禅定の五つの効果:唯識のことば33


  
 諸菩薩は…それぞれの段階でシャマタとヴィパシュヤナーを実修するのであるが、それぞれに五つの相があって実修が完成しうる。

 五とは何かというと、

 第一には総括的な実修、

 第二は無相の実修、

 第三は効果を当てにしない実修、

 第四は燃え盛るような実修、

 第五は満足することのない実修である。…

 この五つの実修は五つの事柄を生じるのを結果とする。

 五とは何かというと、

 第一に一瞬一瞬に粗く重い障害の依りどころを破壊する。

 第二にさまざまな妄想を離れた真理の楽しみをを得ることができる。

 第三に一切のところで量りしれず分別された相のない善なる法の光明を見る。

 第四に分別する法の相については転換して清浄な性質のものとなり、常に持続して生じ、法身を満たし完成する。

 第五に上の段階のなかでも、さらに増して上の段階に到る因縁を集める。

                    (『摂大乗論現代語訳』第五章より)
 
 
 
 覚りを求める人・菩薩は、初級、中級、上級のどの段階でもイメージを消すタイプの瞑想(シャマタ、漢訳では「止」)とイメージを描いたり、理論的に思索したりするタイプの瞑想(ヴィパシュヤナー、漢訳では「観」)を実修していくのですが、途中でしばしば、「こんなことをして、何になるんだろう」という疑問や怠りの気持ちが起きてくるものです。

 摂大乗論には、そうしたよくある疑問への答えが実によく整備されています。

 修行を完成させるためには五つのポイントがあり、それは

 ①まず止と観とどちらかに偏らないこと

 ②何よりも世界の一つでありばらばら個別のものはないというほんとうの姿を瞑想において洞察・実感すること

 ③努力と結果が分離しているのでなく瞑想することそのものがコスモスの営みであるような瞑想をすること

 ④そして何よりも瞑想すること、生きることに燃えるような熱意を持つこと

 ⑤そして終わることのない向上・進化を持続すること、です。

 そうすると、逆説的なのですが、効果を当てにしない瞑想が次のような五つの効果・結果をもたらすというのです。

 ①生きることの重さ、苦しさからの根源的な解放感

 ②あれこれ思い煩うことがなくなってありのままの生‐世界を楽しめるようになること

 ③すべてがたった一つのコスモスのエネルギー・光の顕れであることを実感する

 ④だからそれぞれのものがすべてそれでいいという絶対的な肯定感に到る

 ⑤一定の自己成長の段階に達しても、さらに果てしなく成長し続けることのできる条件を積み重ねられる

 瞑想の臨床効果は、これまで無数の修行者たちによって実証されてきたものです。

 筆者も及ばずながら実修してきて、一定の、確かな実感を感じてきました。

 まさに文字どおり及「ばずながら」なのですが、爽やかさ、楽しさ、明るさ、これでいいという感じ、自分が成長しているという感じがあって、やっぱり続けようと思うのです。
 
 
  

忍辱の瞑想:唯識のことば32

 
 
 
 五義とは、

 一には「すべての衆生=生きとし生けるものは無限の過去から私にさまざまな恩恵を与えてくれている(だからこそ、いまここで私が生きることができるのだ)」と洞察する。 

 二には「すべての衆生は、瞬間ごとに過ぎ去り滅びていくものである、いったい誰が傷つけ、誰が傷つけられるということが(仮にはともかく実体として)あるのか」と洞察する。

 三には「ただ法〔真理=存在=一体の宇宙〕があるだけなのだから、(実体的に)傷つけ傷つけられるものがあるだろうか」と洞察する。

 四には「すべての衆生はみな彼自身すでに苦しみを受けている、なぜさらに苦しみを加えたいと願うのか」と洞察する。

 五には「すべての衆生は、みな我が子である。なぜ、それに対して害を与えたいと願うのか」と洞察する。

 この五つの洞察によって深層の瞋りを滅ぼす。深層の瞋りが滅びれば、意識的な怒りや恨みはなくなってしまう。

                       (『摂大乗論釈』より)
 
 
 
 マナ識のあるところには、必ずといっていいほど争いがあります。

 ふつうの人間関係では、争いが絶えず、傷つけ、傷つけられるということがしょっちゅう起こるのです。

 そういう時、ふつうの人(凡夫)はどう対処するでしょうか。

 やられたら、やりかえす。

 あるいは、やりかえしたいけれど、相手が強すぎて、やりかえすと、もっとひどい目にあうから、我慢し、泣き寝入やゴマメの歯ぎしりをし、心の中で、恨み、憎み、呪う。

 あるいは、それができる時は、「嫌なヤツは嫌だ」と、相手から距離を置く……。

 だいたいそういうところでしょうが、菩薩=求道者なら、もうすこし違う、より賢い対応をしてはどうか、とヴァスバンドゥ菩薩(または真諦三蔵)は忠告してくれます。

 姿勢を調え、呼吸を調えて、静かに、引用した五つのことを瞑想・洞察する。

 洞察が深まると、無理して抑えるのではなく自然に、深層の瞋りがなくなる。

 瞋りがなくなれば、怒りや恨みが意識に湧き上がることもなくなる、というのです。

 ヴァスバンドゥ菩薩は、その後にとても大切なコメントを加えています。

 「この忍は、まず自分自身を瞋りという煩悩で汚し苦しめることをなくしてくれる」と。

 腹を立てている時は、自分も不快です。

 忍辱・許すことは、人のためというより、まず自分の心を爽やか・平和にしてくれるのです。

 「そして、自分の心が平和で、怒ったり恨んだりすることがなければ、他者を苦しめることもなくなる。

 すなわち、他者に対しても平和である。

 経典にこうある、忍を実行する人には、第一に恨みがない、第二に責めることがない、第三に人から愛される、第四に評判がよくなる、第五に次の世でいいところにうまれることができる、と。

 この五つの効果(徳)を、平和という。」

 傷つけられたと感じ、怒りや恨みで自分が苦しい時、まず自分の心の平和のために、この「五義観」という瞑想法を使ってみましょう。

 ゆっくり、しかし確実に心が癒されていくと思います。

 忍辱は損のようですが、心が得をするのです。
 
 
 

菩薩の広大な意志:唯識のことば31


 
 広大な意志は、菩薩は数大カルパかけてこの上ない悟りを得ていくのだが、そうした時間を一瞬とする。

 菩薩はそうした時のなかで、一瞬一瞬に身命を捨て、ガンガー河(ガンジス)の砂の数に等しいほどの世界のなかに満ちている七種類の宝を捧げて如来に供養し、発心してから究極の清らかな悟りに悟入するに到っても、この菩薩の布施の心はなお満足しない。

 このように多くの時の一瞬一瞬に、三千大千世界に明るい灯を満たし、菩薩はそのなかで歩き、止まり、坐り、臥すことについて四つの威儀を保ち、一切の生命を維持するために必要なものがないときにも、菩薩は、持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の心をつねにありありと修行し、究極の清らかな悟りに悟入しても、この菩薩の持戒・忍辱などの意志は満足しない。

 これは飽き足りることのない心であって、これを菩薩の広大な意志と名づける。

                         (摂大乗論第四章より)
 
 
 私たち現代人の多くは、外界と分離した個人としての自分の身心だけが自己だと深く思い込んでいます(私もふと気づくとしょっちゅうそういう思い込みに退行しています)。

 しかし、唯識や道元・正法眼蔵やコスモロジーを学べば学ぶほど、〈自己〉は個人としての身心に限定されるのではなく、全コスモスこそが〈本当の自己〉であることを深く納得していきます。

 菩薩は、まだそのことを心の奥底まで覚った人=仏にはなっていないが、それを目指して修行している人です。

 そしてあるレベルまで行った菩薩は、完全ではないにしても、そのことに目覚めていますから、彼のタイム・スケールの感覚は、私たちの個人的な時間感覚とはまるで違うのです。

 数大カルパという個人にとっては想像を絶するような長い時間も、菩薩のコスモス大の意志にとっては、一瞬です。

 しかもそういう数大カルパであり一瞬でもある時間において、何度でも繰り返し個人としての命を捨てて、覚りの源泉である如来に献身し続けるのです。

 さらに、個人としては完全に行きづまり、生命を維持する手段が一切なくなった時でさえ、なお六波羅蜜を修行して止まないといいます。

 それどころか、個人の心の安らぎや満足の目標としてはそこで終わりになるはずの覚りを得ても、それでも満足をしないというのです。何というしつこさ、強烈さでしょう。

 「これは飽き足りることのない心であって、これを菩薩の広大な意志と名づける」といわれています。

 菩薩がこんなにも大きなスケールの意志をもつことができるのは、個人としての自分は実はコスモスの一部であり、自分が修行することは、一三八億年かけて持続しているコスモスの自己組織化・自己意識化の運動、つまりコスモス自身の修行の一部だと深く了解しているからです。

 ちょっとした苦しみで挫折するような志や意志は、志・意志とはいわない、このくらいのスケールの意志であってこそ、ほんとうの意志というのだ、ということばを聞く時、私たちは、身震いするような畏怖の念とともに、しかし私たちへの熱い期待と慈しみを奥底に秘めたコスモス・如来の叱咤激励の声を聞くのではないでしょうか。
 
 
 

人間成長の六つの方法:唯識のことば30

 

 
 「また一切の衆生と共にあって成熟させるための依りどころだから」というのは、

 布施波羅蜜によって衆生に利益を与え、持戒波羅蜜によって衆生に害を与えない。

 忍辱波羅蜜によって彼らの迫害をあまんじて受け、恨みに報いる心を起こさない。

 精進波羅蜜によって、彼の善の機能を生えさせ、彼の悪の機能を枯らす。

 こうした利益を原因として、一切の衆生をみな教育・調整することができる。

 次に彼の心がまだ静寂さを得ていないならば静寂にさせるために、すでに静寂を得ているならば解脱させるために、禅定と智慧という波羅蜜を立てる。

 これら六つの悟りの彼岸へ到る手段によって、菩薩はよく衆生を教える。それゆえに、成熟させることができる。

                        (摂大乗論第四章より)


 「教えることは学ぶこと」ということばがあります。

 ただ学んだだけだと、実は学んだつもりなだけで、人に伝えようとしても記憶があいまいでちゃんと話せないとか、聞かれても説明できないとか、人生のいざという時に使えないということになりがちです。

 人に教えると、自分がきちんとつかんでいないとしどろもどろになりますから、真剣に学び、説明できるところまで理解しようとします。

 そして、教えている間に、自分でも「そうか、そうだな」と納得していくということが起こります。

 大乗仏教の実践の基本は六波羅蜜です(六波羅蜜についてよりくわしくはこの記事以下を参照してください)。

 これを実践することは、一切の衆生を成長・成熟させることですが、同時に一緒に成長・成熟していくことにもなります。

 利益を与え、害を与えない。報復をしない。つまり、あらゆる方法で、その人の存在を肯定すること、「あなたが生きていることはすばらしいことだ」というメッセージを贈ることこそ、人を教育するための原点です。

 それによって、その人の中に自他を肯定できる善い心の機能が生まれ、自他を否定する悪い心の機能が弱くなり、消えていきます。

 そういう努力を続けることが、人を育てることなのです。

 それに加えて、空しい欲望や怒りや嫉妬や空しさや落ち込みで心が騒ぎ・動揺して悩んでいる人に、禅定をすると心が静かで爽やかになると勧め、心が静かになったところで、世界の本当の姿の学びを伝え、ニヒリストかエゴイストか、さもなければ小市民的な幸福主義者かといった、人間性の低いレベルから脱出する手段を提供する。

 そういうふうにして、「菩薩はよく衆生を教える」、そして「成熟させることができる」のです。

 そしてまだ初歩の菩薩である私たちは、そういうことを人に伝える努力をすることで、同時に自分自身の心にも伝え、染み込ませ(熏習)、全身心的に自分のものにして、自分を成長・成熟させることができるでしょう。

 筆者などは、どちらかというと、させるよりも自分のほうがさせてもらっているという気がしますが、いずれにせよ、六波羅蜜の実践は自分と他者とが共に成熟していくためのきわめて有効な依りどころ・手段・方法だと、改めて思います。

 あきることなく、みんなで一緒に教え・教えられながら、実践を続けていきたいものです。

考え直し決め直す:唯識のことば29

  

 

 菩薩は福徳と智慧を生長させ その二種の糧は無限である 

 真理について思惟し心が決まるので 外界のあり方を分別する原因を理解する

                     (摂大乗論第三章より)
  

 時々、私は菩薩つまり自他の幸福(福徳)と覚り(智慧)を求めることを志している人間なのだろうか、凡夫つまり根本煩悩に駆られて自分(たち)だけの幸福――などというものがあると錯覚してそれ――を求めている人間なのだろうか、と反省します。

 すると、菩薩のつもりだったのに、いつの間にか凡夫的になっていることに気づきます。それを「退行」といいます。

 まあ、「凡夫の菩薩」という言葉もあるくらいですから、そのくらいの成長段階にいるのでしょう。

 筆者は、残念ながら決して退行しないというほどすばらしい境地には到っていないのですが、折々に気づいて、気を取り直せるくらいにはなっているので、あまりがっかりしないことにしています。

 もちろん反省はしますが、自己非難はしないのです。

 自分の幸福とみんなの幸福をバランスよく追求することと、智慧の心をみんなで育てていくことで、生活の糧と心の糧を得ようとする、それが真理・コスモスの法則に合った生き方だとはっきり理解できると、人生に迷いがなくなります。心そして志が決まるのです。

 決まっていたつもりなのに、いつの間にか迷いはじめる。

 そういう場合どうしたらいいのかというと、要するに原点にもどることです。

 ……と偉そうに言っていますが、筆者はそうしています。

 単純に、逸れたらもどる、逸れたらもどる、です。

 自分と他者とが分離しており、損と得が別々にあり、幸福と不幸が絶対に別のものであり……と外界を分別して捉えてしまうのは、実体視された自分と自分のつごうを物差しにしているから、でした。

 でもそれは、コスモスの現実に合っていない、非現実的、非論理的、非合理的な思い込みなのです。

 非現実的・非合理的な思い込みで行動すると、短期には得をするように見えますが、長期には必ず損・失敗をします。

 長期にわたってほんとうに自分のいのちを養ってくれるもの=糧を得たいのなら、コスモスの法則に従うのが賢いのでした。

 自分の迷いや悩みの原因がすっきりわかると、爽やかな勇気が湧いてきます。

 個人としても、社会・国も、人類も、一日も早く、コスモスの法則をしっかり見つめた英知に基づいた長期的な利益を追求できるようになるといいですね。

 まずは、自分からそうしましょう。

 きびしい時代だからこそ、短期的な幸不幸や損得に振り回されたりしないで、自他の長期的な幸福という目標に目を据えてしっかり追求していくというのが私のライフスタイルだ、と腹を固めなおしましょう。


   

菩薩の持続する志:唯識のことば28

 
 
 ふつうの人・凡夫が、人生のいろいろな悩みに出会ってなんとかそれを乗り越えたいと思ったり、すばらしい教えに感動したりして、修行を始めると、そこで覚りを求める者・菩薩になります。

 どんなに初心であっても、どんなに煩悩だらけでも、どんなに愚かでも、菩薩は菩薩なのです。

 初めて覚りたいという心を発したのを「初発心(しょほっしん)」といい(「新発意(しんぼち)」ともいいます)、はっきりと覚りたいと思ったら、それが「初発心」であり、そこで初発心の菩薩になります。

 もっともまだあまりの凡夫の状態で、とにかくやっと修行を始めたばかりだと、「凡夫の菩薩」という言い方もあります。

 私たちも、その程度かもしれませんが、でもやはりもう菩薩なのです。

 しかし長い仏教の修行の歴史のなかでは、いったん凡夫の菩薩になってももとの完全な凡夫に「退行」する人もしばしばいたようです。

 それは現在と変わりません。

 きっかけになった悩みが少し軽くなると、もう修行が面倒になってきたり、最初の感動が薄れてきて、なかなか実感できるような進歩がない、効果があがらないとなると、いやになってきたり、そこそこの体験があったり、ある程度の境地に到ったら自己満足してしまったり……と。

 初発心の時点からしばらくすると、ほとんど法則的といってもいいくらいに、停滞、退行の危険が忍び寄ります。

 人間成長・修行にとって、そこが一つの関門です。

 アサンガ菩薩は、おそらくみずからもそういう体験をしたのでしょうし、後輩、弟子たちが、そうした関門で行きどまってしまうのをたくさん見たのでしょう。

 『摂大乗論』のあちこちに、退行への警告と、関門を突破して前進するようにという励ましのことばがちりばめられています。

 もし菩薩が初発心から成仏に到るまで、飽き足りることのない心を捨てなければ、これを菩薩の長い時間の意志と名づける。

                  (『摂大乗論現代語訳』第四章より)

 菩薩には、ぜひ「長い時間の意志」、持続する志が必要です。どこかで倦み疲れたり、飽き足りたりしないで、精進しつづけること、それが菩薩の志というものなのです。

 初発心から成仏までは、唯識では三大カルパというおそるべき長い時間がかかることになっていますが、それでもどこかで満足してしまわない、あきらめてしまわない、へたばって坐りこんでしまわない。

 なかなかむずかしいことですが、せっかく人間、つまり覚る可能性をもった存在として生を受け、しかも幸運にもすばらしい道を見つけ、歩みはじめたのですから、途中でやめるなどというもったいないことはしたくないものです。

 自己満足しかかったら、人間にはほとんど無限の成長可能性があることを思い出して、疲れていたら少し休んでからでいいから、もう一度、前に向かって歩き出しましょう。

 これは、読者に向けていう前にまず自戒のことばです。
 
 
 

苦しみといういいこと:唯識のことば27

  
 
 堅実でないものを堅実であると考え
 転倒した妄想にとどまり
 煩悩に汚染される者
 彼らこそ勝れた覚りを得る                

(摂大乗論第二章より)
 
 
 大乗仏教の言葉の中には、表面的な意味と深い意味がまるで違うものがあります。

 そういう表現方法を「逆説」といいます。

 右の言葉も、そうした逆説的な表現で、軽く読むと「え?」と思うようなことが書かれています。

 頼りにならないものを頼りにし、分別知から出た常識・浅知恵にこだわり続け、そのせいで悩みに悩んで心がドロドロになってしまうような人間、そういう人間こそすばらしい覚りに到ることができる、というのです。

 これは、すべては空であり実体ではなく、だから頼りにしてはならないと考え、常識は妄想だとして捨て去り、さっぱり爽やかに生きる人間が、「勝れた覚りを得る」のではない、ということになります。

 この言葉は、私たちの仏教に対する常識的な考え方とはかなり違っていて、非常に逆説的で、こういう表現に出会うと、私たちは単純に読み過ごすことができず、「これはいったい真意はどこにあるのだろう?」と考え込むことになったりします(もちろん「ふーん」というふうに読み飛ばしてしまうこともしばしばありますが)。

 しっかり考え込むことになったら、この言葉が禅でいう「公案」の役割を果たすことになるでしょう。

 「公案」に対する解答を「見解(けんげ)」といいますが、ご参考までに、私のとりあえずの見解を書いてみたいと思います。

 私は、この言葉からは、二つのことを読み取ります。

 第一は、これは本気で修行に苦闘した人の実感のこもった言葉だということです。

 頭では堅実ではない、空だといくら思って、やはり頼りにしたくなるものがいろいろあります。健康、容姿、地位、名誉、財産、知識……。

 分別知は妄想だと教わり、納得しても、だからといってすぐにやめられるものではありません。

 意識だけでなく、アーラヤ識の底まで汚染されているからです。

 私たちの日常は、マナ識-アーラヤ識の働きで欲望(神経症的欲求)と悩みに汚れっぱなしです。

 しかしその悩み・葛藤がもう耐えられないほどだという気持ちになるからこそ、本気でそこから抜け出したい、だから修行するという気になるものです。

 ゴータマ・ブッダから始まって、深い悩みなしに修行する気になり、覚った人は、ほとんどいないようです。

 だとすると、今悩んでいて、修行を始めたみなさん、おめでとうございます。

 スタートを切ったら、途中で棄権しないかぎり、いつかはゴールに着くことが決まっています。

 第二は、それとも関わって、筆者がずっと言ってきたことですが、唯識、広く言えば大乗仏教は「絶対肯定の思想」であるということです。

 人生におけるあらゆること、悩みや苦しみさえもオーケーだ、人生には悩みはあるもので、それは究極的にはいいことだ、ということです。

 苦しみといういいこと・必要なことがあるからこそ、私たちはもっといいこと、つまり覚りへと向上しようとする、せざるをえなくなるのです。

 コスモスは、グッドからベターへ進化し続けていて、私たちはそのプロセスの一部なのです。
 
 

覚りに基づく世界システムの可能性:唯識のことば26

 
 
 滅することが難しく解くことも難しいものを、共通の束縛(共結・ぐけつ)と名づける。

 瞑想修行する人は、心は〔ふつうの人が分別するのとは〕異なっており、相が大きいことによって外界を生ずる。

 清浄な人は、まだ〔外界が〕滅していなくても、そのなかに清浄さを見る。

 仏の浄土を完成するのは、清浄な仏の見方によるのである。

                      (摂大乗論第一章より)

 
 
 さまざまな面で進歩しているはずの二十一世紀になっても、人類は「滅することが難しく解くことも難しい」重大な課題を残したままです。

 主なものだけでも、戦争、テロ、宗教・民族対立、格差、環境破壊、ニヒリズム等々。

 それは、心ある個々人の努力にもかかわらず、世界共通の束縛・課題となっています。

 「私のせいではない」とか「私は知らない」ということで、それから逃れられるわけではありません。

 唯識では、自分と分離した世界・外界があるという錯覚・無明は、個々人だけではなく、人間すべてに共通の束縛であると捉え、「共結(ぐけつ)」と呼び、その錯覚から、怒りも恨みも敵意・殺意も独善も空虚感も生まれてくるといっています。

 つまり、現代の問題は、人類が始めから抱えている問題が極限状態になったもので、昨日今日、近代だけの問題ではないのです。

 しかし、瞑想修行する人の心が捉える外界は、外界とはいっても、「相が大きい」、どのくらいかというと「十方世界に通ずるが故に、相大という」くらい、つまり宇宙大に大きく、しかも「識を離れて、別の外境無し」で、自分の心と分離して関係のない外界ではないのです(真諦釈)。

 瞑想修行している人は、まだ完全に外界とか他者という見方を超えきってはいないにしても、ものの見方は清浄になっており、マナ識的な執着から解放されつつあり、マナ識‐自分のつごうを離れて世界を見ると、世界・宇宙は、根源的にはありのままでいい(本来自性清浄・ほんらいじしょうしょうじょう)のです。

 自分や自分のいのちを絶対化した価値観からすると、どんなにふつごう・不条理であるように見えても。

 しかも、そういう根源的にはありのままでいい=清浄と見る見方からこそ、現象としては煩悩で汚れたこの世界=穢土を変容させて、ほんとうに清浄な仏の国土を実現できるとアサンガ菩薩はいいます。

 一定の価値観・イデオロギーからする否定による革命ではなく、根源的肯定からする成長-完成としての変容です。

 釈では「若し智慧と慈悲あらば、分別を起し利他を為し、浄仏土を成就す」といわれています。

 意訳すると、「もし智慧だけではなく慈悲もあるなら、〔あえて〕統合的な理性としての分別を起動して他者の幸福を図り、世界をすばらしい仏の国土へと完成させていく」ということでしょうか。

 ただ、そのためには「清浄な仏の見方」が必須で、だとすると、私たちにはやはり無理ということになりそうです。

 ところが、釈には「初地は菩薩の見位なり。初地の中の清浄は、是れ、見道の清浄なり。見道の清浄なる、是れを『仏見の清浄』と名く。此の清浄に由りて、能く仏土の清浄を得。何に況んや修位及び究竟位をや」とあります。

 菩薩が初めてようやく到達できた程度の覚りでも、浄らかな仏の国は実現できる、ましてそれ以上の境地であればいうまでもない、と。

 そうだとすれば、人類的英知に基づく持続可能な世界システムは、もちろん安易に行ける距離にはないとしても、私たちにとっても絶対に到達不可能と思うほど遠くはないといえそうです。
 
 

なぜ苦しみに遭うのか:唯識のことば25

 
 なぜ世間には衆生で重い苦しみの災難に会うものが見られるのか。

 菩薩は、衆生はカルマがあって苦の報いを受け、勝れた楽の結果をさえぎられることを見るからである。

 菩薩は、もし彼に楽なことを施せば、善を行なうことを妨げることを見るからである。

 菩薩は、彼に楽なことがなければ、眼のあたりに生死を厭う心を起こすことを見るからである。

 菩薩は、もし彼に楽なことを施すと、一切の悪い事柄を生長する因縁になると見るからである。

 菩薩は、もし彼に楽なことを施すと、他の無量の衆生を迫害する因縁になると見るからである。

 こういうわけで、菩薩にはこのような勝れた能力がないのではないが、世間には苦しみを受ける衆生が現われるのである。

                    (『摂大乗論現代語訳』第八章より) 
 
 
 すべてがコスモスの美しい夢ならば、なぜこの世に苦しみがあるのか、と疑問を感じることがあります。
 
 特に自分が苦しみに遭った時、「何も悪いことはしてないのに、なぜ私がこんな目に遭うのか」と思うことがあります。

 上に引用した言葉に出会った時、そういう疑問に対して「なるほど、唯識はこう答えるのか」とかなり納得しました。

 もちろん理論的にであって、いつも実感というわけにはいかないのですが。 

 仏・菩薩がいるのに、なぜこの世に苦しみがあるのかと問いを立て、アサンガは五つの理由・場合があると答えます。

 納得しやすい順に変えていうと、①楽なことつまり力や富や健康を与えると、いい気になって他の人や生き物をいじめる場合がある。そういう人間には苦しみを与えたほうがいい、と。

 これはわかりやすい。ぜひ、そうあってほしいくらいです。 

 ②次も同様で、金や暇が余るとろくでもないことをする人間の場合も、そういうものを与えない。これも納得です。 

 ③それから、あまりにも幸福だと、それに満足して、それ以上いいことをする気にならない人の場合も、わかります。

 ④望まないことですが、言われれば納得せざるをえないのが次で、「楽なことがなければ、眼のあたりに生死を厭う心を起こす」場合です。

 幸せだと人間はあまりものを考えない。

 ふつうの人生に疑問を感じ、それを超えたいと願うには、不幸という苦い薬が必要なこともある。

 不幸を通じて人間性が成長する、魂が深まるということは確かにあります。 

 ⑤納得しにくいのは「カルマ」です。しかし、苦しみに遭った時、偶然の不運・不条理ととるか、そこから何か深い意味を読み取ろうとするか、そこで生き方が決定的に変わります。

 これは一歩誤ると迷信的な因縁話になりますが、すでに唯識を知っている人には、深い生き方への導きになります。

 つまり、意識では知りえない過去の悪しきカルマのために、今、苦しみを受けている。

 けれども、一方すばらしいカルマを積んできたこともまちがいない。

 なぜなら、現に唯識という真理のことばに出会えたのだから。

 だとしたら、後は、幸不幸は関係ない、今生で過去のカルマをどう清算し、さらにどれほどいいカルマを重ねることができるかだけが問題だということになるからです。

 これは徹底的にポジティヴな人生観ではないでしょうか。
 

コスモスが見ている夢:唯識のことば24

 
 
 「人生は夢」という感じ方は、日本の古典的な美意識のかたちの一つです。

 それは、いわゆる「無常感」のよりイメージ的な表現だと言ってもいいでしょう(拙著『能と唯識』青土社、参照)。

 そして無常感は、『方丈記』や『平家物語』、『徒然草』、『新古今和歌集』、西行などなど、特に中世の古典に共通した特徴です。

 筆者は、そうした日本の古典文学がとても好きだった(今でもかなり好きな)のですが、唯識とトランスパーソナル心理学を並行して学ぶことによって、人生への基本感覚がそうとう変わってきました。

 こうした無常感的な美意識には、言うまでもなく仏教の影響が大きいのですが、しかしそれは日本的に変容した仏教だということがわかってきたからです。

 これまでにいろいろなところでお話ししてきたように、大乗仏教はそういう無常感的な理解と違って、いわば「根源的な絶対肯定の思想」です。

 「すべてのものは、無常であり、過ぎ去っていくもので、はかなく悲しい。しかしはかなく悲しいからこそ、美しい」というかなり現世否定的な美意識は、悪くはありませんが、しかし本来の大乗仏教の思想とはかなり異なっているようです。
 
 
 譬えると夢などのようなものである。

 夢の中ではさまざまな外界はなく、ひたすら心の働きのみであるのに、種々の色・形、音、香り、味、感触、家や林、土地や山などのいろいろな外的対象が実際のように現象するが、そのなかの一つも外的対象として実際にあるものはない。

                  (『摂大乗論現代語訳』より)
  
 大乗仏教の無常観(無常感ではなく)からは、「すべてのものは、ダイナミックに動いていてとどまるところのないコスモスの働きの部分であり、いわばコスモスのきらめきであり、現象としては有限だが、コスモスそのものは永遠であり、だから現われることだけではなく消えることも根源的にいいことであり、そのままで美しい」といった美意識が生まれてくると思われます。

 引用したテキストを、そういう美意識の現われとして読み直してみると、こんなふうになるでしょう。

 今私たちが見る美しい花の色やかたち、小鳥の声、風や海の波やせせらぎの音、森の中のすがすがしい香り、実る果物の味、土や木の肌の手触り、懐かしい家のたたずまい、風の透きとおる雑木林、のどかに広がる土地、ゆったりと横たわっている山々などは、みなコスモスの現われであり、区別できるそれぞれのかたちはもっているが、でもほんとうは一つであり、見ている私とも一体である。

 それは、私と分離して私と無関係に向こう側に冷たく客観的に存在している「外的対象」ではなく、すべては私自身でもあるコスモスの心の内面の働きであり、あるがままで美しい。

 見られている物も見ている者も、実はどちらもコスモスが見ている美しい夢なのだ……と。