すなわち神道と仏教と儒教が結局は一つのことを語っているのだといった考え方・国民精神があったと思います。

これが近代化のプロセスでだんだん崩壊してきてしまって、今日本全体、特に都市部ではほとんどなくなっていますが、東北では「絆」という形でかなりの程度残っていたようですね。

震災・津波の後、典型的だと思ったことは、お寺で弔いをし、流された神社を建て直してみんなでお祭りをすることで、「絆」を確かめていたことです。

それは、「みんな神の子・仏の子・天地自然の子だ」という神仏儒習合の思想が共同体の「絆」の根拠になっていたことを示している、と私は捉えています。

しかし、すでに慣習になっていて自覚的なものではなくなっていますし、地方・地域によって若干残っているとはいっても、戦後の標準的な日本の国民精神は、要するに物質科学主義的な個人主義的と自由主義的な民主主義です。

とても残念ながら、「日本人全体が助け合うのが当たり前」(「なぜならば、みんな同じ神の子・仏の子・天地自然の子なのだから」)という国民精神は全体としてはもうほとんど失われている、と私は思います。

それに加えて、大正デモクラシーや戦後のアメリカ流民主主義のベースであったヒューマニズムによる「連帯」の精神も、欧米からの借り物であって日本の精神風土から生まれたものではなかったためか、いまはほとんど死語になっていると思われます。

そういう状況にありますので、日本は残念ながら持続可能な国の実現には遠いのですが、ともかくまず四つの象限にわたる条件全部が必要なのだということを自覚する、それからそれを調えていく。

そういうことを、これから意図的にやっていけば、まだ遅すぎはしない、不可能ではない、と私は考えています。

 

 

 

連載:持続可能な国づくりの条件 16

さて、時間がもう少しあるので、ご紹介しておきたいのですが、スウェーデン精神のベースは、私はプロテスタント・キリスト教から社会民主主義・ヒューマニズムへということだと捉えています。

かつてのスウェーデン国民は基本的に全員、毎週日曜日、教会に行っていました。

行ったら、牧師さんから必ず説教を聞かされる。30分から40分くらい聖書のお話を聞かされるのです。

そういう時に語られることの中に必ずあることは、「隣人への愛」ということです。

もっとも典型的なのは、『新約聖書』(日本聖書協会1954年改訳版)の「コリント人への第一の手紙」というところにある、「これが体現されたらまさに福祉国家スウェーデンになるな」と思わされる言葉です。

 

からだが一つであっても肢体は多くあり(注:肢体とは、手や脚といった体の各部分)、またからだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。

〔そして、教会は「キリストのからだ」と呼ばれていて、精神としてスウェーデンは国全体が一つの教会・キリストのからだであるわけです。〕

実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、私は目ではないからからえだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。

〔つまり、「おれには関係ない。知っちゃいないよ」といった社会意識を失った個人というのは本質的に存在しえない、ということがここで語られています。〕

もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこで見るのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれからだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。

〔つまり、メンバー全体、スウェーデンでいえば国民全体が、一つのキリストのからだという共同体を形成するのだということですね。実際、日本語ではすべて画一的に「肢体」と訳された言葉は英訳では場所によって members と訳されています。〕

目は手に向かって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足に向かって、「おまえはいらない」とも言えない。そうではなくて、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで他より見劣りすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体(英訳では以下すべて members) がお互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、他の肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、他の肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。

 

キリスト教の精神に忠実だったら、国民と国家の関係はこうなるということなのです。

キリスト教が国教だった時代のスウェーデンだけでなく、近代の合理主義によって神話的なキリスト教は否定されても、国民精神としての協力原理は、「豊かな人が貧乏な人を助けるのは当たり前であり、国全体が調和に満ちた一つの体をなすのが本当なのだ」というヒューマニズムとしてしっかり残り、具体的には社会民主主義的な「国民の家」というかたちになっていったと考えられます。

ブランティングやハンソンといったリーダーたちが、キリスト教精神をいわば世俗的なヒューマニズムに置き換えたわけですが、一貫する共通のベースは何百年にもわたって培われたスウェーデン精神だと私は思います。

翻って言うと、ブータンの大乗仏教精神がブータン国民とブータンの国王を育てたように、プロテスタント・キリスト教の精神とそこからくる社会主義ヒューマニズムが、スウェーデンの国民と国民的リーダーを育てたのです。

そういう精神性があったから、あの二つの国は持続可能な国づくりができているのだと思われます。

 

 

 

連載:持続可能な国づくりの条件 15

スウェーデンは本当に幸運な国で、それは国民性がそうだったためですけれど、19世紀、ロシア革命などでレーニンやスターリンが暴力革命とか一党独裁とか私有財産の没収とか言っている時に、もっと人間を人間として生かす社会主義・社会民主主義でいきましょうという流れが主流になっています。

 

 

カール・ヤルマール・ブランティングという社会民主党の初代党首、そして何度も首相をやった人ですが、この人の時代からもう、ソ連型の社会主義ではなくて、言論や思想や財産の自由を保って、複数政党による議会制民主主義をしっかりと維持しながら、しかし選挙で国民の支持を得て社会民主党が第一党になることによって、社会民主主義的な福祉政策を実行するということをやり始めています。

それから、第二次大戦中、戦争中であるにもかかわらず、スウェーデンは中立を保って戦争をしなかったのですね。スウェーデンはナポレオン戦争が終わった後から200年ぐらいずっと戦争をしていない稀な国です。すごい国ですね。

そして、戦争をしなかったので、戦争をした国が消耗したのに対して、それを補うための商売が非常にうまくいったのが、戦後のスウェーデンの経済繁栄の大きな要因になっていますが、その基礎を築いたのがハンソンという首相です。

ブランティングも言い始めていて、ハンソンが本格的に宣言したのですが、国というものは、階級が対立したり、あるいは特定の階級が牛耳ったりする国ではなく――これは何を言っているかというと、自由主義国家とソ連型社会主義国家を指していますが――そうではなくて、国民全体の家になるべきだ、「国家は国民の家でなければならない」という理想を掲げている。

国民全体が助け合うことこそ国が存在する理由なのだということを、理念として語っただけではなくて、制度としてそれをしっかりと築き上げていった人です。

第二次大戦が終わった直後1946年に、ハンソンが亡くなったので、戦後ただちにターゲ・エランデルという人が後を継ぎます。

これは日本の自民党政権以上の長期政権の大部分を担った首相です。

外から見ると20数年首相をやりっぱなしなので、独裁者じゃないのかと思うかもしれませんが、国民の信頼を得続けたための長期政権であって、まさに国民のための福祉国家、そして緑の福祉国家を築き上げていったリーダーですね。

この人の伝記を読んでみましたが、もう本当に私心のない人だったようですね。

エランデルは、首相を辞めてパルメという人に譲った後で、二人で相談して、「これからは環境が問題だから、国連に働きかけよう」ということで、1972年に国連人間環境会議がストックホルムで行われます。

第1回の国連環境会議のリーダーは、エランデルとパルメというスウェーデンの元首相と現首相だったんですね。

つまり、環境問題に対する目覚めも、リーダーからして非常に早いという国です。

こういうリーダーと、こういう人をリーダーに押し上げていく国民というのは、鶏―卵の話で、どちらが先かということですが、こういうリーダーもいるし、こういう人をトップリーダーに押し上げていくという国民性があったために、スウェーデンにはこれができたということですね。

繰り返すと、スウェーデンは、かつてはヨーロッパの北の果ての貧しい農業国家だったのですが、近代の工業国家をみごとに創り上げ、そして福祉国家、さらに緑の福祉国家を実現しつつあるわけです。

 

 

写真の奥に見える教会がまさにスウェーデン精神を形成したプロテスタント精神のシンボルです。

 

 

また次の写真のように、こうやって皆でお祭りを楽しみますという国民性が今でも強く残っている。

 

 

次のこの写真はストックホルムの光景ですけれど、このストックホルムの中心の近くに、都市でありながらみごとに環境的に持続可能な実験都市ハンマルビー・ショーシュタットを作っています。

そこに視察に行ってきましたが、「いや、実にうまく作っているな」とびっくりしてしまいました。その詳細はかつてもお話ししましたし、また機会があったらお話しします。

 

ストックホルムの市街地のすぐそばに、島一つの王立の自然公園がしっかり残っています。日本の都心の、例えば新宿御苑などという規模ではありません。

王様から払い下げがあって、開発して住宅にしようという話もあったそうですが、市民が大反対して、結局自然公園のまま残すことになったそうです。

東京都でそれをやったらどうですかね。「新宿御苑を潰してマンションにしよう」とか言ったら、もちろん一部の市民は反対するでしょうが、結論として「いいね、そうしよう」と日本はなりそうですよね。

私は今(2013年時点)、有明という海沿いの開発をしたところにある大学に教えに行っていますが、もう完全に都市環境で、元あった自然環境を全部ぶっ潰して、人工的な近代都市にしています。そのあたり、もう全然発想が違うなと思います。

 

 

 

連載:持続可能な国づくりの条件 14

スウェーデンにおける4象限の条件

すべての面で非常にランキングが高く、特に持続可能性は1位というのがスウェーデンですが、これは持続可能な社会実現のための4象限にわたる条件が、かなり、というよりみごとに満たされているためだと思われます。

右上から行きます。スウェーデンは、もちろん世界の先進的な環境技術をみごとに持っています。

しかしそれだけでなく、左上、それを使って社会全体が中長期、経済もうまくいくし福祉もうまくいくし環境もうまくいくという構想をすることのできるリーダーがいる。

それから、左下、そのリーダーが言ったら「そうそう」と理解できる市民がいる。これは大きいです。

それから、その市民の中にもともとバイキング時代以来自然を愛する国民性がある。

「自然を愛する国民性」という場合、文化論的に言うと二種類あるんです。

自然に甘えるという意味で自然を愛する国民性と、自然を守ろうとするという意味で自然を愛する国民性です。

日本は自然に甘えて……もっとも典型的に言えば、赤ちゃんがどんなに汚いウンチをしようがおしっこしようが、何をしようがお母さんは全部きれいにしてくれるでしょう。

そういうふうにお母さんに甘えるかのごとく自然に甘えてきたのが日本の自然の愛し方です。

だから、自然を愛していると思いながら、公害大国になったりしたわけです。

ところが、北欧は、そんなふうに甘えていたらガタガタになってしまうような厳しい自然です。

だから、人間がしっかりと自然を保全するように、いつも守らなければならない。

北欧の人々は、そのことをしっかり自覚していると思われます。

視察に行った時に、フィンランドの森の中で聞いてなるほどと思ったことは、子供が生まれたら木を植えるというんです。

で、20年か25年ぐらい経って結婚する頃になったら、やっと丸太小屋を立てられるくらいの木になる。そこで、切って家を建てる。

もちろん子供が生まれたらまた植える……というふうに、ちゃんと森林を利用しながら維持していくということを計画的にやっている。

世代から世代へと森が枯渇しないように、植えて切って植えて切って、とちゃんと世話をしながら続けていく、というふうな自然の愛し方です。

ストックホルムで、ガイドさんに「スウェーデンの週刊誌が国民に『あなたがいちばん関心を持っていること』というアンケート調査をすると、答えはいつも同じ項目が同じ順番なんですが、何がどういう順序になると思いますか?」と聞かれて、私たちは「なんだろうねぇ?」とわからなかったんですが、答えは、第1位スポーツ、第2位自然、第3位休暇なんだそうです。

国民がいちばん関心があるのはスポーツと、それから自然の中で生活することと、そのためには休暇が必要なので休暇、と。ものすごく健全な国民性だなと思います。

今私の教えている学生たちに、「君たち、今何がいちばん大事?」と言ったら、すぐに「ケータイ」とかね(笑)、そういう話になりそうですし、大人の男性の多数がワーカホリックですから、そうとう違うと思います。

それから、強調しておきたいのは、もともとプロテスタント国家だったということです。

プロテスタント・キリスト教がもう完璧に国教でした。

国民すべてがある時期までは……今、例えばイスラム教徒の移民も受け入れたりしているので、全員ではなくなりましたし、教会に行っていないという市民も多くなっていますが、ある時期までは国民全員がプロテスタント・キリスト教の信者という国でした。

近代化・合理化のプロセスで神話的なキリスト教は批判されたにもかかわらず、ここで培われたキリスト教の愛の精神は「愛」という言葉がヒューマニズムの「連帯」という言葉に置き換えられるというかたちでしっかり残っていて、社会民主主義的なヒューマニズム精神が非常に強く国民の中に行き渡っている。

つまり、「人間は協力するのが当たり前だ。協力してこそ人間なのだ」という精神です。

それに対して今の日本では「努力した人が報われる」という台詞が首相から出てきますが、あれは後に括弧で本音を挿入すると、「(努力しなかったとみなされた人は報われない)」ということです。

つまり、もっとむき出しに言えば「勝った者は勝ち、負けたやつは負け。負けたやつが滅びていくのはしょうがない。勝った者がなぜ面倒見なきゃいけないのか」という自由主義的競争原理の話です。

スウェーデンでは、それとちょうど真っ逆さまの協力原理の精神が国民精神としてしっかりと根付いている。ここがもうある意味では決定的に重要だ、ということを後でもうちょっとお話ししたいと思います。

それから、そういうリーダーがいて(左上)、そういう国民と国民文化があって(左下)、もちろん先進的な環境技術もあるから(右上)、政府が25年計画でエコロジカルに持続可能な社会=緑の福祉国家を建設する(右下)と言うと、国民も企業もみんな協力してきて、十数年経つと、「あともう10年ぐらい経てば、スウェーデンは国家単位ではエコロジカルに持続可能な国になっている自信があります」と堂々と言えるようなことを今やっているわけです。

けれども残念なことに、スウェーデンでさえまだ完全に持続可能にはなっていないと、自分たちも評価しているし、世界全体はエコロジカルに持続可能な世界秩序には全然なっておらず、国単位で目指しているいくつかの国がようやくそこに近づきつつあるだけです。世界にはだいたい190カ国ぐらいあるんでしたか。

そういう世界の状況なので、日本も、10何位とか20何位ではなくて、できるだけ早くスウェーデンに追いつき追い越すような持続可能な国づくりをやって、世界に先駆けて世界のリーダーになってほしい。

世界の経済のリーダーになるのはもういいから、持続可能な世界づくりのリーダーになってほしいと切に思うのですが、残念ながらそれには4象限のうちの3象限の要素が足りないと思います。

まあ、足りなかったら足せばいいわけですが。

 

 

 

連載:持続可能な国づくりの条件 13

スウェーデンの達成度の国際評価

スウェーデンについては、今までもお伝えしたことのまとめです。

スウェーデンは、かつて「ヨーロッパ北辺の貧しい農業国」だったのが、ここ百年あまりをかけて、近代工業国家、そして福祉国家、そして緑の福祉国家と、まさにエコロジカルに持続可能で国民みなが幸せですという国に向けて国づくりを意図的にやってきた国です。

なぜ特にスウェーデン・モデルを取り上げるのかというと、何よりも国の持続可能性が国際自然保護連合の2001年のランキングで世界第一位だったからです。

国際自然保護連合は、元国連機関で今は独立機関ですが、環境問題について非常に権威のある機関です。そのランキングでは、1位スウェーデン、2位フィンランドというふうに、上位に北欧がずらっと並んでいて、日本は第24位でした。

その後2004年、2007年と、OECD30カ国で持続可能性ランキングが出されましたが、この時もやはりスウェーデンがずっと変わらず1位です。

しかもこの場合は、持続可能性の両方の面を満たしています。環境面だけではなく社会的な持続可能性のほうもちゃんとカウントされた上で1位です。

2008年の世界経済フォーラムの環境対策ランキングでは1位がスイスですが、2位スウェーデン。

日本も14位で頑張っているといえば頑張っているんですが。

それから2007年『リーダーズダイジェスト』の環境的住みやすさランキングでは、1位フィンランド、第4位にスウェーデン。

日本も第12位で、これもまあ頑張っているといえば頑張っている

でも、悲しいのは国民の幸福度ランキングです。1位デンマーク、第6位フィンランド、スウェーデンは7位ではあるのですけれど、幸福度もかなり高い。

日本は90位です。世界の180カ国ぐらいの内の中ぐらいのところにしかいっていないんです。

つまり、経済大国であろうとして頑張ってきて、この間まではアメリカを除けばジャパンアズナンバーワンで、この間中国に追い抜かれても、でも世界第3位ですが、国民が幸せかと言ったら90位という国なのです。

国際評価はそうですし、国民の実感もそうかなという気がしますね。

さて、こんなに環境や福祉に配慮していて、スウェーデンの経済は大丈夫なのかということですが、2007年世界経済フォーラムの国際競争力ランキングでは、スイス、フィンランド、スウェーデンと世界第3位です。国際競争力がすごくあるんです。つまり知識産業で。

当時は日本も、1つの指標では7位でした。

ただ、国際経営開発研究所の同じ年のランキングでは、指標が違うので、第1位がアメリカで、やはり強い。でもアメリカが強いと評価される指標でも、スウェーデンは9位につけています。

日本は24位。GDPはまだ世界3位かもしれないけれど、国際競争力ではもう7位とか24位という評価をされるようになっている。

政府がちゃんと情報公開をやって、汚職が少なく、国民がリーダー・政府を信用できる状態か、という「透明度ランキング」というものがありますが、第1位はアイスランド、第2位フィンランド、6位スウェーデン。

世界170カ国ぐらいの中では日本はましなほうですが、21位。

悲しいかな、世界では不透明な政府が圧倒的に多いというのが国際水準ですね。

スウェーデンはかなり透明で、汚職もたまにあるけれどすぐばれるという国のようです。

2012年の国連の世界幸福リポート、指標が違うので当然評価も違ってきますが、この場合も生活満足度第1位デンマーク、第2位フィンランド、第3位ノルウェーと北欧が一斉に並んでいます。スウェーデンは第7位です。

デンマーク、フィンランド、ノルウェー、オランダ、カナダ、スイス、スウェーデン……どの国も何か暮らしよさそうだというメージがありますよね。実際、客観的評価もそうです。

日本は44位で、見ると、アメリカよりもイギリスよりもフランスよりもブラジルよりもイタリアよりもドイツよりも低い。韓国よりはましかな。ロシアよりはだいぶまし。

つまり、がんばっている割には、環境的にもしっかりしていないし、国民は幸福じゃないし、というのが日本だということは、もう国際評価は非常にはっきりしているようです。

 

 

 

連載:持続可能な国づくりの条件 12

 ブータンに関する文献の紹介

ブータンの詳しい話は以下ご紹介するような本をお読みいただいて、今申し上げたことが当たっていると思うか思わないかはみなさんがご自分でご判断いただきたいと思います。

全体的な福祉社会論で論じたものでは『幸福立国ブータン』(大橋照枝、白水社)というのがよくまとまっています。

それからブータンのいろいろな資料を、経済はどうなっている、建物は、着物はどうです、ということを広く概説的に紹介してくれるのが『ブータン』(山本けいこ、明石書店)ですが、残念ながらこれは今品切れ中で、古本で買うと5000円以上するのですが、再版が出たら2500円ぐらいの本です。

それから王妃さまが書いた『幸福大国ブータン』(ドルジェ・ワンモ ワンチェック、日本放送出版協会)。

エッセイ的に「ああ、ブータンってこんな国なんだ」みたいなのを写真と一緒に感じさせてくれるのは『世界で一番幸福な国ブータン』(宮脇壇他、エクスナレッジ)です。

他にもかなり読みましたが、1冊だけと言われたら『幸福立国ブータン』を、もう少し全体像を知りたいという場合は『ブータン』をお勧めします。

ブータンのまとめは以上ということで、次に先に行きましょう。

 

 

 

連載:持続可能な国づくりの条件 11

  大乗仏教と国民の総幸福度

ブータンはとても古い国だというイメージと違って、ブータン王国ができたのはここ百年ぐらいです。元になる形はあったのですが、ブータンが王国になったのは1907年です。

 

 

今、5代国王ですね、2006年に4代国王が皇太子に王位を譲ったのが現国王で、日本に来られた方です。

4代国王から、「国民の総生産よりも国民の総幸福度を国の基準にしたい」という話が出てきて、それを先代―現国王と、意図的に本気で進めようとしているということのようです。

面積は九州の約1・3倍くらい。だから面積はかなりあるのですが、山の急傾斜地が非常に多いようで、人口は67万人。このあたりだけを見ると、「小さい国だから」という話になるんです。

スウェーデンはまだ1千万に満たない、でスウェーデンも「小さい国だから」という話になるんですけど、もう一回言うと、それは人口の問題ではなくて社会システムと4象限の条件の問題です。

今日はブータンのことを少していねいにご紹介するということなので、少し長くなりますが、前王妃が書かれた『幸福大国ブータン――王妃が語る桃源郷の素顔』(日本放送出版協会、2007)という本の中の最後、京都の佛仏教大学での講演の一部を引用したいと思います(改行は筆者)。

ここを読むと、王妃がこういうことを言う――もちろんそれは国王もそう思っているということでしょう――国なのだとわかると思います。

 

 次に近代生活、グローバリゼーションとよばれる世界市場経済、そして技術革新といった現象と、仏教との関係について、わたしの考えを述べさせていただきます。

仏教の「無常」という考え方は、物事を膠着した静止的なものとはみなさず、恒久的かつ本質的な実体のない、絶えず変容する流動的なものだと認識することです。

ですから、仏教的考えで育ったわたしたちには、どんな急激な変化も驚きではありません。

しかし、わたしたちが懸念しているのは、わたしたちを駆り立てている価値観の問題です。

 

王妃つまり実質的なトップリーダーが「価値観の問題です」と言っているところに注目していただきたいのです。

 

世界の人口の大半が、極度の経済的苦しみに直面していることからして、物質的発展が必要なことは自明です。

と同時に、いわゆる「富んだ半球」である北半球でも、心配、不安、ストレスといった精神的苦しみが大きいことを考えると、精神的発展が必要なことは、それ以上に明白です。

 

こういうことを、日本の首相にも言ってほしいですね。

 

技術革新、世界市場化といった現象は、私たちの欲望および消費をますます煽り立て、わたしたちをいっそう官能主義的にしています。

そうした中で、先進国、開発途上国とを問わず、世界の人々および政府はより良い生活と一層の幸福を確保しようと努力しています。

しかし皆様もお気づきのように、現在の経済の主流は個人が消費者であること、そして消費者が強力な支配者であることを正当化し、個人をその快楽に溺れさせています。

こうした近代化の中では、人々はいっそう消費に走り、ますます消費の自由を追求します。市場にとっては、それが売り上げを伸ばし、拡張する唯一の道です。

こうした近代化の理論は、一般には疑問視されることはありません。

しかし仏教徒としては、はたしてそれが倫理的なものなのかどうか、本当の幸せをもたらすものなのかどうかを、考えねばならないと思います。

仏教では、わたしたちが幸せで健全な社会生活を送るためには「四無量心」すなわち4つの無限の心、

第1に人に楽を与える慈無量心、

第2に人の苦しみをなくす悲無量心、

第3に人の喜びを自分の喜びとして喜ぶ喜無量心、

そして最後に恨みを捨てる捨無量心、

この4つが必要であると教えています。

現在進行中の近代化は、こうした仏教の理念に即した社会を実現する可能性を根底から覆すものなのではないかと、自問せざるをえません。

私たちブータン人は、本当の意味で開花した人間および社会を実現する、別な近代化の道があるのではないかと模索しています。

本当に開花した人間とは、単に開発の主人公としての人間とは別物です。

ブータンは心がけているのは、仏教に深く根ざしたブータン文化に立脚した社会福祉、優先順位、目的に適った近代化の方向を見いだすことです。

最近になってGross National Happinessすなわち「国民総幸福」という指針が各国でも真剣に取り上げられるようになりましたが、これはすでに20年以上も前に現ブータン国王(第4代国王、在位1972―2006)が提唱したものです。

Gross National Happinessすなわち「国民総幸福」は仏教的人生観に裏打ちされたもので、わたしたちが新しい社会改革、開発を考える上での指針です。

一部の人々は、仏教をはじめとする哲学的考察と、政治、経済は、異なった次元のものだと考えていますが、けっしてそうではなく、すべてが統合され、総合的に考慮されるべきものです。

 

日本では「理想は理想、理屈は理屈。現実の経済はそういうもんじゃない」と、リーダーたちのほとんどが考えているようだし、実際にも言っていますよね。「きれいごとを言ってもしょうがない」と。

しかし、今、ある意味でのきれいごとを言わなければならない時代だと思います。

 

今日もっとも重要な課題は、西洋的政治・経済の理論と仏教的洞察との溝を埋めることです。

仏教の活力と仏教社会の将来は、仏教の理想をどのようにして社会の進むべき方向、あるいは取るべき選択に肯定的に反映することができるか否かにかかっています。

 

ブータンは、国のトップリーダーの奥さんがこういうことを言う国なのです。

残念ながら日本では、首相の奥さんも首相自身も、こういう講演はしないでしょうね。

私は、精神性・価値観のところがしっかりしていないと、結局は持続可能な国を創ることはできないと思っていまして、この会のみなさんには、ブータンの精神性の高さ、こんなに本気だから可能になりつつあるのだ、ということを確認していただけるとうれしいです。

 

 

 

連載:持続可能な国づくりの条件 10

 

繰り返すと、左上・個の象限は仏教精神と近代を統合できるような、非常に統合的な理性を持ったリーダー・リーダー群がいる。

特に国王陛下はイギリスの大学に留学をして、西洋的近代のこともちゃんと勉強しているのですが、そのまま採り入れるのではなく「ゆるやかな近代化」という発想をしておられて、国王が、ちゃんと環境を守って、国民みんなが幸せになれるように、こういうことをやろうと言った時、やりましょうと国民がすぐに合意できるような基盤になる大乗仏教的な価値観の共有が行なわれている。つまり、左下の集団の象限の条件も調っている。

問題意識のある方のために一言だけ言っておくと、ブータンは何も問題がないのか、スウェーデンは何も問題がないのか、ということですが、もちろんあります。

それについて「ここはどうなんだ」という質問が出てきたら言いますが、「そこはうまくやっているとしても、ここはダメじゃないか」とケチをつけ、「日本は全体としてダメだとしても、こういういいところもある」といったいわば自己防衛的な言い方をしても何の生産性もないと思います。

ブータンもスウェーデンも、別に神業ではないので、抱えている問題はあるようです。

しかし、全体としては、エコロジカルに持続可能な国に向かって、日本よりははるかに先に行っている、全体が合意して計画的・意図的にしっかりと歩みを進めている、という評価はしていいと私は考えています。

そこで、右下象限の伝統的な農村共同体がしっかり残っているところに、右上象限の近代的な技術をゆっくりと入れていくという政策ですから、例えば流通のための国道を作るなどのことも少しずつやっています。

けれども、やること一つ一つについて「環境を破壊しないか。周りの生命を傷つけないか」と慎重に気配りしているようです。

典型的なエピソードとして、渡りの鶴が来る谷の話があります。

その谷のこちらから向こうの村に電線を張って電気を通そうという話があった時、村の人たちに聞くと、「電線を張ったら、鶴が来る時、引っかかって死んだりすると可哀想だから、電気はいらない」と村人全員が合意したというエピソードがあるんです。

それで、援助する国が「では、どうするか」と考え、「では、地下を這わせます」と計画を立て直したら、「それなら、鶴たちは大丈夫ですね。だったら、通してください」ということになって、かなり何年も経って今やっと電灯がつくようになっているそうです。

つまり、村人全員が「私たちの家に電気がつくよりも鶴の命のほうが大事だ」と思っているという国らしいです。すばらしい国ですよね。

でも、日本も江戸時代にはかなりそういうところがあったのではないかと思うんですけどね。

こういうリーダーがいて(左上)、こういう国民性がある(左下)ために、環境を破壊しない範囲で近代的な技術(右上)だけを入れましょう、社会システムの近代化もするけれどゆるやかにやりましょう(右下)、ということが成り立つ。これがブータンの全体像です。

 

 小さいからではなく4象限の条件が揃っているから

全体像の話が先になりましたが、ブータンというのはこういうところにある小さな国です。

 

 

スウェーデンについてもブータンについても、こういう話をすると、非常にしばしば、「スウェーデンは小さな国だからできたんだろう」「ブータンは小さい国だからできるんだろう」と言う人がいます。

会として私たちがそういう方たちに答えるのは、「これは規模の問題ではありません。システムの問題です」ということです。

さらに私個人の考えを言えば、しかも、そういうシステムを作ることを可能にする「4つの象限の要素が揃っているからだ」ということです。

だから、4象限の条件が揃えば人口1億2千万の日本でもできるはずですが、今のところ残念ながら4分の1しか調っていないように見えます。

右上象限の、世界に誇っていい、といっても最近ちょっと遅れをとりつつある環境技術はあるのですが。

左下の文化という面では、一定数の市民のみなさんが環境にやさしい生活をしようとか真面目に思ってはいるのですが、「それどころじゃない」と当面の経済・生活に気持ちが集中しているリーダーや市民の数のほうが多くて、残念ながら質量とも足りないと思います。

ただ、「足りない」のはまったく「ない」ということではなく一定程度「ある」ということで、不足分を足していけばいいわけですから、絶望したりあきらめたりする必要はありません。

 

連載:持続可能な国づくりの条件 9

 

 

そして、基本的に大乗仏教が国教で、ヒンドゥー教を信じている方も一定数いるのですが、大乗仏教徒がだいたい80%ぐらいだったか、あとの20%ぐらいがヒンドゥー教徒です。基本的には大乗仏教が国教で、これは国民の大多数に共有されています。

 

 

その共有度がどのくらいかというと、象徴的には、画像は普通のご家庭の仏壇だそうです。居間でいちばん面積を占めていていちばんお金がかかっているのが仏壇で、いる場所はその半分ぐらいで質素なんです。だけど仏壇はものすごく豪華なんです。そのくらい一般の国民が本格的に仏教を信じている。

特に輪廻ということを信じているので、「私がやがては犬に生まれ変わるかもしれない。蚊に生まれ変わるかもしれない。叩こうとした蚊がご先祖さまだったら困るな」という思いがあって、本気で信じているために生き物をできるだけ殺さないことが徹底的に国民精神になっているようです。

それから、右下象限としては、伝統的な農村共同体がしっかりと残っています。つまり、農業というのは基本的に環境との調和を持続的に保つ必要のある仕事です。50年、100年、200年と農業を続けるためには、「やがて環境が壊れるかもしれなくても当面儲かればいい」というやり方はできないわけです。

 

 

例えば棚田の風景がしっかり残っていて、それが昔の日本を思い出させてくれるので、それが日本人がブータンが好きな理由の一つだと言われています。日本でも、今でもある程度残っているところがありますし、徳島県の上勝町という持続可能なまちづくりで日本的にも世界的にも評価されているところでも、こんな風景を見てきましたが、全体としては、休耕田、少子高齢化、後継者不足、限界集落などの言葉で表現されているように日本の農村は衰退していっていますね。

 

 

上の画像がお城というか砦兼お寺です。ものすごく立派な建物が国中にあって、本当に仏教精神が中心になっているのだなと感じさせられます。これはごく小さいもので、もっと大寺院がたくさんあるようです。

 

 

それから、農村共同体のみなさんの雰囲気が、みんななかなかのんびりと楽しそうで、使っている技術は日本の何十年前かのトラクターみたいな感じですね。

 

 

行かれた方たちが口をそろえて、とにかく子供たちの笑顔がすごく素敵だと言います。

1,2年前に国勢調査がなされた際、「あなたは幸福ですか」という質問項目があり、90%以上の国民が「私は幸せだ」と答えているということで有名です。

指標をどうとるかによって変わってくるのですが、今、おそらく世界でもっとも国民が幸福な国は、先進国ではデンマーク、途上国ではブータンだといわれています。

指標によっては、バヌアツという説もあって、それはほとんど野生に近い生活をしてのんびりしている、だから幸せという話かもしれません。

そういうふうに世界一かどうかは指標の取り方次第ですけれど、ブータンはとにかく国民のほとんどが幸せだと思っているという国のようです。

 

 

イメージとしては、こういう手を合わせるのがごく自然になされています。手の合わせ方が本気という気がしませんか。どうも本気のようで、格好でやっているだけではないみたい。

つまり、大乗仏教精神が国民全体にしっかりと行き渡っていて、農業共同体がしっかり残っているわけです。

 

 

最後に、これは小型の水力発電所なのですが、真ん中のあたりに仏画が描かれているのがおわかりになると思います。水力発電所に仏画を書くというのがブータンです。

つまり伝統を重んじながらゆるやかに近代化する。しかも生きとし生けるものの幸福を侵害しない範囲で、人間がこの辺までは許してもらえるでしょうという利便性の技術は取り入れる。

ブータンは、水が豊富なところでしかも非常に急峻な地形なので、こういうの水力発電で発電した電力をインドに売って利益を得ているようです。

しかし、まだ経済的には非常にインドの援助によっているところが大きくて、完全に自立はしていないようですが、付加価値の高い農業生産物と水力発電などによって、これから自立した国家財政に徐々に移れるだろうという見通しがなされていて、うまくいくのではないかと思えます。