第一次安倍内閣の「21世紀環境立国戦略」はどこに?

運営委員長の岡野です。

第二次安倍内閣の内閣改造のニュースが流れています。

安倍内閣関係のニュースを聞くたびに、思い出すのは、第一次安倍内閣の時に言っていた「美しい星50」1) 2)  や「21世紀環境立国戦略」 のことです。

あの話はどこに行ってしまったのでしょう?

第二次安倍内閣がやっていることを見ていると、あれは例によってただの建前-美辞麗句の作文にすぎなかったのだろうな、と思わざるをえません。

なので、改造されても、環境問題に本格的に取り組む気がないことは変わらないだろう、と予想せざるをえません(今回も安倍総理の口からは「経済最優先」という言葉が出ていました)。

もちろん人間は、突然回心するということもあるので、必ずそうなるとはかぎっていませんし、どこかで環境問題の深刻さを実感して変わってほしいとは願いますが。

度重なる記録的大雨や土砂崩れや竜巻などを、ご自身で体験されたみなさん、ニュースで見聞きしているみなさん、このままで日本はだいじょうぶだとお思いですか?

 

 

向かうべきは社会民主主義と混合経済?

運営委員長の岡野です。ご無沙汰してしまいました。

安倍政権の暴走ぶりとそれをかなり多くの国民が支持しているらしいという報道に、今は何を言っても効果はなさそうだな、とやや発言意欲を失っていましたが、当面の効果を考えず、ともかく言うべきことを言っておくべきだと思い、久しぶりに記事を書くことにしました。

以下は、あくまで私見で、みなさんと議論するための問題提起だと思ってください。

「エコロジカルに持続可能な国づくり」という視点から見て、今のところもっとも成功しているのがスウェーデンであることは国際的評価の一致しているところです。

そして、私はスウェーデンについてかなり多数の文献を学び、1度ですが現地で徹底的聞き取り調査もしてみた結果、それを可能にした思想はスウェーデンの国民性から生まれた成熟した民主主義(社会民主主義あるいは自由派社会主義)とその経済体制としての「混合経済」である、と確認するに到りました。

それに続いて、「なぜ、日本では社会民主主義が育たなかったのだろう?」という疑問が生じたのですが、正村公宏氏の『戦後史(上)(下)』(1985年、筑摩書房、1990年、ちくま文庫)を読んで、「なぜ」のほうは十分ではありませんでしたが、「どうして(どういうプロセスで)」ということ、「なるほど、こういうプロセスで、日本では〔マルクス主義とは重要な点で異なる〕社会民主主義が育たなかったんだなあ」ということは非常な残念感と共に了解できました。

さらに続いて、世界の資本主義と社会主義の歴史について、同氏の『現代史』(1995年、筑摩書房)を読むことで、大きな展望が得られた、という気がしています。

そのまた続きで、同氏の『人間を考える経済学――持続可能な社会をつくる』(2006年、NTT出版)を読んでみました。

「近年、一部の専門家は、『現代文明の発展傾向を放置すると、資源枯渇と環境破壊によって人類が滅亡する。産業主義と商業主義の圧倒的影響力によって、子供の生育環境が変質し、社会の統合力が衰弱しつつある』と警告しているが、大多数の人間が豊かさと便利さの追求に熱中し、政治家も社会の持続可能性(sustainability)を保証する文明への転換を提起しようとしないのは、価値判断が違うからではなく、状況判断が違うからである可能性が濃厚である。」(6頁)

「現代の社会研究と自然研究の究極の実践的目的は、文明の自己認識と自己制御のために必要な知識と知恵を蓄積し、環境破壊、核戦争、人間の指数の劣化と社会の制御不能などによって人類が滅亡してしまわないようにすることである。/文明の自己認識と自己制御という表現は、人類は、特定の状況判断と統合された目的意識にもとづいてひとつの行動を選択する可能性をもつ主体として、扱っている。そして行動の選択は、人類の共同意思を形成する巨大な政治過程を通じて実現される。地球と人類の将来を考え、大きな熱意を持ち、同時に冷静な知性を働かせて、現実を読み解き、多くの人間を納得させる信頼性の高い状況判断を示すように努力することは、社会研究者の責任である。」(7頁)

「経済体制をめぐる専門家の理解は、今でも混迷をつづけている。

世界史における二〇世紀後半を「冷戦(cold war)の時代」と呼ぶのは、軽薄である。朝鮮戦争やヴェトナム戦争のような大戦争が起き、東西対立のからむ深刻な内戦が各地で繰り返されたことを想起する必要がある。二一世紀初頭の世界の多くの紛争は、東西対立の後遺症の要素を含んでいる。旧共産圏諸国の近代化のやりなおしは容易でない。共産党独裁が残した最大の否定的遺産は、政治的粛清による大量の優れた人間の抹殺であろう。

二〇世紀後半の東側の体制は社会主義の理想と違うものであったし、西側の体制は過去の資本主義と違うものであった。一九世紀の民主主義の運動から社会主義が発生し、そこからさらにコミュニズムが発生したが、コミュニズムは、急進主義の落とし穴にはまり込んで民主政治の道を閉ざして二〇世紀の災厄のひとつになった。他方、二〇世紀後半の西洋と北欧では、民主的社会主義によって促進された改革を経て、混合経済(mixed economy)という言葉が妥当する体制が確立された。混合という表現はあいまいに響くが、混合型のシステムでなければ人間と社会の必要に合致しないことが、二〇世紀の経験によって証明された。

経済の自由は、効率性への誘因(incentive)を刺激する基礎条件であると同時に、政治と社会と文化の自由の基盤である。市場機構(市場経済の仕組み、market mechanism)の活用は不可欠である。市場経済に欠陥があるからといって、私有財産制と市場経済を廃棄することは、問題の解決にならないだけでなく、別のタイプの災厄をもたらすことが、すでに鮮明である。

しかし、市場機構は万能でない。市場経済は重大な欠陥を持つ。マクロの目的意識に基づく適切な方法による制御が不可欠である。二〇世紀の経験は、自由放任型の市場経済はかえって自由な社会の基盤を破壊すること、分配の構成と生活の安定を目指す改革こそが経済を安定させると同時に社会の統合を強める効果を持つことを、示している。

混合型の経済体制のほかに選択がありえないからこそ、いいかえればたったひとつの単純明快な原理によってすべての問題を割り切ることは許されないからこそ、現実が提起するさまざまな問題を的確に受け止める鋭敏な感覚、さまざまな制度の組み合わせを絶えず見直す知恵、マクロの主体である政府の政策の有効性を高めるねばりづよい努力が、必要とされる。」(33-34頁)

これらの論点のうち、「大多数の人間が豊かさと便利さの追求に熱中し、政治家も社会の持続可能性(sustainability)を保証する文明への転換を提起しようとしないのは、価値判断が違うからではなく、状況判断が違うからである可能性が濃厚である」という点については残念ながら同意できません。

多くの人・場合に、状況を判断するための情報そのものが価値判断によって選択されているように見えるからです。

地球環境全体の危機について、日本のリーダーと市民の多くが、見たくないことは事実でも見ない、聞きたくないことは事実でも聞かない、という状態にあるのではないでしょうか。

どれほど「冷静な知性を働かせて、現実を読み解き、多くの人間を納得させる信頼性の高い状況判断説得力のある状況判断」を提供しても、それが無視されて読まれなければ、影響を与えることはないようです。はなはだ残念でもありきわめて困ったことですが。

しかし、「コミュニズムは、急進主義の落とし穴にはまり込んで民主政治の道を閉ざして二〇世紀の災厄のひとつになった」が、他方、「市場機構は万能でない。市場経済は重大な欠陥を持つ。マクロの目的意識に基づく適切な方法による制御が不可欠である」、だから「混合型の経済体制のほかに選択がありえない」という点については、全面的に同意しました。

しかし、現在の日本の安倍政権が向かっているのは、新自由主義市場経済のグローバリゼーションという、中長期で見ればうまくいきそうもない路線だ、と私には見えます。

日本に、本格的な社会民主主義・混合経済の潮流が育ち、できるだけ近未来に主流になることを強く願わずにはいられません。

みなさんは、どうお考えですか? 新自由主義市場経済のグローバリゼーションに乗り遅れまいという路線で行けば、それに並行して自動的に、エコロジカルに持続可能な国、そして持続可能な世界が実現できる、と思われますか?

 

人間を考える経済学  持続可能な社会をつくる
クリエーター情報なし
NTT出版

安倍政権にどう向かい合うか

運営委員長の岡野です。

今朝の『東京新聞』1面の「筆洗」に以下の文章がありました(改行は筆者)。

 

  小さな虫を地べたで観察し続けたファーブルは、『昆虫記』にこんな言葉を残している。

 〈人間というものは、進歩に進歩を重ねた揚句の果てに、文明と名づけられるものの行きすぎのために自滅して斃(たお)れてしまう日が来るように思われる〉

 ▼人類史で初めて投下された広島、長崎への原爆に続き、「レベル7」の福島第一原発の事故を経験した今、ファーブルの警句は原子力時代の到来を予言したのか、と思えるほど示唆的だ

 ▼東日本大震災から来週で二年を迎える。津波で家を失った被災者の大半はまだ仮設住宅で暮らしている。原発事故の避難者の多くは家に戻れるめども立っていない

 ▼「かつてない大災害だったにもかかわらず、東京で暮らしていると、人々の被災者への思いが『少しずつ風化しているのでは』と感じることがある」と本紙の「東京下町日記」でドナルド・キーンさんは危機感をにじませる

 ▼原発を動かしたい人々には、事故の風化は好都合なのだろう。経済産業省の露骨な人事が発表された。エネルギー基本計画を検討する有識者会議から、脱原発派の委員五人が外れ、推進派の学者や原発立地県の知事らに代わった

 ▼何もなかったかのように、原発回帰に向かう安倍政権の姿勢が鮮明になってきた。地震列島に五十基を超える原発を造ってきたのは自民党政権だ。その自覚のなさに驚くほかない。

 

今、他の仕事の合間に、正村公宏『人間を考える経済学――持続可能な社会をつくる』(NTT出版、2006年)を読んでいますが、次の言葉に状況とそれにどう向かいあうべきかがうまく語られているな、と思いました。

 

 マクロの目的意識を持ち、超長期の展望を持って体制の全体をつくりかえようとする取り組みは、経済体制の改造(remodeling)と呼ぶことができる。

 改造のためには、適切な価値判断と的確な状況判断が必要である。ラディカルな思考にもとづくグラデュアルな改革が必要とされる。

 ラディカル(radical)は急進的と訳されるが、本来は根源的あるいは根底的という意味である。

 グラデュアル(gradual)は「ゆっくりやればいい」ということではない。相当の時間がかかることを覚悟し、針路の微調整を繰り返しながら、ねばりづよく着実に進める必要がある。

 相当数の人間が、生活の困難を解決するために、不合理や不公正是正するために、将来の破局を回避するために、新しい制度の導入が必要であると考えるようになると、経済体制の改造が政治の争点(issue)となる。…(中略)

 多くの人間は、改造の必要性と可能性を確信することができたときに行動を起こす。

 人々が生活の困難に耐えるほかないと考えている場合、または個人的努力によって困難をどれだけか緩和することができると考えている場合、体制の改造は政治の争点にならない。

 経済成長によって生活水準が高められつつある社会では、やがて危機が到来すると警告し、改革が切迫して必要であると主張する人間に耳を傾けるものは、少数にとどまることが多い。                                         (p.76-77)

 

この本は2006年に出たものですが、経済成長によって生活水準が高まることを経験した日本社会では、3・11の後でもまだ、多くの国民が、「生活の困難に耐えるほかないと考えている」か、「個人的努力によって困難をどれだけか緩和することができると考えている」状態にあると同時に、新自由主義市場経済のグローバリゼーションに乗っかった経済成長の「夢よもう一度」と期待しているという状況にあるのでしょう。

それは、とても残念ではあり、私たちとは認識が違いますが、そういう気持ちもわかるので、驚くほどのことではない、という気がしています。

アベノミクスの成功(?)は一時的なもので、やがて、多くの人が、改造の必要性を感じざるをえず、かつ可能性を確信することができて、行動を起こすようになるはずですから、それまで、私たちは、これからもまだ相当の時間がかかることを覚悟し、ねばりづよく発信し続けていくことにしたいと思います。

 

日本の戦後と社会民主主義:文献案内

運営委員長の岡野です。

これまで私たちの会では、スウェーデンが、第二次大戦以前から準備し戦後から最近にかけて一貫して、福祉国家さらには緑の福祉国家へと歩んできた歴史を学びながら、それを推進した思想が単なる看板ではなく本気の社会民主主義であることを確認してきました。

そして私個人としては、それと並行した日本の歴史を学びながら、日本にそれができなかった大きな理由の1つは――4象限理論からするとあくまで1つですが――戦前から戦後-今日に到るまで、日本では本格的な社会民主主義-社会民主主義政党が形成されなかったことではないか、と考えるようになりました。

そして、それが日本の不幸だ、という気がしています。

例えば、政権を得てから失うまでの民主党の政策・言動を観察していて、党全体として、ぶれることなく持続可能な国づくりに向かう方向付けとしての社会民主主義的な理念とビジョンが確立-共有されていないんだな、と感じてきました。

社民党は今では「社会民主党」と名乗っていますが、発言を聞いていると、スウェーデンさらにはヨーロッパの社会民主主義政党とは視点・路線が違っていて、社会党以来のマルクス主義的な階級対立路線を引きずっているようです。

(そういう状況に一石を投じるべく、前回の「政権交代」直後――タイミングが悪かったといえば悪かったのですが――私たちの会の「理念とビジョン」を民主党の衆参国会議員全員、社民党と自民党の「環境派」を名乗っている議員に送りました。結果は、民主党の議員2名から賛同の返事があっただけでした。)

そういう日本の近代-戦後史の流れを確認できるのではないかと予想して、正村公宏氏の『戦後史(上)(下)』(ちくま文庫)、『現代史』(筑摩書房)を読んでみました。

「なるほど、そういう流れだったんだな、やはりそうだったんだよなあ」と、きわめて本格的な専門家によって自分の考えの裏付けを得たという感じがしています。

もちろん事実に裏付けられた詳細な論述があるのですが、以下の文章に要点が語られていると思われます。

「『戦後』の初期のアメリカの日本占領政策の目標は日本の民主化と非軍事化であった。男女平等の普通選挙が制度化され、基本的人権の保障と主権在民が宣言された。新しい憲法は、自由民主主義(政治的民主主義)の憲法であると同時に社会民主主義(経済民主主義)の憲法でもあった。しかし『戦後』の日本の歴史の全体を通じて社会民主主義を強力に推進しようとする有力な政治勢力は形成されなかった。」(『現代史』472-3頁)

どちらも力作であり大著ですが、本気で持続可能な国づくりを考えたい関係者のみなさんには、時間を使って努力して読むに値する参考文献だと思いますので、お勧めするとともに、ぜひ知識と理解を共有することができればと願っています。(アマゾンへのリンクは私の個人ブログからどうぞ。)

 

日本未来の党 嘉田氏代表辞任について

運営委員長・岡野です。

NHKニュースによれば、「滋賀県の嘉田知事は県庁の仕事始めであいさつし、県政の運営に専念したいとして、みずからが結成した日本未来の党の代表を辞任する考えを正式に表明しました」とのこと。

はっきり言って、期待はずれ、がっかりです。県議会がダメというのなら、県知事を辞任してもらいたかった。

県政に専念しても原発は止まらず、日本の混迷は変わらず、滋賀県にも日本国にも未来はない、と私には思えるからです。

阿部知子氏は、どう動くのでしょうか? 日本の未来のために日本未来の党の動向をもう少し見守りたいと思います。