右も左も違うのではないか、『十七条憲法』理解

聖徳太子『十七条憲法』について、10月29日の衆議院本会議で自民党の稲田朋美氏が発言し、11月4日の毎日新聞に批判的な記事が掲載されていました(稲田氏の発言の動画はhttps://www.youtube.com/watch?v=k0UDVczATxo)。

日本人の安定したアイデンティティを再確立するうえで『十七条憲法』は決定的に重要だ、と筆者は考えていますので、一言コメントをしておくといいと思いながら、研究所の会報誌『サングラハ』の原稿と講座の準備に追われて遅くなりました。

結論を先に言えば、きわめて残念ながら保守派もリベラルも日本の精神的伝統(遺すべき・遺るべき側面)について、私とは見方が違うということです。

私の学びえた範囲では、『十七条憲法』を含め日本の精神的伝統には遺して活かすべき部分と、歴史的記念物としてのみ遺すべき部分と、きっぱり捨て去るべき部分が混在していると思われます。

それについては「赤ん坊と汚れたタライの水の譬え」がわかりやすいかもしれません。

つまり、保守派は汚れた水と赤ん坊を一緒にタライに残しておこうとしており、リベラルは汚れた水と一緒に赤ん坊を流してしまおうとしている、ように私には見えます。

そして、どちらも適切ではないと思います。

赤ちゃんがどんなに大切でも、垢やウンチで汚れた水は捨てる必要があります。
しかし、汚れた水と一緒に肝心の赤ん坊を流してしまったのでは、すべては意味がなくなります。

では、何が赤ちゃんで何が汚れた水かが問題ですが、話が長くなりそうなので、先に以下毎日新聞の記事を転載・文字起こししておきます。

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和を以て貴し……/天皇の命令は必ず
1400年前 民主主義?

稲田朋美.自民党筆頭副幹事長が10月29日の衆院本会議で、聖徳太子=写真=の十七条憲法から「和をもって貴しとなす」を引用して「民主主義の基本は日本古来の伝統」などと主張した。しかし、1400年前の日本に民主主義という考え方はあったのか。歴史をひもとくと、矛盾が浮かび上がる。【大村健一、佐藤丈一、小国綾子】

稲田氏は安倍晋三首相の所信表明に対する各党代表質問の冒頭で次のように訴えた。「『和をもって貴しとなす』という、多様な意見の尊重と、徹底した議論による決定という民主主義の基本は、我が国古来の伝統であり、敗戦後に連合国から教えられたものではありません」
しかし、保立道久・元東京大史料編纂所所長(名誉教授)によれば、民主主義が世界で曲がりなりにも現実化したのは「20世紀の普通選挙の実施以降」という。「民主主義とは、平等で自由な個人が出自や職業などの相違を超えて宗教・思想などを含むすべての尊厳と自由を行使すること。前近代の世界に存在しなかったことは言うまでもありません」
十七条憲法に国民主権や基本的人権の保障の規定はない。1条の「和をもって……」の後3条には「詔を承りては必ず謹め」(天皇の命令は必ず謹んで従うこと)と、民主主義とは椙いれない表現がある。
8条には「役人は朝早く役所に出勤し、夕方は遅く退出せよ」、16条には「人民を使役するには時期を選ぶように」との趣旨の規定もある。
東野治之・奈良大、大阪大名誉教授(日本古代史)によると、十七条憲法は「冠位十二階」と密接に関連しているという。同憲法ができる前年の603(推古11)年に創設された冠位十二階は、朝廷の役人たちを働きぶりで評価し、冠の色で識別する制度。憲法は役人の心構えを示し、勤務を励ます意味があつたと解釈できるという。
東野氏は「1条は朝廷で『和を尊ぶ』と理解できる。全体を見れば分かるが、庶民に向けた内容ではなく、現在の民主主義と結びつけるのは妥当ではない」と話す。
江戸の商人や町人の美徳として語られる「江戸しぐさ」が、実は1980年代の創作だったことを明らかにした在野の歴史研究家、原田実さんは「稲田議員の主張は、今の保守層が『江戸しぐさ』を例にして、現代的なマナーや思いやりが『実は日本に昔から…あった』と主張したがるのとそっくり」と指摘する。「聖徳太子に民主主義の基本を求めるのは、これまでにないほどずさんな意見だと思う。『昔からあった』と主張するよりも、むしろ今の民主主義を誇れるものにすればいいでしょうに」

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さて、どうコメントしようかと考えているうちに、2013年『ファム・ポリティク』という雑誌に掲載していただいた原稿に言いたいことをほぼすべて書いてあることを思い出したので、以下、現時点でのわずかな修正・追補を加えて、再掲することにしました。

「日本という国について」

混迷する日本

今、日本には、経済、財政、福祉、環境などの各分野で問題が山積しており、そのどれを取っても対症治療的に対処して短期間で解決のめどがつくとは思えない。

では、中長期にわたって、どう対応すれば真に解決の方向に向かえるのか、何を目指せばいいのか、与党にも野党にも方向指示のできる理念とビジョンはないように思える。
そういう意味で日本のリーダーたちは方向性を見失っている、と私には見える(もちろん、ご当人たちは見失っているとは思っていないのだろうが)。
そういう意味で日本という国は、混迷のただなかにあるのではないだろうか。

そうしたなかで、そもそも日本という「国」は何を目指してきたのか、原点あるいは出発点と到達目標、そういう意味での「国家理想」はどこにあったのかを見なおしてみたい。

未来のために過去を振り返る

その場合、筆者は、予め伝統というだけで価値があると信じがちな保守派・右の姿勢も、逆に伝統であればすべて否定しがちな進歩派・左の姿勢も採らない。

そうではなく、伝統のなかにほんとうに未来に向かって引き継ぐべき普遍的に価値あるものがあるのかないのかを確かめ、あるのならば意識的に引き継ぐという姿勢を採っている。
モットー風に表現すれば、「未来に向かうために過去を振り返る」という姿勢である。

与えられた頁数が少ないので、本稿では確かめてきた作業について述べることは省略し、確かめた結果について、以下できるだけ簡潔に述べたいと思う。

日本初の憲法

「日本」という国名が決まり、日本という「国」が確立したのは、ほぼ天武天皇の時代だと考えてまちがいないだろう。

そして注目しておくべきなのは、まさにこの時代に、中国にならって正式の国史である『古事記』と『日本書紀』が撰述されていることである。

好むと好まざるとにかかわらず、つまり自分の立場が右であろうと左であろうと、この二つの文献はまちがいなく日本の初と二番目の「国史」である(*より厳密に言えば、『日本書紀』が『六国史』という官製・正式の国史の一番目である)。

さらに注目しておくべきことは、この二書はどちらも天武天皇の意思によって編纂されたことである。
天武は、すでに『古事記』が出来ていたにもかかわらず『日本書紀』を編纂させたのである。
それは、天武が国史として『古事記』だけでは不十分だと考えたことの状況証拠だと見てまちがいないだろう。

では、天武以下、持統、文武、元正、元明――および特にいわば最終的な編集長としての藤原不比等――が、『古事記』に不足していると思い『日本書紀』で補足したものは、いったい何だったのか。

論証の細部をすべて省いて私見を述べれば、もっとも重要な補足は、日本という国の理想のリーダー像としての「聖徳太子」(これはいうまでもなく後の時代に贈られた尊称で在世当時は厩戸皇子と呼ばれている)と、日本の国家理想としての『十七条憲法』だったのではないだろうか。

『古事記』では、厩戸皇子は名前が記されているだけで、その伝記的物語や『十七条憲法』は採録されていない。
それに対し『日本書紀』では、全体の叙述とのバランスからいえば異例といっていいくらい詳しく聖徳太子の事績が語られ、『十七条憲法』は全文採録されている。
それは偶然ではなく、編纂を命じた天武と編集責任者の不比等の合意に基づく意図的なものであった、と考えるのが自然だろう。

ここで一言コメントをしておくと、筆者は今日本史の学界では聖徳太子不在説が盛んであり、さらに『日本書紀』全体が天武というより不比等の意図によるほとんど全面的な創作であるという説があることも承知している。

しかしそうした説の当否にかかわらず、筆者にとって――おそらく日本人全体にとっても――重要なことは『日本書紀』は日本の最初の正式な国史であり、しかも『古事記』にない事績が採録されており、その中に『十七条憲法』全文が含まれているということである。

『憲法』とは、司馬遼太郎風に言えば「国のかたち」である。「この国はこうであるべきだ」「この国をこうしたい」という「国家理想」が明快に言語化されているものである。

筆者を含め戦後教育を受けた世代は、「憲法」と聞くと現行の『日本国憲法』を思い浮かべ、あるいはそれに加えて否定・批判の対象として明治憲法・『大日本帝国憲法』を思い出すだろう。

しかし、日本の最初の「憲法」はそのどちらでもなく『十七条憲法』なのである。
もう一度言うが、好むと好まざるとにかかわらず、である。

明治憲法は、欧米先進諸国がすべて自らの国のかたちを明らかにした Constitution をもっているのに対し、日本にはそれがないことは恥だと考え、主に伊藤博文が苦心を重ねてようやく編んだものであることはいうまでもない。
その時、Constitution をどう日本語に訳すか、伊藤が考え抜いて選んだ言葉が『十七条憲法』に由来する「憲法」だったという。

そういう意味でも、初めて「国」のかたちを明文化したという意味でも、『十七条憲法』はまぎれもなく日本初の「憲法」つまり国家理想なのである。

だとして、こういうことにはならないだろうか。

初めての憲法が優れているかいないかは、その国が少なくともスタートにおいて優れていたかどうかの決定的な基準になる。
初の憲法がくだらない国は初めからくだらない国であり、初の憲法が優れていた国は少なくともスタート時点においては優れていた国であると言える、と。

そしてとても幸いなことに、『十七条憲法』にはきわめて優れた国家理想が述べられている、と私は理解している……というか、ある時期から理解するようになった。

和という国家理想

それは、あまりにもそこだけが有名な冒頭の「和を以って貴しとなせ」(「なす」ではなく「なせ」と命令形に読み下すほうがいい)という句の「和」の意味するものが、人間と人間との平和はもちろん、実はさらに人間と自然との調和をも目指す、きわめて普遍的で、そのまま現代にも通用する、現代にこそ必要な、すばらしい国家理想の宣言であることに気づいたからである。

右と左の偏見を排して、十七条全体を流れに沿って素直によく読むと、そう読める。(詳細は拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む』大法輪閣、参照)

まず、気づけば、「平和を希求」してきたのは『日本国憲法』だけでなく『十七条憲法』が先だった。
しかも千四百年あまりも前に、『十七条憲法』は冒頭・第一条で「日本という国が最優先的に目指すのは平和である」と高々と宣言していたのである。
そして、その平和は、国内はもちろん国際的視野における平和をも意味していた。

加えて、現代的に表現するならば人間と自然が調和した「エコロジカルに持続可能な国家」をこそ、日本は目指さなければならないと、時代を超えて普遍的な到達目標の実現を呼び掛けていたのである。

「和」という理想を現代的に言いかえれば、「協力・協調原理」である。
「協力・協調原理によって、国内外において平和で、エコロジカルに持続可能な国家を!」という理念・理想は、今、世界のすべての国が追求すべき国際社会の最優先課題を示している。
そういう意味で、まったく古びていない、どころか、今こそ再確認して私たちが全力を挙げて実現すべき到達目標なのではないだろうか。

私たちの日本という「国」は、そういう非常に高い国家理想を掲げて出発した国なのだ。
そして、そういう高い理想をもったトップリーダーがいた国なのである(一歩譲って「という物語のある国なのだ」と言ってもいい)。
そのことに関しては、歴史的なアイデンティティとして、私たちは権利を持って誇っていいのではないだろうか。

もちろん、聖徳太子以後千四百年あまり、日本人がその国家理想を実現できたかどうかについては、ある程度実現できた時代もあれば失敗した時代もあり、特に残念ながら近代については大きな失敗をした時代だと評価せざるをえない。

しかし、それは国家理想の実現を誤ったということであって、国家理想そのものが誤っていたということではない。

戦後アメリカの日本人の精神性を根本から変えようという政策のせいもあって、私たちはその二つの違いを混同させられて・してしまったのではないだろうか(拙著『コスモロジーの創造』法蔵館、参照)。

「和」という国家理想は、今こそ再発見し、再度目指すべき価値のある日本という「国」の原点でもあり到達目標ではないか、と筆者は考えている。

だが、左寄りの『十七条憲法』=天皇絶対主義のバイブルという先入見からすれば、「そんなものは支配者と人民の本質的対立関係をごまかすための虚偽意識(イデオロギー)・綺麗事にすぎない」と思えるかもしれない。

『十七条憲法』の民主性

しかし、多くの誤解とは異なり、『十七条憲法』には、古代にあっては限りなく「民主主義」に近い発想がある。

第一条では「上も下も和らいで睦まじく、問題を話し合えるなら」と、結論に当たる第十七条では、「そもそも事は独断で決めるべきではない。かならず、皆と一緒に議論すべきである」と述べられている(現代語訳はすべて筆者)。
一貫して合議制が主張され、トップの独断・独裁は念入りに最初と最後で否定されているのである。

さらに、例えば典型的には第三条、特に冒頭の「詔を受けては必ず謹め」という言葉は、従来左右どちらの陣営からも天皇の命令への絶対服従を要求するものと理解されてきたが、よく読んでみると、どうも違うのである。

そうではなく、ここで語られているのは聖徳太子の世界観(コスモロジー)とそれに基づく統治論である。
「君は天のようであり、臣民は地のようである。天は覆い、地は載せるものである」と、天地を比喩として天皇と豪族・官僚の役割が語られている。

そこで問題は、天は何を覆い、地は何を載せるのか、ということだが、それに続く「四季が順調に移り行くことによって、万物の生気が通じることができる」という句を素直に読むと、天が蓋い、地が載せるのは、「民」さらには「万物の生気」である。
つまり、君主の役割は天のように人民さらにはすべての生き物がよく生きられるよう覆うこと=庇護することにあり、官僚・豪族の役割は地のように人民やすべての生き物を載せること=背負いサポートすることにあるという。
真のエリートの存在理由は、人々と全生命とがいつも・いつまでも生き生きと幸せに暮らせる持続可能な国を創ることにある。

そうしたそれぞれの役割を知らず、君主の座を権力・利権の座と誤解してそれを狙い、「地が天を覆うようなことをする時は」、国中が「破壊に到るのである」と。

こう読むと、以下の「こういうわけで、君が命じたなら臣民は承る。上が行なう時には下はそれに従うのである。それゆえ、詔を受けたならばかならず謹んで受けよ。謹んで受けなければ、おのずから事は失敗するだろう」という言葉も、人民を庇護するために下した詔つまり第一条の「和の国日本の建設という重大事項」に忠実に従うことを求めているのであって、無条件な独裁者への絶対服従・盲従を求めているのではないことがわかる。

詳述できないのは残念だが、その他、憲法のいたるところに「百姓」や「民」への思いが語られていて、第十四条の終わりには「それ賢聖を得ずば、何を以ってか国を治めん」とある。
「仁愛・愛民」を志とした「賢者(仏教的には菩薩)」による「民のための政治」が、聖徳太子の理想だったのだと思われる。

もちろん、民主主義的代議制政治という制度も思想もない時代だから、リーダーは民によって選ばれるものではなかった。
「人民の、人民による、人民のための政治」は、古代日本にあっては想像することさえ不可能だったろう。
そうしたなかで、血、伝統、武力で決まった身分はやむをえない前提としたうえで、しかしそうした豪族たちが民のための賢者・菩薩的なリーダーになることを太子は望んだのである。

聖徳太子とその憲法に、時代的な制約や限界があることは言うまでもない。
しかし、それは「和」や生きとし生けるものすべてのために働くことを自らの志とする菩薩的リーダーという理想の価値を少しも減ずるものではない。

それは民主主義をどう考えるかということにもなるが、筆者は、まず何よりも「民のための」が優先事項だと考える。
「民の」「民による」ものであることが望ましいのは言うまでもないが、愚かな民が支持した愚かな民出身の愚かな支配者による民のためにならない政治(例えばヒトラー、例えばスターリン)よりも、賢者・エリートによる民のための政治(例えば上杉鷹山)のほうが、はるかに民主性があると言えるのではないだろうか。

古代日本と異なり日本にはすでに形式としては「民の、民による」という制度はある。
今日本に決定的に不足しているのは、中長期本当に「民のため」になる方向に向いた理念・志・展望をもった真のエリート・リーダーではないのだろうか。

競争原理から協力原理へ

すでに読者には気づいている方も多いかもしれないが、改めて注意を喚起しておく価値があるのは、冒頭にあげたような現代日本が抱えているいろいろな問題は、個々別々に発生しているのではなく、社会システムの欠陥が生み出している一連のシステマティックにつながりあった問題群だということである。

戦後日本が採用してきた資本主義とりわけ近年の新自由主義的な資本主義は、競争を原理とする社会システムである。
「競争原理」といえばいくらかスマートに聞こえるし、「努力した人が報われるのは当然だ」という言い方をすれば、一見当然に思えるが、実はそれは煎じつめれば「勝った者が生き残り、負けた者は死に絶える。それは当然のことだ」というきわめて野蛮な原理だったのである。

それでも、一九七〇年代以降、高度経済成長―好景気を続けることのできた九〇年代までは、「パイが大きければ、取り分に差はあっても、全員満腹にはなる」という原理で、「一億総中流」という気分を生み出すことができた。そして、一億総中流という気分のなかで、日本はすでに十分福祉国家であるかのように見え、競争と不公平はかえって社会を活性化するものであるかのように見えた。

しかしバブルの崩壊と失われた十年という長い不況の後、規制緩和、「官から民へ」(実は「公から私へ」のすり替えにすぎない)、雇用の流動化などなどの新自由主義的政策の推進によって、ようやく大企業と富裕層のみには景気回復が訪れはじめたかに見えたが、恩恵は国民全体に届かないまま、リーマン・ショック、ドバイ・ショックと続いた金融恐慌によって、日本はふたたび先の見えない長い長い不況時代に突入した。

その後、ようやく大企業のみの当面の景気回復はしてきたが、国民全体の生活の質・幸福度が回復してきたようには思えない。

競争原理の社会は、それでも好況の間は「余りを恵む」といった発想の福祉を行なわないこともなかったが、いったん不況になると財政がひっ迫し、理の当然ながら弱者・敗者を切り捨てる「格差社会」=非福祉社会になった。
景気回復後も格差は縮まらずさらに広がるばかりなのではないだろうか。

非福祉社会は、これまた理の当然ながら、少子高齢化、育児、教育、非行、引きこもりなどの心の病、自殺、介護、年金、医療、地域の疲弊、限界集落……に十分な対応はしない・できない。
さらに財政がひっ迫すれば、「人間(経済と最低限の福祉)のことだけで手一杯で環境どころではない」と考えはじめるだろう。

しかし中長期で考えれば明らかなように、エコロジカルに持続可能でない社会はまさに持続可能ではなく必ず崩壊するのである。
「どころではない」といって済ませるような問題ではないのだ。
かといって、環境のために当面の福祉を大幅削減することは困難である。環境のためにも福祉のためにも、豊かな財政が必要である。豊かな財政のためには豊かな税収が必要であり、豊かな税収のためには豊かな経済が必要である。

だとすれば、今、日本という国に必要なのは、協力原理に基づいて経済と財政と福祉と環境が好循環‐相互促進するような社会システムを構想することなのではないだろうか。
そしてそれは可能である、と私たち(「持続可能な国づくりを考える会」)は考えている(ブックレット『持続可能な国づくりの会――理念とビジョン――』参照)。

そのためになによりもまず必要なことは、社会の原理を競争原理から協力原理へと根本的に変革することである(ただしその場合、経済分野のみ活性化に役立つ範囲で競争原理を許容し、社会総体は協力原理で行なう)。

そして繰り返せば、幸いかつ不思議なことに、私たちの国日本は、飛鳥から奈良にかけて国のかたちが明らかになる段階で「和」という国家理想を掲げた国なのである。
つまり協力原理、協力してすべての人・すべての生き物が生き生きと生きられる国を創り上げることこそ、日本という「国」の出発点でもあり到達目標でもあったのである。

『十七条憲法』にもある言葉だが、日本ではもともと「国・国家」は同時に「公(おおやけ)・大きな家」であった。国家とは民たちが協力しあって共に生きる大きな家・国民の家であるべきだったのである。

以上述べたような意味で、だから、今私たちは、自分たちの原点を再発見してそこに帰ることができるし、帰らなければならないのだ、と筆者は考えている(拙著『日本再生の指針――聖徳太子『十七条憲法』と緑の福祉国家』太陽出版、参照)。

(もっと掘り下げたもっと長い話に関心を持っていただける方は、ぜひ来年2月からの東京日曜講座にお出かけください。)

大乗の菩薩とは何か 1

来週の土曜日25日は、東京・神田で「大乗の菩薩とは何か――『摩訶般若波羅蜜経』の要点を学ぶ」の第二回目の講義を行ないます。

大乗仏教の菩薩の到達目標には、ただ覚りという個人の内面だけではなく、一切衆生の救済とそのための仏国土の建設という社会の外面の課題も含まれていることを、『摩訶般若波羅蜜経』という原典で確かめる、というのが講座の目的です。

それはまた、『摩訶般若波羅蜜経』とほぼおなじ内容を含むより大規模の叢書『大般若経』という日本精神史の遺産の内容を、理解して受け継ぐための作業でもあります。

そのことを明らかにするために、かつて雑誌に連載した、「日本人の心と仏教」の一部を以下に採録しておきますので、日本人としての健全で正当な精神的アイデンティティを再確立したいという思いをお持ちの方には、ぜひお読みいただきたいと思います。

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天智天皇をリーダーとした大化の改新、弟天武の妻持統天皇をリーダーとした「大宝令」によって「律令国家」が確立します。……律令国家確立の背後には、そうした国家リーダーたちの高い理想・志があり、そのモットーが「和」でした。そして、「和」という日本の理想は、大乗仏教を核とした「神仏儒習合」の思想から生まれたものでした。

持統に続いて即位したその孫文武天皇も、若くして亡くなった文武の後を受けたその母元明天皇も、その娘でおそらく次の聖武天皇までの中継ぎとして即位した元正天皇も、その理想をしっかりと受け継いでいるようです。

とはいえ、文武から元正まで、具体的な政策としては律令制の確立に重点が置かれ、仏教については目立つ事跡はありませんが、七一〇年、元明女帝の時、唐にならって文明国にふさわしい都を築くため平城京へと遷都がなされていることは、注目すべきことでしょう。

本格的な都の成立は、中央集権体制としての律令国家の確立と対応しています。そして、中央集権が確立しなければ、日本全国への仏教のトップダウンもありえませんでした。

日本人全体が仏教を共有するための大きな働きかけをしたのは、聖武天皇ですが、その仏教振興は、それを実行・実現する場所としての奈良・平城京なしには考えられません。

聖武天皇が、全国に国分寺・国分尼寺を造営させ、奈良に総国分寺としての東大寺とその本尊である大仏を建立したことはよく知られています。

七四一(天平十三)年、国分寺・国分尼寺建立の詔の中で、聖武は「このごろ、田畑の稔りが豊かでなく、疫病がしきりに起こる。それを見ると身の不徳を慚じる気持と恐れがかわるがわる起こって、独り心をいため自分を責めている。そこで広く人民のために、あまねく大きな福があるようにしたいと思う。そのため…全国の神宮を修造させ、去る年には全国に一丈六尺の釈迦の仏像一体宛を造らせると共に、大般若経一揃い宛を写させた。そうしたためかこの春から秋の収穫まで、風雨が順調で五穀もよく稔った。これは真心が通じ願いが達したもので、不思議な賜り物があったのであろう。…」(宇治谷孟訳『続日本紀』)と述べています。

しばしば「奈良仏教は鎮護国家の国家宗教であって、民衆の宗教、民衆の救いではなかった」というふうな評がなされてきましたが、こうした詔勅をすなおに読むと、そこには大きな誤解があったのではないかと思わされます。

「鎮護国家」とは、単に迷信的な呪術によって自分たちの権力の維持を図るといったことではなく、人民すべてが幸せに暮らせる国になるよう祈り願うということだったのではないでしょうか。そういう意味で、この時代の仏教は、確かにまだ「民衆が信じる宗教」にはなっていなかったにしても、「民衆の幸せを祈る宗教」という面をまちがいなく持っていたことを正当に見直すべきだと思うのです。

日本の総国分寺・東大寺の本尊は、これまたあまりによく知られた大仏すなわち毘慮舎那(または慮舎那)仏で、『華厳経』詳しくは『大方広仏華厳経』の教えの主体である仏です。

「毘慮舎那」はサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の音を写したもので、「光明遍照=世界すべてを照らす光」という意味で、この仏さまは、蓮華蔵世界というところの千枚の花びらからなる蓮の花の上に坐っており(実際の大仏は十八枚)、その千枚の花びらそれぞれに一人ずつ釈迦如来がいて、人々を教え救う働きをしています。

この像は、右の手のひらを開いて上げ(施無畏の印)、左手を伸ばす(与願の印)という手のかたちをしています。そのかたちには、人々に恐れや苦しみのない安らかなこころを与え、すべての願いを叶え、さらには覚りたいという願いを起こさせるという仏さまの心が象徴的に示されています。

こういう意味をもつ毘慮舎那仏を総国分寺の本尊とし、その分身としての釈迦如来像を祀る国分寺・国分尼寺を日本全国に建てさせたことは、この仏の功徳の光が国中に照りわたって、日本が、人々の願いがかない、不安や苦しみなく生きていける、光溢れ調和に満ちた美しい国になることを、聖武天皇が本気で願っていたことを表わしています。

いわゆる天平の時代は、「青丹よし寧楽の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり」の歌に示されるような文化の花が開いた時代である一方、不思議なほど天災が頻発し、疫病の流行もあり、いくつもの政変もあって、決して民衆すべてが心安らかに暮らせるような時代ではありませんでした。

この時代の基本史料『続日本紀』そのものを読んで気づくことは、律令制によって、一方では民衆からの収税が制度化されたと同時に、歴代天皇―政府は、天災・飢饉・疫病流行などの際には納税を免除あるいは延期したり、稲籾を貸し付けたり、しばしば物資を送り、医師を派遣するなど、民衆への援助も行なっているということです。

こうした記事は、戦後の歴史教科書などではほとんど紹介されていないようです(私も学んだ憶えがありません)。しかし考えてみて、律令制という全国的な行政制度の確立なしに、部族的な地域社会の中だけでそうした「社会福祉」ができたでしょうか。飢饉や流行病や地震などで地域社会が壊滅状態になった時、より広範囲な行政制度や財政的基盤がなければ、援助は不可能でしょう。

もちろん古代という時代の経済力の限界、身分制という限界はあったにちがいありませんが、「慈悲」や「仁」、「愛民」、仁政・徳治といった古代リーダーたちの理想は、けっしてひたすら主観的・観念的ではなく、かなりの実行を伴ったものだったようです。しかも、時代の制約を考えれば、それは精一杯の努力だったといってもいいのではないでしょうか。

七四三(天平十五)年、大仏造営の詔には「朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位をうけつぎ、その志は広く人民を救うことにあり、務めて人々をいつくしんできた。国土の果てまで、すでに思いやりとなさけ深い恩恵を受けているけれども、天下のもの一切がすべて仏の法恩に浴しているとはいえない。そこで本当に三宝の威光と霊力に頼って、天地共に安泰になり、よろず代までの幸せを願う事業を行なって、生きとし生けるもの悉く栄えんことを望むものである」(前掲書)と語られています。ここには聖徳太子の「菩薩としての天子」という理想が脈々と引き継がれている、と私には読めます。

こうした志への共感があったからこそ、それまでひたすら民衆の救済と布教に専心し、時には政府の仏教政策と対立した行基も、大仏建立に関し全面協力する気になったのでしょう。それもまたよく言われたような、権力への妥協・迎合ではなかったのだと思われます。

戦後の進歩的知識人の批判精神は、日本のかつてのリーダーたちのマイナス面だけを見て、こうしたプラス面をほとんど見落としてきたのではないかと感じます。それには理由や必然性があったにしても、多くの弊害も残したといわざるをえません。

そういう私も、日本仏教の再発見をきっかけにして、ようやくかつての日本のリーダーたちのプラス面、リーダーにおける「日本の心・日本の理想」を再発見しつつあるところです。

飛鳥から白鳳・天平にかけての仏像や寺院などの仏教美術に、それ以後の時代とはある種「格が違う」といっていいほどの非常な高さを感じるのは、背後にそうした政治と仏教のリーダーたちが共有していた理想の高さがあるからなのではないか、とこのごろ感じています。

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聖武天皇が、日本全国国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、特に『大般若経』一揃いを整備させたということは、そこに、日本のトップリーダーの「民さらには生きとし生けるものすべてが幸せな国にしたい」という願い・理想が表現されているということでしょう。

確かに『大般若経』は、聖武天皇の時代からずっと、典型的には「大般若会(だいはんにゃえ)」というかたちで、呪術的な効果があるものとして儀式的に読誦されてきました。

しかし、『大般若経』そのものには、呪術的な意味しかなかったのでしょうか。

そもそも『大般若経』にはどういうことが書かれていたのでしょう。

私たちは、これまでほとんどその思想的内容を知らないままできました。

ところが私は、きっかけがあって、『大般若経』六百巻全体を読むことができ、その内容の深さに感心してしまいました。

しかも、繰り返せば、「大乗仏教の菩薩の到達目標には、ただ覚りという個人の内面だけではなく、一切衆生の救済とそのための仏国土の建設という社会の外面の課題も含まれている」ということに気づいて、驚いてしまいました。

その気づきと驚きをみなさんとシェアしたいというのが、今回の講座の目標なのですが、ご参加いただけないブログ読者のために、せめて原文だけでもご紹介したいと思います。

『摩訶般若波羅蜜経』「夢行品第五十八」の後半に、大乗の菩薩の誓願すなわち実現目標が30項目あげられています。

すでにかなり長くなっていますので、今日は、第一願と第二願だけ掲載します。

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ブッダがスブーティに告げられた。

(佛須菩提に告げたまう。)

〔第一願〕

菩薩摩訶薩がいて布施波羅蜜を実践する時、もし衆生が飢え凍えて衣服が破れているのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で布施波羅蜜を実行し、私がこの上ない覚りを得た時、私の国土の衆生にこのようなことがなく、衣服・飲食・生活に必要な物が、まさに四天王の天界、三十三天・夜摩天・兜率陀天・化樂天・他化自在天の(天界の)ようにしよう、と。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで布施波羅蜜を完成させ、この上ない覚りに近づくことができるのである。

(菩薩摩訶薩有りて檀那波羅蜜を行ずる時、若し衆生の飢寒凍餓し、衣服弊壞せるを見て、菩薩摩訶薩は當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ檀那波羅蜜を行じ、我れ阿耨多羅三藐三菩提を得る時、我が國土の衆生をして是の如きの事無く、衣服・飮食・資生の具、當に四天王天・三十三天・夜摩天・兜率陀天・化樂天・他化自在天の如くならしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如き行を作して能く檀那波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。)

〔第二願〕

また次にスブーティよ、菩薩摩訶薩が持戒波羅蜜を実践する時、衆生が殺害をなし、邪な考えを持ち、寿命が短く、病が多く、顔色がよくなく、威厳がなく、貧乏で財産がなく下賤な家に生まれて様子が醜いのを見たならば、菩薩摩訶薩はまさにこのような願を立てるべきである。私はこの時・所で持戒波羅蜜を実行し、私が仏になりえた時には、私の国土の衆生にこのようなことがないようにしようと。スブーティよ、菩薩摩訶薩は、こうした行をなすことで持戒波羅蜜を完成し、この上ない覚りに近づくことができるのである。

復次に須菩提、菩薩摩訶薩の尸羅波羅蜜を行ずる時、衆生の殺生し乃至邪見、短命、多病、顏色好からざる、威徳有ること無き、貧にして財物に乏しき、下賤の家に生じて形殘醜陋なるを見て、當に是の願を作すべし。我れ爾所の時に隨ひ尸羅波羅蜜を行じ、我れ佛を得る時、我が國土の衆生をして是の如き事無からしめんと。須菩提、菩薩摩訶薩は是の如きの行を作して能く尸羅波羅蜜を具足し、阿耨多羅三藐三菩提に近づく。

 

 

 

 

日本の理想・原点としての『十七条憲法』 講演要旨

16日夜、聖徳太子『十七条憲法』について講演をしてきました。

折も折、憲法改正が実際の日程にのぼるかもしれないという状況のなかで、タイトルのような話をする機会が与えられたのは、ある種、時なのかもしれない、という気がしています。

聴衆の反応には大きな手ごたえを感じました。

すでに、2003年、つまり十年も前に書いた拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む――日本の理想』(大法輪閣)でも、2011年の『日本再生の指針――聖徳太子『十七条憲法』と「緑の福祉国家」』(太陽出版)でもあまり感じられなかった手ごたえでした。

日本人のアイデンティティはどこにあり、これから日本をどういう国にすればいいのか、本格的な危機感と問題意識をもつ人が増えてきているのでしょう。

これが、日本を持続可能な方向へと方向転換させる大きな潮流になっていくことを願わずにはいられません。

詳しくは、拙著2点をお読みいただきたいし、このブログにも関連記事をたくさん書いてきましたが、とりあえず当日の講演要旨を以下に収録・紹介しておきたいと思います。

『十七条憲法』は日本初の憲法である。

そこには、「和」こそ、これから目指すべき日本の国家理想・国家目標だという高らかな宣言がなされている。

「和」には、人間同士の平和はもちろんさらに人間と自然の調和という意味も含まれており、そうした「和」の国日本を建設するという国家的プロジェクトを実行-実現するうえで不可欠の心がまえが語られている。

そういう意味で、『十七条憲法』は、日本の目指すべき「国のかたち」と「心のかたち」を示したものである。

なぜ「和」の国でなければならないかを、聖徳太子は、伝統的神道に加えて仏教と儒教を統合的に捉えた「神仏儒習合」の教えによって明らかにしている。

そうした「神仏儒習合」の精神は、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と時代を経ながら全国津々浦々、庶民のすべてに到るまで日本人全体に浸透し、いわば「日本の心」になっていった。

日本人の正直で真面目で勤勉で親切で……といった善良な心・心の「型」は、「神仏儒習合」の教えによって育まれたものである。

その「神仏儒習合」のという心の型・精神性・倫理性が、明治維新による近代化・西洋化、敗戦によるアメリカ化、そして70年代以降ますます進む過度の経済偏重・物質主義によって「型崩れ」を起こしているというのが、現在の日本の精神性・倫理性の荒廃-崩壊のもっとも大きくかつ深い原因なのではないか。

そういう状況のなかで、私たち日本人にとって日本という国の原点である『十七条憲法』と「神仏儒習合」のもっていた意味を再発見することが急務なのではないか。

第一条には、国家理想としての「和」とそれを妨げる「黨」つまり無明から生まれる党派心が明らかにされ、徹底的話し合いを通した合意による国家建設への決意が語られている。

第二条には、無明の心を正す方法として仏教を国教化することが宣言されている。

第三条には、そうした国家建設の目的は人間同士の平和と人間と自然の調和であることが明らかにされ、それへの全面的協力への要請がなされている。

第四条以下には、到達目標としての自治、それに到るプロセスとして徳治、法治が語られ、国家リーダーが「愛民」・菩薩の心を持って協力しあうべきこと、統治は民のためになされるべきことが語られる。

とりわけ要となる第九条には「信」を共有すべきことが語られ、最後の第十七条には改めて独裁ではなく合議による国家建設が説かれている。

そこには、賢者・菩薩的リーダーが協力しながらリードして日本を、人間同士も人間と自然も穏やかに幸福に生き続けることのできる、現代的に言えば「エコロジカルに持続可能な福祉国家」にしたい・しようという国家理想の宣言とその実現への強い勧誘・勧告がなされている。

聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想
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大法輪閣
「日本再生」の指針―聖徳太子『十七条憲法』と「緑の福祉国家」
クリエーター情報なし
太陽出版