人生の大先輩であり、看取りの医療に携わってこられた東京大学名誉教授の大井玄先生の新著を送っていただき、目次などを見るととても興味深い内容だったので、すぐに読み始め、先ほど読了しました。
 
 目次は以下のとおり。

 
 第一章 看取りの医師として

 第二章 科学と仏教

 第三章 神との合一

 第四章 日本の仏教は生きている人の力になりうるのか

 第五章 仏教とつながり

 第六章 精進の果てに

 
 大井先生は、本ブログでお伝えしてきた唯識やコスモロジーに非常に共感してくださっていて、その点については「全面的合意」という感じなのですが、臨床医として長年現場で生老病死に立ち会ってこられた深い体験知・臨床の知は、筆者のまったく及ぶところではなく、いつもいろいろご教示、ご指導、ご協力をいただいてきました。

 「認知症高齢者に寄り添う医師が観察する、科学と宗教の出会い」という長い副題が主な内容を表現していますが、それだけではない豊かな内容があります。

 帯の表には「あらゆる存在は他者と相互に関係し合い、つながり合っている。つながりが実感できれば、不安はなくなり幸福になる」とあり、
 帯の裏には「看取り医として、わたしが仏教に親和性を感じるのは、科学者の端くれとして見ている宇宙像と、人間像と、意識、無意識、そういうものを仏教はすべて包摂しているからです。(中略)仏教は安心を与えてくれる『心の科学』なのです。」という著者の言葉が引用されています。

 語り下ろしということもあって、とても読みやすい文章で綴られていますが、社会医学・公衆衛生学の研究者であり、元国立環境研究所長であり、しかし臨床の現場を離れることなく、看取りの医師として、病、老い、死に向き合い、そこから得てこられた先生の、専門知識はもちろん、諸分野にまたがる驚くほど幅広く深い教養と、体験に裏づけられた人生の英知が、いわば総集編的にみごとに統合―凝縮された、きわめて豊かな内容の本です。

 特に、ご自作の「銀河系宇宙となりて坐りおり」という句に表現された、三十年以上にわたる坐禅体験によって到っておられる無分別智と慈悲の境地は、ほんものだと感じさせられざるをえません。

 先生のほうが一回り年長なので、順序どおりだと無理そうですがもし可能ならば、私も最期はこういう先生に看取っていただきたいものだと思います。

 ともかく本書は、このブログをご愛読くださっている読者ならば、必読です! と強くお勧めしたいと思います。 

 ただ、とても読みやすいやさしい文章であるため、下手をすると内容もやさしいものと誤解して読み飛ばす危険があるということも、読者に予め警告しておきたいと思います。

  

看取りとつながり
大井玄
サンガ

 

法身と意識的努力:唯識のことば40

 本連載は、ひとまず今回で終了(ストック切れ)です。

 ご愛読いただいたたくさんの読者に心から感謝申し上げます。

 できれば、また時々は新しい記事を書いていきたいと思っていますので、お待ちください。

 
 
  
 諸仏如来に具わっている法身の相はどのようなものであるか。……五種ある。……

 第四には永遠に変わらない(常住)というのが相である。

 ありのままの真理で清浄であるという相であるからであり、過去の願を維持・浸透させることを究極とするからであり、なすべき正しいことをまだ窮めおえていないからである。……

 法身は、始めのない過去以来、差別なく、限りないとはいっても、法身を得るためには、意識的努力(功用)をしないわけにはいかない。
     
                         (摂大乗論第十章より)
 
 
 
 私の住んでいるところは盆地のせいか夜靄がかかったようになることが多く、引っ越して来るとき期待したほどではありませんが、それでも空が澄んでいるので時々「満天の星空」を見ることができます。

 そういう時、私は、パソコン画面で楽しめるミニ・プラネタリウムのStella Theater Lite というソフトで星空と対照しながら楽しんでいます。

 (これは、ポップな、でもそれなりの宇宙感覚を喚起してくれるいい道具で、おすすめです。簡単に検索・ダウンロードできます)。

 私たちは、考えれば考えるほど、知れば知るほど、感じれば感じるほど、コスモスのなかに、コスモスの現われとして生きていることに気づいていきます。

 私たちのいのちのなかには、宇宙の一三八億年の営々たる営為が込められていて、それは留まることなく展開しつづけています。

 それは、私個人についてもそうですし(自分はコスモス・大然の部です)、生命系全体も、地球全体も、太陽系も、我々の天の川銀河もそうであり、みなただ一つのコスモスの部分でありながら、実に多様なそれぞれのかたちを現わしながら、動きつづけ、働きつづけています。

 上の唯識のことばは、そのことを精神的・内面的に自覚し表現したものだといっていいでしょう。

 ただ仏教は、現代科学のような観察-仮説-実験・検証といった方法が確立していない時代の神話的コスモロジーに基づいていますから、「始めのない過去」ということになっていますが、私たちはその部分は「宇宙一三八億年の歴史」というふうに読み換え・修正をしていいでしょう。

 こういう読み換えを容認すれば、仏教は現代人にとってきわめて有効・妥当性のある英知の遺産です(神話的コスモロジーに固執していれば、もちろんもはや大きな意味をもちえない遺物にすぎなくなりますが)。

 コスモスは、永続的に存在しており(宇宙論科学では外面的な宇宙に終わりがあるかどうかについてまだ結論が出ていないようです)、そのままでOKなのですが、同時に進化の方向性、目指すこと、達成したいと願っていることがはっきりあって、それはまだ完成していないのです。

 改めて確認しておくと、私の主宰するサングラハ教育・心理研究所は、そういう読み換えた仏教を一つの核としています。

 そのためか、大変名誉なことに、既成仏教の方々から、なかなか興味深い、賛成の声、反対の声、それから無視もいただいています。

 反対、無視は思想の自由ですから置いておいて、賛成してくださる方々とも一緒に、現代世界のなかで「法身を得る……意識的努力」をしていきたというのが、私たちの願いです。

 いちばん深いところでは、調和も不調和も、善も悪も、「差別なく、限りないとはいっても」、新しい、調和に満ちた世界を生み出すことは、法身・コスモスが目指している、まだ窮めおえていない、なすべき正しいことであり、私たちがそうしたコスモスの営みに能動的に参加する・法身を得るには、「意識的努力をしないわけにはいかない」のだと思います。
 
 
 
*サングラハ教育・心理研究所の講座はすべてそういう意識的努力の営みの一つです。
 関心を持っていただける方は、ぜひ能動的にご参加ください。
 
 

自由自在の境地:唯識のことば39

 
 
 
 ①生死と涅槃において もし智が起こるならば平等である

 ②生死はすなわち涅槃である 二つにはあれこれはないからである

 ③それゆえに、生死において 捨てるのでなく、捨てないのでもない

 ④涅槃においてもそうである 得ることもなく、得ないこともない

               (『摂大乗論現代語訳』一八〇~一頁)

 
 
 大乗仏教の流れの一つである唯識が、結局のところ目指しているのは「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」 1) 2)です。

 生まれ変わり死に変わり、果てしなく生死輪廻することにも、それから完全に抜け出してしまうことにもとらわれない、自由自在の境地です。

 これは私たち「凡夫の菩薩」にはなかなか到達しがたい高み――心理学的な言い方をすれば「人間成長の最高段階」――ですが、話に聞くだけでも心が爽やかになるような気がします。

 引用したアサンガ・無著の頌(詩句)に、ヴァスバンドゥ・世親がほとんど解説の必要のないくらいみごとな注釈を加えていますので、訳してそのままご紹介します。

 まず①に「生死と涅槃とはどちらも分別が作り出すものであって、〔真実には〕同一の真如なのである。もし、無分別智を得れば、これを対象として平等が起こる」、

 ②に「不浄なあり方を生死と名づけ、清浄なあり方を涅槃と名づける。生死は虚妄であり、人間と存在の二つに実体性がないということが涅槃である。無分別智を得て、生死に実体性がないことを知れば、すなわち涅槃にも実体性がないことを知る。それゆえに、あれこれという違いはない」と注釈しています。

 これは、宇宙は、生死=迷いの世界と涅槃=覚りの世界の両方を包み含んで一つの宇宙だ、と言い換えられるでしょう。

 分離したものと捉えるのは、私たちの常識的・分離的なものの見方にすぎません。
 
 もし本当の智慧の目で見れば、全く一つ=平等、あれこれという違いはないというのです。

 続いて③に「無我を観じるけれども生死を離れない。これが、『捨てるのではない』ということの意味である。生死にあるけれども、常に無我を観じている。これが、『捨てないのでもない』ということである」、

 ④に「生死を離れて別に真理はないということを涅槃と名づける。菩薩はすでに生死をさえ得ず、また涅槃も得ない。これが、『得ることがない』ということの意味である。菩薩は生死に関して常にすばらしくかつ寂静であることを観じる。これが、『得ないこともない』ということの意味である」と注釈しています。

 宇宙はつながって一つであり、絶えずダイナミックに変化しています。

 個としての私は、宇宙と一つの、宇宙の現われ・働きの一部だと心の奥底まで気づくと、もう生にも死にも輪廻にも涅槃にも縛られない自由の境地に到るというのです。

 私たちも、そういう境地に一歩でも近づきたいものです。
 
 

漸進的転換:唯識のことば38

  
  
 
 この転依ということを略して解説すれば、六種の転換がある。

 第一には効力を増し能力を減ずるという転換である。

 随信楽の位によって、聞くことによる熏習の力を保持するからである。

 煩悩は、恥じるということがあった上で働くので、しばらくは弱く働くようになり、やがて永遠に働かなくなる。
  
                        (『摂大乗論』第九章より)
 
 
 私たちは、毎日の出来事の中で、嬉しい・悲しい、幸福だ・不幸だなどと感じながら生きています。

 それはふつう(つまり凡夫)のことですが、ふつうといっても一種類ではなく、同じような出来事に対して、強く感じる人、あまり感じない人、そして感じていても振り回されない人がいるように見えます。

 なかでも感じやすい性格の人は、厳しい状況に対しても感じすぎるので、なかなか生きづらいものです。

 そこで、あまり感じないほうがいいと思い、鈍感になろうとしたりします。

 しかし鈍感になって心が動じなくなったのでは、せっかくのこの人生と世界の美しさ・すばらしさを感受する能力も失います。

 感性豊かでありながら、しかもそれに振り回されない心はどうしたら獲得できるのでしょうか。

 それには、性格の根っこである、アーラヤ識が変容する必要があるようです。

 では、どうしたらアーラヤ識を変容させることができるでしょう。

 先の句に対する注釈はこうです。「アーラヤ識のなかに聞くことによる熏習の効能がさらに増すのを、『効力を増す』という。アーラヤ識のなかに保有されているもろもろの迷いの熏習が、治療が起こって、本来の能力がなくなるのを、『能力を減ずる』という。…この増減は、聞くことによる熏習の力を原因とし…修行の智慧を生じる。…この力によるので、増減ということが成り立つ」と。

 自分の願望・価値観など――たとえ一見無理のない平凡な小市民的幸福といったものであっても――を絶対化し、それに強く執着すればするほど、怒りや恨み、妬み、落ち込み……といった煩悩は激しくなり、自分で自分を苦しめることになります。

 求めてはいけないのではなく、ポイントは執着しないことにあります。

 求められる対象も、求める自分そのものも無常の存在ですから、執着してもしきれない、しなくていいのですが、私たちはともすればそれを忘れますから、事実を照らす言葉を繰り返し聞いて、思い出す必要があります。

 その繰り返しが熏習され、アーラヤ識を変容させ、執着と、その結果生まれる強い煩悩を軽減していきます。

 注釈には「人がこの転依を獲得すれば、煩悩がもし起こっても恥じる気持ちが生まれるので、起こっても長くは続かず、また微弱である。あるいは、永遠に起こらなくなる」とあります。

 落ち込みという煩悩についていえば、「こんなに切実な私の願いがかなわないのだから、落ち込むのは当たり前」と取らず、「そうか、過剰に執着しているから過剰に反応したのだな。でも、なるべくそうなったほうがいいが、絶対にそうなる保証はこの宇宙にはない。そのことを忘れていた。求めるのはいいが、こだわるのはやめよう」と反省すると、自然なある程度の失望感はあっても、過剰なうつや絶望感には襲われないようです。
 
 
 

錬磨心:唯識のことば37

 
 
 唯識を学んでいると、修行者がしばしばぶつかる問題について、実に用意周到かつみごとに答えられていて、感心してしまうことがよくあります。今回の個所も、その一つです。
 
 
 
 どのようにして悟入することができるのか。……三相の錬磨心があるから。……

 [第一は自分自身を軽く賤しいものとする退行の心である。……

 修行者のなかには、この上ない悟りがはなはだ広く深く修行することも獲得することも難しいと聞いて、いま私などにどうしてこうした獲得しがたい無上の悟りが得られようか、と思う者がいる……。

 こうした思い込みがあるので、自分自身の心が退行する。

 この心を除くために、第一の錬磨心を学ぶべきである。]

 全世界は量りしれないものであるから。

 人間世界にある無数の衆生は、あらゆる瞬間にこの上ない悟りを得る〔ことがありうる〕。

 これを〔知ることを〕、第一の錬磨心と名づける。

                   (『摂大乗論現代語訳』一一一~二頁) 
 
  
 引用のうち、 [ ] 内は、アサンガ(無著)菩薩の本文に対するヴァスバンドゥ(世親)菩薩の注釈ですが、初めて読んだとき、人間の弱さに対するきわめて鋭い洞察に感心させられました。

 初心者や、しばらく修行した人のなかに、「悟りなんて、私みたいなダメな(あるいは、怠け者の、集中力のない、素質の悪い……)人間にはとても無理です」といいはじめる人がいます。

 ヴァスバンドゥ菩薩は、そういうことをよく知っていて、その気持ちへの深い共感ももっていたようです。

 しかし共感したからといって、「私なんかには無理だ」という気持ちをそのまま認めるわけではありません。

 はっきり、「それは思い込みだ」といっています。

 「思い込み」の漢訳は「執」で、自分へのマイナスのこだわりです。

 アドラーの用語を借りれば「劣等コンプレックス」、マズローの用語を借りれば「ヨナ・コンプレックス」といったところでしょう。

 「私なんか悟れっこない」というのは、霊性的な劣等コンプレックスであり、こだわりであり、思い込みであって、正しい自己認識ではないのです。

 そういう思い込みが、いつのまにか、修行をやめ、元の凡夫へと退行する口実になります。

 「退屈心」とか「退弱心(こにゃくしん)」といわれる、人間成長の途上で起こりがちな、典型的な霊性の病い(の三つのうちの第一)です。

 それ(第一の退屈心)は、どうしたら治せるかというと、「(第一の)錬磨心」を学ぶことによってだといいます。

 同じような退屈心の起こりがちな私たちも、アサンガの言葉によく耳を傾けましょう。

 「人間、つまり八識を抱えた存在として生まれた者にとって、人生のあらゆる瞬間は悟りのチャンスである」ことを認識するのが、第一の錬磨心だといいます。

 このことを、しっかり心に収めれば、劣等コンプレックスは根本的に解消されるはずです。

 私たちはみな、まちがいなく八識の凡夫ですから、だからこそこの人生は悟りのチャンスだともいえるのです。
 
 
 

精進を支える因と果:唯識のことば36

 
 
 
 人間成長を探求する人間が限りない自分の潜在的可能性を開発していくプロセスで、繰り返し起こってくる問題が、あきたりめんどくさくなったりしてしまうということです。

 しかし大乗‐唯識の学びをしている菩薩であれば、正しい認識に基礎づけられた意識的な努力によって、そうした停滞や後退を克服することができます。


 菩薩は無上菩提(むじょうぼだい)に於て、正勤(しょうごん)を起し厭倦(えんけん)無きに二種有り。

 一には因の定まることを見、二には果の希有(けう)なることを見る。

 故に、難行(なんぎょう)の中に於ても、心に厭倦無し。

                       (摂大乗論釈真諦訳巻第六より)
 
  
  
 やや横道の話をすると、この「正勤」ということばは、意味は「精進」とおなじなのですが、音の響きがいっそう凛としていて、真冬の禅道場の冷えた、しかし張り詰めた空気を思い出させて、筆者はとても好きです。

 忙しさにかまけて、疲れに負けて、坐禅をさぼりたくなるとき、このことばを思い起こして、気持ちを奮い立たせることがあります。

 「この人生で与えられる時間は有限である。意味深く過ごす時間も、意味なくだらだらとやり過ごしてしまう時間も、おなじく帰ってこない貴重な人生の時間なのだ」という事実を思い返すのです。

 最近、年齢のせいか、時が過ぎることがひじょうに早く感じられます。

 「生死事大、無常迅速」という禅語が思われてなりません。

 しかし幸いにして、一方ではなんとか一定のところまでは達したという思いもあって、生きることへの肯定感がしだいしだいに深まっていっています。

 かつてなら、自分の境地とは遠すぎて恥ずかしくて、好きなのですが書けなかった「日々是好日(にちにちこれこうにち)」という禅語を、最近ちょっとだけ自分におまけをしてあげるというところもあって、サインに書かせていただいたりしています。

 アーラヤ識を持って生まれており、しかももともと宇宙の一部である人間という存在であり、アーラヤ識そのものが宇宙の一部である以上、ある意味ですでに覚りの世界に生きており(本覚)、また修行しだいで覚りを開く(始覚)潜在力を与えられていることは確実です。

 覚りの根本的な原因はすでに具わっているのです(仏性・如来蔵)。

 『摂大乗論』冒頭のことばを今回は意訳して引用しましょう。
 
 この心の領域・アーラヤ識は、限りない過去からずっと、すべての存在が実体としてあるという妄想が生まれる発生源となっており、そのために迷いの生があるのだが、またそれがあるからこそ覚りを得ることもありうるのだ。
 
 とはいえ、現実を見ていくと、実際に覚るという結果に到る人は残念ながら多くはありません。

 アーラヤ識に根気よくたゆむことなく真理の種子を蓄えていくという作業をついついさぼってしまうからです。

 そういう、自分のきわめて高い可能性と、にもかかわらず怠けて可能性を実現できないままに終わりがちな実情を正確に認識すると、「大変だ、めんどうだといって、さぼっている暇は、この短い人生にはないんだな」という気がしてきて、「やるほかない」という再決断に到ります。

 
 

混迷状況も実体ではない:唯識のことば35


 
 
 どのようにして、さまざまな外的対象が目の前に現象するにもかかわらず、それが実体的な存在ではないと知るのか。……

 一には、差異のある識という相を知ることである。

 たとえば、餓鬼、蓄生、人間、天人は、同じ対象についても〔それぞれの〕認識作用〔の差異〕によって〔認識内容に〕差異があるのである。

                      (摂大乗論第二章より)
 
 
 「ものごとは心のあり方しだいで実にいろいろなふうに見える」というのが唯識の基本的な考えの一つです。

 それは、抽象的な話ではなく、例えばここのところ目立ってきた世界の混迷という「外的対象」についても当てはまると思われます(この文章を最初に書いた時点では「不況」でした)。

 混迷状況があまりにもありありと「目の前に現象」してきているので、私たちはそれが変化することのない実体的な存在・問題であるかのように考えがちです。

 そして考えれば考えるほど、不安になったり、気が重くなったり、暗くなったり、困ったり、つらくなったり、絶望したりしがちです。

 その場合、いちばんふつうの対処法は、「考えると暗くなるから、考えるのはよそう」と、なるべく気にしないようにして、何とか一日一日やり過ごすというやり方でしょう。

 それはそれで何とかなっている方には、まさにそれでいいのだと思います。

 しかし唯識を学んだ私たちには、「考え方を変えて、もっと明るくなる」という手もあります。試みてはどうでしょう。

 まず第一に、どんな外的対象も、つまり混迷でさえも、実体ではなく無常であり、どんなに長くても永遠には続きません。いつかは終わります。

 どんな困難にも必ず終わりがあるのです。

 それどころか「破壊・混沌の後に新しいより高度な秩序の創発」というのはコスモスの法則です。

 そう思うと、かなり気が楽になってきませんか。

 あわてて心を乱さないで、ゆっくり気長に終わりを待ちましょう。

 第二に、混迷もまた「状況」の一つで、いろいろな見方ができるものです。

 餓鬼には、水が燃え盛る膿の流れに見えるように、これまでの日本のそこそこ安定した生活の水準を絶対視すると、混迷はとても不安なピンチに見えるでしょう。

 畜生・魚にはそれが生きる場所のすべてに見えているように、今の状況がすべてだと思っていると、暗くて出口のないトンネルに入ろうとしているように思えるかもしれません。

 しかし人間には、水は下手をすると溺れるものですが、基本的にはいのちの糧であるように、理性・知恵を使って能動的に対応すれば、どんな状況も「ピンチはチャンス」と捉え直すことができます。

 例えば、「混迷は避けられない」という見方を「確かに一定期間のカオスは避けられない。でも、なるべく短期に終わらせて新しい秩序を創造する可能性はゼロではない」と変えると、「では、どうすればいいか」と知恵が働きはじめます。

 混迷の終わりを受動的に待つだけでなく、さらに混迷、というより混沌・カオスを新しいよりよい秩序に向かうチャンスに変える能動的な工夫を精一杯していきましょう。

 天人になると、水はその上を歩くことのできる透明で美しい床に見えるのでした。「天人」とはいわば「コスモス的人間」です。

 コスモス的な見方ができれば、カオス状態にも意味があり、それを一つのステップとしてしっかりと踏んで歩むことができる、ということになります。

 「そんなこと言ったって」という声が聞こえてきそうなので、もう一言。

 これまでどおりの安定・安心を過剰に求める見方にこだわって元気が出ないのと、見方を変えて少しでも元気を出すのと、どちらが混迷・カオスを乗りきる可能性が高まるでしょう。

 見方を選ぶのは、もちろん個々人の自由です。



*3月17日の「持続可能な国づくりを考える会」の学習会は、混乱を最小限にとどめ次の新しいよりよい秩序に向かうための大きなヒントを学べる機会です。ぜひ、ご参加ください。

 
 
 

依りどころとしての無分別智:唯識のことば34

 
 
 
 ふつうの人つまり凡夫は、自分の思いどおりに生きたいということを基本にしていて、それは当たり前だと思い込んでいます。

 これは特に現代の若い世代であるほど、その傾向が強いようです。

 八識的な心、特にマナ識的な心が生き方の基本・依りどころになっているといってもいいでしょう。

 それに対して、そういうふつうのものの見方や生き方には限界がある、つまりよりよく生きさわやかに逝くための本当の依りどころにはならないと気づいて、それを超えたいと思っている人つまり菩薩は、そういう八識あるいはマナ識的な心を最終的な依りどころにして生きようとは、もう思っていません。

 そういう意味で、菩薩の生きる依りどころはふつうにいう「心」ではないわけです。

 かといって、意識という意味での「心」がなくなってしまったのではもちろん生きていけません。

 ではどういうことになるのかというと、菩薩は繰り返し禅定において体験する無分別智の心を究極の依りどころにするのだといわれています。
 
 
 諸菩薩の依りどころは 心でなく心でないのでもない それは無分別智であって 妄想の類ではないからである

 諸菩薩〔が菩薩になる・であるため〕の直接・間接の原因(=因縁)は 語られた言葉を聞いたことの熏習であり それは無分別智であって 理のままに正しく思惟することである……

 諸菩薩を維持するものは 無分別智であって 〔それによって〕その後得智の働きは 成長し究極に到ることができる
                           (摂大乗論第八章より)
 
 
 
 菩薩・修行者は、そういう無分別智に関する教えを聞いてまずは意識的・分別知的に正しく分かり、アーラヤ識に熏習していきます。

 そして繰り返し思い出して、それが理にかなっていることを自分の心のなかで確認します。

 そしてもちろん禅定を実践します(「思惟」には、思索することと禅定することの二重の意味があります)。

 菩薩が菩薩になるための原因は、正しく聞くことと正しく思惟すること(さらに分けていうと思・思索と修・禅定)を繰り返すことです。

 そういう聞くことと思惟すること(聞-思-修)を怠っていると、いつの間にか凡夫に戻り、菩薩でなくなってしまう、とアサンガ菩薩は警告しています。

 すなわち、聞・思・修が、菩薩になる・であるための基本・依りどころなのです。

 食べ物を食べないでいるとお腹が空っぽになってくるように、心の糧を摂取しないでいると心が空しくなるのは、当たり前のはずなのですが、私たちはしばしば忘れてしまいがちです。

 一度か何度か聞いて、分かったつもりになったら、もう学ばない、少し坐禅をしてみて爽やかな気分を体験したけど、いつの間にかあきたりめんどくさくなったりして止めていた、ということがよくあります。

 しかし、凡夫と違った広くて豊かな心の存在・菩薩になるためにも、菩薩であることを維持するためにも、不可欠なものは無分別智です。

 これは文字どおり「不可欠」・欠かせないのです。

 無分別智を繰り返し学ぶことによって、日常生活をより質の高いものにしてくれる「後得智」も豊かに成長し完成していく、とアサンガ菩薩・『摂大乗論』は保証しています。

 その言葉を信じて、さらなる実践を続け、菩薩であり続けましょう。
 
 
 

禅定の五つの効果:唯識のことば33


  
 諸菩薩は…それぞれの段階でシャマタとヴィパシュヤナーを実修するのであるが、それぞれに五つの相があって実修が完成しうる。

 五とは何かというと、

 第一には総括的な実修、

 第二は無相の実修、

 第三は効果を当てにしない実修、

 第四は燃え盛るような実修、

 第五は満足することのない実修である。…

 この五つの実修は五つの事柄を生じるのを結果とする。

 五とは何かというと、

 第一に一瞬一瞬に粗く重い障害の依りどころを破壊する。

 第二にさまざまな妄想を離れた真理の楽しみをを得ることができる。

 第三に一切のところで量りしれず分別された相のない善なる法の光明を見る。

 第四に分別する法の相については転換して清浄な性質のものとなり、常に持続して生じ、法身を満たし完成する。

 第五に上の段階のなかでも、さらに増して上の段階に到る因縁を集める。

                    (『摂大乗論現代語訳』第五章より)
 
 
 
 覚りを求める人・菩薩は、初級、中級、上級のどの段階でもイメージを消すタイプの瞑想(シャマタ、漢訳では「止」)とイメージを描いたり、理論的に思索したりするタイプの瞑想(ヴィパシュヤナー、漢訳では「観」)を実修していくのですが、途中でしばしば、「こんなことをして、何になるんだろう」という疑問や怠りの気持ちが起きてくるものです。

 摂大乗論には、そうしたよくある疑問への答えが実によく整備されています。

 修行を完成させるためには五つのポイントがあり、それは

 ①まず止と観とどちらかに偏らないこと

 ②何よりも世界の一つでありばらばら個別のものはないというほんとうの姿を瞑想において洞察・実感すること

 ③努力と結果が分離しているのでなく瞑想することそのものがコスモスの営みであるような瞑想をすること

 ④そして何よりも瞑想すること、生きることに燃えるような熱意を持つこと

 ⑤そして終わることのない向上・進化を持続すること、です。

 そうすると、逆説的なのですが、効果を当てにしない瞑想が次のような五つの効果・結果をもたらすというのです。

 ①生きることの重さ、苦しさからの根源的な解放感

 ②あれこれ思い煩うことがなくなってありのままの生‐世界を楽しめるようになること

 ③すべてがたった一つのコスモスのエネルギー・光の顕れであることを実感する

 ④だからそれぞれのものがすべてそれでいいという絶対的な肯定感に到る

 ⑤一定の自己成長の段階に達しても、さらに果てしなく成長し続けることのできる条件を積み重ねられる

 瞑想の臨床効果は、これまで無数の修行者たちによって実証されてきたものです。

 筆者も及ばずながら実修してきて、一定の、確かな実感を感じてきました。

 まさに文字どおり及「ばずながら」なのですが、爽やかさ、楽しさ、明るさ、これでいいという感じ、自分が成長しているという感じがあって、やっぱり続けようと思うのです。
 
 
  

忍辱の瞑想:唯識のことば32

 
 
 
 五義とは、

 一には「すべての衆生=生きとし生けるものは無限の過去から私にさまざまな恩恵を与えてくれている(だからこそ、いまここで私が生きることができるのだ)」と洞察する。 

 二には「すべての衆生は、瞬間ごとに過ぎ去り滅びていくものである、いったい誰が傷つけ、誰が傷つけられるということが(仮にはともかく実体として)あるのか」と洞察する。

 三には「ただ法〔真理=存在=一体の宇宙〕があるだけなのだから、(実体的に)傷つけ傷つけられるものがあるだろうか」と洞察する。

 四には「すべての衆生はみな彼自身すでに苦しみを受けている、なぜさらに苦しみを加えたいと願うのか」と洞察する。

 五には「すべての衆生は、みな我が子である。なぜ、それに対して害を与えたいと願うのか」と洞察する。

 この五つの洞察によって深層の瞋りを滅ぼす。深層の瞋りが滅びれば、意識的な怒りや恨みはなくなってしまう。

                       (『摂大乗論釈』より)
 
 
 
 マナ識のあるところには、必ずといっていいほど争いがあります。

 ふつうの人間関係では、争いが絶えず、傷つけ、傷つけられるということがしょっちゅう起こるのです。

 そういう時、ふつうの人(凡夫)はどう対処するでしょうか。

 やられたら、やりかえす。

 あるいは、やりかえしたいけれど、相手が強すぎて、やりかえすと、もっとひどい目にあうから、我慢し、泣き寝入やゴマメの歯ぎしりをし、心の中で、恨み、憎み、呪う。

 あるいは、それができる時は、「嫌なヤツは嫌だ」と、相手から距離を置く……。

 だいたいそういうところでしょうが、菩薩=求道者なら、もうすこし違う、より賢い対応をしてはどうか、とヴァスバンドゥ菩薩(または真諦三蔵)は忠告してくれます。

 姿勢を調え、呼吸を調えて、静かに、引用した五つのことを瞑想・洞察する。

 洞察が深まると、無理して抑えるのではなく自然に、深層の瞋りがなくなる。

 瞋りがなくなれば、怒りや恨みが意識に湧き上がることもなくなる、というのです。

 ヴァスバンドゥ菩薩は、その後にとても大切なコメントを加えています。

 「この忍は、まず自分自身を瞋りという煩悩で汚し苦しめることをなくしてくれる」と。

 腹を立てている時は、自分も不快です。

 忍辱・許すことは、人のためというより、まず自分の心を爽やか・平和にしてくれるのです。

 「そして、自分の心が平和で、怒ったり恨んだりすることがなければ、他者を苦しめることもなくなる。

 すなわち、他者に対しても平和である。

 経典にこうある、忍を実行する人には、第一に恨みがない、第二に責めることがない、第三に人から愛される、第四に評判がよくなる、第五に次の世でいいところにうまれることができる、と。

 この五つの効果(徳)を、平和という。」

 傷つけられたと感じ、怒りや恨みで自分が苦しい時、まず自分の心の平和のために、この「五義観」という瞑想法を使ってみましょう。

 ゆっくり、しかし確実に心が癒されていくと思います。

 忍辱は損のようですが、心が得をするのです。